六月二十日、葵の誕生日は朝から大雨だった。この前梅雨入りしたのだから仕方がない。雨に負けずに重たいリュックを背負って登校して、いつも通り必死で授業を受けて、昼である今は葵と春の机をくっつけて柚月も入れた三人で弁当を食べている。相変わらず柚月が工夫を凝らした弁当は素晴らしいほど美味しくて、それだけで良い誕生日かもしれないなと思った。
 春も柚月も、きっと今日が葵の誕生日であることは知らないだろう。確か、この街で葵の誕生日を知っているのはバイト先の先輩である周だけだ。少し寂しいけれど、誕生日は押し売りで祝ってもらうものでもないと思っているから、いつも通り大人しく過ごしていた。
 大人しくハンバーグを箸で割っていたら、春が「そうだ」と何か思い出した様だった。
「葵って、誕生日いつ?」
「うえっ!?」
 春の言葉に驚いて、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。正直に言うと、今日というタイミングでこの質問は少し気まずい。だって、葵の誕生日は今日の今日なのだ。絶対に祝わせることになってしまいそうで、むしろ申し訳ない。「な、なんで」と聞きながら右側にいる春を見ると、左の柚月からも視線を感じた。
「葵ってことは、六月生まれかなって思って。ほら、六月のことを葵月って言うじゃん」
 普段はひょうきん男なのに、こういうところが聡いなと思う。でも、隠すのも変かなと思って、葵は勇気を振り絞った。春から聞いてきたのだから、この際変に気を使う必要もないかもしれない。
「今日、だけど」
「今日!?」
 驚いた様子の春にこくりと頷くと、左にいる柚月も小さな声で「今日」と呟いた。
 それから教室中がお祝いムードに包まれた。春がクラスメイトたちに葵の誕生日を言いふらしたのだ。口々にお祝いを言われると嬉しいけれど、恥ずかしくて申し訳ない。
 帰りのホームルームが終わって帰宅をする際にも色々なクラスメイトから改めて「おめでとう」を言われて、ここまでくると少し面白くなりながらも「ありがとう」を返した。後ろの席の春に手を振って、教室から出る。暗くて大雨の降る中レッスンに向かうのは少し気が滅入るけれど、思ったよりも今日が良い日になったから許せてしまうかもしれない。
 玄関先で傘を探していたら、葵の肩に突然手がかかった。びくりと振り返ると、そこには柔らかな表情の柚月が立っていた。相変わらずの綺麗な顔は、欠点なんてどこにも見当たらない。葵は自分の顔を可愛い要素が多すぎると思っているけれど、もし柚月の顔面があれば自分の顔にケチなんてつけないだろう。
「びっくりしたあ」
 唐突に感じていた羨ましさを隠してそう言うと、柚月は「ごめんね」と申し訳なさそうに笑った。
 葵は相変わらず柚月のことが好きだった。かっこいいし、優しいし、笑うと可愛い。それに、柚月がアイドル志望になって一緒に練習を重ねて三週間ほど経った今、彼の努力や才能にも惚れ込んでいた。柚月は特に、ダンススキルが非常に優れていた。柚月が躍ると他の練習生たちが魅入るほどに体の使い方が素晴らしい。その反面、歌の方は本人からしてみたらまだまだらしく、だからこそ苦手な歌を重点的に練習していると言っていた。苦手を練習することくらい大変なことはない。それを葵は知っているから、柚月のその姿勢に感心していたのだ。
 二人並んで傘をさしながら校庭を歩く。柚月は事務所まで電車で通っているはずなのに、葵と一緒に歩いてくれることが多かった。電車に乗るように何度言っても、彼は頑なに葵の隣を歩くことをやめない。それが柚月に何の得になるのだろうと常々思うものの、「葵くんと一緒に歩くのが好きなんだ」とあの美しい顔で言われてしまえば、余計なことを言う気にもならなかった。「へえ、それはびっくりだな」と呟いた自分は、人を喜ばせる綺麗な言葉を知っている柚月に比べてなんておとぼけボーイなのか。今さしている傘の黄色だって、柚月のさす紺色に比べると随分と幼稚に思えた。
