「じゃあ、きみの記憶を見に行こう。」
「覚えてないのに?」
「言ったでしょ?
僅かな欠片を空間が拾い上げて
景色に投影してたりするって。」
「この家みたいに?」
「そう。」
彼女が目を覚まして
随分と落ち着いたみたいなので
この停留所を散策することを提案した。
ここでの過ごし方は自由だ。
感情のまま叫ぶも、動くも
留まるも、進むも、止まるも。
気が済むまで、本人の好きなようにさせる。
俺はただ、それを見守るだけ。
この子の場合、記憶を思い出さないと
先に進めないみたいだから
とりあえず、記憶を思い出すきっかけを探そうと思う。
「管理人さん。」
「なに?」
「管理人さんは、なんで猫のお面つけてるの?」
「なんでだろうね。目印みたいなものなのかな。」
あの謎の存在。
時々、語りかけてくるそれの
聞くところによれば
この境目には
ここと同じような空間があって
俺以外にも、たくさん管理人がいるみたいだから
あの謎の存在が、俺達を識別しやすいように
この面を与えているのかもしれない。
直接、命じられたわけじゃないけど
いつも気づいたら、そばにあったから
つけろってことかなと解釈して
いつからか、つけるようになった。
「管理人さんは、なんでここにいるの?」
「んー…罪滅ぼし?」
「つみほろぼし?」
「悪いことをしたから、ここで働いてる。」
「悪いことって?」
「自分で自分を殺しちゃったんだって。」
「……………そうなの。」
返す言葉に悩んだのか
彼女は困り果てた顔で、それだけ呟いて
しばらく黙り込んだ。
けど、気を取り直すように
また、俺に色々質問を浴びせてきた。
「管理人さんは何歳?」
「何歳なんだろうね。
でも、今のきみよりは大人だと思うよ。」
ぱっと見、自分は10代後半~20代前半の男。
この姿のまま、この中身のままが
本来の自分だと言うならの話だけど。
自分に関することは覚えてないけど
日常生活に必要な最低限の知識
一般教養は持ち合わせている。
博識ではないが、無知でもない。
ここを訪れる人達の世界を見ても
それが何か認識できるものも多いから。
「分からないの?」
「きみと同じだよ。俺も記憶喪失。」
「………おそろい?」
「そうだね。」
「管理人さんは思い出したくないの?記憶。」
「思い出せないなら、それでもいいかな。
自殺するくらいなんだから
ろくな人生じゃなかっただろうし。」
「………大事な人とか
大切なものがあったかもしれないのに?」
「そうじゃないかもしれない。」
あったとして、それを思い出したからといって
なんになるのか。
もう、自分は死んでいて
会うことも、話すことも、触れることも叶わない。
いくら焦がれようと
もう、それを手にすることはできないのだから。
何の意味もない。
むなしいだけだ。
「……って、俺は思うけど
そうじゃない人も、たくさん見てきたからなぁ。」
「?」
「こっちの話。」
記憶を取り戻して
生前味わった、痛みや苦しみを思い出して
でも、同時に
喜びや幸せも思い出して
泣きながら笑う人を見た。
大事なものを
それがあった人生を愛しいと、幸せだと
満ち足りた顔で話す人もいた。
もう2度と、会えなくても、話せなくても
その記憶があるだけで充分だと
大丈夫なんだと、進んだ人がいた。
色んな人間がいた。
「多分、きみもそうなんだと思うよ。」
「??」
「こっちの話。」
心の中と外での俺の独り言に
不思議そうに首を傾げる彼女。
そんな彼女の手を引いて、俺は歩いた。
「夏の記憶が多いね。夏が好きとか?」
「そういうわけじゃない……と思う。」
「思い入れのある季節って事かな。」
「うーん…」
停留所を歩き続ける。
ころころ変わる景色は
どれも夏の色が強く残る。
目に留まる植物、映す空の形、色、空気の匂い。
「………暑いけど、寒い…?」
「暑い日にアイス食べる、みたいな?」
「ううん、そうじゃなくて……」
「…………寒くて、苦しい……?」
変わる景色に連動するように
自分の中で、何かが反応するのか
彼女はぽつぽつ、抽象的な言葉を口にする。
その度、俺は答えに近付きそうな言葉を探す。
「夏風邪?」
「……うーん。」
…………
「……………おばあちゃんの家。」
「うん?」
「あの家、おばあちゃんの家!」
「思い出した?」
「ちょっと思い出した!」
ぱぁっと表情を輝かせる彼女。
「毎年、夏におばあちゃん家に遊びに行って…
これ、全部、おばあちゃん家で見た景色。」
「そう。」
「お父さんとお母さん、後、妹と一緒にね
お祭り行ったり、花火したり…。」
……記憶を思い出すの
意外と時間かからないかもしれないな。
ひとつ思い出す毎に
それに連なる記憶が蘇るようで
彼女は、夏の日の出来事をつらつらと話続ける。
「……楽しくて、でも………」
「?」
嬉しそうに話していた彼女の顔色が急に曇る。
「どうかした?」
「……………なんか、……………くるしい。」
胸を押さえて
そのまましゃがみこんでしまった彼女。
膝をついて、顔を覗き込めば、顔面蒼白。
「今日はここまでにしよう。」
どうやら、この夏の記憶は
彼女にとって、楽しいだけのものじゃないらしい。
彼女を抱き上げて
一旦、あの家へ戻ることにした。
***
「……」
あれから、彼女は眠ったまま。
……難儀だなぁ。
順調に記憶を取り戻しているかと思えば
急にブレーキがかかったように
記憶から遠ざかる。
いっぺんに思い出し過ぎて
魂に負荷がかかってしまうのか。
なにかしらの核心に迫る記憶だからなのか。
「きみは、どんな人生を歩んできたんだろうね。」
思い出しかけた記憶は
痛い記憶か、苦い記憶か、辛い記憶か。
なんにせよ
あまり、良いものでないのは確かなんだろう。
「……嫌な記憶だとしても、思い出したい?」
忘れ去りたいと願ったものであったとしても
きみは、思い出したい?
