スッと伸びた腕に、憂いを帯びた横顔。壮大で、切なくて、優美だ。細く開いた扉から漏れる光は随分と眩しい。光の中はただの練習室であるはずなのに、まるで大きなステージのように見えるのだから不思議だった。小さく流れる音楽をどのように解釈しているのか、初見でもよくわかる。二月の空気は室内でもこんなに冷たいのに、あれほど汗をかくだなんて、いつから踊り続けているのだろうか。苦しいほどの努力と、それによって磨かれた才能を強く感じる。
まつ毛がふるふると震えたと思ったら、くるりと身を翻す。ふわりとした髪の毛の先まで、全てが彼の思い通りに動いているようだ。それほどまでに、仕草が、角度が、息遣いが、息を呑むほどに美しい。鼓動がトクトクと高鳴る。
「ああ、松本葵か」
後ろからかけられた声にも上手く反応ができなかった。でも、自然と心の中でその名前を繰り返す。松本葵。初めて聞いた名前だ。名前もその容姿も女の子のように見えるけれど、あの筋肉の使い方は紛れもなく自分と同じ男だとわかった。
「最近入ってきた新人だよ。アイドル志望らしい」
そこでやっと先輩の声だと認識して、反応するように頷いてみせる。それでも彼から視線を外すことは到底できない。
「ああやって、いつも狂ったように踊り続けるんだよ。歌も相当上手いらしいぞ」
「……そうですか」
「今度ちゃんと見せてもらえよ。きっと刺激になるから」
「はい」
やっと視線を外してゆっくりと振り返ると、先輩は柚月ではく部屋の中を見ていた。踊り続ける彼は、こうして人の視線を奪う何かを持っているのかもしれない。
「まあ、頑張って欲しいよ。この世界じゃあ、努力したって報われるとは限らないからな」
先輩の言葉に、もう一度ゆっくりと頷く。本当にその通りだ。芸能界という厳しい世界で、本当に頼りになるのは自分だけ。自分自身もそれを理解して鍛錬を重ねてきた。ただ、彼の才能は、努力は、確かに報われるべきだ。彼は確実に、他人に多大な影響を与える人物だろう。ジャンルは違えど同じ世界を目指すライバルに対してそう思うだなんて、我ながらどうかしていると思った。胸の高鳴りがうるさくて、息苦しい。この気持ちはなんだろうか。興味、羨望、嫉妬、尊敬。
「まあ、柚月は俳優として頑張れよ。うちの有望株なんだからな」
やっと柚月を視界に入れた先輩が、ポンポンと肩を叩く。
「……頑張ります」
暗い廊下を先輩の後について歩く間も、彼のことが頭から離れなかった。こんなことは生まれて初めてだ。今この瞬間にも、彼は音に体を揺らし、華麗なターンを決めるのだろう。美しく、壮大なあの動きをもう一度見たい。そう思った自分自身のことがよくわからなくて、柚月は細く漏れる光を小さく振り返ったのだった。
桜並木に晴れた空。緊張さえなければ、きっと葵の胸はコトコトと弾むのだろう。成長を見越して作った制服は少し大きくて、袖と裾のあたりを持て余している。でも、このブルーが基調になった制服がどうしても着たかったのだから、葵は今日という日を喜ぶべきなのだ。
葵の夢はアイドルになることだった。小さな頃からずっとそれだけを夢見て、ダンスや歌の練習を欠かさなかった。その夢を叶えるために、そこそこ有名な事務所にやっとの思いで所属したのが三ヶ月前の一月のことだ。そして事務所に所属しながら勉学に励むためにも、地元から遠く離れた芸能コースがある男子校へ進学することにしたのだった。親元を離れることや知り合いがいないことへの恐怖、新生活全般に対する不安、それらが全て葵にのしかかって、正直心細くてたまらない。それに、昨日はアルバイトで体を酷使したため、手足が異様に重怠いのだ。その上引っ越してきてからまともな物を食べていないためか、上手く力も出なかった。でも、アイドルたるもの、ストレスには強くないといけないはずだ。これも立派な試練の一つだと、なんとか自分を奮い立たせていた。
迷子にならないように慎重に歩いていたら、目指していた高校の時計塔が見えてきた。少しだけほっとして、重い足を引き摺りながらも先を急ぐ。次の角を曲がったら校門がある大通りに出るはずだ。それなのに、角を曲がって門があるあたりに見えたのは、大きな大きな人だかりだった。異様な様子を不思議に思いつつ近づいていくと、人だかりはほとんどが様々な制服を身につけた女の子たちだと気がついた。彼女たちは一体何をしているのだろう。戸惑いつつも集団に近づくと、彼女たちは楽しそうにキャッキャと何か話している。
「今年の一年生も、やっぱり将来のスターなのかな」
「今年の目玉は柊木柚月くんでしょ」
「私もそう思う」
話の内容から推察すると、どうやら彼女たちは芸能コースの新入生を偵察しにきたようだ。柊木柚月、その名前は葵もよく知っていた。同じ事務所に所属する俳優志望の男の子で、事務所の有望株らしい。レッスンの日に遠くから何度か見たことがあったけれど、小さな顔にスラリとした体躯が人間離れをしていたことをよく覚えている。彼も同じ高校に通うのかと思うと、ちょっと憂鬱で、でも負けてはいられないと気を引き締めた。
気を引き締めたついでに、女の子たちの集団に近づいて校門から校庭に入ろうと試みてみる。ところが、彼女たちはすっかり校庭にいる男子校生たちに夢中のようで、一向に葵に気づいてくれないのだ。
「あの……うわっ!ちょっと、すみません」
女の子に触れてしまったらセクハラになってしまうと思うと、どうにも上手く躱わせない。近づいては弾き出されて、また挑戦しては弾かれての繰り返しだ。楽しんでいるところを大変申し訳ないけれど、大きな声で話しかけようと改めて気合いを入れたその時だった。
「大丈夫?」
後ろから聞こえた聞き心地の良い声に振り返る。うわ、と声をあげそうになるのを必死で耐えた。そこには驚くほど間近から葵を見下ろす柊木柚月の姿があったのである。近くで見ると尚更小さな顔に、綺麗で大きなパーツが美しく配列されている。葵よりもずっと背の高い柚月だけれど、その少女のような可憐さは美少年という言葉だけでは表現し難いものがあった。
「……いや、その」
あまりにも美しいものを見ると語彙力を失うものらしい。そんな自分にびっくりしつつ、女の子たちの集団を指差すと、彼は一つ頷いて「一緒に行こうか」と言ってきた。
「ちょっと、いいかな」
