やったぜ!俺は小さくガッツポーズをする。雪哉は逃げなかった。キスをして、それから所在なげに瞳を揺らして走り去って行った。雪哉が見えなくなってから俺も家路へと歩き始めたが、思わず1人でガッツポーズをかましたのだ。今日はこの為に遊びを企画し、手順を踏んできたと言っても過言ではない。やっぱり雪哉は俺の事が嫌いではない。いや、きっと好きだろう。いやいや、絶対好きなんだ。俺は確信した。
社会心理学の授業。もうお約束のように隣に座る俺と雪哉。一番後ろの席だから、教授がこちらを見ていなければ誰にも見られていない。教授がホワイトボードに文字を書いている最中、机の上にある雪哉の手の上にそっと手を乗せた。すると……。
「いで!」
思わず小さく声が出た。雪哉が反対の手で俺の手をつねったのだ。わーお、見事に爪の跡が付いて周りが赤くなった。俺はびっくりして雪哉の顔を見た。雪哉は済ました顔でノートを取っている。なんで、なんでなんだよー。俺たちは両想いじゃないのかよー。無念。
つまり、雪哉は多分俺の事が好きなのだが、やっぱりつき合ってはくれないという事なのだろう。雪哉にはれっきとした恋人がいるから。ああ、どうしたらいいのだろう。どうしたら雪哉は俺の物になるのだろう。毎日そればかり考えてしまう。そして、あの夜交わしたキスの事ばかり思い出す。
金曜日の放課後。バンド練習に集まった。神田さんはまたもやスーツ姿で現れた。
「就活、順調っすか?」
シオンがそう聞くと、
「まあな。1つ内々定をもらったぜ」
と神田さんが言った。
「マジっすか?どんな会社?」
俺が聞くと、
「大手レコード会社、の下請け業者」
と言って、ちょっと笑う神田さん。
「音楽関係か。ブレないっすね、神田さん」
俺がそう言うと、
「まあな。どんな会社でもいいから音楽に携わっていたいんだ」
上着を脱ぎながら神田さんはそう言った。ワイシャツの袖をまくり上げ、ギターを弾く神田さんの姿はどう見てもかっこいい。大人なんだけど、世の中の大人には染まらないようなブレないかっこ良さを漂わせている。雪哉がこの人から離れられないのは、単に義理人情の問題だけではないのだろう。やっぱりかっこいいし、包容力がある。負けられない。けど今はまだ負けている。俺が、これだけは譲れないという何かを持たないと、この人を超えられない。いや一生超えられないかもしれないけれど、雪哉に対してだけは、どうしてもこの人に勝たなければならないのだ。人生における難題だ。一体どうしたらいいのか。
「ところで涼介、お前、雪哉にちょっかい出したりしてないだろうな」
突然そう聞かれて、ドキッとしてしまった。
「な、何言ってるんだよ。ただ、友達としてつき合ってるだけだよ」
挙動不審になってしまった。先日のあれ(キス)は、酔っていて何も覚えていない事にしよう。
夏休みになった。俺ら3年も就職活動の一環で、企業のインターンシップに参加する。まだどんな職業に就きたいのか分からず、手当たり次第に受けた。商社1社に何とか合格し、無事インターンシップに参加する事ができた。
バイトもした。何せ合宿費用を捻出せねばならない。今までやっていたコンビニのバイトに加えて、ビラ配りのバイトもした。
そうして、8月上旬にスキー部の合宿に出かけた。夜行バスで新宿を出発し、明け方に到着した先は思いの外涼しかった。山の上は涼しい。朝は特に涼しい。
「おー!涼しい!」
バスを降りて皆口々に言う。伸びをする人も。今回は自家用車では行かないそうだ。グラススキーは雪上スキーとは板なども別物で、そういった道具は全てスキー場で借りる事になっている。それに、この後そのままリゾートホテルでバイトをするので、自家用車があると厄介なのだそうだ。
合宿は2泊3日だ。宿泊施設の部屋に荷物を置き、スキー場へ集合した。冬のスキーとは違って軽装備。Tシャツとハーフパンツという出で立ち。
俺は初めてグラススキーというものをやった。キャタピラになっている板でガタガタ言わせて滑るのだ。止まり方などけっこう雪上スキーとは違うのだが、基本的なスキルは同じだと言う。
そんでもって、やっぱり雪哉はグラススキーも上手い!滑る姿がカッコイイの何のって。
「はぁ、どうしてそんなに格好良く滑れるんだい?」
滑り去った雪哉に聞こえるはずもないのに、思わずそう呟く俺。だが、俺だけではない。雪哉が通った後には、部員みんながボーっと見とれている。
