スッと伸びた腕に、憂いを帯びた横顔。踊っているのに、まるで物語が見えるようだ。無駄のない身のこなしに、柚月は自然と見惚れていた。
 パチリと場面が切り替わって、今度は入学式の日だ。心許なさそうな葵に声をかける。見上げてきたその顔はあまりにも可愛らしくて、少し潤んだ大きな目がずるいと思った。真っ白な肌に、甘栗色の髪が風に揺れる。大きな目を縁取る長いまつ毛が震えていた。こんなの、助けないわけにはいかないだろう。
 もう一度場面が切り替わる。この情景は、忘れもしない四月七日。忘れ物をとりに教室へ一人戻った時の景色だ。園芸委員の仕事中と思われる彼の姿を、開け放たれた窓とベランダの向こうに見つけた。サボっている生徒たちの中で、手を泥だらけにしながらせっせと花の苗を植える姿。別になんてことのない光景なのに、どうしてか目が離せなくなった。しばらくして葵はぱんぱんと手を叩いて土を落とし、今度はジョウロに汲んできた水を苗たち全体に行き渡るように丁寧にかけ始めた。
「いいなあ、君たちは」
 葵は鈴の鳴るような清らかな声で、本当に羨ましそうにそう言ったのだ。花が羨ましいだなんてどうかしてると思った。しかし、その後に続いた言葉に、なんとも言えない気持ちになったのだ。
「お腹いっぱい食べられて羨ましいよ」
 考えたくもないけれど、もしかして、葵は毎日満足に食べられていないのだろうか。確かに、葵は男子の平均よりは痩せている方かもしれない。この学校にいる以上は芸能の世界を目指していて体型管理をしているのだろうけれど、それにしても華奢に見えるのだ。
「葵、何か言った?」
 遠くの方で作業をしていたらしい丸山春がシャベルを持ったまま葵に近づいて来た。彼が葵の一番仲の良い友達だ。それを証明するかのように葵は途端に楽しそうな顔をする。柚月の胸はモヤモヤと苦しくなった。
「頑張って植えたんだから大きくなれよって、言ったんだ」
「なんだ、俺に話しかけたのかと思った」
 春はせっかく葵に近づいて来たのに、すぐに柚月の視界から消えていく。「あはは」と笑った葵は水をやり終えると、「さて」と言って、今度は優しく微笑んだ。
「なんか、もう可愛いな」
 まだ咲いてもいないただの苗に向かってそう言った葵に、その笑顔に、キュンとなった自分が馬鹿かもしれないと思った。そして次の瞬間には窓辺に近づいている自分にも、おかしいぞと頭の中の自分が騒ぎ立てた。
「綺麗に咲くといいね」
 声をかけた瞬間、驚いたような葵の顔を見て、頭の中の自分がわかりやすく頭を抱えた。入学式以来ほとんど話したことがないのに、不審者すぎるだろう。それでも、どうしても止められなかった。
「頑張って植えてくれたんでしょ」
 花壇を指さすと、葵はこくりと頷いた。それから柚月に向けて満面の笑みを見せて、「柊木くんも楽しみにしてて」と言ったのだ。その瞬間だった。柚月の心の中で、コトリと恋に落ちる音が確かに聞こえてきた。
 そして場面が切り替わる。ウィンナーをカニの形に切ることに没頭している自分の手元だ。あの四月七日から、柚月はおかしくなった。親元を離れて一人暮らしをする部屋で、熱心に料理をするようになったのだ。仕送りは十分すぎるほどあるから材料を多く買っても問題なかった上に、むしろ出前や外食が減って食費が浮くようになった。それに、思ったより料理は得意で好きらしいと気がついて、凝った料理にも挑戦するようになったのだ。特に、弁当に詰められるようなおかずのレパートリーがどんどん増えていった。自分でも呆れるほどに葵に振り回されていることには気づいている。料理を振る舞いたくなって、勝手に練習して、本当に馬鹿みたいだ。
