夏休み直前に柚月と付き合い始めてから、あっという間に一ヶ月と少し経った。
 昨日、八月二十二日金曜日。付き合ってから初めて柚月と喧嘩をした。喧嘩というよりは、一方的に怒られただけかもしれない。葵のバイト終わりに迎えに来てくれた柚月は、いつもの温和な雰囲気ではなかった。
「葵くんさ、ちゃんと休んでるの」
 手を繋ぎながら葵の家まで歩いていると、なんの脈絡もなくそう聞かれたのだ。実際、葵は全く休んでいない。夏休みが始まってからというものの、葵は学校がある時以上に帰宅が遅い毎日だ。ダンスや歌の練習かアルバイト、またはそのどちらも詰め込んでおり、たまに時間ができたら学校から出ている課題を片付ける。
「休んでない、かも」
 四月からの自分の生活を思い出して、正直に答えた。すると、柚月は大きく溜息をついて、繋いでいる手にぎゅっと力を入れた。
「俺、葵くんをデートに誘いたいんだけど」
「……デート」
 復唱すると、少し顔が熱くなる。恥ずかしくて、無性に嬉しい。
「うん、デートしようよ」
 葵がそう答えると、柚月はパッと葵を振り返って顔を綻ばせた。こんなに喜ばれると、余計に嬉しい。
「じゃあ、いつが空いてる?」
「ちょっと待ってね」
 柚月の手を離して、重たいリュックからスマートフォンを取り出す。事務所には毎日行くつもりだから、アルバイトのない日を探し出した。
「来週の水曜日とかどう?」
「水曜日ね。十時に葵くんの家に迎えに行くよ」
「十時?それは早いな」
「じゃあ、十一時?」
「俺、夕方まで事務所に籠るつもりでさ」
 葵がそう言うと、柚月はぎゅっと顔を顰めた。
「たまには休んだって大丈夫だよ。練習だって、強制じゃないじゃん」
「そうだけど、俺はまだまだだから」
「葵くんほど熱心で優秀な子はいないよ。その日くらい、俺にちょうだいよ」
 でも、そういうわけにはいかない。九月には選抜メンバーが決まるのだ。今が追い上げの時期で、周りの練習生たちもどんどん上達している。ここで気を抜いたら負けるに決まっている。
「じゃあ、選抜が終わったらにしようよ」
「……そうだよね。ごめん」
 なぜ謝られたのかもわからないまま、再び手を繋がれて葵のアパートまで向かった。その間無言だったから、葵はたくさん考えた。柚月にとったら、選抜に選ばれることくらいなんでもないのだろう。柚月ほどの容姿と才能があれば、きっと機会はたくさんある。葵ほど余裕がないわけではないのだ。なんだかむしゃくしゃして、でもその気持ちは醜いものだとわかるから口には出さなかった。
 アパートの前まで着くと、柚月は葵に向き直って、もう一度「ごめんね」と言った。
「何が?」
「なんでもない」
「言いたいことがあるなら教えてよ」
「うん。じゃあ、言うけど」
 柚月はそこで気合いを入れるかのように息を吸い込んだ。
「葵くんは、俺の気持ちを全然わかってない」
「え?」
「俺がどれだけ葵くんを心配してるか」
「心配してくれてるの?」
「そうだよ。四月からずっと、一日も体を休めてないんでしょ」
 図星でこくりと頷くと、柚月は葵の頬を両手で包み込んだ。
「俺が葵くんを独り占めできる日はいつ来るんだろうね」
 その綺麗な顔で、美しい瞳で、説得されそうになる。でも、葵はこの説得に揺らぐわけにはいかないのだ。
「……デビューが決まったらかな」
 葵がそう言うと、柚月は気を落としたように溜息をついた。
「葵くんって、やっぱり俺の気持ち全然わかってないね」
 柚月はそれだけ言うと、葵を一度だけ優しく抱きしめた。
 ここまでが昨日の話だ。一連を思い返してみると、やはり喧嘩というほどでもない。でも喧嘩した時のように胸が苦しくて、怒られた時のようにしゅんと落ち込んだ。
 そして今日、葵はいつもより早く事務所へ向かった。一緒に朝食を食べるために、いつも先に待っていてくれる柚月よりも早く着いて、迎え入れてあげたいのだ。それがデートを思うままにできないせめてもの償いだった。葵だってデートをしたいのだ。夕方からの短時間でもいい。柚月の言う通り本当は朝からしたいけれど、選抜から外れたらその一日を後悔する気がして嫌だったのだ。その気持ちを全て、柚月に話そうと思う。
 事務所の玄関から入って、エレベーターで二階に上がる。いつもより十分早いから、きっと柚月よりも早くついたはずだ。
 ところが、二階に到着して開いた扉の向こうにある休憩スペースの定位置には、すでに柚月の後ろ姿があった。作戦失敗だ。でも、いつもよりも十分長く一緒にいられるということだと気持ちを切り替える。エレベーターを降りて葵が「柚月」と声をかけようとした。でもその声を飲み込んだのは、「柚月くん」と女の子の声が聞こえてきたからだ。奥の通路から可愛らしい女の子が姿を現した。高い位置で一つに結った長い髪が揺れている。白いTシャツの裾は短く、ちらりとお腹が出ているところが今風なのだろうか。大人っぽく見えるけれど、葵と同じ年くらいなのかもしれない。冷えそうだなと思ってぼんやり二人のことを眺めていたら、彼女と一瞬だけ目が合った気がした。
「美玖、早いね」
 美玖という名前は、聞き覚えがあった。確か、新しいガールズグループのセンター候補だ。年齢は葵たちより一つ下でまだ中学生にも関わらず、ダンスには非常に長けているらしい。
「柚月くんがいつも朝早くからここにいるって教えてもらったの」
