土曜日は葵が最も好きな曜日だった。練習はたくさんできるし、アルバイトで賄いにもありつける。そして翌日は学校ではないから予習はせず、さっさと宿題だけ片付ければ良いのだ。今日も五時に起きて軽く運動をして、食パンを一枚齧ってから事務所へと向かった。交通手段はもちろん徒歩だ。電車を使えば十五分のところを、一時間近くかけて通っている。高校とアルバイト先は家と事務所の間くらいに位置しているから、どちらからも三十分くらいで到着する。つまり、慣れてしまえば自宅である年季の入ったアパートはなかなか好立地ではないだろうか。
 今着ているのはお気に入りのレッスン着だ。アイドル志望として恥ずかしくないブランドのジャージは、地元の友人達が小遣いを出しあってプレゼントしてくれた数着のうちの一着だった。濃いブルーが基調となっていて、割と似合っているつもりでいる。背中に背負った大きなリュックには、巨大な水筒とタオル、ダンスシューズに休憩時間に読むための参考書が入っている。それからアルバイトで着用する黒いTシャツと適当な黒のボトムス、エプロンと頭に巻くバンダナだ。一ヶ月もすれば重いリュックにも慣れてきたつもりが、一ヶ月かけてみるみる痩せたおかげで非常に負荷を感じるのだから困ったものだ。
 多少息を切らしながら事務所へ続く曲がり角を曲がる。あと数十メートル、少し先の地面を見ながら必死で足を動かす。
 前方から誰かが軽やかに走る足音が聞こえくる。葵は今のうちにと右側へ避けてやった。そのつもりだったのに、足音は葵の少し先で止まってしまったのだ。そんなに邪魔だっただろうかと、ふと顔を上げる。
「あっ」
 声を出してしまったのは、そこにいた人物が柊木柚月だったからだ。時刻は朝の八時になるところである。いつもは葵しかいないこの時間に、柚月はどうしてここにいるのだろうか。彼は葵と目が合うと、その綺麗な顔を穏やかに緩めた。葵は一瞬見惚れてしまってから、綺麗な男は得だなと悔しくなった。
「おはよう」
 悔しさを隠して葵が声をかけると、柚月はパッと目を輝かせた。
「おはよう。葵くん」
 るんるんと音がしそうなほどに嬉しそうだ。葵が何か特別なことでもしたのだろうか。どう思い返しても一言挨拶をしただけだ。でも、柚月は葵に弁当を作りたがる不思議な男だから、あまり気にすることはないのかもしれない。
「柊木くん、こんなところで何してるの」
 葵が尋ねると、今度は眉尻を下げて悲しそうな顔をした。今度こそ、何かしてしまったのだろうかと慌てて、葵は柚月に近づいてみる。
「柊木くん、どうかしたの」
 葵が上に位置する顔を覗き込むと、柚月は悲しい顔のまま葵の顔を両手で包み込んだ。
「俺の名前、知ってるんでしょ」
「柊木くん」
「違うよ。俺の、名前」
「柊木柚月くん」
「そうだよ。俺のことは柚月って呼んでよ」
「いや、なんで」
「丸山くんのことは、春って呼んでるじゃない」
 だって、春とはすでに親友なのだ。一番仲がいいし、誰よりも早く打ち解けることができた。彼は優しくて、少しひょうきんなところがあるから、なんの抵抗もなくいつの間にか「春」と呼べたのだ。だからこうやって畏まってお願いされるのは少し抵抗感がある。
「呼んでるけど、春は春だから」
「ほら、俺の名前呼んでみて」
「だから」
「柚月だよ、柚月」
 そんなに呼ばれたいのなら、本当は少し引っかかるけれど、呼んでもあげても良いかもしれない。断る理由も、苗字呼びにこだわる理由も特にはないのだ。
「……柚月」
 なぜだか緊張しながら、小さく呟くように言ってみた。ただそれだけなのに、柚月は悲しそうな顔から一変して花のようにその顔を綻ばせた。何がそんなに嬉しいのだろうか。不思議に思いつつも悪い気はしないのだから、やはり綺麗な男はずるいなと思う。
「うん、葵くん。なあに?」
「え?いや、今のは呼んだわけじゃなくて、試しに言ってみただけで」
「何回でも試してみて。それで、いつでもそう呼んでよ」
