葵は服を着崩すことがあまり好きではない。特に制服や体操服は規則通りに身につけることが最もかっこいいと思っているのだ。だから今日も体操着の半袖の裾をきっちり半ズボンにしまった姿で校庭に出ていた。青く澄んだ空は雲ひとつなく、太陽は眩しいくらいだ。全校生徒が集まってクラスごとに二列で並んでいるのは、今日が待ちに待った球技大会だからである。開会式が行われる今も校内は年相応にギラギラと闘争心で溢れていた。学年問わず全クラス対抗で行われるこの大会は、優勝すれば様々な特典があるのだ。ほとんどの生徒たちが狙っているのは上位三クラスに与えられる秋のテーマパーク旅行だ。でも、葵が狙っているのは、もっともっと特別な権利だった。
全校生徒によるラジオ体操を最後に開会式が終わると、わらわらと生徒たちが担当競技の開催場所に向っていく。そんな中で、葵よりもずっと後ろの方に並んでいた春が歩み寄ってきた。背の順だと圧倒的な差が生まれるから、少し拗ねた気持ちで春を見上げる。でもすぐに、ニコニコと楽しそうなその姿に毒気を抜かれてしまった。
「葵、目指すは優勝だ」
「当たり前だろ。優勝クラスにしか学食半額券一ヶ月分はないんだから」
学食のランチは普通の生徒からしたら安いのだろう。でも、葵には到底払えるものではなかった。どれも五百円を超えていて、二日食べただけで千円以上になってしまう。そう思ったら食堂へはどうしても足を向けることができなかった。だからこれは大きなチャンスだ。必ずやクラス優勝をしてみせようではないか。
葵がクラスで割り振られたのはバレーボールだ。葵はバレーボールは得意な方だし、長身で運動神経の良い春や柚月がいるから勝ったも同然だろう。三年生に比べたら体格や攻撃力では劣るだろうけれど、学食半額券がかかった今、到底負ける気がしない。そしてクラス対抗のドッヂボールも併せて、是非とも勝ちにこだわりたいところだ。
葵が春と体育館に向けて歩いていたら、後ろから優しく右肩を叩かれた。ふわりと振り返ると、相変わらず息を呑むほどに美しい顔がそこにある。
「柚月」
葵が名前を呼ぶだけで嬉しそうに微笑むのだから、本当におかしな男だ。でも、葵は柚月の少しおかしなところが結構好きだったりする。葵といると楽しそうなところも、葵のために弁当を作るところも、ちょっと変で可愛いのだ。
「葵くん、丸山くん。俺たち、第一試合らしいよ」
「嘘、マジで。まだジャンプの調子が悪いんだけどな」
春が歩きながら大ジャンプをする様子が心底羨ましい。そのうち太陽に届きそうなほど、葵には到達できないずっと高い位置まで手が届くのだ。でも羨ましがっているだけでは、何も手に入らない。葵の身長ではブロックができないから、それを抜けて叩き落とされた球を必死で拾うつもりだ。
三人で体育館へ入ると、すでにコートでは数人の生徒たちがウォーミングアップしていた。恐らく第一試合の敵チームだろう。体つきからして三年生であることが一目でわかった。
葵たちも体を解して、審判の合図で一列に並んで礼をする。持ち場に着いて敵チームと対峙すると、彼らが余計に大きく感じられた。
最初のサーブは柚月だ。柚月は練習で何度サーブを打っても絶対に外さなかった。ここぞという時こそ決めるから、たかが学校行事でも圧倒的なスター性を感じられる。
「頑張れ」
チームメイトに紛れながら葵が声を出すと、柚月はチラリと葵を見て一つ頷いた。笛の音と共に勢いの良いサーブが相手コートに突き刺さる。あっという間の一点に、葵は笑顔で柚月を振り向いた。
「柚月!このままいけ」
相手チームから受け取ったボールをポンポンと弾ませながら、柚月が葵に頷く。それからほとんど柚月だけの手柄で、葵のクラスは第一試合に完全勝利した。
礼を終えて柚月に駆け寄り、顔から柚月の胸に突っ込んで強制的に勝利のハグを交わす。顔をあげると、柚月は目を見開いて葵を見下ろしていた。そこで少し冷静になる。興奮しすぎて、第一試合なのに優勝並のハグをしてしまった。慌てて身を離したと思ったら、今度は柚月から腕を引かれ、そのままぎゅっと抱きしめられる。
「葵くん。俺、頑張ったでしょ」
「うん。偉いぞ」
ポンポンと背中を軽く叩きながら褒めると、余計に抱きしめる力が強くなった。甘くて爽やかな香りは、柚月から香っているのだろうか。男前は匂いまで良いのだから羨ましい。
「葵くんは、綿菓子みたいな香りがするんだね」
なんとなく首元を嗅がれている気配に多少の羞恥心を感じてしまう。
「綿菓子って、そんな坊やみたいな匂い?」
なんだか納得がいかなくて柚月に尋ねると、柚月は「葵くんの香り、大好きだな」と言った。
それからとんとん拍子で勝ち進み、葵たちはバレーボールの決勝戦に挑むことになった。ここまできたのだから、絶対に負けることはできない。
「春、柚月、絶対に勝つぞ」
肩を回しながら隣に並ぶ春と柚月にそう言うと、右側にいる柚月がくすりと吹き出した。
「葵くん、本当にバレーが好きなんだね」
「いや、葵は学食半額券が欲しいだけだよ」
「え?」
春の言葉に柚月が戸惑う気配。こうしてバラされると非常に気まずいなと思った。だって、ニ週間ほど前のあの日から、柚月は一日も休まずに葵に弁当を作ってくれているのだ。毎日工夫が凝らされて様々なメニューで構成された弁当は、いつもとびきり美味しい。思い返してみれば、夕食以外はほとんど毎食柚月に世話になっているくらいなのだ。つまり、葵は柚月によって生かされていると言っても過言ではない状態だった。誰に言われなくてもわかっている。いつまでもこのままという訳にはいかない。一食一食いただく度に、柚月に対して借りが溜まっていく。あんなに豪華な弁当をお金で換算するなんてできないけれど、仮に一食につき千円だとしても、すでに返済できないほどの借金を抱えている気分だ。だから多少裏切りに思われても、葵は学食半額券を手に入れなければならない。
柚月を見上げると、彼は眉尻を下げて葵を窺うように見ている。
「俺の弁当、そんなに美味しくない?」
思いがけない言葉に、葵は目を丸くしてブンブンと首を横に振った。
「そ、そんな訳ないよ!すごく美味しい。だから、余計に申し訳なくて」
きっと毎朝必要以上に早く起きているはずだ。申し訳ない気持ちと、強い引け目も感じている。でも同時に、柚月の弁当はもう食べられなくなると思うとすごく悲しいのも本心だ。弁当のおかげで毎日体調が良く、最近ではダンスも歌も講師によく褒められる。勉強を頑張る力も湧くし、委員会や運動も全力で取り組むことができるのだ。全部全部、柚月のおかげだ。だからこそ、柚月と同じように眉尻を下げてその顔を見上げた。
「今までありがとう。柚月に迷惑をかけないために、俺は頑張るんだ」
「じゃあ俺は頑張らない」
「え?」
一瞬何を言われたのかわからず、思わず首を傾げた。なんでも真面目に器用にこなす柚月が、頑張らないと言っただろうか。事務所での鍛錬も怠らず、中間テストの成績も廊下に貼り出されるほど良かった柚月が、たった今頑張らないと言ったように聞こえた。思わずパチパチと瞬きをして柚月を見ていると、彼は氷のように冷たい表情で斜め下の床あたりを睨みつけた。
「頑張らないの?どうして?」
「頑張ったら、葵くんが俺のお弁当を食べなくなるから」
「だって、お弁当作るの大変だろ?俺だって豆腐とかもやしとか料理するからわかるんだよ」
「俺のお弁当より、豆腐とか、もやしとか、やたら白いものが好きなんだね」
「違うってば。柚月」
「もう葵くんなんて知らない」
「うぅ……」
ふいっと明後日の方を向かれてしまえば顔を覗き込むこともできない。春を振り返ってみても、自分でどうにかしろと口の動きで伝えられただけだった。高校に上がって初めての喧嘩だ。喧嘩というよりは一方的に怒らせたようだけれど、心細くて悲しい気持ちが胸を締め付ける。
「……柚月」
自分でも心許ない声が出て、余計に不安になってしまう。でも、何か怒らせるような勘違いをさせてしまったのだと思うと、どうにかして弁解したい。葵は柚月の左手を両手で掬いっとった。柚月がぴくりと反応した気がしたけれど、結局そっぽを向いたまま葵の方は見てくれない。
「柚月、なんか、ごめんな。俺は柚月のお弁当が大好きで、柚月に生かされてるよ」
「……」
「本当だよ。でも、もらってばかりは申し訳なくて、何もできない自分が嫌になるんだ」
「……」
「だから、もしこの試合で勝ったら」
勝ったら、どうしようか。言いながら何も考えていなくて、慌てて頭をフル回転するけれど、何も浮かばない。とりあえず柚月の手を握りしめていたら、柚月が大きく溜息をついた。それから葵に向き直る。冷たい表情は鳴りを潜めて、優しい目で葵を見下ろした。
「わかったよ。この試合に勝ったらさ、葵くんの大事なもの、ちょうだい」
「大事なもの?」
「うん。約束してくれる?」
「う、うん。あげる!大事なもの」
声高らかに宣言したものの、大事なものってなんだろうか。真っ先に思い浮かんだ大事なものは、もちろん学食半額券だ。まだ手に入ってすらいないけれど、命と家族の次くらいに大事な学食半額券。仮に手に入れても結局葵のものにならないと思うと、随分と儚いものだ。
柚月が葵の手を解いて、それから右手で葵の頬をさらりと撫でた。
「それなら頑張るよ」
葵に向かってそれだけ言うと、背中を向けて行ってしまう。表情も、仕草も、まるで映画の一場面のようだ。世界一綺麗な顔に憂いをのせて、お揃いの体操服姿であることを忘れるほどに煌めいて見えた。
ぽやんとコートに向かう柚月の後ろ姿を眺めていたら、春が焦ったように葵の肩を叩いた。
「葵、あんな約束していいのか!?」
「あんなって?」
「大事なものって、それって、親友のことじゃないのか?」
「親友……」
そう呟いてから、ハッと春を見上げた。いや、そんなわけないか。春をあげてどうなるというのだろう。でも、と考える、そういえば、柚月の弁当を食べている時、隣には必ずと言って良いほど春がいた。春とは事務所が異なるから、柚月と二人きりだったのは休日の事務所練習の時くらいだろう。葵が一生懸命弁当を食べる傍ら、柚月はいつも春の言葉に笑っていたかもしれない。
「柚月、俺のことが好きなのか。嫌われてはいないと思ってたけど、まさか俺にラブだとは」
「ラブ?」
「あんな宣言までして、つまりは恋だろ」
「こ、恋!?」
「シーッ!声がでかい」
好きって、男友達として好きなわけではないのか。つまり、それ以上に柚月は春のことが好き。まさか、ありえないと思ったけれど、そういえば葵は恋愛においては初心者もいいところなのだ。多少疑問ではあるけれど、部外者の葵なんかより、好かれている春の感覚が正しいだろう。葵が謎の展開にドキドキしていたら、春は葵に顔を寄せてきた。それから得意げにニヤリと笑ってみせる。
