土曜日である今日は、五月の最終日だ。高校入学からあっという間の二ヶ月であり、葵にとってはきっと生涯忘れられない二ヶ月になるのだろう。柚月と出会って、弁当を作ってもらって、ドッヂボールの最中に恋に落ちた。我ながら小学生みたいな心の動きに呆れつつ、球技大会のあの日から数日経って思うのは、この恋は絶対に無駄にはならないということだ。実らなくたって、きっと葵の芸に良い影響を与えるはずである。そう思ったのは、あの日から歌を褒められる回数が格段に増えたからだった。
「葵、今日もいい感じだな」
「はい!」
課題曲を一曲歌い終えると、すぐに講師に褒められた。普段あまり褒めない中年男性だから素直に嬉しくて、葵は自然と笑顔になる。
「歌詞の解釈もよくできてるみたいだ。恋の歌は葵にはちょっと早いかと思ったんだけど」
「なんですかそれ。俺だって恋の二つや三つ、ちゃんと経験してますよ」
見栄を張って嘘をついた。本当は一つだけしか知らないけれど、誇張してそう言ってみると、講師は目を丸くしておかしそうに笑った。
「葵、アイドルたるもの恋なんてしないって言ってたのにな」
「片思いならセーフです」
「へえ、片思いしてるのか」
「え?いや、違いますけど」
口を滑らせてしまったことに慌てて取り繕ったけれど、講師はニヤニヤして「へえ、そうかそうか」と繰り返した。
「どんな子が好きなんだ?」
「……別にいいでしょ」
「葵が可愛い感じだから、綺麗な子かな」
ちょっと図星で黙って講師を見上げると、彼は慌てたように顔の前で手を振った。
「悪い、これじゃあセクハラだな。練習するか」
「はい」
「なるべく鮮明に相手を思い描けよ。きっともっと良くなるから」
「……はい」
前奏が流れる間、確かに柚月を思い描く。綺麗でかっこよくて、笑うと可愛い感じになる。甘くて爽やかな良い香りがして、掴みどころがないのに確かに優しい。ドッヂボールで守られなくたって、もしかしたらいつの日か好きになっていたのだろう。流れるように歌い始めると、優しい恋の歌が心に染み入る。ああ、好きだなと思った。途中で誰か部屋に入ってきた気がしたけれど、気にならないほどに集中して歌い続けた。最後の小節を歌い切って、伴奏も終わる。するとその瞬間に、盛大な拍手が沸き上がった。驚いて音のする方を見ると、アイドル志望の練習生たちが数名で固まって手を叩いている。みんなまだ小学生から中学生の幼い練習生たちだ。
「最近の葵はダンスも歌も一味違うからな。みんなで見にきたんだ」
集団の中に紛れたダンス講師がそう言った。嬉しいやら、恥ずかしいやらで、軽く会釈をするとさらに拍手が起こる。
うっかり照れていたら、コンコンと入り口の扉のノックが聞こえてきた。「はい」と歌の講師が返事をすると、扉がゆっくりと開く。そこから現れた人物に、練習生たちは騒然とした。葵も思わず息を呑む。
「おはようございます」
そこにいたのは普段の練習着ではなく、綺麗なベージュのセットアップを着こなした柚月だった。髪型も普段と異なり前髪をあげるようにセットされていて、その綺麗な顔がよく見える。
「柚月か、なんか今日は一味違うな」
「挨拶しないといけないところがあったので」
そんな講師と柚月の話を上の空で聞いていると、柚月がチラリと葵を見た。
「葵くんの歌がすごいって聞いたんです。見学させてもらえますか?」
「だって、葵。どうする?」
講師に尋ねられても、葵はすぐに返答ができなかった。だって、今日の柚月もすごくかっこよくて、どうしても直視できない。でも断るのもおかしいだろうか。
「いいですけど、端にいてね」
「えー、葵くんの近くで聴いてみたいな」
「やだ」
「葵くん」