「……………うん」
ぼんやり景色を眺めながら
呟いた独り言に、返事があって
少し驚きながら
声のした方へ顔を向ければ
寝ぼけ眼の彼女が、布団に横になったまま
俺を見ていた。
「それでもいいの。思い出したい。」
「どうして?」
「痛いのも、苦しいのも
全部、私のものだから。」
「それがあったから
幸せを知ることができたから。」
そう口にする彼女の脳裏には
きっと、先程思い出した家族と過ごした時間が
流れているのだろう。
苦しみや悲しみ、怒りや痛み、寂しさ。
欲望、羨望、妬み、嫉み、憎しみ、怨み。
そういうものがなけれは
そういうものを知らなければ
不幸や絶望を知らなければ
幸福や希望は見いだせない。
切っても、切り離せないもの。
どちらもなくてはならない。必要なもの。
………ここを訪れた人は
みんな、似たようなことを言う。
「きみは強いね。」
頭では理解しても、頷ける部分はあっても
自分なら、そんなもの
死んでから、また味わいたいとは思わない。
痛い記憶なら
思い出さないままでいたいものだけど。
「へへ。」
称賛の言葉を向けられ
彼女は照れたように笑うと、また眠りについた。
***
最初の頃は、心細くて
俺の傍を離れなかった彼女だけれど
少しずつ、少しずつ、自分の記憶を思い出し
この場所に慣れてからは
積極的に
ひとりで家の外を出歩くようになった。
望めばなんでも現れ、創れるこの場所。
どうやら本来
好奇心旺盛で活発
何事にも前向きな性格だった様子の彼女は
落ち込んだり、不安になって、記憶を探すよりも
せっかくならば、楽しんで記憶を取り戻したいと
見たかったものや
行ってみたかった場所を思い描き
色んなものを見聞きし、触れ合い
満喫しながら、記憶探しを実行中だ。
彼女の停留所は、朝、昼、夜と
日々、規則的に変化した。
彼女は朝方に外に出かけ
夕方頃に家へ帰ってくる。
そして、帰ってくると
真っ先に俺の所へやってきて
その日、あった出来事を報告してきた。
嬉しそうに、楽しそうに、無邪気に話す。
この場所にいる人間が
俺だけというのもあると思うけど
彼女はとにかく、俺を知りたがった。
俺がどんな性格で、どういう人なのか
ここでの生活や、出来事
今まで俺が出会った人達のこと
飽きることなく、毎日のように
質問を浴びせてきた。
俺の事を知ったって
何の面白味もないのに、話を聞きたがった。
それは、今日も変わらず。
「色んなものが見れて、行けるのに
管理人さんは楽しくないの?」
「感心したりはするけど
楽しいって感覚はないかな。」
「楽しくないの?なんで?」
「そういう感情が、思い出せないから。」
俺は俺自身に関する記憶がない。
喜怒哀楽の感情も、知識としてしか解らない。
管理人である俺は
ある程度、彼女達の影響を受ける。
同じ空間にいるから
彼女達の感情が流れ込んでくることがある。
楽しい、苦しい、痛い、嬉しい、寂しい。
だから、今流れ込んできてるこれは
こういうものかと
彼女達を見て、理解はできる。
けれど、それはあくまで彼女達のもの。
俺自身が感じているものじゃないから。
自分自身のそれを
生きていた時に感じていたそれを
心音や体温と同様に、はっきりと思い出せない。
「思い出せないんじゃなくて
そもそも、知らないのかもしれないね。」
生前の俺は
そういうものと無縁だったのかもしれない。
「じゃあ、私
来世は管理人さんのお嫁さんになってあげる。」
「うん?」
急に話が斜め上に飛んだ。
首を傾げる俺に
彼女はどこか誇らしげに胸を張り
ふふんと笑った。
「楽しいを知ってる私は
管理人さんより先輩だから!」
「そうなの?」
「そう!たくさん知ってるもん。」
「すごいね。」
「楽しいことも、嬉しいことも
いっぱいあるんだよ。」
「そっか。」
「ここのは全部つくりものだけど
今度は一緒に本物を見に行こう!」
「たくさん遊んで、色んなとこに行って
一緒なら、もっと楽しいよ」
「私が管理人さんを連れていってあげる。」
来世があるのが当然のように
わくわくしながら話す彼女。
なんの不安も恐怖も感じさせず
ただただ純粋に、期待に胸を踊らせている。
「そっか、ありがとう。楽しみにしてる」
適当な言葉で受け流す。
彼女だけなら、その未来は有り得るだろう。
けれど、俺には無理だ。
俺は自分の記憶も、感情も
思い出したいとは思わないから。
自分の行き先なんて
見えもしないし、想像もできない。
だから、このまま永遠に
ここで過ごしたって構わないと思ってる。
だけど
「約束。」
そう言って、差し出された左手の小指。
返した言葉を疑いもせず
嬉しそうに笑顔を浮かべてる彼女。
そんな彼女をじっと見つめる。
「うん。」
無邪気な笑顔と、純粋な好意を俺に向ける
そんな彼女の気持ちを、無下にはできなかった。
作り笑いを浮かべながら
守ることの出来ない約束を交わした。
***
「…………会いたい人がいたの。」
「ずっと探していた人が、いた。」
彼女がここへ来てから
どれだけの時間が経ったのか。
時間という概念がないこの場所では
正確には分からないけど
これまでの経験上、体感的に
彼女とは比較的
長い付き合いになっていたと思う。
トントン拍子に記憶を取り戻しては
急ブレーキで立ち止まり
それから、また、ゆっくり記憶を思い出す。
