どうしてこんなに涙が溢れるのだろう。葵はしゃくりあげながら夜の街を歩いていた。うっかり柚月の家へ傘を置いてきてしまったけれど、あんなに降っていた雨はすっかり止んでいた。ただ、肌寒い外気が葵を拒むようで悲しい。涙は拭っても拭っても流れ続ける。面倒になって一旦流れたままにしてみたけれど、それも癪な気がしてもう一度拭った。酩酊状態の柚月に、人違いでキスされたのだ。可愛いって、好きだって、それはきっと春が言われるはずのセリフだったのだろう。それを葵が聞いてしまった。柚月は好きな人にはあんな風に愛を囁くのだと知って、それがすごく悲しかったのだ。
「俺が誰とキスしようと、葵くんには関係ないでしょ」
その言葉は、葵の心に深く突き刺さった。その時点で葵のキャパシティはすでに超えていたから話の流れはよく覚えていないものの、確かにその通りで言い返すこともできなかった。そして、葵は柚月にキスをしたのだ。自分の意思で、大好きになってしまった柚月に触れたら、ジンと甘い疼きが切なかった。自然と涙が溢れて、葵は確かに傷ついたのだとすぐに理解した。
ひらひらふわふわ。恋が甘く優しいだなんて嘘だ。本当の恋は、こんなに辛くて苦しく、痛くて苦いものだ。もしかしたら、葵にはもう優しくて甘い恋の歌は歌えないかもしれない。
「うぅ」
泣き声が口から漏れたら余計に泣けてきて、前が滲んでよく見えない。でも止まるのはもっと癪だから、ひたすらに歩き続けた。こんな道知らない。それが心細くてもっと泣けてくる。駅に近いこの道を行き交う人は、葵のことなんて気にも留めないだろう。そう思ったのに、前から歩いてきた背の高い男性が、横を通り過ぎたと思ったらすぐに戻ってきた。
「葵?」
その安心する声に、反射で顔を上げる。目元を手の甲で拭ってよくよく目を凝らすと、そこにいたのは思った通り周だった。恐らくバイト終わりの周は、葵と違って軽そうなリュックを右肩にかけてこちらを見下ろしている。
「泣いてる」
「泣いてないです」
「でも」
「泣いてないです」
「……そっか、そっか。泣いてないな」
周はそう言って、葵の頭を引き寄せた。こんなに強く押し付けられたら周の胸元が濡れてしまうかもしれない。それでも構わずに抱きしめられて、葵は思わず周の背中に腕を回した。
「俺の家近いから行くぞ。未成年がこんな時間に補導されたら大変だからな」
こくりと頷くと、さらと髪を撫でられる。その手つきが優しくて、葵は大人しく周にひっついたまま歩いた。
駅には比較的近いのに、周囲の都会的な雰囲気からかけ離れた存在感を放つアパートの二階が周の自宅だった。辿り着く頃には涙は止まっていて、「お邪魔します」と開かれた玄関から入る。古ぼけた外観とは異なり、ワンルームの部屋は綺麗に整頓されていた。部屋全体から周の匂いがして、妙に落ち着く。
「葵、そのソファに座って良いよ」
「でも」
「お客さんだからな」
二人がけと思われる座椅子のようなソファを勧められる。「周さんも一緒に」と言ってみたら、周は「仕方がないな」と言いながら並んで座ってくれた。途中のコンビニで買ってもらったサイダーのペットボトルが目の前に置かれる。葵が手をつけずにいたら、周が黙って蓋を開けてくれた。
「ほら、飲みな」
こくりと頷いてペットボトルを抱える。一口飲んだら、爽快な甘さがシュワシュワと弾けた。
「ちょっとしたら風呂に入りな。着替えは貸してやるし、下着も新しいのあるからやるよ」
「いや、これ飲んだら帰ります」
「可愛い未成年は素直に甘えておきな」
可愛いという言葉を聞いて、柚月の顔がフラッシュバックする。酔った柚月は、葵の目を見て「可愛い」と言ったのだ。葵を通して他の人間を見ている「可愛い」は、葵の胸をひどく痛めつけた。また泣きそうになってぎゅっと目を瞑る。
「どうした、どうした」
