僕、相田陽希が早乙女奏先輩の存在を知ったのは高校に入学してすぐに行われた部活動紹介だった。中学時代と同じ陸上部に所属するか帰宅部にするか迷っている僕に正体不明の衝撃が走った。興味なんて何一つ持っていなかったバスケ部の中に異様な空気を感じた。それが早乙女先輩だった。
先輩は二年生ながらにして圧倒的エースらしい。切れ長の目に、高い鼻。首筋が隠れるくらいの少し長めの黒髪に、色白で程よく筋肉がある身体。
先輩はいわゆるモテる部類の人だった。どちらかと言うと、陰でモテているタイプだった。
笑顔を見せず、口数も少ない。ミステリアスな印象もあり、簡単には近づけない雰囲気を纏っていた。
遠巻きで先輩を見て「かっこいい」と騒いでいる女子たちをよく見かけた。頻繁に告白をされているという噂も聞いていた。でも、誰一人いい返事をもらった人はいないらしい。
僕もミステリアスなこの人に惹かれた内の一人にすぎないのだろう。
興味深い先輩のことをもっと近くで知りたいと強く思った。そんな先輩に憧れを抱いた僕は迷うことなくバスケ部に入部届を出した。
 僕は先輩と仲良くなるために持ち前の人懐っこさを使いたくさん話しかけた。それでも先輩は僕に心を開いてくれなかった。心を開くどころか、いつも迷惑そうな顔をしていた。そんな簡単には仲良くなれないと思っていたからこれくらいは何とも思わなかった。
 バスケの話なら相手にしてくれるだろうと思い動画を見て有名なバスケ選手を調べたり、試合を見たりと話のネタを探した。だがその努力はただの自己満足に終わってしまった。
「好きなバスケ選手っていますか?」
「この前の試合見ましたか? あのプレーすごかったですよね!」
 こんな感じで色々と話しかけてみても「特にいない」とか「そうだな」とか、この程度しか返ってこなかった。
 先輩との距離が少しも近づくことなく半年が経った。この頃の僕はほんの少し弱気になっていた。先輩に迷惑そうな顔をさせるのが申し訳なくなってきたからだ。先輩と仲良くなるのは難しそうだと判断し、無理に話しかけることはやめておこうと諦め始めていた。

水曜日は部活が休みなので四時前には学校を出ることができる。
僕は読みたかった小説があることを思い出し帰りに本屋へ立ち寄った。帰り道の大通り沿いにある本屋は昼過ぎから夕方にかけていつも混んでいるので少し離れた本屋まで散歩がてら歩くことにした。
人が多い本屋は少し苦手だ。人は大好きだけど、本を選ぶときはなるべく静かな空間が落ち着いて過ごせる。
「よかった。そんなに人はいなさそうだ」
学校から離れた本屋はやはり静かだった。自動ドアを抜け、店内にある本をざっと見ながらゆったりと歩いた。
「探している本はあるかな」
心の中で呟きながら目を動かした。だが、見つかったのは探し求めていた小説ではなく先輩だった。
「え、早乙女先輩?」
声に出そうな思いを心の中ぐっとにしまった。そして僕の足は無意識に先輩の元へと近づいていった。
やっぱり先輩はかっこいい。遠くから見ても気づいてしまう。なんていうのだろうか。無口で静かな先輩を輝かしいオーラが上回っているような感じだ。人の多い街中でも変装をした芸能人に気が付いてしまうことに似ている。 
少し猫背気味の先輩は話題の小説がずらりと並ぶ棚の前で一冊の小説を手に取っていた。先輩の綺麗な手に収められている小説は本棚に並べられている時よりも数倍立派なものに見えた。
僕はまた無意識のうちに声をかけていた。
「早乙女先輩、こんにちは。本好きなんですか?」
「え?」
小説に向けていた視線が僕へと変わった。そして先輩は綺麗な顔をしたまま固まった。
間違えた。僕も本をゆっくり見たくてここに来たのに、声をかけるのはよくない判断だと今更思った。頭の中で反省をしていると先輩が僕の質問に答えてくれた。
「相田か。本は好きだよ」
 先輩は僕に向けていた視線を手元の本に戻した。
「何の本ですか?」
 先輩が返事をしてくれたことに驚きつつ、僕も先輩の手元にある一冊の小説に目を向けた。
「少し前にこの映画を見に行ったから、一応原作も読んでおこうと思って」
「そうなんですね。僕も映画を見てから原作を読むことよくありますよ。あとはポップの紹介とか、表紙の雰囲気で買うこともあります」
 先輩から相槌以外の返事をもらえて嬉しくなってしまった僕はつい余分なことまで話してしまった。
僕は自分がどんな顔で先輩と話をしているのか気になって仕方がなかった。先輩は僕を見ていないからどんな顔でもよかったけど、だらしないほどに頬が緩んでいる気がしていた。
「そうか。俺も表紙買いはよくする」
「本当ですか? 本を手に取る理由ってたくさんあって面白いですよね」
「ああ、そうだな」
 先輩は口は動かしても目は小説の表紙から一切動かさない。前髪の隙間から見える先輩の目は相手を虜にする目で間違いなかった。
こんなにも先輩と会話が続くなんて。なにより、先輩の好きなものを知れたことが嬉しい。他の人は先輩が本好きということを知っているのだろうか? 僕だけが今知ったのだろうか? 
