クリスマスイブの夜。
 樹は、美月と会っていた。

 ツリーが街のあちこちで華やかに輝く。街路樹には無数のブルーのライトが点滅し、ロマンチックな雰囲気を一層盛り立てる。
 ディナーを予約した人気のイタリアンは、たくさんのカップルで溢れていた。

 美月は今時の若い女子らしく、パルミジャーノ・レッジャーノの大きな器に入ったリゾットに目を輝かせる。
 29歳の自分より3つ年下だが、その華やかな美貌と明るい肌や髪の色は、彼女を年齢よりも若く見せる。
「とても美味しいわ、樹さん。この味は、上質な本場のチーズでなければ出せないわね」
「それは良かった。美月さんは味覚が鋭いから」
 そんな答えを返し、機械的に微笑を浮かべる。
 それほど味がわかるなら、手料理でも真面目に作ってみたら——そんな面倒な会話をする気にもならない。

「食事が済んだら、ご自宅までお送りしますので」
「樹さん。今日は、どこかへドライブでも連れて行ってくださいませんか? あなたの選ぶ所ならば、どこでもいいわ」
「でも——ご両親が心配されますよ? それでは僕が怒られてしまいます。予定通り、9時にはご自宅へお送りしなければ」

「う〜ん。じゃあ……
 最近のあなたのお気に入りの場所へ行ってみたいわ。そこなら、ここから車で近いですものね。
 ——あなたが夢中になって通っている、楽しい遊び場があるのでしょう?」
 美月は可愛らしく首を傾げると、潤った瞳でじっと樹を見つめる。

「……一体、何のことです? 美月さん」
 樹は、柔らかな声の中に怪訝な色を浮かべ、そう問い返す。

「……あら、違いますの?……私の勘違いだったかしら?」
「僕が夢中になって遊ぶような時間などないことは、あなたも知っているでしょう。おかしな話をされますね」

「……そうね。私の思い違いね。ごめんなさい」
「少しワインを飲み過ぎてしまったのでは? いけませんね」
 そう言って、樹はいつもの美しい笑みで美月を見つめる。

 ——そうやって、誰をも魅了する中身のない笑顔を作るのが得意だわ。あなたも、私も。

 そして——
 私には話せない場所なのね。あなたの大好きなその部屋は。


 美月は、心の奥底で無表情にそう呟くと、樹に向けて花のように優しく微笑んだ。
「クリスマスプレゼントのネックレス、とても嬉しいわ。宝物にします」




✳︎




 髪が伸びた。
 最悪だ。髪が伸びるなんて。
『きみの希望通り、美容室”カルテット”に今日予約入れておいたよ。クリスマスイブだから混んでるらしくて、だいぶ遅い時間なんだけどね。宮田くんもお待ちしてますって言ってた。すっきりした新鮮な柊くんを見るの楽しみだ』
 今朝、神岡からそんなメッセージが届いた。クルンとパーマしたかわいい女子猫のスタンプと一緒に。
 そう言ってくれるのは、嬉しくなくもない。いや、嬉しい。
 ただ、あいつが……宮田が、最悪なんだ。
 あああ……逃げたい。

 くそっ。
 あんなレベルの低いやつに尻尾巻いて尻込みするのか、俺?
 それは嫌だ。逃げ出してあいつにチキン呼ばわりされるなんて、死んでも嫌だ。
 行くさ。行くとも。お前なんかに屈するものか。

 俺はいつしか異常なハイテンションで時計を見つめながら、予約時間が近づくのを待っていた。


 閉店間際の店内は、客もスタッフの気配もなく、静かなフロアに俺だけを待っているような状態だった。

「いらっしゃいませ。お待ちしていました、三崎様。こんな時間になってしまってすみません」
 宮田が、美しくナチュラルないつもの笑顔で俺を出迎える。
 思わずぞわぞわと冷たいものが背中を走るのを感じる。
「今日のスタイリングメニューは、前回同様の内容ですね。神岡様からご連絡いただいてますよ。
 じゃ、まず洗髪からになりますので、こちらへ。
 ——うん、確かに少し伸びちゃいましたね。もっと早めに来なきゃダメですよ?」
 そんなことを言いながら、俺に微笑む。
 いつもと全く変わらない笑顔と自然な対応。

 あの時——俺があの部屋で生活する3ヶ月の期間内は、不快な行動には出るな、とこいつに話した。
 その辺の約束は、ちゃんと守る気でいる……のだろうか。

 洗髪スペースは、照明を柔らかく落として落ち着いた空気だ。BGMに静かなボサノヴァが流れ、心地よい。

「お湯、熱くないですか?」
 顔に薄いガーゼをかけられ、白くぼやけた視界の外から、宮田が問いかける。
 程よい温度の湯が髪の間を流れる。その心地よさに、筋肉の緊張も緩む。
「大丈夫です」
「寒い季節は、カットの後は頭が寒いですよね。でもボサボサじゃいられないし。その辺が困りますね。女の子は髪があったかそうだなー、なんて時々羨ましいです」
 そんな何気ない会話が流れていく。