そう言って横から頭を抱えられて、その温もりに心が落ち着く。優しくて、柔軟剤の香りがして、同じような匂いのする春のことを思い出した。大好きな春と、大好きな柚月。早く二人の心が通じ合ってくれないだろうか。そうしないと葵が落ち着かないじゃないか。悪いのは手の届かない柚月に恋をした葵なのかもしれないのに、こんなにも誰かのせいにしたくなる。それも嫌だった。
「周さん、俺は悪いやつです」
「そうなの?」
「俺の好きな人が、好きな人と、早く結ばれてほしい」
「うん」
「でもそれは、二人のためじゃなくて、自分のためなんです」
「そうか」
周にぎゅっとしがみついて目を瞑ったら、静かに涙が溢れた。トントンと背中を叩かれる。周からしたら十六の恋なんて幼く見えるだろう。それなのに絶対に冷やかさないところが彼の好ましいところだ。
「気持ちを伝えようとは思わないの」
周の言葉に、首を横に振る。伝えるだなんてとんでもない。そんなことをしたら、柚月に気を使わせて傷つけてしまうだろう。
「好きって言われたら、案外嬉しいと思うけどな」
「周さんって、単純な人ですね」
「おい」
周の反応が面白くて、やっと少し笑うことができた。周の腕の中は温かくて、ずっとこのままでいたくなる。周が甘やかすものだから、葵はついついそのままの体勢で静かに目を瞑ってしまうのだった。
パッと目を覚ました。目の前にはベージュの壁がある。瞼は重怠いけれど、腫れているというほどでもないだろう。葵が使っている布団よりずっと寝心地が良いここはどこだろうか。モゾモゾと寝返りを打って体の向きを変えると、目の前に周の寝顔が現れた。驚いて上げそうになった声を飲み込む。そこで状況を理解した。そういえば、周に励まされてからの記憶がない。もしかして、風呂にも入らずに寝てしまったのだろうか。部屋を見渡すと、葵の制服のブレザーとスラックス、それからネクタイがハンガーにかかっている。着心地の良いこの寝巻きは、多分寝ぼけた葵に周が着させてくれたのだろう。なんとなく記憶を思い起こして、思わず赤面した。泣きながら眠って世話をされるだなんて、まるで子供だ。思わず両手で顔を覆って、溜息をついた。
「……葵」
掠れたその声に指の間から目を覗かせると、周が薄く目を開いて葵を見ていた。
「……よく眠れた?」
こくこくと頷くと、ふわりと微笑まれる。大人の色気って、こんな感じだろうか。非常に参考になる。
「シャワー、貸してください」
「いいよ」
「このまま事務所に行くんですけど、ジャージありますか」
周なら突っ込んでくれるかなと思って冗談を言ってみたら、彼は目を瞑っておかしそうに笑った。
「図々しいけど、許してやるよ」
「可愛いからですか」
「うん」
それから本当にシャワーを貸してもらい、下着までもらった。それから葵には大きい白のジャージを借りて、朝食まで世話になった。玄関先で見送られて階段を下り表へ出ると、適当に右方向へ向けて歩き始めてみる。時刻は九時。普段なら練習を始めてしばらく経っている頃だけれど、今日からは誰に迷惑をかけるわけでもない。朝ご飯の約束がないからだ。土曜日である今日は十七時までレッスンをして、そこからアルバイトだった。
「そっちじゃないよ」
周の声に振り返ると、彼が二階の窓から顔を出している。
「お前の後ろ方向に向かってひたすら歩けば駅」
「はい」
「気をつけろよ」
「このご恩は必ず」
「あはは!」
方向転換して歩き始めると本当に駅が見えてきた。事務所まではあと少しだろう。今日からまた一人きりだ。今までだって一人で頑張ってきたつもりだったけれど、どこかで優しい柚月に頼っていた自分がいた。そうでなければお弁当を作ってもらうだなんてしなかっただろう。柚月の弁当と優しさが、葵の体と心を元気にしてくれていたのだ。気がかりなのは、柚月に恩返しができていないということだ。与えられるだけ与えてもらって、返せたのはチョコレート一箱だ。だから、葵は頑張らなくてはならない。アルバイトをするなり、ちゃんとデビュー候補として仕事をもらうなりして、お金を稼ぐのだ。葵に立ち止まる暇も、休む暇もない。葵は覚悟を決めて、朝の光の中を確かな足取りで歩くのだった。