そんなことは僕が気にすることではないけれど、ほんの少しだけ気になった。
きっとこの時の僕は予想もできない出来事が起こったことによって思考のネジが外れていたんだ。今までため込んでいた欲が暴走を始めてしまった。
先輩のことが知りたい。もっと知りたい。些細なことも知りたい。この貴重なタイミングに先輩との仲をもっと深めたい。
僕は失礼な行動だと理解した上で、本屋から先輩を無理やり連れ出しカフェへと向かった。
あのまま先輩と別れてしまったら、今までのような【あまり仲が良くないただの先輩後輩】に戻ってしまうに違いない。本屋で会ったことなどなかったことになってしまう。それだけは避けたかった。
カフェの椅子に座っている僕は探していた本を買っていないことなど完全に忘れていた。本はいつだって手に入る。ネットでも買える。でも、先輩を引き留めるのは今しかない。
僕達は本屋の向かいにあるカフェにいる。カフェというよりも喫茶店だろうか。落ち着いた音楽に落ち着いた照明。読書をするにはちょうど良さそうだ。実際に読書をしている人が数名いる。こういう場所で読書をすることに憧れる。大人って感じだ。
テーブルをはさんで向かいに座っている先輩は少し困ったような表情をしている。強引に連れてきたのだから当たり前か。申し訳ない。
ここはもちろん僕が先輩の分も払うつもりで来たが何も考えずに店に入ってしまったので少し怖くなった。周りのお客の中に高校生は見当たらない。
高かったらどうしよう。 
恐る恐るメニュー表を開き値段を確認した。財布の中身を思い出す。ちょうど昨日、お母さんにお小遣いをもらったことを思い出した。うん。足りる。このお金で何冊か本を買おうと思っていたけれどそれは後回しだ。それよりも数倍こっちの方が大切だ。
「早乙女先輩。何飲みますか?」
 持っていたメニュー表を先輩に差し出した。先輩は軽く見て「珈琲」と短く答えた。
似合う。すごく似合う。僕は珈琲が飲めない。苦いし後味もなんとなく苦手だ。珈琲が飲めるというだけで随分と大人に見えた。一年長く生きているだけなのに、とても先の人生を生きているようにも感じた。それは珈琲を飲めるというだけではない。
俯いた時に長い睫毛に隠れる目元や制服のシャツから見える綺麗な首筋、控えめな照明に合う不思議な雰囲気。全てが学校にいる時の先輩とは違って見えた。そんな先輩を見ている自分自身に優越感を感じた。きっとこの姿は他の生徒に知られていない。
 入店して五分が経った頃、店員さんに珈琲とオレンジジュースを注文した。店員さんが僕たちのテーブルから去ると声が何一つなくなった。耳に入ってくるのは穏やかな音楽と僕の激しい心音だけ。とても心地がいい環境とは言えない。
「早乙女先輩は、最近どんな本を読みましたか?」
 これ以上沈黙が続かないように僕は会話を始めた。僕の声に反応して先輩が僕を見た。先輩は僕の顔を見ているようで見ていない。ちゃんと目が合っている感じがどうしてもしなかった。
「この前映画化した恋愛小説」
「恋愛小説とかも読むんですね。あまり興味がなさそうなので意外です」
 いつも告白を断っていると聞いていたから恋愛系は苦手なのかと思っていた。まあ、現実と物語は別世界か。
「別に、どのジャンルもいける」
「そうなんですね。てっきり推理系とかホラー系しか読まないかと思いました」
「お前は俺をどんなやつだと思ってるんだよ」
「だって、僕とあんまり会話してくれなかったから」
 鋭く放たれた先輩の声に対して、僕はぼそっと本音をこぼした。
先輩を見ていると勝手に想像が膨らんでしまう。いつもきりっとしているから推理とか好きそうだなとか、お化けを見ても驚かなさそうだからホラー系も読めるだろうなとか。好きな芸能人で勝手な妄想が膨らむことに似ているだろうか? もちろん僕のは妄想ではなく、憧れているが故の想像だ。
さすがにこれを言葉にするのはやめておこう。気持ち悪がられそうだ。他人に好き勝手想像されるのは誰でも嫌だろう。
「あー、悪かった。俺、人見知りなんだよ」