「恥ずかしい」
顔と胸の辺りがムズムズする。柚月のことを直視できずにいたら、講師が葵の様子を見かねたように端の方に置かれた椅子を指差した。
「葵は片思いの相手を思い浮かべながら歌うから、邪魔するな」
「ちょっと、先生!」
「ははは!嘘だよ、嘘」
信じられないと思いながら講師を睨みつける。講師は「悪い悪い」と口の動きだけで謝ってきた。それからすぐに前奏が流れる。チラリと柚月を見ると、言われた通り部屋の端に置かれた椅子に座って目を瞑っていた。届かないだろうけれど、届けるつもりで歌おう。柚月のことが好きで、その気持ちは隠して生きていくんだよって、その覚悟を持って歌うつもりだ。息を吸い込んで、それから声を音に乗せる。あとは歌の世界に入り込んで、大好きになってしまった男を想像しながら歌い続けた。最後の一小節まで完璧に歌い上げて、それから伴奏も止んだ。すると、もう一度大きな拍手に包まれた。気持ちが良くて「へへ」っと笑うと、講師に頭を撫でられる。
「今の歌が一番良かった。人に見られながらここまで歌い上げるのは、すごいことだぞ」
「はい!」
その言葉が嬉しくて自然と柚月を見ると、彼は拍手をしながらも険しい表情を浮かべていた。こんな優しい曲であんな顔をするだなんて、柚月の心には気持ち良く響かなかったのだろうか。でもすぐにアイドル志望練習生たちがワラワラと駆け寄って来て質問攻めにあってしまい、葵は柚月のことを気にし続けることができなくなってしまったのだった。
それからびっちり練習を重ねて、気がつけば十三時になっていた。葵は慌てて柚月といつも待ち合わせしている二階フロアの端の席に向かった。葵はいまだに柚月に弁当を作ってもらっていた。どうに断ろうと、最終的に丸め込まれてしまうのだ。だからとうに諦めた。せめて、弁当を作ってもらっておいて、待ち合わせに遅れるわけにはいかないだろう。そう思っていたのに、いつもの定位置にはすでに柚月が椅子に座って待っていた。
「柚月、ごめん」
急いで駆け寄っても、葵に背中を向けている柚月はチラリと横目で葵を見ただけだった。様子がおかしい気がしつつ柚月の隣に座ると、彼は黙ったまま保冷バッグを葵に渡してくる。
「柚月?」
いつもなら何か言ってくれるのに、心がキュウっと寂しくなる。
「葵くん、片思いしてるの?」
突然の言葉に、葵は思わず息を呑んだ。それから慌てて首を横に振って、でも嘘はよくないかなと思って、辿々しく一回だけ頷いた。
「誰に」
「誰って、いうか……。普通の人じゃない」
そうだ、柚月は普通ではない。誰からも好かれて、カリスマ性に溢れていて、葵の手には届かない。まるでアイドルだ。ああ、柚月はアイドルなのかとどこか納得して、それなら尚更葵には届かない存在だなと再確認した。
「普通の人じゃないって、芸能人とか?」
「まあ、そんなところ」
葵が目の前にいる柚月を差し置いて脳内に柚月を思い浮かべながら頷くと、柚月は小さく息をついて「なーんだ」と言った。
「葵くんに好きな人がいるのかと思った」
「……うん」
「でも芸能人か」
「……うん」
「まあ、それもあんまり許したくないけど、葵くんにも憧れはあるよね」
話の流れが読めないものの、柚月が急に機嫌を直したから、葵はそのままこくりと頷いた。
気を取り直して、今日も素晴らしく美味しい弁当を柚月と一緒に食べる。
「これも、すごく美味しい。大好き」
葵がスパイスがかかったポテトフライを指さすと、柚月は黙って自分の弁当箱からそれを葵に分けてくれた。
「柚月、悪いよ」
「葵くんに食べて欲しくて作ったんだから、いいんだよ」