「それか、葵の貞操だな」
「てい、そう?」
「この言葉、知らないの?」
「うん、なにそれ」
「ははは!まあ、もうちょっと大人になればわかるよ」
春は四月生まれだからって、こうやって葵を子供扱いすることがある。思わず葵がむくれると、春は余計に楽しそうに笑って、「可愛いやつ」と言った。
バレーボールの最終試合はなかなかラリーが途切れないことも多く、見事な接戦だった。そんな時に頼りになったのは、やはり柚月だ。柚月にサーブの順番が回ると、そこでしばらく点を稼いでくれる。その間に体力を温存して、葵はコートの中を駆け回り、転がりながらボールを拾い続けた。最後は柚月のアタックで点差を広げ、葵たちのクラスは無事に勝利を収めることができたのだった。
葵はあまりの嬉しさにチームメイトたちとハグをして喜びを分かち合った。そうして一番最後に近づいたのは、厳しい表情で試合を続けていた柚月だ。戸惑う葵に対して、柚月は葵を見つめると表情を緩めつつ両手を広げてくる。それからふわりと体を包まれた。第一試合の時に比べたらずっと手加減したハグだ。それなのにこんなにもドキドキしてしまうのは、柚月は春に恋をしていると知ってしまったからだろう。知ってしまった今になると、柚月にとって葵とのハグが嫌悪感を感じるものだったらどうしようとか、男に恋をするとはどんな気分なのだろうかとか、余計なことをたくさん考えてしまう。
「葵くん」
「は、はい」
名前を呼ぶ声に反射で体を離そうとすると、背中に回った手にギュッと力が入る。
「約束、覚えてるよね」
耳元で囁かれた声に、体がびくりと跳ねる。柚月の声は、その顔と同じく甘く綺麗で柔らかい。つまりはすごく良い声だ。そんな素敵な声で囁かれるとふにゃふにゃになりそうになるけれど、今はそれどころではないのだ。葵の大事なものをあげるというあの約束は、大事なものが何かわからないままに取り交わしたものだ。当然、春のことだなんて思わなかった。無責任に交わしてしまったから、どうか無効ということにしてくれないだろうか。もうこの際、勝手になかったことにしてしまったらどうなるだろう。
「約束は、お、覚えてない」
存外に小さな声しか出なかったけれど、しっかりと言い切った。少しの沈黙の後、柚月がゆっくりと体を離す。恐る恐るその顔を見上げると、きゅっと悲しそうな顔をしていた。そこでふと思い立った。柚月が春を好きならば、本来親友である葵の許可なんていらないのだ。それをわざわざこうしてお伺いを立ててくれるということは、柚月は誠実な男だという証拠だろう。春だってひょうきんだからつい忘れてしまうだけで、スラリとした男前なのだ。素敵な恋をして、大人の男になる権利がある。それが全てわかった上で胸がこんなにモヤつくのは、やはり親友である春に恋人ができたところを想像すると寂しいからだろうか。
「じゃあ、もう一回言うよ。総合優勝したらでいい。もし優勝したら」
柚月の発言に身構える。次こそ春のことをくださいと言うつもりだろう。色々な気持ちはあるけれど、こんなに男前で、優しくて、誠実な柚月なら、親友として十分に春を任せられると思う。だから柚月を真っ直ぐ見上げて、「うん」と頷いた。
「葵くんにキスしていい?」
「……え?」
「ほっぺに、一回」
「俺の?」
「そう」
「え、でも」
「絶対に優勝しようね」
反論したいのに、真剣な顔で頬をさらりと撫でられたら葵は惚けることしかできなかった。ああ、最高にかっこよくて、綺麗で、ずるい。
「とりあえずはお昼だよ。ほら、一緒に行こう」
自然に左手を取られて繋がれる。柚月の手は大きくて温かいなと思った。それと同時に思ったのは、柚月は男である春のことが好きだから、葵と手を繋ぐことくらいなんてことないのだろうということだ。そして、葵の頬にキスをするくらい、少しも難しくないのだろう。でもそこで疑問なのは、どうして春ではなく葵の頬なのだろう。
「俺のほっぺ、に、どうして、キ、キスするの」
自分は一体何を言っているのかと恥ずかしくなりながらそう聞くと、柚月がちらりと葵を振り返った。
「そんなの、練習に決まってるでしょ。本番のための練習」
練習、と口の中で呟いて、それからすぐに葵は理解した。つまり、葵は練習台ということなのだろう。本命の春のために、葵で練習するということだ。とんでもない男だと思ったけれど、それが葵にできる恩返しならするしかないだろう。見ようによっては、柚月は一途に春を思う真っ直ぐな男なのかもしれない。
柚月の噂は校内で絶えることがない。良い噂の他に、追っかけの女子が発生するほどにモテているとか、校内にファンクラブがあるほど男にも人気だとか、伝説のような話がたくさんあった。柚月に手を引かれながら考える。このモテ男は、きっと本命に一途な慎重派なのだろう。この提案を受けるのが葵だからまだ良かった。柚月に恋心を抱く人間相手だったら危ないところだっただろう。つまり、葵は柚月の恋を応援する上で最適なのだ。余計なことは考えずに恋の練習台になって、柚月のために全力を尽くさなくてはならない。もしかして、葵に作る弁当も本当は春へ向けたアピールだったりするだろうか。きっとそうだ。どうして気が付かなかったのだろう。今後はもっと春にもわかるように柚月特製弁当の良さをアピールしよう。
葵は教室へ向かう間、繋がれた手をそのままに必死で考えていた。だから、呆れ顔の春と、その他の怪しい視線が突き刺さっていることに、全く気が付かなかったのだった。
「わあ、これも、美味しいなあ」
弁当に入っていたミートボールを食べてから葵が大きな声でそう言うと、隣に座った春が吹き出した。いつもと同じくベランダに横並びに座って、葵は柚月の弁当、春は売店のデラックス弁当を食べている。春と反対側に座る柚月も、いつもより挙動不審な葵を見て面白そうに笑った。
「わかったよ。美味くて良かったな」
そう言った春に対してヤキモキしてしまう。全く、この男は本当に分からず屋だ。大体、どうしていつも葵が真ん中に座っているのだろう。自然とこの構成になるのだから、葵には不思議だった。
「はい、どうぞ」
柚月が自分の弁当箱からミートボールを一つわけてくれた。わあ、と嬉しくなってから、あれ、と首を傾げる。確かにミートボールは絶品だけれど、強奪したかったわけではないのだ。柚月が作る弁当の素晴らしさを春にアピールしたかったのに、思わぬ結果になってしまった。とりあえずは、与えられたそれをありがたく食べる。濃い味付けがジュワッと美味しくて最高だ。
いつも通り完食をして、手を合わせる。結局いつもと同じく美味しく味わっただけだけれど、春に美味しさは伝わっただろうか。
「春」
「おう、どうした」
「お弁当、本当に美味しかったよ」
葵がそう伝えると、春は訝しげな表情を隠しもしない。
「それは俺に言ってね」
そう言った柚月を振り返ると、嬉しそうに口角を上げている。葵が春へ弁当をアピールしたことが嬉しいのだろう。目的を確かに果たせたことに少しホッとした。
「松本くん」
柚月にお礼を言いながら弁当箱を返していたら、教室の方から突然名前を呼ばれた。振り返ると、そこには知らない生徒が窓枠から葵を見下ろしていた。可愛らしい顔立ちは、さすがこの高校の生徒だろう。
「はい」
「僕は二年の高松」
「こんにちは」
「ちょっとこっちに来られる?」
有無も言わせない様子に慌てて立ち上がると、高松はくるりと葵に背を向けて教室から出ていく。これは、ついてこいと言うことだろうか。
「遅くなるようなら校庭に行ってるからな」
春の言葉に振り返って頷く。その時視界に入った柚月は、冷たくて硬い表情をしていた気がした。
高松について行った先は、北校舎の二階にある視聴覚室だった。何に使うのかもわからないこの部屋は、埃臭くて誰も寄せ付けない雰囲気がある。
「おい」
葵の少し前にいる高松の大声に、葵はびくりと体を揺らした。と思ったら、部屋の奥の扉が勢いよく開いて、大柄な男たちが五名ほど飛び出してくる。そして葵があっけに取られていると瞬く間に囲まれて、担ぎ上げられてしまった。
「うわあっ」
胴上げの要領で男たちが出てきた扉の奥まで運ばれたと思ったら、突然床に放り投げられた。そんなに高い位置から落とされたわけではなかったのだろうけれど、地面に転がった瞬間に肩口を打って息が詰まる。痛みに悶えている間に男たちは室外に出て行って、すごい勢いで扉が閉まった。その瞬間にぶわりと埃が舞って、思わず咳き込む。
「どうしてこんなことになっているかわかるよね」
室外から高松の声が聞こえてきた。全然わかりません、と言いたいのに、埃を吸い込んだのか咳が止まらない。
「柊木柚月だよ」
「こほ、こほ」
「柊木柚月は僕のなんだ。身の程を知らないと痛い目に遭うって、わからせてあげる」
その言葉と足音を最後に、静かになった。咳も徐々に落ち着いて、涙目になりながらも周囲を見回す。ここはきっと、視聴覚準備室だ。上手く身動きが取れないほど狭くて、窓の方には汚れた白いカーテンが閉まっているために随分と薄暗い。古くなった木製の椅子がたくさん積まれており、突き当たりの棚には書物などがずらりと並んでいた。この部屋の構造を理解してわかったのは、こんなところ少しも居たくないということだ。埃まみれで喉にも悪いだろう。そして何より、葵はこれから学食半額券がかかったドッヂボールをしなければならないのだ。ついでに柚月の恋も応援しないといけない。
狭い空間をなんとか移動して、扉の前まで近づいた。ドアノブに手をかけ、押しても引いてもびくともしない。まあ、そうだろうなと思った。きっと高松は葵を閉じ込めて懲らしめようと思ったのだろう。スターである柚月の周りにいて目障りだから、身の程を知らないから、こんなことになっているのだ。でも、幼い頃からアイドルを目指してきた身としては、あまり珍しいことではなかった。女の子みたいな顔を揶揄われたこともあるし、今みたいに痴情のもつれに勝手に巻き込まれて散々な目に遭ったこともある。その中でもこれはかなり緊急事態な方だけれど、葵はいたって冷静だった。アイドルは、妬みも活力に変えるくらいでないといけない。自分を鼓舞するために大きく頷いて、今度はカーテンをめくって窓際へ出た。鍵は内から開けられるとして、問題はどうやって出るかだ。窓の向こうはベランダもないし、これは少し困った。とりあえず窓を開けてみて、外へ顔を覗かせる。見下ろしてみると、一階の庇があることに気がついた。あそこに足がつけば、ああなって、こうなって、きっと地面まで降りられるだろう。雑な想像でシミュレーションをして、「よし」と覚悟を決めた。
