ベンチに座って汗を拭いていたはずなのに、気づいたら枝を拾って猫の『ニャン高生』を地面に描いていた。
野々村が夢に出てきたからだ。
――嶺さん、自分に嘘をつかなかったらいいんじゃない?
隣で私を見つめてくる野々村の顔が浮かんできて頬がじんとしてきた。風が吹いて『ニャン高生』の頬に桜の花びらが落ちた。
十カ月前のことを思い出した。
※
「野々村、今日のニャン高生を見せてくれ」
滝宮が野々村の机に両手をついてせがんでいる。上目で頷いている野々村の顔が見えた。
滝宮は野球部でプロ注目の選手らしい。キャプテンだけあって風格もある。
「うおーっ、マジですげえ!」
野々村が描いた『ニャン高生』を滝宮が絶賛している。
『ニャン高生』は先輩達が考えた猫のキャラクターだ。青い学生服を着たブルーのハチワレ猫ちゃんで、二頭身でクリっとした黒い瞳がチャームポイントだ。私達は地元の人からよく「南高生」と呼ばれているので、「ニャン」ともじって猫の高校生にしたみたい。誰がデザインしたのかは知らないけど、噂では南高の誰かが描いたらしい。
ホッとしたような表情を浮かべる野々村は、華奢でクラスでは目立たない存在だ。クラスメイトに囲まれるというより、景色を見ながらノートを書いているイメージがある。中性的な顔でかわいいという理由で一部の女子からは人気がある。
かわいいは置いておいて、確かに野々村は絵が上手だ。
――やばっ、うまいじゃん。
この前すれ違いざまに野々村が描いている『ニャン高生』を見て大声を出したことがある。それなのに、野々村は肩をすくめて顔をこわばらせていた。ちょっと失礼じゃない? と思った。
――野々村君、凄く上手だね。
同じ日に男子から人気がある小湊優菜が私とは正反対の反応を見せた時、野々村は頬を赤くさせていた。優菜のことが好きなのかもしれないとその時は思った。
ちなみに滝宮も優菜のことが好きだと思う。
今も野々村の肩をバンバン叩いて褒めつつも、私の後ろにいる優菜を横目で見ている。
滝宮は私によく話しかけてくる。
――嶺、アキレス腱はもう治ったのか? 俺、良い整形外科を知っているんだ。
そのせいで周りからは滝宮と嶺は想いを寄せ合っていると勘違いされている。お互い曲がったことが嫌いだし、運動部同士気が合うんだろうと囁かれている。
でも私は知っている。
滝宮は優菜の友達である私と話すことで、優菜と仲良くなるキッカケを掴みたいだけなんだ。私には遠慮なく話してくるけど優菜には「小湊さん」とか言っちゃって真顔になっている。本人は自然を装っているつもりなんだろうけどバレバレなんだよね。それなのに変な噂を立てられているから私は迷惑している。
ただ、優菜が野々村のイラストを褒めて楽しそうにしているのを一部の男子は気に入らなかったのか、野々村に嫌いな先生のギャグ漫画を描けだとか、エッチな絵を描けと強制する時期があった。
あまりにも目についたから「いい加減にしたら?」と立ち上がろうとした時に、滝宮が私を制して野々村をいじる男子達を押しのけた。
滝宮が野々村のスケッチブックを手に取り、しばらく沈黙が続く。
――やべえ。天才かよ。
それ以来滝宮は『ニャン高生』のイラストをどんどん書いてくれと野々村に頼むようになった。硬派な感じなのに、意外にも『ニャン高生』が大好きらしい。クラスのリーダー格の滝宮の態度を見て、周りの男子達も静かになった。
「おはよう明日香ちゃん、爽やかな朝だね」
愛くるしい柴犬と散歩している近所のおじさんが笑顔を向けてきた。
「おはようございます」
私はふふっと笑って手を振る。
日曜の朝はまだ街が眠っている感じで空気がきれいだ。
私が毎朝走っているこの公園は、家から歩いて五分もかからない。直径三百メートルぐらいの公園だけど、中央に小高い丘があって頂上に展望台がある。
公園の外周は遊歩道になっていて、私のランニングコースになっている。春は桜並木が綺麗で、桜の名所として花見客がたくさんやって来る。
並列に並んでいる木製のベンチが見えて――。
――あっ、そうだ。
私が昨日描いた『ニャン高生』は、まだ残っているかな? ベンチに座って休憩している時に、枝を拾って地面に『ニャン高生』の顔を描いたんだった。
走るスピードを緩めると、ニャン高生の顔の輪郭が見えてきた。昨日の夜は雨が降っていたけど、まだ残っているみたい。
「あれ?」
輪郭が二つある。
「ニャン高生?」
私の描いた『ニャン高生』の隣に、まったく同じ大きさの『ニャン高生』の顔が描かれている。
「えっ? やばくない?」
凄く上手だ。隣に描かれているから、その差が余計に際立って――。
「つめたっ!」
しまった。無意識にベンチに座ってしまった。
――なんなのよ。
昨日使った枝を見つけた。私は自分が描いたニャン高生の頭上に大きく吹き出しを描く。
『とてもお上手ですね!』
……あっ、いけない、衝動的に書いてしまった。周りを見渡してから枝をベンチの下に忍ばせる。
ハンドタオルでベンチを拭いて座り直した。足首をくねくね回す。……うん、大丈夫だ。三周しても違和感がないし息も切れていない。
子どもの時から走ることが好きな私は、中学の時に中距離で入賞したことがある。高校でも800mで良い成績を残したけど、去年サーキットで走っている時にランナーとぶつかって、アキレス腱を断裂してから歯車が狂った。
――めっちゃ派手に転んでいたよね!
――ちょっといい気味だと思っちゃったんだよねー。
ウラでそんなことを囁かれていたのは、緩く活動する同級生や横柄な先輩に遠慮なく意見を言っていたからだろうな。相手が誰だろうと思ったことをすぐに口にする性格が災いしている。おせっかいなクラスメイトが陸上部のグループラインで私の悪口で盛り上がっていると聞かされた時は、悔しくてお風呂や公園の展望台で泣いた。あれから足の状態はだいぶ戻っているけど、周りの視線が気になって部活に参加することができていない。
グラウンドで陸上部の皆が和気あいあいとしているのを見て胃の中が重くなってくる。
……さて、そろそろ走ろうかな。
立ち上がってジャージを払うと両手が濡れた。
私は『ニャン高生』に舌を出した。
「ありがとうございます?」
次の日も公園でランニングすると、私のコメントに対して隣の『ニャン高生』が返事をしていた。ちょっと待って、もしかして真面目に受け取ったパターンですか?
「むー……」
腕を組んで双方のニャン高生を眺める。私が描いた『ニャン高生』は薄くなっているけど、隣の『ニャン高生』は顔を描き直した跡がある。これは、もう一言ぐらい返したほうがいいのかな? っていうか、描いた人は誰?