スキー場はたいして広くはない。最初は遊びで滑っていたが、慣れてくると雪哉が言った。
「スキーと基本動作は一緒だから、意識して滑ろう。まずこの練習から」
そう言って見本を見せてくれた。出来ない、出来た、ああでもない、こうでもないと、皆楽しそうに滑っている。
「雪哉、もう一回見本を見せて」
俺はわざとそんな事を言って雪哉を滑らせた。とにかく雪哉が滑っている姿が見たい。
「どう?分かった?」
うっかり見とれていたら、下から雪哉に聞かれて焦った。
4年生は就活が忙しいようで、合宿には参加しなかった。そして、新しい部長には雪哉が選ばれた。そりゃあもう、誰だって雪哉なら文句なし。こんなにスキーが上手いのだから。
2日目の午後、自由時間になった。すると夕方から天気が悪くなり、突然土砂降りの雨が降り出した。俺たちはずぶ濡れになって集合場所のラウンジに戻ってきた。
「降りそうだとは思ったけど、ずいぶん早かったな」
「突然土砂降りだもんな」
皆、口々に言い合っている。
「全員揃ってるかな?」
雪哉がみんなに向かって言った。お互い顔を見合わせる部員達。雪哉は人数を数えた。
「あれ、1人足りないな」
数え終わった雪哉が言う。
「あ、森下がいないんじゃ?」
1年生の森下がいない事が判明した。外は土砂降り。雷も鳴っている。
「嘘だろ。こんな天気の中、まだ外にいるのか?」
井村が言った。
「探しに行こう。何かあったのかもしれない」
雪哉がそう言って真っ先に外に出ようとするので、俺は慌てて止めた。
「待て。こういう時はリーダーが動いちゃダメだ。みんなで手分けして探すから、雪哉はここに居て、みんなからの報告を待つべきだよ」
俺が言うと、
「でも」
雪哉はやっぱり出ようとする。すると他の部員達が、
「俺、探してきます!」
「俺も!」
と言って、次々に出て行った。
「みんな……無理しないでね!」
雪哉が言った。
「俺も行ってくるわ」
「俺も行くよ」
鷲尾や牧谷も飛び出して行った。俺も行こうと思ってドアに手を掛けると、
「ミッキーはここに居てやれよ。ユッキーと一緒に」
井村が言った。
「え?」
「ユッキーも独りじゃ不安だろうから」
そう言って井村も出て行った。俺はその場に残る事にした。立ち尽くしたままの雪哉。俺は雪哉の頭をポンポンと軽く叩いた。雪哉は振り返り、ほんの少し笑った。
しばらくして、びしょ濡れになった部員達が戻ってきた。いつの間にか宿からタオルをたくさん借りてきた女子部員達が、帰ってきた男子部員に次々とタオルを渡している。
「いないっす」
「ダメだ、どこにもいない」
やはり森下は見つからない。
「……どうしよう」
雪哉は呆然と立ちすくんでいる。えーと、こういう時は。
「助けを呼ぼう。うん、それだ」
俺はスマホを取り出そうとして、ふと手を止めた。いや待てよ……。
「こういう時は110番?それとも119番?」
いつの間にか雪哉がスマホを手にしている。そしてパニクっている。
「ちょっと待て。その前にリフトの所にいる職員に伝えた方がいい。適切に連絡してくれるよ」
俺はそう言った。それを思いついた時、少し冷静になれた。そして今度は俺が、ラウンジを飛び出してリフトの所へ走って行った。
スキー場の職員や救助隊が捜索してくれた。森下は滑落して森の中にいた。雨をしのぐためにくぼみに身を隠していたので、俺たちには見つけられなかったようだ。雪の季節ではないので幸い凍える事もなく、無事森下は俺たちの元に戻ってきた。だが、足を怪我してしまったので、その後病院へ行って手当をしてもらい、そのまま実家に帰ることになった。
「可愛そうだったけど、とりあえず一件落着だな」
牧谷が言った。俺たち3年生男子の部屋である。
「みんな、ありがとう。僕パニクっちゃって、全然ダメだったよ。部長失格だよね」
雪哉がそう言って、ちょっと俯いた。
「ユッキー何言ってるんだよぉ、そんなことないよぉ。誰だってパニクるって」
「そうだよ、ユッキーは良くやったよ。森下は無事だったんだし。ね」
鷲尾と牧谷が必死に慰めている。どさくさに紛れて、雪哉の肩をポンポンしたり、腕を掴んだりしている。むむ。
すると、ふと雪哉が俺の方に目を向けた。何?と目で訴えかける。すると、
「あー、涼介もありがとう。いっぱい頼っちゃったね」
うっわー、可愛い。ちょっと照れた様子でそう言った雪哉に、うっかり心奪われる俺。