松本葵は、春の親友だった。大きな目につんと尖った鼻、小さな唇は全体的に少女のような可憐な印象を受ける。色白で甘栗色の髪は柔らかくて、つまりは非常に可愛い男の子なのだ。真面目で一生懸命で、少し変わっているところも可愛らしい。体操服の半袖を半ズボンにしっかりしまっている生徒なんて、クラスでは葵くらいだろう。
そんな葵のことを、柊木柚月は非常に好きらしい。その好きは弁当を作りたいほどの好きなのだ。柊木柚月ほどの男がこんなに尽くしていることは、学校中の噂になっているほどだった。
葵は全人類に好かれそうな容姿と飾らない性格をした男だから、好きになる気持ちはわからなくもない。でも、葵を少し突いてみたら柚月の気持ちに全く気が付いてなくて、春は面白いんだか苦しいのだか、複雑な気持ちになった。
「葵、いないね」
春はキョロリと周囲を見回した。隣には険しい表情の柚月がいて、春よりもずっと必死に校庭中を見つめている。春と柚月は葵を探しているのだ。高松とかいう二年に連れて行かれてから、すでに二十分ほどは経っているだろう。教室でギリギリまで待っていても葵は帰ってこなかったために、二人でこうして校庭に出てみたのだ。
「柊木くん、高松先輩のこと知ってたの?」
気になっていたことを聞いてみると、柚月はちらりと春を見て、こくりと頷いた。
「何回か告白されてる」
「何回か?すごい執念だな」
「でも、俺好きな人いるから断ってる」
「知ってる。葵だろ」
目を丸くして驚いた様子の柚月を視界の端にとらえながら、なんとなく状況を理解した。告白を断られている高松と、柚月に異様に好かれていると有名な葵。恋愛が絡むと人は恐ろしくなると聞くから、すごく嫌な予感がする。
「柚月くん」
その声に振り返ると、そこにはたった今思い浮かべていた高松が柚月を見上げていた。可愛い顔に怪しげな笑みを浮かべて、少し気味が悪い。
「……葵くんは?」
「なんのこと?」
白々しいその様子に、柚月が苛立つのを感じる。春もそれは同じで、高松を問い詰めようと一歩前へ出たその時だった。
「春、柚月」
確かに聞こえたその声のする方を見遣る。校舎の方からゆっくりと歩いてくるのは、確かに葵だった。
「葵!」
春が彼の名前を呼んで駆け寄るより先に、無言の柚月が葵に走り寄って、そのままぎゅっとその体を抱きしめた。今日何回目かの光景に、思わず小さな溜息がこぼれる。あれで思いが通じていないのだから、一生このまま進展のない二人だったらどうしようか。
「いてて!」
葵が痛がるほど強く抱きしめているのかと呆れていたら、柚月が慌てたように体を離した。
「葵くん、その怪我どうしたの?」
「怪我?」
春が近づいて観察してみると、確かに顔以外全身傷だらけだ。血が出ていない擦り傷や打撲も合わせるとパッと見た様子より酷い怪我に見える。
「詳しい話は後でするよ。それよりドッヂボールだ」
「それより保健室だよ」
「保健室なんて行かないよ」
抵抗する葵の手を引いていく柚月と目配せをして、春が代表して高松を振り返る。高松は不貞腐れた表情で溜息をついた。
「残念。失敗しちゃった」
「葵に何したんですか?」
「ちょっと懲らしめようとしただけ」
「なんで?」
「だって、松本葵の分際で柊木柚月に好かれるなんて納得がいかないから」
「でも葵を傷つけた柊木に嫌われますよ」
「松本葵が柊木柚月から離れたら僕は満足なんだ。松本葵と距離を置けば、柊木柚月もきっと僕を好きになる」
「それはどうですかね」
正直な気持ちが口をついて出た。すると高松はギュッと眉間に皺を寄せて、春の考えを真っ向から否定するつもりのようだ。恋は人をおかしくさせるのだなと、ぼんやりと思った。きっと何を言っても聞く耳を持たないだろう。だから、本当はめちゃくちゃ嫌だけれど、嫉妬の矛先が葵に向かないための奥の手だ。
「柚月は、俺と付き合ってるんですよね」
「……は?」
目と口をポカリと開けた高松に対して、春は大真面目に頷いてみせた。春だって、こう見えて俳優志望だ。わりと有名な事務所で演技のレッスンも受けているから、今こそ練習の成果を見せる時だ。
「まじまじ、本当っす」
「そんなわけあるか」
「そういうことですから。じゃあ」
そう言って、そそくさと高松に背を向ける。演技は得意だけど、嘘は苦手なことを忘れていた。口元がひくついて危ないところだった。
歩き始めて少ししたところで振り返ると、高松は大柄の男たちとなにやら話している様子だ。春はそこでピンときた。いつだったか噂を聞いたことがあった。柚月を取り巻く環境は複雑で、親衛隊のような存在までいるらしいという話だ。恐らく高松もその一人なのだろう。とりあえずは適当な嘘で誤魔化したけれど、きっとすぐに本当のことがバレてしまうはずだ。くっつくならさっさとくっつけば良いのに。そして高松の心も開放してあげて欲しい。正直高松のことはどうでもいいけれど、くっついてくれたら何かと都合が良いと思うのだ。もだもだと恋が進展すらしない柚月と葵に色々と面倒になりながら、春は二人がいるはずの保健室に向かった。
ベランダの方から近づいてみると、汚れた体操服を着た葵背中と、そんな葵の膝のあたりを手当する柚月の様子が見えた。きっと酷い傷には絆創膏を貼っているのだろう。真剣な眼差しがちらりと葵を見上げて、それから優しく緩められた。葵がまた何か変わったことを言ったのかもしれない。邪魔したら悪いかなと思いつつ、春は鍵のかかっていない出窓から保健室に侵入した。
「葵、大丈夫か?」
声をかけると葵が春を振り返る。大きな目は相変わらず澄んでいて、悪意に晒された後とは思えないほど綺麗だ。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょ。閉じ込められて、二階から飛び降りたんだって」
「はあ?本気ですか」
柚月から教えられた情報に心底驚いていると、葵は平然とした顔で頷いた。
「降りられそうだから降りただけ。途中で無理かと思ったけど、案外人間って丈夫なんだな。ほら、顔は無傷」
「葵は本当、無茶するな」
とりあえずは無事だったことを喜ぶべきだろうか。溜息をつきながら柚月に視線を向けると、彼は表現するならば悔しそうな顔で葵を見つめていた。
「葵くん」
「ん?」
柚月の方を向いてしまったからその表情は見えないけれど、きっといつも通り無垢な顔をしているのだろう。
「葵くん、ごめんね」
「なんで柚月が謝るの?」
「だって、俺のせいだ。俺が上手く立ち回らなかったから」
俯き気味で本気で落ち込んでいる様子に、真面目な男だなと思う。確かに柚月の立場ならそうなる気持ちはわかるけれど、落ち込んだって何も解決しないだろう。それとなくそう伝えようとした時、柚月がふっと顔を上げた。そして葵のことを真っ直ぐに見つめる。
「これからは、俺に守らせてくれる?」
わお、とも言わず、ピューッと口笛も吹かなかったことを褒めてほしい。真剣は柚月は、春でさえも色々な語彙を用いて褒めたくなるほどの男前だ。本来が美しいのに、まるでここが保健室とは思えないほどの世界観を、その表情とセリフだけで作り出している。
「葵くんのこと、ずっと近くで守りたいんだ」
念を押すように声を絞り出した柚月に、よくぞ言ったと褒めてやりたくなった。でも邪魔をするわけにはいかないと黙ったまま、今度は葵に視線を移してみる。後ろ姿からは何もわからないものの、いつものように背筋が伸びて、今日も自分自身をしっかりと持っているようだ。
「柚月」
「うん」
「俺は、柚月に守って貰わなくても大丈夫。だって、俺は強いから」
「でも、今日みたいに葵くんが傷ついたらと思うと、怖いんだ」
「俺はへっちゃらだよ。だって、将来アイドルになるんだから、これくらいで怖がっていられない」
「アイドルってそんなに危険なの?」
「危険というか、覚悟が必要だろ。だって、国民の恋人になるんだから」
そういえば、いつか言っていたかもしれない。アイドルはみんなの恋人だから、今までの人生では恋人を作ろうとも思ったことがないのだとか。すごいプロ意識だ。でも、柚月の恋の行方はどうなるのだろうか。こんなに本気で好きなのに、望みがないだなんて可哀想だ。春としては親友である葵の幸せが一番だけれど、柚月だって良いやつだから幸せになってほしい。それに、何かと普通の感性で生きていない葵が、つかみどころがない割に常識的で思いやりのある柚月とくっついてくれたら安心でもあるのだ。そんな春の心中を全く察せず、葵は柚月の顔を覗き込むようにいつの間にかアイドル論を語っている。
「アイドルたるもの、二階から飛び降りるくらいできないと。いつ演技の仕事が来るかわからないからね」
「お願いだから、そういう仕事はスタントマンを雇ってね」
「嫉妬も向けられるよ。だってアイドルなんだもん」
「そういうものからも、俺は葵くんを守りたいよ」
「それはありがとう。でも、俺は一人で生き抜かなくちゃいけないんだ」
話は平行線で、春の方がヤキモキしてくる。柚月は案外忍耐強い。そこも頑固な葵によく合うと思う。
「じゃあ、俺はどうしようか?」
「柚月?柚月はそのままでいて良いよ。みんなに好かれて、優しい柚月でいな」
「葵くんのためにできることはないの?」
「……それなら、一個ある」
「なあに?」
葵はなぜだか春をチラリと振り返った。それから目を合わせてこくりと大きく頷いてくる。それが示す意味が全くわからなくて春が声をかけようとした時には、葵はすでに柚月に向き合ってまるで重大なことを話す前のように息を吸い込んでいた。
「柚月、キスはほっぺでもなんでも、好きな子としな」
「え?うん」
戸惑ったように、でも当然という風に頷いだ柚月に構わず、葵は続ける。
「柚月のためになら、俺は練習台にもなるよ。でも、初めてはちゃんと好きな人としなくちゃ」
話の前後関係は謎だけれど、むず痒い話を真剣にしているその様子が相変わらずの葵で愛おしい。だから、意味はわからないなりに援護射撃を試みる。
「そうだ、そうだ。好きな子とするもんだ」
「そうそう。春だって、好きって言われたら嬉しいよね」
「俺?そりゃ嬉しいけど、なんで俺?まあ嬉しいけど」
春が反応に困りながら葵に返すと、葵は春を振り返って優しく微笑んだ。一体なんのつもりだろう。でも、好きだの何だのといった話を聞いて思い出した。葵のためにも大事なことだから、柚月にきちんと言っておかないといけない。