側を歩いていた数羽の鳩が一斉に飛んでいく。
謎の人物との会話か……なんだか面白いかも。好奇心がくすぐられる。私もニャン高生の顔を描き直して、また吹き出しを作った。
『ぜひ、マンガ家になってください!』
その日以来、謎のニャン高生とのやりとりは続いている。
『マンガ家は無理ですよ』
『やってみないと分からないですよ?』
『考えてみます。ありがとうございまう』
「す」が欠けて「う」に見える。私は吹き出した。
土曜日の朝に私がニャン高生を描いてコメントすると、翌日の朝には隣にもニャン高生が現れて返事が書かれている。
次はなんて返そうかなと考えているうちに、私はどんな人が描いているんだろう気になった。
次の土曜日、私はランニングを一時間遅らした。ニャン高生を描いた人を見たくなったからだ。
ジャージに着替えている時からソワソワしていて、公園の入り口に入ると胸が高鳴ってくる。やばい、ワクワクする。こんな気持ちになるのは久しぶり――。
――明日香、落ち着いて。
不意に優菜のセリフが蘇って胸に圧力がかかった。
この前もクラスの係で押しつけられそうな子がいて、ちゃんと意見交換しようよと言うと「まーた始まったよ」「めんどすぎ」と、呆れた声が聴こえてきた。
陸上部で孤立した苦い経験があるのに、私はまた同じことを繰り返している。優菜や滝宮は普通に話してくれるけど、他のクラスメイトからは空気が読めない人認定されている。
理不尽な場面を見たりいじられている子がいたりすると我慢できなくて意見してしまう。小さい頃はそれで感謝されたり正義感が強いと先生から褒められたりしたけど今はそうじゃない。もしかすると、私が変なのかもしれない……間違っているのかもしれない。もう大人なんだし、周りの空気を読むことも覚えないといけないのかも。
「……いないか」
ベンチの周りには誰もいない。私は平静を装いながらベンチに座り『ニャン高生』を描いた。
小さく息をつく。
そう簡単に現れるとは思っていなかったけど、なんだか拍子抜けしてしまったなぁ。商店街の福引抽選会で落胆する感覚に似ている。
『ニャン高生』の顔をじっと見つめる。何回か描いているうちに、ちょっと上手くなったかもしれない。
その日の夕方、私はもう一度だけ公園に行くことにした。あくまでも、朝は集中して走れなかったから改めて走っておくだけ。
公園の入り口に差し掛かってからはギアを上げた。
――ああ、やっぱり走ることが好き。
モヤモヤしていても走っている時は風の音が耳に入ってきて余計なことが頭に入ってこない。……だから、本当はグラウンドで走りたい。トラックで走りたい。でも、部の人たちが楽しそうにしている場面がどうしても頭に浮かんでくる。
振り払うように顔を振った。並列のベンチが見えて――。
――あっ!
あのベンチに座っている人がいる!
気づいたら私は走るのをやめて足音を立てないように歩いていた。
目を細めて観察する。グレーのパーカーにジーンズ、黒いトートバッグを側に置いている。うつむいて何かを描いているのは――。
「あーっ!」
私の大声に反応してビクッと顔を上げたのは――。
「野々村?」
「み、嶺さん?」
……私は探偵業とか絶対不向きだと思う。野々村が教室で声を掛けた時と同じ顔をしている。やっぱりこいつは失礼な奴だ。
「この『ニャン高生』は野々村が描いてたの?」
「コ、コメントされていたからお礼を書いたんだ。返事されていたから、返さないといけないかなと思って……」
野々村は警察から事情聴取をされているような顔になっている。
「そうだったんだ」
私だけ立っているのも変だから、とりあえず座ろうかな。軽く咳払いして野々村をチラ見する。……ん? なんか嬉しそう。感情を表に出さないイメージがあるけど、意外と顔に出るタイプなのかも。
「嶺さんは公園の近くに住んでいるの?」
「えっ? あ、そうそう。ここから走って五分くらいのところ」
私は西の方角へ顔を向けた。西日が眩しくて目を細める。
「そうなんだ。僕はこっち。歩いて十分くらいかな」
野々村は東へ指差す。
「野々村はこの公園によく来るの?」
「いや、土日しか来ないかな。ベンチに座って絵を描いているんだけど」
なるほど。野々村が膝元に置いているトートバッグには、スケッチブックが入っているのかもしれない。
会話が途切れた。遠くから子ども達の笑い声が聴こえてくる。野々村と話すことなんて滅多にないから落ち着かない。何か話題はないかな。
「私ら今年は受験生じゃん。野々村は進路を決めてる?」
「うん。近所の大学に行こうと思っているんだけど……」
野々村の家の近所? ああ、市内の国立大学か。てっきり美術の大学とか専門学校に行くと思ったから意外かも。
「嶺さんは?」
「私?」
語尾が上がっちゃった。自分から出した話題なのに、何も考えていないことに気づいた。
「私は……」
口を尖らせる。私は一体、どうしたいのだろう。お母さんは進学しなさいと言っているけど、お父さんは陸上に集中できる環境に飛び込めと意見が対立している。最近は家でも居心地が良くない。
「嶺さんは陸上部に復帰したの?」
「えっ?」
黙っていたからか、質問を変えられた。
「滝宮君から聞いたけど、アキレス腱は治ったんだよね?」
滝宮め……口が軽いんだから。横目で野々村を――。
――綺麗な顔。
喉元が鳴り、胸がきゅっと締めつけられた。慌てて顔をそらす。
「ごめん。言いたくないこともあるよね」
事情を感じとったのか、野々村がぼそっと呟いた。気を使わせちゃったかも。
「……足は治ってるよ。公園で何周もしているけど違和感もないし」
「そうなんだ。よかったね」
野々村の穏やかな口調になんだか癒される。まるでカウンセラーと話しているみたい。
「でもさ、なんか居心地が悪いんだよね。周囲の視線が気になるっていうか、競技に集中できないというか……まあ私は空気が読めないもんね。最近は優菜と滝宮しか話しかけてこないし」
「あはは、最近の嶺さんは、なんだかピリピリしているもんね」
ちょっと……こいつ、はっきり言うな。癒されたというのは取り消す!