 シャンプーをすすぎ終わり、湯の流れが止まった。
 肌触りのいいタオルが髪の水分を拭き取る。
 するり、とガーゼが顔から除かれた。

 視界が戻った——と思った瞬間、柔らかいものに不意に唇を塞がれ、俺の体は硬直した。

「————!?——」
 宮田が、しなやかな長身を俺に被せ、唇を重ねている——
 その状況を理解するのに、どれだけの時間が流れただろうか。

「……ん……っ……!!……」
 洗面台に後頭部を押し付けたままの姿勢で、うまく身動きすることさえままならない。
 思わず、顔の両脇にある宮田の手首を力一杯掴み、首を左右に激しく動かした。
「………っ、はあっ……」
 執拗に続いたキスをやっと振りほどき、荒い息でその男を睨み据える。
「唇、すべすべだね。すげえ可愛い」
 宮田は息を乱し、美味なものでも味わうように唇を舌で舐めると、悪びれるそぶりもなくそんなことを呟く。
「——あのさ、三崎くん。提案があるんだけど」
 サラサラと額にかかった髪を掻き上げ、美しい微笑で俺の耳元に囁く。
「——ボクと、付き合わない?」

「……な………」
 俺は台から落ちそうに彼の体を避けながら、返す言葉も選べない。

「この前、公園のトイレで、ちょっと君に触っただろ?
 あの時は、嫌がらせのつもりだったんだけどさ——その後ずっと、君の肌の感触が忘れられなくて。
 白くて滑らかで、指に吸い付くみたいにきめ細かくて。ちょっと弄っただけなのにめちゃめちゃ敏感だったなあ……とかね。
 神岡さんのそばにいる最高にムカつくやつ、って毎日君のこと考えてたら、ますますたまらなくなってさ。
 ボク、神岡さんみたいなイケメン相手ならもちろんネコなんだけど、君となら絶対タチでいけそう」
「一体……なんの話を……」
「ん? タチってのはさ、突っ込む方。で、ネコは、胸吸われて可愛い声出して、突っ込まれる方。わかった?
 君がその白い肌を染めて、目に涙滲ませながら激しく喘ぐところ想像すると——あー、もう今すぐにでもイキそうだ」
 宮田は、獲物を見つめる卑しい獣の目つきで、俺の首筋に顔を寄せる。
「君がボクのものになってくれたら、神岡さんは諦める。3ヶ月の期限も無しにしよう。——どう?」

 この屈辱に、俺はもはや脳内を整理する力すら削がれている。
 小刻みに震える身体を必死に鎮めつつ、最低限の回答をなんとか呟く。
「——マジでイカれてるな、あんた。
 どんな条件だろうが、散々抱かれるだけの消耗品になるくらいなら死んだほうがマシだ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。君みたいなかわいい子、そんな酷い扱いするわけないだろ?……まあ、散々抱くのは間違いないけど」
「————」
「なら、ボクを今後も敵に回しておく……ってことで、いいんだね?」
「——敵でもなんでも、好きにやればいい」

「ふうん。じゃ継続だ。
 ——彼との関係は、進めてないよな?」
 脅すような低い声音で、そう問われる。
「……」
 ため息しか出ない。
 こんなやりとりが、これからも続くのかと思うと——吐き気がする。
「……君も嫌だろう?
 君がボクのとこに来るなら、こんなストレスからすぐに解放してあげるよ。その段階でさっきの条件も叶えてあげる。……いつでも大歓迎だ」
「——あんた、ほんとに蛇みたいな男だな」
「あ、それ、よく言われる」

 宮田は、まるで褒められでもしたかのように、綺麗な笑顔を俺に返した。


 お互いに黙ったまま、しんと静まったフロアでカットとスタイリングを終える。
 全ての行程を終えて店を脱出しようとする俺を、宮田が呼び止めた。

「これ、ちょっと遅くなっちゃったけど……引越し祝い。よかったら」
 そう言って、カラフルなラッピングの袋を俺に差し出し、柔らかに微笑む。

「———」
 断るためにこの男と品物を押し合うことすら、もはや真っ平だ。
 とにかく、今は一刻も早く、ここを出たい。

「……どうも」
 俺は、宮田からその包みを手早く受け取ると、ドアからだっと駆け出していた。