黙って出て行ってごめん。
この家に帰ってくることはないと思う。
陽希が大学を卒業するまで、家賃はちゃんと振り込むから安心して。
俺にとって陽希は唯一無二の友人だった。


目が覚めると口が渇ききっていた。なんだが喉が痛い。
水を欲してキッチンへ向かうと冷蔵庫に一枚の付箋が貼ってあった。
「ん?」
寝起きの目を擦りながらいつもは無いメッセージを見た。視界がかすみ、字がぼやけている。目を細め焦点を合わせるように1文字1文字ゆっくりと読み始めた。
内容は簡単に理解できるものではなかった。もしかしたら寝起きで頭が働かなかったからかもしれない。いや、理解したくなかっただけかもしれない。
何度も読み直し、先輩がこの家を出て行ったのだと知った。
前触れもなく妻に家を出て行かれ、勝手に別れを告げられた夫のような気分だった。でもそんなはずはない。僕と湊先輩は先輩後輩という関係だ。夫婦のように『別れ』という区切りをつけるような言葉を使える間柄ではない。どちらかと言えば『絶交』という言葉の方が似合う気がする。でも湊先輩と絶交するなんて考えられないな。
昨晩、2人でお酒を飲みながら映画を見た。映画を見ることは僕たち2人にとって日常だが、お酒を飲むことは非日常だった。
湊先輩が「美味しいお酒を買ってきたから一緒に飲みたい」と珍しく僕を誘ってきた。
僕はお酒に弱い。そのことを湊先輩は知っている。どうして突然晩酌に誘われたのかは分からない。僕はあまり飲む気分ではなかったけれど、湊先輩からの誘いを断れるはずもなかった。
だって、嬉しかった。
湊先輩から誘ってくれるなんてことは滅多に無い。だから調子に乗ってキャパ以上のお酒を飲んでしまった。
昨日の記憶はほとんどない。もちろん見ていた映画の結末は知らない。最後の記憶はなんだろう? 湊先輩が僕に「もう一杯」と勧めてきたことか? 湊先輩に「眠いか?」と聞かれたことか? それとも湊先輩がトイレに行ったことか? 駄目だ。それすらもはっきりと思い出せない。
頭を整理するため水が入ったコップを片手にソファに座った。昨日もこのソファで映画を見てこのソファで寝落ちをした。
目の前のテーブルに湊先輩からのメッセージを置き考えた。水のおかげで徐々にクリアになっていく体とは真逆に脳内は混乱していた。
湊先輩が突然家を出ていくなんてよっぽどの理由があるはずだ。昨日の僕が何かやらかしたなんてことは考えにくい。ただいつものように映画を見ていただけだ。本当にただそれだけだ。
今まで平和に暮らせていたのに。喧嘩だってしたことはないし、価値観が合わずに苛立ったこともない。本当に居心地良く生活をしていた、はず。
もしかして、そう感じていたのは僕だけだったのか?
湊先輩は違った? 
嫌な部分があったのなら言ってくれたら直すのに。互いに意見を擦り合わせて2人にとって居心地のいい環境を作っていけばいいだけだ。急に家を出ていくなんて方法は子供っぽい解決法だ。
家賃を支払う意味も分からない。同居をする時に家賃は湊先輩、光熱費や生活用品は僕が払うと決めた。
もちろん払ってくれるのはありがたい。2LDKの家賃はバイト代で支払うにはきつい金額だ。でも、どうして家賃を払う気があるのに出て行くのだろう?
『もう帰ってくることはない』ってどういう意味? 仕事先は都内だと言っていたし、この家から通うことに問題はないとも言っていた。
もしかして一人暮らしがしてみたかったとか? でもそんな相談はされていない。したかったのならそう言ってくれたら僕だってその意見を尊重したのに。やっぱり突然出ていくなんて常識的にあり得ない。
湊先輩の残したメッセージには疑問点が多すぎる。じっと考えていてもきりがない。見つからない答えをひたすら探していることに苛立ちを感じ始めてきた。
とりあえず電話をしてちゃんと理由を聞こう。僕には教えてもらう権利があるはずだ。
「本当にどういうことなんだ?」
苛立ちの含んだ声をリビングに漏らしながらテーブルに置いたメッセージを手に取った。ソファに腰を深くかけ直し、電話帳を何度もスクロールし湊先輩の名前を探した。電話をかけることなど滅多にないから探し出すのに少しだけ時間がかかってしまった。
初めて湊先輩に電話をかけた日のことを思い出した。あの時は手や口が震えるほどに緊張していた。でも今は苛立ちから足が小刻みに動いている。気付かぬうちに僕たちの関係は変わっていたのかもしれない。
湊先輩の名前を見つけ迷うことなく通話ボタンを押し、右耳に携帯を押し当てた。コール音が何度も耳の横で鳴り響く。
[おかけになった電話番号は・・・・]
長く続いたコール音が機械的なアナウンスに変わった。
「え? 着信拒否?」
当たり前に話せると思っていた。たとえ理由を教えてくれなくても連絡はつくものだと思っていた。
動揺した気持ちのまま湊先輩にメッセージを送った。
『一度会って話をさせてください。連絡待ってます』
電話が繋がったと同時に僕は怒ろうと思っていた。「何勝手なことしてるんですか!」と。
文面でも僕は怒っているという事実を伝えようとした。それなのに、僕は湊先輩に拒否をされているのかもしれないと思ったと同時に一気に頭が冷えた。おかげで冷静で一般的な文章に落ち着いた。
さっきの電話はたまたま電源を切っていて出られなかっただけだろう。湊先輩が僕を拒否するなんてあるはずがないんだ。絶対にない。そう何度も自分に言い聞かせた。でもその言い聞かせは無駄だった。
数ヶ月経っても僕の送ったメッセージが読まれることはなかった。折り返しだってもちろんなかった。
時間が経つにつれて不安感や喪失感を強く感じるようになった。1人で食べる朝ごはん、感想を言い合えないつまらない映画、静寂に包まれた家に帰る瞬間。
もう湊先輩には会えないのだろうか?
僕は2度も湊先輩と離れなければならないのか?

湊先輩からの返事を待ちながら退屈な日々を過ごしていた。何をしていても湊先輩のことを考えてしまう自分がいる。
寂しさを感じるたびに湊先輩が残したメッセージを読み返した。何度も何度も読み返した。おかげで付箋はしわくちゃだ。
読んだからと言って湊先輩が戻ってくるわけではないけれど、読めば湊先輩がこの家にいた事実を感じることができてほんの少しだけ心が落ち着いた。
そして何度も読むうちに2つ違和感に気がついた。
湊先輩は一度も僕のことを名前で呼んだことがない。苗字の『相田』か『お前』と呼ばれたことしかなかった。
ましてや『友人』だなんて。
そんな関係性だと思ったことはない。友人になれたら嬉しいなと思った時期もあったけれどそんな関係はおこがましい。
湊先輩だって「俺とお前は先輩後輩だろ」と口癖のように言っていた。僕はそう言われて嫌だと感じることはなかった。だって事実だし何も不思議なことではない。
だからすごく違和感なんだ。
どうしてこんな呼び方や書き方をするのだろう。
どれだけ考えても理由は分からない。
考えれば考えるほど湊先輩への謎が深まるばかりだった。