「はい。これ」
その声と同時に制服姿の先輩から中身の見えない袋を差し出された。部活終わりの部室には僕と先輩の二人きりだ。
「あ、ありがとうございます! 忘れているかと思っていました」
袋を受け取ると中身が約束のものだとすぐに理解できた。一年と二年では教室の階が違うから校舎内で会うことはほぼない。僕は部活前に本を交換しようと思っていたが先輩に話かける時間が取れず軽い挨拶しかできなかった。いつも通りに涼しい顔をしている先輩は約束を完全に忘れているようにも思えた。僕だけが舞い上がって、先輩との温度感を間違えてしまったのかと不安になっていた。だから今こうして本を渡され、昨日の約束をちゃんと覚えてくれていたことにとても安堵した。
袋の中を見ると、僕が今一番求めている小説が入っていた。小説の帯は付いたままだ。先輩は捨てずにとっておくタイプの人らしい。僕は帯だけを別の箱に保存しておくタイプだ。捨てずに取っておくという部分だけを見れば、僕と先輩は同じ種類の人間ということになる。そんな些細なことにも僕は大きな嬉しさを覚えた。
「これ気になっていた本です! 去年映画化されていましたよね」
「そう。映画見てよかったから買ったやつ」
「ありがとうございます!」
先輩と僕の好みが似ていることにも嬉しさを感じた。
「僕は推理小説です。この前話したときに先輩から推理系の話は出なかったので、あまり読んだことがないと思って。読みやすいものを持ってきました!」
言葉を発すると同時に慌ただしくリュックを漁り、三十分かけて選んだ一冊の小説を差し出した。手に持った本を見て先輩みたく袋に入れて持ってくればよかったと後悔した。リュックの下の方に入っていたからか少し角が潰れていた。
「ん、ありがとう」
相変わらず先輩の反応は薄いが嫌がっている様子はなさそうだ。僕のお気に入りの一冊であるこの推理小説のあらすじを簡単に伝えようとした時、外から誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「おーい。帰らないのか?」
声のする方へ顔を向けると、部室の扉から顔を出した一人の先輩が僕たちを不思議そうに見ていた。早乙女先輩と仲がいい先輩だ。確か幼馴染だった気がする。二人で一緒に帰っているところは何度か見かけたことがあった。
先輩に対して申し訳ないが正直迷惑だと思った。僕はもっと先輩と話がしたい。やっと二人で話せる時間になったのに邪魔が入ってしまった。そんな性格の悪い僕が現れたことも知らない先輩は「じゃ、お疲れ」と僕と目を合わせることもなく簡単に言い、さらっと部室を後にした。
「え、あ! お疲れ様です!」
僕は咄嗟に先輩の後ろ姿に挨拶をした。暗闇に消えていく先輩の背中は華奢なのにちゃんと男らしさもあり、追いかけたいという謎の衝動にかられそうになっていた。でも、幼馴染と帰る先輩の後を追い、僕のもとに連れ戻せるような関係性ではないので衝動をうまくかき消し、誰もいない部室で静かに立ち止まった。
部室の鍵を閉め外に出ると夜なのに日中の熱がしっかりと残っていた。夏でも夜が涼しいなんて感覚はとっくに消えた。夏の時期に涼しい時間帯なんて存在しない。ましてや部活終わりなんて余計に暑さを感じる。夏に体をやられながらとぼとぼと歩いていると大事なことを思い出した。
先輩と次の交換日を決めていない。きっと先輩は本以外のことで僕とは会話をしてくれないだろう。しかも読み終わるのに時間がかかる厚めの推理小説を渡してしまった。すぐに読み終わるものを渡せばよかった。
「うわー、やらかした」
僕はひと気の少ない道路で頭を抱えしゃがみ込んだ。次の交換日はだいぶ先になってしまいそうだ。交換だけではなく、感想も言い合いたい。できればこの前みたいに喫茶店でゆっくりと話がしたい。それも伝え忘れてしまった。
「はあ、仕方ないか」
盛大な溜息を道路に落とし勢いよく立ち上がった。その勢いが消えないよう、僕は家への帰り道を小走りで進んだ。
先輩と二人きりで会話ができたのは交換の日から二週間経った部活後だった。
僕は渡されて三日後には読み終わっていた。生活の中で先輩から渡された小説を読むこと以上に大切なものが見当たらなかった。だから時間を割いた。
