葵は必死だった。毎日、毎日、牛乳を飲み続けている。なぜなら、アイドル志望の練習生の中から選抜されるためには、柚月に釣り合う身長がないといけないらしいと聞いたのだ。柚月は高校一年にしてスラリと背が高い。手足も長くて、まだまだ身長は伸び続けているようだ。それに比べて、葵の背丈は柚月と十センチは差がある。それは体感の話だから、もしかしたらその差はもっとかもしれなかった。やはり、食事を蔑ろにしていたから悪かったのだろうか。葵の身長はなかなか伸びる気配がない。
「葵、悪い。これ持っていけるか」
 周の声にハッと我に返った。黙々と皿洗いをしながら考え事をしてしまっていたのだ。今日のアルバイトは平日なのにやけに忙しい。人手が足らず、息をするのも惜しいくらいに動き回っていたところで、皿洗いが休息タイムになっていたのだ。
「はい、今行きます」
 そう返事をしながらなんとか洗い物を引き上げて、エプロンで手を拭う。周に頼まれたのは大皿のレバニラ炒めとアルコールドリンク二杯だ。それをなんとか両手に持って、指定された座敷席に持って行く。漂う湯気まで美味しそうで、匂いだけでも栄養にならないかと、思い切り息を吸い込んだ。今日も賄いタイムが待ち遠しい。
「お待たせしました」
 若いサラリーマンの二人組に配膳すると、彼らは「おお」と嬉しそうに声を上げた。葵が作ったわけでもないのに、喜んでもらえると嬉しい。
「ごゆっくりどうぞ」
 にこりと笑顔を向けると、行儀良く会釈を返してくれた。そんな応対に良い気分のまま厨房に戻ると、どんどんと出来上がっていく料理の配膳を指示されていく。葵はできる限り俊敏に動き回って、なんとか少ない人員を賄おうと一生懸命になった。
「葵、大丈夫か」
 何度目かの厨房と客席の往復の後、周が大量の冷奴用のネギを刻みながら葵に尋ねてきた。周はいつも葵を気にかけてくれるのだ。それがありがたくて頷くと、「ご飯まで後ちょっとだからな」と顔を寄せて囁いてきた。まったく、今月の二十日で葵も十六になるのに、いつまでも子供扱いだ。でもご飯タイムは確かに待ち遠しいから、葵も周に顔を寄せて「今日も楽しみです」と応えた。
 どんどん夜も深まってきた中で、葵は休憩することもできずに駆け回った。大きなトラブルはないものの、やはり客足が途絶えず慌ただしい。しきりに葵を指名して呼んでくるテーブルもあり、それも負担になっていた。
「葵くん、またあのテーブルの人が葵くんを呼んでるの。行ける?」
 葵より五つ年上の真澄という先輩に声をかけられて、なんてことない風を装いながら頷く。二時間ほど前にレバニラを届けてからというものの、サラリーマンの二人組がやたらと葵に絡んでくるのだ。良い感じの人たちだと思ったのに、酒が進むと変わるらしい。
「葵、すぐ帰ってこい。何かあれば大声を出すんだぞ」
「そうよ。もし良ければ一緒に行こうか?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
 周と真澄にそう応えて、内心面倒に思いながら例の座敷席に足を向けた。先ほどから連絡先を教えろだの、隣に座れだの、かなり面倒なのだ。でもアイドルたるもの、ファンには優しくしないといけない。だから覚悟を決めて、一番端の座敷の襖を開いた。
「お呼びですか」
「おお、来た来た。可愛い子ちゃん」
「可愛い君のお名前は?」
 どちらが止めるでもなく、深酒に酔いが回っているようだ。葵は廊下で膝をつきながら、「どんなご用ですか」と尋ねてみた。
「君に会いたいから呼んだんだ。決まってるだろ」
「ほら、隣においで」
「俺の隣だって」
「仕事中ですから。お冷、お持ちしましょうか」
「そんなの良いから、おいで」