「そうだ、柊木くん」
眉尻を下げて話の成り行きを見守っていた様子の柚月が、そのままの表情で春を見た。こんな状態の柚月に伝えるのは可哀想だけれど、仕方がない。
「悪いけど、高松って人に嘘言っちゃった。俺と柊木くんが付き合ってるって」
「……は?」
一瞬にして形成されたその表情は、まるで信じられない、酷いじゃないか、勘弁してくれ、などなどといった複雑な気持ちがない交ぜになっているように見える。そんな顔をされると、春だってちょっと傷つく。でも、葵を守るためだと説明したら、きっと納得してくれると思うのだ。ただ、葵がいる今その話をするのも気が引けるなと思っていたら、葵がポソッと呟いた。
「それは、嘘ってことで良いのか?」
まるで名探偵のように口元に手をあてた葵は、何かを考えているようだ。
「いや、どう考えても嘘だろ」
春がそう言っても、まるで聞いていない。葵が集中するといつもこうだからなと思いつつ、春は突き刺さる柚月の鋭い視線を軽く躱したのだった。
「間に合って良かった」
ふう、と息をつきながらコートに入る。今から葵たちのクラスのドッヂボール初戦だ。柚月に念入りに傷の手当てをしてもらったおかげで、うっかり間に合わないかもしれないところだった。非常にありがたいけれど、柚月は少し心配性がすぎるようだ。多分、心配性だから痩せ細った葵にお弁当を作ってくれてもいるのだろう。春へのアピールだけではないのかもしれない。恋をしながらも葵を救うなんて、器用で徳の高い男だ。
ホイッスルと共にボールが高く上がって、背の高い柚月が葵のコートに叩き落とした。そのボールを春が受け止めて思い切り投げると、敵チームの一人に一瞬であたった。
「おお、すごい」
葵が褒めると、春は得意げにウィンクをして、それから真面目に外野に回ったボールを見据える。真剣な春はかっこいい。柚月が好きになってしまった気持ちがわかる気がする。
チームで一番張り切っている葵、それから春と柚月の活躍でどんどん相手チームの人数が減っていき、気がついたら一回戦は圧勝していたのだった。
それからすぐにトーナメントで勝ち上がってきたクラス同士の二回戦が始まって、それもほとんど苦しまずに勝利することができた。
そしてあっという間に決勝戦。決勝にもなると、今までの余裕な勝利が嘘のようだ。春が投げても、柚月が投げても、相手チームの大柄な男が受け止めてしまう。コート内の仲間はどんどん減っていって、今日一番危機的状況だ。そんな状況の中、葵は肩と膝に違和感を感じていた。実は初戦からずっとおかしいなと思っていたのだ。肩は確かに強く打っていたし、二階から飛び降りた時に足もダメージを負ったのだろう。勘弁してくれと思いながら、敵チームから飛んできたボールを受け止める。嫌だなと思いながらできる限り高くボールを上げて、外野へ向けて投げた。そのはずだったのに、思ったより威力が弱くなってしまったボールは、敵の大柄な男に軽々と受け止められてしまった。最悪だなと思った瞬間には、男は葵目掛けて思い切りボールを振り翳していた。あれがあたったら負けに近づいてしまう。それに絶対に痛いだろうなと思うのに、足が動かなくて体を捩るのがやっとだ。絶対にあたるとなと、覚悟を決めて目を瞑った。
ところがその瞬間、腕を強く引かれて、あたたかさに包まれた。ふわりと甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。抱きしめられているのだと理解して見上げると、柚月が葵を見下ろして甘く微笑んでいた。
「葵くんのことは俺が守ってあげるって言ったでしょ」
急に早くなった鼓動はどうしてだろうか。気づいた時には体を離されて、敵の外野から回ってきたボールを柚月が受け止めていた。それを思い切り投げたと思ったら、先ほど葵を狙った大柄な男に見事あてたのだった。観衆から大きな拍手と歓声が届く。その音さえ、葵には一枚膜を隔てて聞こえてきた。葵の世界は俊敏に動く柚月しか鮮明に見えなくて、その姿がキラキラと煌めいて眩しい。
ホイッスルの音を聞きながら、あれほどこだわっていた勝ち負けのことなんて一つも考えなかった。その代わりに葵の脳内を支配していたのは、柚月を見るだけでトクトクと高鳴る鼓動の意味だ。アイドルになるために観た映画、たくさん聞いた歌、そこによく登場する恋の描写と瓜二つのこの気持ち。もしかしてたった今、葵は恋に落ちたのだろうか。
ただ、これが本当に恋だとしたら、全く納得がいかない。まさかドッヂボールをきっかけに胸をときめかせるだなんて、感性が究極に小学生ではないか。しかも相手は春に恋する柚月だなんて、親友を巻き込んだドロドロの三角関係にも程がある。
「葵、惜しかったな」
その声にゆっくり振り返ると、春が悔しそうな顔で葵を見下ろしていた。頷きたいのに上手くできなくてぼんやりその顔を見上げていたら、春は困惑したように葵の目を覗き込んだ。
「葵?大丈夫か」
「葵くん?」
横から柚月まで登場して、二人で葵を見つめてくる。葵は気が遠くなった。葵はこの男に恋をして、こちらの男は親友で、こっちの男は親友が好きで、もしかしたら親友もこっちの男のことが好きで。すっかりぐちゃぐちゃになった相関図を図にしようと、葵はしゃがみこんだ。それから人差し指で校庭の砂に絵を描いていく。
「なんか、天才数学者みたいなことしてる」
「葵くん、どうしたの?」
二人の声にも応えられなかった。だって、図にしながら序盤で気がついてしまったのだ。この相関図で唯一誰からも矢印が向いていない存在。柚月は春が好きで、そして春は柚月と恋人だと嘘までついた男だ。柚月のことが嫌いなわけないだろう。つまり、柚月のことが好きな葵は、すっかり蚊帳の外ということだ。
パッと上を見上げると、二人が不思議そうに葵を見ていた。柚月はもちろん、春だって当然の様にかっこいい。一緒にいることが多くて忘れがちだけれど、綺麗な顔立をしているのだ。そして性格まで良いとなると、この葵に出る幕はないだろう。
葵は自分に自信がある。大抵のことは努力でなんとかしてきたし、実際になんとかなってきた。それなのに、十六になる前にこんな難問にぶつかるとは。全く勝ち目もなく、勝負すらできそうにないこの展開に、葵は思わず青く透き通った天を仰いだ。
学食半額券にテーマパーク旅行。そのどちらも手にしたのは、思いがけず葵のクラスだった。全ての競技の総得点が一番になり、総合優勝したのだ。閉会式で発表されたその結果にクラスメイトたちが一同に喜ぶなか、葵は気分が悪くてぼんやりしていた。
教室に戻る間も上の空で、玄関の段差でつまづいたところを支えてくれたのは柚月だった。柚月の香りに思わず振り返ってその顔を見上げると、ひどく心配そうな顔をしている。
「葵くん、どうしたの?」
「いや、どうもしないよ」
「嘘だ。なんかおかしいよ」
葵を見つめるその目に心の奥まで見透かされそうで、怖くなってそれとなく柚月の腕から逃げ出した。
「本当に、大丈夫」
そう言いながらそそくさと靴を履き替える。そのまま急いで廊下へ向けて歩き出したところで、後ろから腕を引っ張られた。驚いている間に目の前に柚月が回り込んでくる。少し冷静に物事を考えたいところなのに、少しばかり放っておいてくれないだろうか。でもそれは葵のわがままだと思い至ってさらに気分が悪くなったところで、柚月の右手が葵の左頬にそっと添えられた。そういうの、勘違いしてしまうからやめた方がいい。きちんと言ってやろうとその目を覗き込むと、葵が余計なことを言い出せないほどに柚月は真剣だった。
「葵くん」
「ん?」
「ごめん」
「……何が?」
「ほっぺだって、嫌だよね」
気を落としたようにそう言われると、葵は何も言えなくなってしまう。優勝したらほっぺにキス宣言をされた時と今では、葵の心が異なるのだ。もしかしたらあの時だって柚月のことは好きだったのかもしれないけれど、気持ちが湧き上がったのはつい先ほどだ。だから、あの時も今も本心では嫌ではないのだろう。
「葵くん、学食半額券に喜んで良いんだよ」
「うん」
「キスはしないから、安心して」
「……うん」
少し残念に思うなんて、浅ましい自分が嫌になる。そのキスだって、春の身代わりなのだ。ただの練習台で、葵に対して特別な気持ちなんてないのはわかっている。それなのにこんな気持ちを抱く自分が情けないなと思った。
「でも、お弁当は作り続けるからね」
「……え?」
「学食よりずっと満足させてみせるから」
ふわりと体を包まれると、葵の鼓動は素直にトクトクと速くなった。今日何回目かのハグだ。柚月への気持ちに気がついた今、心が湧き立って、でも悲しくて、苦しい。
「お、何やってんの?俺も参加しよ」
後ろから春の声が聞こえてきて、葵の背後から覆い被さってくる。ああ、きっと柚月は嬉しいだろう。春からは柔軟剤の香りがして、それがすごく彼らしいと思った。
その後のホームルームでは念願の学食半額券が配布された。嬉しいけれど、これは悩みの種だ。柚月がお弁当を作ってくれるのなら、葵はその厚意を甘んじて受け続けたい。それが本心だ。でも、こうやって学食半額券が手に入った今こそ、弁当を断るチャンスなのかもしれない。それが柚月のためだと思った。
ホームルームが終わって、教室がガヤガヤと騒がしくなった。とりあえず、気持ちを切り替えて今日も事務所でダンスと歌の練習だ。気合いを入れていたら、後ろの席の春にぽんぽんと肩を叩かれる。ぎこちなく振り返ると、春が学食半額券をひらひらと葵の前で泳がせた。
「これ、いる?」
いるかと言われたら、当然喉から手が出るほど欲しい。でもこれはお金と同じ価値があると思うと、易々と頷くことはできない。
「遠慮しなくていいよ。俺の、あげる」
「でも悪い」
「良いって。でも、柚月には内緒な」
「なんで?」
「お前に弁当を作る気満々なのに気を悪くするだろ。この券は葵のお守り。有効期限はないし、使っても使わなくても構わないから」
そう言って手渡されたそれを、気がつけば受け取ってしまっていた。弁当の唐揚げもそうだけれど、春から与えられるものは無条件に受け取ってしまうのだから不思議だった。春はそういう特殊能力があるのだろう。
「ありがとう。でも、学食が食べたくなったら教えてね。ちゃんと財布に入れておくから」
「うん」
クラスメイトと話している様子の柚月に隠れて、学食半額券を財布にしまい込む。いざという時に使えると思うと、なんだか心が安定する気がする。