読み終わった時に僕から話しかけてもよかったが、嫌われたらどうしようという僅かな恐怖心が僕の行動を制御してしまった。ずいぶんと臆病になったらしい。
「これ、ありがとう。面白かった」
「よかったです! この話面白いですよね。僕も好きなんです。あとこれもおすすめなので読んでください!」
先輩から返された本を脇に挟み、素早くリュックから小説の入った袋を取り出し先輩に差し出した。袋の中には先輩から借りた本と新しい本の二冊が入っている。
ずっとこの日を待っていた。先輩との次の約束を確実に作るため、いつ本を返されてもいいように渡す本を毎日持ち歩いていた。
「あ、ごめん。俺まだ次の本持ってきてない」
僕からの本を受け取りながら、あまり申し訳なさそうではない顔で先輩は「ごめん」と言った。
「大丈夫です! また今度貸してください。僕も借りていた本読みました。めちゃくちゃ感動しました! 最後のシーンは辛すぎて号泣しました」
「確かに泣けるよな」
人生で一度も涙を流したことなどありません、みたいな澄ました顔の先輩が言った。先輩も泣いたりもするんだ。それは想像したことがなかった。きっと儚げに泣くのだろう。
綺麗な瞳から透明で光るような涙が溢れ出す。頬をつたった涙は先輩の肌でろ過されてさらに透明度を増しながら顎へと流れ、綺麗な音色を奏でながら地面へと落ち美しい湖を作っていく。
先輩の涙を見ることも今後の目標にしておこう。たとえ想像と違ったとしても一度は見ておきたい。僕はどんな顔の先輩も見てみたいと心の底から思うらしい。
澄まし顔を一切崩さない先輩に一つの提案を持ち掛けた。
「あの、もしよかったらこの後カフェか喫茶店で本の感想を言い合いっこしませんか?」
僕の言葉には強い意志が乗っかっていた。この前のように簡単には帰しませんよという気持ちが込められていた。
「僕、本好きな友達がいなくて感想を誰かと共有したいのに話せる人がいないんです。同じ話を読んだ人がどんな受け止め方をしたのか気になるのに」
本を読み終えた後いつも思っていた。みんなはこの本から何を読み取るのだろう? 何を感じるのだろう? 面白かったのか、つまらなかったのか。ネットのレビューを見ることはあってもそれは会話ではなくその人の意見に過ぎない。
僕は誰かと会話がしたかった。
先輩にはダメもとで言ってみた。人と話すことが苦手な先輩からしたら感想の共有なんてしたくはないだろう。この前嫌々であったとしても、僕と一緒に喫茶店へ行ってくれたことは奇跡だと思っている。あんなに会話を続けてくれたことも奇跡だ。もしまた二人で会ってくれるのであれば、僕は先輩に相当気に入られていると思う。いや、そう思い込んでしまう。
僕の提案を受け黙り込んでいた先輩の口が小さく動いた。
「カフェはちょっと」
先輩は僕と視線を合わせることなく小声で答えた。やっぱり断られたか。まあ、そうだろう。
「そうですよね。すみません」
「お前は無駄に目立つから。俺、目立つのは苦手なんだよ」
「すみません。やっぱり今の話は無かったことに」
「今日はこの後予定があるから行けない。でも、俺も感想は言いたいし聞きたいとも思う」
「え?」
先輩からの予想外の返答に戸惑った。僕は先輩の顔をちゃんと見ているのに、先輩は僕の少し右側を見ながら話している。
「部活が休みの水曜日なら教室で話せるな。目立たないし、ゆっくりできると思う」
その言葉を聞いて僕は小躍りしそうなほどに嬉しかった。さっきまで沈んでいた気持ちが一気に明るい気持ちに切り替わった。同時に顔の全筋肉が緩むのが分かった。
「ありがとうございます!」
「だから声でかいって。とりあえず今日は無理だから、また水曜日な」
「はい!」
「ホームルーム終わったら教室にいて。俺が行くから」
「分かりました! 一年四組です!」
「うん。知ってるよ」
子供のようにはしゃぐ僕とは対照的に、先輩は小さな笑みをこぼし余裕のある大人な表情を見せた。
「じゃあな、お疲れ」
貴重な笑みは一瞬にして消え、いつも通りのクールな顔で先輩は部室を後にした。
二度目の先輩の笑顔も、ほんのりと心が温まる優しいものだった。