「誰に?」
「内緒」
 柚月と話せることがよほど嬉しいのか、葵のことなど見えていないかのように話し続けている。親しそうな様子になかなか近づく気になれなくて、葵はエレベーター前で会話が終わるのを待ち続けた。
「今日の練習着、どう?」
「うん。可愛いよ」
「でしょ」
 あの服は丈が足りないのではないく、あれが可愛いのか。葵が意外に思っていると、美玖は柚月の隣の席に勝手に腰掛けた。あそこは普段なら葵の席なのにと思うと、黒い感情が生まれそうになる。その感情を必死で抑えていたところで、美玖のスラリとした手が柚月の太ももに置かれたことがわかった。葵の心臓がドキリと跳ねる。
「柚月、私のこと好きでしょ」
「うん、まあね」
 葵は思わず目を見開いた。今の答え、本当に「うん」で良いのか。柚月は葵のことが好きなのではないのか。心がギシギシと軋む。それでも二人から目を離せずにいたら、突然美玖が動いて柚月の頬に口づようとした。柚月は少し体を動かして避けるような素振りを見せたけれど、慌てている様子は一切ない。もしかしたら、普段通りのスキンシップなのかもしれない。
「こら、女の子は簡単に男に近づかないこと」
「柚月は柚月よ」
「俺も一応男なんだよね」
「男の中で柚月が一番好き」
 これはいちゃついているのか。柚月だって男だから、女の子に触れられたら嬉しくなっちゃうって、そういうことだろうか。親密な彼らの様子も会話も葵には衝撃が強く、逃げ出したくなって思わず後ずさる。すると、水筒が入ったリュックがエレベーターの扉にあたり、大きな音が鳴ってしまった。その音に柚月が振り返る。
 目が合う寸前で、葵は近くに置かれている観葉植物の影に隠れた。リュックが重たくて尻餅をつきそうになりながらも、必死で持ち堪える。
「柚月くん?」
「美玖は練習に行きな。俺は用があるから」
「せっかく会いに来たのに」
「ありがとう。でも、大事な用なんだ」
 大事な用ってなんだろうか。葵が考えている間に、足音が近づいてくる。このままでは柚月にバレてしまうともっと身を小さくしたところで、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「葵くん」
 その名前を呼ぶ声は、葵の大好きな声だ。でも、隠れていたことがバレたと思うと気まずくて、なかなか顔を上げられない。そうしている間に、柚月が隣に座り込んだ気配。チラリと横を伺いみると、柚月が眉尻を下げて葵を見つめていた。
「葵くん、ごめんね」
「……え?」
「話しかけづらかったね」
 そのまま腕を引かれるままに立ち上がる。リュックが多少軽いのは、柚月が支えてくれているからだとわかった。
「昨日はごめんね」
「いや、俺こそ」
「葵くんが後悔するようなことはさせられないから、デートはしばらく我慢するよ」
 きっと、柚月も色々と考えてくれたのだろう。それがわかるからこそ、無性に申し訳なくなった。先ほどの光景を思い浮かべては打ち消して、精一杯の勇気を振り絞る。
「夕方からは?」
「ん?」
「俺だってデートしたいよ。バイトのシフトがない日にさ、夕ご飯とか食べに行こうよ」
 そうだ、そこで葵がご馳走してあげよう。今までの弁当を含めたお礼になるかはわからないけれど、ちょっとくらいは喜んでもらえるはずだ。
「ね、今までのお礼に、ご馳走する」
「葵くんが?」
「そうだよ」
 葵の提案に、柚月は思いがけず悲しそうな顔をした。それに慌てて、葵は考える。一体何なら柚月は喜ぶのだろう。
「じゃあ、二回ご馳走する」
「ご馳走はしなくていいよ」
「じゃあ」
 葵が必死で考えていると、柚月が右頬に手を添えて葵の顔を覗き込んできた。柚月の周りをキラキラが舞って、葵はその煌めきが眩しくて仕方がない。
「俺の作るご飯じゃ、だめかな」
「それじゃあ、いつもと一緒で柚月ばっかり負担じゃん」
「そんなことない。葵くんがご飯食べてくれるのが嬉しいからね」
「でも、それなら俺も一緒に作る」
「だからいいの」
 頑なに意見を曲げない柚月は何を考えているのだろう。それがわからなくて首を傾げると、柚月はふふっと笑って葵の額に口付けた。
「こ、こんなところで」
 慌てて額を抑えると、柚月は相変わらずの綺麗な顔で葵の顔を覗き込んでくる。
「葵くん、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
 こくりと頷いた柚月が、頬に添えている手とは反対側の耳に唇を寄せてくる。
「来週の水曜日」
「水曜日?」
「うん。来週の水曜日、葵くんのお腹見せてね」
「お腹?」
「俺の家で、いいでしょ」
「……いいけど」
 そう返事をしながら、葵は考える。見せるのは、お腹だけだろうか。お腹なんて、先ほどの美玖も見せていたではないか。差を見せつけるなら、きちんとそれ以外だって。そう考えてから、葵はサッと顔が熱くなるのを感じた。夜に恋人の家でお腹を見せつけるって、なんだか破廉恥だ。葵だって、恋人同士が何をするかくらい知っている。詳細は知らないけれど、概要は知っているつもりだ。柚月にそのつもりはあるのだろうか。
 熱くなった顔はそのままに、耳元から唇を離した柚月を見遣る。ふわっと微笑まれたその顔には下心なんて感じなくて、葵としてはそれはそれでショックだなと小さく息を吐いたのだった。