*
僕は、どんなことがあっても。
咲希ちゃんのことが、大好きだから。
*
ーー大切な人を失うって、どういうことなのか。わたしは“あのこと”が起こるまで、何も分かっていなかった。
友達が祖父や祖母を亡くして落ち込んでいるとき、「辛いね」「悲しいね」と励ましていたけれど、まさか自分がこんなことになるとは思わなかった。
愛犬が、一ヶ月前に亡くなった。
名前は「あんこ」。オスだった。
わたしが中学一年生のころから飼い始めていて、そのときあんこはまだ産まれたばかりだった。
あんこは五歳で、まだまだこれからというときに亡くなった。
それは、心臓の病気のせい。
わたしがもっと早く気づいてあげられていたら。何か適切な処置をすぐ行ってあげられていたら。未来は変わっていただろうか。
そんな後悔ばかりしていて、学校すらまともに行けていなかった。
「咲希、おはよう」
「……お母さん、おはよ」
「今日も、学校行かない?」
わたしは小さく首を縦に振る。
お母さんは何も言わず、学校に欠席の連絡をしていた。
……違う。行かないんじゃなく、行けないんだ。
*
ドッグフードが入っていない食器皿や、遊んだ形跡のないおもちゃが視界に入ると、いつも現実逃避したくなる。
もうあんこがいないという現実を、知らされるから。
「咲希、ごめん。お母さん今から掃除しないといけなくて。おつかい頼んでもいい?」
「……うん。いいよ」
「ありがとう、助かるわ。花束を買ってきてほしいの。あんこが眠る場所に置こうと思って」
心臓がドクン、と跳ねる音がした。
あんこが眠る場所というのはきっと、家の庭のことだ。お墓と同じように、そこに花束を置くのだろう。
わたしは分かった、と言って家を出る。
外に出ると、わたしは驚いた。夜になると点灯される、クリスマスツリーがあったから。
そういえば、今日はクリスマスだ。あんこが亡くなってから、こういうイベントを祝おうとする気力もなくなってしまった。
まただ。あんこのことを思い出して、胸がぎゅっと締め付けられて、苦しくなる。
そのとき、一枚の封筒が、道端に落ちているのに気がつく。
何かがある。直感でそう思い、わたしは封筒を開けた。
【メリー・クリスマス。
あなたに特別なプレゼントを差し上げよう。
神より】
その短い手紙を読んで、前を向いたとき。
「咲希ちゃん」
そこには、見たこともない、男の子が立っていた。
*
「咲希ちゃん? 城田咲希ちゃーん。やっぱり僕の声聞こえてないのかな」
この人、誰?
見るからに知らない人だ。それなのにわたしのフルネームを知っているなんて怖い。
もしかしてストーカーだろうか。
慌てて立ち去ろうと思ったとき、その子が「あ!」と叫んだ。
「そっか。僕の姿が違うから、咲希ちゃん分からないんだね」
「……どういうこと、ですか。あなたは誰なんですか」
その子は、えへへ、と笑った。
「あんこだよ、僕。犬のあんこ」
「え」
あんこ。
一ヶ月前に亡くなった、愛犬のあんこ?
