九月。夏休みが終わり、学校が始まってからしばらく経った。葵は、勉学に、練習に、アルバイトにと、毎日体がクタクタになるまで励んでいる。でも、頭の中のほとんどは事務所でのアイドル選抜のことで占められていた。すでに九月も中旬だ。少なくとも、十月になる前には発表があるのだろうと思うと気が気ではない。
 今日も学校が終わると同時に、葵は駆け出す勢いで教室から飛び出した。早く事務所へ向かって練習を始めなければいけない。
「葵くん」
 靴箱のところで急いで靴を履き替えていたら、背後から声がかかった。その大好きな声に、くるんと振り返る。
「柚月」
「やっとつかまえた」
「どうかした?」
「どうしていつも先に行っちゃうの?一緒のところに行くのに」
 唇を尖らせながら葵に近づく柚月は、葵のすぐ後ろまで来るとコテンと首を傾げた。ああ、可愛いなと思う。これは、葵が恋人でなくても可愛いと思うだろう。こんなに可愛い柚月を、葵の勝手に巻き込む訳にはいかない。本来電車で向かうべき道のりを、葵は節約のために徒歩で急がなくてはならないのだ。
「でも、俺急いでるから」
「じゃあ、俺も急ぐよ」
「柚月は電車で行きなよ。俺は徒歩で急ぐから」
「だからいつも言ってるでしょ。葵くんと一緒がいいんだ」
「なんだよそれ。変な柚月だな」
 そう言いながら葵が自然と笑顔になると、柚月も笑顔を返してくれる。こんな些細なことが、こんなにも幸せだ。
 そうしているうちに、葵たちの教室の方からワーワーと声が聞こえてきた。
「丸山春!どうして柊木柚月がいないんだ」
「また高松先輩か。柚月はもう帰ったんだよ」
「どうして一緒に帰らない?別れたのか」
「プライベートに関することは教えません」
 高松はまだ春と柚月が付き合っていると思い込んでいる。春に突っかかっては適当にあしらわれていて、葵としてはこのままで良いのか不安になるところだ。思わず柚月を見上げると、慌てたように靴箱に上履きをしまっていた。
「葵くん、見つかる前に行くよ」
「で、でも」
「いいの。きっと丸山くんは葵くんが危ない目に遭わないように俺と付き合ってるって嘘をついてくれたんだよ。それを無駄にしないよ」
 それでいいのか。よくわからないなりに、葵はこくりと頷いた。
 柚月に手を引かれるままに校舎から飛び出す。九月といえどまだまだかんかん照りで、すぐにじわりと汗が滲んだ。
 校庭の真ん中くらいで、どちらからともなく手と手が離れる。校門のところには大勢の女の子たちがいるために、あまり二人が親密な様子が目につくのではまずいと思ったのだ。手が離れた時は少し切なかったけれど、柚月が振り返って微笑んでくれたから、葵はすぐに元気になった。
 事務所まではいつも通り三十分ほどで到着した。その間に柚月と話せることが嬉しくて、心の底からずっとずっと楽しかった。でも、更衣室で練習着に着替えてダンス練習室に入った途端に、心がずんと重たくなった。
「葵くん、今日も頑張ろう」
 背中を優しく叩いて笑いかけてくれた柚月は、きっと選抜に漏れることはないだろう。そのことを素直に喜んであげられない葵は、なんて醜い人間なのだろうか。黒い感情は隠して、葵は柚月へ「うん」とだけ返した。
 心を入れ替えるように、同じ曲を何度も何度も繰り返し踊る。指先まで意識して、髪の毛まで踊るように曲にのるのだ。鏡の中の自分が誰よりも美しくみえるように、練習室全体に見せつけるように踊る。そうして何度目かのダンスを終えた時、柚月を含む周りの練習生たちが拍手を送ってくれた。葵と異なり、なんて心が綺麗な子達なのだろう。そう思うと居た堪れなくて、葵は作った笑顔のままぺこりと一度頭を下げたのだった。
 さて、もう一度踊ろうと鏡に向き直ろうとしたその時だった。ガチャリと音が鳴って、練習室の扉が開いた。そこから入ってきたのは、男性アイドル部門を取りまとめている事務所の部長だ。練習室全体に緊張が走る。もしかして、と誰もが思っただろう。きっと、選抜メンバーの発表に違いない。部長はぐるりと練習室内を見回して、それから集合をかけた。葵より年上も年下も関係なく、全員訓練されたかのように行儀良く部長の前に集まる。