柚月が声をかけた瞬間に振り返った女の子たちは、彼の顔を見て悲鳴に近い声をあげた。そうなる気持ちはよくわかるよ、と心の中で呟いてみる。悔しいけれど、間近で見る柚月は信じられないほどにかっこいいのだ。彼女たちに共感していたら、柚月が葵を振り返った。
「おいで」
再び悲鳴が沸き起こる。おいでって、葵に言っているのだろうか。今の所すべてにおいて完璧な柚月にそんな風に言われると、まるで物語の中に入ったような気分になってしまう。風に漂う桜の花びらが柚月をふわりと包んで、葵の目の前をチラチラと舞い落ちる。葵がぼんやりしてすぐに反応できずにいたら、柚月は一つため息をついて、「ほら」と言いながら葵の右手を掬い取った。驚いている間に手を引かれ、女の子たちの間を上手にすり抜けていく。
無事に校門の中へ入ってしばらく校庭を歩いたところで、葵はハッとした。いつまで手を繋いでもらっているのだろう。
「あのっ、柊木くん。ありがとう」
葵が声をかけると、柚月はパタリと足を止めて葵を振り返った。
「俺の名前知ってるの?」
「うん。柊木くんは知らないだろうけど、一応同じ事務所だから」
自分で言っておきながら、この言葉で柚月と葵の優劣が定まった気がした。有名な柚月と、無名の葵。でも仕方がない。煌びやかさも、カリスマ性も、葵とは雲泥の差だ。そう思って勝手に落ち込んだ葵の傍、柚月は優しい眼差しで葵のことを見下ろしてきた。
「俺も君のこと見たことあるよ。松本葵くんでしょ」
「えっ、うん。そうだけど」
まさか葵のことを知っているだなんて思ってもみなくて、戸惑いながら辿々しく答えた。そんな葵に対して、柚月は少し嬉しそうに話し続けてくる。
「先輩が言ってたんだ。人一倍練習する優秀な子だって」
「俺が?」
「そう。今度ダンス見せてもらいなって」
確かに他の練習生よりも練習している自覚はあった。でもそれは周りよりも格段に劣っているからだ。練習を重ねても重ねても、まだまだ足りないと思ってしまう。ただ、葵はダンスも歌も大好きだから、練習が苦にならないことが我ながら長所だとは思っていた。
「ダンス、好きだから」
「そうなんだ、今度俺にも教えてくれる?」
「俺でよければ、いいけど」
褒められたことに悪い気はしなくてそう答えた。でも、葵のことを素直に褒められる柚月の余裕が羨ましい。そんな葵の心の内に気が付かず、柚月は嬉しそうに綺麗な顔で笑って見せた。
入学してから一ヶ月半が経った。五月の連休もあっという間に過ぎ去って、慌ただしい毎日を過ごしている。葵はなんとかクラスにも馴染むことができて、学校生活は案外楽しくやっていた。特に、名簿順で後ろの席だった丸山春は葵にとっての親友になっている。今日もチャイムが鳴ったのと同時に後ろから肩を叩かれた。
「葵、お昼だ」
「わかってるよ」
「またご飯持ってきてないんだろ。購買行くぞ」
混み合う前に急いで購買に向かうことが、いつもの二人のルーティンだった。大食漢な春は今日もデラックス弁当、葵は唐揚げの入ったおむすびを一つ選んだ。
「葵、心配だからもっと食いな」
「これね、中身唐揚げ。それにいつも夕ご飯たくさん食べるから大丈夫だよ」
これは本当だけれど、少し嘘だった。葵は生活費を稼ぐために、四月一日からアルバイトを始めた。だから、シフトのある日はアルバイト先の居酒屋で賄いを食べられるのだ。そうではない日は節約料理に精を出す毎日だけれど、そんなこんなで一ヶ月半なんとか生き延びている。どうしてこんなに貧困を極めているかといえば、葵が実家から遠く離れて一人暮らしをしているからだった。実家は特別裕福な家庭でもない上に、まだまだ食べ盛りの兄と弟がいる。好きなことをしている以上は自分でも生活費を稼ぐ必要があるのだ。レッスンの後の時間になんとかシフトを組んでもらい、日銭を稼ぐ毎日。本当はもっと客層の良い店で働きたいけれど、時給もアルバイト仲間の人柄も良いから辞めたいとは思っていなかった。
本当は自炊の方が安く済むのだろうけれど、レッスンもアルバイトもある日の翌日は体がクタクタで、朝起きてから昼食を用意する体力は残っていなかった。
買ったばかりのおむすびを大事に持って春と教室に戻り、ベランダへ出る。青い空に太陽が眩しくて、ぽかぽかと暖かい。一階に位置する一年生の教室は花壇に面しており、園芸委員になった葵が植えたパンジーの苗がいくつか並んでいた。今日もたっぷり水をやってから帰ろうと思いながら教室の外壁に背を預けて、おむすびに巻かれたラップを剥ぐ。カプリと一口食べただけで、ジワッと空腹に染みる感覚。葵の体、今のうちにたくさん吸収しておくれ。今日はバイトがない日なのだ。夕ご飯は豆腐か、もやしか、贅沢に白米か。そのどれかを醤油と食べよう。
深刻な夕飯問題を考えながらおむすびを熱心に咀嚼していたら、いきなり目の前に唐揚げがやってきた。
「はい、あーん」
春のご厚意に甘えて、おむすびを飲み込んでから口を開く。春にとっても貴重な唐揚げのはずだ。それをパクリと口に入れてもらって必死に味わう。「どう、美味い?」と横から聞かれて、葵は大きく頷いた。
「もちろん、最高」
「葵のおむすびの具も唐揚げだなと思ったんだけど、俺の弁当の中で一番高カロリーだからさ」
「ありがとう。春は俺にカロリーをくれたのか」
やっぱり親友と唐揚げは最高だと心から感謝していると、どこからか視線を感じることに気がついた。キョロキョロと見回して、中庭にあるベンチに目をやる。そこには葵たちの方を見つめる柚月の姿があった。しきりにこらへ視線を投げ続ける柚月に、周りを囲む友人たちも戸惑っているようだ。柚月とは同じクラスになったけれど、なんとなく付かず離れずの距離感で過ごしていた。当然、ダンスを教えるという約束も叶っていない。一月経った今思うのは、きっとあれは社交辞令だったのだろうということだ。
「なんか、こっち見てるね」
春も柚月の視線に気がついたのか、葵にこそこそと話しかけてくる。葵は軽く頷いて、一応右手をふらふらと振ってみた。
「葵、仲よかったっけ」
「ううん。でもこっち見てるから」
「あれさ、実は俺たちのこと見てなかったらどうする?」
「えっ!」
思わず振っていた手を止めてサッと膝下に隠した。それは恥ずかしすぎる。勘違いをして人気者の柚月に手を振っただなんて、自意識過剰と思われたらどうしよう。葵が羞恥心にドキドキしていると、その瞬間に柚月がベンチから立ち上がり、ずんずんと葵たちの方へ近づいてきた。
「なんかこっち来た」