そんな漫画みたいなこと、この現実世界で起こるわけがない。
そうだ、これはわたしの夢だ。幻覚を見ているだけだ。
こうなったらいいなという願望がむき出しになっているんだ。
「馬鹿馬鹿しい。ほんと、わたしったら」
「え、咲希ちゃんは馬鹿じゃないよ?」
「あのね……って、話通じないよね。これ、夢なんだもん」
独り言の気分でそう言うと、あんこはわたしの頬をつねってきた。
……痛い。
「ほら、夢じゃないよ? 咲希ちゃん」
「う、うそ」
「嘘じゃない。僕は咲希ちゃんのことを救いに来たの」
「救い、に?」
何を言っているのか、よく分からない。
この状況ですらまだ呑み込めていないのに、そんなことを言われても信じることができない。
「咲希ちゃん、学校行ってないんでしょ?」
「……何で、知って」
「僕のせいで咲希ちゃんが不登校になるなんて嫌だもん。こっちのことだって考えてよね。せっかく神様に頼んで人間になったんだし、ふたりの思い出いっぱい作ろ!」
つまり、わたしが学校に行くようになってほしいということだろうか。
でも、もしこの話が本当なら。
またあんこと、一緒にいられる。それに会話もできる。
また、あの楽しい日々が待っているんだ。
わたしは、いつの間にか頷いていた。
*
あんこは、「やったー!」と嬉しそうに飛び跳ねる。
……あ。犬のあんこと、一緒だ。
あんこも、大好きな散歩に連れて行こうとしたとき、思いきりジャンプして喜んでいた。
人間になっても、あんこはあんこのままだね。
「神様はね、今日がクリスマスという特別な日だから、僕の願いを叶えてくれたんだって!」
「……じゃあ、あんことこうやって話せるのは、今日だけってこと?」
「うん、そういうこと」
タイムリミットがあるなんて知らなかった。
せっかく再会できたのに今日しか会えないなんて、寂しすぎる。
こうやって話している今も別れが近づいてきていると思うと、胸が苦しくなった。
「じゃあまずは、大好きなあそこに行きたい!」
「大好きなあそこ……もしかして、近くの公園のこと?」
「そう! さすが咲希ちゃん、僕のこと分かってくれてる!」
そりゃあ分かる。あんこが散歩で大好きだった場所だもん。
この体験が、本当に夢のよう。わたしは、ふわふわした足元で公園へ向かった。
*
「うわぁ、やっぱりここは何度来ても楽しいね! ワクワクする!」
「ふふ、あんこかわいい」
「今の僕は、かっこいいって言われるのが嬉しいんだよ!」
ぷくっと頬を膨らませるあんこ。
そうか。かわいいって言われるより、かっこいいって言われたほうが嬉しいんだ。
わたしは「かっこいいね」と言って、先程の言葉を訂正した。
「咲希ちゃん……ずるい」
「え? 何が?」
「ふん! 何か悔しいから秘密!」
「えぇ」
何か変なことを言ってしまったかと心配になる。
けれど、あんこは落ち葉を手いっぱいに拾って楽しそうにはしゃいでいる姿を見て、安心した。
「やっぱり冬は寒いね!」
「うん。もう来月には雪が降るかもね」
言ってしまってからハッ、と気がつく。
そうだ。もし雪が降ったとしても、あんこは見ることができないんだ。
「……っ、ごめーー」
「咲希ちゃん! そのこと、今日は考えちゃだめだよ。僕は咲希ちゃんを楽しませるためにここにいるんだから」
「……そう、だよね」
わたし、やっぱり馬鹿だ。
あんこはわたしを楽しませようとしてくれているのに、悲しませてしまっている。
今日は、あんことわたしの、やり直しの日だから。精一杯楽しもう。
わたしは、笑って頷いた。
*
「じゃあ、次はどこ行く?」
「ずっと行ってみたかった動物園に行きたい!」
「動物園? 行きたかったの?」
「うん! 咲希ちゃん、前に動物園行ったって言ってたでしょ? そのとき僕、動物園ってどんな場所なのかなってワクワクしてたの!」
そういえば、去年、家族で動物園に行ったんだった。
あんこ、ずっと楽しみにしてたんだね……。
わたしたちは、電車に乗って動物園へ向かった。