 パチリと場面が切り替わる。よく晴れたベランダで、彼が植えた花の苗を前に弁当箱を手渡した。蓋を開けた葵は嬉しそうで、それだけで作ってよかったと思ったのだ。彼が最初に選んだのは卵焼き。パクリと口に入れて、ふにゃりと溶けた顔は、何にも代え難いほどに可愛らしかった。そしてどんどん弁当箱の中を平らげていく葵を見つめて感じた忘れもしない感動。人生で初めての、衝撃にも似た気持ちだった。可愛くて、大好きで、食べちゃいたいくらいだ。これはもしかして危険思想なのだろうかと不安にも思ったけれど、もう止められなかった。
 柚月はそれなりに恋をしてきたつもりだった。誰かに好意を持つというより、この子なら良いかなと思う女の子に告白されて、とりあえず付き合ってみていた。彼女たちのことは確かに好きだったはずなのに、葵に対する気持ちは誰に抱いていたそれとも異なって、これが本物の恋かと納得してしまった。今日は何を特別美味しいと言うだろう。何を食べて笑うだろう。どうしたら柚月に振り向いてくれるだろう。気がつけば、頑固なところも、変に大胆なところも、柚月の気持ちに気がつかない困ったところも、全部が好きなのだから、恋は盲目とはよく言ったものだ。
 ふわりと意識が浮上する。目を開けて一番に視界に入ったのは、アイボリーのレザーだった。どうやらソファの上でうつ伏せで寝ていたらしく、手をついて体を少し起こしてみる。視界に入ったのは、ポカリと口を開けて寝ている葵だった。葵に覆い被さったまま寝てしまったのか。起きあがろうとするとズキズキと頭痛がする。それに顔を顰めながら、葵を起こさないようにゆっくりとソファから降りた。しゃがみながら葵の寝顔を眺めて小さく溜息をつく。どうしてこんな体勢になったのか、多少は覚えている。チョコレートからアルコールの風味がした時、参ったなと思いつつも、どうにでもなれと食べ続けた。甘酒でも酔えるほどの柚月は、その後の展開もまあまあに予想できた。それでもチョコレートを口に入れるたびに喜ぶ葵が可愛くて、このまま勢いでどうにかしてしまおうかと本気で思ったのだ。柚月が不誠実にもそう思うくらいには、葵は鈍感で、柚月のアプローチにも全く靡かない。今だって、覆い被さった柚月に危機感を感じるどころか、口を開けて眠っているほどなのだ。柚月は膝の上で頬杖をついて葵を見つめ続けた。
 しばらく経って、葵の目がゆっくりと開いた。時刻は夜の二十二時になるところだ。葵は何度か瞬きをして天井を眺めた後、すっと柚月に視線を寄越した。
「おはよう」
 柚月が声をかけると、葵は何かを思い出したのかパッと赤面した。それでも顔を隠さないところが彼らしい。
「お、はよ、う」
 顰めっ面で挨拶を返して、それからぎゅっと目を瞑ってしまった。ああ、とんでもなく可愛い。
「そんなに可愛いと、キスしちゃうよ」
 揶揄うように言ったのに、葵は瞑っていた目を見開いてソファから起き上がった。それから隅の方に身を竦ませて首をブンブンと横に振る。この反応は、割と傷つくかもしれない。
「葵くん、ごめんね。俺何が起こったのか全く覚えてなくて」
 これはちょっと嘘だけれど、安心させるためにそう言ってみる。すると葵は心底安堵したような顔になった。
「全然、何もなかったよ。本当に、柚月が寝ちゃってびっくりしたけどね」
「俺、何も言ったりしなかった?」
「う、うん。何も、言ってなかった」
「本当?」
「……本当は、ちょっと寝言言ってた」
「なんて?」
「柚月、好きな子がいるんだなってわかること」
「うん。いるからね」
 それは紛れもなく、葵のことだよと言ってもいいだろうか。柚月が迷っている間に、葵の瞳に涙が滲む。