「意外と頼りがいがあるじゃん、涼介」
ちょっとおどけてそう続けた雪哉に、
「い、意外とは何だ、意外とは。心外だな」
俺もおどけて口を尖らせた。雪哉が声を上げて笑った。俺はにやけるのを我慢した。いや、我慢しきれていなかったかもしれない。
3日間のグラススキー体験が終わると、部員達は近くのリゾートホテルに移動した。午前9時にホテルに入り支配人に挨拶をすると、
「S大スキー部のみんなね。よろしくね。とりあえず、いくつかのパートに分かれてもらうから。君と君、そして君は受付をお願いします」
支配人の女性は俺と雪哉、井村を差してそう言った。
「君と君は、エントランス担当ね。後のみんなはレストランの方を担当してもらいます」
鷲尾と牧谷がエントランス担当になった。
まずは着替えて受付業務の内容を教えてもらい、午後からは本格的に仕事が始まった。宿泊客に対しチェックイン業務を行う。
「君、接客業向いてるんじゃない?なかなかいいわよ」
客が途切れた時に、支配人からそう言われた。隣にいた雪哉がふふふっと笑った。
夜の10時頃、やっと1日の仕事が終わった。レストラン係も夕食時はずいぶん忙しかったようだ。俺たちは寮へと向かう。とりあえずの置き場に置いておいた荷物を担ぎ、隣の建物へ。部屋は、基本的に仕事内容別に分かれると言われて、俺たち受付担当3人が同室となった。鷲尾と牧谷が羨ましそうに俺たちの方を見ていた。悪いな、お前たち。
シャワールームと3つのベッド。ホテルの客室ほどではないが、それなりに快適な部屋だった。
「あー疲れた~。仕事ってやっぱり大変だね」
井村がベッドに倒れながら言った。つまり、そのベッドを自分用にするらしい。3つのベッドは2つがほぼ並んでおり、1つはその2つのベッドの足下に横に置いてある。井村はその足下にあるベッドに寝そべったのである。
必然的に、俺と雪哉は隣同士のベッドになった。俺は手近な手前のベッドに腰を下ろした。
「意外と楽しかったな。俺、接客業が向いているのかもなあ」
俺が言うと、
「そりゃあ、そのルックスだからね。ミッキーは接客をやるべきだよ。少なくとも若い内はね」
井村が言う。
「そうそう」
雪哉もそれに同調して、そう言った。言って、あははと笑う。
「その笑いは何だよぉ」
ちょっと唇を尖らせて言うと、
「あはは、いや、ルックス抜きでも向いていると思うよ、涼介は」
雪哉がそう言ってくれた。
それぞれシャワーを浴びて寝ようとしたところで、井村が財布を手に取り、
「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ。先に寝てて」
と言って、部屋を出て行った。自販機はこの建物内にはなく、一度外に出ないとならない。この部屋は3階なので、それなりに時間がかかると思われる。つまり、その間俺と雪哉は部屋で2人きりというわけで……。
こんなチャンス滅多に無いし、あんまり時間もな。俺はキッと雪哉の方を振り返った。びっくりして荷物をまさぐっていた手を止めた雪哉。俺は雪哉のベッドに両手をつき、ずいっと雪哉に近づいた。
「な、なに?」
雪哉がちょっと身を引く。何って、決まってるだろう。
「ダメだよ」
雪哉が言う。
「何が?」
俺は言いながらじりじりと近づいていく。雪哉は俺の両肩に手を置き、押し返してくる。それでも俺は片方の膝もベッドに乗せ、体重を徐々に雪哉の上に乗せる。
「ちょ、ちょっと。涼介ってば」
だんだん倒れていく雪哉に覆い被さろうというその時、
「ただいま~」
「ユッキーお疲れ!」
「飲み物買ってきたよ~」
ハッとしてその場で凍り付いた。入り口を振り返ると、入って来た3人も固まっている。
「な、にをやって……?」
鷲尾がこっちを指さして震える声で言う。俺は雪哉をベッドに押し倒した状態だった。
「わっ!」
とにかく立ち上がった。
「いや、何もしてないよ」
苦し紛れの言い訳。いや、言い訳にもなっていないか。
「まさか、ユッキーを襲ってたなんて事は……」
牧谷も震える声で言う。
「ま、まさか。そんな事するわけないじゃん。あはは、やだなあ。すぐに井村が帰ってくるのに、変な事しないって」
俺が空笑いをして言い訳すると、
「そうだよなぁ、俺はただ自販機へ飲み物を買いに行っただけなのに」
井村が助け船を出してくれた。でも、ずいぶん早かったじゃないか?