「前々から話していたように、次期アイドルグループのメンバーを選出した」
 やはりそうかと、葵は小さく息を吐き出した。心臓がバクバクと鳴って、うるさいほどだ。大丈夫、大丈夫と、自分に言い聞かせる。
「メンバーは、全部で六人」
 六人、その中に入れるだろうか。葵はぎゅっと目を瞑った。それから一人ずつ発表されていく中に、葵の名前は入らない。どうか次で呼ばれてくれと、何度も何度も祈るしかない。自分の名前が呼ばれる時を、根気よく待ち続ける。
「それから最後」
 最後という言葉に、ただでさえうるさい心臓がドクンと跳ねた。
「センターに、柊木柚月」
 ああ、選ばれなかった。葵の心臓はバクバクしたままだけれど、心がシンと静かになった。まず思ったことは、葵の何がいけないのだろうということだ。こんなに頑張ってきたのに、何が足りなかったのか。疑問と共に、謎の後悔が押し寄せる。不思議と涙は出なかった。こんなに苦しくて悲しいのに、心は凪いでいる。
「部長」
 柚月がすっと手を挙げた。
「どうした、柚月」
「五人しか呼ばれてないですけど」
「あれ、もしかして松本葵って呼ばなかったか」
 部長のとぼけた返しに、葵は思わず「え?」と漏らした。絶対に呼ばれなかったはずだけれど、この展開は一体どういうことだろうか。
「申し訳ない。松本葵は選抜メンバーの中でもセンター候補だ」
 歓喜で大声をあげなかったことを、どうか褒めて欲しい。心がふるふると湧き立って、変な汗が噴き出た。嬉しくて嬉しくて、選ばれただけでも最高な気分なのに、まさかセンター候補にまでなれるとは。涙が溢れそうになったけれど、周りには選ばれなかった子もいると考えて必死で堪えた。
 ふと、柚月の視線に気がつく。目が合うと、誰よりも嬉しそうに笑ってくれる。まだ夢のようだけれど、その顔を見て心の底から安堵したのだった。
 その時、再びガチャリと扉が開いた。年配の割に大柄な男性が練習室に入ってきたことに、練習室が騒然となる。葵は少し考えて、それから思い出した。あの人は滅多にお目にかかれないこの事務所の社長だ。講師の合図で全員立ち上がって社長に挨拶をすると、社長は大きく頷きながら練習室内を見回した。パチリと目が合ったのは偶然だろうか。葵が考えている間に手招きをされる。
「松本葵くん、ちょっとおいで」
「え、……はい」
 一体社長が何の用だろうか。せっかく良い気分だったのに、嫌な予感が胸を過ぎる。社長に駆け寄る間に心配そうな柚月と目が合ったけれど、葵はぎこちなく頬笑みかけるしかできなかった。
 無言の社長に連れられるままに訪れたのは、ビルの最上階にある社長室だった。初めて訪れた空間に緊張しながらも、促されるままに応接用のソファに座る。目の前の二人がけソファに腰掛けた社長は、葵を見下ろしながら堂々と足を組んだ。
「先ほどの選抜、君には辞退してもらう必要がある」
「……え?」
 まさか、そんな。思わず聞き返すと、社長はスーツの懐からスマートフォンを取り出して操作する。そしてその画面を葵に見せてきた。葵は絶句した。そこには、葵の額にキスする柚月と、それを受け止める葵の姿が収められていたのだ。エレベーターに観葉植物が写っている様子から、事務所の二階であるとわかる。思い出したのは、柚月と美玖が親しげに話していたあの日の記憶だった。
「君と柚月は恋仲なんだね」
 頷いて良いのかわからず、葵は社長の顔を見上げた。社長はまっすぐに葵を見ながら、一つ咳払いをして口を開く。
「柚月はうちのエースなんだよ。名前を汚されたら困る」
 名前を汚す。そんな表現をされるとは思っていなかった。葵との付き合いが柚月を汚してしまうだなんて、そう表現されたことが、そう思われていることが、あまりにもショックだ。同時に、抑えようのない悔しさが湧き上がる。
「君の経歴に傷がつかないようにという配慮でもあるんだよ」
 表現次第だなと、冷静に思った。確かに、違う事務所に移籍してそこで頑張ればいいのかもしれない。でも、ここまで有名な事務所に入り直せるのだろうか。せっかく叶いそうになった夢が、奇跡的に交わった柚月との道が、ここで途絶えるだなんて絶対に嫌だと思った。だからこそ、葵は今頑張らなくてはいけない。どう転ぼうが、どうせ窮地なのだ。葵は覚悟を決めて社長を見据えた。