その最中もあんこは電車に初めて乗ったから、ずっと目を輝かせていた。
その姿を見て、わたしは本当にあんこのことが好きだなぁと思った。
「うわぁーっ、すごい! あれがライオン? キリン? 初めて見た!」
「ふふっ、良かったね、あんこ」
「うん! 僕ずっと夢だったんだぁ。僕の仲間に会うのって。咲希ちゃん、連れてきてくれてありがとうね」
あんこの満面の笑みにドキッとしてしまう。
かわいい。本当にかわいい。大好き。
わたし、やっぱりあんこのことが、ずっと大好きなんだ。
心からそう思った。
「水族館コーナーもあるんだって。カメとか、ペンギンとかいるかもね」
「おぉ、すごい! 何でもいるんだね! 咲希ちゃんが一番好きな動物は?」
「え……犬だよ」
本気でそう答えたのに、何かがおもしろかったようで、あんこは大きく口を開けて笑った。
「な、何かおかしいこと言った?」
「ううん、何でも。咲希ちゃんかわいいなぁ、って」
ドキッ、とする。一瞬時が止まってしまった。
かわいいあんこに、逆に「かわいい」と言ってもらえる日が来るなんて。
涙が出そうになってしまったけれど、頑張って引っ込めた。
「ねぇあんこ、ソフトクリーム食べない?」
「ソフトクリーム? なにそれ?」
「うーん、とにかく美味しいの。買ってくるから待ってて」
わたしはそう言って、バニラ味のソフトクリームを二つ買ってきた。
きっとあんこなら、気に入ってくれると思ったから。
「はい、どうぞ」
「え、いいの? ありがとう咲希ちゃん! いただきますっ」
あんこは、スプーンでソフトクリームを口に運ぶ。
するとその瞬間、「美味しいー!」と叫んでいた。
「何これ、すごい! 冷たい! すぐ溶ける!」
「ふふっ、そうだよ。美味しいよね」
「うん、すごく! 本当にすごいよ! ありがとう咲希ちゃん!」
その無邪気な笑顔が、わたしの胸にズシンと響いた。
あんこの笑顔を見ることができて本当に良かったと、心から思った。
*
動物園を満喫していつの間にか夕方になってしまった。
……残された時間も、あとわずか。
空が暗くなるにつれてお別れを感じるようで、とても辛かった。
「ねぇ、見て見て咲希ちゃん!」
「どうしたの?」
目をキラキラと輝かせているあんこ。
何があったのだろうと思いあんこの指差す方向を見ると、その光景に驚いた。
「イルミネーションだね。そっか、今日クリスマスだから」
「イルミ、ネーション? このキラキラ、そういう名前なの?」
「うん、そうだよ」
今朝見たクリスマスツリーが、ライトアップされていた。
上に大きく飾られている星も、その周りの飾りも、どれもカラフルに輝いていた。
青色、赤色、白色、黄色。とても幻想的だった。
そのとき、冷たい何かが頬をつたった。
「え……雪?」
驚いた。それは空から降ってきた、雪そのものだったから。
積もるほどではないけれど、小さくて綺麗な雪結晶がパラパラと降ってきた。
「すごい! これが雪!?」
「うん、すごいね……クリスマスの日に雪が降る確率って、低いみたい。ロマンチックだね」
「え、そうなんだ! やっぱり奇跡って起きるものなんだね!」
あんこの掌に雪結晶が落ちてきたみたいで、とても喜んでいた。
すごい。この一日で、こんなにも奇跡が起きるなんて。
あんこのおかげかもしれない。あんこが奇跡を呼んだのかな。
何の確信もないけれど、そう直感で思った。
「ねぇ、咲希ちゃん」
「なに?」
「最後に、咲希ちゃん家に行きたい」
*
あんこと一緒に、わたしの家へ向かった。
もしこれがあんこではなく、別の男性だったら、わたしは許可しなかっただろう。
でも、あんこだから断ることができなかった。
……ううん、それは違う。
わたしが来てほしかったんだ。もう一度、あんこに戻ってきてほしかった。
「あんこ」
「なに、咲希ちゃん?」
「どうしてわたしの家に来たいなんて言ったの?」
そう言うと、あんこの瞳から、一瞬光が消えた気がした。
