「葵、大丈夫か」
 そう声をかけてきたのは、いつもの歌の講師だった。恐らくたった今出勤してきたところなのだろう。肩にはバッグを下げている。
「ここは三階だぞ。ダンスは二階。葵の歌の練習は午後だからな」
「……ああ、そうか」
 すみませんと頭を下げて、フラフラと階段を下り、ダンス練習室に向かう。時刻は朝の八時半。こんな時間なのに、うっかり歌の練習に行ってしまうところだった。
 昨日は一睡もできなかった。ベッドに入っても周の告白を思い出して目が冴えてしまって、宿題を片付けて寝ようとしたところで、また周の告白を思い出した。苦しくて、辛くて、でも優しい周に甘えてしまいたくて、どうしようもない。結局最後は一人で生きようと心に決めるわけだけれど、そこで頭に浮かぶのは柚月の綺麗な顔だった。
「一人で生き抜くなんて言わせないよ。俺が一緒に頑張る」
 いつだか言われた言葉が蘇り、慌てて首を振っては、また柚月のことを考えての繰り返しだ。周のことを考えていたはずなのに、いつからか柚月のことを考えていて、自分でもわけがわからない。こんなに思考が乱れるのは生まれて初めてだった。
 ダンス練習室には誰もいなかった。好都合だと思いながら体を入念にほぐして、それから無線イヤホンを耳につける。本当はイヤホンからではなく音楽を流した方が良いのだけれど、もう少ししたら練習生たちがやってくるから邪魔になるだろうと思ったのだ。直接耳に流れる音楽に合わせて体を動かしていく。苦手だったところ、上手く踊れるところ、特別気にしたこともなかったところ、今日はその全てが上手くいかない。おかしいなと、何度も何度も踊り続けた。こんなの葵らしくない。踊りながら、柚月や周の顔が浮かぶのだ。勘弁してくれと髪をかきあげては、また踊り直す。無我夢中で体を動かしていたら、ふと頭のあたりから血の気が引いた気がした。慌てて止まって、その感覚をやり過ごす。肩で息をして、でも構わずにもう一度踊り始めたら、今度はくらりと目が眩んだ。こんなのおかしい。眩暈がおさまったところで無理に体を動かそうとした瞬間、そのまま前も後ろもわからず、葵の世界は真っ暗になったのだった。


 温もりに包まれる感覚に、葵を呼ぶ声。ふわりと目を開けると、目の前には葵を見下ろす柚月の顔があった。あまりに必死なその様子に驚いて、ゆっくりと瞬きを繰り返す。どうやら葵は柚月に上半身を抱え上げられているようだ。そう気づいた次の瞬間には逃げようと心に決めていた。慌てて身を起こそうとするとくらりと眩暈がする。自然と体の力が抜けてしまったけれど、それでも腕の中から抜け出そうと躍起になった。でも彷徨わせた両手は、すぐに柚月によって掴まれてしまった。相変わらず、柚月からは甘く爽やかな香りがする。
「葵くん、よかった」
 今にも泣き出しそうな柚月に、葵の方が慌ててしまう。
「葵くん、いきなり倒れたんだよ」
「俺が?」
「覚えてない?」
 眩んだことは覚えているけれど、まさか倒れたなんて思わなかった。
「とりあえず、医務室に行こう」
「いや、大丈夫」
「だめ」
「大丈夫」
 起きあがろうとすると、今度は体をぎゅっと抱きしめられてしまって身動きが取れない。
「松本くん、休んだ方がいいよ」
「そうだよ。ちょっと休んだって、松本くんがすごいことはみんな知ってるから大丈夫だよ」
 葵の顔を覗き込みながら、年下の練習生たちが口々にそう伝えてくれる。そのことに、なんだか泣きそうになった。最近涙脆くて、葵はおかしい。
「そうだな」
 葵が小さく呟いた瞬間だった。
「うわっ」
 柚月に軽々と抱え上げられて、思わず声が漏れた。ぎゅっと首元にしがみついて、柚月の顔を上目遣いに見つめると、柚月は真剣な顔で「行くよ」とだけ言った。
「柚月、おろして」
 葵が何回伝えても、柚月はおろしてくれなかった。立ちくらみは一時的なもので、きっと今は一人で歩けるはずなのだ。エレベーターを待つために柚月が立ち止まったところで、もう一度おろしてもらおうと試みる。
「柚月」
「葵くん」