そう言いながら、春は葵の横でデラックス弁当の白米を大きな口で食べた。春のようにこのタイミングでご飯を食べるだなんて到底無理で、気まずいままに視線を彷徨わせることしかできない。すると柚月が葵の前までやって来て、正面にしゃがみ込んできた。ふわりと香る、甘く爽やかな香り。柚月は葵と目を合わせると、「ねえ」と声をかけてきた。
「な、なに?」
「いくつか質問していい?」
「……どうぞ」
断る理由もないからそう返事をすると、柚月は葵が片手で持っている食べかけのおむすびを指差した。
「お昼、これ一個なの」
「うん。今日はね」
葵がそう答えると、春が横から「この子、万年金欠だから」と余計なことを言ってきた。咎めようと思ったけれど、その通りだから「あはは!」と笑っておく。それに対して柚月は少し眉を顰めると、今度は春のお弁当を指差した。
「だから、唐揚げもらってたの?」
「……まあ、そんな感じ」
何を聞かれているのだろうと疑問に思いながらも、ぼんやりと返答する。すると横から春が「無理矢理口元に持っていかないと食べないからさ。結構コツがいるんだよ」と言ってきた。知らないうちにコツがいるお世話をさせていたのか。葵としてはちょっと情けないけれど、春ってやっぱりいい奴だ。あとでちゃんと感謝を伝えよう。そう考えているうちに、突然柚月がおむすびを持っている葵の左手を優しく掴んだ。
「じゃあさ、俺がお弁当作ったら、食べてくれる?」
「え?」
思わず聞き返すと、柚月が顔を傾げて上目遣いに「だめ?」と言った。うわあ、可愛い、と思ってから、いやいやと慌てて思い直す。
「俺、本当にお金ないから食料品代とかも払えないんだ。ありがたいけど、」
俺のことは気にしないで、と言おうとした瞬間に、柚月は首を横に振った。
「そんなのいらない。俺、一人暮らしだからお弁当は自分で作ってるんだけど、いつも材料が余るんだ」
「そうなの?じゃあ、朝ごはんに食べなよ」
「食べても余るんだ」
「豊かな生活だな」
葵とは程遠い生活に、素直に感心してしまう。それでも甘えるわけにはいかないともう一度断ろうとした時、柚月は再び上目遣いで見つめるように葵の顔を覗き込んできた。
「ねえ、だめかな……。俺が作ってあげたいんだよ」
「でもそんなことしてもらう意味がないというか、お返しができないというか」
「意味もお返しもいらないよ。ね、俺に作らせて」
「だって、……正直俺たちそこまで仲良くないじゃん」
葵がそう言うと、柚月は目をまん丸に見開いて驚きの表情を浮かべた。
「え、そうだよね。だって、入学式以来まともに喋ってないし」
葵の中では揺るがぬ認識を説いてみたら、柚月はぎゅっと悲しそうな顔をする。その顔を見て焦ったのは、葵だけではなかった。
「葵、柊木くんと仲良かっただろ。たまに話してるじゃん」
フォローするかのような春の言葉に、柚月は悲しそうな顔を崩さないまま小さく頷いて、「そのはずだよ」と言った。
「ね、だからお弁当作ってもらえって。そしたら俺も安心だから」
それでもそうするわけにはいかないよなと悩んでいたら、柚月が今度は葵の左頬に手を添えてきた。それから懇願するように葵の目を覗き込んでくる。
「もしお弁当作らせてくれないなら、ここでキスするけど」
「……はいぃ!?」
我ながら異常なほどに可愛くない声がでた。でも、どんどん近づいてくる柚月の顔から、本気なのだとわかってしまう。
「えっと、えっと……!わかった、わかったって!ありがとう!」
葵がなんとかそう叫ぶと、柚月はやっと満足そうな顔をして大きく頷いた。
チャイムが鳴り響くとともに、校内が途端に賑やかになる。とうとうこの時間がきてしまった。
「葵、お昼だ」
いつものように後ろから春に肩を叩かれると、葵はますます憂鬱な気分になった。昨日の柚月との約束を思い出したのだ。葵のために弁当を作ってくると言っていたけれど、あれは本気だろうか。本気ではないなら遊ばれた気分だし、もし本気だったとしたらそれはそれで反応に困る。いくら考えても柚月に弁当を作ってもらう理由も義理もないのだ。
「俺はデラックス弁当買ってくるから、葵はベランダにいな」
春が席を立ったところで、葵も慌てて立ち上がった。
「俺も行くよ」
「お前の弁当は柊木くんが作って来てるんじゃないの」
疑うつもりすらないように真っ直ぐな瞳で言われると尚更困ってしまう。あんな約束は絶対に守られないと言ってしまえば柚月を信じていないみたいだし、約束を信じすぎたら結果的に柚月が戸惑ってしまうかもしれない。兎にも角にも、葵には柚月の様子を伺ってみるしかないのだろう。なるべく見ないようにしていた教室のど真ん中の席に視線を向ける。柚月の席は教室の中心だ。ただの名前順だとわかっているけれど、やはりスターは生まれながらにセンターを飾るものなのだろう。葵の視線の先には席を立った柚月がいる。いつも柚月を取り囲んでいる友人たちが周りに寄り付いていて、葵には出る幕もなさそうだ。なんだ、良かったと、息をついた。
「柊木くんみたいな忙しい子が作るわけないよ」
そう言いながら春を見上げると、春は「え、でも。あれってさ」と柚月の方を指差した。改めて指先の向きへ視線をやると、柚月が大きな保冷バッグを手に持ったところだった。そして友人たちに何か言うと、顔を上げて葵と視線を合わせてくる。
「葵くん」
彼は教室のど真ん中、葵は窓際の列の一番前の席。少し距離を置いたそのままの状態で、柚月は保冷バッグを持ち上げた。
「約束、覚えてるね?」
コテンと顔を傾けて尋ねられるその様子は、まるでドラマのワンシーンだ。その姿をぼんやりと眺めていたら、春が隣から「ほらな」と得意げに言った。
ベランダへ出ると、暖かな日差しが暑いくらいだった。右にはデラックス弁当を買ってきた春、左には膝上に保冷バッグを置いた柚月がいる。成り行きで挟まれてしまったわけだけれど、こうして男に囲まれるとかなり暑い。
「はい、どうぞ。落とさないように気をつけて」
そう言って柚月から渡された真っ赤な弁当箱は、大きくてずっしりと重たい。思ったより本格的だなと思いつつ柚月へ視線を送ると、彼は唇を引き結んで葵の手元を見つめていた。
「本当に、作ってくれたんだね」
「うん」
葵が話しかけると、柚月は少しだけ表情を緩めて葵と目を合わせ頷いた。緊張しているようにも見えるけれど、まさかと思った。まさか、柚月のような男が、葵ごときの反応を気にするわけない。弁当を膝の上に置いて、それから蓋をゆっくりと開ける。