「……それは、ただ普通に行きたいと思ったからだよ」
あんこは、視線を逸らしてそう言った。
わたしはその素振りを見て、嘘だと分かってしまった。
「あんこ、嘘吐いてるよね」
「え、嘘なんか」
「前にあんこが風邪引いてたとき、わたしが大丈夫って聞いたら目を逸らして吠えたんだよ。いつも通り明るかったけど、おかしいなって思った。いつもあんこは目を逸らさないのに、どうしてだろうって」
それは、あんこが嘘を吐くときの癖なのかもしれない。
前は犬だから人の言葉なんて分かるはずないと思ったけれど、今だから分かる。
あんこはわたしの言葉を理解していて、それでも心配掛けたくないから、嘘を吐いていたんだ。
「咲希ちゃんは、何でも分かっちゃうんだね」
「あんこのことだけだよ。他の犬だったら分からない」
「……あはは、そうなんだ、嬉しい。僕ね、やっぱり咲希ちゃんと離れたくない。ずっと後悔してたんだ。咲希ちゃんにお別れも言えず、空に行ったこと。そのせいで咲希ちゃんの人生を奪ってしまったこと」
わたしだけじゃない。あんこも、ずっと後悔していたんだ。
あんこは優しいから、自分の心配じゃなく、わたしのことばかり考えていてくれていた。
わたしの家の前まで来て、あんこはピタッと足を止めた。
「ここまででいいよ。ここで話を聞いてほしい」
「……うん」
「僕は、咲希ちゃんに学校に復帰してほしいと思ってる。もちろん少しずつでいいから、また明るい咲希ちゃんを見たい」
あんこの願いなら。それが望んでいることなら。
わたしは、叶えてあげたい。わたしができることなら、何だってしたい。
でも。
「わたしだって、そうしたい……!! でも、あんこがいないなら、生きる意味がないの!! わたし、あんこが大好きなんだよ。世界で一番好きなんだよ。ずっとそばにいてよ、あんこ」
あぁ、だめだ。
涙がポロポロと出てきてしまった。
感情を抑えきれないというのは、このことを言うのかもしれない。
あんこは優しく、頭をポンポンと撫でてくれた。
「ずっと、咲希ちゃんの隣にいるよ。見守ってるもん」
「うそ。だって姿は見えなくなっちゃうんでしょ。話せなくなっちゃうんでしょ。そんなの嫌だよ……あんこ」
あんこを困らせてしまって、わたしは本当に大馬鹿者だ。
涙を拭こうと思ったそのとき、額にキスをされた。
……あんこは、辛いことがあってわたしが泣いたとき。優しく、舐めてくれた。
あんこは変わらないんだ。どこにいても、ずっと。
「あんこのことが大好きだよ。犬として、すごくかわいがって。人間として、かっこいいと思って。幸せだよ、わたし」
「僕も、ずっと咲希ちゃんのことが大好き。どんなことがあっても、絶対」
「……うん。うん、うん……っ」
涙が止まらない。
これがお別れなのは仕方がないことだけど、すごく寂しい。悲しい。辛い。
いなくならないで、あんこーー。
そう思ってあんこの姿を見ると、だんだん姿が透明になっていた。
「あんこ、ごめんね。病気に気づいてあげられなくてごめん。本当に、ごめんね」
「謝らないでよ、咲希ちゃん。それよりも、今日付き合ってくれてありがとう。もし僕が人間だったら、毎日こんなふうにお出かけできたのかな」
「……ふふっ、そうだね。わたし、来世もあんこと一緒に、こんな楽しい毎日を過ごしたい」
「僕もそう思ってた。咲希ちゃん、約束だよ!」
わたしたちは小指を重ね合わせ、約束した。
そんな些細な、叶うかも分からない約束だけど、わたしにとっては大きな希望となった。
わたしは、ぎゅっと強く抱きしめる。
「ありがとう、あんこ。大好き」
「ありがとう、咲希ちゃん。大好きだよ!」
ーーずっとそばにいるから。
声が聞こえなくなってしまったあんこの口からは、そう言っている気がした。
あんこは、風と一緒に、空に旅立った。
*
高校三年生、四月。
新学期の始まりにふさわしい、桜が舞っていた。
この桜をあんこに見せたら、すごく喜びそう。
そう思いながら、わたしは庭へ行き、あんこの眠る場所へ向かう。
