「あの、やっぱり歌手になるのは辞めるので、この間の5万円、返してもらえませんか?」
早速俺は早瀬に電話をした。すると、
「何を言っているんだね?今更困るよ。もう色々と手配済みだし、あれは返せないな。辞めるのは自由だけど」
と来た。
「そんな、困ります」
「契約書を渡したよね。そこに書いてあるんだよ。一度支払った契約金は返金しないって」
そう言われて、慌てて書類をひっくり返す。隅々まで読んでいないし、読んでいたとしても、最初は返してもらう気があるわけじゃないから、それでも払ってしまっただろう。
「じゃあ、何をしても5万は戻って来ないんですね?」
「うん。だから、辞めるなんて言わずに一緒に頑張ろうよ」
もう、何を言われても空々しく聞こえるだけだ。
「じゃあ、警察に相談してもいいですか?」
「……警察?なんでそうなるかな。こっちは何も罪は犯してないよね。君が納得して契約金を支払ったんだ。契約書には返金しないと書いてある。裁判になっても、こちらが勝つ事は間違いないよ」
相手は威圧的に出てきた。
「分かりました。5万円はいいです。俺の落ち度です。じゃあ、さよなら」
俺は電話を切った。100万円を支払っていたら警察沙汰だったと思うが。雪哉に話したら、牧谷に相談しようと言った。法学部だからだろう。
 翌日、昼休みに雪哉と一緒に牧谷に会いに行った。事情を話すと、
「分かった、俺が話をしてみよう。電話番号教えて」
と牧谷が言った。名刺を渡して電話してもらうと、
『おかけになった電話は、現在使われておりません』
と、アナウンスが流れたそうだ。嘘だろ……。いや、そうだよな。やっぱり詐欺師だったんだよな。こっちが100万払ったら、どのみちトンズラするつもりだったのだろう。
「ははは、俺、ばっかだなぁ。そんな簡単にデビューなんてできっこないのに」
もう、決まり悪いやら恥ずかしいやら。雪哉と牧谷は、気の毒そうにしながらも何も言えないようだった。
「まあ、アレだな。ミッキーは本当にイケメンだから、話に信憑性が出てしまって、ついついみんな騙されたんだな。うん」
牧谷がそう言葉を絞り出し、フォローくれた。でも、神田さんは騙されなかったよな。そっか、神田さんには見破られそうだから、あいつら神田さんから逃げたんだな、きっと。俺ももっと大人にならなきゃなあ。

 「それにしても、俺たち、何を必死に我慢してたんだろうな」
泣きたいやら笑いたいやら。俺と雪哉は一緒に歩いていた。もう、週一の逢瀬の日を待ちきれず、雪哉のバイトが始まるまでの短い時間、俺がバイト先まで送る事にして会っているのだった。
「でも、本当に騙されたよ。未だに詐欺だったなんて信じられない」
「そうだよな。俺より、雪哉の方が完全に騙されてたもんな」
俺はそう言って、雪哉の頭をポンポンとした。
「だって、涼介だったら絶対にスターになれると思うもん」
「でも、スターなんかになったら、俺たちつき合えないよ?」
「あ……そっか。そうだよね。僕、やっぱりそれは嫌だな」
雪哉が俯く。うう、やっぱりこいつは可愛い。もう、人目を気にする必要なんかないし。
 俺は立ち止まり、雪哉の手を引いて雪哉の事も立ち止まらせた。そして、その場でキスをした。
「ば、バカ、何やってるんだよ、こんなところで!」
雪哉は手の甲で唇を押さえ、慌てふためいてそう言った。ここは繁華街の往来である。
「あはは、そんなに狼狽えるなよ」
急に自由になったような気がした。へんてこな現象だが。
 5万円は高い授業料だったが、色々と学んだ。大人になるための勉強だ。自分が案外騙されやすいという事や、もっと人目を気にせず自由になっていいのだという事。そして、詐欺師はけっこうちゃんとしたサラリーマンに見えるものだという事。雪哉が好きだという事。