「うん、もう大丈夫だからさ」
「俺は葵くんのことが好き」
「……え?」
 思いがけない告白に、葵は思わず聞き返してしまった。そんなはずないと思って首を傾げていたら、柚月が至近距離から葵を見下ろしてくる。
「ずっとずっと、葵くんのことだけが好き」
「好きって……」
 その好きは、一体どういう好きなのだろうか。柚月は黙ったまま到着したエレベーターに乗り込んで、器用に一階のボタンを押した。気まずい沈黙の中、葵は必死で考える。好きって、どういう意味だろうか。友達としてなのか、恋心ありきなのか、好きにも色々とある。
 葵がぐるぐると思考を巡らせているうちに、エレベーターは一階へと到着し、そのまま医務室へと連れて行かれた。一番奥のベッドにそっと腰をかけるように降ろされたと思ったら、練習シューズに柚月の手がかかる。
「自分でやるよ」
 靴を脱がせてもらうだなんて柚月にさせるのは忍びなくて必死で手を伸ばす。柚月はそれとなくその手を遮ると、優しい手つきで葵の練習シューズを脱がせてくれた。
「ご、ごめん」
「いいから、横になって」
 促されるままにゆっくりとベッドに横になると、少し息をするのが楽になった。
「葵くん」
 柚月は葵の名前を呼びながら、葵の顔の横あたりにしゃがみ込んだ。ベッドの上で腕を組んで、そこに顎を乗せる。あまりの近さにドギマギしながらも、葵はチラリと柚月の顔を見た。相変わらず綺麗で、かっこいい。心臓がトクトクと高鳴って、せっかく落ち着いた息が苦しくなってくる。
「俺は、葵くんのことが大好きだよ」
「うん」
「脅しに使ってたキスだって、本当は俺がしたかっただけ」
 葵が何も返すことができずにいると、柚月は葵の前髪を退かして身を乗り出し、額に優しく唇を押しつけた。葵は目をぎゅっと瞑ってそれを受け入れることしかできない。とにかく、混乱しているのだ。柚月が葵のことを好きだという。それはキスをしたい方の好き。それって、つまりは。額から柔らかい感触が離れていくことが、こんなにも苦しくて切ない。
「ね、わかった?俺は葵くんのことが、こんなに好き」
 瞑っていた目を開いた先には、優しい表情で葵を見つめる柚月の顔がある。その表情には少しの憂いも含まれている気がして、紛れもない本心を伝えてくれたのだとわかった。
 ただ、柚月の気持ちは本心だとしても、その気持ちを受け入れるには懸念がある。だって、柚月には他にも好きな人がいるはずなのだ。
「でも、春のことは、どう思ってるの」
 柚月の顔を見ることができない。やっと口に出したその言葉に、心がヒュッと竦んだ気がした。言わなければ良かっただろうか。言わなければ、柚月は葵のことが好きという言葉だけ受け入れることができただろう。胸の中に広がった後悔に、なんて卑怯な人間だろうかと自分に呆れ返る。ところが、葵が自己嫌悪に陥っているにも関わらず、柚月は「丸山くんが、何?」だなんて言っている。
「春のことが、好きなんじゃないの」
「俺が、丸山くんを?」
「だからそう言ってるだろ。実際にそうだろうし」
「なんで丸山くん?」
「なんでって……」
 あれは球技大会の時だったはずだ。
「この試合に勝ったらさ。葵くんの大事なもの、ちょうだい」
 試合前に柚月から言われた言葉。葵はあの時、大事なものが何かわからなかった。今でさえわからないけれど、あの時、大事なものは親友である春のことだと思い込んだのだ。今だって大事だけれど、現在は大事の種類が増えていた。春は親友として一番大事で、柚月のことは。それから「あぁ」と絶望の声を上げた。周のことだって大事なのだ。葵はどうしたらいいのだろう。
「葵くん、俺は丸山くんも良い子だと思うけど、葵くんが好き」
「う、うん」
 心が震えるのは本当だ。でも素直に喜べないのは、思いがけない展開に戸惑いが大きいからだ。
「葵くんが俺のことを好きじゃなくても、俺は葵くんのことが好き」
 コテンと傾けられた顔。ひえっと、悲鳴をあげそうになった。それほどまでに美しくてかっこいい。
「だから、また俺にお弁当を作らせてくれない」
