「あー疲れた」

 周囲に誰もいないことを確認し、溜息をつく。
 帰宅部の夢は消え、結局軽音部に入部してしまった。

 まあ良いか。これで朱莉に歌を聞いてもらえるし‥‥。

 気だるい体を動かして、靴を履き替えていると後ろから声をかけられる。

「あれ? 柊まだ残ってたんだ」
「あ、朱莉こそまだ学校いたの?」
「うん、生徒会の説明受けてた」

 真面目な朱莉は生徒会に入った。
 アイドル級に可愛くて勉強も出来るだけでなく、生徒会にも入るなんて高嶺の花まっしぐらだ。
 幼馴染なのにこうも違うのかと毎度思い知らされる。

「これから塾なんだけど、柊さえ良ければ送ってくれない?」

 なんていうご褒美だろう。
 そんなもの、喜んで二つ返事する。
 体験入部で疲れていたことなんて、俺はもうすでに忘れかけている。

「うん、もちろん」
「ありがとう。柊はとっくに帰ってたと思ったから、今日はついてる日だ」

 機嫌良く笑う朱莉。
 さっと内履きからローファーに靴を変え、いつものように一歩前を歩く。
 強い夕陽が朱莉を照らし、影が長く伸びている。

「大袈裟だな。別に頼まれればいつでも送るよ」
「優しさの安売りしないの。本気にしちゃうでしょ」

 別に安売りなんかじゃない。
 朱莉のためなら毎回塾に送ることなんか、なんてことない。でも、がっついていると思われたくなくて笑って誤魔化した。

「そういえば、軽音部に入部したよ」
「えっ? 人前が苦手な柊が? 本当に?」

 大きな瞳をもっとまん丸にして、見開いた朱莉。
 ぐっと距離が縮まり、鼓動が速まる。

「う、うん。まあちょっと強引に入部させられたけど」
「なにそれ、大丈夫? 変な先輩に目つけられてない?」

 うーん、右京先輩は変な先輩じゃないよな、多分。
 学校生活はともかく、部活態度は真面目そうだし。

 少し悩んで、右京先輩に誘われたことを話した。
 朱莉は「ええ! すごいじゃん!」と自分のことのように喜んでくれる。

「右京先輩って入学式の時、女の子にキャーキャー言われてた人だよね? ギター上手だしイケメンだし、そんな人に誘われるなんて柊ってば才能見出されちゃったんじゃない?」
「ないない。俺が他の見学してる人たちと違って、あまりにもド隠キャだから面白がってるだけだよ」
「ふうん、そうかなあ」

 朱莉の声が少し低くなる。
 思わず肩が跳ねた。

 まずい、なんでか分からないけど地雷踏み抜いたっぽいな。

「柊のそういうところあんまり好きじゃない。なんでいつも自分のことそんなに卑下するの」
「だ、だって俺は先輩みたいに堂々としてないし、イケメンでもないし」
「顔が全てじゃないでしょ。それに、心が表情に出るんだよ。先輩がかっこよく見えるのは自分に自信があるからだよ」

 鋭く指摘されて、朱莉の言葉が心にずぶりと刺さる。
 何よりショックなのは、彼女が先輩をかっこいいと褒めたことだ。

「朱莉もさ、やっぱり先輩みたいな人がかっこいいんだ‥‥」

 思わず背中が丸まってしまう。
 横から大きなため息が聞こえた。

「そーね。少なくとも、そんな風にまだなにもしてしないのに凹んでる柊よりかはかっこいいかもね」

 えっ、俺、今振られてる? 
 告白する前にもう朱莉と付き合える可能性ゼロだったりする?

 大きなショックを受けてますます背中が曲がってしまう。

「あのねえ柊、私が言いたいのはーー」

 話している途中なのに、勢いよく朱莉が振り向いた。
 さっきまで笑っていたのに、どこか緊張を帯びた表情をしている。

「? どうしたの?」
「‥‥ううん、別に。なんか猫が通った気がして」

 全く猫の気配など感じられなかったが、朱莉には見えたのかもしれない。
 特別猫が好きでもない彼女が、通ったかどうかも分からない猫を気にするのは少し変だ。

「やっぱり猫なんていなかったかも。行こ」

 だけど、もう普段通り笑っているから俺は気にせず彼女の隣を歩いた。

 一緒に帰るのは久しぶりで、学校以外の話にも花を咲かせる。
 朱莉と話しているとあっという間で、気がついたら塾に着いていた。

「あーあ、もう着いちゃった」
「話してるとあっという間だね。じゃあ、塾頑張って」
「‥‥うん、ありがとう」

 少し不安そうな顔をした朱莉。高校生になって、内容が難しくなったのかもしれない。
 彼女は看護師になるために人より多く勉強している。
 目指している職業さえも立派で、さすがという言葉しか浮かばない。

 俺はひらりと手を振って、朱莉の背中が見えなくなるまで見送った。