それを、何度も何度も繰り返して
ある日、彼女は
なんとも言えない表情を浮かべて
俺のところへやってきて、言った。
「会いたい人?家族?」
「ちがう。」
「親戚?友達?恩師?職場の人?」
「ちがう。」
「………思い出せないけど、でも
その人が私の『未練』。」
記憶以外に、彼女がここに留まり続ける理由。
「その人と『会いたい』?」
会いたい人が未練だと、彼女は言うが
死んでしまった以上
その誰かと会うことは叶わない。
会いたいと言われてしまえば
それは無理だと答える他ない。
彼女の気が済むまで、諦めがつくまで
納得できるまで、ここで過ごしてもらうしかない。
「……思い出したいし
思い出したら、会いたいと思う…と思う。」
「でも、それが無理なんだって解ってる。」
俺が説き伏せる必要はなかった。
彼女はさとい。
俺の言った言葉を、話したことを
ちゃんと理解して、覚えてる。
今の自分の現状
この場所がどういう場所なのか
もう全部、解ってる。
「思い出せたら、きっと、それで充分。」
「進める?」
「多分。」
縁側に座っていた俺は、立ち上がって
初めて会った時のように
どこか不安そうにうつむく彼女の頭を撫でる。
「なら、思い出さなきゃね。」
彼女は大丈夫だ。
これまでも
痛みも苦しみも
悲しみも怒りも
あたたかいものも、優しいものも。
幸福な記憶も
拒絶したくなるような記憶でさえ
全部、時間をかけて受け入れてきた。
その記憶がどんなものであれ
きっと、受け入れて進む。
「…うん。」
気持ちが伝わったのか
顔を上げた彼女は、小さく笑って頷いた。
***
月明かりのはっきりした夜
創りものの夜空を見上げ、ぽつりとつぶやく。
「……会いたい人か。」
よくある未練だ。
これまでも、幾度となく、その言葉を耳にした。
遺してきた家族が心配で逝けない。
どうしても会いたい。
顔を見たい。
話したい。
謝りたい。
お礼を言いたい。
「人」に関する未練は絶えない。
それが、執着だろうと
憎悪だろうと、愛着だろうと
それだけ、誰かに強い想いを抱けるのは
すごいことだと、からっぽの自分は思う。
「……」
……自分にも、そういう相手がいたのだろうか。
そんな風に想って、想われて
死んだのか。
「………今さら
興味を持ったって仕方ないのに。」
自殺するくらいなんだから
ろくな人生じゃなかったはずだ。
苦しいだけの、つまらない
何も成し得ない
何も残せない人生だったに違いない。
そんな相手はいない。
『そうじゃないかもしれない。』
………心の中で
あの日、彼女に返した自分の言葉が
反対の意味で、自分に返ってくる。
「………なんだかな。」
それに驚く。驚いて、苦笑を浮かべる。
長い長い時間
たくさんの人と出会って、別れて、見て、触れて
自分の中で、何かが変わってきたのか。
ずっと変わらないと思っていたものが
変わっていくような感覚が
予感がした。
***
翌日、すっかり落ち着いた様子の彼女は言った。
「多分ね、「今」の私が出会ったの。」
「その姿の時に出会った?」
「うん。7歳くらいかな。」
彼女はもう
大体の人生の記憶を取り戻していた。
生まれてから、死ぬまでの記憶。
彼女の享年は91
随分長生きしたそうだ。
生まれたのは、あの祖母の家。
18歳まで
都会で両親と妹と一緒に暮らし
就職を機に
祖母の家のある田舎町に越してきて
その田舎町で出会った人と結婚して
子供を産んで
苦しいこと、辛いこと、大変なことも
たくさんあったようだけど
それ以上に、幸せな日々を送って
眠るように、穏やかに亡くなった。
「なんか、不思議だね。
思い出して、解ってるけど
この姿のまま、中身もまだそうなのって。」
頭の片隅には
実年齢相応の知識と記憶を持った自分が
ちゃんといるものの
「今」の彼女を動かして
支配しているのは、7歳の頃の幼い自分。
多少、影響を受けて
使う言葉や話し方は、大人びてきているけど
感覚や感じ方は、そちらの方が強いようだ。
「人によって色々だよ。
きみの場合は、7歳の自分が感じたこと
見たもの、聞いたこと、在った出来事を
思い出したいって、強く思っているから
そうなってるんじゃないかな。」
「そっか。」
「何か思い出しそうなことない?」
「うーん…。」
***
ヒントがあるとすれば
この場所の景色だと彼女は言った。
ころころ変わる景色の中
あの家以外で唯一
変わらずこの場所に在り続けた景色。
「……出会ったのは、夏。」
しばらく無言で
じっとその場に立ち尽くしていた彼女は
ぽそりと、呟いた。
「その日は暑くて…
だから、みんなで川遊びしてた。」
欠けたピースを埋めるように
ぽつぽつと。
彼女がつぶやく度に、目の前の景色が動く。
容赦なく照り付ける夏の日差しのもと
涼しげな空気が肌を撫でた。
目の前に広がるのは、岩場の多い大きな河川。
足元から上ってくる、ひんやりとした感触。
そこを流れる水は冷たく、済んでいて
水中を泳ぐ生き物の姿を視認できるほど
透明度が高い。
「川遊びをしてる最中に出会ったの?」
「…ううん。」
彼女は首を横に振りながら
ゆっくりと前に進んでいく。
彼女が向かう先には、大きな岩場があって
岩と岩の隙間に、小さな麦わら帽子が挟まっていた。
「…………遊んでる途中で、帽子を落として……」
……?