「俺が誰とキスしようと、葵くんには関係ないでしょ」
その言葉は、葵の心に深く突き刺さった。その時点で葵のキャパシティはすでに超えていたから話の流れはよく覚えていないものの、確かにその通りで言い返すこともできなかった。そして、葵は柚月にキスをしたのだ。自分の意思で、大好きになってしまった柚月に触れたら、ジンと甘い疼きが切なかった。自然と涙が溢れて、葵は確かに傷ついたのだとすぐに理解した。
ひらひらふわふわ。恋が甘く優しいだなんて嘘だ。本当の恋は、こんなに辛くて苦しく、痛くて苦いものだ。もしかしたら、葵にはもう優しくて甘い恋の歌は歌えないかもしれない。
「うぅ」
泣き声が口から漏れたら余計に泣けてきて、前が滲んでよく見えない。でも止まるのはもっと癪だから、ひたすらに歩き続けた。こんな道知らない。それが心細くてもっと泣けてくる。駅に近いこの道を行き交う人は、葵のことなんて気にも留めないだろう。そう思ったのに、前から歩いてきた背の高い男性が、横を通り過ぎたと思ったらすぐに戻ってきた。
「葵?」
その安心する声に、反射で顔を上げる。目元を手の甲で拭ってよくよく目を凝らすと、そこにいたのは思った通り周だった。恐らくバイト終わりの周は、葵と違って軽そうなリュックを右肩にかけてこちらを見下ろしている。
「泣いてる」
「泣いてないです」
「でも」
「泣いてないです」
「……そっか、そっか。泣いてないな」
周はそう言って、葵の頭を引き寄せた。こんなに強く押し付けられたら周の胸元が濡れてしまうかもしれない。それでも構わずに抱きしめられて、葵は思わず周の背中に腕を回した。
「俺の家近いから行くぞ。未成年がこんな時間に補導されたら大変だからな」
こくりと頷くと、さらと髪を撫でられる。その手つきが優しくて、葵は大人しく周にひっついたまま歩いた。
駅には比較的近いのに、周囲の都会的な雰囲気からかけ離れた存在感を放つアパートの二階が周の自宅だった。辿り着く頃には涙は止まっていて、「お邪魔します」と開かれた玄関から入る。古ぼけた外観とは異なり、ワンルームの部屋は綺麗に整頓されていた。部屋全体から周の匂いがして、妙に落ち着く。
「葵、そのソファに座って良いよ」
「でも」
「お客さんだからな」
二人がけと思われる座椅子のようなソファを勧められる。「周さんも一緒に」と言ってみたら、周は「仕方がないな」と言いながら並んで座ってくれた。途中のコンビニで買ってもらったサイダーのペットボトルが目の前に置かれる。葵が手をつけずにいたら、周が黙って蓋を開けてくれた。
「ほら、飲みな」
こくりと頷いてペットボトルを抱える。一口飲んだら、爽快な甘さがシュワシュワと弾けた。
「ちょっとしたら風呂に入りな。着替えは貸してやるし、下着も新しいのあるからやるよ」
「いや、これ飲んだら帰ります」
「可愛い未成年は素直に甘えておきな」
可愛いという言葉を聞いて、柚月の顔がフラッシュバックする。酔った柚月は、葵の目を見て「可愛い」と言ったのだ。葵を通して他の人間を見ている「可愛い」は、葵の胸をひどく痛めつけた。また泣きそうになってぎゅっと目を瞑る。
「どうした、どうした」
そう言って横から頭を抱えられて、その温もりに心が落ち着く。優しくて、柔軟剤の香りがして、同じような匂いのする春のことを思い出した。大好きな春と、大好きな柚月。早く二人の心が通じ合ってくれないだろうか。そうしないと葵が落ち着かないじゃないか。悪いのは手の届かない柚月に恋をした葵なのかもしれないのに、こんなにも誰かのせいにしたくなる。それも嫌だった。