「あんこ。今の時期は桜が綺麗だね。新しい季節、って感じがする」
あのクリスマスから、三ヶ月以上が経った。
未だにわたしは不思議な体験をしたと思っていた。夢だったのかなと疑うほど。
でも、あの体験はわたしの心にずっと残り続けている。あんこといろいろな場所に行ったことも、約束をしたことも。
だからきっと、本当にあんこがくれたクリスマスの奇跡だったんだ。
「あんこ。じゃあ、学校行ってきます」
あと一年で、高校生活が終わる。
無事に高校二年生が終わって三年生に進学したことを報告したら、あんこは喜んでくれるかな。
そう思いながら、足を一歩踏み出したとき。
“行ってらっしゃい、咲希ちゃん”
あんこの声が聞こえた気がした。
急いで後ろを振り向くけれど、誰もいなかった。
でも、わたしは思う。姿が見えないだけで、あんこはそこにいるのだろうと。
拳をぎゅっと握りしめて、わたしは歩き出す。
これからも、あなたが見守ってくれていることを信じて。
僕は、どんなことがあっても。
咲希ちゃんのことが、大好きだから。
*
ーー大切な人を失うって、どういうことなのか。わたしは“あのこと”が起こるまで、何も分かっていなかった。
友達が祖父や祖母を亡くして落ち込んでいるとき、「辛いね」「悲しいね」と励ましていたけれど、まさか自分がこんなことになるとは思わなかった。
愛犬が、一ヶ月前に亡くなった。
名前は「あんこ」。オスだった。
わたしが中学一年生のころから飼い始めていて、そのときあんこはまだ産まれたばかりだった。
あんこは五歳で、まだまだこれからというときに亡くなった。
それは、心臓の病気のせい。
わたしがもっと早く気づいてあげられていたら。何か適切な処置をすぐ行ってあげられていたら。未来は変わっていただろうか。
そんな後悔ばかりしていて、学校すらまともに行けていなかった。
「咲希、おはよう」
「……お母さん、おはよ」
「今日も、学校行かない?」
わたしは小さく首を縦に振る。
お母さんは何も言わず、学校に欠席の連絡をしていた。
……違う。行かないんじゃなく、行けないんだ。
*
ドッグフードが入っていない食器皿や、遊んだ形跡のないおもちゃが視界に入ると、いつも現実逃避したくなる。
もうあんこがいないという現実を、知らされるから。
「咲希、ごめん。お母さん今から掃除しないといけなくて。おつかい頼んでもいい?」
「……うん。いいよ」
「ありがとう、助かるわ。花束を買ってきてほしいの。あんこが眠る場所に置こうと思って」
心臓がドクン、と跳ねる音がした。
あんこが眠る場所というのはきっと、家の庭のことだ。お墓と同じように、そこに花束を置くのだろう。
わたしは分かった、と言って家を出る。
外に出ると、わたしは驚いた。夜になると点灯される、クリスマスツリーがあったから。
そういえば、今日はクリスマスだ。あんこが亡くなってから、こういうイベントを祝おうとする気力もなくなってしまった。
まただ。あんこのことを思い出して、胸がぎゅっと締め付けられて、苦しくなる。
そのとき、一枚の封筒が、道端に落ちているのに気がつく。
何かがある。直感でそう思い、わたしは封筒を開けた。
【メリー・クリスマス。
あなたに特別なプレゼントを差し上げよう。
神より】
その短い手紙を読んで、前を向いたとき。
「咲希ちゃん」
そこには、見たこともない、男の子が立っていた。
*
「咲希ちゃん? 城田咲希ちゃーん。やっぱり僕の声聞こえてないのかな」
この人、誰?
見るからに知らない人だ。それなのにわたしのフルネームを知っているなんて怖い。
もしかしてストーカーだろうか。
慌てて立ち去ろうと思ったとき、その子が「あ!」と叫んだ。
「そっか。僕の姿が違うから、咲希ちゃん分からないんだね」
「……どういうこと、ですか。あなたは誰なんですか」
その子は、えへへ、と笑った。
「あんこだよ、僕。犬のあんこ」
「え」
あんこ。
一ヶ月前に亡くなった、愛犬のあんこ?