「うわあ」
思わず感嘆の声が漏れた。大盛りご飯と、弁当箱の半分を占める数々のおかずたち。卵焼きに可愛い形にかたどったウィンナー、野菜炒め、ミニハンバーグ、トマトの和物のようなものまであって、美味しそうなだけでなく、彩がとても綺麗だ。
「本当に、俺が食べていいの?」
葵が改めて確認すると、柚月はこくりと頷いた。こんなに豪華なお昼ご飯を、今から食べられるのか。どうして柚月が作ってくれたのかは未だよくわからないけれど、お腹がグウっと鳴ったらどうでも良くなった。
「本当にありがとう……」
「葵、泣いてるのか」
春がデラックス弁当の蓋を開けながら葵の横顔を覗き込んでくる。
「まだ泣いてはいないけど、泣きそう」
柚月が保冷バッグの中から箸を取り出して、葵に渡してくれる。それを受け取るだけなのに、葵の手はひどく震えてしまう。
「いただきます」
プルプルしている手をしっかりと合わせてから、葵はまず卵焼きに手をつけた。箸を使って大きく開けた口に大事に放り込む。卵焼きは甘くて、最高に葵好みの味だ。それを上手いことコメントしたいのに、その前に美味しすぎて顔がふにゃりと解けてしまう。落ちそうになる頬を両手で押さえて、じっくり咀嚼することに集中していたら、柚月が隣から葵を見つめ続けていることに気がついた。
「美味しい?」
不安そうな声音に、葵は柚月をグルンと振り返った。
「とっても!」
葵が勢いよく答えると、柚月はパッと顔を明るくして目を細めた。ああ、可愛い。一瞬そう思ったけれど、葵はすぐに弁当に向き直って夢中になった。白米とおかずを交互に口に運びながら、すごい勢いで平らげる。
米一粒も残さずに食べ終えると、葵は満たされた腹に感動しながら手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
葵が弁当箱の蓋を閉めると、柚月が小さな声で「ありがとう」と言った。でも、お礼を言わなければならないのは紛れもなく葵の方だ。
「それは俺のセリフだよ。本当に、心の底から最高に美味しかった!こんなの初めてだよ。ありがとう」
満面の笑顔を向けると、とんでもなく眩しい煌めきが返ってきた。柚月からしたらきっとただの笑顔だろうに、なぜこんなに眩しいのだろう。普段なら羨ましさや少し黒い感情が生じるはずだけれど、今はただ満足で、それを与えてくれた柚月のことを心から尊敬している。こんなに上手に料理を作ることができて、そして人を満足させられるだなんて、彼はどこまで才能があるのだろうか。
「どういたしまして。明日、は土曜日だから。また来週、楽しみにしてて」
弁当箱を回収されながら当然のように言われた言葉に、葵は慌てて首を横に振った。
「それはダメだよ」
「え?」
「最高に美味しかったからこそ、これ以上甘えるわけにはいかない」
「なんで?」
「だって、きっとすごい手間とお金がかかってるはずだからさ」
葵だって、ただ馬鹿みたいに食べていたわけではない。夢中で食べながらも、たくさん考えたのだ。見た目は素晴らしく、味も格別だったということは、柚月がそうなるように努力したということだ。それを何も努力していない上に何の理由も持たない葵が享受するわけにはいかない。
「気にしなくていいってば」
「そうだよ。俺は、昼くらい栄養摂るべきだと思うよ。昨日の夜は豆腐だけなんだろ」
柚月の返事に被せるように、春が諭してくる。また余計なことを。でもなぜわかったのだろうか。
「朝顔色が悪い時は、豆腐しか食べてないんだよ」
春が葵を通り越して柚月に説明すると、柚月は顔を顰めて葵の目を覗き込んだ。
「葵くん、今日の夕ご飯は?」
「バイトの賄い」
「明日は?」
「バイトの賄い」
「明後日は?」
「バイトの賄い」
「じゃあ月曜日は?」
「バイト、はないから……。家にあるものをなんか食べるよ」
それが葵の日常だ。自分としては変わったことは言ってないつもりだけれど、食べ盛りにしてみたらやはり食事量が少ないだろうか。葵が普通の高校生男子の食事量について考えていると、柚月が恐る恐るといったように葵の肩に手を置いた。
「葵くん。休みの日って、朝ご飯と昼ご飯どうしてるの?」
「休みの日?休みの日は練習とバイト日和だから、その辺はあんまり考えてないよ」
「何時から何時まで事務所にいる?」
「土日は十七時からバイトだから、朝八時くらいからその時間くらいまでは事務所で練習」
特に土日は朝のパンとアルバイトの賄いしか食べない。日中はスポーツドリンクを限界前薄めたものを大きな水筒に入れて、それを飲みながらひたすらに踊ったり、歌ったりする。倒れそうになったら仕方なく近くのコンビニで何か買うけれど、夢中になっていたら空腹は気にならないのだ。必死で練習することは葵の節約術でもあった。
「わかった」
突然聞こえた柚月の了解に、葵は思わずその綺麗な顔を見上げた。一体何がわかったのだろう。不思議に思って首を傾げると、柚月はコクリと大きく頷いてみせる。
「明日もお弁当作る」
「……え、ちょっと待って」
葵が慌てると、柚月は葵の肩に置いた手に力を入れて、ズイッと顔を近づけてきた。
「俺は、明日も、お弁当作る」
「いや、だから」
本当に、これ以上世話になるわけにはいかないのだ。理由も意味もなく食事を世話になるだなんて常識的ではないし、何より葵の品位が許さない。柚月は特別仲良くもないし、ある意味ライバルでもある。お返しも十分にできないのであれば、これ以上借りを作りたくなかった。
ところが、柚月は顔を近づけたまま眉間にグッと力を入れた。意志の強そうな表情は何か突拍子もないことを言いかねない気がして、葵は思わず身構える。
「断るなら、ここでキスするよ」
昨日も伝えられたこの言葉に対する反応は、一体何が正しいのだろうか。だって、柚月にとって葵とキスをする利点がまるでないのだ。そうである以上、これは意味がわからない脅しでしかない。どう考えても柚月は絶対に葵となんかキスしたくないはずだから、もしかしたらこれはボランティアなのだろうか。本気でキスをすると脅して、痩せ細った葵を救おうとしているのかもしれない。柚月のことはカリスマ性溢れる絶世の美男子だとしか思っていなかったけれど、もしかしたら善行を重ねる修行僧のような男なのだろうか。