 それまで無理に触れてこようとしなかったために油断していた。近い席の男がふらふらと立ち上がったと思ったら、葵に覆い被さってくる。葵が驚きで硬直しているうちに体を引き寄せられて、そのまま座敷に引き摺り込まれた。もう一人の男がそそくさと襖を閉めたものだから、完全なる密室になってしまう。そのことに焦って葵は必死で身を捩った。酔っ払いのくせに力が強くて、抜け出すのにも一苦労だ。
「男の子でも君なら可愛がってあげられるよ」
 そう言って腰に回された手から逃げるように、葵は力一杯拒絶して男たちから離れた。隣の座敷に繋がる襖を背に、体が震える。呼吸が上手くできなくて、頭がガンガンする。
「暴れたって無駄。隣の座敷だって、きっと酔っ払いが騒いでるって思うだけだよ」
「そうそう。大人しくしていたら酷くしないから」
 どうしよう。どうしたらいいのか。必死で考える中で、隣の座敷、という言葉に閃いた。確か隣の座敷はどこかの会社の偉い人だったはずだ。客の身分なんて気にしたことはなかったものの、常識人であると信じたい。
「でも、僕怖い」
 なるべく客を煽るように、葵は小さく震えて見せる。
「怖がってるの?可愛いね」
「だから、ひ、酷くしないって、約束してください」
 そい言いながら、葵はズルズルと畳に座り込んだ。それから震える手で頭に巻いていたバンダナを取り、エプロンの紐を解く。バンダナとエプロンは、近づいてこようとした男たちの頭に目掛けて放り投げた。その間に、Tシャツを捲り上げて腹を出す。葵のその姿に男の一人が葵目掛けて覆い被さってきたところで、葵は襖を思い切り開けた。勢いのままに、隣の座敷へ傾れ込む。年配の男性達が四人、驚いたように葵たちを見下ろしているのを確認して、ここからが渾身の演技だ。
「た、たす、けて……!」
 すでに葵の上から慌てたように男が退いたけれど、葵は目に涙を浮かべて男性達に訴えかける。すると一番通路側にいた男性がハッとしたように「おーい!誰かきてくれ」と廊下へ出て大声を上げた。
 それから数分後、葵は隣の座敷にいた男性たちの一人の背広を肩にかけてもらいながら、なるべくふるふると震え続けた。
「そんな貧相な男の体なんて興味ないですよ」
「じゃあ、なんでこの子はこんなことになっているんだ」
 思いがけず、葵を襲った男達は隣の座敷にいた男性たちと面識があったようだ。いくら言い訳をしても遮られて、先ほどからこっぴどく叱られている。貧相な体なんて、襲っておきながら随分な悪口だ。ムッとしておきながらも、立場を考えてあえて反論はしなかった。
「警察を呼びます」
 駆けつけてそう言った周に、葵は慌てて首を横に振った。本当は是非とも呼んでほしいけれど、葵の将来に傷がつきかねない。
「警察沙汰にしないなら、減俸処分にしよう。この店にも、君にも、絶対近づけさせないから安心してくれるかい」
 髭を蓄えた一番偉い感じの男性にそう言われて、葵は目を伏せながら頷いた。
 葵はひどくショックを受けた。それは決して嘘ではない。怖かったし、本気で震えた。でも同じくらい感じているのは、ある種の高揚感。悪いやつらを懲らしめて、自分の演技力で問題を起こした客を出禁にしたのだ。放っておいたら、きっとこの店の女性達も酷い目に遭っていたかもしれない。だからこれでよかったのだ。
 なるべくしょんぼりした様子を見せながら、賄いのご飯はタッパーに入れてもらった。帰りは周が家まで送ってくれるという。実際元気な葵からしてみたら悪い気がして丁重に断ったものの、周はどうしてもと言って譲ってくれなかった。
 いつもの様に大きな重たいリュックを背負って帰路に着く。隣を歩く周は真剣な顔で前だけをみていた。いつも軽快に話しかけてくる彼のこんな様子は初めてで、葵は思わず周の顔を覗き込んだ。