そんな漫画みたいなこと、この現実世界で起こるわけがない。
そうだ、これはわたしの夢だ。幻覚を見ているだけだ。
こうなったらいいなという願望がむき出しになっているんだ。
「馬鹿馬鹿しい。ほんと、わたしったら」
「え、咲希ちゃんは馬鹿じゃないよ?」
「あのね……って、話通じないよね。これ、夢なんだもん」
独り言の気分でそう言うと、あんこはわたしの頬をつねってきた。
……痛い。
「ほら、夢じゃないよ? 咲希ちゃん」
「う、うそ」
「嘘じゃない。僕は咲希ちゃんのことを救いに来たの」
「救い、に?」
何を言っているのか、よく分からない。
この状況ですらまだ呑み込めていないのに、そんなことを言われても信じることができない。
「咲希ちゃん、学校行ってないんでしょ?」
「……何で、知って」
「僕のせいで咲希ちゃんが不登校になるなんて嫌だもん。こっちのことだって考えてよね。せっかく神様に頼んで人間になったんだし、ふたりの思い出いっぱい作ろ!」
つまり、わたしが学校に行くようになってほしいということだろうか。
でも、もしこの話が本当なら。
またあんこと、一緒にいられる。それに会話もできる。
また、あの楽しい日々が待っているんだ。
わたしは、いつの間にか頷いていた。
*
あんこは、「やったー!」と嬉しそうに飛び跳ねる。
……あ。犬のあんこと、一緒だ。
あんこも、大好きな散歩に連れて行こうとしたとき、思いきりジャンプして喜んでいた。
人間になっても、あんこはあんこのままだね。
「神様はね、今日がクリスマスという特別な日だから、僕の願いを叶えてくれたんだって!」
「……じゃあ、あんことこうやって話せるのは、今日だけってこと?」
「うん、そういうこと」
タイムリミットがあるなんて知らなかった。
せっかく再会できたのに今日しか会えないなんて、寂しすぎる。
こうやって話している今も別れが近づいてきていると思うと、胸が苦しくなった。
「じゃあまずは、大好きなあそこに行きたい!」
「大好きなあそこ……もしかして、近くの公園のこと?」
「そう! さすが咲希ちゃん、僕のこと分かってくれてる!」
そりゃあ分かる。あんこが散歩で大好きだった場所だもん。
この体験が、本当に夢のよう。わたしは、ふわふわした足元で公園へ向かった。
*
「うわぁ、やっぱりここは何度来ても楽しいね! ワクワクする!」
「ふふ、あんこかわいい」
「今の僕は、かっこいいって言われるのが嬉しいんだよ!」
ぷくっと頬を膨らませるあんこ。
そうか。かわいいって言われるより、かっこいいって言われたほうが嬉しいんだ。
わたしは「かっこいいね」と言って、先程の言葉を訂正した。
「咲希ちゃん……ずるい」
「え? 何が?」
「ふん! 何か悔しいから秘密!」
「えぇ」
何か変なことを言ってしまったかと心配になる。
けれど、あんこは落ち葉を手いっぱいに拾って楽しそうにはしゃいでいる姿を見て、安心した。
「やっぱり冬は寒いね!」
「うん。もう来月には雪が降るかもね」
言ってしまってからハッ、と気がつく。
そうだ。もし雪が降ったとしても、あんこは見ることができないんだ。
「……っ、ごめーー」
「咲希ちゃん! そのこと、今日は考えちゃだめだよ。僕は咲希ちゃんを楽しませるためにここにいるんだから」
「……そう、だよね」
わたし、やっぱり馬鹿だ。
あんこはわたしを楽しませようとしてくれているのに、悲しませてしまっている。
今日は、あんことわたしの、やり直しの日だから。精一杯楽しもう。
わたしは、笑って頷いた。
*
「じゃあ、次はどこ行く?」
「ずっと行ってみたかった動物園に行きたい!」
「動物園? 行きたかったの?」
「うん! 咲希ちゃん、前に動物園行ったって言ってたでしょ? そのとき僕、動物園ってどんな場所なのかなってワクワクしてたの!」
そういえば、去年、家族で動物園に行ったんだった。
あんこ、ずっと楽しみにしてたんだね……。
わたしたちは、電車に乗って動物園へ向かった。
その最中もあんこは電車に初めて乗ったから、ずっと目を輝かせていた。
その姿を見て、わたしは本当にあんこのことが好きだなぁと思った。
「うわぁーっ、すごい! あれがライオン? キリン? 初めて見た!」
「ふふっ、良かったね、あんこ」
「うん! 僕ずっと夢だったんだぁ。僕の仲間に会うのって。咲希ちゃん、連れてきてくれてありがとうね」
