柚月の家を飛び出したあの日から、柚月とはつかず離れずの距離感で接していた。キスをしたなんて嘘みたいな彼の立ち振る舞いから、きっと柚月にとってみたらあのキスくらいなんてことないのだろうとわかった。
季節はすでに七月。この前長かった梅雨が明けて、そろそろ夏休みだ。制服の半袖シャツの胸元をパタパタと動かして風を起こしながら、葵は食堂でカレーを食べていた。目の前には大盛りのカツ丼をかき込む春がいる。食堂は広いためにエアコンの効きが悪く、ここ最近はほぼ毎日汗をかきながら昼食をとっていた。毎日のようにカレーを選ぶのは、日替わりカレーが一番安いからだ。球技大会で手に入れた学食半額券のおかげでさらに安く食べられている。でも、葵の学食半額券はそろそろなくなってしまいそうだった。
「葵、あーん」
目の前を煮カツがふよふよとやってくる。口を開けて迎え入れると、濃い甘じょっぱさが広がる。咀嚼するとさらに美味しくて、思わず目を瞑りながら味わった。
「葵、ちゃんと食べないと。最近もっと痩せたよ」
「食べてるよ」
「昼のカレーとバイトの賄いだけじゃ、碌な栄養にならないよ」
「他にも食べてるって」
「豆腐ともやしだろ」
「スーパーの福引きで焼肉のたれをもらったから、それかけると美味しいんだ」
「それじゃあ背も伸びないよ」
「牛乳は飲んでるよ」
「それでも栄養が足らないって」
春がここまでしつこいのは珍しいことだった。それほどまでに、葵は痩せたのだろう。その自覚があるからこそ、葵は春にバレないように小さく溜息をついた。今みたいに春と食事している時はましだけれど、最近食事をしても味がしないのだ。それは味覚がおかしくなったわけではなくて、感性が鈍くなったからだと理解している。心にポカリと穴が空いたようで、色も匂いも味も何も感じない。そんな現状を、勉強をしたり、ダンスや歌の練習をしたり、アルバイトをしたりしていれば忘れられるのだ。だから葵は今まで以上に私生活を削って、学業、練習、アルバイトにと明け暮れていた。
でもそれは好都合でもあると葵は考えている。九月になったら、事務所のアイドル志望練習生の中から選抜メンバーを選出し、デビューに向けて特別なプログラムを組むらしいのだ。葵は絶対にそれに選ばれてみせると躍起になていた。練習室で柚月と顔を合わせるのは気まずいけれど、よくよく考えてみたらキスしただけの関係だ。柚月は春のことが好きで、葵のことはきっと弟とかペットみたいに思っているはずだ。そして葵自身の行いを振り返っても、柚月のことを好きだとは明言していない。つまりは何の関係にもなっていないのだ。だからもし柚月と一緒に選抜されて、この後の人生を同じグループのアイドルとして歩むとしても、何も問題はないだろう。
今日も学校の後に事務所に向かい、葵はひたすらに踊り続けた。苦手なところを何度も繰り返し、鏡に向かって一番綺麗に見える角度を追求する。気がついたら時刻は十七時になっていた。最後に一曲だけ踊って、それから事務所を飛び出し、アルバイトへ向かう。節約し続けてきたから、だんだんとお金は溜まってきた。でも使うわけにはいかない。いつか柚月のために何かできる時が来たら、その時に使うのだ。あの弁当にかかった食料も労力も、お金に換算したらいくらになるのかと恐ろしいけれど、与えられたのだから返さないといけないだろう。
葵はアルバイト先の居酒屋でも必死で動き回った。時にバイト仲間から心配されるほど休憩もせずに働いて、味のしない賄いを食べて帰宅する。シフトが一緒になる時は周が家まで送ってくれたり、翌日学校が休みの時は家に泊めてくれたりしていた。一人になると柚月への思いがぶり返して辛いから、周の優しさは葵に心地が良かったのだ。