「いいんですか?この僕を手放して」
 言ってしまった、と思うのと同時に、社長の眉がぴくりと反応する。きっと反論されるとは思っていなかったのだろう。ならば、尚更好都合だ。今度は渾身の可愛い顔で社長を見つめてみる。
「僕は柚月を虜にしている男ですよ」
 葵がコテンと首を傾げると、社長は目を逸らして咳払いをした。きっとこの人は柚月の名前を出したら葵が引さがると思っていたのだろう。でも、思いの外頑固な葵を持て余しているに違いない。葵はそんな簡単な男ではないのだ。柚月と出会って、自信をつけて、尚更複雑に、大胆になった自覚がある。
「僕は柚月のことを守れる男です。だって、僕がいれば柚月にスキャンダルは起きないんですから」
 ね、と社長の顔を覗き込む。そっぽを向いて渋い顔をしていた社長は、葵をチラリとみて溜息をついた。と思ったら、突然吹き出して、豪快に笑い声を上げた。葵が驚いてきょとんとしていると、社長が葵に向かって手を伸ばしてくる。よくわからないままに葵も手を伸ばすと、社長は葵の手を取って引き寄せた。中央にあるローテーブルを避けて慌てて社長の近くまで向かうと、社長は握手の要領で手をブンブンと振ってくる。
「君は、思った以上に魅力的な子なんだね」
「はい?」
「気に入ったよ」
 気に入られるだけでは困るのだ。それだけでは、解雇勧告はどうにもならないだろう。葵が戸惑っていたその時、ノックもなしに勢いよく入り口の扉が開いた。そこには息を切らした柚月がいて、葵と社長を視界に入れるとずんずんと近づいてくる。そして社長と繋がれていた手を強引に引き剥がされた。
「柚月?」
「社長、僕の葵くんと何を話していたのですか」
「……もちろん、選抜メンバーの中で葵くんと柚月をセンターに置く計画の話だよ。葵くんなら柚月とは違う個性で人気が出るだろう」
 そんな話ではなかったはずだ。思わず社長へ視線を投げると、一つ頷かれる。その様子に、心の奥が一気に震えた。葵の説得が効いたのかは微妙なところだけれど、社長は考えを一転して葵をデビューさせる気でいるらしい。膝から力が抜けそうになって、立っているのがやっとだ。
 でも葵には柚月と並ぶ実力があるだろうか。一瞬考えてから、あるに決まっていると思った。だって、葵は誰よりも煌めく柚月が好きになった男なのだ。もっともっと、自信を持たないといけない。葵は柚月に向かってニッと笑って見せてから、改めて社長に向き直った。
「俺もそう思います。絶対に人気を集めてみせます」
 言い切ったからには頑張らなければならない。少しの不安と、大きな期待が胸のなかを占めた。
 そんな葵の宣言に反応したのは柚月だった。社長の前にも関わらず、葵のことを思い切り抱きしめたのだ。「うわあっ」なんて言った葵の戸惑いは無視して、葵越しに社長を見据えているのだろう。
「俺も絶対に葵くんとトップを獲ります。ありがとうございます」
 最後に柚月と二人で頭を下げてから、二人の関係は絶対に世間にバレないようにすることを約束して、葵は柚月とともに社長室を後にした。二人でソワソワしながらも、エレベーターホールへと向かう。エレベーターのボタンを押してから、柚月をチラリと見上げて微笑んだ。全部上手いことまとまったのだ。嬉しくて嬉しくてたまらない。
「わっ!」
 突然、柚月が飛びついてきた。二人の関係がバレないようにする約束をしたばかりなのに、こんな姿を誰かに見られたら大変だ。
「柚月、ダメだって」
「無理。心が爆発しそう」
「心が?」
「俺の葵くんが俺とセンターでデビューだなんて、俺の書いた筋書きみたい」
「なんだよそれ」
 柚月の言葉に、思わず笑ってしまう。柚月の肩口でくすくす笑っていたら、柚月がパッと顔を覗き込んできた。
「なんだよ」
「笑ってる顔、見たいなと思って」
「いつも見てるだろ」
 照れ隠しに可愛くないことを言ってしまったなと思ったけれど、柚月が嬉しそうに笑ったから、なんでも良いのかもしれない。