柚月の行動の意味と理由を考えているうちに、柚月の顔がどんどん近づいてくる。いや、流石に本気ではないだろう。え、本気じゃないよね。どんどん近づいてくる顔はあまりにも綺麗で、ふと長い睫毛が伏せられた。そして顔が傾けられた途端に、葵は柚月の本気を感じてのけぞった。
「わかった!わかったから!……お、お願いします!」
まつ毛がふるふると震えたと思ったら、くるりと身を翻す。ふわりとした髪の毛の先まで、全てが彼の思い通りに動いているようだ。それほどまでに、仕草が、角度が、息遣いが、息を呑むほどに美しい。鼓動がトクトクと高鳴る。
「ああ、松本葵か」
後ろからかけられた声にも上手く反応ができなかった。でも、自然と心の中でその名前を繰り返す。松本葵。初めて聞いた名前だ。名前もその容姿も女の子のように見えるけれど、あの筋肉の使い方は紛れもなく自分と同じ男だとわかった。
「最近入ってきた新人だよ。アイドル志望らしい」
そこでやっと先輩の声だと認識して、反応するように頷いてみせる。それでも彼から視線を外すことは到底できない。
「ああやって、いつも狂ったように踊り続けるんだよ。歌も相当上手いらしいぞ」
「……そうですか」
「今度ちゃんと見せてもらえよ。きっと刺激になるから」
「はい」
やっと視線を外してゆっくりと振り返ると、先輩は柚月ではく部屋の中を見ていた。踊り続ける彼は、こうして人の視線を奪う何かを持っているのかもしれない。
「まあ、頑張って欲しいよ。この世界じゃあ、努力したって報われるとは限らないからな」
先輩の言葉に、もう一度ゆっくりと頷く。本当にその通りだ。芸能界という厳しい世界で、本当に頼りになるのは自分だけ。自分自身もそれを理解して鍛錬を重ねてきた。ただ、彼の才能は、努力は、確かに報われるべきだ。彼は確実に、他人に多大な影響を与える人物だろう。ジャンルは違えど同じ世界を目指すライバルに対してそう思うだなんて、我ながらどうかしていると思った。胸の高鳴りがうるさくて、息苦しい。この気持ちはなんだろうか。興味、羨望、嫉妬、尊敬。
「まあ、柚月は俳優として頑張れよ。うちの有望株なんだからな」
やっと柚月を視界に入れた先輩が、ポンポンと肩を叩く。
「……頑張ります」
暗い廊下を先輩の後について歩く間も、彼のことが頭から離れなかった。こんなことは生まれて初めてだ。今この瞬間にも、彼は音に体を揺らし、華麗なターンを決めるのだろう。美しく、壮大なあの動きをもう一度見たい。そう思った自分自身のことがよくわからなくて、柚月は細く漏れる光を小さく振り返ったのだった。
桜並木に晴れた空。緊張さえなければ、きっと葵の胸はコトコトと弾むのだろう。成長を見越して作った制服は少し大きくて、袖と裾のあたりを持て余している。でも、このブルーが基調になった制服がどうしても着たかったのだから、葵は今日という日を喜ぶべきなのだ。
葵の夢はアイドルになることだった。小さな頃からずっとそれだけを夢見て、ダンスや歌の練習を欠かさなかった。その夢を叶えるために、そこそこ有名な事務所にやっとの思いで所属したのが三ヶ月前の一月のことだ。そして事務所に所属しながら勉学に励むためにも、地元から遠く離れた芸能コースがある男子校へ進学することにしたのだった。親元を離れることや知り合いがいないことへの恐怖、新生活全般に対する不安、それらが全て葵にのしかかって、正直心細くてたまらない。それに、昨日はアルバイトで体を酷使したため、手足が異様に重怠いのだ。その上引っ越してきてからまともな物を食べていないためか、上手く力も出なかった。でも、アイドルたるもの、ストレスには強くないといけないはずだ。これも立派な試練の一つだと、なんとか自分を奮い立たせていた。
迷子にならないように慎重に歩いていたら、目指していた高校の時計塔が見えてきた。少しだけほっとして、重い足を引き摺りながらも先を急ぐ。次の角を曲がったら校門がある大通りに出るはずだ。それなのに、角を曲がって門があるあたりに見えたのは、大きな大きな人だかりだった。異様な様子を不思議に思いつつ近づいていくと、人だかりはほとんどが様々な制服を身につけた女の子たちだと気がついた。彼女たちは一体何をしているのだろう。戸惑いつつも集団に近づくと、彼女たちは楽しそうにキャッキャと何か話している。
「今年の一年生も、やっぱり将来のスターなのかな」
「今年の目玉は柊木柚月くんでしょ」
「私もそう思う」
話の内容から推察すると、どうやら彼女たちは芸能コースの新入生を偵察しにきたようだ。柊木柚月、その名前は葵もよく知っていた。同じ事務所に所属する俳優志望の男の子で、事務所の有望株らしい。レッスンの日に遠くから何度か見たことがあったけれど、小さな顔にスラリとした体躯が人間離れをしていたことをよく覚えている。彼も同じ高校に通うのかと思うと、ちょっと憂鬱で、でも負けてはいられないと気を引き締めた。
気を引き締めたついでに、女の子たちの集団に近づいて校門から校庭に入ろうと試みてみる。ところが、彼女たちはすっかり校庭にいる男子校生たちに夢中のようで、一向に葵に気づいてくれないのだ。
「あの……うわっ!ちょっと、すみません」
女の子に触れてしまったらセクハラになってしまうと思うと、どうにも上手く躱わせない。近づいては弾き出されて、また挑戦しては弾かれての繰り返しだ。楽しんでいるところを大変申し訳ないけれど、大きな声で話しかけようと改めて気合いを入れたその時だった。
「大丈夫?」
後ろから聞こえた聞き心地の良い声に振り返る。うわ、と声をあげそうになるのを必死で耐えた。そこには驚くほど間近から葵を見下ろす柊木柚月の姿があったのである。近くで見ると尚更小さな顔に、綺麗で大きなパーツが美しく配列されている。葵よりもずっと背の高い柚月だけれど、その少女のような可憐さは美少年という言葉だけでは表現し難いものがあった。
「……いや、その」
あまりにも美しいものを見ると語彙力を失うものらしい。そんな自分にびっくりしつつ、女の子たちの集団を指差すと、彼は一つ頷いて「一緒に行こうか」と言ってきた。
「ちょっと、いいかな」
柚月が声をかけた瞬間に振り返った女の子たちは、彼の顔を見て悲鳴に近い声をあげた。そうなる気持ちはよくわかるよ、と心の中で呟いてみる。悔しいけれど、間近で見る柚月は信じられないほどにかっこいいのだ。彼女たちに共感していたら、柚月が葵を振り返った。
「おいで」