「野々村さ、私はこれでも一応考えているんだからね。反省しているっていうか、これからは、もっと周りのことを考えてから話そうって思っているんだから」
野々村がきょとんとしている。……なんか肩に力が入ってきた。
「嶺さん、自分に嘘をつかなかったらいいんじゃない?」
「えっ?」
「いや、その格好」
「恰好?」
「嶺さんは、やっぱり走るのが好きなんだろうなって」
睨まれたと思ったのか、野々村が苦笑いしながら頭を掻いている。
「僕も絵ばっかり描いて根暗な奴と言ってくる人がいて辛かったんだ。正直描くことに罪悪感が出てきてやめようかと思うこともあった。でも、滝宮君が言ってくれたんだ」
「滝宮が? なんて言ったの?」
――お前の絵は最高だ。俺はプロ野球選手になるから、お前はプロの画家になれ。で、俺の将来の家に飾ることにする。
うわ……滝宮なら言いそう。俺は本気だという表情が浮かんでくる。
「僕は滝宮君に救われたんだ。自分を認めてくれる人もいる。だから、僕も絵を描くことが好きな自分を認めてあげようと思って」
「そうなんだ……」
「この公園だったら思う存分自分が好きな事ができる。うまく言えないけど、周りの声や視線を気にしすぎると、好きな事を精一杯頑張ろうと思えなくなる気がするんだ」
なぜかじわりと胸が痛んできた。野村が静かに顔を上げる。
「だから僕はもう、自分に嘘をつかないでおこうと思う。本当に絵を描くことが好きだから、将来は、絵の世界に飛び込んで挑戦してみたいと思っているんだ。……実は、絵の勉強ができる進路先を密かに探しているんだ」
憑物が取れたように野々村が清々しい顔を向けてきた。なんか心臓の音が早くなってくる。
「嶺さんも、走ることが本当に好きなら、自分に嘘をつかないほうがいいよ」
――自分に嘘をつかない……。
陸上部で揶揄された場面や、うざそうな顔をしているクラスメイトが脳内に浮かんでくる。じんわりと目が熱くなってきたので咄嗟に顔を逸らす。あー、駄目だ。口が震えてきた……ああ、そうか。
――私、辛かったんだ。
誰にも自分の気持ちを吐き出すことができなくて、心のタンクが黒い水に汚染されていくみたいで、水位がどんどん上がって破裂しそうになって……優菜や滝宮の前でも強がっちゃって弱音を吐かなかった。でも、本当は、誰かに辛い気持ちを聞いてほしくて――。
「嶺さんは嶺さんのままがいいんじゃないかな」
「えっ?」
野々村の顔がちょっと強張る。
「嶺さんは周りの視線が気になるって言っていたけど、相手を悪く言っているわけじゃないし、ただ自分の考えを言っているだけだと思うんだ」
「どういう意味?」
眉をしかめると、野々村の頬が赤くなってきた。
「う、うまく言えないけど……僕は素直に自分の意見を言える嶺さんが……いいなと思うよ」
――野々村……。
なんか顔が熱くなってきた。えっと、それって……今の私でいいってこと? なんかうまく頭の中が整理できない。
「嶺さん」
「えっ?」
意表をつかれて声が上ずった。野々村が顔を上げている。
「空が綺麗だよ」
「空?」
……ああ、確かに底抜けに澄んだ空だ。あの上は宇宙につながっているんだろうかとぼんやり考えた。野々村は悟ったような横顔で空を眺めている。
ニャン高生の正体が分かってスッキリしたけど、これでこの奇妙な関係も終わってしまうのかな。
「……野々村さ、ニャン高生の描き方、私に教えてよ」
「えっ?」
「なんか上手く描けないんだよね」
「可愛く描けていると思うけど……」
「いいじゃん。……コツを教えてほしいのよ」
「コツか……」
ああ、そうか。私はこの奇妙な関係を続けていたいのかも。
「うん。いいよ。でも、今から文具屋さんに行くから……」
野々村が腕時計に視線を落としている。
「あ、全然全然。ごめん、文具屋さんに行ってきて」
「来週、学校で教えるよ」
「あ、いや……」
「えっ?」
「ここがいい。明日、またここで教えてほしい……かな」
私と野々村だけで共有したい気がした。知っている人が誰もいないこの公園がいい。野々村が瞳をぱちぱちさせている。教えてと言ったことを後悔しそうになった瞬間、野々村の頬が上がった。
「分かった。いいよ」
ほんのり胸が温かくなってきた。
「あ、ありがとう。じゃあ明日、同じ時間にここで待っているから」
彼は「うん」と軽く頷いて立ち上がり、トートバッグを軽く揺すった。
「じゃあ、また明日」
野々村が手を振った。
「うん」
私も軽く手を振った。
野々村は姿が見えなくなるまで何度も振り返って手を振ってくれた。やっぱり真面目だなーと、感心した。
ニャン高生の正体は、野々村だった。正義のヒーローは身近にいると聞いたことがあるけど、あながち嘘ではないのかもしれない。
次の日、約束の時間に合わせて公園に向かった。
あれから一晩経って、野々村の言っていたことが分かった気がする。
……ありのままの自分でいいってことかもしれない。
自分が何か意見すると周りから嫌な反応をされて、悪く言われて辛い思いして……だから、もう自分の意見を出さずに周りに合わせようって考えてた。でも、それは我慢して偽りの自分を演じることになるから、結局は心が破裂してしまうかもしれない。
最近は自分の思いが伝わらくて、気づかないうちにイライラしていたかもしれない。そこは反省しないといけないかな。
なんだろう。凄く心が軽い。クリアな空気が胸を満たしてくれている気がする。昨日、野々村が話を聞いてくれたからかもしれない。……自分の居場所を見つけたかもしれない。
――そうそう、嶺さん上手に描けているよ
――そうかな?
先走った想像をしてしまう。
野々村のことだから、きっと真面目に描き方を教えてくれる――そうだ、上達したら滝宮に見せてやろう。滝宮がプロ野球選手になったら、私が描いた『ニャン高生』も部屋に飾ってよと言ってやろう。
「あれ?」
野々村の姿がない。ちょっと、遅刻? いい度胸をしているじゃないの。所在なさげにベンチに座る。
軽く息をついて顔を上げると、桜は既に散って葉桜になっている。次に桜を見る時には、自分が目指したい道を歩んでいるのかな。
――だから僕はもう、自分に嘘をつかないでおこうと思う。本当に絵を描くことが好きだから、将来は、絵の世界に飛び込んで挑戦してみたいと思っている。実は、絵の勉強ができる進路先を密かに探しているんだ。
……明日、陸上部に顔を見せようかな。
背中に西日の光線があたり、私が描いた『ニャン高生』が影に隠れてきた。
――えっ?
急に胸に動悸がした。
――なにこれ?
ドクドクと脈が早くなって思わず胸を抑えた。野々村の顔が浮かんできて頬がじわじわしてくる。……まさかね、柄じゃないでしょと顔を振る。
腕時計を見ると十八時を過ぎている。そういえば、野々村の連絡先を知らない。ライン交換をしておけばよかったな。
「あー、今日は来ないかな。来ないんだな。野々村めー」
諦めて立ち上がる。一時間経ったのだから我慢したほうだと思う。お腹も空いてきたし。
スカートに着いた砂を雑に振り払う。帰り際に振り返って『ニャン高生』の顔を確認した。
ちょっと寂しそうな顔に見えた。
次の朝、登校中はずっと『ニャン高生』の顔が頭から離れなかった。野々村のせい。絶対にそう。会った瞬間に文句を――いや、だめだめ。落ち着いて。体調が悪くなったのかもしれないし。
廊下で手を振りながら挨拶を交わす女子達。階段の踊り場でおふざけをしながらすれ違っていく男子達。今日もまた、変わりない1日が始まる。
教室に入ると違和感があった。すでに半数のクラスメイトが来ているけど、心なしかそわそわしている。誰も私に視線を合わそうとしない。変な感じと思いつつ、バッグを机に置く。
「おはよう、明日香」
振り返ると優菜が上目で微笑んだ。本人は意識していないんだろうけど、やっぱり可愛いんだよね。正直、私も胸が弾んだぞ。
「おはよ、優菜」
「明日香、どうかした?」
「私?」
――どうかした?