「周さん、俺は悪いやつです」
「そうなの?」
「俺の好きな人が、好きな人と、早く結ばれてほしい」
「うん」
「でもそれは、二人のためじゃなくて、自分のためなんです」
「そうか」
周にぎゅっとしがみついて目を瞑ったら、静かに涙が溢れた。トントンと背中を叩かれる。周からしたら十六の恋なんて幼く見えるだろう。それなのに絶対に冷やかさないところが彼の好ましいところだ。
「気持ちを伝えようとは思わないの」
周の言葉に、首を横に振る。伝えるだなんてとんでもない。そんなことをしたら、柚月に気を使わせて傷つけてしまうだろう。
「好きって言われたら、案外嬉しいと思うけどな」
「周さんって、単純な人ですね」
「おい」
周の反応が面白くて、やっと少し笑うことができた。周の腕の中は温かくて、ずっとこのままでいたくなる。周が甘やかすものだから、葵はついついそのままの体勢で静かに目を瞑ってしまうのだった。
パッと目を覚ました。目の前にはベージュの壁がある。瞼は重怠いけれど、腫れているというほどでもないだろう。葵が使っている布団よりずっと寝心地が良いここはどこだろうか。モゾモゾと寝返りを打って体の向きを変えると、目の前に周の寝顔が現れた。驚いて上げそうになった声を飲み込む。そこで状況を理解した。そういえば、周に励まされてからの記憶がない。もしかして、風呂にも入らずに寝てしまったのだろうか。部屋を見渡すと、葵の制服のブレザーとスラックス、それからネクタイがハンガーにかかっている。着心地の良いこの寝巻きは、多分寝ぼけた葵に周が着させてくれたのだろう。なんとなく記憶を思い起こして、思わず赤面した。泣きながら眠って世話をされるだなんて、まるで子供だ。思わず両手で顔を覆って、溜息をついた。
「……葵」
掠れたその声に指の間から目を覗かせると、周が薄く目を開いて葵を見ていた。
「……よく眠れた?」
こくこくと頷くと、ふわりと微笑まれる。大人の色気って、こんな感じだろうか。非常に参考になる。
「シャワー、貸してください」
「いいよ」
「このまま事務所に行くんですけど、ジャージありますか」
周なら突っ込んでくれるかなと思って冗談を言ってみたら、彼は目を瞑っておかしそうに笑った。
「図々しいけど、許してやるよ」
「可愛いからですか」
「うん」
それから本当にシャワーを貸してもらい、下着までもらった。それから葵には大きい白のジャージを借りて、朝食まで世話になった。玄関先で見送られて階段を下り表へ出ると、適当に右方向へ向けて歩き始めてみる。時刻は九時。普段なら練習を始めてしばらく経っている頃だけれど、今日からは誰に迷惑をかけるわけでもない。朝ご飯の約束がないからだ。土曜日である今日は十七時までレッスンをして、そこからアルバイトだった。
「そっちじゃないよ」
周の声に振り返ると、彼が二階の窓から顔を出している。
「お前の後ろ方向に向かってひたすら歩けば駅」
「はい」
「気をつけろよ」
「このご恩は必ず」
「あはは!」
方向転換して歩き始めると本当に駅が見えてきた。事務所まではあと少しだろう。今日からまた一人きりだ。今までだって一人で頑張ってきたつもりだったけれど、どこかで優しい柚月に頼っていた自分がいた。そうでなければお弁当を作ってもらうだなんてしなかっただろう。柚月の弁当と優しさが、葵の体と心を元気にしてくれていたのだ。気がかりなのは、柚月に恩返しができていないということだ。与えられるだけ与えてもらって、返せたのはチョコレート一箱だ。だから、葵は頑張らなくてはならない。アルバイトをするなり、ちゃんとデビュー候補として仕事をもらうなりして、お金を稼ぐのだ。葵に立ち止まる暇も、休む暇もない。葵は覚悟を決めて、朝の光の中を確かな足取りで歩くのだった。