柚月って、本当に勘違い人間製造機だ。もしかして葵のことが好きなのではないかと勘違いしてしまいそうになる。心底かっこいいなと思って、でもちょっと恨めしくて柚月を見上げると、彼は優しい目をして葵を見つめていた。ほら、この目だって危険でしかない。
「葵くん、歌も上手なんだね」
「え?ああ、さっきのね。聴いてくれてありがとう」
「惚れ直しちゃった」
「なんだよ、それ」
「俺は一回、葵くんのダンスに惚れてるから」
「嘘、いつ?」
「ずっと前」
そういえば、初めて話した時にダンスが上手だと言われた気がする。柚月に認められた気がしてちょっとにやけてしまう顔を必死で押さえた。
それからしばらくの間他愛のない話をしていたら、柚月が「そうだ」と呟いた。
「今日アイドル志望の新人が入るって知ってる?」
「知らない」
本当に知らなくて首を横に振ると、柚月はニコッと笑った。
「楽しみにしてて。きっと葵くんの刺激になるから。俺が保証する」
「ふーん」
「アイドル志望の中から選抜メンバーを決めるって噂も、知ってる?」
「何それ!知らない!」
「それに選ばれたらきっとデビューに近づくって」
「……そっか。何人くらい選ばれるんだろう」
「確か、五人だか、六人だか、それくらいだったかな」
「ふーん」
葵も来月で十六だ。アイドルになるには早くはないけれど、遅くもない。つまりは適齢だ。むしろ、ここで選抜から漏れたら、夢はかなり遠のくだろう。
「そんな深刻な顔しないよ」
柚月に右頬を優しく摘まれる。その手はすぐに離されたけれど、触れられた部分がじんわり甘く疼いた。
柚月がもしアイドル志望なら、絶対に越えられない存在だっただろう。柚月が俳優志望であることに安心する自分がいて、それが嫌で、でもそんな気持ちを隠すために葵はふわっと柚月に向けて笑って見せた。
「そうそう。葵くんは笑顔がすごく可愛いから、そうやって笑っていなくちゃ」
「俺の笑顔?」
「そうだよ。そのままでも可愛いけど、笑顔が見られたら色んな人が元気になると思うよ」
「そうかな」
「もちろん、俺も元気になる」
真っ直ぐに見つめられてそう言われたら、葵は胸がギュッとなった。好きな人の言葉ほど、心にストレートに届くものはないのだろう。「ありがとう」と応えながら、馬鹿みたいに泣きそうになった。恋って情緒不安定になるところがちょっと嫌かもしれない。でも、恋をしてみなくては分からなかったことだから、これもきっと葵の財産だ。
いつも通り弁当箱を綺麗に空にして、「ごちそうさまでした。本当にありがとう」と伝えると、柚月は嬉しそうに笑って「はい」とだけ言った。
それから水道場で歯磨きをして、荷物をまとめて二人揃って立ち上がる。
「柚月はいつか、大好きな子に弁当を振る舞うんだろうな」
きっとそれは春だろう。大好きな親友の顔が浮かんで、恋敵なのに心がくすぐったくなる。
「うん?」
「その時は自信を持ってご馳走したらいいよ。俺が太鼓判を押すからね」
「……葵くんって、何にも分かってないんだね」
並んで歩きながら、分からないのは柚月の方だと思った。柚月ほどの男なら、葵で練習しなくてもストレートに思いを伝えたらいいのに。春は男というハードルはあるけれど、思いを伝え続けたらきっと上手くいくと思うのだ。そう思いながらアイドル専用のダンス練習室に入ろうとすると、柚月が後をついてきていることに気がついた。
「そういえば柚月、ここになんか用?」
振り返って尋ねると、柚月は葵を見下ろして優しく笑っている。
「柚月?」
「葵くんって、鈍感」
「俺が?」
「さっき、言ったでしょ。新人のアイドル志望が来るって」
「う、うん」
「それ、俺のこと」