「ううん。何もないよ」
教室の雰囲気に違和感があったから、変な顔になっていたかもしれない。とりあえず、バッグからノートを――。
「おい!」
声と同時にドアが鳴り響いた。
肩をすくめて振り返ると、お調子者の近藤が興奮を隠せない様子で息を切らしている。
「やっぱり野々村が死んだってよ!」
教室内が一瞬ざわめいたけど、すぐにしんとなった。待って、今、近藤は何を言った?
「滝宮は擦り傷と打撲で済んだけどな」
滝宮と同じ野球部、いがくり頭の木村が頬杖を突いて説明を始めた。
土曜日の夕方、南高の近くで高校生が自転車の二人乗りをしていたが、坂道で飛び出してきたネコを避けようとして転倒した。後ろに乗っていた男子はコンクリートに頭を打ちつけ、意識がない状態で病院に運ばれたが、翌日の夕方に亡くなってしまった。
クラスの女子が事故現場を通りかかった時に、近所の大人達の会話を耳にしていた。
――野々村君の自転車がパンクしていたのを部活帰りの滝宮君が見かけたみたい。どうも、野々村君が文具屋さんへ行こうとしていたらしいんだけど、閉店時間が迫っていて滝宮君が連れて行ってやるから早く乗れと――。
言葉が途中から何も聞こえなくなった。
野々村、『ニャン高生』は? 教えてくれるって約束――。
「明日香ぁ……」
気づいたら優菜が私の胸で泣きじゃくっている。無意識に彼女の頭を撫でていた。
「野々村って、幸が薄そうだったもんなぁ」
男子のグループから漏れてきた言葉に反応して振り返った。野々村に嫌がらせしていたグループだ。やべっという感じで視線を泳がせている。グループの一人が芝居臭く指で頬をかいているのを見て奥歯を噛みしめた。
「知っているように、野々村が不幸な事故で亡くなった。まずは、皆で黙とう――」
頭の中がいっぱいで先生が何を言っていたかほとんど聞き逃している。先生や周りが目をつぶっている。私だけ目を閉じれなかったけど、目の前が真っ暗になった。
帰りは野々村と約束した公園に寄った。どうやって来たのかよく覚えていないけど息が切れている。
――ニャン高生。
私が描いた『ニャン高生』が、かすかに残っている。まだ野々村が生きている気がした。
ベンチに座る。つーんとした耳鳴りが止まない。
野々村が死んじゃった? なんで? もういない? 会えないの? そんなのって…………訳が分からなくなってきた。
「のむら……」
――じゃあ、また明日。
野々村の澄んだ声が聴こえてくる。
せっかく自分でいられる場所を見つけたのに、本音を話し合える人が見つかったのに……。なんでこんなことに……滝宮も好意でしたこと――。
ハッとした。ちょっと待って、それって……。
――私のせい?
あの時、私が野々村を引き止めていなかったら、彼は滝宮と会うことはなかったかもしれない。未来は変わっていたかもしれない。
息を吐くことしかできなくて苦しくなってきた。カチカチと歯が鳴る。生温かい雨が降ってきた。空を見上げると灰色で厚い雲だ。
――だめ……。
胸の中に砂が入った感覚がして息苦しくなってきた。唇を噛んだら弾みで目が熱くなってくる。
「うっ……ううっ……」
かみ殺している声が漏れてきて顔を下げた。
「ごめん」
ぽたぽたと涙が落ちて『ニャン高生』の顔が滲んでいく。
「野々村……ごめんね……ごめん」
悲鳴を上げながら走る子どもの声と足音が聞こえるけど、顔を上げることができない。
『ニャン高生』の顔が滲んで消えていく。
――やめてよ。
ここで野々村と一緒にニャン高生を描く未来があったはずなのに。指の隙間から温くなった雨水が流れ出てきた。
――消えないで!
ベンチの下に忍ばせておいた絵描き用の枝を引き出す。
――どうしてよ! なんでよ!
私は叫びながら枝を両手で折って思いっきり投げた。
※
……後方から路面電車の音が聞こえてきて我に返った。いつの間にか街は目覚めていて、新しい一日を告げている。
息を吐きながら顔を上げた。
――綺麗。
遠くから見ても近くから見ても、桜の存在感にはいつも心が奪われる。
枝先に雀が乗っかり、すぐに飛んでいった。花びらがチラチラと落ちると思ったら、春風が吹いてニャン高生の顔に落ちている花びらを一気にかっさらっていった。
来週から四月だというのに、風はまだちょっぴり肌寒い。
――野々村、桜がきれいだよ。
早朝に見た夢は真っ白な世界で、野々村が私にニャン高生のぬいぐるみを渡してきた。雲の上だったのかもしれない。野々村は何も言わなかったけど、苦笑いした時に「遅くなってごめん」と言った気がした。
――ありがとう野々村……やっと、この公園に来ることができたよ。
『ニャン高生』の生みの親は、野々村だった。
自宅で『ニャン高生』を描いていた時に、四歳上の野々村のお兄ちゃんが気に入って、創立百周年記念で南高のイメージキャラクターを作ろうと提案したみたい。納得。作者本人が描いたんだから、上手くて当たり前じゃない。
そういえば、優菜から滝宮が大学で野球部に入部すると聞いた。滝宮はあの事故以来、野球から一線を引いて引っ越してしまったけど、先日、優菜と一緒に野々村の墓前で報告したらしい。
彼も、今は前を向いて歩んでいる。
私も県外の大学に進学して、もう一度陸上と真剣に向き合うつもりだ。
――嶺さん、自分に嘘をつかなくてもいいんじゃない?
「うん。私は自分らしく生きるよ」
霧の中で彷徨っている私に、野々村は手をさしのべてくれたよね。野々村が教えてくれたことは水晶のような柱になって、私の心の中で輝いているよ。
「でもさ、やっぱり私は、野々村が死んじゃったことが辛かった……」
……あ、やばい。また目の奥が熱くなってきた。
目の前を大学生ぐらいのカップルがジャージ姿で走り抜ける。「きゃはは」と女子の甲高い笑い声が聴こえた。
――わたしね、相談されていたの。……野々村君、明日香のことが――。
優菜の声が脳内に走る。
「あー、もう……」
視線を落とすと『ニャン高生』がぎこちない笑みを浮かべている。吹き出しを作って「私も、ちょっと好きだった」と書いた瞬間、ぽたりと雫が地面に落ちた。
「……よし、行こうかな」
膝に両手を突いて立ち上がる。
走る前に一度だけ振り返る。『ニャン高生』の顔に日差しがあたり、輝いているように見えた。
――野々村……じゃあね。
頬を伝った涙が渇いていく。
春の陽気にいつまでも浮かれてはいけない。でも、今日はもう一周だけ走ることにしよう。
野々村が夢に出てきたからだ。
――嶺さん、自分に嘘をつかなかったらいいんじゃない?
