昨日、土曜日のアルバイトは体調不良として休みにしてもらった。日銭を稼ぐことができずに悔しかったけれど、意識を失って倒れたのだから仕方がない。念の為休日当番医にも診てもらって、過労と栄養失調を言い渡された。そういった事情を電話先の店長に話すと、日曜日も無理はしないようにと優しい言葉をもらったのだった。でも、葵は何がなんでも出勤しなければならないと考えた。それは、周に会うためだ。周に会って、きちんと自分の気持ちを伝えたい。周のことが大切で、でもその気持ちは恋ではないらしいと、誠実に伝える必要があると思ったのだ。
 だから今日、葵はきちんと出勤した。早いうちに周に話しかけよう。そう思ってから四時間。頭と気持ちは裏腹で、今日一日はなるべく周に関わらないように過ごしてしまった。彼が視界に入ると配膳先を間違えたり、皿を割りそうになったり、本当に注意力散漫になるのだ。
 そして今、葵は周と並んで更衣室にいた。他のアルバイト仲間たちは残務処理をしていて、周は葵を家まで送るために早めに仕事を上がってくれたのだ。どこまでも優しい周のことが、葵は大好きだ。でもそれは恋ではないと思うと、むしろ不思議なほどだった。
「あ、周さん」
 エプロンを畳みながら勇気を出して、隣の周を振り返った。緊張に息が苦しくて、喉の辺りしか見られない。
「ん?どうした」
 いつも通りの周の返事に安心して、チラリと彼の目を見上げる。ドキドキと鳴る心臓の音は、これから訪れるかもしれない色々な事態を想定してるのだ。周に対して本当の気持ちを伝えてしまえば、もうこれまで通りには仲良くしてくれないかもしれない。当然関係性は崩れてしまうだろう。葵はそれが怖いのだ。でも、怖くても、言うしかない。それが誠意だと思っていた。
「その、この前の、あれ」
「あれ?」
「……俺のことを、好きでいてくれるって」
 葵が呟くようにそう言うと、周は目を丸くしてから少しして、「ああ、あれか」と言った。
「俺、すごく考えて考えて、考えたんですけど」
「うん」
「……その、やっぱり他に、す、好きな人がいて」
「うん、そっか。……ごめんな」
 周はそう言って、葵の頭を優しく撫でた。まず思ったのは、謝られてしまったということだ。周は何も悪くないのに、むしろ、葵のことを好きでいてくれたのに、謝らせるのは違う。伝えたいのは、告白に対する返事だけではないのだ。
「俺、周さんのことが大好きです。ずっと好きで、お兄ちゃんみたいに好きで、大好きで」
 周の目をしっかりと見つめながら、訴えかける。
「誰よりも頼りになって、大人で、優しくて。つまり、これからもずっと大好きです。周さんが俺のこと嫌いでも、俺はずっと大好きですから」
 感極まって、目が潤んでくる。だって、これが周と会話できる最後かもしれないのだ。もしかしたら葵のことを嫌いになるかもしれない。それが悲しいけれど、周にはどこまでも誠実でありたい。もう少しで泣くかもしれないと思ったところで、ポカンとしていた周が吹き出した。ケラケラ笑っている様子は、まるで告白を断られた人間ではない。
「あはは!葵はやっぱり、面白いな」
「え?」
「俺のこと、そんなに好きなんだ」
「……はい」
「嫌いになんてならないよ。お前はずっと、俺の可愛い弟。俺がずっと守ってやるよ」
 いまだにおかしそうに笑いながらそう言われて、葵は今度こそ涙が溢れた。大好きで、大切な人に嫌われなかったことが、こんなにも嬉しい。周が両手で葵の頬を拭ってくれる。温かなその手に、人柄に、葵は何度救われるのだろう。
「何かあったら言えよ。俺もずっと、お前のことが好きだよ」
 その言葉の意味を考えながら小さく頷くと、周は優しく微笑んだ。
「泣く時は俺の前で泣きな。可愛いんだから、気をつけること」
「はい。可愛いので気をつけます」
「うん。そうしな」
 少しスッキリした気持ちで、周と一緒に従業員専用の裏口から外に出た。少し蒸し暑いけれど、夜の空気は灼熱の太陽が照りつける昼間よりずっとマシだ。周を見上げると、彼も葵を見下ろして微笑んでいる。
「葵くん」
