宮田から渡された包みを抱え、俺は自分の部屋へ向かい走った。

 途中、包みをどこかのゴミ箱にでも捨ててしまおうかと何度も考えた。
 しかし——そのことがもし宮田にバレた日には、またどんな報復があるかわからない。
 あの男は、どうやらいい加減な判断であしらえる相手ではなさそうだ。

 そして——さっき宮田から受けた執拗なキスと、耳元で囁かれた言葉が、しつこくまとわりつく。

 なんで俺が、あいつの性的欲求の対象になるのか。
 ネコとか、かわいい声出して突っ込まれるとか……生理的に受け付けない男から、あんなことを言われるなんて。
 自分でも気づかぬうちに、俺は何か変なフェロモンでも出しているのだろうか……?
 とにかく、あの男に抱かれるとか、ありえない。想像すらしたくない。
 ただ……だからと言って下手な行動をすれば、ある日いきなり襲われてレイプとか……そんな悪夢さえ頭をよぎってしまう。

 部屋に着くと同時に即座にドアに鍵をかけた。
 リビングへ駆け込み、とにかく包みをテーブルへ置く。
 中は——何なんだ。
 何考えてるかわからないやつから受け取ったものほど、気味の悪いものはない。
 危険物でも扱うように、恐る恐る近づく。
 慎重に、中を確認する。

 ——ん?
 ぬいぐるみ……?
 そっと取り出す。
 高さ20cmほどの可愛らしいテディベアだ。テーブルに置いてもちゃんと座るような安定感がある。

「……なかなか、かわいいな」
 そう呟いた瞬間——はっとして、俺は思わず口を塞いだ。

 もしかして……
 盗聴器と隠しカメラ——ってヤツじゃないか、これ?
 この毛足の長いもふもふと、しっかりした安定感。こいつはそんなものを仕込むのに最適じゃないか……。
 ——ということは……
 今の俺の様子も、既にあいつに見られてる——?

 背筋が、思わずゾッと寒くなる。

 その瞬間、インターホンが鳴り響いた。
 その音に、ビクッと全身が反応する。
 怖々来訪者を確認する。

『夜分悪いね。さっきレストランで美味しいデザート買ったから、君に届けに来たよ。クリスマスイブだしね』
 神岡だった。

 このクマの前で声を立てることが憚られる。無言で玄関へ走った。
 ドアを急いで開ける。さっと外に出ると、静かにドアを閉めた。

「こんばんは、柊くん……どうしたの?」
 そんな俺の普段と違う様子に、神岡は少し驚いたようだ。

 得体の知れない恐怖感に、俺は挨拶もすっ飛ばして小声に口走った。
「さっき美容室で宮田さんにもらったプレゼントがなんだか怪し……
 ——っ」
 勢いで出そうになった言葉を、ぐっと飲み込んだ。

 ちょっと待て、俺……。
 こんなことを、神岡に全部話したら、どうなる?
 宮田が俺に敵意やら性的欲求やらを持ってることを、神岡が知ったら……
 彼は、宮田にどんな態度を取るだろう。
 少なくとも、そのことで宮田は俺に一層の敵意を抱くに違いない。

 そして——もしかしたら、俺も——
 この仕事を続けていられなくなる——かもしれない——。

「——宮田くんと……何かあった?」
 神岡は、俺の顔を覗き込む。
「……顔色、すごく悪いよ。
 それに……少し、震えてる……?」

 そうだった。
 ここ何時間か、俺の神経は緊張で張り詰めっぱなしだった。
 無理やりされたキスや、ぞわぞわと背筋を撫でられるようなあの囁き——。
 そのたまらない不快感も、ドロドロと胸に溜まったままだ。

「……すみません。……大丈夫です」
 動揺をなんとか打ち消したくて、俺は無理やり笑顔を作りつつそう答えた。

「……本当に?」

 彼の手が、少しだけ俺の肩に触れそうになって……慌てたように、すっと引っ込んだ。
 その動きがよく飲み込めず、俺はふと彼の顔を見上げる。

「……大丈夫なら、いいんだが」
 月明かりを横から受けて、困ったように微笑む、神岡の表情。
 ——こんな顔は、初めて見た気がした。

「——少しだけ、お邪魔してもいい?」
 俺の表情を窺いながら、神岡が静かに問う。
「……あ、……はい、もちろん……嬉しいです。
 部屋、ちょっと散らかってるので……少しだけ待っててください」
 不安と心細さで、俺は思わず素直に本音を口にした。

 リビングへ戻ると、ぬいぐるみをラッピングされていた袋に戻して口をきつく締め、ベランダの隅にある危険物用のダストボックスに押し込んだ。

「——どうぞ。変にバタバタしちゃって、すみません」
「いや——
 そういえば、髪。すっきりしたね……今改めて気づいた」
 室内の明かりの中へ入ると、神岡は明るくそう言って俺に微笑んだ。