隣で私を見つめてくる野々村の顔が浮かんできて頬がじんとしてきた。風が吹いて『ニャン高生』の頬に桜の花びらが落ちた。
十カ月前のことを思い出した。
※
「野々村、今日のニャン高生を見せてくれ」
滝宮が野々村の机に両手をついてせがんでいる。上目で頷いている野々村の顔が見えた。
滝宮は野球部でプロ注目の選手らしい。キャプテンだけあって風格もある。
「うおーっ、マジですげえ!」
野々村が描いた『ニャン高生』を滝宮が絶賛している。
『ニャン高生』は先輩達が考えた猫のキャラクターだ。青い学生服を着たブルーのハチワレ猫ちゃんで、二頭身でクリっとした黒い瞳がチャームポイントだ。私達は地元の人からよく「南高生」と呼ばれているので、「ニャン」ともじって猫の高校生にしたみたい。誰がデザインしたのかは知らないけど、噂では南高の誰かが描いたらしい。
ホッとしたような表情を浮かべる野々村は、華奢でクラスでは目立たない存在だ。クラスメイトに囲まれるというより、景色を見ながらノートを書いているイメージがある。中性的な顔でかわいいという理由で一部の女子からは人気がある。
かわいいは置いておいて、確かに野々村は絵が上手だ。
――やばっ、うまいじゃん。
この前すれ違いざまに野々村が描いている『ニャン高生』を見て大声を出したことがある。それなのに、野々村は肩をすくめて顔をこわばらせていた。ちょっと失礼じゃない? と思った。
――野々村君、凄く上手だね。
同じ日に男子から人気がある小湊優菜が私とは正反対の反応を見せた時、野々村は頬を赤くさせていた。優菜のことが好きなのかもしれないとその時は思った。
ちなみに滝宮も優菜のことが好きだと思う。
今も野々村の肩をバンバン叩いて褒めつつも、私の後ろにいる優菜を横目で見ている。
滝宮は私によく話しかけてくる。
――嶺、アキレス腱はもう治ったのか? 俺、良い整形外科を知っているんだ。
そのせいで周りからは滝宮と嶺は想いを寄せ合っていると勘違いされている。お互い曲がったことが嫌いだし、運動部同士気が合うんだろうと囁かれている。
でも私は知っている。
滝宮は優菜の友達である私と話すことで、優菜と仲良くなるキッカケを掴みたいだけなんだ。私には遠慮なく話してくるけど優菜には「小湊さん」とか言っちゃって真顔になっている。本人は自然を装っているつもりなんだろうけどバレバレなんだよね。それなのに変な噂を立てられているから私は迷惑している。
ただ、優菜が野々村のイラストを褒めて楽しそうにしているのを一部の男子は気に入らなかったのか、野々村に嫌いな先生のギャグ漫画を描けだとか、エッチな絵を描けと強制する時期があった。
あまりにも目についたから「いい加減にしたら?」と立ち上がろうとした時に、滝宮が私を制して野々村をいじる男子達を押しのけた。
滝宮が野々村のスケッチブックを手に取り、しばらく沈黙が続く。
――やべえ。天才かよ。
それ以来滝宮は『ニャン高生』のイラストをどんどん書いてくれと野々村に頼むようになった。硬派な感じなのに、意外にも『ニャン高生』が大好きらしい。クラスのリーダー格の滝宮の態度を見て、周りの男子達も静かになった。
「おはよう明日香ちゃん、爽やかな朝だね」
愛くるしい柴犬と散歩している近所のおじさんが笑顔を向けてきた。
「おはようございます」
私はふふっと笑って手を振る。
日曜の朝はまだ街が眠っている感じで空気がきれいだ。
私が毎朝走っているこの公園は、家から歩いて五分もかからない。直径三百メートルぐらいの公園だけど、中央に小高い丘があって頂上に展望台がある。
公園の外周は遊歩道になっていて、私のランニングコースになっている。春は桜並木が綺麗で、桜の名所として花見客がたくさんやって来る。
並列に並んでいる木製のベンチが見えて――。
――あっ、そうだ。
私が昨日描いた『ニャン高生』は、まだ残っているかな? ベンチに座って休憩している時に、枝を拾って地面に『ニャン高生』の顔を描いたんだった。
走るスピードを緩めると、ニャン高生の顔の輪郭が見えてきた。昨日の夜は雨が降っていたけど、まだ残っているみたい。
「あれ?」
輪郭が二つある。
「ニャン高生?」
私の描いた『ニャン高生』の隣に、まったく同じ大きさの『ニャン高生』の顔が描かれている。
「えっ? やばくない?」
凄く上手だ。隣に描かれているから、その差が余計に際立って――。
「つめたっ!」
しまった。無意識にベンチに座ってしまった。
――なんなのよ。
昨日使った枝を見つけた。私は自分が描いたニャン高生の頭上に大きく吹き出しを描く。
『とてもお上手ですね!』
……あっ、いけない、衝動的に書いてしまった。周りを見渡してから枝をベンチの下に忍ばせる。
ハンドタオルでベンチを拭いて座り直した。足首をくねくね回す。……うん、大丈夫だ。三周しても違和感がないし息も切れていない。
子どもの時から走ることが好きな私は、中学の時に中距離で入賞したことがある。高校でも800mで良い成績を残したけど、去年サーキットで走っている時にランナーとぶつかって、アキレス腱を断裂してから歯車が狂った。
――めっちゃ派手に転んでいたよね!
――ちょっといい気味だと思っちゃったんだよねー。
ウラでそんなことを囁かれていたのは、緩く活動する同級生や横柄な先輩に遠慮なく意見を言っていたからだろうな。相手が誰だろうと思ったことをすぐに口にする性格が災いしている。おせっかいなクラスメイトが陸上部のグループラインで私の悪口で盛り上がっていると聞かされた時は、悔しくてお風呂や公園の展望台で泣いた。あれから足の状態はだいぶ戻っているけど、周りの視線が気になって部活に参加することができていない。
グラウンドで陸上部の皆が和気あいあいとしているのを見て胃の中が重くなってくる。
……さて、そろそろ走ろうかな。
立ち上がってジャージを払うと両手が濡れた。
私は『ニャン高生』に舌を出した。
「ありがとうございます?」
次の日も公園でランニングすると、私のコメントに対して隣の『ニャン高生』が返事をしていた。ちょっと待って、もしかして真面目に受け取ったパターンですか?
「むー……」
腕を組んで双方のニャン高生を眺める。私が描いた『ニャン高生』は薄くなっているけど、隣の『ニャン高生』は顔を描き直した跡がある。これは、もう一言ぐらい返したほうがいいのかな? っていうか、描いた人は誰?
