八月二十七日、水曜日。身の入らない練習を十七時で切り上げて、葵は事務所の玄関口で柚月と待ち合わせをしていた。
「待たせてごめんね」
 その言葉に振り返る。駆け寄ってきた柚月は、白いシャツに太い黒のボトムス姿で、わざわざ練習着から着替えてくれたのだとわかった。葵自身は青いジャージのズボンに白いTシャツ姿だ。自分の姿を見下ろして、少しくらいおしゃれをすれば良かったなと後悔が募る。それが柚月に対する礼儀でもあるはずだ。ところが、葵が少ししょんぼりしている間に、柚月に右手を掬い取られた。
「俺の我儘なんだけど、一緒にお買い物行かない?」
 その言葉にどんな買い物かと警戒したものの、連れて来られたのは駅前のスーパーだった。手を繋いで歩きながら、葵はほっと胸を撫で下ろした。これなら葵が支払うことができるだろう。
「今日は何にしようか」
 カートを押しながら上機嫌な柚月に問われて、なんだかむず痒くなる。これではまるで一緒に住んでいるみたいだ。嬉しくて、上機嫌な柚月が可愛くて、こんなに楽しいことはない。これがデートなのか。
「ハンバーグは?」
「今日のお弁当に入れたじゃん」
「すごく美味しかったからさ。それ以外だとしたらカレーは?」
「カレーは簡単だよ」
「じゃあカレーがいいな。俺も一緒に作るから」
「そうしたら、ポテトサラダも作ろう。明日はサンドウィッチに挟むの」
「うん!」
 少しでも役に立とうと息巻いていたのに、柚月の決断は早くてどんどん買い物が進んでいく。最後に葵の好きなフルーツまで買ったと思ったら、セルフレジも見事な手捌きだ。葵だって一人暮らしをしているのだから土俵は同じなのに、やはり素が器用だとこうも違うのだろうか。途中でハッとして支払いに備えてリュックから財布を取り出したのにも関わらず、柚月が流れるようにカードで支払ってしまったから葵は財布を持ちながら狼狽えることしかできなかった。
「柚月、なんでぇ?」
「葵くんの考えてることくらい、俺にはお見通しだよ」
 そう言って葵にウィンクをした柚月は、荷物も軽々と持ってくれた。
「荷物は俺が持つ」
「だめ。ただでさえ葵くんはリュックが重いんだから」
 そうやって嗜められている間に、あっという間に柚月のマンションに到着して、相変わらず複雑な工程を経て柚月の部屋にたどり着いた。思いが通じ合ってから初めて訪れる柚月の部屋は、なんだか感慨深く感じる。促されるままに、キス事件のあったソファの下にリュックを置いた。あの時はこんな未来が待っているだなんて思いもしなかった。嬉しくなって柚月を振り返ると、彼は葵に背中を向けて冷蔵庫に食料品をしまっているところだ。
「柚月、手伝う」
 柚月に近づきつつ、無許可でアイランドキッチンの向こう側に入るのは忍びないかとオロオロしていたら、冷蔵庫に食料をしまい終わった柚月が振り返った。
「ありがとう。呼ぶまで座ってて」
「何かできない?」
「じゃあ、俺を応援してくれる?」
 応援なんてやろうと思えばいくらでもできるけれど、それではまるで子供扱いだ。
「俺だって、カレー作ったことあるよ。ポテトサラダだって、実家でじゃがいも潰したり、うちわで扇いだり」
「へえ、お手伝いしてたんだ」
「そうそう。だから、想像よりは役に立つよ」
「ふふ、わかったよ。じゃあ一緒に作ろうか」
「うん!」
手際の良い柚月の隣でやったこと言えば、お米を炊く作業に、鶏肉と野菜を炒める作業、カレーを煮込む過程で混ぜる作業、それからポテトサラダにマヨネーズを混ぜる作業だったけれど、多分柚月の想像よりは役に立ったはずだ。そうして夕食が完成する頃にはお腹はぐうっと鳴って、いよいよだなと嬉しくなった。せっかく柚月と一緒に作ったご飯なのだ。お腹いっぱいに食べよう。カレー鍋をかき混ぜている柚月を眺めながら、そこで葵はハッとした。ちゃんと気がついて良かった。だってご飯をお腹いっぱいに食べたら、お腹は膨れてぽんぽこなたぬきみたいになってしまうのではないだろうか。そうなったら、葵のお腹は余計に色気のかけらも無いだろう。
「葵くん、これテーブルに持っていってくれる」
 サラダ菜とミニトマトを盛り付けた山盛りのポテトサラダを差し出される。葵はポテトサラダと柚月の顔を見比べて、やはり今しかないとTシャツの裾に手をかけた。
「葵くん?」
「柚月、今のうちに見てくれない。俺のお腹」
 葵がお願いすると、柚月は困ったように眉尻を下げて首を横に振った。
「……ご飯の後にしようよ」
「だって美味しいご飯を食べちゃったら、最低限の実力も発揮できないよ」
「なにそれ」
「ね、お願い」
 葵が懇願すると、柚月は少し考える素振りを見せ、戸惑いながらもポテトサラダを冷蔵庫にしまった。そしてカレー鍋をかけている火を止めて、蓋をする。それから葵に向き直って、仕方がないとでもいうように困り顔で微笑んだ。
「わかったよ、俺は葵くんの言うことは聞くんだ」
 わかったくれたのかと嬉しくなると同時に、胸がドキドキしてくる。
「ありがとう。見ててね」
「待って」
 柚月からの静止に戸惑っているうちに、Tシャツの裾にかけた両手を掴まれた。そのままソファへと連れていかれる。連れられながらたくさん考えた。お腹を見せるなら、立ったままか、それとも座った方がいいのか。でもお腹が綺麗に見えるのは立ったままだよなと考えていたら、「葵くん」と名前を呼ばれた。ふと柚月の顔を見上げると、至近距離に綺麗な顔があって、そのまま唇が触れ合った。頭を抱えられて次々と与えられる口付けに、すでに息が苦しい。必死でそれに応えていたら、急に口付けがやんだ。いつの間にか瞑っていた目を開けると、もう少しでまつ毛が触れ合うほどの位置に柚月の美しい瞳がある。
「可愛い」
 そう言ってもう一度キス。
「ちゃんと息してね」
 葵はそこで息を止めていたことに気がついた。一度大きく息を吐き出して、それから吸い込む。その瞬間にもう一度唇を奪われた。他の人がどんなキスをしているか知らないけれど、こんなに何度も唇を合わせるものなのだろうか。ぎゅっと目を瞑って一生懸命になっているうちに、気がついたら葵はへにゃりとソファに座っていて、そのまま押し倒される。ソファに押さえつけられたままキスを受け続けて、しばらくしてやっと離れた唇に目を開けた。必死で呼吸を取り戻していると、息苦しさに目から溢れた涙を、柚月が手で拭ってくれた。そしてそのまま髪を撫でられる。
「可愛い葵くん。お腹見せてね」
 柚月の手がTシャツの裾にかかる。覚悟していたはずなのに、恥ずかしくて居た堪れなくて、葵はぎゅっと目を瞑ってその時を待った。腹部が外気に晒される感覚。やはり、色気がないって思われるだろうか。恋の幻想が覚めたりしたら非常に困る。女の子と比較されて柚月にがっかりされたら、葵は到底生きていけないと思った。柚月の手の温もりが直接腹部に触れる。その気は無いのにぴくりと腰が跳ねて恥ずかしい。
「葵くん、ごめん。やっぱり無理だ」