「買ってきたの?」
雪哉が井村に聞くと、
「それがさ。ワッシーとマッキーが俺たちの分まで買ってきてくれたんだって。階段の途中で会って戻ってきたんだよ」
あ~だから早かったのか。ちぇっ、運が悪かったな。
「仕事の終わりには1杯のビールでしょ!」
牧谷がビールの缶を掲げた。
「おー、いいね」
俺は大袈裟に歓迎した。
「明日も仕事だから、1缶だけな」
鷲尾もそう言って、袋からビールの缶を出してくれた。
翌朝、目覚ましが鳴るより前に目が覚めた。見慣れない天井に一瞬思考が停止する。ああ、そうだ。リゾートホテルの寮だった。そして、ふと隣のベッドへ視線を向ける。そこには愛しい雪哉が眠っていた。
そっと起き上がり、足下の井村を確認する。井村は向こうを向いて眠っている。よし、これはチャンス。雪哉がこちらを向いて眠っているので、俺は静かに顔を近づけ、そうっと口づけをした。すると雪哉がパチッと目を開けた。口を開きかけた雪哉に、俺は指をしっと立てて制する。そして、井村の方を確認しようとしたら、
「あーあ、もう朝?」
井村が伸びをしながら起き上がった。危なかったー。
1日の仕事が終わり、部屋に戻った。雪哉がシャワーを浴びている時の事。
「あのさあ、ミッキーとユッキーってつき合ってるの?」
井村が突然そう聞いてきた。
「え!?いや、違うけど」
何だか慌ててそう返す。
「でもほら、今朝の……」
井村はそう言って、俺たちのベッドを指さした。ああ、今朝のあれを見ていたのか。やっぱり。
「それは……参ったな」
俺は頭をかく。
「正直に言えよ。他のやつには黙ってるからさ」
「うん。いや、でもつき合ってはいないんだ。雪哉には恋人がいて、俺とはつき合えないって。でも、俺は諦めてないっつうか」
「へえ、そうなのか。ハハハ、ワッシーとマッキーが知ったら泣くな」
笑い事でもないけどな。
「でも、あの感じだと、ユッキーもまんざらじゃ無さそうだよね、ミッキーの事」
井村が言う。
「え、そう思う?やっぱり?」
つい嬉しくなる。
「まあ、ミッキーはイケメンだからなぁ。好かれて悪い気はしないんじゃないの?ユッキーがそういうキャラかどうかは知らんけど」
「そういうキャラって?」
「つまり、軽いキャラなのかどうか」
軽いキャラなら、ちょっと見てくれの良いやつに言い寄られたらフラフラっと行くけれど、雪哉がそうでないなら、そう簡単じゃないぞという訳か。雪哉は、軽いキャラ……ではないだろうな。そこが良い所なわけだし。あの可愛い顔とのギャップというか。
そこで、俺の電話が着信した。画面を確認すると、友加里からだった。
「あ、電話だ。ちょっと話してくる」
俺はそう言って部屋を出た。ちょうど雪哉がシャワールームから出てきたところだった。
廊下に出て、電話に出る。
「どう?雪哉くんとは上手くやってる?」
友加里が言う。
「まあ……そこそこ」
歯切れの悪い返事しかできん。
「私の方はね……」
なんと、友加里はまだ神田さんの事を諦めてはいなかった。作戦を続けていたのだ。作戦と言っても、もう俺の為の作戦ではない。自分が神田さんをモノにしようという大作戦に移行されていた。
「慎重に行く事にしたのよ。そんでね、今日2人で飲みに行く事になったの!前みたいに色仕掛けとかはナシで……」
色々と作戦を話してくれた。そうか、地道に頑張ってるんだな。派手な見た目な友加里が意外なところを見せたら、そのギャップで男はイチコロなのかも?俺にはよく分からんが。頑張れ、友加里。その間に俺もこっちで頑張るぞ。
待てよ。そうか……ギャップねえ。俺の見た目って、きっと軽いやつなんだろうな。俺も、いつも攻めてばっかりじゃなくて、もうちょっと地道に好かれる努力をしてみるか……。よし、決めた。しばらく雪哉に手を出さないぞ。
部屋に戻ると、雪哉がチラッとこちらを見た。何か言いたげな様子。だが言わない。
「ん?どうした?」
俺が声を掛けると、ちょっと迷った後、
「電話、してたの?」
と聞いてきた。何々?俺に興味があるのかい?
「あ、うん。友達から掛かってきて」
だが、さりげない様子で返す。今、井村がシャワールームにいるようで、シャワーの音が聞こえていた。もうすぐ出てくるだろう。
「あ、そう」
目を泳がせた雪哉。誰からか聞きたいのだろうか。でも、何を気にしているのだろう。俺が雪哉にぞっこんなのは既知の事実なのだし、俺が誰かと話していたからって、何も気にする要素はない気がするけどな。
1週間のバイトがもうすぐ終わろうとしている。だいぶ仕事に慣れたと思ったら終わりだ。しかし、我が家に早く帰りたいという思いは強い。とにかくゆっくり寝たい。
最後の夜。仕事が終わって部屋に戻ってくると、井村が俺にこっそりと言った。雪哉がシャワー中に。
「今夜2人きりにしてやるよ。俺はワッシー達の部屋で寝るから」
「マジで?でも、あいつらがそれを認めるかな」
鷲尾と牧谷が、俺と雪哉の2人きりを許すとは思えないが。
「この部屋にまず呼んで、酔わせてから俺が2人を送っていって、そのまま戻って来ないってのはどうだ?」
「ナイスアイディア」
俺は親指を立てた。
事は順調に運んだ。鷲尾と牧谷は、こっちに呼べば当然来る。雪哉がいるからな。そして、あいつらは酒に弱い。
「お前ら、そろそろ自分の部屋で寝ろ。しょうがねえなあ、俺が連れていってやるよ」
井村はそう言うと(ちょっとわざとらしい気がしたが)、2人の背中を押して部屋を出て行った。サンキュー井村。恩に着るぜ。