側を歩いていた数羽の鳩が一斉に飛んでいく。
謎の人物との会話か……なんだか面白いかも。好奇心がくすぐられる。私もニャン高生の顔を描き直して、また吹き出しを作った。
『ぜひ、マンガ家になってください!』
その日以来、謎のニャン高生とのやりとりは続いている。
『マンガ家は無理ですよ』
『やってみないと分からないですよ?』
『考えてみます。ありがとうございまう』
「す」が欠けて「う」に見える。私は吹き出した。
土曜日の朝に私がニャン高生を描いてコメントすると、翌日の朝には隣にもニャン高生が現れて返事が書かれている。
次はなんて返そうかなと考えているうちに、私はどんな人が描いているんだろう気になった。
次の土曜日、私はランニングを一時間遅らした。ニャン高生を描いた人を見たくなったからだ。
ジャージに着替えている時からソワソワしていて、公園の入り口に入ると胸が高鳴ってくる。やばい、ワクワクする。こんな気持ちになるのは久しぶり――。
――明日香、落ち着いて。
不意に優菜のセリフが蘇って胸に圧力がかかった。
この前もクラスの係で押しつけられそうな子がいて、ちゃんと意見交換しようよと言うと「まーた始まったよ」「めんどすぎ」と、呆れた声が聴こえてきた。
陸上部で孤立した苦い経験があるのに、私はまた同じことを繰り返している。優菜や滝宮は普通に話してくれるけど、他のクラスメイトからは空気が読めない人認定されている。
理不尽な場面を見たりいじられている子がいたりすると我慢できなくて意見してしまう。小さい頃はそれで感謝されたり正義感が強いと先生から褒められたりしたけど今はそうじゃない。もしかすると、私が変なのかもしれない……間違っているのかもしれない。もう大人なんだし、周りの空気を読むことも覚えないといけないのかも。
「……いないか」
ベンチの周りには誰もいない。私は平静を装いながらベンチに座り『ニャン高生』を描いた。
小さく息をつく。
そう簡単に現れるとは思っていなかったけど、なんだか拍子抜けしてしまったなぁ。商店街の福引抽選会で落胆する感覚に似ている。
『ニャン高生』の顔をじっと見つめる。何回か描いているうちに、ちょっと上手くなったかもしれない。
その日の夕方、私はもう一度だけ公園に行くことにした。あくまでも、朝は集中して走れなかったから改めて走っておくだけ。
公園の入り口に差し掛かってからはギアを上げた。
――ああ、やっぱり走ることが好き。
モヤモヤしていても走っている時は風の音が耳に入ってきて余計なことが頭に入ってこない。……だから、本当はグラウンドで走りたい。トラックで走りたい。でも、部の人たちが楽しそうにしている場面がどうしても頭に浮かんでくる。
振り払うように顔を振った。並列のベンチが見えて――。
――あっ!
あのベンチに座っている人がいる!
気づいたら私は走るのをやめて足音を立てないように歩いていた。
目を細めて観察する。グレーのパーカーにジーンズ、黒いトートバッグを側に置いている。うつむいて何かを描いているのは――。
「あーっ!」
私の大声に反応してビクッと顔を上げたのは――。
「野々村?」
「み、嶺さん?」
……私は探偵業とか絶対不向きだと思う。野々村が教室で声を掛けた時と同じ顔をしている。やっぱりこいつは失礼な奴だ。
「この『ニャン高生』は野々村が描いてたの?」
「コ、コメントされていたからお礼を書いたんだ。返事されていたから、返さないといけないかなと思って……」
野々村は警察から事情聴取をされているような顔になっている。
「そうだったんだ」
私だけ立っているのも変だから、とりあえず座ろうかな。軽く咳払いして野々村をチラ見する。……ん? なんか嬉しそう。感情を表に出さないイメージがあるけど、意外と顔に出るタイプなのかも。
「嶺さんは公園の近くに住んでいるの?」
「えっ? あ、そうそう。ここから走って五分くらいのところ」
私は西の方角へ顔を向けた。西日が眩しくて目を細める。
「そうなんだ。僕はこっち。歩いて十分くらいかな」
野々村は東へ指差す。
「野々村はこの公園によく来るの?」
「いや、土日しか来ないかな。ベンチに座って絵を描いているんだけど」
なるほど。野々村が膝元に置いているトートバッグには、スケッチブックが入っているのかもしれない。
会話が途切れた。遠くから子ども達の笑い声が聴こえてくる。野々村と話すことなんて滅多にないから落ち着かない。何か話題はないかな。
「私ら今年は受験生じゃん。野々村は進路を決めてる?」
「うん。近所の大学に行こうと思っているんだけど……」
野々村の家の近所? ああ、市内の国立大学か。てっきり美術の大学とか専門学校に行くと思ったから意外かも。
「嶺さんは?」
「私?」
語尾が上がっちゃった。自分から出した話題なのに、何も考えていないことに気づいた。
「私は……」
口を尖らせる。私は一体、どうしたいのだろう。お母さんは進学しなさいと言っているけど、お父さんは陸上に集中できる環境に飛び込めと意見が対立している。最近は家でも居心地が良くない。
「嶺さんは陸上部に復帰したの?」
「えっ?」
黙っていたからか、質問を変えられた。
「滝宮君から聞いたけど、アキレス腱は治ったんだよね?」
滝宮め……口が軽いんだから。横目で野々村を――。
――綺麗な顔。
喉元が鳴り、胸がきゅっと締めつけられた。慌てて顔をそらす。
「ごめん。言いたくないこともあるよね」
事情を感じとったのか、野々村がぼそっと呟いた。気を使わせちゃったかも。
「……足は治ってるよ。公園で何周もしているけど違和感もないし」
「そうなんだ。よかったね」
野々村の穏やかな口調になんだか癒される。まるでカウンセラーと話しているみたい。
「でもさ、なんか居心地が悪いんだよね。周囲の視線が気になるっていうか、競技に集中できないというか……まあ私は空気が読めないもんね。最近は優菜と滝宮しか話しかけてこないし」
「あはは、最近の嶺さんは、なんだかピリピリしているもんね」
ちょっと……こいつ、はっきり言うな。癒されたというのは取り消す!