その声と同時に制服姿の先輩から中身の見えない袋を差し出された。部活終わりの部室には僕と先輩の二人きりだ。
「あ、ありがとうございます! 忘れているかと思っていました」
袋を受け取ると中身が約束のものだとすぐに理解できた。一年と二年では教室の階が違うから校舎内で会うことはほぼない。僕は部活前に本を交換しようと思っていたが先輩に話かける時間が取れず軽い挨拶しかできなかった。いつも通りに涼しい顔をしている先輩は約束を完全に忘れているようにも思えた。僕だけが舞い上がって、先輩との温度感を間違えてしまったのかと不安になっていた。だから今こうして本を渡され、昨日の約束をちゃんと覚えてくれていたことにとても安堵した。
袋の中を見ると、僕が今一番求めている小説が入っていた。小説の帯は付いたままだ。先輩は捨てずにとっておくタイプの人らしい。僕は帯だけを別の箱に保存しておくタイプだ。捨てずに取っておくという部分だけを見れば、僕と先輩は同じ種類の人間ということになる。そんな些細なことにも僕は大きな嬉しさを覚えた。
「これ気になっていた本です! 去年映画化されていましたよね」
「そう。映画見てよかったから買ったやつ」
「ありがとうございます!」
先輩と僕の好みが似ていることにも嬉しさを感じた。
「僕は推理小説です。この前話したときに先輩から推理系の話は出なかったので、あまり読んだことがないと思って。読みやすいものを持ってきました!」
言葉を発すると同時に慌ただしくリュックを漁り、三十分かけて選んだ一冊の小説を差し出した。手に持った本を見て先輩みたく袋に入れて持ってくればよかったと後悔した。リュックの下の方に入っていたからか少し角が潰れていた。
「ん、ありがとう」
相変わらず先輩の反応は薄いが嫌がっている様子はなさそうだ。僕のお気に入りの一冊であるこの推理小説のあらすじを簡単に伝えようとした時、外から誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「おーい。帰らないのか?」
声のする方へ顔を向けると、部室の扉から顔を出した一人の先輩が僕たちを不思議そうに見ていた。早乙女先輩と仲がいい先輩だ。確か幼馴染だった気がする。二人で一緒に帰っているところは何度か見かけたことがあった。
先輩に対して申し訳ないが正直迷惑だと思った。僕はもっと先輩と話がしたい。やっと二人で話せる時間になったのに邪魔が入ってしまった。そんな性格の悪い僕が現れたことも知らない先輩は「じゃ、お疲れ」と僕と目を合わせることもなく簡単に言い、さらっと部室を後にした。
「え、あ! お疲れ様です!」
僕は咄嗟に先輩の後ろ姿に挨拶をした。暗闇に消えていく先輩の背中は華奢なのにちゃんと男らしさもあり、追いかけたいという謎の衝動にかられそうになっていた。でも、幼馴染と帰る先輩の後を追い、僕のもとに連れ戻せるような関係性ではないので衝動をうまくかき消し、誰もいない部室で静かに立ち止まった。
部室の鍵を閉め外に出ると夜なのに日中の熱がしっかりと残っていた。夏でも夜が涼しいなんて感覚はとっくに消えた。夏の時期に涼しい時間帯なんて存在しない。ましてや部活終わりなんて余計に暑さを感じる。夏に体をやられながらとぼとぼと歩いていると大事なことを思い出した。
先輩と次の交換日を決めていない。きっと先輩は本以外のことで僕とは会話をしてくれないだろう。しかも読み終わるのに時間がかかる厚めの推理小説を渡してしまった。すぐに読み終わるものを渡せばよかった。
「うわー、やらかした」
僕はひと気の少ない道路で頭を抱えしゃがみ込んだ。次の交換日はだいぶ先になってしまいそうだ。交換だけではなく、感想も言い合いたい。できればこの前みたいに喫茶店でゆっくりと話がしたい。それも伝え忘れてしまった。
「はあ、仕方ないか」
盛大な溜息を道路に落とし勢いよく立ち上がった。その勢いが消えないよう、僕は家への帰り道を小走りで進んだ。
先輩と二人きりで会話ができたのは交換の日から二週間経った部活後だった。
僕は渡されて三日後には読み終わっていた。生活の中で先輩から渡された小説を読むこと以上に大切なものが見当たらなかった。だから時間を割いた。