多分、春は葵の恋敵になるのだろう。それなのに、相変わらず春のことが好きなのだから、葵は我ながら頑固で素直だ。もしかしてそれほど柚月のことは好きではないのだろうか。恋だと思ったこれは、もしかしたら勘違いなのかもしれない。どうかお願いだからそうだったらいい。もう一度柚月に視線を送ると、クラスメイトと話し終わった彼と目が合った。途端にふわりと微笑まれる。その笑顔がどうしてか苦しそうで、それはまるで葵の心と繋がっているように思えたのだった。
全校生徒によるラジオ体操を最後に開会式が終わると、わらわらと生徒たちが担当競技の開催場所に向っていく。そんな中で、葵よりもずっと後ろの方に並んでいた春が歩み寄ってきた。背の順だと圧倒的な差が生まれるから、少し拗ねた気持ちで春を見上げる。でもすぐに、ニコニコと楽しそうなその姿に毒気を抜かれてしまった。
「葵、目指すは優勝だ」
「当たり前だろ。優勝クラスにしか学食半額券一ヶ月分はないんだから」
学食のランチは普通の生徒からしたら安いのだろう。でも、葵には到底払えるものではなかった。どれも五百円を超えていて、二日食べただけで千円以上になってしまう。そう思ったら食堂へはどうしても足を向けることができなかった。だからこれは大きなチャンスだ。必ずやクラス優勝をしてみせようではないか。
葵がクラスで割り振られたのはバレーボールだ。葵はバレーボールは得意な方だし、長身で運動神経の良い春や柚月がいるから勝ったも同然だろう。三年生に比べたら体格や攻撃力では劣るだろうけれど、学食半額券がかかった今、到底負ける気がしない。そしてクラス対抗のドッヂボールも併せて、是非とも勝ちにこだわりたいところだ。
葵が春と体育館に向けて歩いていたら、後ろから優しく右肩を叩かれた。ふわりと振り返ると、相変わらず息を呑むほどに美しい顔がそこにある。
「柚月」
葵が名前を呼ぶだけで嬉しそうに微笑むのだから、本当におかしな男だ。でも、葵は柚月の少しおかしなところが結構好きだったりする。葵といると楽しそうなところも、葵のために弁当を作るところも、ちょっと変で可愛いのだ。
「葵くん、丸山くん。俺たち、第一試合らしいよ」
「嘘、マジで。まだジャンプの調子が悪いんだけどな」
春が歩きながら大ジャンプをする様子が心底羨ましい。そのうち太陽に届きそうなほど、葵には到達できないずっと高い位置まで手が届くのだ。でも羨ましがっているだけでは、何も手に入らない。葵の身長ではブロックができないから、それを抜けて叩き落とされた球を必死で拾うつもりだ。
三人で体育館へ入ると、すでにコートでは数人の生徒たちがウォーミングアップしていた。恐らく第一試合の敵チームだろう。体つきからして三年生であることが一目でわかった。
葵たちも体を解して、審判の合図で一列に並んで礼をする。持ち場に着いて敵チームと対峙すると、彼らが余計に大きく感じられた。
最初のサーブは柚月だ。柚月は練習で何度サーブを打っても絶対に外さなかった。ここぞという時こそ決めるから、たかが学校行事でも圧倒的なスター性を感じられる。
「頑張れ」
チームメイトに紛れながら葵が声を出すと、柚月はチラリと葵を見て一つ頷いた。笛の音と共に勢いの良いサーブが相手コートに突き刺さる。あっという間の一点に、葵は笑顔で柚月を振り向いた。
「柚月!このままいけ」
相手チームから受け取ったボールをポンポンと弾ませながら、柚月が葵に頷く。それからほとんど柚月だけの手柄で、葵のクラスは第一試合に完全勝利した。
礼を終えて柚月に駆け寄り、顔から柚月の胸に突っ込んで強制的に勝利のハグを交わす。顔をあげると、柚月は目を見開いて葵を見下ろしていた。そこで少し冷静になる。興奮しすぎて、第一試合なのに優勝並のハグをしてしまった。慌てて身を離したと思ったら、今度は柚月から腕を引かれ、そのままぎゅっと抱きしめられる。
「葵くん。俺、頑張ったでしょ」
「うん。偉いぞ」
ポンポンと背中を軽く叩きながら褒めると、余計に抱きしめる力が強くなった。甘くて爽やかな香りは、柚月から香っているのだろうか。男前は匂いまで良いのだから羨ましい。
「葵くんは、綿菓子みたいな香りがするんだね」
なんとなく首元を嗅がれている気配に多少の羞恥心を感じてしまう。
「綿菓子って、そんな坊やみたいな匂い?」
なんだか納得がいかなくて柚月に尋ねると、柚月は「葵くんの香り、大好きだな」と言った。
それからとんとん拍子で勝ち進み、葵たちはバレーボールの決勝戦に挑むことになった。ここまできたのだから、絶対に負けることはできない。
「春、柚月、絶対に勝つぞ」
肩を回しながら隣に並ぶ春と柚月にそう言うと、右側にいる柚月がくすりと吹き出した。
「葵くん、本当にバレーが好きなんだね」
「いや、葵は学食半額券が欲しいだけだよ」
「え?」
春の言葉に柚月が戸惑う気配。こうしてバラされると非常に気まずいなと思った。だって、ニ週間ほど前のあの日から、柚月は一日も休まずに葵に弁当を作ってくれているのだ。毎日工夫が凝らされて様々なメニューで構成された弁当は、いつもとびきり美味しい。思い返してみれば、夕食以外はほとんど毎食柚月に世話になっているくらいなのだ。つまり、葵は柚月によって生かされていると言っても過言ではない状態だった。誰に言われなくてもわかっている。いつまでもこのままという訳にはいかない。一食一食いただく度に、柚月に対して借りが溜まっていく。あんなに豪華な弁当をお金で換算するなんてできないけれど、仮に一食につき千円だとしても、すでに返済できないほどの借金を抱えている気分だ。だから多少裏切りに思われても、葵は学食半額券を手に入れなければならない。
柚月を見上げると、彼は眉尻を下げて葵を窺うように見ている。
「俺の弁当、そんなに美味しくない?」
思いがけない言葉に、葵は目を丸くしてブンブンと首を横に振った。
「そ、そんな訳ないよ!すごく美味しい。だから、余計に申し訳なくて」
きっと毎朝必要以上に早く起きているはずだ。申し訳ない気持ちと、強い引け目も感じている。でも同時に、柚月の弁当はもう食べられなくなると思うとすごく悲しいのも本心だ。弁当のおかげで毎日体調が良く、最近ではダンスも歌も講師によく褒められる。勉強を頑張る力も湧くし、委員会や運動も全力で取り組むことができるのだ。全部全部、柚月のおかげだ。だからこそ、柚月と同じように眉尻を下げてその顔を見上げた。
「今までありがとう。柚月に迷惑をかけないために、俺は頑張るんだ」
「じゃあ俺は頑張らない」
「え?」
一瞬何を言われたのかわからず、思わず首を傾げた。なんでも真面目に器用にこなす柚月が、頑張らないと言っただろうか。事務所での鍛錬も怠らず、中間テストの成績も廊下に貼り出されるほど良かった柚月が、たった今頑張らないと言ったように聞こえた。思わずパチパチと瞬きをして柚月を見ていると、彼は氷のように冷たい表情で斜め下の床あたりを睨みつけた。
「頑張らないの?どうして?」
「頑張ったら、葵くんが俺のお弁当を食べなくなるから」
「だって、お弁当作るの大変だろ?俺だって豆腐とかもやしとか料理するからわかるんだよ」
「俺のお弁当より、豆腐とか、もやしとか、やたら白いものが好きなんだね」
「違うってば。柚月」
「もう葵くんなんて知らない」
「うぅ……」
ふいっと明後日の方を向かれてしまえば顔を覗き込むこともできない。春を振り返ってみても、自分でどうにかしろと口の動きで伝えられただけだった。高校に上がって初めての喧嘩だ。喧嘩というよりは一方的に怒らせたようだけれど、心細くて悲しい気持ちが胸を締め付ける。
「……柚月」
自分でも心許ない声が出て、余計に不安になってしまう。でも、何か怒らせるような勘違いをさせてしまったのだと思うと、どうにかして弁解したい。葵は柚月の左手を両手で掬いっとった。柚月がぴくりと反応した気がしたけれど、結局そっぽを向いたまま葵の方は見てくれない。
「柚月、なんか、ごめんな。俺は柚月のお弁当が大好きで、柚月に生かされてるよ」
「……」
「本当だよ。でも、もらってばかりは申し訳なくて、何もできない自分が嫌になるんだ」
「……」
「だから、もしこの試合で勝ったら」
勝ったら、どうしようか。言いながら何も考えていなくて、慌てて頭をフル回転するけれど、何も浮かばない。とりあえず柚月の手を握りしめていたら、柚月が大きく溜息をついた。それから葵に向き直る。冷たい表情は鳴りを潜めて、優しい目で葵を見下ろした。
「わかったよ。この試合に勝ったらさ、葵くんの大事なもの、ちょうだい」
「大事なもの?」
「うん。約束してくれる?」
「う、うん。あげる!大事なもの」
声高らかに宣言したものの、大事なものってなんだろうか。真っ先に思い浮かんだ大事なものは、もちろん学食半額券だ。まだ手に入ってすらいないけれど、命と家族の次くらいに大事な学食半額券。仮に手に入れても結局葵のものにならないと思うと、随分と儚いものだ。
柚月が葵の手を解いて、それから右手で葵の頬をさらりと撫でた。
「それなら頑張るよ」
葵に向かってそれだけ言うと、背中を向けて行ってしまう。表情も、仕草も、まるで映画の一場面のようだ。世界一綺麗な顔に憂いをのせて、お揃いの体操服姿であることを忘れるほどに煌めいて見えた。
ぽやんとコートに向かう柚月の後ろ姿を眺めていたら、春が焦ったように葵の肩を叩いた。
「葵、あんな約束していいのか!?」
「あんなって?」
「大事なものって、それって、親友のことじゃないのか?」
「親友……」
そう呟いてから、ハッと春を見上げた。いや、そんなわけないか。春をあげてどうなるというのだろう。でも、と考える、そういえば、柚月の弁当を食べている時、隣には必ずと言って良いほど春がいた。春とは事務所が異なるから、柚月と二人きりだったのは休日の事務所練習の時くらいだろう。葵が一生懸命弁当を食べる傍ら、柚月はいつも春の言葉に笑っていたかもしれない。
「柚月、俺のことが好きなのか。嫌われてはいないと思ってたけど、まさか俺にラブだとは」
「ラブ?」
「あんな宣言までして、つまりは恋だろ」
「こ、恋!?」
「シーッ!声がでかい」
好きって、男友達として好きなわけではないのか。つまり、それ以上に柚月は春のことが好き。まさか、ありえないと思ったけれど、そういえば葵は恋愛においては初心者もいいところなのだ。多少疑問ではあるけれど、部外者の葵なんかより、好かれている春の感覚が正しいだろう。葵が謎の展開にドキドキしていたら、春は葵に顔を寄せてきた。それから得意げにニヤリと笑ってみせる。
「それか、葵の貞操だな」
「てい、そう?」
「この言葉、知らないの?」
「うん、なにそれ」
「ははは!まあ、もうちょっと大人になればわかるよ」