一瞬瞬きを忘れて、思わず額に手をあてた。そんなの、想像すらしていなかった。そしてなにより、柚月がアイドル候補だなんて、盛大に困ったことになった。柚月の歌とダンスのスキルはわからないけれど、その容姿は一人でも十分に戦えるほどにずば抜けている。
「柚月、考え直した方がいいよ」
「最初から迷ってたから。アイドルか、俳優か。でもアイドルならどっちもできるでしょ」
「そうかもしれないけど、でも」
「それに葵くんが言ったんだよ」
「お、俺が、なんて?」
「一人で生き抜かないといけないって」
そんなこと言っただろうか。必死で思い返して、球技大会の日のことを思い出した。あの日、保健室で執拗に葵を心配する柚月にそんなことを言ったかもしれない。でも、そのことと柚月がアイドル志望になることがどんな関係があるのだろう。
「同じグループになれば、ずっとそばで守ってあげられるから」
「守る?」
「そう。一人で生き抜くなんて言わせないよ。俺が一緒に頑張る」
それが、柚月にとって何の得になるのだろうか。それがわからずに混乱していると、柚月がふわりと笑顔を見せた。相変わらず魅力たっぷりの煌めくその笑顔に、少しの間見惚れてしまう。
「仲間として、ライバルとして、同志として、よろしく」
仲間、ライバル、同志。当然のように恋心はなさそうだ。そのことに胸が疼いて、でもそれを無視するかのように頷いていた。色々と思うところはあるのに、柚月がアイドルになりたいのなら応援したいと思うのだから不思議だった。それに加えてこれからは、一緒に練習して、一緒に試練を乗り越えて、一緒に笑い合うことができるのだろう。考えたくもないけれど、もしかしたら葵だけ悔しい思いもするかもしれない。それでも柚月と時間を共にできることは、葵にとっては何にも代え難いほど嬉しいことだ。
「さあ、行こうか」
そっと背中を押される。目の前の扉を開けたら、柚月とライバルの世界だ。きっと、葵は選抜メンバーに選ばれてみせる。もしかしたら選抜メンバーの話だって柚月をデビューさせるための口実なのかもしれないけれど、そんな中でも一際努力で輝いて見せよう。葵は覚悟を決めて、ゆっくりとドアノブを握りしめたのだった。
「葵、今日もいい感じだな」
「はい!」
課題曲を一曲歌い終えると、すぐに講師に褒められた。普段あまり褒めない中年男性だから素直に嬉しくて、葵は自然と笑顔になる。
「歌詞の解釈もよくできてるみたいだ。恋の歌は葵にはちょっと早いかと思ったんだけど」
「なんですかそれ。俺だって恋の二つや三つ、ちゃんと経験してますよ」
見栄を張って嘘をついた。本当は一つだけしか知らないけれど、誇張してそう言ってみると、講師は目を丸くしておかしそうに笑った。
「葵、アイドルたるもの恋なんてしないって言ってたのにな」
「片思いならセーフです」
「へえ、片思いしてるのか」
「え?いや、違いますけど」
口を滑らせてしまったことに慌てて取り繕ったけれど、講師はニヤニヤして「へえ、そうかそうか」と繰り返した。
「どんな子が好きなんだ?」
「……別にいいでしょ」
「葵が可愛い感じだから、綺麗な子かな」
ちょっと図星で黙って講師を見上げると、彼は慌てたように顔の前で手を振った。
「悪い、これじゃあセクハラだな。練習するか」
「はい」
「なるべく鮮明に相手を思い描けよ。きっともっと良くなるから」
「……はい」
前奏が流れる間、確かに柚月を思い描く。綺麗でかっこよくて、笑うと可愛い感じになる。甘くて爽やかな良い香りがして、掴みどころがないのに確かに優しい。ドッヂボールで守られなくたって、もしかしたらいつの日か好きになっていたのだろう。流れるように歌い始めると、優しい恋の歌が心に染み入る。ああ、好きだなと思った。途中で誰か部屋に入ってきた気がしたけれど、気にならないほどに集中して歌い続けた。最後の小節を歌い切って、伴奏も終わる。するとその瞬間に、盛大な拍手が沸き上がった。驚いて音のする方を見ると、アイドル志望の練習生たちが数名で固まって手を叩いている。みんなまだ小学生から中学生の幼い練習生たちだ。