読み終わった時に僕から話しかけてもよかったが、嫌われたらどうしようという僅かな恐怖心が僕の行動を制御してしまった。ずいぶんと臆病になったらしい。
「これ、ありがとう。面白かった」
「よかったです! この話面白いですよね。僕も好きなんです。あとこれもおすすめなので読んでください!」
先輩から返された本を脇に挟み、素早くリュックから小説の入った袋を取り出し先輩に差し出した。袋の中には先輩から借りた本と新しい本の二冊が入っている。
ずっとこの日を待っていた。先輩との次の約束を確実に作るため、いつ本を返されてもいいように渡す本を毎日持ち歩いていた。
「あ、ごめん。俺まだ次の本持ってきてない」
僕からの本を受け取りながら、あまり申し訳なさそうではない顔で先輩は「ごめん」と言った。
「大丈夫です! また今度貸してください。僕も借りていた本読みました。めちゃくちゃ感動しました! 最後のシーンは辛すぎて号泣しました」
「確かに泣けるよな」
人生で一度も涙を流したことなどありません、みたいな澄ました顔の先輩が言った。先輩も泣いたりもするんだ。それは想像したことがなかった。きっと儚げに泣くのだろう。
綺麗な瞳から透明で光るような涙が溢れ出す。頬をつたった涙は先輩の肌でろ過されてさらに透明度を増しながら顎へと流れ、綺麗な音色を奏でながら地面へと落ち美しい湖を作っていく。
先輩の涙を見ることも今後の目標にしておこう。たとえ想像と違ったとしても一度は見ておきたい。僕はどんな顔の先輩も見てみたいと心の底から思うらしい。
澄まし顔を一切崩さない先輩に一つの提案を持ち掛けた。
「あの、もしよかったらこの後カフェか喫茶店で本の感想を言い合いっこしませんか?」
僕の言葉には強い意志が乗っかっていた。この前のように簡単には帰しませんよという気持ちが込められていた。
「僕、本好きな友達がいなくて感想を誰かと共有したいのに話せる人がいないんです。同じ話を読んだ人がどんな受け止め方をしたのか気になるのに」
本を読み終えた後いつも思っていた。みんなはこの本から何を読み取るのだろう? 何を感じるのだろう? 面白かったのか、つまらなかったのか。ネットのレビューを見ることはあってもそれは会話ではなくその人の意見に過ぎない。
僕は誰かと会話がしたかった。
先輩にはダメもとで言ってみた。人と話すことが苦手な先輩からしたら感想の共有なんてしたくはないだろう。この前嫌々であったとしても、僕と一緒に喫茶店へ行ってくれたことは奇跡だと思っている。あんなに会話を続けてくれたことも奇跡だ。もしまた二人で会ってくれるのであれば、僕は先輩に相当気に入られていると思う。いや、そう思い込んでしまう。
僕の提案を受け黙り込んでいた先輩の口が小さく動いた。
「カフェはちょっと」
先輩は僕と視線を合わせることなく小声で答えた。やっぱり断られたか。まあ、そうだろう。
「そうですよね。すみません」
「お前は無駄に目立つから。俺、目立つのは苦手なんだよ」
「すみません。やっぱり今の話は無かったことに」
「今日はこの後予定があるから行けない。でも、俺も感想は言いたいし聞きたいとも思う」
「え?」
先輩からの予想外の返答に戸惑った。僕は先輩の顔をちゃんと見ているのに、先輩は僕の少し右側を見ながら話している。
「部活が休みの水曜日なら教室で話せるな。目立たないし、ゆっくりできると思う」
その言葉を聞いて僕は小躍りしそうなほどに嬉しかった。さっきまで沈んでいた気持ちが一気に明るい気持ちに切り替わった。同時に顔の全筋肉が緩むのが分かった。
「ありがとうございます!」
「だから声でかいって。とりあえず今日は無理だから、また水曜日な」
「はい!」
「ホームルーム終わったら教室にいて。俺が行くから」
「分かりました! 一年四組です!」
「うん。知ってるよ」
子供のようにはしゃぐ僕とは対照的に、先輩は小さな笑みをこぼし余裕のある大人な表情を見せた。
「じゃあな、お疲れ」
貴重な笑みは一瞬にして消え、いつも通りのクールな顔で先輩は部室を後にした。
二度目の先輩の笑顔も、ほんのりと心が温まる優しいものだった。