さて、俺と雪哉は2人きりだ。ベッドは隣同士。この間誓った通り、俺はこの数日雪哉に手を出さないようにしてきた。普通の友達として接した。それでも、毎日同じ部屋で寝起き出来たので、俺は満足だった。
俺たちは缶ビールを飲んでいた。それぞれのベッドに腰かけて、向かい合っていた。
「もっと飲む?缶ビール買って来ようか?」
俺が言うと、雪哉は首を横に振った。
「もう十分。3缶目でしょ、飲み過ぎなくらいだよ」
「可愛い事言うじゃん」
俺が笑って言うと、雪哉の顔の赤みが急に増した気がした。
「あ、あのさ」
「何?」
「涼介、最近あんまり……何て言うか。何もしてこないよね」
雪哉は、ちょっとろれつが回っていない感じだ。
「何もって、何を?」
「またまた~、とぼけちゃって。前は2人きりになれば、すぐに色々してきたでしょ」
「色々って、例えば?」
意地悪く、俺は聞く。
「例えば~、手をこう、ぎゅっとしたりぃ、頭をポンポンってしたりぃ、あとぉ、チュウとかぁ」
目が半分据わっている。こりゃ後で記憶がないやつだな。
「して欲しいの?」
俺は笑いながらビールを飲む。
「そ、そういう訳じゃないけどぉ、急にしなくなるとぉ、嫌われたのかなぁとかぁ、思ったりぃ」
「え?」
笑っても居られなくなる俺。俺が諦めたのだと思われては元の木阿弥。努力の甲斐無しだ。我慢した意味が無くなる。
「そんな事ないよ。俺は、雪哉の事が好きだよ。好きだから、もっと大切にしようと思ったんだ。でも、雪哉がして欲しいなら、もちろんしてあげるよ」
俺はビールを小机に置き、雪哉の片手を両手で掴んだ。
「雪哉は?俺の事、好き?」
じっと雪哉の顔を見る。今や真っ赤な顔の雪哉。
「僕はぁ、涼介の事……好き……になっちゃいけないからぁ」
ぐさっ。マジか。俺は手を離した。すると、雪哉は明らかに悲しそうな顔をした。そして体ごと横を向き、足を抱えてお山座りをした。
「涼介はぁ、モテるじゃん。もう彼女とか出来たのかなーって、電話も掛かって来てたしぃ。それに支配人なんていっつも涼介の事見てるしぃ、涼介がもし誘ったら絶対にOKしそうだしぃ、だからぁ……」
「雪哉?何言ってるんだ?」
電話って何の事?支配人が何だって?
「だからぁ、僕の事なんてもう辞めたのかと思ったんだよ。涼介は、その気になればいくらだって恋人作れるしぃ、僕なんて……」
雪哉は片手に持っていたビールをグビグビっと飲み干し、空の缶を小机の上に手を伸ばして置いた。その後、雪哉はお山座りの膝小僧に顔を埋めた。なんだか可愛そう。俺の事で悩んでいたのだろうか。俺ならいつだってOKなのに。それでもやっぱり、神田さんに恩義を感じているのか。どっちなんだよ雪哉。俺の事が好きなんだろう?違うのか?
俺は雪哉のベッドに乗り、雪哉の後ろに座った。そして、後ろからそっと抱きしめた。
「悩ませちゃって、ごめんな」
雪哉が言うような、俺が「その気」になるなんてのは、雪哉以外には考えられないのに。雪哉だけを待っているのに。そうして、俺はいつまでも雪哉を後ろから抱きしめていた。いつの間にか眠りの淵に追いやられ、気がついたら雪哉のベッドの上に倒れていた。まだ、腕の中には雪哉の背中があった。一晩中後ろから抱きしめていた。雪哉もそのまま倒れて眠っていた。
「お前らもしかして、ずっとその状態だったん?」
いきなり声が降ってきて、びっくりして飛び起きた。井村が自分のベッドに座ってこちらを見ていた。
「うん?あれ、もう朝?寝落ちしちゃったんだ、僕」
雪哉が目を擦りながら起き上がった。しまったー、せっかく2人きりだったのに。もう少し何かこう、ロマンティックな事が出来ただろうに。ほとんど眠っていたなんて……不覚。
「僕、シャワー浴びてくるね」
雪哉がシャワールームへ入っていった。
「まあ、そう落ち込むな。酒が入りすぎたか?」
井村が俺を慰める。慰める割に、ちょっと笑っている。俺は何も言わずに井村を軽く睨んだ。
合宿の帰りもバスだった。今度は日中を新宿へ走る。みんな疲れが溜まっていて、バスの中ではほとんどの人が寝ていた。それにしても、やっぱり雪哉は俺を受け入れてはくれなかった。酔っていたのに、俺を好きになってはいけないと言って。雪哉は今、俺の斜め前の席に座っている。手を伸ばせば届く距離にいるのに、顔は見えない。いつも、俺たちはそんな距離にいる気がする。
スキー部の合宿もリゾートホテルのバイトも終わってしまった。その後はバンドのライブに向けて練習の日々だった。週に1回、集まって練習を重ね、8月末の土曜日、俺たちスライムキッズの単独ライブの日がやってきた。
リハーサルを終えて楽屋にいると、客が続々とライブハウスに入って来た。カーテンの隙間からチラチラと客席を覗く。雪哉も来るだろう。俺も声は掛けたが、チケットは当然神田さんが渡していると思い渡さなかった。立ち見の客席が徐々に混み合ってくる中、派手な女性が入って来て人目を引いていた。彼女が掛けていたサングラスを外した時、思わず声が出た。
「え?友加里?」
俺はチケットを渡していないのに、友加里が入って来た。誰からチケットをもらったのだろう。いや、俺ではければ当然……神田さんだよな。他のやつに頼むくらいなら、友加里は俺に声を掛けるだろうし。しかし、どうして神田さんが。ちょっと待てよ。じゃあ、神田さんは雪哉にも、友加里にもチケットを渡したという事になるぞ。なんか……ずるくないか?