 そうしているうちにエレベーターが到着してサッと扉が開いた。「あっ」と声を漏らしてしまったのは、扉の奥に立っていたのが美玖だったからだ。先ほどの写真は、恐らく美玖が撮ったものだろうと葵は考えていた。隠し撮りだなんて悪趣味だとは思うものの、確証がないままでは責めることもできない。
「柚月くん」
 美玖は葵のことがまるで見えていないかのように柚月の名前を呼んだ。
「美玖、こんなところで珍しいね」
「柚月くんこそ」
「社長に呼ばれたの?」
「どうせ怒られるのよ。そっちの彼のせいで」
 エレベータから降りながら葵のことを見向きもしないでそう言った彼女に、葵は何も返せなかった。隣の柚月も葵の顔を覗き込んで、首を傾げている。
「私の方がずっと可愛いのに、柚月くんって変よね」
 何か言い返した方がいいのかと思ったけれど、葵は閉じそうになった扉に慌ててエレベーターに飛び乗った。
「柚月」
 扉を押さえながら名前を呼ぶと、柚月は葵に笑みを向けてから美玖の方へ視線を向ける。
「美玖も可愛いけど、葵くんはこの俺がおかしくなるほど可愛いんだ」
 柚月はそれだけ言うと、彼女の返事は待たずにエレベーター内に乗り込んできた。葵が柚月の顔を見上げていたら、柚月は葵が押し損ねていた二階への行先ボタンを押して、それから葵に笑顔を向けた。扉がゆっくりと閉まっていく。
「いい?葵くんは頑張り屋で、頑固者で、可愛すぎるから、本当の本当は世に出したくないくらいなんだからね」
「え、俺が?」
「でも、葵くんと葵くんの未来のファンのために俺は我慢するんだ。わかった?」
 そうか、柚月は葵に恋する未来のファンたちも受け入れて葵を愛してくれようとしているのか。それって、すごい愛だ。嬉しい気持ちが溢れて、葵も同じように柚月と柚月のことを好きになる人たちを愛していこうと思った。そのためには、葵も柚月を愛する人に認めてもらわなければならない。
「あー、社長にお腹見せておけば良かった」
「そんなのダメだよ、絶対に」
「なんで?お腹が魅力的だってアピールしておけば、何かお腹の仕事をもらえるかもしれないじゃん」
「もらわなくていいの。脱ぐ仕事、恋愛関係、その他諸々全部禁止」
 そんなことしたら仕事がなくなるじゃないか。アイドルだって、雑誌の撮影などで脱いでいるイメージがある。もしそういった仕事が来たら、葵は絶対に断らないつもりだ。その時になったら柚月を葵の魅力的なお腹で誘惑してなんとか説得しよう。頼んだぞ、とお腹を撫でる。すると思いがけず、ぐうっと大きな音が鳴った。
「あはは!お腹空いたね。今日は俺の家に帰ろうね」
「うん」
「それでお祝いしよう」
「うん、お祝いしたい」
「ちゃんとケーキも食べて」
「うん」
「その後は、どうする?」
「うーん、せっかくなら泊まろうかな」 
 おねだりするように柚月を見上げると、彼はなんともむず痒そうな顔をしている。そんなに変なことを言っただろうか。
「葵くんって、絶対その意味わかってないよね」
「もちろん、俺は適当にその辺で寝るから大丈夫だよ」
「そんなことさせるわけないでしょ」
「それならソファで寝ても良い?」
「俺のベッド広いから、一緒に寝られるよ」
 一緒のベッドでなんて、眠れるだろうか。なんだか恥ずかしい気がする。
「そこでいっぱいイチャイチャしようね」
「イチャイチャって、こ、この前みたいに?」
 葵が戸惑っているうちにエレベーターが二階に到着した。
「どうかな。もっとすごいやつかも」
 耳元で囁かれた言葉は、本当だろうか。もっとすごいってなんだろう。
 扉が閉まらないようにボタンを押ながら、柚月が「どうぞ」と葵の背中に手を添えてくれる。触れられるとゾワリとして、嬉しくて、柚月とならなんでもしてみたいと思った。
「柚月となら喜んで、もっとすごいやつ、やるよ」
 エレベーターを降りてから柚月を振り返ってそう言ってみると、柚月は丸く目を見開いて「……えぇ!?」と言って固まってしまった。それから数秒して、固まった柚月をそのままに扉が閉まっていく。
「行っちゃった」
 表示灯はエレベーターがどんどん上がっていくことを教えてくれる。一体どこまでいくつもりだろうか。優しくて、物知りで、最上階まで行ってしまった可愛い恋人のことを、葵はそのまま待ち続けるのだった。