春は四月生まれだからって、こうやって葵を子供扱いすることがある。思わず葵がむくれると、春は余計に楽しそうに笑って、「可愛いやつ」と言った。
バレーボールの最終試合はなかなかラリーが途切れないことも多く、見事な接戦だった。そんな時に頼りになったのは、やはり柚月だ。柚月にサーブの順番が回ると、そこでしばらく点を稼いでくれる。その間に体力を温存して、葵はコートの中を駆け回り、転がりながらボールを拾い続けた。最後は柚月のアタックで点差を広げ、葵たちのクラスは無事に勝利を収めることができたのだった。
葵はあまりの嬉しさにチームメイトたちとハグをして喜びを分かち合った。そうして一番最後に近づいたのは、厳しい表情で試合を続けていた柚月だ。戸惑う葵に対して、柚月は葵を見つめると表情を緩めつつ両手を広げてくる。それからふわりと体を包まれた。第一試合の時に比べたらずっと手加減したハグだ。それなのにこんなにもドキドキしてしまうのは、柚月は春に恋をしていると知ってしまったからだろう。知ってしまった今になると、柚月にとって葵とのハグが嫌悪感を感じるものだったらどうしようとか、男に恋をするとはどんな気分なのだろうかとか、余計なことをたくさん考えてしまう。
「葵くん」
「は、はい」
名前を呼ぶ声に反射で体を離そうとすると、背中に回った手にギュッと力が入る。
「約束、覚えてるよね」
耳元で囁かれた声に、体がびくりと跳ねる。柚月の声は、その顔と同じく甘く綺麗で柔らかい。つまりはすごく良い声だ。そんな素敵な声で囁かれるとふにゃふにゃになりそうになるけれど、今はそれどころではないのだ。葵の大事なものをあげるというあの約束は、大事なものが何かわからないままに取り交わしたものだ。当然、春のことだなんて思わなかった。無責任に交わしてしまったから、どうか無効ということにしてくれないだろうか。もうこの際、勝手になかったことにしてしまったらどうなるだろう。
「約束は、お、覚えてない」
存外に小さな声しか出なかったけれど、しっかりと言い切った。少しの沈黙の後、柚月がゆっくりと体を離す。恐る恐るその顔を見上げると、きゅっと悲しそうな顔をしていた。そこでふと思い立った。柚月が春を好きならば、本来親友である葵の許可なんていらないのだ。それをわざわざこうしてお伺いを立ててくれるということは、柚月は誠実な男だという証拠だろう。春だってひょうきんだからつい忘れてしまうだけで、スラリとした男前なのだ。素敵な恋をして、大人の男になる権利がある。それが全てわかった上で胸がこんなにモヤつくのは、やはり親友である春に恋人ができたところを想像すると寂しいからだろうか。
「じゃあ、もう一回言うよ。総合優勝したらでいい。もし優勝したら」
柚月の発言に身構える。次こそ春のことをくださいと言うつもりだろう。色々な気持ちはあるけれど、こんなに男前で、優しくて、誠実な柚月なら、親友として十分に春を任せられると思う。だから柚月を真っ直ぐ見上げて、「うん」と頷いた。
「葵くんにキスしていい?」
「……え?」
「ほっぺに、一回」
「俺の?」
「そう」
「え、でも」
「絶対に優勝しようね」
反論したいのに、真剣な顔で頬をさらりと撫でられたら葵は惚けることしかできなかった。ああ、最高にかっこよくて、綺麗で、ずるい。
「とりあえずはお昼だよ。ほら、一緒に行こう」
自然に左手を取られて繋がれる。柚月の手は大きくて温かいなと思った。それと同時に思ったのは、柚月は男である春のことが好きだから、葵と手を繋ぐことくらいなんてことないのだろうということだ。そして、葵の頬にキスをするくらい、少しも難しくないのだろう。でもそこで疑問なのは、どうして春ではなく葵の頬なのだろう。
「俺のほっぺ、に、どうして、キ、キスするの」
自分は一体何を言っているのかと恥ずかしくなりながらそう聞くと、柚月がちらりと葵を振り返った。
「そんなの、練習に決まってるでしょ。本番のための練習」
練習、と口の中で呟いて、それからすぐに葵は理解した。つまり、葵は練習台ということなのだろう。本命の春のために、葵で練習するということだ。とんでもない男だと思ったけれど、それが葵にできる恩返しならするしかないだろう。見ようによっては、柚月は一途に春を思う真っ直ぐな男なのかもしれない。
柚月の噂は校内で絶えることがない。良い噂の他に、追っかけの女子が発生するほどにモテているとか、校内にファンクラブがあるほど男にも人気だとか、伝説のような話がたくさんあった。柚月に手を引かれながら考える。このモテ男は、きっと本命に一途な慎重派なのだろう。この提案を受けるのが葵だからまだ良かった。柚月に恋心を抱く人間相手だったら危ないところだっただろう。つまり、葵は柚月の恋を応援する上で最適なのだ。余計なことは考えずに恋の練習台になって、柚月のために全力を尽くさなくてはならない。もしかして、葵に作る弁当も本当は春へ向けたアピールだったりするだろうか。きっとそうだ。どうして気が付かなかったのだろう。今後はもっと春にもわかるように柚月特製弁当の良さをアピールしよう。
葵は教室へ向かう間、繋がれた手をそのままに必死で考えていた。だから、呆れ顔の春と、その他の怪しい視線が突き刺さっていることに、全く気が付かなかったのだった。
「わあ、これも、美味しいなあ」
弁当に入っていたミートボールを食べてから葵が大きな声でそう言うと、隣に座った春が吹き出した。いつもと同じくベランダに横並びに座って、葵は柚月の弁当、春は売店のデラックス弁当を食べている。春と反対側に座る柚月も、いつもより挙動不審な葵を見て面白そうに笑った。
「わかったよ。美味くて良かったな」
そう言った春に対してヤキモキしてしまう。全く、この男は本当に分からず屋だ。大体、どうしていつも葵が真ん中に座っているのだろう。自然とこの構成になるのだから、葵には不思議だった。
「はい、どうぞ」
柚月が自分の弁当箱からミートボールを一つわけてくれた。わあ、と嬉しくなってから、あれ、と首を傾げる。確かにミートボールは絶品だけれど、強奪したかったわけではないのだ。柚月が作る弁当の素晴らしさを春にアピールしたかったのに、思わぬ結果になってしまった。とりあえずは、与えられたそれをありがたく食べる。濃い味付けがジュワッと美味しくて最高だ。
いつも通り完食をして、手を合わせる。結局いつもと同じく美味しく味わっただけだけれど、春に美味しさは伝わっただろうか。
「春」
「おう、どうした」
「お弁当、本当に美味しかったよ」
葵がそう伝えると、春は訝しげな表情を隠しもしない。
「それは俺に言ってね」
そう言った柚月を振り返ると、嬉しそうに口角を上げている。葵が春へ弁当をアピールしたことが嬉しいのだろう。目的を確かに果たせたことに少しホッとした。
「松本くん」
柚月にお礼を言いながら弁当箱を返していたら、教室の方から突然名前を呼ばれた。振り返ると、そこには知らない生徒が窓枠から葵を見下ろしていた。可愛らしい顔立ちは、さすがこの高校の生徒だろう。
「はい」
「僕は二年の高松」
「こんにちは」
「ちょっとこっちに来られる?」
有無も言わせない様子に慌てて立ち上がると、高松はくるりと葵に背を向けて教室から出ていく。これは、ついてこいと言うことだろうか。
「遅くなるようなら校庭に行ってるからな」
春の言葉に振り返って頷く。その時視界に入った柚月は、冷たくて硬い表情をしていた気がした。
高松について行った先は、北校舎の二階にある視聴覚室だった。何に使うのかもわからないこの部屋は、埃臭くて誰も寄せ付けない雰囲気がある。
「おい」
葵の少し前にいる高松の大声に、葵はびくりと体を揺らした。と思ったら、部屋の奥の扉が勢いよく開いて、大柄な男たちが五名ほど飛び出してくる。そして葵があっけに取られていると瞬く間に囲まれて、担ぎ上げられてしまった。
「うわあっ」
胴上げの要領で男たちが出てきた扉の奥まで運ばれたと思ったら、突然床に放り投げられた。そんなに高い位置から落とされたわけではなかったのだろうけれど、地面に転がった瞬間に肩口を打って息が詰まる。痛みに悶えている間に男たちは室外に出て行って、すごい勢いで扉が閉まった。その瞬間にぶわりと埃が舞って、思わず咳き込む。
「どうしてこんなことになっているかわかるよね」
室外から高松の声が聞こえてきた。全然わかりません、と言いたいのに、埃を吸い込んだのか咳が止まらない。
「柊木柚月だよ」
「こほ、こほ」
「柊木柚月は僕のなんだ。身の程を知らないと痛い目に遭うって、わからせてあげる」
その言葉と足音を最後に、静かになった。咳も徐々に落ち着いて、涙目になりながらも周囲を見回す。ここはきっと、視聴覚準備室だ。上手く身動きが取れないほど狭くて、窓の方には汚れた白いカーテンが閉まっているために随分と薄暗い。古くなった木製の椅子がたくさん積まれており、突き当たりの棚には書物などがずらりと並んでいた。この部屋の構造を理解してわかったのは、こんなところ少しも居たくないということだ。埃まみれで喉にも悪いだろう。そして何より、葵はこれから学食半額券がかかったドッヂボールをしなければならないのだ。ついでに柚月の恋も応援しないといけない。
狭い空間をなんとか移動して、扉の前まで近づいた。ドアノブに手をかけ、押しても引いてもびくともしない。まあ、そうだろうなと思った。きっと高松は葵を閉じ込めて懲らしめようと思ったのだろう。スターである柚月の周りにいて目障りだから、身の程を知らないから、こんなことになっているのだ。でも、幼い頃からアイドルを目指してきた身としては、あまり珍しいことではなかった。女の子みたいな顔を揶揄われたこともあるし、今みたいに痴情のもつれに勝手に巻き込まれて散々な目に遭ったこともある。その中でもこれはかなり緊急事態な方だけれど、葵はいたって冷静だった。アイドルは、妬みも活力に変えるくらいでないといけない。自分を鼓舞するために大きく頷いて、今度はカーテンをめくって窓際へ出た。鍵は内から開けられるとして、問題はどうやって出るかだ。窓の向こうはベランダもないし、これは少し困った。とりあえず窓を開けてみて、外へ顔を覗かせる。見下ろしてみると、一階の庇があることに気がついた。あそこに足がつけば、ああなって、こうなって、きっと地面まで降りられるだろう。雑な想像でシミュレーションをして、「よし」と覚悟を決めた。