 柚月のことも、柚月と一緒にいることも大好きだけれど、すぐに彼と自分自身を比べてしまうところが嫌だった。比較すればするほど葵自身のことが嫌になる。だから、葵はもっともっと練習しようと思うのだ。柚月に負けないくらい限界まで練習を重ねて、誰よりも技術で優れてみせる。
「葵くん」
 名前を呼ばれて「ん?」と振り向くと、柚月はどうしてか緊張の面持ちで葵のことを見下ろしている。
「今日、バイト?」
「今日は休みだよ」
「誕生日だから?」
「多分。先輩が気を遣ってくれたみたい」
 本来、金曜である今日は人手が多い方が良いはずだ。それがどうしてか今日だけシフトが入っていなかった。シフト表を渡されて思わず周を見上げたら、彼は笑顔で小さく頷いてくれた。おそらく彼のおかげなのだろうとその時わかったのだった。
「良い先輩なんだね」
「うん」
 この街で生活を始めてから、葵は本当に恵まれていると思う。素敵な人にたくさん囲まれて、辛いなりにも毎日が楽しいのだ。地元よりもずっと都会であるここがこんなに住み心地がいいとは思わなかった。住めば都とは、その通りだなと思う。そんなことを考えていたら、「葵くん」と名前を呼ばれた。
「うん、どうした?」
 葵が答えると、柚月が真っ直ぐに葵を見て、ごくりと喉を鳴らしたことがわかった。
「今日、俺の家に来ない?」
 柚月の家か、と少し考える。正直、行きたくないわけがなかった。だって、大好きな男の家だ。一度は行ってみたいに決まっている。でも、柚月と異なり、葵には下心があるのだ。純粋な気持ちで部屋に上がり込んで、何もせずに帰るなんてできない。きっと最初で最後の柚月の家を目に焼き付けようと、キョロキョロウロウロしてしまうだろう。そう考えるとちょっと変態みたいで、そんな自分は許したくないなと思った。
「バイトはないけど、事務所に籠るつもりなんだよな」
「じゃあ、その後」
「遅くなるから悪いよ」
「いいよ、待ってる。だから夕飯食べにきてよ」
 夕飯と聞いて、葵は我ながら目を輝かせてしまった気がした。柚月の手料理は、何が何でも食べたい。でも、今日も昼ご飯をご馳走になっておいてそれは悪い気もする。口をへの字にして考えていたら、柚月が傘の下でグッと顔を近づけてきた。
「断るなら、ここでキスしちゃうよ」
 葵が柚月のキスを断る理由がないことを、柚月は知らないのだ。こんなに好きな男にされるなら、何度でも受け入れたいくらい。ちょっと想像してみて、慌ててそれを打ち消した。想像でもキスするなんて柚月に悪い。柚月に葵なんかとキスさせる訳にはいかないのだ。
「……わかった。じゃあ、今日は早めに練習を引き上げるよ」
 葵がそう言うと、柚月は目だけでなく顔までもパアッと輝かせた。普段は大人っぽいのに、こんな表情も綺麗で可愛い。柚月にはいつでも明るい顔をしていてほしいのだ。
 それから一緒に事務所まで行くと、柚月は玄関前でくるりと踵を返して帰宅していった。
「葵くんが好きな物、たくさん作るから」
 別れ際にそう言って見せた笑顔がこの世の何よりも美しく見えて、キラキラの宝石みたいな男だと思った。きっと柚月を特別に好きな葵以外の人間だってそう思うに決まっている。軽くダンスをしながら、本格的に歌の練習をしながら、何度もその笑顔を思い出した。胸が疼いて、心から好きで好きでたまらない。
 十八時まで休みなしできっちり練習をして、葵は一応レッスン着であるジャージから制服に着替えた。そして、家を訪ねるのなら手土産が必要だと考えて、財布の中を覗き込んだ。なんとかお金はありそうだ。いつも与えられてばかりだから、今日くらいはお返しがしたい。なんならきっと柚月は料理で葵を祝ってくれる気でいるのだろうから、葵にできることはなんでもしたいと思うのだ。