そこで、俺は違和感を覚えた。
「岩の、……挟まった帽子を、取ろうとして…」
彼女の様子がおかしい。
ふらふら、どこか酩酊するように進み続ける。
「………そしたら、風が強く吹いて
下流に流されて……。」
まるで、今の自分と『その記憶』を繋げるように
その日を再現するように
流れていく帽子。
「………それで、慌てて、追いかけて。」
追いかけて
でも
流れていく帽子に、その手が届くことはなく
彼女はそのまま
とぷんと水中に姿を消した。
「……」
なにが起きたのか
状況を理解するのに時間がかかった。
彼女は風で飛ばされた帽子を追って
知らず知らずの内に
川の深い場所へ入り込んでしまったのだと
彼女が姿を消した付近は、川の流れも早く
つまり、彼女は
溺れて、そのまま下流に流されたのだ。
「……」
一瞬、慌てたものの
目の前にあるこの景色は、あくまで記憶
創りもの。
彼女が望めば、すぐに消え、別のものに変わる。
感覚や感触は
確かに記憶……当時のまま再現されるが
すでに死んでいる身、命の危険などない。
……なのに
「………なんで、消えない?」
その光景は変わることなく、目の前にある
彼女も姿を現さない。
………どうなってる?
彼女が、それを望んでるって言うのか?
………
「…………ああっ……くそっ!!!」
焦燥感に満ちた声が、自分の口から出た。
こんなに取り乱したのは
管理人になって、初めてかもしれない。
……考えたところで、現状は何も変わらない。
ただの記憶、創りものとは言え
感覚はある以上
溺れた彼女が、今、苦しんでいるのは確か。
なら、助けにいくしかない。
俺はそのまま川に飛び込み、彼女を探した。
「…」
あんなに暑かったのに、一気に体温が奪われる。
冷たいだけじゃない
流れが強くて、抗うのも難しい。
それでも、懸命に彼女を探す。
そんな中、ふと
今、自分が思ったことに、疑問を抱いた。
………冷たい?
管理人の俺は
この空間の、彼女達の影響を受ける
彼女達の感覚を、ある程度共有する。
だから、それを感じたからといって
なにも不思議なことはない。
さっきだって、日差しの暑さ
涼しげな空気を直に感じた。
俺は彼女の影響を受けているだけで…。
……。
…………………ちがう……。
そうじゃないことに気づく。
『これ』は
冷たさに、息苦しさに、のしかかる重圧に
痛いと、苦しいと、悲鳴を上げるこの体
この感覚は
紛れもなく
…………なんで。
自分自身の「それ」を
生きていた頃に、感じていたはずのものを
彼女みたいに覚えていない。
感じられなかったはずなのに。
………どうして…。
………!!
視界に彼女の姿を捉えた俺は
無理矢理思考を遮断して
嫌に重苦しい体を必死に動かし
激流に飲まれる彼女の手を掴み、引き寄せる。
そして、そのまま
最後の力を振り絞り、岸に向かった。
「っ……はぁ…はっ、……ごほ…っ!」
咳き込みながらも
なんとか荒い呼吸を落ち着かせ
腕の中で、ぐったりしている彼女を見下ろす。
…………落ち着け。
彼女も俺も、もう、死んでる。
この感覚は
彼女が生きていた時に味わったもの。
創りもの、まやかしだ。本物じゃない。
彼女がここで
これが原因でどうにかなることはない。
「……」
そう頭では理解していても
いざ、こうして
瀕死の状態の人間を目の当たりにすると
ぴくりともしないその姿を見ると
胸がざわついて
ないはずの心臓が嫌な音を立てる。
……さっきから、なんなんだ。
体は重くて、呼吸もままならなくて
視界はかすみ、頭もふらつく。
ざわざわと胸に広がる、この気持ちの悪い感覚。
不安か恐怖か、困惑か動揺か
あるいは、すべてか。
自分の体なのに言うことを聞かない。
自由に扱えない。
その感覚に、もどかしさと苛立ちが募る。
この場所に来てから、管理人になってから
こんなにも、自分の心に感情の波が立つことはなかった。
だって、俺は
自分自身の「それ」を、ずっと忘れていたから。
「………感情って
こんなに厄介なものだったっけな…。」
こんなにも重くて、面倒なものを抱えて
自分は生きていたのか。
溢した言葉に反応するように
ぐったりしていた彼女の目が開く。
「!……平気?」
「…」
まだ意識がぼんやりしているのか
彼女は、じっと俺を見つめて微動だにしない。
「きみ、溺れて、そのまま流されたんだよ
今はもう苦しくない?ちゃんと息できてる?」
「……」
俺が声をかけても
彼女は何も言葉を返さない。
ただただ黙って、俺を見つめてる。
混乱して
頭が真っ白になっているのかもしれない。
とりあえず、あの家に移動しようと
立ち上がろうとした瞬間
彼女の手がゆっくり伸びて、俺の顔に触れた。
素肌に直に触れる手の感触。
つけていた面が
いつの間にか外れていたことに気づく。
「………………た。」
小さく、彼女の唇が動く。
「え?」
「…………………やっと、見つけた。」
唇から溢れた言葉は
とても、とても嬉しそうで。
喜びと幸せを、噛み締めるように。
でも、瞳には涙が滲んでいて。
「ずっとずっと、あなたを探してた。」
「あなたに会いたかった。」
意識が混濁していて
俺に誰かの姿を重ねて見てる訳じゃなく
彼女は確かに「俺」を見ていた。
俺に向けて、言葉を放っていた。
「……………………きみは……………。」
…………知っている。
俺は、この子を
知っている。
「覚えてないのに?」
「言ったでしょ?