松本葵は、春の親友だった。大きな目につんと尖った鼻、小さな唇は全体的に少女のような可憐な印象を受ける。色白で甘栗色の髪は柔らかくて、つまりは非常に可愛い男の子なのだ。真面目で一生懸命で、少し変わっているところも可愛らしい。体操服の半袖を半ズボンにしっかりしまっている生徒なんて、クラスでは葵くらいだろう。
そんな葵のことを、柊木柚月は非常に好きらしい。その好きは弁当を作りたいほどの好きなのだ。柊木柚月ほどの男がこんなに尽くしていることは、学校中の噂になっているほどだった。
葵は全人類に好かれそうな容姿と飾らない性格をした男だから、好きになる気持ちはわからなくもない。でも、葵を少し突いてみたら柚月の気持ちに全く気が付いてなくて、春は面白いんだか苦しいのだか、複雑な気持ちになった。
「葵、いないね」
春はキョロリと周囲を見回した。隣には険しい表情の柚月がいて、春よりもずっと必死に校庭中を見つめている。春と柚月は葵を探しているのだ。高松とかいう二年に連れて行かれてから、すでに二十分ほどは経っているだろう。教室でギリギリまで待っていても葵は帰ってこなかったために、二人でこうして校庭に出てみたのだ。
「柊木くん、高松先輩のこと知ってたの?」
気になっていたことを聞いてみると、柚月はちらりと春を見て、こくりと頷いた。
「何回か告白されてる」
「何回か?すごい執念だな」
「でも、俺好きな人いるから断ってる」
「知ってる。葵だろ」
目を丸くして驚いた様子の柚月を視界の端にとらえながら、なんとなく状況を理解した。告白を断られている高松と、柚月に異様に好かれていると有名な葵。恋愛が絡むと人は恐ろしくなると聞くから、すごく嫌な予感がする。
「柚月くん」
その声に振り返ると、そこにはたった今思い浮かべていた高松が柚月を見上げていた。可愛い顔に怪しげな笑みを浮かべて、少し気味が悪い。
「……葵くんは?」
「なんのこと?」
白々しいその様子に、柚月が苛立つのを感じる。春もそれは同じで、高松を問い詰めようと一歩前へ出たその時だった。
「春、柚月」
確かに聞こえたその声のする方を見遣る。校舎の方からゆっくりと歩いてくるのは、確かに葵だった。
「葵!」
春が彼の名前を呼んで駆け寄るより先に、無言の柚月が葵に走り寄って、そのままぎゅっとその体を抱きしめた。今日何回目かの光景に、思わず小さな溜息がこぼれる。あれで思いが通じていないのだから、一生このまま進展のない二人だったらどうしようか。
「いてて!」
葵が痛がるほど強く抱きしめているのかと呆れていたら、柚月が慌てたように体を離した。
「葵くん、その怪我どうしたの?」
「怪我?」
春が近づいて観察してみると、確かに顔以外全身傷だらけだ。血が出ていない擦り傷や打撲も合わせるとパッと見た様子より酷い怪我に見える。
「詳しい話は後でするよ。それよりドッヂボールだ」
「それより保健室だよ」
「保健室なんて行かないよ」
抵抗する葵の手を引いていく柚月と目配せをして、春が代表して高松を振り返る。高松は不貞腐れた表情で溜息をついた。
「残念。失敗しちゃった」
「葵に何したんですか?」
「ちょっと懲らしめようとしただけ」
「なんで?」
「だって、松本葵の分際で柊木柚月に好かれるなんて納得がいかないから」
「でも葵を傷つけた柊木に嫌われますよ」
「松本葵が柊木柚月から離れたら僕は満足なんだ。松本葵と距離を置けば、柊木柚月もきっと僕を好きになる」
「それはどうですかね」
正直な気持ちが口をついて出た。すると高松はギュッと眉間に皺を寄せて、春の考えを真っ向から否定するつもりのようだ。恋は人をおかしくさせるのだなと、ぼんやりと思った。きっと何を言っても聞く耳を持たないだろう。だから、本当はめちゃくちゃ嫌だけれど、嫉妬の矛先が葵に向かないための奥の手だ。
「柚月は、俺と付き合ってるんですよね」
「……は?」
目と口をポカリと開けた高松に対して、春は大真面目に頷いてみせた。春だって、こう見えて俳優志望だ。わりと有名な事務所で演技のレッスンも受けているから、今こそ練習の成果を見せる時だ。
「まじまじ、本当っす」
「そんなわけあるか」
「そういうことですから。じゃあ」
そう言って、そそくさと高松に背を向ける。演技は得意だけど、嘘は苦手なことを忘れていた。口元がひくついて危ないところだった。
歩き始めて少ししたところで振り返ると、高松は大柄の男たちとなにやら話している様子だ。春はそこでピンときた。いつだったか噂を聞いたことがあった。柚月を取り巻く環境は複雑で、親衛隊のような存在までいるらしいという話だ。恐らく高松もその一人なのだろう。とりあえずは適当な嘘で誤魔化したけれど、きっとすぐに本当のことがバレてしまうはずだ。くっつくならさっさとくっつけば良いのに。そして高松の心も開放してあげて欲しい。正直高松のことはどうでもいいけれど、くっついてくれたら何かと都合が良いと思うのだ。もだもだと恋が進展すらしない柚月と葵に色々と面倒になりながら、春は二人がいるはずの保健室に向かった。
ベランダの方から近づいてみると、汚れた体操服を着た葵背中と、そんな葵の膝のあたりを手当する柚月の様子が見えた。きっと酷い傷には絆創膏を貼っているのだろう。真剣な眼差しがちらりと葵を見上げて、それから優しく緩められた。葵がまた何か変わったことを言ったのかもしれない。邪魔したら悪いかなと思いつつ、春は鍵のかかっていない出窓から保健室に侵入した。
「葵、大丈夫か?」
声をかけると葵が春を振り返る。大きな目は相変わらず澄んでいて、悪意に晒された後とは思えないほど綺麗だ。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょ。閉じ込められて、二階から飛び降りたんだって」
「はあ?本気ですか」
柚月から教えられた情報に心底驚いていると、葵は平然とした顔で頷いた。
「降りられそうだから降りただけ。途中で無理かと思ったけど、案外人間って丈夫なんだな。ほら、顔は無傷」
「葵は本当、無茶するな」
とりあえずは無事だったことを喜ぶべきだろうか。溜息をつきながら柚月に視線を向けると、彼は表現するならば悔しそうな顔で葵を見つめていた。
「葵くん」
「ん?」
柚月の方を向いてしまったからその表情は見えないけれど、きっといつも通り無垢な顔をしているのだろう。
「葵くん、ごめんね」
「なんで柚月が謝るの?」
「だって、俺のせいだ。俺が上手く立ち回らなかったから」
俯き気味で本気で落ち込んでいる様子に、真面目な男だなと思う。確かに柚月の立場ならそうなる気持ちはわかるけれど、落ち込んだって何も解決しないだろう。それとなくそう伝えようとした時、柚月がふっと顔を上げた。そして葵のことを真っ直ぐに見つめる。
「これからは、俺に守らせてくれる?」
わお、とも言わず、ピューッと口笛も吹かなかったことを褒めてほしい。真剣は柚月は、春でさえも色々な語彙を用いて褒めたくなるほどの男前だ。本来が美しいのに、まるでここが保健室とは思えないほどの世界観を、その表情とセリフだけで作り出している。
「葵くんのこと、ずっと近くで守りたいんだ」
念を押すように声を絞り出した柚月に、よくぞ言ったと褒めてやりたくなった。でも邪魔をするわけにはいかないと黙ったまま、今度は葵に視線を移してみる。後ろ姿からは何もわからないものの、いつものように背筋が伸びて、今日も自分自身をしっかりと持っているようだ。
「柚月」
「うん」
「俺は、柚月に守って貰わなくても大丈夫。だって、俺は強いから」
「でも、今日みたいに葵くんが傷ついたらと思うと、怖いんだ」
「俺はへっちゃらだよ。だって、将来アイドルになるんだから、これくらいで怖がっていられない」
「アイドルってそんなに危険なの?」
「危険というか、覚悟が必要だろ。だって、国民の恋人になるんだから」
そういえば、いつか言っていたかもしれない。アイドルはみんなの恋人だから、今までの人生では恋人を作ろうとも思ったことがないのだとか。すごいプロ意識だ。でも、柚月の恋の行方はどうなるのだろうか。こんなに本気で好きなのに、望みがないだなんて可哀想だ。春としては親友である葵の幸せが一番だけれど、柚月だって良いやつだから幸せになってほしい。それに、何かと普通の感性で生きていない葵が、つかみどころがない割に常識的で思いやりのある柚月とくっついてくれたら安心でもあるのだ。そんな春の心中を全く察せず、葵は柚月の顔を覗き込むようにいつの間にかアイドル論を語っている。
「アイドルたるもの、二階から飛び降りるくらいできないと。いつ演技の仕事が来るかわからないからね」
「お願いだから、そういう仕事はスタントマンを雇ってね」
「嫉妬も向けられるよ。だってアイドルなんだもん」
「そういうものからも、俺は葵くんを守りたいよ」
「それはありがとう。でも、俺は一人で生き抜かなくちゃいけないんだ」
話は平行線で、春の方がヤキモキしてくる。柚月は案外忍耐強い。そこも頑固な葵によく合うと思う。
「じゃあ、俺はどうしようか?」
「柚月?柚月はそのままでいて良いよ。みんなに好かれて、優しい柚月でいな」
「葵くんのためにできることはないの?」
「……それなら、一個ある」
「なあに?」
葵はなぜだか春をチラリと振り返った。それから目を合わせてこくりと大きく頷いてくる。それが示す意味が全くわからなくて春が声をかけようとした時には、葵はすでに柚月に向き合ってまるで重大なことを話す前のように息を吸い込んでいた。
「柚月、キスはほっぺでもなんでも、好きな子としな」
「え?うん」
戸惑ったように、でも当然という風に頷いだ柚月に構わず、葵は続ける。
「柚月のためになら、俺は練習台にもなるよ。でも、初めてはちゃんと好きな人としなくちゃ」
話の前後関係は謎だけれど、むず痒い話を真剣にしているその様子が相変わらずの葵で愛おしい。だから、意味はわからないなりに援護射撃を試みる。
「そうだ、そうだ。好きな子とするもんだ」
「そうそう。春だって、好きって言われたら嬉しいよね」
「俺?そりゃ嬉しいけど、なんで俺?まあ嬉しいけど」
春が反応に困りながら葵に返すと、葵は春を振り返って優しく微笑んだ。一体なんのつもりだろう。でも、好きだの何だのといった話を聞いて思い出した。葵のためにも大事なことだから、柚月にきちんと言っておかないといけない。
「そうだ、柊木くん」
眉尻を下げて話の成り行きを見守っていた様子の柚月が、そのままの表情で春を見た。こんな状態の柚月に伝えるのは可哀想だけれど、仕方がない。
「悪いけど、高松って人に嘘言っちゃった。俺と柊木くんが付き合ってるって」
「……は?」