 歩き出そうとしたところで、背後から聞こえた声に振り返る。まさか、こんな時間にと思ったものの、葵たちから少し離れた場所に佇んでいるのは紛れもなく柚月だった。昨日思いが通じ合った柚月とは、今日も一緒に一日中練習をした。合間に柚月手作りの弁当を食べて元気をもらって、他愛もない話で盛り上がってまた元気になった。「好きだよ」とこっそり伝えられたことには照れて上手く返せなかったけれど、柚月は伝えられただけで満足そうに笑っていた。
 記憶の中の柚月と異なり、今は険しい顔をしていることが気になるものの、葵は柚月に会えたことが嬉しくて手をブンブンと振った。
「友達?」
 隣の周の疑問には「仲良しなんです」とだけ返した。少しだけ表情を緩めた柚月が近づいてくる。無地のシャツに黒のパンツというシンプルなスタイリングなのに、素材が良いと雑誌から飛び出してきたかのように見える。
「こんばんは」
 近づいてきた柚月が周に挨拶をすると、周も「こんばんは」と返した。それ以降何も言わない二人に葵が戸惑っていると、周が葵の頭をクシャリと撫でる。
「仲良しが来たなら俺はさっさと帰るけど、大丈夫か?」
「はい、いつもありがとうございます」
「葵と仲良しの君。葵のこと頼んだよ」
「はい」
 いつも柔らかい雰囲気の柚月が、今は少し鋭い雰囲気を纏っている。それが不思議で、葵は周に手を振ってから柚月に近づいた。
「柚月、こんなところでどうしたの?」
「……」
「柚月?」
 葵が話しかけても、柚月は葵を見下ろしたまま表情を変えない。真顔のまましばらく見つめあって、葵がもう一度「柚月?」と首を傾げると、彼はやっと動いて大きな溜息をついた。
「葵くん、あの男の人とどういう関係?」
「どういうって……」
 関係性を問われて一番困惑する相手だ。告白されたということは、周は葵のことが好きで、葵も親愛の意味で大好き。ただの先輩とは違う関係性を、どんな言葉で表現したら良いのだろうか。
「難しいけど、すごく良い先輩」
「ふーん」
「優しいんだ。毎日送ったり、泊まらせてくれたり」
「泊まる!?」
「う、うん」
 ただ本当に送ってもらったり、泊まらせてもらっているだけだから、やましい気持ちはない。それなのに、信じられないと目を丸くされてしまえば、葵はオロオロと言い訳を考えてしまう。周が初めて葵を家まで送ってくれたのは、客に襲われそうになった時だった。柚月には話しただろうか。
「ほら、俺がこの前、客の男の人たちに」
 そこまで言って、この話はバイト仲間以外の誰も知らないことを思い出した。慌てて話を変えようと「この話じゃないや、えーと」などと言っていると、突然柚月から左腕を掴まれる。
「客の男の人たちにって、何」
「いや、その話はいいんだ」
「客の男たちに、何かされたわけ」
「いや、別に」
「そいつらが、葵くんに何をしたの」
 葵が言い訳をする間も与えないその様子に、もう逃げられないと悟った。冷静になってみたら口に出すのも嫌だけれど、葵が隠し通せなかったのだから仕方がない。葵は柚月を見上げながら、覚悟を決めた。
「ちょっと前だよ?俺、客の男に襲われそうになったんだ」
「……」
 柚月は葵をじっと見つめたまま動かない。その絵に描いたような無表情に怖くなった。葵としては女の子が被害に遭わなくて良かったと思ったくらいだったけれど、もしかしたら男なのに情けないとか思われるだろうか。
「でも、結局は俺が勝ったんだ。俺が自分で服を脱いで、脱いだと言うよりお腹を出したくらいだけど、それで隣の座敷に助けを求めてさ」
「……」
「そしたらその人たち出禁になった。だから、俺の勝ち」
 勝負だったら絶対に葵の勝ちだ。そこだけは自信があったから、柚月を見上げてニッと笑ってみせる。すると柚月は少し目を細めて、大きく溜息をついた。
「つまり、葵くんのことを襲った野郎がこの世の中にいるってことだね」
「う、うん。でも、俺がやっつけた」
「もちろん、勇敢な葵くんはかっこいいよ。でも、そいつらのことは絶対に許せない」
「大丈夫だよ。うちの店を出禁で、会社では減封処分だって」
「その程度じゃ軽すぎるよ。葵くんがどんなに怖かったか」
 掴まれた腕を引かれて、そのまま抱きしめられる。ふわりと柚月の香りがした。甘く爽やかな香りに包まれると、嬉しいのに心拍がおかしくなって困る。