僅かな欠片を空間が拾い上げて
景色に投影してたりするって。」
「この家みたいに?」
「そう。」
彼女が目を覚まして
随分と落ち着いたみたいなので
この停留所を散策することを提案した。
ここでの過ごし方は自由だ。
感情のまま叫ぶも、動くも
留まるも、進むも、止まるも。
気が済むまで、本人の好きなようにさせる。
俺はただ、それを見守るだけ。
この子の場合、記憶を思い出さないと
先に進めないみたいだから
とりあえず、記憶を思い出すきっかけを探そうと思う。
「管理人さん。」
「なに?」
「管理人さんは、なんで猫のお面つけてるの?」
「なんでだろうね。目印みたいなものなのかな。」
あの謎の存在。
時々、語りかけてくるそれの
聞くところによれば
この境目には
ここと同じような空間があって
俺以外にも、たくさん管理人がいるみたいだから
あの謎の存在が、俺達を識別しやすいように
この面を与えているのかもしれない。
直接、命じられたわけじゃないけど
いつも気づいたら、そばにあったから
つけろってことかなと解釈して
いつからか、つけるようになった。
「管理人さんは、なんでここにいるの?」
「んー…罪滅ぼし?」
「つみほろぼし?」
「悪いことをしたから、ここで働いてる。」
「悪いことって?」
「自分で自分を殺しちゃったんだって。」
「……………そうなの。」
返す言葉に悩んだのか
彼女は困り果てた顔で、それだけ呟いて
しばらく黙り込んだ。
けど、気を取り直すように
また、俺に色々質問を浴びせてきた。
「管理人さんは何歳?」
「何歳なんだろうね。
でも、今のきみよりは大人だと思うよ。」
ぱっと見、自分は10代後半~20代前半の男。
この姿のまま、この中身のままが
本来の自分だと言うならの話だけど。
自分に関することは覚えてないけど
日常生活に必要な最低限の知識
一般教養は持ち合わせている。
博識ではないが、無知でもない。
ここを訪れる人達の世界を見ても
それが何か認識できるものも多いから。
「分からないの?」
「きみと同じだよ。俺も記憶喪失。」
「………おそろい?」
「そうだね。」
「管理人さんは思い出したくないの?記憶。」
「思い出せないなら、それでもいいかな。
自殺するくらいなんだから
ろくな人生じゃなかっただろうし。」
「………大事な人とか
大切なものがあったかもしれないのに?」
「そうじゃないかもしれない。」
あったとして、それを思い出したからといって
なんになるのか。
もう、自分は死んでいて
会うことも、話すことも、触れることも叶わない。
いくら焦がれようと
もう、それを手にすることはできないのだから。
何の意味もない。
むなしいだけだ。
「……って、俺は思うけど
そうじゃない人も、たくさん見てきたからなぁ。」
「?」
「こっちの話。」
記憶を取り戻して
生前味わった、痛みや苦しみを思い出して
でも、同時に
喜びや幸せも思い出して
泣きながら笑う人を見た。
大事なものを
それがあった人生を愛しいと、幸せだと
満ち足りた顔で話す人もいた。
もう2度と、会えなくても、話せなくても
その記憶があるだけで充分だと
大丈夫なんだと、進んだ人がいた。
色んな人間がいた。
「多分、きみもそうなんだと思うよ。」
「??」
「こっちの話。」
心の中と外での俺の独り言に
不思議そうに首を傾げる彼女。
そんな彼女の手を引いて、俺は歩いた。
「夏の記憶が多いね。夏が好きとか?」
「そういうわけじゃない……と思う。」
「思い入れのある季節って事かな。」
「うーん…」
停留所を歩き続ける。
ころころ変わる景色は
どれも夏の色が強く残る。
目に留まる植物、映す空の形、色、空気の匂い。
「………暑いけど、寒い…?」
「暑い日にアイス食べる、みたいな?」
「ううん、そうじゃなくて……」
「…………寒くて、苦しい……?」
変わる景色に連動するように
自分の中で、何かが反応するのか
彼女はぽつぽつ、抽象的な言葉を口にする。
その度、俺は答えに近付きそうな言葉を探す。
「夏風邪?」
「……うーん。」
…………
「……………おばあちゃんの家。」
「うん?」
「あの家、おばあちゃんの家!」
「思い出した?」
「ちょっと思い出した!」
ぱぁっと表情を輝かせる彼女。
「毎年、夏におばあちゃん家に遊びに行って…
これ、全部、おばあちゃん家で見た景色。」
「そう。」
「お父さんとお母さん、後、妹と一緒にね
お祭り行ったり、花火したり…。」
……記憶を思い出すの
意外と時間かからないかもしれないな。
ひとつ思い出す毎に
それに連なる記憶が蘇るようで
彼女は、夏の日の出来事をつらつらと話続ける。
「……楽しくて、でも………」
「?」
嬉しそうに話していた彼女の顔色が急に曇る。
「どうかした?」
「……………なんか、……………くるしい。」
胸を押さえて
そのまましゃがみこんでしまった彼女。
膝をついて、顔を覗き込めば、顔面蒼白。
「今日はここまでにしよう。」
どうやら、この夏の記憶は
彼女にとって、楽しいだけのものじゃないらしい。
彼女を抱き上げて
一旦、あの家へ戻ることにした。
***
「……」
あれから、彼女は眠ったまま。
……難儀だなぁ。
順調に記憶を取り戻しているかと思えば
急にブレーキがかかったように
記憶から遠ざかる。
いっぺんに思い出し過ぎて
魂に負荷がかかってしまうのか。
なにかしらの核心に迫る記憶だからなのか。
「きみは、どんな人生を歩んできたんだろうね。」
思い出しかけた記憶は
痛い記憶か、苦い記憶か、辛い記憶か。
なんにせよ
あまり、良いものでないのは確かなんだろう。
「……嫌な記憶だとしても、思い出したい?」
忘れ去りたいと願ったものであったとしても
きみは、思い出したい?