再び悲鳴が沸き起こる。おいでって、葵に言っているのだろうか。今の所すべてにおいて完璧な柚月にそんな風に言われると、まるで物語の中に入ったような気分になってしまう。風に漂う桜の花びらが柚月をふわりと包んで、葵の目の前をチラチラと舞い落ちる。葵がぼんやりしてすぐに反応できずにいたら、柚月は一つため息をついて、「ほら」と言いながら葵の右手を掬い取った。驚いている間に手を引かれ、女の子たちの間を上手にすり抜けていく。
無事に校門の中へ入ってしばらく校庭を歩いたところで、葵はハッとした。いつまで手を繋いでもらっているのだろう。
「あのっ、柊木くん。ありがとう」
葵が声をかけると、柚月はパタリと足を止めて葵を振り返った。
「俺の名前知ってるの?」
「うん。柊木くんは知らないだろうけど、一応同じ事務所だから」
自分で言っておきながら、この言葉で柚月と葵の優劣が定まった気がした。有名な柚月と、無名の葵。でも仕方がない。煌びやかさも、カリスマ性も、葵とは雲泥の差だ。そう思って勝手に落ち込んだ葵の傍、柚月は優しい眼差しで葵のことを見下ろしてきた。
「俺も君のこと見たことあるよ。松本葵くんでしょ」
「えっ、うん。そうだけど」
まさか葵のことを知っているだなんて思ってもみなくて、戸惑いながら辿々しく答えた。そんな葵に対して、柚月は少し嬉しそうに話し続けてくる。
「先輩が言ってたんだ。人一倍練習する優秀な子だって」
「俺が?」
「そう。今度ダンス見せてもらいなって」
確かに他の練習生よりも練習している自覚はあった。でもそれは周りよりも格段に劣っているからだ。練習を重ねても重ねても、まだまだ足りないと思ってしまう。ただ、葵はダンスも歌も大好きだから、練習が苦にならないことが我ながら長所だとは思っていた。
「ダンス、好きだから」
「そうなんだ、今度俺にも教えてくれる?」
「俺でよければ、いいけど」
褒められたことに悪い気はしなくてそう答えた。でも、葵のことを素直に褒められる柚月の余裕が羨ましい。そんな葵の心の内に気が付かず、柚月は嬉しそうに綺麗な顔で笑って見せた。
入学してから一ヶ月半が経った。五月の連休もあっという間に過ぎ去って、慌ただしい毎日を過ごしている。葵はなんとかクラスにも馴染むことができて、学校生活は案外楽しくやっていた。特に、名簿順で後ろの席だった丸山春は葵にとっての親友になっている。今日もチャイムが鳴ったのと同時に後ろから肩を叩かれた。
「葵、お昼だ」
「わかってるよ」
「またご飯持ってきてないんだろ。購買行くぞ」
混み合う前に急いで購買に向かうことが、いつもの二人のルーティンだった。大食漢な春は今日もデラックス弁当、葵は唐揚げの入ったおむすびを一つ選んだ。
「葵、心配だからもっと食いな」
「これね、中身唐揚げ。それにいつも夕ご飯たくさん食べるから大丈夫だよ」
これは本当だけれど、少し嘘だった。葵は生活費を稼ぐために、四月一日からアルバイトを始めた。だから、シフトのある日はアルバイト先の居酒屋で賄いを食べられるのだ。そうではない日は節約料理に精を出す毎日だけれど、そんなこんなで一ヶ月半なんとか生き延びている。どうしてこんなに貧困を極めているかといえば、葵が実家から遠く離れて一人暮らしをしているからだった。実家は特別裕福な家庭でもない上に、まだまだ食べ盛りの兄と弟がいる。好きなことをしている以上は自分でも生活費を稼ぐ必要があるのだ。レッスンの後の時間になんとかシフトを組んでもらい、日銭を稼ぐ毎日。本当はもっと客層の良い店で働きたいけれど、時給もアルバイト仲間の人柄も良いから辞めたいとは思っていなかった。
本当は自炊の方が安く済むのだろうけれど、レッスンもアルバイトもある日の翌日は体がクタクタで、朝起きてから昼食を用意する体力は残っていなかった。
買ったばかりのおむすびを大事に持って春と教室に戻り、ベランダへ出る。青い空に太陽が眩しくて、ぽかぽかと暖かい。一階に位置する一年生の教室は花壇に面しており、園芸委員になった葵が植えたパンジーの苗がいくつか並んでいた。今日もたっぷり水をやってから帰ろうと思いながら教室の外壁に背を預けて、おむすびに巻かれたラップを剥ぐ。カプリと一口食べただけで、ジワッと空腹に染みる感覚。葵の体、今のうちにたくさん吸収しておくれ。今日はバイトがない日なのだ。夕ご飯は豆腐か、もやしか、贅沢に白米か。そのどれかを醤油と食べよう。
深刻な夕飯問題を考えながらおむすびを熱心に咀嚼していたら、いきなり目の前に唐揚げがやってきた。
「はい、あーん」
春のご厚意に甘えて、おむすびを飲み込んでから口を開く。春にとっても貴重な唐揚げのはずだ。それをパクリと口に入れてもらって必死に味わう。「どう、美味い?」と横から聞かれて、葵は大きく頷いた。
「もちろん、最高」
「葵のおむすびの具も唐揚げだなと思ったんだけど、俺の弁当の中で一番高カロリーだからさ」
「ありがとう。春は俺にカロリーをくれたのか」
やっぱり親友と唐揚げは最高だと心から感謝していると、どこからか視線を感じることに気がついた。キョロキョロと見回して、中庭にあるベンチに目をやる。そこには葵たちの方を見つめる柚月の姿があった。しきりにこらへ視線を投げ続ける柚月に、周りを囲む友人たちも戸惑っているようだ。柚月とは同じクラスになったけれど、なんとなく付かず離れずの距離感で過ごしていた。当然、ダンスを教えるという約束も叶っていない。一月経った今思うのは、きっとあれは社交辞令だったのだろうということだ。
「なんか、こっち見てるね」
春も柚月の視線に気がついたのか、葵にこそこそと話しかけてくる。葵は軽く頷いて、一応右手をふらふらと振ってみた。
「葵、仲よかったっけ」
「ううん。でもこっち見てるから」
「あれさ、実は俺たちのこと見てなかったらどうする?」
「えっ!」
思わず振っていた手を止めてサッと膝下に隠した。それは恥ずかしすぎる。勘違いをして人気者の柚月に手を振っただなんて、自意識過剰と思われたらどうしよう。葵が羞恥心にドキドキしていると、その瞬間に柚月がベンチから立ち上がり、ずんずんと葵たちの方へ近づいてきた。
「なんかこっち来た」
そう言いながら、春は葵の横でデラックス弁当の白米を大きな口で食べた。春のようにこのタイミングでご飯を食べるだなんて到底無理で、気まずいままに視線を彷徨わせることしかできない。すると柚月が葵の前までやって来て、正面にしゃがみ込んできた。ふわりと香る、甘く爽やかな香り。柚月は葵と目を合わせると、「ねえ」と声をかけてきた。