あんこの満面の笑みにドキッとしてしまう。
かわいい。本当にかわいい。大好き。
わたし、やっぱりあんこのことが、ずっと大好きなんだ。
心からそう思った。
「水族館コーナーもあるんだって。カメとか、ペンギンとかいるかもね」
「おぉ、すごい! 何でもいるんだね! 咲希ちゃんが一番好きな動物は?」
「え……犬だよ」
本気でそう答えたのに、何かがおもしろかったようで、あんこは大きく口を開けて笑った。
「な、何かおかしいこと言った?」
「ううん、何でも。咲希ちゃんかわいいなぁ、って」
ドキッ、とする。一瞬時が止まってしまった。
かわいいあんこに、逆に「かわいい」と言ってもらえる日が来るなんて。
涙が出そうになってしまったけれど、頑張って引っ込めた。
「ねぇあんこ、ソフトクリーム食べない?」
「ソフトクリーム? なにそれ?」
「うーん、とにかく美味しいの。買ってくるから待ってて」
わたしはそう言って、バニラ味のソフトクリームを二つ買ってきた。
きっとあんこなら、気に入ってくれると思ったから。
「はい、どうぞ」
「え、いいの? ありがとう咲希ちゃん! いただきますっ」
あんこは、スプーンでソフトクリームを口に運ぶ。
するとその瞬間、「美味しいー!」と叫んでいた。
「何これ、すごい! 冷たい! すぐ溶ける!」
「ふふっ、そうだよ。美味しいよね」
「うん、すごく! 本当にすごいよ! ありがとう咲希ちゃん!」
その無邪気な笑顔が、わたしの胸にズシンと響いた。
あんこの笑顔を見ることができて本当に良かったと、心から思った。
*
動物園を満喫していつの間にか夕方になってしまった。
……残された時間も、あとわずか。
空が暗くなるにつれてお別れを感じるようで、とても辛かった。
「ねぇ、見て見て咲希ちゃん!」
「どうしたの?」
目をキラキラと輝かせているあんこ。
何があったのだろうと思いあんこの指差す方向を見ると、その光景に驚いた。
「イルミネーションだね。そっか、今日クリスマスだから」
「イルミ、ネーション? このキラキラ、そういう名前なの?」
「うん、そうだよ」
今朝見たクリスマスツリーが、ライトアップされていた。
上に大きく飾られている星も、その周りの飾りも、どれもカラフルに輝いていた。
青色、赤色、白色、黄色。とても幻想的だった。
そのとき、冷たい何かが頬をつたった。
「え……雪?」
驚いた。それは空から降ってきた、雪そのものだったから。
積もるほどではないけれど、小さくて綺麗な雪結晶がパラパラと降ってきた。
「すごい! これが雪!?」
「うん、すごいね……クリスマスの日に雪が降る確率って、低いみたい。ロマンチックだね」
「え、そうなんだ! やっぱり奇跡って起きるものなんだね!」
あんこの掌に雪結晶が落ちてきたみたいで、とても喜んでいた。
すごい。この一日で、こんなにも奇跡が起きるなんて。
あんこのおかげかもしれない。あんこが奇跡を呼んだのかな。
何の確信もないけれど、そう直感で思った。
「ねぇ、咲希ちゃん」
「なに?」
「最後に、咲希ちゃん家に行きたい」
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あんこと一緒に、わたしの家へ向かった。
もしこれがあんこではなく、別の男性だったら、わたしは許可しなかっただろう。
でも、あんこだから断ることができなかった。
……ううん、それは違う。
わたしが来てほしかったんだ。もう一度、あんこに戻ってきてほしかった。
「あんこ」
「なに、咲希ちゃん?」
「どうしてわたしの家に来たいなんて言ったの?」
そう言うと、あんこの瞳から、一瞬光が消えた気がした。
「……それは、ただ普通に行きたいと思ったからだよ」
あんこは、視線を逸らしてそう言った。
わたしはその素振りを見て、嘘だと分かってしまった。
「あんこ、嘘吐いてるよね」
「え、嘘なんか」
「前にあんこが風邪引いてたとき、わたしが大丈夫って聞いたら目を逸らして吠えたんだよ。いつも通り明るかったけど、おかしいなって思った。いつもあんこは目を逸らさないのに、どうしてだろうって」
それは、あんこが嘘を吐くときの癖なのかもしれない。
前は犬だから人の言葉なんて分かるはずないと思ったけれど、今だから分かる。
あんこはわたしの言葉を理解していて、それでも心配掛けたくないから、嘘を吐いていたんだ。