俺はチラッと神田さんを振り返った。神田さんは座ってコーヒーを飲みながらスマホを見ていた。
ライブの開始時間になった。俺たちがカーテンを開けて出て行くと、拍手と歓声が沸き起こった。
「リョウスケー!」
黄色い歓声が飛ぶ。俺は手を上げてそれに応えた。ステージに出て、それぞれ持ち場に着いた。単独ライブの場合、リハーサルでマイクや楽器のセッティングは済んでいるので、ここで自分達がやる必要はない。すぐに曲を始めた。
俺はマイクを構えながら、客席を見渡した。雪哉を探す。混み合っているし、客席が暗いのでなかなか見つからない。歌が始まる。歌に集中しろ、俺。
いた!雪哉はやっぱり一番後ろに立っていた。飲み物を片手に、カウンターに寄りかかるようにして立っている。ミラーボールが光をあちこちに当てる。時々雪哉の方に光が当たり、顔が見えた。雪哉は俺を見ている。多分。いや絶対に。
曲の合間に神田さんがMCを担当し、時々俺に話題を振って笑いを誘う。俺はペットボトルの水を飲みながら、そんな神田さんのMCの相手をする。そして、次の曲の為に用意した一輪のバラをこっそりしこむ。まだ紙袋の中に入っているので、客席からは中身が見えない。
次の曲はバラードだった。アニメソングであり、ラブソングでもある歌。そのクライマックスで、俺は紙袋からバラを取り出し、手に持った。そして客席に進んでいく。元々の計画では、客席の真ん中辺りにいる客に渡すという事になっていた。誰だっていいのだ。何となくその場が盛り上がればいい。だが俺は、どうしても雪哉に渡したかった。だから一番後ろまで歩いて行った。
雪哉は、俺が目の前に来たのでびっくりして、ぽかんとしていた。歌を歌いながら、俺は跪き、バラを雪哉の方へ差し出した。ヒューヒューというからかいの声が沸き上がり、拍手とか笑いとか、俄に賑やかになる。雪哉は寄りかかっていた体を起こし、飲み物をカウンターに置き、俺からバラを受け取った。その時の歌詞が、
「僕を受け入れて~♪」
だったので、バラを受け取った雪哉は、受け入れるという格好になる。相手が男だった事もあり、会場は冗談だと思って大ウケだったが……俺は本気だったんだよな。雪哉も大まじめに受け取った。でも、あれは受け取らざるをえなかっただろうな。
ライブが終わった。相変わらずお姉様方が俺を囲み、色々とプレゼントをくれた。俺のファンの方々が帰って、帰り支度をしようと楽屋へ戻ろうとした時、客席で友加里が神田さんと話しているのが目に入った。神田さんも友加里も、楽しそうに話し込んでいる。それじゃあ、雪哉はどうしているのか。俺は雪哉を目で探した。会場内にはいない。俺は急いで会場の外へ出た。ライブ会場は地下だったので、階段を上って地上に出る。すると、やはりそこに雪哉がいた。誰かを待っている様子。
「雪哉」
声を掛けると振り返った。
「涼介。これ、ありがとう」
雪哉はそう言って笑った。これ、というのは一輪のバラである。
「ああ、そっか。今紙袋を持ってくるよ。えーと、神田さんを待ってるの?」
俺がそう言うと、雪哉は曖昧に笑った。
「ん?どうした?」
「あ、ううん。何でもないよ。一応、神田さんを待っていようかなとは思うけど……この後どうするの?みんなでご飯行くなら、僕は帰るけど」
「ああ、どうかな。ライブ前にコンビニおにぎりとかを軽く食べたし、俺らはあんまり打ち上げとかしないんで」
と言って俺は笑った。俺は実家暮らしだが、他のメンバーは独り暮らしだ。金銭的に余裕がない。飲むなら酒を買ってきて家で飲む。
「そっか」
一瞬、2人は黙り込んだ。今、神田さんは友加里と話している。そのせいで、雪哉を待たせている。
「とにかく、俺の荷物とそれの紙袋持ってくるから、ちょっと待ってて」
そう言って、俺はまた階段を駆け下りた。
ライブハウス内に入ると、まだ神田さんと友加里は話していた。俺は自分の荷物と例の紙袋を持ち、
「それじゃあ、お疲れ!」
と、メンバーに声を掛けた。
「おう、お疲れ!」
「お疲れ~!」
シオンとシュリが言った。楽器の片付けもそろそろ終わり、彼らも帰り支度をしていた。神田さんと友加里にも声を掛けた。
「神田さん、先に帰るよ」