✳︎



 「もう10時近いけど、デザートは食べるかい?……それから、君にいいものを作ってあげよう。座ってちょっと待ってて」
 お土産のケーキボックスをダイニングテーブルに置き、コートを脱ぐと、神岡はキッチンへ入っていく。

 なんだか、身体が芯からやたらに冷える。俺は背を丸めるようにダイニングテーブルの椅子に座り、神岡の様子を眺めた。

 神岡はシンクからミルクパンを取り出すと水を注ぎ、湯を沸かし始めた。
 棚から紅茶の茶葉を取り出してティーポットに掬い入れ、沸騰した湯を注ぐ。
 やがて、花のような紅茶の高い香りが漂い出した。

「アールグレイだ。僕の好みで買っておいたものだが……この香りは嫌じゃない?」
「いえ、全然。……とてもいい香りです」
「普段なら、まず香りを楽しむところだが……今日はミルクティにしよう。君のその様子だと、ミルクと砂糖は多めが良さそうだ。
 こういう時は、温かい甘みが何より気持ちを癒してくれる」

 俺の様子……
 不安や緊張で固まってる俺の様子を見て、ミルクティを。
 理由も何も、詳しく聞きもせずに。

 ……なんか、ちょっと優しすぎるよな、こういう時に……

 マグカップにたっぷりと注いだ湯気の上がるミルクティを、俺の前に置く。
 自分のカップを引き寄せて向かいの椅子に座ると、彼は頬杖をつくように俺を見る。

 そのミルクティは、まろやかに甘く、香り高く……俺の胸の冷えた淀みを、少しずつ溶かしていく。

「——どう?」
「美味しいです。とても。なんだか、すごく落ち着く……」
「なら良かった」
 神岡は嬉しそうに、そして少しほっとしたように微笑んだ。

「——柊くん」
「……はい」
「何か困ったり、悩んでたら……僕に何でも言ってくれ。——君が話したいと思った時でいいから。
 僕にできることがあれば、何でもする」

「…………」

「僕は、君からたくさんのものをもらっている。
 僕が望んでいたよりも、もっとずっと素敵なものを、たくさん。
 だから——君がここで穏やかに過ごせるように、僕は全力を注ぐ」

 真正面から俺を見る、神岡の真摯な視線。

 ……これ、どっちかっていうと、彼女とかとやるシーンじゃないのか?
 こんなとこで、俺みたいな男の従業員とやってていいのか?

 ……それに俺、そんなにいつまでもここにはいられませんよ……?

 そんないろいろな言葉を飲み込む。

「——ありがとうございます」

 神岡の誠実な言葉と、優しい味のミルクティ。
 それが、心から嬉しかった。
 ——なんだか、胸のどこかが痛いほどに。

 不意に、自分でも予想外の感情が動き出した。

 ——猫。

 今……猫になりたい。
 宮田が言ってたネコじゃない。
 主人に甘える、神岡が好きな猫だ。

 こんなにも、俺のことを深く思ってくれる人。
 この人の温かさを——もっと側で、感じたい。

 ——酔ってもいないのに。
 心の隅に聞こえたそんな囁きを、完全に無視する。

「——神岡さん」
「ん?」
「側へ行っても、いいですか」
「え?……ああ」

 彼の横の椅子へ座り、神岡の瞳を見る。

「……この前みたいに……猫化、してもいいでしょうか」

「……え?」
 神岡は、驚きとも動揺ともつかぬ表情で、俺を見つめる。

「…………それは……」

 答えを待たず、俺は額を彼のネクタイへ押し付けた。

 それに連動でもするかのように、腕が彼の首へ回る。
 自分では、もう止めようがない。
 腕に力を込めて引き寄せ、彼の胸に額を強く埋める。

「————」

 彼は沈黙し、石のように動かない。
 俺はそのまま、彼の胸の温かさと微かに伝わる鼓動を、ひたすら感じた。
 彼の纏うホワイトムスクの甘い香りに包まれる。

 どのくらい経ったのだろう。
 ほんの少しだったのか、長かったのか。

「——あ……済みません。
 ……俺……」

 急激に湧いてきた恥ずかしさに額を離そうとした俺の顎を、彼の指が捕えた。

 ぐっと引き寄せられ——柔らかく、唇が重なった。

 温かくて、甘い香りのする——濃く、長い時間。

 自分には、絶対に縁がないと思っていたこと。

 それなのに——なぜ。

 なぜ……
 俺は、こんなにも——。

 更に深くなりそうになるキスを、神岡は踏み止まった。
 俺の顎を、少し自分の顔から離し——戸惑うように、視線を合わせる。

「——君には、しちゃいけないことだった。
 驚かせてしまったね……ごめん。
 ……絶対にだめだと、我慢してたのにな」

 ——驚いてなんかいない。謝ることでもない。
 我慢して欲しくない。

 その先が——もっと欲しい。

 そんな言葉が口をついて出そうになるのを、必死に堪えながら——俺は、彼の瞳の奥を呆然と見つめた。