「野々村さ、私はこれでも一応考えているんだからね。反省しているっていうか、これからは、もっと周りのことを考えてから話そうって思っているんだから」
野々村がきょとんとしている。……なんか肩に力が入ってきた。
「嶺さん、自分に嘘をつかなかったらいいんじゃない?」
「えっ?」
「いや、その格好」
「恰好?」
「嶺さんは、やっぱり走るのが好きなんだろうなって」
睨まれたと思ったのか、野々村が苦笑いしながら頭を掻いている。
「僕も絵ばっかり描いて根暗な奴と言ってくる人がいて辛かったんだ。正直描くことに罪悪感が出てきてやめようかと思うこともあった。でも、滝宮君が言ってくれたんだ」
「滝宮が? なんて言ったの?」
――お前の絵は最高だ。俺はプロ野球選手になるから、お前はプロの画家になれ。で、俺の将来の家に飾ることにする。
うわ……滝宮なら言いそう。俺は本気だという表情が浮かんでくる。
「僕は滝宮君に救われたんだ。自分を認めてくれる人もいる。だから、僕も絵を描くことが好きな自分を認めてあげようと思って」
「そうなんだ……」
「この公園だったら思う存分自分が好きな事ができる。うまく言えないけど、周りの声や視線を気にしすぎると、好きな事を精一杯頑張ろうと思えなくなる気がするんだ」
なぜかじわりと胸が痛んできた。野村が静かに顔を上げる。
「だから僕はもう、自分に嘘をつかないでおこうと思う。本当に絵を描くことが好きだから、将来は、絵の世界に飛び込んで挑戦してみたいと思っているんだ。……実は、絵の勉強ができる進路先を密かに探しているんだ」
憑物が取れたように野々村が清々しい顔を向けてきた。なんか心臓の音が早くなってくる。
「嶺さんも、走ることが本当に好きなら、自分に嘘をつかないほうがいいよ」
――自分に嘘をつかない……。
陸上部で揶揄された場面や、うざそうな顔をしているクラスメイトが脳内に浮かんでくる。じんわりと目が熱くなってきたので咄嗟に顔を逸らす。あー、駄目だ。口が震えてきた……ああ、そうか。
――私、辛かったんだ。
誰にも自分の気持ちを吐き出すことができなくて、心のタンクが黒い水に汚染されていくみたいで、水位がどんどん上がって破裂しそうになって……優菜や滝宮の前でも強がっちゃって弱音を吐かなかった。でも、本当は、誰かに辛い気持ちを聞いてほしくて――。
「嶺さんは嶺さんのままがいいんじゃないかな」
「えっ?」
野々村の顔がちょっと強張る。
「嶺さんは周りの視線が気になるって言っていたけど、相手を悪く言っているわけじゃないし、ただ自分の考えを言っているだけだと思うんだ」
「どういう意味?」
眉をしかめると、野々村の頬が赤くなってきた。
「う、うまく言えないけど……僕は素直に自分の意見を言える嶺さんが……いいなと思うよ」
――野々村……。
なんか顔が熱くなってきた。えっと、それって……今の私でいいってこと? なんかうまく頭の中が整理できない。
「嶺さん」
「えっ?」
意表をつかれて声が上ずった。野々村が顔を上げている。
「空が綺麗だよ」
「空?」
……ああ、確かに底抜けに澄んだ空だ。あの上は宇宙につながっているんだろうかとぼんやり考えた。野々村は悟ったような横顔で空を眺めている。
ニャン高生の正体が分かってスッキリしたけど、これでこの奇妙な関係も終わってしまうのかな。
「……野々村さ、ニャン高生の描き方、私に教えてよ」
「えっ?」
「なんか上手く描けないんだよね」
「可愛く描けていると思うけど……」
「いいじゃん。……コツを教えてほしいのよ」
「コツか……」
ああ、そうか。私はこの奇妙な関係を続けていたいのかも。
「うん。いいよ。でも、今から文具屋さんに行くから……」
野々村が腕時計に視線を落としている。
「あ、全然全然。ごめん、文具屋さんに行ってきて」
「来週、学校で教えるよ」
「あ、いや……」
「えっ?」
「ここがいい。明日、またここで教えてほしい……かな」
私と野々村だけで共有したい気がした。知っている人が誰もいないこの公園がいい。野々村が瞳をぱちぱちさせている。教えてと言ったことを後悔しそうになった瞬間、野々村の頬が上がった。
「分かった。いいよ」
ほんのり胸が温かくなってきた。
「あ、ありがとう。じゃあ明日、同じ時間にここで待っているから」
彼は「うん」と軽く頷いて立ち上がり、トートバッグを軽く揺すった。
「じゃあ、また明日」
野々村が手を振った。
「うん」
私も軽く手を振った。
野々村は姿が見えなくなるまで何度も振り返って手を振ってくれた。やっぱり真面目だなーと、感心した。
ニャン高生の正体は、野々村だった。正義のヒーローは身近にいると聞いたことがあるけど、あながち嘘ではないのかもしれない。
次の日、約束の時間に合わせて公園に向かった。
あれから一晩経って、野々村の言っていたことが分かった気がする。
……ありのままの自分でいいってことかもしれない。
自分が何か意見すると周りから嫌な反応をされて、悪く言われて辛い思いして……だから、もう自分の意見を出さずに周りに合わせようって考えてた。でも、それは我慢して偽りの自分を演じることになるから、結局は心が破裂してしまうかもしれない。
最近は自分の思いが伝わらくて、気づかないうちにイライラしていたかもしれない。そこは反省しないといけないかな。
なんだろう。凄く心が軽い。クリアな空気が胸を満たしてくれている気がする。昨日、野々村が話を聞いてくれたからかもしれない。……自分の居場所を見つけたかもしれない。
――そうそう、嶺さん上手に描けているよ
――そうかな?
先走った想像をしてしまう。
野々村のことだから、きっと真面目に描き方を教えてくれる――そうだ、上達したら滝宮に見せてやろう。滝宮がプロ野球選手になったら、私が描いた『ニャン高生』も部屋に飾ってよと言ってやろう。
「あれ?」
野々村の姿がない。ちょっと、遅刻? いい度胸をしているじゃないの。所在なさげにベンチに座る。
軽く息をついて顔を上げると、桜は既に散って葉桜になっている。次に桜を見る時には、自分が目指したい道を歩んでいるのかな。
――だから僕はもう、自分に嘘をつかないでおこうと思う。本当に絵を描くことが好きだから、将来は、絵の世界に飛び込んで挑戦してみたいと思っている。実は、絵の勉強ができる進路先を密かに探しているんだ。
……明日、陸上部に顔を見せようかな。
背中に西日の光線があたり、私が描いた『ニャン高生』が影に隠れてきた。
――えっ?
急に胸に動悸がした。
――なにこれ?
ドクドクと脈が早くなって思わず胸を抑えた。野々村の顔が浮かんできて頬がじわじわしてくる。……まさかね、柄じゃないでしょと顔を振る。
腕時計を見ると十八時を過ぎている。そういえば、野々村の連絡先を知らない。ライン交換をしておけばよかったな。
「あー、今日は来ないかな。来ないんだな。野々村めー」
諦めて立ち上がる。一時間経ったのだから我慢したほうだと思う。お腹も空いてきたし。
スカートに着いた砂を雑に振り払う。帰り際に振り返って『ニャン高生』の顔を確認した。
ちょっと寂しそうな顔に見えた。
次の朝、登校中はずっと『ニャン高生』の顔が頭から離れなかった。野々村のせい。絶対にそう。会った瞬間に文句を――いや、だめだめ。落ち着いて。体調が悪くなったのかもしれないし。
廊下で手を振りながら挨拶を交わす女子達。階段の踊り場でおふざけをしながらすれ違っていく男子達。今日もまた、変わりない1日が始まる。
教室に入ると違和感があった。すでに半数のクラスメイトが来ているけど、心なしかそわそわしている。誰も私に視線を合わそうとしない。変な感じと思いつつ、バッグを机に置く。
「おはよう、明日香」
振り返ると優菜が上目で微笑んだ。本人は意識していないんだろうけど、やっぱり可愛いんだよね。正直、私も胸が弾んだぞ。
「おはよ、優菜」
「明日香、どうかした?」
「私?」
――どうかした?