「ああ、お疲れ」
「涼介、格好良かったわよ」
「サンキュー。じゃあな」
神田さんに雪哉の事を話そうかと思ったが、やっぱり辞めた。そして、俺は階段を駆け上がった。
雪哉はまだバラを一輪持って、俯いて立っていた。その姿はまるで王子様だけど、やっぱりどこか寂しげで、いたたまれない。
「お待たせ。はい、これ紙袋。この中に入れろよ」
俺は紙袋を雪哉に渡した。
「うん」
雪哉はバラを紙袋に入れた。
「なんか、神田さんはまだ帰らないみたいだから……」
どうも、それ以上は言葉に出来ない。だから、何だと言えばいいのだろう。帰った方がいい?俺と一緒に帰ろう?雪哉がどうしたいのか、俺には分からないよ。すると、雪哉はニコッと笑い、
「そっか。じゃあ、僕帰るね」
そう言った。ちょっと無理しているような顔だな。
「一緒に帰ろう。家が近いんだからさ」
「うん」
電車に乗っても、雪哉の口数が少ない。やっぱり友加里の事がショックだったのだろうか。このまま独りで帰すのが忍びない。
「ねえ、やっぱり一緒に飲もうよ」
俺はそう言った。
「え、でも……」
雪哉が躊躇するので、
「俺が奢るって」
「そんなの……」
「コンビニで缶ビール」
雪哉の断る言葉を遮って、俺はそう言った。
「ライブ、観に来てくれたお礼にさ」
俺が呼んだわけでもないけどな。
「うち来る?親いるけど」
苦笑い。俺の部屋で飲めば、両親に邪魔はされないけれど、話し声とか多少聞かれてしまう恐れがある。それに、あまり遅くまでという訳にもいかない。
「ご迷惑でしょ?それなら、僕んちにする?」
「え、いいの?」
うぉー!来たー!興奮を必死に抑える。
「狭いけど」
雪哉がやっと笑った。俺は当然、その申し出を受ける事にした。雪哉の家の最寄り駅で降り、コンビニでビールを買い、一緒に雪哉の部屋に行った。
「おじゃまします」
マンションの一室。割と広いではないか。独り暮らしにしては贅沢な感じ。さては、雪哉の実家は金持ちだな?
リビングではなく、ベッドのある寝室に通された。ベッド脇にある小さいテーブルの上にビールや、今し方買ってきた唐揚げやポテトなどのつまみ兼夕飯を並べ、ベッドに並んで腰かけて乾杯した。しかし、ビールを飲んでも、2人ともどうも楽しく酔える感じではない。俺は雪哉のちょっと憂いを帯びた様子が気になって酔えない。
「やっぱり気になるよね、友加里の事」
俺がそう言うと、雪哉は俺の顔をチラリと見て、また視線を落した。
「神田さんは、もうあの娘の方がいいのかな。僕なんかよりも」
「そんな事ないだろ。俺が雪哉をくれって言った時、神田さんは絶対にやらないって言ってたし。そんな簡単に乗り換えたりしないだろ」
「それ、友加里ちゃんと出逢う前でしょ」
「う、まあ、そうだけど。でも、神田さんはゲイなんだろ?」
一応聞いてみる。
「ううん、バイセクシュアルなんだって」
「そうなのか」
やっぱり。
「あんな綺麗な女の子から好かれたら、誰だってそっちになびくよね。仕方ないよ」
「もしそうなら、むしろ好都合じゃん。神田さんとはきっぱり分かれて、俺のものになれよ」
俺は、雪哉の手を握った。これはチャンスだ。友加里が作ってくれたんだけど。
「雪哉、俺とつき合おう?神田さんとはちゃんと分かれて」
じっと返事を待つ。これはもう、OKしかないだろうに。何を迷うんだよ、雪哉。
「ダメだよ。僕は、神田さんと別れられない」
嘘だろ……。
「なんでだよ。神田さんは浮気してるんだろ?いや、もしかしたら向こうが本命なんだろ?」
「………」
雪哉が黙る。
「俺じゃダメなのかよ。雪哉」
重ねた手を揺らす。
「俺は、お前の事が好きなんだよ」
更に、言い募る。
「僕は、涼介が考えてるような人間じゃないよ」
雪哉が静かに言った。
「どういう事?」
「もっと汚くて、いやらしくて、打算的で、サイテーなんだ」
ずいぶん自虐的だな。
「そうなのか?それでもいいよ」
「きっとがっかりするよ、涼介」
「しないって」
「でも僕は、神田さんに捨てられたら困るんだ。恋人がいなくなったら……」
「だから、俺がいるだろ。俺がお前の恋人になるよ」
「でも……。でも、涼介は僕を抱けないだろ?」