 そう言った柚月が、葵の髪をさらりと撫で、髪を耳にかけてきた。その仕草に昨日の周を思い出して、心がざわつく。
「とりあえず、誰か職員の人を呼んでくるね」
 そう立ち上がった柚月の左手を、葵は自然と掴んでいた。今を逃したら、一生答えを出せない気がする。どうして一筋縄に行かないのだろう。あんなに柚月を好きだったのに、自分の気持ちがよくわからない今思いを告げられるなんて、人生って摩訶不思議だ。ただ、柚月の手を掴んだ手がじわりと疼いて、体が熱くなる。それが全ての答えのような気がした。
「柚月」
「ん?」
 不思議そうに葵を見下ろす柚月を真っ直ぐに見つめる。
「俺、昨日告白されたんだ」
 葵がそう伝えると、柚月が眉間に皺を寄せる。そんな顔もかっこいい。
「誰に」
「……誰でもいいじゃん」
「もしかして、誕生日に慰めてくれた男?」
 少し考えて、確かにその通りだと思った。なぜ周に慰められたことを知っているのだろう。その的中ぶりに驚いたものの、ここで話を止めるべきではないのだ。言いたいことは、まだその先にある。
「確かに、慰めるのが上手な男の人。年上で、大人で、優しい人だ」
「……」
「その人と、こうして手を繋いだよ」
 柚月は手まで綺麗だ。ぎゅっと握りしめると、柚月も力を入れ返してくれる。
「不思議と、小さい頃、兄貴と手を繋いだことを思い出した」
「お兄さん?」
「そう。つまり、柚月とする時みたいに、ドキドキはしなかった」
 繋がれた手を眺めてから、柚月を見上げる。彼はその言葉の意味することがわかったのだろう。今は優しい表情で葵を見つめている。
「柚月は春が好きだと思ってた。それに春はいいやつだから、二人が結ばれたら良いと思ったんだ」
「何それ。なんでよ」
「でも、俺は、柚月のことがずっと好きだった」
 葵が心の中をやっと明かすと、柚月は驚いたように目を見開いた。
「葵くんが、ずっと?」
「そうだよ。すごく、すごく、好き」
「……教えてくれたら良かったのに」
「柚月だって、教えてくれたら俺も悩まなかったのに」
「お弁当作ったり、キスを迫ったり、俺は結構頑張ってたよ」
「……た、確かに」
 今思えば、随分とストレートな愛情表現だ。どうして気がつかなかったのだろうか。全ては春に対してのアピールで、葵はただの練習台だと思ってしまったのだ。
「でも、もう良いよ。俺たち、両思いなのか」
「両思い」
「そうだよ。俺は葵くんが好きで、葵くんは俺のことが好き」
「うん」
「それってすごいことだよね」
 確かにそうだ。お互いに好きだなんて、すごいことだ。まるで奇跡のように思えて、そう感じた瞬間に実感が湧いてきた。この葵のことを、柚月は好きなのだ。嬉しくて、嬉しくて、涙が滲む。
「葵くん、泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
 柚月まで泣きそうに笑いながらそう言った。ああ、好きだ。大好き。途端に世界が煌めく。心が躍って、ひらひらふわふわ、空も飛べそう。
「またお弁当作るから、少しは脂肪を蓄えること」
「やっぱり、お弁当は悪いよ」
「恋人にお弁当作って何が悪いの」
「う、うん」
「断るなら、キスしちゃうよ」
 イタズラを思いついたようにそう言われたって、葵は困ってしまう。お弁当もキスも、葵にとってはご褒美みたいなものだ。実際キスは無性に恥ずかしいとは思うけれど、今の葵には脅しにもならない。
「……良いよ」
 存外に小さな声になったけれど、柚月には聞こえたらしい。目を丸くして、それから堪らないというように笑顔を浮かべた。柚月がそっとベッドの方へ身を乗り出す。葵を囲うようにつかれた両手に、ドキドキが最高潮だ。柚月の綺麗な顔が迫ってくる。
「……キスしても、お弁当作ってくれる?」
 唇が触れる寸前で、そう尋ねてみた。至近距離にある瞳が美しい。優しく緩んだそれは、葵にとっては宝箱の宝石みたいだ。
「もちろん」
 そうして合わさった唇は、柔らかくて甘くて、確かに恋の味がしたのだった。