 柚月に教えてもらったマンションの住所は大きな駅の近くだった。相変わらずの大雨の中、一生懸命に歩いて駅方面へ向かう。途中で駅の中の贈答品売り場へ寄り、散々悩みに悩んだ末に、おしゃれなチョコレートを購入した。数粒のチョコレートがこんなに高いなんてと驚いたけれど、数あるお菓子の中で宝石箱のような綺麗な箱に入ったチョコレートをあげたくなったのだから仕方がない。若干歯を食いしばりながらお会計を済ませて、葵は柚月のマンションへ急いだ。
 柚月のマンションはコンシェルジュのいる高級マンションだった。勝手がわからずにビクビクしながら柚月に連絡すると、柚月はエントランスの外まで迎えにきてくれた。白の軽そうなシャツに緩めのボトムスがよく似合っている。外は大雨でジメジメしているのに、柚月の周りは爽やかな風が吹いているように涼やかだった。
「雨の中、ごめんね」
 柚月は開口一番そう言った。心から申し訳なさそうな姿に、むしろ葵が申し訳なくなる。だから、わざとニッと笑って見せた。
「俺のこと、祝ってくれるんでしょ」
 そう明るく言うと、柚月は少し呆気にとられたような顔をした後、おかしそうに「もちろん」と笑った。
 複雑な工程を経て、やっとのことで柚月の部屋に辿り着いた。どこもかしこも、葵の住む年季の入ったアパートとは訳が違う。ガチャリと玄関を開けると長い廊下があることにまず驚いた。そしてスリッパを履くという文化にも驚いて、リビングに入ったらその広さにまた驚いた。白を基調にした空間は、葵が歩いたら汚すのではないかと怖いくらいだ。そのまま大きなアイボリーのソファへ案内されて、キョドキョドしながら座り込んだ。と思ったら、背負ったままのリュックが重たくて、ふかふかの座面にバランスを取られたせいであっけなくコロンと転がる。その様子を見た柚月は目を丸くして驚きながら葵を支えてくれた。
「ご、ごめん」
 葵が慌てると、柚月は優しく頷いて「気をつけてね」と言った。
「荷物、その辺に適当に置いてね」
「……その辺」
 その辺って、どの辺だろう。悩みながらもソファの端の足元の部分にやっと置いた。毛の長いラグの上に自分の足が存在していて良いのかもよくわからない。葵が戸惑っている間に、ソファーテーブルに冷たい麦茶が置かれた。
「これ飲んで、ゆっくりしていてね」
 そう言って腕まくりをしながらアイランドキッチンに向かう柚月に、葵は慌てて立ち上がる。
「柚月、手伝うよ」
「ダメだよ。お客さんなんだから」
「だってさ」
「それ、レモンティーなんだ。ゆっくり飲んで」
 それと言われたテーブルの上の麦茶を見る。興味を惹かれるままにソファに座ってグラスを手に持ち、クンクンと匂いを嗅いでみると、確かに甘酸っぱいレモンの香りがした。麦茶だと思った圧倒的に庶民派の自分になんとも言えない気分になったけれど、まあそこも個性ということで自分で自分を許してやろう。
 アイランドキッチンの前にあるダイニングテーブルに、どんどん料理が並べられていく。レモンティーを飲み終わった葵も懇願して手伝わせてもらって、テーブルの上は見事にパーティ仕様になった。モッツァレラチーズとトマトが転がるサラダにハンバーグ、エビフライにオムライス、唐揚げまであって、どれから食べたら良いのかわからないほどだ。
「葵くん、なんでも食べてくれるからさ。ちょっと子供っぽいラインナップになったけど、許してね」
 多少子供扱いされているのかなと思ったところをフォローされて、慌てて頷く。葵なら、このうちの一つだって満足に作れないだろう。かろうじてサラダならいけるかなと思ったものの、モッツァレラなんてよくわからない恐らく高級品は、葵には平常心で買うことすらできないはずだ。
 向かい合わせに座って、手を合わせる。ワイングラスにジンジャーエールまで注いでもらって、気分はすっかり高級ホテルのディナーだ。高級ホテルなんて行ったことないけれど、もしかしたらそれよりもずっと嬉しいかもしれない。
「遠慮しないでたくさん食べてね。葵くんの誕生日祝いなんだから」