「いつでもは、ちょっとなあ」
「やだ。柚月って呼ばないと、俺は」
「俺は?」
 なんか物騒な展開だなと思いつつ復唱すると、柚月は憂いを含んだ目で葵の顔を覗き込んだ。
「俺は、自分の名前を憎んじゃうなあ」
 変な脅しだなと思った。葵が難色を示しているのは、別に柚月の名前が悪いからではない。なんだか照れ臭いだけだ。でも、葵の顔を包んでいた手をゆっくりと下ろして、残念そうに言われてしまえば、拒否するのも悪い気がしてしまう。
「わかったよ、柚月」
 葵が苦笑しながら言ってみると、柚月は嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
「そうそう、柚月はこんな時間にどうしたの?」
 葵が疑問に思っていたことを改めて尋ねると、柚月は嬉々として葵の左手を掬いっとった。
「もちろん、葵くんを待っていたんだよ」
「俺を?」
「一緒に朝ごはん食べようと思って」
「いや、朝ごはんって」
 手を引かれるままに事務所の玄関へカードキーを使って入り、それからエレベーターで休憩スペースのある二階へ上がる。広いスペースには色々な色や形の椅子と机があり、一番端の窓際に柚月のものと思われる荷物が置かれていた。ショルダーバッグに上着だけのシンプルさ。それにさえなんだか劣等感を刺激される。いつだか弟から聞いた、「モテる女の子は荷物が少ないらしい」という言葉が脳内に蘇ったのだ。どこで習ったのだか知らないけれど、兄も頷いていたから割と知られた話なのだろう。昔から荷物の多かった葵としては、どうしても釈然としなかった。荷物の多さだけで人を判断するなと言いたいところだ。でも、葵の手を離さない隣の男がどれほどモテているのか知っている。だから持ち物の少ない柚月と、これから登山かと思うほど大きな荷物の自分を比べて、あながち嘘でもない話なのかもしれないと思った。
 柚月は葵の手を引いて背もたれの大きな黄色い椅子に座らせてくれた。やっと重い荷物を床に置くことができてホッとする。そうしているうちに柚月自身はその隣の青い丸い椅子に腰掛けて、向かいの椅子に置かれているショルダーバッグに手を伸ばした。その向こうに隠れるように置かれていたのは、昨日と同じ大きな保冷バッグだ。そこから小さめのランチボックスを二つ取り出すと、葵と自らの前にそれぞれ置いた。
「開けてみて」
 柚月の視線を感じながら赤いランチボックスの蓋を開けてみる。すると思わず「わあ」と感嘆の声が漏れた。野菜が挟まったサンドウィッチとカツサンドが、交互に全部で四つ並んでいる。端にはカットされたカラフルなフルーツまで詰められていて、葵は思わずランチボックスと柚月の顔を何度も往復して見てしまった。そんな葵に笑顔を向けつつ、柚月は「食べて」と促してくる。葵はハッとして、大きなリュックから除菌シートのパックを取り出した。そこから二枚シートを取り出すと、一枚を柚月に渡してやる。柚月は少し驚いたように目を瞬かせていたけれど、「ありがとう」と受け取ってくれた。
 結論を言うと、柚月の手作りサンドは今まで食べてきたサンドの中で一番のボリュームと満足感を得られた。葵にとって高級品である大好きなフルーツまで胃に収めて、ふうっと息をつく。
「俺のも食べる?」
 サンドウィッチとカツサンドを一つずつ残した柚月に聞かれて素直に首を横に振れるくらいにはお腹がいっぱいだった。
「ありがとう、柚月」
 正直に言えば、飛びついて撫で回したいくらいには感謝している。きっと、今日の練習はいつも以上に頑張れるだろう。
「お昼も楽しみにしていてね」
「え、お昼も?」
「作るって言ったでしょ。約束通り、作ってきたから」
「でも、もう今食べたのに」
「何食作るかは言ってないでしょ」
 確かにそうだったかもしれない。でも、流石に一日二食も世話になるわけにはいかない。焦りながら柚月の横顔を見上げると、彼は葵の顔を横目でチラリと見て、パチリと華麗にウィンクした。