「それからあの先輩が泊まらせてくれるようになったの?」
「うん」
「それで、あの先輩には何もされてないよね」
 そう聞かれて蘇ったのは、頬に押し当てられた唇の感触だった。でもあれは葵と周の秘密だ。柚月の肩口に顔を押し当てながらこくりと頷くと、柚月が葵の肩をそっと押して体を離した。
「嘘だ」
「う、嘘じゃないよ」
「本当?」
「本当」
 ジトリと細められた目に全て見透かされそうで怖い。だから今度は葵の方から柚月に抱きついた。突然なのに、柚月は危なげなく受け止めてくれる。耳元で「ふふ」と笑う声が聞こえて、背中をトントンと叩かれた。
「葵くん」
「うん?」
「これからは俺が送り迎えするよ」
「そんなの、悪い」
「俺は葵くんの恋人なんだから、それくらいさせてよ」
「でも」
「断るなら、ここでお腹見せて」
「え、なんで?」
 柚月が戸惑う葵の顔を覗き込んでくる。綺麗な顔には、憂いや悲しみが滲んでいる気がする。
「柚月、どうしたの?」
「だって、葵くんがその辺の男にお腹見せたって言うから」
「仕方なくね。そうするしかなかったから」
 葵がそう答えても柚月は納得いかないようで唇をムッと閉ざした。
「好きでやったんじゃないよ」
 それはちゃんとわかってもらわないと、葵が浮かばれない。ただ、葵は少し迷っていた。柚月に送り迎えをしてもらうのは本当に申し訳ない。そう思う反面、一緒にいられる時間が長くなるのなら、実際は嬉しいのだ。それに、柚月にだったら。
「柚月になら見せてもいいけどね」
「え?」
「俺の、お腹」
 でも、お腹を見せたら送り迎えはしなくても良いと宣言するようなものだ。少し戸惑いながらも、葵は一歩下がって、手はすでにTシャツの裾を掴んでいる。あとは捲るだけだ。
「だめだめだめ!」
 柚月が葵の手を押さえつけた。びっくりして柚月を見上げると、心なしか顔を赤くして葵を見つめている。
「今はだめ。ごめん、俺が軽率だった」
「柚月が言ったんじゃん。俺のお腹が見たいって」
「そうだよ、葵くんの可愛いお腹は見たいよ。すっごく見たい。でも、今見たら俺」
 そこでモゴモゴと言った言葉は聞き取れなかったけれど、柚月は葵のお腹は見たくないらしい。見たくないというよりは、見たいけど、今は気分じゃないというところだろうか。なんとなく釈然としないけれど、葵は「わかったよ」とだけ言った。すると、柚月はどこか安心したように表情を緩める。
「俺は葵くんのお腹を見られなくても、見られても、送り迎えはするよ」
「柚月って、変なの」
「俺は変じゃないよ。葵くんが可愛すぎるだけ」
 そう言いながら左手を掬い取られたら、その温もりに全部がどうでも良くなるのだから不思議だ。手を引かれるままに歩き出してから少しするまで、家とは反対方向に進んでいると気が付かなかった。柚月の横顔を飽きずに見つめていたからだ。柚月とケラケラ笑ながら方向転換して、家までの道を歩く。
「俺の顔、好き?」
 唐突にそう聞かれて、葵は戸惑った。柚月の顔を見続けていたことがバレていたのだろうか。柚月の顔は大好きだ。嫉妬するほど美しいその顔は、誰よりも輝いて見える。でも好きなのは顔だけではないのだ。性格も、優しさも、葵のことが好きなところも。
「柚月の全部が、大好きだよ」
 照れ隠しに繋がれた手をぷらぷらと揺らしながらそう答えた。素直に言葉を紡ぐことがこんなに恥ずかしいだなんて、葵は今まで知らなかった。チラリと柚月を見上げると、柚月はぎゅっと目を瞑っている。
「柚月、目にごみ?」
「今噛み締めてるから、ちょっと待っててね」
「何を?」
「世界で一番可愛い葵くんが、俺の全部が好きなんだってこと」
 変なやつだなと思った。葵が好きなことくらい、とっくにわかっていたくせに。でもそんな柚月のことも好きなのだから、葵も大概だ。
「柚月のことが好きー!」
「うっ」
「大好きー!」
「わかったってば」
 目を瞑ったまま怒ったようにそう言われて、葵は思わず笑ってしまった。面白い柚月が見られるなら、何度だって言ってやる。少しの本心を隠して、葵は優しく柚月の手を握りしめるのだった。