 親と兄弟、それから地元の友人以外にも、こうして祝ってくれる人がいるだなんて、葵は幸せ者だなと思った。それから勧められるままにたくさん食べて、もう食べきれないと思ったところでケーキとフルーツまで出てきた。甘いものは別腹という言葉、それは本当らしいと今日知った。そんな調子で、葵は出された食べ物を全て綺麗に平らげたのだ。
「ああ、お腹いっぱいだ」
 葵がお腹をさすると、柚月は心底嬉しそうに笑った。
「葵くんが満足してくれたら俺は嬉しいよ」
「大満足」
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 本当にありがたい。柚月のような男が、葵のためにここまでしてくれるのだ。大事な友人で、好きな人。そして葵にとっては超えられないライバルだ。煌びやかで、眩しくて、とてつもなく優しい。それでいて、葵の親友である春のことが好きで、その恋はなかなか成就しない。何度もその恋をアシストしたつもりだけれど、いつもどうしてか思った様にならないのだ。他人の恋路を応援するのは難しいのだと初めて知った。葵は、大好きな柚月のために、一体何ができるだろう。
「あ、そうだ」
 葵は唐突に思い出した。そういえば、手土産を出すのを忘れていた。自分にできることを考えていたおかげで、ちゃんと思い出せたことに心底安堵した。手を合わせて「ごちそうさまでした」と挨拶をしてから席を立つ。
「葵くん?」
「柚月、ちょっとこっち来て」
 葵がふかふかなソファに座りながらリュックを漁っていると、柚月は不思議そうに近づいてきて隣に腰掛けた。そんな柚月をチラリと見て葵が慎重に取り出したのは、駅で買ったチョコレートだ。雨に濡れないように紙袋ごとリュックに入れておいたそれを、葵は柚月に差し出した。
「なあに、これ」
「あげる」
「俺に?」
 嬉しそうに紙袋を受け取ってそこから箱を取り出した柚月は、その宝石を並べたようなパッケージに「うわあ、綺麗」と葵を振り返った。
「いいだろ」
「お菓子?」
「うん。チョコレート」
「チョコレートか」
 箱をゆっくりと開ける様子に、葵までドキドキしてくる。柚月は喜んでくれるだろうか。
 パカリと開いた箱の中は、ショーウィンドウに飾られていたものと変わらず美しく並んでいる。丸い形、菱形、四角、真っ赤なハート型まである。あのハートには葵の気持ちが少しのっているけれど、それを無理強いするつもりはないから許してほしい。
「すごいね。葵くんが選んでくれたんだと思うと、もったいないな」
「なんだよそれ。きっと美味しいから食べてみて」
 どうしてかドキドキする。柚月はいつも弁当を差し出す瞬間こんな気持ちなのだろうか。柚月の場合は手作りだから、もっとドキドキワクワクするのかもしれない。柚月がいつも「食べて」と促す気持ちがわかる気がした。選んだだけだけれど、早く食べて感想が聞きたい。できれば「美味しい」と言ってほしい。葵がワクワクと柚月の横顔を見つめていたら、柚月は葵へチラリと視線を投げた後、ハート型のチョコレートを選んだ。
「いただきます」
 そう言って、パクリと口に運ばれたチョコレートは、どんな気分だろうか。こんな色男に食べられて、さぞかし良いチョコレート人生だろう。柚月はチョコレートを口に含むと、ゆっくりと咀嚼して、それからふわりと表情を緩めた。
「すごく美味しい」
「本当?もっと食べて」
「でも、もったいないよ」
「いいから。きっとこの黄色いチョコレートも美味しいよ」
「じゃあ、食べようかな」
「うん。この丸いやつも美味しいと思う」
「わかったから、待ってね」
 柚月は楽しそうに一粒ずつチョコレートを口に入れていく。毎回律儀に「美味しいよ」と言ってくれて、その度に葵は嬉しくなった。五粒目を超えたところで、流石に食べさせすぎかと慌てて、葵は「柚月」と声をかけた。
「……」
 突然黙り込んだ柚月の肩に、葵はそっと手をかける。なんだか様子がおかしい。やはり食べさせすぎただろうか。いつの間にか目を瞑った柚月は、葵が触れても無反応だ。