思いも寄らぬ言葉が出て、びっくりした。
「え、今なんて?」
「だから、涼介は僕を抱けないだろ?元々女の子とつき合ってたんだから」
「だ、抱けるさ!」
「実際無理だよ。僕、男だよ」
「分かってるよ!」
俺はカッとなった。無理だと決めつける雪哉に、ではなくて、男とか女とか、元々二つやそこらには分けられない物を、真っ二つに分けてしまう世の中に。そして、俺は少し乱暴に雪哉にキスをした。舌を絡ませる。そのまま、ベッドに押し倒した。
今まで、神田さんと雪哉がどんな風に愛し合っているのか、考えたくなかったけれど、つい何度も想像してしまっていた。自分が雪哉と愛し合う妄想も、していなかった訳ではない。実際にその場になったらどう感じるのか、不安がなかったわけでもない。だが今、俺の手によって雪哉を快楽の淵へといざなう事に、極上の喜びを感じている。自分がどうかなんて関係ない。愛する人がどう感じているのか、それが一番大事な事なんだ。
「ほらね、抱けただろ?」
息切れしながら俺は言った。すごく、満足げに。
「………」
雪哉の返事を待っているのに、雪哉は何も言わず、唇を噛んで俺を見上げている。でも、さっきまでの暗い顔ではなく、ちょっと嬉しそうな、微笑んでいるような顔をしている。俺は思わず雪哉を抱きしめた。
「可愛いな、お前」
最高の気分だ。
シャワーを浴び、服を借りて着替え、今夜はここ、雪哉の部屋に泊まる事にした。
「ねえ、神田さんにちゃんと話そうよ。今、電話する?」
俺がそう言うと、
「ああ、うん。そうだね」
ちょっと気が進まなそうな雪哉。そりゃそうだよな、別れ話だもんな。
「こういう事は、早めに処理しておいた方がいいぞ」
俺が真面目にそう言うと、
「涼介の数多なる経験によると?」
雪哉が茶化す。
「まあ、そんなとこだ」
実際、俺の経験から出た言葉なのだ。
というわけで、雪哉は神田さんに電話を掛けた。
「もしもし、神田さん?バイバイ」
は?横にいる俺がビックリ。そんな別れ方があるかい。
「僕、涼介とつき合う事にしたから、神田さんは心置きなく友加里ちゃんとつき合っていいよ。あ、今ここに涼介がいるから、スピーカーフォンにするね」
すると、神田さんの声が聞こえた。
「なにー?やっぱりそういう事になったのか。涼介め」
というセリフの割に、神田さんの声は優しく、ちょっと笑っているようだった。
「あ、えーと、涼介です。神田さん、ごめん。そういう事だから」
「涼介お前、雪哉とは今までみたいな適当な付き合い方するんじゃねえぞ」
「分かってるよ。俺、今までとは全然違うんだ。雪哉の事は本気だから。ちゃんと、雪哉の事を大切にするよ」
こんな、普段なら背中がむずむずしてしまうようなセリフを、雪哉本人の目の前で、しかも雪哉の顔を見ながら言っている俺。あー、なんかラブだな。青春だな。
「そうか。頼むぜ」
神田さんが言う。
「神田さん、今までありがとう。すごく感謝してるよ。友加里ちゃんとお幸せにね」
雪哉がそう言った。
「……泣かせんなよ。お前はやっぱり特別だよなぁ。あ、言っとくけどな。俺は浮気してはいなかったぞ。ちゃんと、節度を守っていたんだからな」
「うん」
雪哉は、返事をした後、涙を一筋流した。
「じゃあね、バイバイ」
そう言って、雪哉は電話を切った。俺も何だか切ない。涙を流した雪哉の事を、そっと抱きしめた。
それにしても、俺と雪哉が上手く行ったのも、友加里のお陰だ。俺はこっそり友加里にメッセージを送った。
『こっちも上手く行ったぞ!友加里のお陰だ。サンキュー!そして、そっちもおめでとう!』
すると、友加里からはVサインのみの返信が来た。シンプルだな。しかし、つまりはあちらもちゃんと上手く行っていたという事なのだ。神田さんは、浮気してはいないと言ったけれど、それはまだ寝ていないという事であって、言葉の上では既に2人は出来上がっていたという事なのだろう。雪哉と神田さん、どっちが先に浮気したのか、議論になるな。いや、本人達が気にしていないのだから、いいのか。
あー、これで万事上手く行く、と思ったのだが……また新たな試練が訪れる事に、俺はまだ気づいていなかったのだった。