「咲希ちゃんは、何でも分かっちゃうんだね」
「あんこのことだけだよ。他の犬だったら分からない」
「……あはは、そうなんだ、嬉しい。僕ね、やっぱり咲希ちゃんと離れたくない。ずっと後悔してたんだ。咲希ちゃんにお別れも言えず、空に行ったこと。そのせいで咲希ちゃんの人生を奪ってしまったこと」
わたしだけじゃない。あんこも、ずっと後悔していたんだ。
あんこは優しいから、自分の心配じゃなく、わたしのことばかり考えていてくれていた。
わたしの家の前まで来て、あんこはピタッと足を止めた。
「ここまででいいよ。ここで話を聞いてほしい」
「……うん」
「僕は、咲希ちゃんに学校に復帰してほしいと思ってる。もちろん少しずつでいいから、また明るい咲希ちゃんを見たい」
あんこの願いなら。それが望んでいることなら。
わたしは、叶えてあげたい。わたしができることなら、何だってしたい。
でも。
「わたしだって、そうしたい……!! でも、あんこがいないなら、生きる意味がないの!! わたし、あんこが大好きなんだよ。世界で一番好きなんだよ。ずっとそばにいてよ、あんこ」
あぁ、だめだ。
涙がポロポロと出てきてしまった。
感情を抑えきれないというのは、このことを言うのかもしれない。
あんこは優しく、頭をポンポンと撫でてくれた。
「ずっと、咲希ちゃんの隣にいるよ。見守ってるもん」
「うそ。だって姿は見えなくなっちゃうんでしょ。話せなくなっちゃうんでしょ。そんなの嫌だよ……あんこ」
あんこを困らせてしまって、わたしは本当に大馬鹿者だ。
涙を拭こうと思ったそのとき、額にキスをされた。
……あんこは、辛いことがあってわたしが泣いたとき。優しく、舐めてくれた。
あんこは変わらないんだ。どこにいても、ずっと。
「あんこのことが大好きだよ。犬として、すごくかわいがって。人間として、かっこいいと思って。幸せだよ、わたし」
「僕も、ずっと咲希ちゃんのことが大好き。どんなことがあっても、絶対」
「……うん。うん、うん……っ」
涙が止まらない。
これがお別れなのは仕方がないことだけど、すごく寂しい。悲しい。辛い。
いなくならないで、あんこーー。
そう思ってあんこの姿を見ると、だんだん姿が透明になっていた。
「あんこ、ごめんね。病気に気づいてあげられなくてごめん。本当に、ごめんね」
「謝らないでよ、咲希ちゃん。それよりも、今日付き合ってくれてありがとう。もし僕が人間だったら、毎日こんなふうにお出かけできたのかな」
「……ふふっ、そうだね。わたし、来世もあんこと一緒に、こんな楽しい毎日を過ごしたい」
「僕もそう思ってた。咲希ちゃん、約束だよ!」
わたしたちは小指を重ね合わせ、約束した。
そんな些細な、叶うかも分からない約束だけど、わたしにとっては大きな希望となった。
わたしは、ぎゅっと強く抱きしめる。
「ありがとう、あんこ。大好き」
「ありがとう、咲希ちゃん。大好きだよ!」
ーーずっとそばにいるから。
声が聞こえなくなってしまったあんこの口からは、そう言っている気がした。
あんこは、風と一緒に、空に旅立った。
*
高校三年生、四月。
新学期の始まりにふさわしい、桜が舞っていた。
この桜をあんこに見せたら、すごく喜びそう。
そう思いながら、わたしは庭へ行き、あんこの眠る場所へ向かう。
「あんこ。今の時期は桜が綺麗だね。新しい季節、って感じがする」
あのクリスマスから、三ヶ月以上が経った。
未だにわたしは不思議な体験をしたと思っていた。夢だったのかなと疑うほど。
でも、あの体験はわたしの心にずっと残り続けている。あんこといろいろな場所に行ったことも、約束をしたことも。
だからきっと、本当にあんこがくれたクリスマスの奇跡だったんだ。
「あんこ。じゃあ、学校行ってきます」
あと一年で、高校生活が終わる。
無事に高校二年生が終わって三年生に進学したことを報告したら、あんこは喜んでくれるかな。
そう思いながら、足を一歩踏み出したとき。
“行ってらっしゃい、咲希ちゃん”
あんこの声が聞こえた気がした。
急いで後ろを振り向くけれど、誰もいなかった。
でも、わたしは思う。姿が見えないだけで、あんこはそこにいるのだろうと。
拳をぎゅっと握りしめて、わたしは歩き出す。
これからも、あなたが見守ってくれていることを信じて。