「柚月?」
 柚月の肩を軽く引くと、そのまま柚月が葵の方に倒れ込んできた。
「うえぇっ!?ちょっと」
 体格差のある柚月の体重を支えきれず、そのまま後ろに倒れ込む。ソファのおかげで体を痛めずに済んだけれど、胸には柚月の全体重がのって、首元には頭が凭れかかってきていた。
「柚月?」
 もしかして、と葵は顔を青くした。チョコレートに何かアレルギーを発症するようなものでも入っていたのだろうか。途端に冷や汗をかいて、いつの間にか床に落ちた箱に手を伸ばす。やっとのことで拾い上げて、箱の裏側に目を通した。
「……アルコールかあ。えっ、アルコール!?」
 葵の大声に、柚月はモゾモゾと動いて、葵の首元に腕を回してくる。動くということは、気を失っているわけではないのだろう。もしかして、酔っ払ってしまったのだろうか。よくよく商品説明を読んでみると、色々な酒をモチーフにしたチョコレートだと書いてある。未成年が買えるくらいのアルコール度数のはずだけれど、まさかと思った。
「柚月!」
 とりあえず酔っ払いには水を飲ませなくてはと、柚月を必死に揺さぶる。すると、彼はモゾモゾと動いてゆっくりと目を開けた。良かったと、心の底から安堵して、泣きそうになりながら虚な目を見つめる。
「柚月、大丈夫?」
 半泣きで声をかけると、彼がゆっくりと顔をあげる。そして眠たそうな目で葵のことを捉えた。
「……可愛い」
「え?」
「……可愛いね」
 二度目でやっと何を言われたのかわかった。まあ、アイドルを目指しているくらいだから、柚月ほどではないにしても可愛いだろう。柚月は可愛いというよりかっこいい方で、そこがずるいと思うけれど、将来のために早めにアルコール禁止令を出すべきだ。
「柚月、水持ってくるから」
 そこをどいて、と言うつもりだったのだ。それが言えなかったのは、至近距離に柚月の綺麗な顔が近づいてきたからだった。
「ゆ、」
 名前を呼ぼうとした瞬間、ふわりと唇に湿った感触。状況を理解した瞬間、ぶわっと全身が火照って、顔から火が出そうになった。それは一瞬だったのかもしれないし、長い時間だったのかもしれない。それがわからないほどに、葵は混乱した。だって、こんなの生まれて初めてだ。つまり、正真正銘のファーストキスなのだ。好きな人とのファーストキス。でも相手は酩酊状態だ。どんな感情を抱いたら良いのかわからないまま、目を丸く開けているしかできない。すると、葵から唇を離した柚月がそっと瞳を覗き込んできた。綺麗な形の目がこんな時でさえ羨ましくて、まるで神聖な世界に迷い込んだかのようにすら感じる。その綺麗な目が、ゆっくりと弧を描いた。
「好きだよ」
 唇に息が触れるほどの至近距離で、一体何を言われたのか。それからトクトクと音を立てる心臓をそのままにその瞳に見惚れていると、もう一度唇があわさる。葵はびっくりしてぎゅっと目を瞑った。啄むようなキスからなかなか解放されなくて、いつの間にか止めた息が苦しい。もう限界と思ったところで、葵は必死で顔を背けた。それと同時にくたりと弛緩した体が凭れかかってくる。はあはあと肩で息をして、息苦しさにじわりと涙が浮かんだ。
 今の、なんだったのだろう。ずっと脅しのように使われていたキスを、たった今本当にしてしまったのだ。トクトクトクと頭にまで響く鼓動がうるさくて、思わず指先で唇に触れた。そこはジンジンと熱を持っているようで、背中がゾワゾワとする。今の、二回という換算だろうか。それとも何度も唇を合わされたから、たくさんという換算になるのだろうか。数えようと思い返してみて、さらに顔が熱くなった。今思い出すなんて我ながら馬鹿だ。それに、きっと柚月は覚えていない。キスをした相手が葵だとも認識していないだろう。もしかしたら、葵のことを春だと思っているのかもしれない。悲しくて苦しくて、でも柚月としたキスだと思うと特別で、葵は悔しくてその感触を消すように唇を手の甲でぐいっと拭った。