「最近の葵はダンスも歌も一味違うからな。みんなで見にきたんだ」
集団の中に紛れたダンス講師がそう言った。嬉しいやら、恥ずかしいやらで、軽く会釈をするとさらに拍手が起こる。
うっかり照れていたら、コンコンと入り口の扉のノックが聞こえてきた。「はい」と歌の講師が返事をすると、扉がゆっくりと開く。そこから現れた人物に、練習生たちは騒然とした。葵も思わず息を呑む。
「おはようございます」
そこにいたのは普段の練習着ではなく、綺麗なベージュのセットアップを着こなした柚月だった。髪型も普段と異なり前髪をあげるようにセットされていて、その綺麗な顔がよく見える。
「柚月か、なんか今日は一味違うな」
「挨拶しないといけないところがあったので」
そんな講師と柚月の話を上の空で聞いていると、柚月がチラリと葵を見た。
「葵くんの歌がすごいって聞いたんです。見学させてもらえますか?」
「だって、葵。どうする?」
講師に尋ねられても、葵はすぐに返答ができなかった。だって、今日の柚月もすごくかっこよくて、どうしても直視できない。でも断るのもおかしいだろうか。
「いいですけど、端にいてね」
「えー、葵くんの近くで聴いてみたいな」
「やだ」
「葵くん」
「恥ずかしい」
顔と胸の辺りがムズムズする。柚月のことを直視できずにいたら、講師が葵の様子を見かねたように端の方に置かれた椅子を指差した。
「葵は片思いの相手を思い浮かべながら歌うから、邪魔するな」
「ちょっと、先生!」
「ははは!嘘だよ、嘘」
信じられないと思いながら講師を睨みつける。講師は「悪い悪い」と口の動きだけで謝ってきた。それからすぐに前奏が流れる。チラリと柚月を見ると、言われた通り部屋の端に置かれた椅子に座って目を瞑っていた。届かないだろうけれど、届けるつもりで歌おう。柚月のことが好きで、その気持ちは隠して生きていくんだよって、その覚悟を持って歌うつもりだ。息を吸い込んで、それから声を音に乗せる。あとは歌の世界に入り込んで、大好きになってしまった男を想像しながら歌い続けた。最後の一小節まで完璧に歌い上げて、それから伴奏も止んだ。すると、もう一度大きな拍手に包まれた。気持ちが良くて「へへ」っと笑うと、講師に頭を撫でられる。
「今の歌が一番良かった。人に見られながらここまで歌い上げるのは、すごいことだぞ」
「はい!」
その言葉が嬉しくて自然と柚月を見ると、彼は拍手をしながらも険しい表情を浮かべていた。こんな優しい曲であんな顔をするだなんて、柚月の心には気持ち良く響かなかったのだろうか。でもすぐにアイドル志望練習生たちがワラワラと駆け寄って来て質問攻めにあってしまい、葵は柚月のことを気にし続けることができなくなってしまったのだった。
それからびっちり練習を重ねて、気がつけば十三時になっていた。葵は慌てて柚月といつも待ち合わせしている二階フロアの端の席に向かった。葵はいまだに柚月に弁当を作ってもらっていた。どうに断ろうと、最終的に丸め込まれてしまうのだ。だからとうに諦めた。せめて、弁当を作ってもらっておいて、待ち合わせに遅れるわけにはいかないだろう。そう思っていたのに、いつもの定位置にはすでに柚月が椅子に座って待っていた。
「柚月、ごめん」
急いで駆け寄っても、葵に背中を向けている柚月はチラリと横目で葵を見ただけだった。様子がおかしい気がしつつ柚月の隣に座ると、彼は黙ったまま保冷バッグを葵に渡してくる。