「ううん。何もないよ」
教室の雰囲気に違和感があったから、変な顔になっていたかもしれない。とりあえず、バッグからノートを――。
「おい!」
声と同時にドアが鳴り響いた。
肩をすくめて振り返ると、お調子者の近藤が興奮を隠せない様子で息を切らしている。
「やっぱり野々村が死んだってよ!」
教室内が一瞬ざわめいたけど、すぐにしんとなった。待って、今、近藤は何を言った?
「滝宮は擦り傷と打撲で済んだけどな」
滝宮と同じ野球部、いがくり頭の木村が頬杖を突いて説明を始めた。
土曜日の夕方、南高の近くで高校生が自転車の二人乗りをしていたが、坂道で飛び出してきたネコを避けようとして転倒した。後ろに乗っていた男子はコンクリートに頭を打ちつけ、意識がない状態で病院に運ばれたが、翌日の夕方に亡くなってしまった。
クラスの女子が事故現場を通りかかった時に、近所の大人達の会話を耳にしていた。
――野々村君の自転車がパンクしていたのを部活帰りの滝宮君が見かけたみたい。どうも、野々村君が文具屋さんへ行こうとしていたらしいんだけど、閉店時間が迫っていて滝宮君が連れて行ってやるから早く乗れと――。
言葉が途中から何も聞こえなくなった。
野々村、『ニャン高生』は? 教えてくれるって約束――。
「明日香ぁ……」
気づいたら優菜が私の胸で泣きじゃくっている。無意識に彼女の頭を撫でていた。
「野々村って、幸が薄そうだったもんなぁ」
男子のグループから漏れてきた言葉に反応して振り返った。野々村に嫌がらせしていたグループだ。やべっという感じで視線を泳がせている。グループの一人が芝居臭く指で頬をかいているのを見て奥歯を噛みしめた。
「知っているように、野々村が不幸な事故で亡くなった。まずは、皆で黙とう――」
頭の中がいっぱいで先生が何を言っていたかほとんど聞き逃している。先生や周りが目をつぶっている。私だけ目を閉じれなかったけど、目の前が真っ暗になった。
帰りは野々村と約束した公園に寄った。どうやって来たのかよく覚えていないけど息が切れている。
――ニャン高生。
私が描いた『ニャン高生』が、かすかに残っている。まだ野々村が生きている気がした。
ベンチに座る。つーんとした耳鳴りが止まない。
野々村が死んじゃった? なんで? もういない? 会えないの? そんなのって…………訳が分からなくなってきた。
「のむら……」
――じゃあ、また明日。
野々村の澄んだ声が聴こえてくる。
せっかく自分でいられる場所を見つけたのに、本音を話し合える人が見つかったのに……。なんでこんなことに……滝宮も好意でしたこと――。
ハッとした。ちょっと待って、それって……。
――私のせい?
あの時、私が野々村を引き止めていなかったら、彼は滝宮と会うことはなかったかもしれない。未来は変わっていたかもしれない。
息を吐くことしかできなくて苦しくなってきた。カチカチと歯が鳴る。生温かい雨が降ってきた。空を見上げると灰色で厚い雲だ。
――だめ……。
胸の中に砂が入った感覚がして息苦しくなってきた。唇を噛んだら弾みで目が熱くなってくる。
「うっ……ううっ……」
かみ殺している声が漏れてきて顔を下げた。
「ごめん」
ぽたぽたと涙が落ちて『ニャン高生』の顔が滲んでいく。
「野々村……ごめんね……ごめん」
悲鳴を上げながら走る子どもの声と足音が聞こえるけど、顔を上げることができない。
『ニャン高生』の顔が滲んで消えていく。
――やめてよ。
ここで野々村と一緒にニャン高生を描く未来があったはずなのに。指の隙間から温くなった雨水が流れ出てきた。
――消えないで!
ベンチの下に忍ばせておいた絵描き用の枝を引き出す。
――どうしてよ! なんでよ!
私は叫びながら枝を両手で折って思いっきり投げた。
※
……後方から路面電車の音が聞こえてきて我に返った。いつの間にか街は目覚めていて、新しい一日を告げている。
息を吐きながら顔を上げた。
――綺麗。
遠くから見ても近くから見ても、桜の存在感にはいつも心が奪われる。
枝先に雀が乗っかり、すぐに飛んでいった。花びらがチラチラと落ちると思ったら、春風が吹いてニャン高生の顔に落ちている花びらを一気にかっさらっていった。
来週から四月だというのに、風はまだちょっぴり肌寒い。
――野々村、桜がきれいだよ。
早朝に見た夢は真っ白な世界で、野々村が私にニャン高生のぬいぐるみを渡してきた。雲の上だったのかもしれない。野々村は何も言わなかったけど、苦笑いした時に「遅くなってごめん」と言った気がした。
――ありがとう野々村……やっと、この公園に来ることができたよ。
『ニャン高生』の生みの親は、野々村だった。
自宅で『ニャン高生』を描いていた時に、四歳上の野々村のお兄ちゃんが気に入って、創立百周年記念で南高のイメージキャラクターを作ろうと提案したみたい。納得。作者本人が描いたんだから、上手くて当たり前じゃない。
そういえば、優菜から滝宮が大学で野球部に入部すると聞いた。滝宮はあの事故以来、野球から一線を引いて引っ越してしまったけど、先日、優菜と一緒に野々村の墓前で報告したらしい。
彼も、今は前を向いて歩んでいる。
私も県外の大学に進学して、もう一度陸上と真剣に向き合うつもりだ。
――嶺さん、自分に嘘をつかなくてもいいんじゃない?
「うん。私は自分らしく生きるよ」
霧の中で彷徨っている私に、野々村は手をさしのべてくれたよね。野々村が教えてくれたことは水晶のような柱になって、私の心の中で輝いているよ。
「でもさ、やっぱり私は、野々村が死んじゃったことが辛かった……」
……あ、やばい。また目の奥が熱くなってきた。
目の前を大学生ぐらいのカップルがジャージ姿で走り抜ける。「きゃはは」と女子の甲高い笑い声が聴こえた。
――わたしね、相談されていたの。……野々村君、明日香のことが――。
優菜の声が脳内に走る。
「あー、もう……」
視線を落とすと『ニャン高生』がぎこちない笑みを浮かべている。吹き出しを作って「私も、ちょっと好きだった」と書いた瞬間、ぽたりと雫が地面に落ちた。
「……よし、行こうかな」
膝に両手を突いて立ち上がる。
走る前に一度だけ振り返る。『ニャン高生』の顔に日差しがあたり、輝いているように見えた。
――野々村……じゃあね。
頬を伝った涙が渇いていく。
春の陽気にいつまでも浮かれてはいけない。でも、今日はもう一周だけ走ることにしよう。