俯いている僕を見てへこんでいると思ったのか先輩が突然謝ってきた。
謝り慣れていないであろう先輩はなんだかぎこちない表情をしていた。その顔も初めて見る顔だ。僕の中で優越感がさらに高まった。
先輩の人見知りは想像通りだ。人見知りなのか、人と話すことが嫌いなのかのどちらかだとは思っていた。
「慣れた人でもちゃんと目を見て話すのは苦手なんだよ」
だからさっきから目が合わないのか。慣れている人でもない僕なら尚更だろうな。
「お前は適当にバスケの話をしているだけだと思っていたから、ちょっと雑に返事してた」
「え、雑にしていたんですか?」
 僕がどれだけバスケの動画を見て話しのネタを探していたのかを目の前で居心地悪そうに座っている先輩に教えたくなった。だけど、僕のとっていた行動は僕の勝手な行動に過ぎなくて、先輩にとっては迷惑なことだったのだろう。その事実を改めて感じ少しだけ悲しくなった。
でも、本人を目の前にして言いにくいことを正直に言ってしまう先輩がなんだか面白くて少し笑ってしまった。俯いている先輩は僕が笑っていることにも気づかず一人で話しを進めていった。
「人に合わせて話をするのも面倒くさいんだよ。お前にだけじゃない。誰にでもそんな感じだから気にしないで。ごめんな」
 また謝ってきた。俯いた先輩からは申し訳なさそうな感情がはっきりと読み取れた。
今までの僕に対する先輩の態度は僕のことが嫌いという理由ではないことが分かり安心した。
先輩と仲良くなりたくて一生懸命話しかけた人は今までに沢山いたに違いない。先輩は気軽に話しかけられない雰囲気を纏っているから、頑張って話しかけていた人たちが少し可哀そうだとも思った。冷たく跳ね返される人に話しかけることは、相当な勇気がいることだと僕は知っている。
僕も冷たくされていた側の人間だったけどそこから一歩抜け出せたのではないかと思うととても嬉しかった。優越感のレベルが一気に引き上がった。きっと今の僕は頬が緩み、口角も大きく上がってしまっているだろう。目の前に座る先輩とは真逆の顔をしている。
これまでの先輩の態度については知ることができたが、このまま会話を終わらせてしまえば【少しだけ話ができる先輩後輩】止まりになってしまうだろう。ネジが外れていてよかったのかもしれない。そうでないとこんな踏み込んだ提案をできるわけがなかったのだから。
「悪いと思っているなら、ちょっとお願い聞いてもらってもいいですか?」
「え、なに。お前そういうこと言うの?」
 俯いていた先輩は「なに、こいつ」と言いたそうな顔で僕の顔を見てきた。
「これから僕と本の交換をしてくれませんか?」
「は?」
この時、先輩と初めてちゃんと目が合った気がした。
少し強めにまっすぐと見られた目は怖いというより綺麗だった。透き通るような黒い瞳は吸い込まれてしまうのではないかと思うほどに魅力的だった。今まで目が合わなくてよかったとも思えた。ただ目が合っただけで僕はひどく動揺してしまった。そしてその動揺はちゃんと声に現れた。
「いや、僕、もっと早乙女先輩と仲良くなりたくて、共通の趣味ということで、お互いおすすめの本を交換し合う、という、そういうことを、したい、というか、なんというか、そうです。すみません」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ネジが外れている状態ですらこんな感じになってしまう。僕をそうさせている早乙女先輩を少しだけ怖いとも思いつつ、もっと深いところまで知りたいとも思った。先輩は僕の目を見てずっと黙っている。乱れた心を深呼吸で整えもう一押ししてみた。
「だって、交換をすれば買わなくても新しい本が読めますし、お互いにとって得じゃないですか?」
 先輩の好みを知ることができるし、話すきっかけも確実にできる。どちらかというとこっちが本音だ。
先輩はまだ僕を見ている。やっと先輩の目にも慣れてきた。目を見るのが苦手なんて言っておきながら、すごく長い間目が合っている。本当に苦手なのか?