「な、なに?」
「いくつか質問していい?」
「……どうぞ」
断る理由もないからそう返事をすると、柚月は葵が片手で持っている食べかけのおむすびを指差した。
「お昼、これ一個なの」
「うん。今日はね」
葵がそう答えると、春が横から「この子、万年金欠だから」と余計なことを言ってきた。咎めようと思ったけれど、その通りだから「あはは!」と笑っておく。それに対して柚月は少し眉を顰めると、今度は春のお弁当を指差した。
「だから、唐揚げもらってたの?」
「……まあ、そんな感じ」
何を聞かれているのだろうと疑問に思いながらも、ぼんやりと返答する。すると横から春が「無理矢理口元に持っていかないと食べないからさ。結構コツがいるんだよ」と言ってきた。知らないうちにコツがいるお世話をさせていたのか。葵としてはちょっと情けないけれど、春ってやっぱりいい奴だ。あとでちゃんと感謝を伝えよう。そう考えているうちに、突然柚月がおむすびを持っている葵の左手を優しく掴んだ。
「じゃあさ、俺がお弁当作ったら、食べてくれる?」
「え?」
思わず聞き返すと、柚月が顔を傾げて上目遣いに「だめ?」と言った。うわあ、可愛い、と思ってから、いやいやと慌てて思い直す。
「俺、本当にお金ないから食料品代とかも払えないんだ。ありがたいけど、」
俺のことは気にしないで、と言おうとした瞬間に、柚月は首を横に振った。
「そんなのいらない。俺、一人暮らしだからお弁当は自分で作ってるんだけど、いつも材料が余るんだ」
「そうなの?じゃあ、朝ごはんに食べなよ」
「食べても余るんだ」
「豊かな生活だな」
葵とは程遠い生活に、素直に感心してしまう。それでも甘えるわけにはいかないともう一度断ろうとした時、柚月は再び上目遣いで見つめるように葵の顔を覗き込んできた。
「ねえ、だめかな……。俺が作ってあげたいんだよ」
「でもそんなことしてもらう意味がないというか、お返しができないというか」
「意味もお返しもいらないよ。ね、俺に作らせて」
「だって、……正直俺たちそこまで仲良くないじゃん」
葵がそう言うと、柚月は目をまん丸に見開いて驚きの表情を浮かべた。
「え、そうだよね。だって、入学式以来まともに喋ってないし」
葵の中では揺るがぬ認識を説いてみたら、柚月はぎゅっと悲しそうな顔をする。その顔を見て焦ったのは、葵だけではなかった。
「葵、柊木くんと仲良かっただろ。たまに話してるじゃん」
フォローするかのような春の言葉に、柚月は悲しそうな顔を崩さないまま小さく頷いて、「そのはずだよ」と言った。
「ね、だからお弁当作ってもらえって。そしたら俺も安心だから」
それでもそうするわけにはいかないよなと悩んでいたら、柚月が今度は葵の左頬に手を添えてきた。それから懇願するように葵の目を覗き込んでくる。
「もしお弁当作らせてくれないなら、ここでキスするけど」
「……はいぃ!?」
我ながら異常なほどに可愛くない声がでた。でも、どんどん近づいてくる柚月の顔から、本気なのだとわかってしまう。
「えっと、えっと……!わかった、わかったって!ありがとう!」
葵がなんとかそう叫ぶと、柚月はやっと満足そうな顔をして大きく頷いた。
チャイムが鳴り響くとともに、校内が途端に賑やかになる。とうとうこの時間がきてしまった。
「葵、お昼だ」
いつものように後ろから春に肩を叩かれると、葵はますます憂鬱な気分になった。昨日の柚月との約束を思い出したのだ。葵のために弁当を作ってくると言っていたけれど、あれは本気だろうか。本気ではないなら遊ばれた気分だし、もし本気だったとしたらそれはそれで反応に困る。いくら考えても柚月に弁当を作ってもらう理由も義理もないのだ。
「俺はデラックス弁当買ってくるから、葵はベランダにいな」
春が席を立ったところで、葵も慌てて立ち上がった。
「俺も行くよ」
「お前の弁当は柊木くんが作って来てるんじゃないの」
疑うつもりすらないように真っ直ぐな瞳で言われると尚更困ってしまう。あんな約束は絶対に守られないと言ってしまえば柚月を信じていないみたいだし、約束を信じすぎたら結果的に柚月が戸惑ってしまうかもしれない。兎にも角にも、葵には柚月の様子を伺ってみるしかないのだろう。なるべく見ないようにしていた教室のど真ん中の席に視線を向ける。柚月の席は教室の中心だ。ただの名前順だとわかっているけれど、やはりスターは生まれながらにセンターを飾るものなのだろう。葵の視線の先には席を立った柚月がいる。いつも柚月を取り囲んでいる友人たちが周りに寄り付いていて、葵には出る幕もなさそうだ。なんだ、良かったと、息をついた。
「柊木くんみたいな忙しい子が作るわけないよ」
そう言いながら春を見上げると、春は「え、でも。あれってさ」と柚月の方を指差した。改めて指先の向きへ視線をやると、柚月が大きな保冷バッグを手に持ったところだった。そして友人たちに何か言うと、顔を上げて葵と視線を合わせてくる。
「葵くん」
彼は教室のど真ん中、葵は窓際の列の一番前の席。少し距離を置いたそのままの状態で、柚月は保冷バッグを持ち上げた。
「約束、覚えてるね?」
コテンと顔を傾けて尋ねられるその様子は、まるでドラマのワンシーンだ。その姿をぼんやりと眺めていたら、春が隣から「ほらな」と得意げに言った。
ベランダへ出ると、暖かな日差しが暑いくらいだった。右にはデラックス弁当を買ってきた春、左には膝上に保冷バッグを置いた柚月がいる。成り行きで挟まれてしまったわけだけれど、こうして男に囲まれるとかなり暑い。
「はい、どうぞ。落とさないように気をつけて」
そう言って柚月から渡された真っ赤な弁当箱は、大きくてずっしりと重たい。思ったより本格的だなと思いつつ柚月へ視線を送ると、彼は唇を引き結んで葵の手元を見つめていた。
「本当に、作ってくれたんだね」
「うん」
葵が話しかけると、柚月は少しだけ表情を緩めて葵と目を合わせ頷いた。緊張しているようにも見えるけれど、まさかと思った。まさか、柚月のような男が、葵ごときの反応を気にするわけない。弁当を膝の上に置いて、それから蓋をゆっくりと開ける。
「うわあ」
思わず感嘆の声が漏れた。大盛りご飯と、弁当箱の半分を占める数々のおかずたち。卵焼きに可愛い形にかたどったウィンナー、野菜炒め、ミニハンバーグ、トマトの和物のようなものまであって、美味しそうなだけでなく、彩がとても綺麗だ。