「キス、されたいの?」
 慌てて首を横に振る。毎回同じ脅しなのに新鮮に驚く自分が少し馬鹿みたいだ。自分に呆れているうちに、柚月は肩を竦めてマスカットをピックで軽く刺した。そしてそれを葵の口元へ近づけてくる。パチパチと目を瞬かせながら反射で口を開けると、マスカットがコロンと口に入ってきた。シャリッと咀嚼すると爽やかな甘さが広がる。
「葵くんって本当、俺にキスされたくないんだね」
 もぐもぐとしながら柚月を見上げると、彼は目を伏せて小さく溜息をついた。葵の反応が柚月を傷つけてしまったのだろうか。だって、キスって、あのキスのことだろう。柚月だって結局は冗談の癖に、どうして落ち込んでいるのだろうか。そう考えながら口の中を飲み込んで、トントンっと柚月の肩を叩いた。ふっと顔を向けた柚月はやはり悲しそうで、葵まで心が萎んでしまう。だから、葵は自らの右手の指先に軽く唇を押し当て、柚月に向けて投げキスを放った。アイドルになるために密かに練習しているこれは、他人に見せるまでの完成度ではないけれど、するなら今だろうと思ったのだ。葵の投げキスをまともに食らった柚月はポカリと口を開けている。やはり開発途中の投げキスでは元気にならないだろうか。そう思った次の瞬間、柚月はおかしそうに白い歯を見せて笑ってくれた。笑ってくれたことに、葵の方が嬉しくなる。
 葵は柚月とキスなんてしたくない。したくないというより、考えるにも及ばないだろう。だって、柚月は男で、葵も男だ。柚月だって本音では同じに決まっている。きっと、柚月は他人のために自分が嫌なことも厭わずこなしてみせる男なのだと思う。つまり、柚月はまともに食事にありつけない葵を心配してくれているのだ。
 笑いが止まらない柚月が食べ終わるのを待って、机の上を片付けた時には、時刻は九時に近づいていた。そろそろ他の練習生たちもやってくるだろう。
「柚月、お弁当ありがとう」
「こちらこそ、かっこいい投げキスをありがとう」
「嬉しかった?」
「それはもう、なんでも頑張れるくらい嬉しかった」
「嘘つけ」
 葵の投げキスにそんな効力ないだろう。だって、まだまだ練習中なのだ。葵は重たいリュックを持ち上げると、ヨイショと肩に担いだ。
「本当だって」
 柚月は葵を見上げながらそう言ってくれるけれど、むしろこれが完成形だと思われても困る。
「いつかはもっとすごいやつ見せてあげる」
「もっとすごいやつ?」
「可愛くて、爽やかで、色気のあるやつ」
 葵はそう言ってから「またね。朝ご飯、本当にありがとう」と言いながら手を振り、アイドル候補生のための練習室に走り出した。だから、顔を赤くした柚月には気が付かなかったのだ。
「可愛くて、爽やかで、色気のあるやつ……」
 柚月はそう呟くと、大きな手で自らの小さな頭を抱えたのだった。


「いらっしゃいませ!」
 葵が働くチェーン店の居酒屋は、土曜日の十九時にもなるとかなり混み合っている。でも、葵は今までのアルバイト人生で一番元気だった。朝ご飯と昼ご飯を満足に食べた体は力がみなぎっていて、レッスン後にもかかわらず軽やかに動いてくれる。主に注文された品を届けるだけにしても、体が元気だと一瞬で仕事が終わるのだ。葵自身そのつもりがなかったけれど、今まで重怠い体を引き摺りながら極限状態で働いていたことに気がついた。
 酔っ払いたちの冗談をいつもより余裕で躱しながら空いたジョッキを厨房へ運ぶと、トマトを切っていた周と目が合った。彼は大学二年生で、葵よりも四つ年上だ。大人の余裕があって、精悍な顔立ちに逞しい体つきが羨ましい。そんな周は何かと葵を気にかけてくれる、頼りになる先輩だった。
「葵」
「はい」
「ほら」
 トマトの端の部分を口元に運ばれる。大きな口でよく冷えたトマトを受け止めると、新鮮な甘酸っぱさが体に染み渡る気がした。
「二十一時になったらご飯だからな」
「はい」