一瞬にして形成されたその表情は、まるで信じられない、酷いじゃないか、勘弁してくれ、などなどといった複雑な気持ちがない交ぜになっているように見える。そんな顔をされると、春だってちょっと傷つく。でも、葵を守るためだと説明したら、きっと納得してくれると思うのだ。ただ、葵がいる今その話をするのも気が引けるなと思っていたら、葵がポソッと呟いた。
「それは、嘘ってことで良いのか?」
まるで名探偵のように口元に手をあてた葵は、何かを考えているようだ。
「いや、どう考えても嘘だろ」
春がそう言っても、まるで聞いていない。葵が集中するといつもこうだからなと思いつつ、春は突き刺さる柚月の鋭い視線を軽く躱したのだった。
「間に合って良かった」
ふう、と息をつきながらコートに入る。今から葵たちのクラスのドッヂボール初戦だ。柚月に念入りに傷の手当てをしてもらったおかげで、うっかり間に合わないかもしれないところだった。非常にありがたいけれど、柚月は少し心配性がすぎるようだ。多分、心配性だから痩せ細った葵にお弁当を作ってくれてもいるのだろう。春へのアピールだけではないのかもしれない。恋をしながらも葵を救うなんて、器用で徳の高い男だ。
ホイッスルと共にボールが高く上がって、背の高い柚月が葵のコートに叩き落とした。そのボールを春が受け止めて思い切り投げると、敵チームの一人に一瞬であたった。
「おお、すごい」
葵が褒めると、春は得意げにウィンクをして、それから真面目に外野に回ったボールを見据える。真剣な春はかっこいい。柚月が好きになってしまった気持ちがわかる気がする。
チームで一番張り切っている葵、それから春と柚月の活躍でどんどん相手チームの人数が減っていき、気がついたら一回戦は圧勝していたのだった。
それからすぐにトーナメントで勝ち上がってきたクラス同士の二回戦が始まって、それもほとんど苦しまずに勝利することができた。
そしてあっという間に決勝戦。決勝にもなると、今までの余裕な勝利が嘘のようだ。春が投げても、柚月が投げても、相手チームの大柄な男が受け止めてしまう。コート内の仲間はどんどん減っていって、今日一番危機的状況だ。そんな状況の中、葵は肩と膝に違和感を感じていた。実は初戦からずっとおかしいなと思っていたのだ。肩は確かに強く打っていたし、二階から飛び降りた時に足もダメージを負ったのだろう。勘弁してくれと思いながら、敵チームから飛んできたボールを受け止める。嫌だなと思いながらできる限り高くボールを上げて、外野へ向けて投げた。そのはずだったのに、思ったより威力が弱くなってしまったボールは、敵の大柄な男に軽々と受け止められてしまった。最悪だなと思った瞬間には、男は葵目掛けて思い切りボールを振り翳していた。あれがあたったら負けに近づいてしまう。それに絶対に痛いだろうなと思うのに、足が動かなくて体を捩るのがやっとだ。絶対にあたるとなと、覚悟を決めて目を瞑った。
ところがその瞬間、腕を強く引かれて、あたたかさに包まれた。ふわりと甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。抱きしめられているのだと理解して見上げると、柚月が葵を見下ろして甘く微笑んでいた。
「葵くんのことは俺が守ってあげるって言ったでしょ」
急に早くなった鼓動はどうしてだろうか。気づいた時には体を離されて、敵の外野から回ってきたボールを柚月が受け止めていた。それを思い切り投げたと思ったら、先ほど葵を狙った大柄な男に見事あてたのだった。観衆から大きな拍手と歓声が届く。その音さえ、葵には一枚膜を隔てて聞こえてきた。葵の世界は俊敏に動く柚月しか鮮明に見えなくて、その姿がキラキラと煌めいて眩しい。
ホイッスルの音を聞きながら、あれほどこだわっていた勝ち負けのことなんて一つも考えなかった。その代わりに葵の脳内を支配していたのは、柚月を見るだけでトクトクと高鳴る鼓動の意味だ。アイドルになるために観た映画、たくさん聞いた歌、そこによく登場する恋の描写と瓜二つのこの気持ち。もしかしてたった今、葵は恋に落ちたのだろうか。
ただ、これが本当に恋だとしたら、全く納得がいかない。まさかドッヂボールをきっかけに胸をときめかせるだなんて、感性が究極に小学生ではないか。しかも相手は春に恋する柚月だなんて、親友を巻き込んだドロドロの三角関係にも程がある。
「葵、惜しかったな」
その声にゆっくり振り返ると、春が悔しそうな顔で葵を見下ろしていた。頷きたいのに上手くできなくてぼんやりその顔を見上げていたら、春は困惑したように葵の目を覗き込んだ。
「葵?大丈夫か」
「葵くん?」
横から柚月まで登場して、二人で葵を見つめてくる。葵は気が遠くなった。葵はこの男に恋をして、こちらの男は親友で、こっちの男は親友が好きで、もしかしたら親友もこっちの男のことが好きで。すっかりぐちゃぐちゃになった相関図を図にしようと、葵はしゃがみこんだ。それから人差し指で校庭の砂に絵を描いていく。
「なんか、天才数学者みたいなことしてる」
「葵くん、どうしたの?」
二人の声にも応えられなかった。だって、図にしながら序盤で気がついてしまったのだ。この相関図で唯一誰からも矢印が向いていない存在。柚月は春が好きで、そして春は柚月と恋人だと嘘までついた男だ。柚月のことが嫌いなわけないだろう。つまり、柚月のことが好きな葵は、すっかり蚊帳の外ということだ。
パッと上を見上げると、二人が不思議そうに葵を見ていた。柚月はもちろん、春だって当然の様にかっこいい。一緒にいることが多くて忘れがちだけれど、綺麗な顔立をしているのだ。そして性格まで良いとなると、この葵に出る幕はないだろう。
葵は自分に自信がある。大抵のことは努力でなんとかしてきたし、実際になんとかなってきた。それなのに、十六になる前にこんな難問にぶつかるとは。全く勝ち目もなく、勝負すらできそうにないこの展開に、葵は思わず青く透き通った天を仰いだ。
学食半額券にテーマパーク旅行。そのどちらも手にしたのは、思いがけず葵のクラスだった。全ての競技の総得点が一番になり、総合優勝したのだ。閉会式で発表されたその結果にクラスメイトたちが一同に喜ぶなか、葵は気分が悪くてぼんやりしていた。
教室に戻る間も上の空で、玄関の段差でつまづいたところを支えてくれたのは柚月だった。柚月の香りに思わず振り返ってその顔を見上げると、ひどく心配そうな顔をしている。
「葵くん、どうしたの?」
「いや、どうもしないよ」
「嘘だ。なんかおかしいよ」
葵を見つめるその目に心の奥まで見透かされそうで、怖くなってそれとなく柚月の腕から逃げ出した。
「本当に、大丈夫」
そう言いながらそそくさと靴を履き替える。そのまま急いで廊下へ向けて歩き出したところで、後ろから腕を引っ張られた。驚いている間に目の前に柚月が回り込んでくる。少し冷静に物事を考えたいところなのに、少しばかり放っておいてくれないだろうか。でもそれは葵のわがままだと思い至ってさらに気分が悪くなったところで、柚月の右手が葵の左頬にそっと添えられた。そういうの、勘違いしてしまうからやめた方がいい。きちんと言ってやろうとその目を覗き込むと、葵が余計なことを言い出せないほどに柚月は真剣だった。
「葵くん」
「ん?」
「ごめん」
「……何が?」
「ほっぺだって、嫌だよね」
気を落としたようにそう言われると、葵は何も言えなくなってしまう。優勝したらほっぺにキス宣言をされた時と今では、葵の心が異なるのだ。もしかしたらあの時だって柚月のことは好きだったのかもしれないけれど、気持ちが湧き上がったのはつい先ほどだ。だから、あの時も今も本心では嫌ではないのだろう。
「葵くん、学食半額券に喜んで良いんだよ」
「うん」
「キスはしないから、安心して」
「……うん」
少し残念に思うなんて、浅ましい自分が嫌になる。そのキスだって、春の身代わりなのだ。ただの練習台で、葵に対して特別な気持ちなんてないのはわかっている。それなのにこんな気持ちを抱く自分が情けないなと思った。
「でも、お弁当は作り続けるからね」
「……え?」
「学食よりずっと満足させてみせるから」
ふわりと体を包まれると、葵の鼓動は素直にトクトクと速くなった。今日何回目かのハグだ。柚月への気持ちに気がついた今、心が湧き立って、でも悲しくて、苦しい。
「お、何やってんの?俺も参加しよ」
後ろから春の声が聞こえてきて、葵の背後から覆い被さってくる。ああ、きっと柚月は嬉しいだろう。春からは柔軟剤の香りがして、それがすごく彼らしいと思った。
その後のホームルームでは念願の学食半額券が配布された。嬉しいけれど、これは悩みの種だ。柚月がお弁当を作ってくれるのなら、葵はその厚意を甘んじて受け続けたい。それが本心だ。でも、こうやって学食半額券が手に入った今こそ、弁当を断るチャンスなのかもしれない。それが柚月のためだと思った。
ホームルームが終わって、教室がガヤガヤと騒がしくなった。とりあえず、気持ちを切り替えて今日も事務所でダンスと歌の練習だ。気合いを入れていたら、後ろの席の春にぽんぽんと肩を叩かれる。ぎこちなく振り返ると、春が学食半額券をひらひらと葵の前で泳がせた。
「これ、いる?」
いるかと言われたら、当然喉から手が出るほど欲しい。でもこれはお金と同じ価値があると思うと、易々と頷くことはできない。
「遠慮しなくていいよ。俺の、あげる」
「でも悪い」
「良いって。でも、柚月には内緒な」
「なんで?」
「お前に弁当を作る気満々なのに気を悪くするだろ。この券は葵のお守り。有効期限はないし、使っても使わなくても構わないから」
そう言って手渡されたそれを、気がつけば受け取ってしまっていた。弁当の唐揚げもそうだけれど、春から与えられるものは無条件に受け取ってしまうのだから不思議だった。春はそういう特殊能力があるのだろう。
「ありがとう。でも、学食が食べたくなったら教えてね。ちゃんと財布に入れておくから」
「うん」
クラスメイトと話している様子の柚月に隠れて、学食半額券を財布にしまい込む。いざという時に使えると思うと、なんだか心が安定する気がする。
多分、春は葵の恋敵になるのだろう。それなのに、相変わらず春のことが好きなのだから、葵は我ながら頑固で素直だ。もしかしてそれほど柚月のことは好きではないのだろうか。恋だと思ったこれは、もしかしたら勘違いなのかもしれない。どうかお願いだからそうだったらいい。もう一度柚月に視線を送ると、クラスメイトと話し終わった彼と目が合った。途端にふわりと微笑まれる。その笑顔がどうしてか苦しそうで、それはまるで葵の心と繋がっているように思えたのだった。