「……………うん」
ぼんやり景色を眺めながら
呟いた独り言に、返事があって
少し驚きながら
声のした方へ顔を向ければ
寝ぼけ眼の彼女が、布団に横になったまま
俺を見ていた。
「それでもいいの。思い出したい。」
「どうして?」
「痛いのも、苦しいのも
全部、私のものだから。」
「それがあったから
幸せを知ることができたから。」
そう口にする彼女の脳裏には
きっと、先程思い出した家族と過ごした時間が
流れているのだろう。
苦しみや悲しみ、怒りや痛み、寂しさ。
欲望、羨望、妬み、嫉み、憎しみ、怨み。
そういうものがなけれは
そういうものを知らなければ
不幸や絶望を知らなければ
幸福や希望は見いだせない。
切っても、切り離せないもの。
どちらもなくてはならない。必要なもの。
………ここを訪れた人は
みんな、似たようなことを言う。
「きみは強いね。」
頭では理解しても、頷ける部分はあっても
自分なら、そんなもの
死んでから、また味わいたいとは思わない。
痛い記憶なら
思い出さないままでいたいものだけど。
「へへ。」
称賛の言葉を向けられ
彼女は照れたように笑うと、また眠りについた。
***
最初の頃は、心細くて
俺の傍を離れなかった彼女だけれど
少しずつ、少しずつ、自分の記憶を思い出し
この場所に慣れてからは
積極的に
ひとりで家の外を出歩くようになった。
望めばなんでも現れ、創れるこの場所。
どうやら本来
好奇心旺盛で活発
何事にも前向きな性格だった様子の彼女は
落ち込んだり、不安になって、記憶を探すよりも
せっかくならば、楽しんで記憶を取り戻したいと
見たかったものや
行ってみたかった場所を思い描き
色んなものを見聞きし、触れ合い
満喫しながら、記憶探しを実行中だ。
彼女の停留所は、朝、昼、夜と
日々、規則的に変化した。
彼女は朝方に外に出かけ
夕方頃に家へ帰ってくる。
そして、帰ってくると
真っ先に俺の所へやってきて
その日、あった出来事を報告してきた。
嬉しそうに、楽しそうに、無邪気に話す。
この場所にいる人間が
俺だけというのもあると思うけど
彼女はとにかく、俺を知りたがった。
俺がどんな性格で、どういう人なのか
ここでの生活や、出来事
今まで俺が出会った人達のこと
飽きることなく、毎日のように
質問を浴びせてきた。
俺の事を知ったって
何の面白味もないのに、話を聞きたがった。
それは、今日も変わらず。
「色んなものが見れて、行けるのに
管理人さんは楽しくないの?」
「感心したりはするけど
楽しいって感覚はないかな。」
「楽しくないの?なんで?」
「そういう感情が、思い出せないから。」
俺は俺自身に関する記憶がない。
喜怒哀楽の感情も、知識としてしか解らない。
管理人である俺は
ある程度、彼女達の影響を受ける。
同じ空間にいるから
彼女達の感情が流れ込んでくることがある。
楽しい、苦しい、痛い、嬉しい、寂しい。
だから、今流れ込んできてるこれは
こういうものかと
彼女達を見て、理解はできる。
けれど、それはあくまで彼女達のもの。
俺自身が感じているものじゃないから。
自分自身のそれを
生きていた時に感じていたそれを
心音や体温と同様に、はっきりと思い出せない。
「思い出せないんじゃなくて
そもそも、知らないのかもしれないね。」
生前の俺は
そういうものと無縁だったのかもしれない。
「じゃあ、私
来世は管理人さんのお嫁さんになってあげる。」
「うん?」
急に話が斜め上に飛んだ。
首を傾げる俺に
彼女はどこか誇らしげに胸を張り
ふふんと笑った。
「楽しいを知ってる私は
管理人さんより先輩だから!」
「そうなの?」
「そう!たくさん知ってるもん。」
「すごいね。」
「楽しいことも、嬉しいことも
いっぱいあるんだよ。」
「そっか。」
「ここのは全部つくりものだけど
今度は一緒に本物を見に行こう!」
「たくさん遊んで、色んなとこに行って
一緒なら、もっと楽しいよ」
「私が管理人さんを連れていってあげる。」
来世があるのが当然のように
わくわくしながら話す彼女。
なんの不安も恐怖も感じさせず
ただただ純粋に、期待に胸を踊らせている。
「そっか、ありがとう。楽しみにしてる」
適当な言葉で受け流す。
彼女だけなら、その未来は有り得るだろう。
けれど、俺には無理だ。
俺は自分の記憶も、感情も
思い出したいとは思わないから。
自分の行き先なんて
見えもしないし、想像もできない。
だから、このまま永遠に
ここで過ごしたって構わないと思ってる。
だけど
「約束。」
そう言って、差し出された左手の小指。
返した言葉を疑いもせず
嬉しそうに笑顔を浮かべてる彼女。
そんな彼女をじっと見つめる。
「うん。」
無邪気な笑顔と、純粋な好意を俺に向ける
そんな彼女の気持ちを、無下にはできなかった。
作り笑いを浮かべながら
守ることの出来ない約束を交わした。
***
「…………会いたい人がいたの。」
「ずっと探していた人が、いた。」
彼女がここへ来てから
どれだけの時間が経ったのか。
時間という概念がないこの場所では
正確には分からないけど
これまでの経験上、体感的に
彼女とは比較的
長い付き合いになっていたと思う。
トントン拍子に記憶を取り戻しては
急ブレーキで立ち止まり
それから、また、ゆっくり記憶を思い出す。