「葵、明日は土曜だぞ」
「はい」
「泊まりにこいよ」
「でも、着替え持ってこなかった」
「貸してやるよ」
今日も周から声がかかって、迷惑をかけたくないと思いつつもその優しさに甘える。一緒に周のアパートまで歩く間、沈黙が気にならないこの関係が嬉しくもあった。
最近にしては珍しく気持ちを落ち着けていたら、突然周が葵の手を掬い取った。思わずその横顔を見つめると、彼はどこか緊張の面持ちで真っ直ぐ前を見つめている。
「葵」
「はい」
言おうか、やめようか、悩んでいる様子だ。「周さん」と名前を呼ぶと、葵の手をぎゅっと握って、小さく息を吸ってから口を開く。
「もう傷つくなよ」
「え?」
「俺がそばにいるから」
「……えっと」
何を言われているのかわからなくて戸惑っていると、周が立ち止まった。つられて葵も足を止めて、周の様子を伺う。いきなりどうしたというのだろう。葵を心配してくれていることはわかるけれど、手を繋がれるなんて初めてで、どうしたら良いのかわからない。
「俺は、葵のことがずっと好きなんだ」
「それは、ありがとうございます」
「葵のためなら、きっと何でもできるよ」
「……そうなんですか?」
「そう。でも、葵はまだ未成年だから、手は出さないって決めてる」
手は出さないって、それではまるで。まるで葵に恋しているみたいだ。
「周さん、俺のことが好きなんですか」
「だからそう言ってるだろ」
繋がれた方ではない手で、頬をさらりと撫でられる。髪を梳かれて耳にかけられたと思ったら、周はその耳に唇を寄せてきた。
「葵、好きだよ」
その声があまりにも甘くて思わず身を竦ませると、周はクスリと笑ってから葵の頬に口づけた。それから至近距離で目を覗き込まれる。葵よりずっと大人な周はすごくかっこよくて、だからこそ葵にはよくわからない。
「あ、周さん。今日は、俺」
「何もしないよ。大丈夫」
「でも、俺、なんか」
よくわからないのだ。ぐるぐるぐるぐる。考えがまとまらなくて頭がおかしくなりそうだ。周はどうして葵のことが好きなのだろうか。そして、葵は周をどう思っているのだろうか。全部がよくわからなくて目を回していたら、周が小さく息をついて笑ったことがわかった。
「わかったよ。今日は葵の家まで送っていく」
「いや、一人で大丈夫です」
「心配だから、送っていく。そうじゃなければ泊まらせる。どっちにする?」
そう言われたら、送ってもらう一択だ。優しく手を繋がれたまま、葵は家まで送ってもらった。別れ際にも周は頬にキスをしてきて、葵は思わず赤面したのだった。
家に入ると靴を脱ぐ間もなく、ヘナヘナとしゃがみ込む。触れられた頬に手をあてると、燃えるように熱かった。
「どうしよう」
小さく呟く。あの日以来泣いていないのに、涙が溢れそうだ。人間わけがわからなくなると泣きたくなるのだと、最近知った。でもこの気持ちは、親にも兄弟にも友達にも話せないだろう。膝の上で腕を組んで、そこに顔を伏せた。ズボンの膝の部分がどんどん濡れていく。周は葵のことをいつから好きでいてくれたのだろう。全く気が付かなかった自分が情けない。そして葵は今、誰のことが好きなのだろうか。柚月のことをずっと好きでいると思ったのに、よくわからなくなってしまった。どれが親愛で、どれが恋心なのか。それとも全部親愛なのか、もしかしたら全部恋心なのか。
ノロノロと立ち上がって、靴を脱いだ。それから脱衣所で適当に服を脱ぎ、浴室でシャワーを浴びる。頭からお湯を浴びながらもずっと考えていたら、シャワーで溺れそうになった。
「うわあ、もう!なんて俺は阿呆なんだ」
自分の気持ち一つわからないなんて、頭が悪いにも程がある。もっと勉強しなくてはいけない。この場合、力を入れるのは国語だろうか。葵はシャンプーをわしゃわしゃと髪に馴染ませながら、「うわー!」と声を上げ続けたのだった。