「柚月?」
いつもなら何か言ってくれるのに、心がキュウっと寂しくなる。
「葵くん、片思いしてるの?」
突然の言葉に、葵は思わず息を呑んだ。それから慌てて首を横に振って、でも嘘はよくないかなと思って、辿々しく一回だけ頷いた。
「誰に」
「誰って、いうか……。普通の人じゃない」
そうだ、柚月は普通ではない。誰からも好かれて、カリスマ性に溢れていて、葵の手には届かない。まるでアイドルだ。ああ、柚月はアイドルなのかとどこか納得して、それなら尚更葵には届かない存在だなと再確認した。
「普通の人じゃないって、芸能人とか?」
「まあ、そんなところ」
葵が目の前にいる柚月を差し置いて脳内に柚月を思い浮かべながら頷くと、柚月は小さく息をついて「なーんだ」と言った。
「葵くんに好きな人がいるのかと思った」
「……うん」
「でも芸能人か」
「……うん」
「まあ、それもあんまり許したくないけど、葵くんにも憧れはあるよね」
話の流れが読めないものの、柚月が急に機嫌を直したから、葵はそのままこくりと頷いた。
気を取り直して、今日も素晴らしく美味しい弁当を柚月と一緒に食べる。
「これも、すごく美味しい。大好き」
葵がスパイスがかかったポテトフライを指さすと、柚月は黙って自分の弁当箱からそれを葵に分けてくれた。
「柚月、悪いよ」
「葵くんに食べて欲しくて作ったんだから、いいんだよ」
柚月って、本当に勘違い人間製造機だ。もしかして葵のことが好きなのではないかと勘違いしてしまいそうになる。心底かっこいいなと思って、でもちょっと恨めしくて柚月を見上げると、彼は優しい目をして葵を見つめていた。ほら、この目だって危険でしかない。
「葵くん、歌も上手なんだね」
「え?ああ、さっきのね。聴いてくれてありがとう」
「惚れ直しちゃった」
「なんだよ、それ」
「俺は一回、葵くんのダンスに惚れてるから」
「嘘、いつ?」
「ずっと前」
そういえば、初めて話した時にダンスが上手だと言われた気がする。柚月に認められた気がしてちょっとにやけてしまう顔を必死で押さえた。
それからしばらくの間他愛のない話をしていたら、柚月が「そうだ」と呟いた。
「今日アイドル志望の新人が入るって知ってる?」
「知らない」
本当に知らなくて首を横に振ると、柚月はニコッと笑った。
「楽しみにしてて。きっと葵くんの刺激になるから。俺が保証する」
「ふーん」
「アイドル志望の中から選抜メンバーを決めるって噂も、知ってる?」
「何それ!知らない!」
「それに選ばれたらきっとデビューに近づくって」
「……そっか。何人くらい選ばれるんだろう」
「確か、五人だか、六人だか、それくらいだったかな」
「ふーん」
葵も来月で十六だ。アイドルになるには早くはないけれど、遅くもない。つまりは適齢だ。むしろ、ここで選抜から漏れたら、夢はかなり遠のくだろう。
「そんな深刻な顔しないよ」
柚月に右頬を優しく摘まれる。その手はすぐに離されたけれど、触れられた部分がじんわり甘く疼いた。
柚月がもしアイドル志望なら、絶対に越えられない存在だっただろう。柚月が俳優志望であることに安心する自分がいて、それが嫌で、でもそんな気持ちを隠すために葵はふわっと柚月に向けて笑って見せた。
「そうそう。葵くんは笑顔がすごく可愛いから、そうやって笑っていなくちゃ」
「俺の笑顔?」
「そうだよ。そのままでも可愛いけど、笑顔が見られたら色んな人が元気になると思うよ」
「そうかな」
「もちろん、俺も元気になる」