「周さん?」
「……うん」
「俺のことは気にしないでください」
「……でも、俺がもっと警戒していれば良かったんだ」
「確かに怖かったけど、俺は強いので大丈夫です」
「まだまだ可愛い高校生だろ。それなのに、あんな目に遭わせて」
 本気で落ち込んだ様子の周に、葵はむずむずしてきた。だから、その逞しい腕をそっと掴んで、振り返った周をまっすぐに見つめた。自然と足が止まって、住宅街の中、月明かりに照らされる。
「周さん。良いこと教えてあげます」
「良いこと?」
「俺は球技大会の日、埃だらけの部屋に閉じ込められました」
「閉じ込められたって」
「しかも二階。だから、俺は二階から飛び降りました」
「はあ?もしかして、だからこの前あんなに傷だらけだったのか」
「そうです。全ては目的を果たすために、自分で決めて行動しました」
 そこまで言ったものの、今日のことは素直に話しても良いのかと悩んでしまう。伝わり方次第では、葵の人間性を誤解されそうな気もする。葵は大好きな周に嫌われるのが怖いのだ。でも、本当は墓場まで持っていくつもりだったけれど、この善良な先輩のためにも葵は腹を括った。
「今日のことも、俺は自分で行動しました」
「自分で?」
「襲われそうになったから、自分で服を捲ってやったんです」
「……はあ?」
「脱がされるくらいなら脱いでやろうって。でも脱ぐのは癪だから、捲ってみようって。それで、あの人たちを社会的に終わらせてやろうって思いました」
 ポカリと口を開けた周が、しばらくして吹き出した。気づいたらケラケラと笑って、葵もつられて笑ってしまう。
「だからね、周さんが苦しむことないんですよ。全部、俺の思い通りです」
「はあ、お前は只者じゃないと思っていたけど、本気で侮れないやつなんだな」
「そうです。将来はトップアイドルになる男なので、まともな精神じゃやっていけないんですよ」
 そう言ってウィンクを決めると、葵は周にヘッドロックされた。「うわあ!」ともがいても、体格差のある周からは解放されない。
「葵、もっとご飯食べろよ。俺のヘッドロックくらい、すぐに躱せる様じゃないと」
「あはは!離してくださいって」
「俺が襲っても逃げられるくらいにならないとだぞ」
 周に解放されて頭を雑に撫でられる。葵は目を瞑りながらそれを受け止めて、それから周を見上げた。
「周さんはそんなことしませんよ」
「わからないよ。どうする?」
「襲うって言ったってプロレス技でしょ?勉強しておきます」
 ニッと笑うと、周は呆れたような顔で笑顔を返してくれた。
「心配してくれたお礼に、俺が歌を送ります」
「いきなり?どんな歌」
「最近ずっと練習してる課題曲。恋の歌です」
「……ふーん」
「最近上手くなったんですよ」
「なに、好きな子でもできたのか」
「まあ、それは、秘密ですけど」
 頼まれてもいないのに歌い始めると、周は黙って聴いてくれた。本当に優しくて頼りになる先輩だ。葵の周りには、優しくて頼りになる人が多くいる。春もそうだし、この歌を歌うときにはいつも思い浮かべている柚月もそうだ。ああ、好きだなと思う。大好きで、一緒にいると嬉しくてたまらない。周は先輩で、春は親友。そして柚月は、どうしてなのか特別だ。同じくらい優しいのに、なぜ柚月は特別なのだろう。わからないけれど、それが恋なのかもしれない。葵の歌声が夜空に吸い込まれる。恋を知らなかったあの日の歌より、ずっとよく歌えることが楽しい。ひらひらふわふわ。一生物の片思いでも葵の世界は煌めくのだから、恋って偉大だ。歌いながら周に笑いかけると、彼は優しく微笑み返してくれた。その緩く細められた目がなぜか柚月と重なって見えて、葵は小さく首を傾げたのだった。