柊を突然失ってから、樹は機械のように、ただ仕事に打ち込んだ。

 朝も夜も、曜日も……何の感覚もなくなっていた。
 ——感じる必要がなかった。

 その様子の変化に、樹の秘書である菱木さくらはすぐに気づいた。

「副社長……そのような細かな仕事は、私にお任せください。
 あまり全てを抱えられては……お身体に障ります」
「いいんだ。やらせてくれ」

 この数カ月の間に随分和らいだように見えた表情は、気づけば以前より一層硬い冷たさに覆われ……今は、誰の言葉も彼の心に届いてはいないように見えた。

 蕾が少しずつ開くように微かに変わり始めた彼に、さくらもつられて微笑むことが増え……その度に、彼を支える何かが背後にあることを感じた。
 その何かを愛おしむ空気が、確かにそこにあった。

 その気配が、急に消えたのだ。
 柔らかく灯った明かりが掻き消えたように。

 もしかしたら——

 失ってしまったのだろうか。
 彼を包み、温めていた、大切な存在を。

 何かから逃れるように仕事に没頭する背中に、かける言葉もなく——
 さくらの胸は、酷く痛んだ。



 樹の胸に何の感情も湧くことなく、春が深まった。

 5月の半ば。
 樹のスマホに、美月からのメッセージが届いた。

『樹さん、お久しぶりです。
 ご都合の良い時に、お会いしたいと思っています。
 連絡待ってます』

 樹には、自分の身に起こる全てを流れに任せる以外、思い浮かぶことなどなかった。

 副社長という立場も、婚約者がいる状況も……彼をがんじがらめに縛り付けたまま、頑として動かない。

 いっそ誰かに、自分のことを全て決めて欲しい。
 何がいいも、悪いも……
 自分にはもう、何もない。

 都合のつきそうな日時を美月に伝えると、樹はスマホをソファに放った。









 ——来週の土曜、樹さんに会う。

 美月は、その日自分が樹に伝えたいことを、繰り返し心に刻んでいた。

 その日は、大切なスタートの日にしたい。
 私にとっても、彼にとっても。

 しっかりして、私。
 ——私の言葉が、私と彼の人生を左右するのは、間違いないのだから。


 窓から流れ込む風を深く吸い込みながら、美月はラベンダー色に暮れる夕空を見上げた。









 約束の土曜日。

 二人は一緒に夕食を取った後、美月のお気に入りのカクテルバーに来ていた。
 こじんまりとした、静かなバーだ。

 久しぶりに、樹の車で郊外をドライブし、半日を一緒に過ごした。

 会わずにいた間に、その姿を何度も思い返した——その彼が、今日は目の前にいる。
 静かに微笑んでグラスを傾ける樹の変わらぬ美しい横顔を、美月は見つめる。

 ——あなたに、会いたかった。

 一人でいる間に、気づいた。
 痛いほど思った。

 あなたのことが、好きなんだと。
 あなたに、本当の笑顔を向けて欲しい。
 あなたが向けてくれる暖かさに、包まれたい。

 あなたの冷たい微笑を見ながら——私はいつも心のどこかで、そう求めていた。

 この気持ちを、ちゃんと伝えなければ——私は、この先に進めない。

「樹さん、ありがとう。今日はとても楽しかったわ」
「そうですね。僕も楽しかった」

 美月の言葉に、樹は穏やかに答える。


 以前と違って……今日のあなたの瞳は、私のことをちゃんと見ている。

 こんな風に、優しく見つめ合えるのは——きっと、寂しいから。
 あなたも、私も。

 優しくて——
 でも、その奥に暗い海のような色を沈めた、あなたの寂しい瞳。

 私が今、この人のために、できること。

「——樹さん」
「何ですか?」

「——私と、結婚してください」

 美月の突然の告白に、グラスを取ろうとした樹の動きが止まった。

「——私、全力であなたを幸せにする。

 あなたが、感情のない笑顔を私に見せる度に、私も同じ笑顔を返しながら、今まで過ごしてきた。
 私も、ずっとその笑顔で生きてきたから……そんなこと、以前は何でもなかったの。
 けど……それは違った。
 その場しのぎの仮面みたいな笑顔が、どんなに相手を孤独な気持ちにさせるか……
 そのことに、今になってはっきり気づいた。

 あなたと、本気で笑ったり、喧嘩したり、泣いたりしたい。
 いつもあなたを満足させられるかは、わからないけど——
 あなたに、心の底から微笑んでもらいたい。

 ——そのために生きることが、私の幸せだわ。
 今は、はっきりと、そう感じる。

 だから——私と結婚してください、樹さん」


 樹の瞳に、一瞬……複雑な色がよぎった。


 今日は、美月といて、純粋に楽しかった。
 何も言わず、ただ自分の心に静かに寄り添ってくれる今日の美月の暖かさが、身にしみて嬉しかった。


 樹の耳に——あの夜の、柊の言葉が蘇った。

『あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです』


 静かに……でも必死に思いを伝えようとした、彼の声。

 こんな時にさえ、自分は彼に支えられている。


 ——彼の言葉を、信じる。
 今の自分には、それしかできない。


 ざわざわと激しく波立つような瞳の色が通り過ぎ——
 樹は、優しく微笑んだ。

「嬉しいです。
 美月さん。——僕こそ、よろしくお願いします」


「……樹さん。
 あなたって——酷い人ね」

 美月は、さっきまでの真摯な表情を消し去り、静かにそう呟いた。


「——え?」

「私は、心の中の気持ちを全部かき集めて、あなたに届けたのに——
 あなたは、こんな大事な時にさえ、本心を見せてくれずに……これからも、そうやって一生私を騙し続けるつもりなの?」