季節はすでに七月。この前長かった梅雨が明けて、そろそろ夏休みだ。制服の半袖シャツの胸元をパタパタと動かして風を起こしながら、葵は食堂でカレーを食べていた。目の前には大盛りのカツ丼をかき込む春がいる。食堂は広いためにエアコンの効きが悪く、ここ最近はほぼ毎日汗をかきながら昼食をとっていた。毎日のようにカレーを選ぶのは、日替わりカレーが一番安いからだ。球技大会で手に入れた学食半額券のおかげでさらに安く食べられている。でも、葵の学食半額券はそろそろなくなってしまいそうだった。
「葵、あーん」
目の前を煮カツがふよふよとやってくる。口を開けて迎え入れると、濃い甘じょっぱさが広がる。咀嚼するとさらに美味しくて、思わず目を瞑りながら味わった。
「葵、ちゃんと食べないと。最近もっと痩せたよ」
「食べてるよ」
「昼のカレーとバイトの賄いだけじゃ、碌な栄養にならないよ」
「他にも食べてるって」
「豆腐ともやしだろ」
「スーパーの福引きで焼肉のたれをもらったから、それかけると美味しいんだ」
「それじゃあ背も伸びないよ」
「牛乳は飲んでるよ」
「それでも栄養が足らないって」
春がここまでしつこいのは珍しいことだった。それほどまでに、葵は痩せたのだろう。その自覚があるからこそ、葵は春にバレないように小さく溜息をついた。今みたいに春と食事している時はましだけれど、最近食事をしても味がしないのだ。それは味覚がおかしくなったわけではなくて、感性が鈍くなったからだと理解している。心にポカリと穴が空いたようで、色も匂いも味も何も感じない。そんな現状を、勉強をしたり、ダンスや歌の練習をしたり、アルバイトをしたりしていれば忘れられるのだ。だから葵は今まで以上に私生活を削って、学業、練習、アルバイトにと明け暮れていた。
でもそれは好都合でもあると葵は考えている。九月になったら、事務所のアイドル志望練習生の中から選抜メンバーを選出し、デビューに向けて特別なプログラムを組むらしいのだ。葵は絶対にそれに選ばれてみせると躍起になていた。練習室で柚月と顔を合わせるのは気まずいけれど、よくよく考えてみたらキスしただけの関係だ。柚月は春のことが好きで、葵のことはきっと弟とかペットみたいに思っているはずだ。そして葵自身の行いを振り返っても、柚月のことを好きだとは明言していない。つまりは何の関係にもなっていないのだ。だからもし柚月と一緒に選抜されて、この後の人生を同じグループのアイドルとして歩むとしても、何も問題はないだろう。
今日も学校の後に事務所に向かい、葵はひたすらに踊り続けた。苦手なところを何度も繰り返し、鏡に向かって一番綺麗に見える角度を追求する。気がついたら時刻は十七時になっていた。最後に一曲だけ踊って、それから事務所を飛び出し、アルバイトへ向かう。節約し続けてきたから、だんだんとお金は溜まってきた。でも使うわけにはいかない。いつか柚月のために何かできる時が来たら、その時に使うのだ。あの弁当にかかった食料も労力も、お金に換算したらいくらになるのかと恐ろしいけれど、与えられたのだから返さないといけないだろう。
葵はアルバイト先の居酒屋でも必死で動き回った。時にバイト仲間から心配されるほど休憩もせずに働いて、味のしない賄いを食べて帰宅する。シフトが一緒になる時は周が家まで送ってくれたり、翌日学校が休みの時は家に泊めてくれたりしていた。一人になると柚月への思いがぶり返して辛いから、周の優しさは葵に心地が良かったのだ。
「葵、明日は土曜だぞ」
「はい」
「泊まりにこいよ」
「でも、着替え持ってこなかった」
「貸してやるよ」