それを、何度も何度も繰り返して
ある日、彼女は
なんとも言えない表情を浮かべて
俺のところへやってきて、言った。
「会いたい人?家族?」
「ちがう。」
「親戚?友達?恩師?職場の人?」
「ちがう。」
「………思い出せないけど、でも
その人が私の『未練』。」
記憶以外に、彼女がここに留まり続ける理由。
「その人と『会いたい』?」
会いたい人が未練だと、彼女は言うが
死んでしまった以上
その誰かと会うことは叶わない。
会いたいと言われてしまえば
それは無理だと答える他ない。
彼女の気が済むまで、諦めがつくまで
納得できるまで、ここで過ごしてもらうしかない。
「……思い出したいし
思い出したら、会いたいと思う…と思う。」
「でも、それが無理なんだって解ってる。」
俺が説き伏せる必要はなかった。
彼女はさとい。
俺の言った言葉を、話したことを
ちゃんと理解して、覚えてる。
今の自分の現状
この場所がどういう場所なのか
もう全部、解ってる。
「思い出せたら、きっと、それで充分。」
「進める?」
「多分。」
縁側に座っていた俺は、立ち上がって
初めて会った時のように
どこか不安そうにうつむく彼女の頭を撫でる。
「なら、思い出さなきゃね。」
彼女は大丈夫だ。
これまでも
痛みも苦しみも
悲しみも怒りも
あたたかいものも、優しいものも。
幸福な記憶も
拒絶したくなるような記憶でさえ
全部、時間をかけて受け入れてきた。
その記憶がどんなものであれ
きっと、受け入れて進む。
「…うん。」
気持ちが伝わったのか
顔を上げた彼女は、小さく笑って頷いた。
***
月明かりのはっきりした夜
創りものの夜空を見上げ、ぽつりとつぶやく。
「……会いたい人か。」
よくある未練だ。
これまでも、幾度となく、その言葉を耳にした。
遺してきた家族が心配で逝けない。
どうしても会いたい。
顔を見たい。
話したい。
謝りたい。
お礼を言いたい。
「人」に関する未練は絶えない。
それが、執着だろうと
憎悪だろうと、愛着だろうと
それだけ、誰かに強い想いを抱けるのは
すごいことだと、からっぽの自分は思う。
「……」
……自分にも、そういう相手がいたのだろうか。
そんな風に想って、想われて
死んだのか。
「………今さら
興味を持ったって仕方ないのに。」
自殺するくらいなんだから
ろくな人生じゃなかったはずだ。
苦しいだけの、つまらない
何も成し得ない
何も残せない人生だったに違いない。
そんな相手はいない。
『そうじゃないかもしれない。』
………心の中で
あの日、彼女に返した自分の言葉が
反対の意味で、自分に返ってくる。
「………なんだかな。」
それに驚く。驚いて、苦笑を浮かべる。
長い長い時間
たくさんの人と出会って、別れて、見て、触れて
自分の中で、何かが変わってきたのか。
ずっと変わらないと思っていたものが
変わっていくような感覚が
予感がした。
***
翌日、すっかり落ち着いた様子の彼女は言った。
「多分ね、「今」の私が出会ったの。」
「その姿の時に出会った?」
「うん。7歳くらいかな。」
彼女はもう
大体の人生の記憶を取り戻していた。
生まれてから、死ぬまでの記憶。
彼女の享年は91
随分長生きしたそうだ。
生まれたのは、あの祖母の家。
18歳まで
都会で両親と妹と一緒に暮らし
就職を機に
祖母の家のある田舎町に越してきて
その田舎町で出会った人と結婚して
子供を産んで
苦しいこと、辛いこと、大変なことも
たくさんあったようだけど
それ以上に、幸せな日々を送って
眠るように、穏やかに亡くなった。
「なんか、不思議だね。
思い出して、解ってるけど
この姿のまま、中身もまだそうなのって。」
頭の片隅には
実年齢相応の知識と記憶を持った自分が
ちゃんといるものの
「今」の彼女を動かして
支配しているのは、7歳の頃の幼い自分。
多少、影響を受けて
使う言葉や話し方は、大人びてきているけど
感覚や感じ方は、そちらの方が強いようだ。
「人によって色々だよ。
きみの場合は、7歳の自分が感じたこと
見たもの、聞いたこと、在った出来事を
思い出したいって、強く思っているから
そうなってるんじゃないかな。」
「そっか。」
「何か思い出しそうなことない?」
「うーん…。」
***
ヒントがあるとすれば
この場所の景色だと彼女は言った。
ころころ変わる景色の中
あの家以外で唯一
変わらずこの場所に在り続けた景色。
「……出会ったのは、夏。」
しばらく無言で
じっとその場に立ち尽くしていた彼女は
ぽそりと、呟いた。
「その日は暑くて…
だから、みんなで川遊びしてた。」
欠けたピースを埋めるように
ぽつぽつと。
彼女がつぶやく度に、目の前の景色が動く。
容赦なく照り付ける夏の日差しのもと
涼しげな空気が肌を撫でた。
目の前に広がるのは、岩場の多い大きな河川。
足元から上ってくる、ひんやりとした感触。
そこを流れる水は冷たく、済んでいて
水中を泳ぐ生き物の姿を視認できるほど
透明度が高い。
「川遊びをしてる最中に出会ったの?」
「…ううん。」
彼女は首を横に振りながら
ゆっくりと前に進んでいく。
彼女が向かう先には、大きな岩場があって
岩と岩の隙間に、小さな麦わら帽子が挟まっていた。
「…………遊んでる途中で、帽子を落として……」
……?