「美月さん、一体……」

「今のあなたの瞳——はっきり、こう言っていたわ。
『僕には、心から愛する人がいる。
 自分の中にはもう、その人しかいない。
 けれど、こうするより仕方ない』——と。

 どうして、本当のことを話してくれないの?
 そんな気持ちで私と結婚して——幸せになれると思う?……あなたも、私も」

「——美月さん——それは……」
「どうして、彼を手放したの?
 そんなにも想い合っている彼を——なぜ?」


 樹は一瞬ぎくりと固まり——そして、ゆっくりと美月を見据えた。

「…………どうして、それを……」

「彼の——三崎さんの部屋へ、行ったのよ。……1月だったわ。
 あなたの様子が、それまでとどこか違うから……あなたのことを調べさせて、彼の存在を突き止めた。
 3月までであの部屋を去るって……その時に、彼からそう聞いたの。
 だから今日、ここへ来たのよ。
 ——彼と離れて、あなたはこれからどうするのか、知りたくて」

 理解が追いつかない表情で、樹は呆然と呟く。
「済みません……今まで、何も話さなくて」
「もういいわ。
 私もつくづく馬鹿なことをしたし……おあいこよ」
 美月は、長い髪をかき上げ、俯き気味にそう呟く。
「——わからないの。あなたの考えてることが。
 どんな事情かは知らないけど……私に隠して可愛がった彼のことまで、こうして手放して……
 あなたの本当に大切なものは、一体何?」

「美月さん——それは、違います……
 放り出されたのは、僕の方だ……。

 自分自身さえしっかり支えられない僕は……彼にも、見限られたんです。

 突然、何も言わずにいなくなった——行き先も、何も。
 これまで使っていた携帯も、気づいた時には解約されていた。

 あなたの言うことが本当なら……
 彼は——3月であの部屋を出ると、以前から決めていた……つまり、そういうことか?」

「樹さん……そのこと、知らなかったの?」
 美月は、その事実に目を見開く。
「あの時……確か。
 あの美容室の……宮田さん……と、そう約束したって」
「宮田くんと……?」
「宮田さんも、三崎さんに随分執着してたみたい……何か、二人の様子、険悪だった」

「……そういえば——
 彼の様子がおかしいことは、何度かあった。
 ひどく動揺してて……何かあったんじゃないかと心配したことが、時々あった。
 けど……彼は、何も話してくれなかった」

「心配をかけたくなかったんじゃないのかしら……忙しいあなたに。
 私が突然押しかけたことも、全部あなたに話してしまっても良かったのに……彼は、それもしなかった。

 こんな風にいなくなったのだって——あなたを見限ったんじゃない。
 あなたの結婚を邪魔しないために決まってるわ。
 自分の想いに区切りをつけたくて……そして、あなたがもう自分を探さないように……全部断ち切った。

 あんな変な子、どこにもいない。
 あなたが彼を深く愛するのは、当たり前だわ」


「…………」

 一層深い痛みに打ち拉がれる樹の様子に、美月は新たなため息を漏らした。

「彼の行き先がわからないなら——探したらいいじゃない。見つかるまで」

 美月は、言葉に強い力を込めて樹に問いかける。
「なぜあなたは、彼を諦めることしか考えないの?
 彼を失わずに済む方法は……本当に、何もないの?」

 考えもしなかった言葉を初めて聞いたように顔を上げ、樹は美月の瞳を見つめた。

「……彼を、失わずに済む方法……?」

「そうよ。
 あなたは、この先を彼と一緒に歩いていきたいんでしょう?……違うの?」


 そうだ。
 自分の望みは、ただそれだけだ——。

「……しかし——
 それに、あなたは……?」

「……これは、あなたへのプレゼント。
 ——私との婚約を、解消して欲しいの」


「…………」

「ほら……探しに行ったら?
 あなたには、彼が必要なのよ。わかるでしょ?——それくらい、自分でちゃんと気づきなさいよ。

 ——惨めになるから、謝ったりしないで。
 早く行って。……私は、自分で帰れるわ。

 それほど彼が必要なら……迷うのをやめて。
 諦めるんじゃなくて、彼を幸せにする方法を考えて。
 そして……必ず、彼を見つけてあげて」


 二人の間に、沈黙が流れた。


 樹は、眉間を強く寄せ、暫くじっと何かを考えたが——
 やがて、その瞳に強い力が籠った。

「美月さん——ありがとう」

 樹は、決意を固めたように立ち上がった。
 そして、心から湧き出すような笑顔を美月に零すと、足早に店を出て行った。


 ほんとに、残酷な人。
 別れ際にだけ、あんな顔を見せるなんて……

「あ〜あ」

 一人になったカウンターで、美月は椅子の背にもたれて天井を仰ぐと、ふっと微笑んだ。