「本当に、俺が食べていいの?」
葵が改めて確認すると、柚月はこくりと頷いた。こんなに豪華なお昼ご飯を、今から食べられるのか。どうして柚月が作ってくれたのかは未だよくわからないけれど、お腹がグウっと鳴ったらどうでも良くなった。
「本当にありがとう……」
「葵、泣いてるのか」
春がデラックス弁当の蓋を開けながら葵の横顔を覗き込んでくる。
「まだ泣いてはいないけど、泣きそう」
柚月が保冷バッグの中から箸を取り出して、葵に渡してくれる。それを受け取るだけなのに、葵の手はひどく震えてしまう。
「いただきます」
プルプルしている手をしっかりと合わせてから、葵はまず卵焼きに手をつけた。箸を使って大きく開けた口に大事に放り込む。卵焼きは甘くて、最高に葵好みの味だ。それを上手いことコメントしたいのに、その前に美味しすぎて顔がふにゃりと解けてしまう。落ちそうになる頬を両手で押さえて、じっくり咀嚼することに集中していたら、柚月が隣から葵を見つめ続けていることに気がついた。
「美味しい?」
不安そうな声音に、葵は柚月をグルンと振り返った。
「とっても!」
葵が勢いよく答えると、柚月はパッと顔を明るくして目を細めた。ああ、可愛い。一瞬そう思ったけれど、葵はすぐに弁当に向き直って夢中になった。白米とおかずを交互に口に運びながら、すごい勢いで平らげる。
米一粒も残さずに食べ終えると、葵は満たされた腹に感動しながら手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
葵が弁当箱の蓋を閉めると、柚月が小さな声で「ありがとう」と言った。でも、お礼を言わなければならないのは紛れもなく葵の方だ。
「それは俺のセリフだよ。本当に、心の底から最高に美味しかった!こんなの初めてだよ。ありがとう」
満面の笑顔を向けると、とんでもなく眩しい煌めきが返ってきた。柚月からしたらきっとただの笑顔だろうに、なぜこんなに眩しいのだろう。普段なら羨ましさや少し黒い感情が生じるはずだけれど、今はただ満足で、それを与えてくれた柚月のことを心から尊敬している。こんなに上手に料理を作ることができて、そして人を満足させられるだなんて、彼はどこまで才能があるのだろうか。
「どういたしまして。明日、は土曜日だから。また来週、楽しみにしてて」
弁当箱を回収されながら当然のように言われた言葉に、葵は慌てて首を横に振った。
「それはダメだよ」
「え?」
「最高に美味しかったからこそ、これ以上甘えるわけにはいかない」
「なんで?」
「だって、きっとすごい手間とお金がかかってるはずだからさ」
葵だって、ただ馬鹿みたいに食べていたわけではない。夢中で食べながらも、たくさん考えたのだ。見た目は素晴らしく、味も格別だったということは、柚月がそうなるように努力したということだ。それを何も努力していない上に何の理由も持たない葵が享受するわけにはいかない。
「気にしなくていいってば」
「そうだよ。俺は、昼くらい栄養摂るべきだと思うよ。昨日の夜は豆腐だけなんだろ」
柚月の返事に被せるように、春が諭してくる。また余計なことを。でもなぜわかったのだろうか。
「朝顔色が悪い時は、豆腐しか食べてないんだよ」
春が葵を通り越して柚月に説明すると、柚月は顔を顰めて葵の目を覗き込んだ。
「葵くん、今日の夕ご飯は?」
「バイトの賄い」
「明日は?」
「バイトの賄い」
「明後日は?」
「バイトの賄い」
「じゃあ月曜日は?」
「バイト、はないから……。家にあるものをなんか食べるよ」
それが葵の日常だ。自分としては変わったことは言ってないつもりだけれど、食べ盛りにしてみたらやはり食事量が少ないだろうか。葵が普通の高校生男子の食事量について考えていると、柚月が恐る恐るといったように葵の肩に手を置いた。
「葵くん。休みの日って、朝ご飯と昼ご飯どうしてるの?」
「休みの日?休みの日は練習とバイト日和だから、その辺はあんまり考えてないよ」
「何時から何時まで事務所にいる?」
「土日は十七時からバイトだから、朝八時くらいからその時間くらいまでは事務所で練習」
特に土日は朝のパンとアルバイトの賄いしか食べない。日中はスポーツドリンクを限界前薄めたものを大きな水筒に入れて、それを飲みながらひたすらに踊ったり、歌ったりする。倒れそうになったら仕方なく近くのコンビニで何か買うけれど、夢中になっていたら空腹は気にならないのだ。必死で練習することは葵の節約術でもあった。
「わかった」
突然聞こえた柚月の了解に、葵は思わずその綺麗な顔を見上げた。一体何がわかったのだろう。不思議に思って首を傾げると、柚月はコクリと大きく頷いてみせる。
「明日もお弁当作る」
「……え、ちょっと待って」
葵が慌てると、柚月は葵の肩に置いた手に力を入れて、ズイッと顔を近づけてきた。
「俺は、明日も、お弁当作る」
「いや、だから」
本当に、これ以上世話になるわけにはいかないのだ。理由も意味もなく食事を世話になるだなんて常識的ではないし、何より葵の品位が許さない。柚月は特別仲良くもないし、ある意味ライバルでもある。お返しも十分にできないのであれば、これ以上借りを作りたくなかった。
ところが、柚月は顔を近づけたまま眉間にグッと力を入れた。意志の強そうな表情は何か突拍子もないことを言いかねない気がして、葵は思わず身構える。
「断るなら、ここでキスするよ」
昨日も伝えられたこの言葉に対する反応は、一体何が正しいのだろうか。だって、柚月にとって葵とキスをする利点がまるでないのだ。そうである以上、これは意味がわからない脅しでしかない。どう考えても柚月は絶対に葵となんかキスしたくないはずだから、もしかしたらこれはボランティアなのだろうか。本気でキスをすると脅して、痩せ細った葵を救おうとしているのかもしれない。柚月のことはカリスマ性溢れる絶世の美男子だとしか思っていなかったけれど、もしかしたら善行を重ねる修行僧のような男なのだろうか。
柚月の行動の意味と理由を考えているうちに、柚月の顔がどんどん近づいてくる。いや、流石に本気ではないだろう。え、本気じゃないよね。どんどん近づいてくる顔はあまりにも綺麗で、ふと長い睫毛が伏せられた。そして顔が傾けられた途端に、葵は柚月の本気を感じてのけぞった。
「わかった!わかったから!……お、お願いします!」