「い、いるのに、俺にお弁当を作ったり、キ、キスするって言ったり、ちょっと変だよ」
 うわあ、と感嘆の声が漏れてしまいそうになった。それほどまでに涙を堪える葵は美しくて、可愛くて、神聖な存在にも思える。そんな葵に今すぐかぶりつきたくなって、柚月はその衝動を必死で抑えた。
「好きな子がいるからこそ、お弁当作ったり、キスするって言ったりしてるんだよ。そんなに変?」
 そろそろ気づいてくれないだろうか。直接好きだって言ったらさすがにわかるだろう。でも、葵の気持ちが柚月に近づいていないのに、それは危険だと思うのだ。だって柚月は男で、葵も男だ。こんなことなら、柚月が女の子だったら容易く告白ができたのだろうか。
「もう、俺にお弁当作らないでいいよ」
「……なんで?」
「作って、もらいたくない、から」
 これは予想外の展開だ。何かに耐えるように顔を背けられてしまえば、柚月はただショックを受けることしかできなかった。これは葵の拒絶なのだ。さすがにこれを無視して葵に弁当を作り続けることは、柚月にはできない。でも、黙って引き下がるのでは柚月らしくないと思うのだ。だから、柚月は覚悟を決めた。
「そしたら俺にキスしてみて。キスできたら、もうお弁当は作らない」
「そんなのダメだよ。キスは本当に好きな子とするんだよ」
「俺が誰とキスしようと、葵くんには関係ないでしょ」
 こんなに好きなのに、大好きなのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。柚月にとって初めての恋は、自分でも理解不能だ。葵は何かを言い淀んだと思ったら、首を横に振る。
「やっぱりだめ。柚月は好きな子がいるのに」
「じゃあお弁当は作り続けるよ」
「……だめ」
「葵くんは、俺とキスするか、お弁当を食べるかの二択しかないの」
 我ながらなんて二択だろうかと思うけれど、柚月は本気だった。こんな状況でさえなければ、どちらも柚月にとってはご褒美だ。でも葵はきっと、柚月にキスなんてできない。
 ところが、柚月の考えとは異なり、葵がゆっくりと体勢を立て直した。そして覚悟を決めたように柚月に顔を近づけてくる。すぐ目の前まできて、葵はぎゅっと目を瞑った。口も引き結んで、なんて可愛いのだろう。押し付けられた唇は、引き結ばれているせいで柔らかくなかった。でも頑ななその感じが葵らしい。一瞬のキスの間、柚月はずっと目を開けていた。だから、ちゃんと見えたのだ。葵の目から、一筋の涙が溢れて、まろい頬を伝って落ちた。葵が泣いていると思ったら抱きしめてやりたくて、でも今の柚月にその資格はないことくらいわかっている。そっと顔を離しながら、葵が頬を雑に拭った。
「どうして泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「泣いてない」
 葵の顔を覗き込んでも目が合わなくて、それだけで柚月の心はシュンと萎んだ。柚月の弁当も、キスも、葵はきっとどちらも嫌だったのだ。全部全部、柚月が間違えてしまった。柚月はこの初恋を、どうしたらよかったのだろう。
「明日からは、自分でちゃんとお昼を用意するんだよ」
「……わかってる」
「おむすび一つしか食べなかったら、俺が許さないから」
「……今までありがとう」
 葵はそう言うと、ソファから飛び降りて重たそうなリュックを担ぎ上げた。そのままリビングの扉を開けて、部屋から出て行ってしまう。それからガチャリと玄関の音が聞こえて、静かになった部屋に柚月は大きな溜息をついた。それから少しして立ち上がる。こんな時間に、好きな子を一人で返すほど腐っていないつもりだ。スマートフォンだけを持って、柚月は静かに部屋を後にした。