「でも、どうしても腹減ったら、俺のところにおいで」
「周さんのところに?」
「今みたいに何かしら口に放り込んでやるから」
 店長が鍋を振るう背後姿をこっそり見ながら囁かれる。無口で堅い店長に見つかったらちょっと怖いけれど、葵を見てニヤリと笑った周に、思わず「へへっ」と笑ってしまった。
 それから周に度々料理の端っこをもらいつつ働いてやっとありついた夕ご飯は、いつもよりも落ち着いて食べることができた。いつもはつまみ食いをしていても耐えられないほどの空腹に倒れる寸前でのご飯だったから、バイト仲間が呆れるほどがっついてしまっていたのだ。アイドルたるもの余裕が大事なのに、人間食欲には逆らえないのだと常々悲しく思っていた。だから落ち着いて食べられる食事がとてつもなく嬉しく感じる。
「葵、今日はゆっくり食べられてるな」
 そう言って隣に座る周に頭を撫でられる。ゆっくり食べられるだけで褒められるなんて、随分と子供扱いだ。
「俺だって、六月には十六ですから」
「へえ。何日?」
「二十日です」
「もう子供じゃないって?」
「そういうことです」
 葵が親子丼を大口で頬張ると、周はティッシュで葵の口元を軽く拭った。何かつていただろうかと慌てて手の甲で口元を拭うけれど、すでに綺麗になっているようで何もわからない。
「つまり、まだ選挙権もないんだ」
「……選挙権」
「まだ子供だ」
「法律上は、ですけど」
 葵がムキになってそう言うと、周はおかしそうに「はいはい、そうだね」と笑った。
 葵が賄いの親子丼を食べ終わって丼を洗おうとすると、すかさず周に取り上げられた。
「周さん?」
「もう遅いからさっさと帰んな」
「でも」
「俺が洗っておくから。その代わり、明日も今日みたいに元気に来いよ」
 周の厚意に甘えて、「はい、ありがとうございます」と伝える。それからバイト仲間たちと厨房の奥にいる店長へ挨拶を済ませて、葵は更衣室に戻った。着替えるのは面倒だから、バンダナとエプロンだけ外してリュックに突っ込む。それから重いそれを背負った。三食きっちり食べて力がみなぎっているから、この後に待ち構える宿題も難なくできそうだ。それにもしかしたら月曜日の英語の予習もできるかもしれない。
 外に出ると少し肌寒く感じたけれど、歩けばそのうち暑くなるだろう。ふと空を見上げると、夜の漆黒に星が輝いている。綺麗だな、と自然と思った。星を見上げるだなんていつぶりだろうか。そのつもりはなかったのに、つい必死さに俯いていたのだと気がついた。
 アルバイト代が出たら、きっと柚月にお礼をしよう。柚月にはいらないと言われているけれど、柚月の厚意に対してはちっぽけになるかもしれないけれど、そうせずにはいられない。いつまで弁当を作ってくれるつもりかわからないものの、ひたすらにお金を貯めて、柚月のために葵ができることをするつもりだ。何ができるのか考えるのは若干負担だなと思いつつ、美味しい弁当には代えられない。それほど柚月の作る弁当は葵に優しく馴染んで、葵を元気づけてくれたのだ。
 歩き始めるのと同時に自然と漏れた鼻歌は、事務所から葵に与えられた課題曲だ。優しい音色で恋を語るこの歌は、恋を知らない葵には少し難しい。だからたくさん練習をしなければならないだろう。難しい部分を何度も小さく繰り返しながら帰路に着く。
 葵は恋を知らない。アイドルだから、もしかしたら一生恋をしないかもしれない。でも、恋をしたら、ひらひらふわふわ、きっと胸が高鳴って世界が煌めくのだろう。何かの物語で知った浅い知識だけを頼りに、歌の練習を重ねる。きっと、柚月はたくさん経験があるのだろうなと、なんとなく考えた。今度柚月に聞いてみようか。恋ってどんなものなのって。柚月のことだから優しく教えてくれるだろう。恋の経験が豊富だなんてそれはそれで少しむかつく気もするけれど、彼は恩人で今は気分がすこぶる良いから許してあげよう。爽やかな夜の中をスキップをするように、葵は家までの道を辿るのだった。