真っ直ぐに見つめられてそう言われたら、葵は胸がギュッとなった。好きな人の言葉ほど、心にストレートに届くものはないのだろう。「ありがとう」と応えながら、馬鹿みたいに泣きそうになった。恋って情緒不安定になるところがちょっと嫌かもしれない。でも、恋をしてみなくては分からなかったことだから、これもきっと葵の財産だ。
いつも通り弁当箱を綺麗に空にして、「ごちそうさまでした。本当にありがとう」と伝えると、柚月は嬉しそうに笑って「はい」とだけ言った。
それから水道場で歯磨きをして、荷物をまとめて二人揃って立ち上がる。
「柚月はいつか、大好きな子に弁当を振る舞うんだろうな」
きっとそれは春だろう。大好きな親友の顔が浮かんで、恋敵なのに心がくすぐったくなる。
「うん?」
「その時は自信を持ってご馳走したらいいよ。俺が太鼓判を押すからね」
「……葵くんって、何にも分かってないんだね」
並んで歩きながら、分からないのは柚月の方だと思った。柚月ほどの男なら、葵で練習しなくてもストレートに思いを伝えたらいいのに。春は男というハードルはあるけれど、思いを伝え続けたらきっと上手くいくと思うのだ。そう思いながらアイドル専用のダンス練習室に入ろうとすると、柚月が後をついてきていることに気がついた。
「そういえば柚月、ここになんか用?」
振り返って尋ねると、柚月は葵を見下ろして優しく笑っている。
「柚月?」
「葵くんって、鈍感」
「俺が?」
「さっき、言ったでしょ。新人のアイドル志望が来るって」
「う、うん」
「それ、俺のこと」
一瞬瞬きを忘れて、思わず額に手をあてた。そんなの、想像すらしていなかった。そしてなにより、柚月がアイドル候補だなんて、盛大に困ったことになった。柚月の歌とダンスのスキルはわからないけれど、その容姿は一人でも十分に戦えるほどにずば抜けている。
「柚月、考え直した方がいいよ」
「最初から迷ってたから。アイドルか、俳優か。でもアイドルならどっちもできるでしょ」
「そうかもしれないけど、でも」
「それに葵くんが言ったんだよ」
「お、俺が、なんて?」
「一人で生き抜かないといけないって」
そんなこと言っただろうか。必死で思い返して、球技大会の日のことを思い出した。あの日、保健室で執拗に葵を心配する柚月にそんなことを言ったかもしれない。でも、そのことと柚月がアイドル志望になることがどんな関係があるのだろう。
「同じグループになれば、ずっとそばで守ってあげられるから」
「守る?」
「そう。一人で生き抜くなんて言わせないよ。俺が一緒に頑張る」
それが、柚月にとって何の得になるのだろうか。それがわからずに混乱していると、柚月がふわりと笑顔を見せた。相変わらず魅力たっぷりの煌めくその笑顔に、少しの間見惚れてしまう。
「仲間として、ライバルとして、同志として、よろしく」
仲間、ライバル、同志。当然のように恋心はなさそうだ。そのことに胸が疼いて、でもそれを無視するかのように頷いていた。色々と思うところはあるのに、柚月がアイドルになりたいのなら応援したいと思うのだから不思議だった。それに加えてこれからは、一緒に練習して、一緒に試練を乗り越えて、一緒に笑い合うことができるのだろう。考えたくもないけれど、もしかしたら葵だけ悔しい思いもするかもしれない。それでも柚月と時間を共にできることは、葵にとっては何にも代え難いほど嬉しいことだ。
「さあ、行こうか」
そっと背中を押される。目の前の扉を開けたら、柚月とライバルの世界だ。きっと、葵は選抜メンバーに選ばれてみせる。もしかしたら選抜メンバーの話だって柚月をデビューさせるための口実なのかもしれないけれど、そんな中でも一際努力で輝いて見せよう。葵は覚悟を決めて、ゆっくりとドアノブを握りしめたのだった。