今日も周から声がかかって、迷惑をかけたくないと思いつつもその優しさに甘える。一緒に周のアパートまで歩く間、沈黙が気にならないこの関係が嬉しくもあった。
最近にしては珍しく気持ちを落ち着けていたら、突然周が葵の手を掬い取った。思わずその横顔を見つめると、彼はどこか緊張の面持ちで真っ直ぐ前を見つめている。
「葵」
「はい」
言おうか、やめようか、悩んでいる様子だ。「周さん」と名前を呼ぶと、葵の手をぎゅっと握って、小さく息を吸ってから口を開く。
「もう傷つくなよ」
「え?」
「俺がそばにいるから」
「……えっと」
何を言われているのかわからなくて戸惑っていると、周が立ち止まった。つられて葵も足を止めて、周の様子を伺う。いきなりどうしたというのだろう。葵を心配してくれていることはわかるけれど、手を繋がれるなんて初めてで、どうしたら良いのかわからない。
「俺は、葵のことがずっと好きなんだ」
「それは、ありがとうございます」
「葵のためなら、きっと何でもできるよ」
「……そうなんですか?」
「そう。でも、葵はまだ未成年だから、手は出さないって決めてる」
手は出さないって、それではまるで。まるで葵に恋しているみたいだ。
「周さん、俺のことが好きなんですか」
「だからそう言ってるだろ」
繋がれた方ではない手で、頬をさらりと撫でられる。髪を梳かれて耳にかけられたと思ったら、周はその耳に唇を寄せてきた。
「葵、好きだよ」
その声があまりにも甘くて思わず身を竦ませると、周はクスリと笑ってから葵の頬に口づけた。それから至近距離で目を覗き込まれる。葵よりずっと大人な周はすごくかっこよくて、だからこそ葵にはよくわからない。
「あ、周さん。今日は、俺」
「何もしないよ。大丈夫」
「でも、俺、なんか」
よくわからないのだ。ぐるぐるぐるぐる。考えがまとまらなくて頭がおかしくなりそうだ。周はどうして葵のことが好きなのだろうか。そして、葵は周をどう思っているのだろうか。全部がよくわからなくて目を回していたら、周が小さく息をついて笑ったことがわかった。
「わかったよ。今日は葵の家まで送っていく」
「いや、一人で大丈夫です」
「心配だから、送っていく。そうじゃなければ泊まらせる。どっちにする?」
そう言われたら、送ってもらう一択だ。優しく手を繋がれたまま、葵は家まで送ってもらった。別れ際にも周は頬にキスをしてきて、葵は思わず赤面したのだった。
家に入ると靴を脱ぐ間もなく、ヘナヘナとしゃがみ込む。触れられた頬に手をあてると、燃えるように熱かった。
「どうしよう」
小さく呟く。あの日以来泣いていないのに、涙が溢れそうだ。人間わけがわからなくなると泣きたくなるのだと、最近知った。でもこの気持ちは、親にも兄弟にも友達にも話せないだろう。膝の上で腕を組んで、そこに顔を伏せた。ズボンの膝の部分がどんどん濡れていく。周は葵のことをいつから好きでいてくれたのだろう。全く気が付かなかった自分が情けない。そして葵は今、誰のことが好きなのだろうか。柚月のことをずっと好きでいると思ったのに、よくわからなくなってしまった。どれが親愛で、どれが恋心なのか。それとも全部親愛なのか、もしかしたら全部恋心なのか。
ノロノロと立ち上がって、靴を脱いだ。それから脱衣所で適当に服を脱ぎ、浴室でシャワーを浴びる。頭からお湯を浴びながらもずっと考えていたら、シャワーで溺れそうになった。
「うわあ、もう!なんて俺は阿呆なんだ」
自分の気持ち一つわからないなんて、頭が悪いにも程がある。もっと勉強しなくてはいけない。この場合、力を入れるのは国語だろうか。葵はシャンプーをわしゃわしゃと髪に馴染ませながら、「うわー!」と声を上げ続けたのだった。