 僕のもう一押しを聞いても先輩はまだ黙っている。
どうしよう。踏み込み方を間違えたのかもしれない。他の人よりも先輩に近づけたと思ったけど、そうではなかったのかもしれない。自分を特別な人間だと思ってしまう愚か者になっていたかもしれない。まずい、調子に乗りすぎた。
急にたいして仲が良くない後輩からこんなこと言われたらむかつくよな。うん、謝ろう。
「すみません。やっぱり」
「いいよ」
「え、いいんですか!」
「おい、声が大きい。うるさい」
 まさかの返事に声のボリュームを間違えてしまった。静かな店内では声がよく響く。
「すみません。ずっと黙っていたから嫌だったのかと」
「考えてただけ。今日話した感じなら、お前は大丈夫そうだと思ったから」
 そんな風に思ってくれたのか。頑張って誘ってよかった。
「僕は、先輩の審査に通ったってことですか?」
「いや、審査ってなんだよ。お前は本当に変なやつだな」
笑った。
本当に少しだけど。右下を見て、ふっとかすかに口角が上がった。それだけで僕の心の中がとても温かくなった。ずっと懐いてくれなかった近所の子供がやっと僕のもとに駆け寄ってきてくれたような感覚だった。
「先輩って笑うんですね」
「ほんとになんだよ。俺だって笑うよ」
「いや、でも本当に嬉しいです。ありがとうございます!」
 笑ってくれたことと、本の交換を許してくれたことが本当に嬉しくて、思わず椅子から立ち上がってしまった。その音が店内に大きく響いてしまいお客さんの視線が一斉に僕たちへ向いた。
「おい、なんだよ、いきなり。目立ってるから早く座れ」
 珍しく焦った様子の先輩が小声で僕に注意をしてきた。
「す、すみません。嬉しくてつい」
「本当に変なやつだな」
 お茶目な笑顔を作りながら静かに椅子を引く僕に先輩は迷惑そうな視線を向けた。
あ、これは笑ってくれないのか。ちょっと残念だな。もう一回くらい見られると思ったのに。
「じゃあ、明日一冊持っていくから。部活の時に渡せばいい?」
「はい! ありがとうございます! 楽しみです!」
 極力小さな声で元気に伝えた。
「もう出るぞ。お前が目立つから気まずくなったわ」
「すみません」
 椅子から立ち上がると近くで読書をしている人と目が合った。その目は「静かに過ごせない人は来ないでください」と言っているようだった。おっしゃる通りです。すみません。僕は軽く会釈をしながら先輩の後を追ってレジへ向かった。しばらくこの喫茶店には来るのをやめておこう。
レジへ向かうと先輩が二人分の会計を済ませようとしていた。奢らせてほしいと何度も先輩に言っていたら「奢るなら本の交換はなし」と言われてしまったのでしぶしぶ財布をリュックにしまった。
先輩のスマートな会計を目に焼き付けカフェを出た。最後に「気をつけて帰れよ」と優しい言葉を言い残し颯爽と家へ向かう先輩の背中を見て「僕はこの人を一生憧れ続けるだろうな」と静かに思った。
 
今日の出来事を思い出していたらあっという間に家へ着いてしまった。「ご飯すぐできるからね」というお母さんの声を聞き流し急いで部屋へ向かった。リュックを床に投げ捨ててわくわくした気持ちで本棚の前に座った。
先輩に貸す本を選ぶ現実があるなんて思わなかった。本を好きでよかった。本屋に寄ってよかった。少し遠回りしてよかった。
今日の自分はついていた。ここ数年の中で一番嬉しかった日に間違いない。今まで諦めずに話しかけていた努力が実ったんだ。憧れの先輩とやっと仲良くなれたんだ。
僕はたくさんの本を前にこれ以上ない笑顔で本を選んでいた。
「先輩はどんな話が好きかな? これは映画がヒットしたからもう読んでいるかも。恋愛小説を読むって言っていたから恋愛系にしようかな。いや、推理系がいいかな?」
 静かな部屋で独り言が止まらない。楽しい。ただただ楽しい。まるで旅行前日の夜みたいだ。
早く先輩と話がしたい。早く部活の時間になってほしい。早く明日になってほしい。
ベッドに入っても高ぶった感情は治まらず、何度も寝返りを打った。眠れないとイライラしてくるはずなのに眠れないことさえも嬉しく思えてしまった今日の僕はやっぱりネジが外れていた。