そこで、俺は違和感を覚えた。
「岩の、……挟まった帽子を、取ろうとして…」
彼女の様子がおかしい。
ふらふら、どこか酩酊するように進み続ける。
「………そしたら、風が強く吹いて
下流に流されて……。」
まるで、今の自分と『その記憶』を繋げるように
その日を再現するように
流れていく帽子。
「………それで、慌てて、追いかけて。」
追いかけて
でも
流れていく帽子に、その手が届くことはなく
彼女はそのまま
とぷんと水中に姿を消した。
「……」
なにが起きたのか
状況を理解するのに時間がかかった。
彼女は風で飛ばされた帽子を追って
知らず知らずの内に
川の深い場所へ入り込んでしまったのだと
彼女が姿を消した付近は、川の流れも早く
つまり、彼女は
溺れて、そのまま下流に流されたのだ。
「……」
一瞬、慌てたものの
目の前にあるこの景色は、あくまで記憶
創りもの。
彼女が望めば、すぐに消え、別のものに変わる。
感覚や感触は
確かに記憶……当時のまま再現されるが
すでに死んでいる身、命の危険などない。
……なのに
「………なんで、消えない?」
その光景は変わることなく、目の前にある
彼女も姿を現さない。
………どうなってる?
彼女が、それを望んでるって言うのか?
………
「…………ああっ……くそっ!!!」
焦燥感に満ちた声が、自分の口から出た。
こんなに取り乱したのは
管理人になって、初めてかもしれない。
……考えたところで、現状は何も変わらない。
ただの記憶、創りものとは言え
感覚はある以上
溺れた彼女が、今、苦しんでいるのは確か。
なら、助けにいくしかない。
俺はそのまま川に飛び込み、彼女を探した。
「…」
あんなに暑かったのに、一気に体温が奪われる。
冷たいだけじゃない
流れが強くて、抗うのも難しい。
それでも、懸命に彼女を探す。
そんな中、ふと
今、自分が思ったことに、疑問を抱いた。
………冷たい?
管理人の俺は
この空間の、彼女達の影響を受ける
彼女達の感覚を、ある程度共有する。
だから、それを感じたからといって
なにも不思議なことはない。
さっきだって、日差しの暑さ
涼しげな空気を直に感じた。
俺は彼女の影響を受けているだけで…。
……。
…………………ちがう……。
そうじゃないことに気づく。
『これ』は
冷たさに、息苦しさに、のしかかる重圧に
痛いと、苦しいと、悲鳴を上げるこの体
この感覚は
紛れもなく
…………なんで。
自分自身の「それ」を
生きていた頃に、感じていたはずのものを
彼女みたいに覚えていない。
感じられなかったはずなのに。
………どうして…。
………!!
視界に彼女の姿を捉えた俺は
無理矢理思考を遮断して
嫌に重苦しい体を必死に動かし
激流に飲まれる彼女の手を掴み、引き寄せる。
そして、そのまま
最後の力を振り絞り、岸に向かった。
「っ……はぁ…はっ、……ごほ…っ!」
咳き込みながらも
なんとか荒い呼吸を落ち着かせ
腕の中で、ぐったりしている彼女を見下ろす。
…………落ち着け。
彼女も俺も、もう、死んでる。
この感覚は
彼女が生きていた時に味わったもの。
創りもの、まやかしだ。本物じゃない。
彼女がここで
これが原因でどうにかなることはない。
「……」
そう頭では理解していても
いざ、こうして
瀕死の状態の人間を目の当たりにすると
ぴくりともしないその姿を見ると
胸がざわついて
ないはずの心臓が嫌な音を立てる。
……さっきから、なんなんだ。
体は重くて、呼吸もままならなくて
視界はかすみ、頭もふらつく。
ざわざわと胸に広がる、この気持ちの悪い感覚。
不安か恐怖か、困惑か動揺か
あるいは、すべてか。
自分の体なのに言うことを聞かない。
自由に扱えない。
その感覚に、もどかしさと苛立ちが募る。
この場所に来てから、管理人になってから
こんなにも、自分の心に感情の波が立つことはなかった。
だって、俺は
自分自身の「それ」を、ずっと忘れていたから。
「………感情って
こんなに厄介なものだったっけな…。」
こんなにも重くて、面倒なものを抱えて
自分は生きていたのか。
溢した言葉に反応するように
ぐったりしていた彼女の目が開く。
「!……平気?」
「…」
まだ意識がぼんやりしているのか
彼女は、じっと俺を見つめて微動だにしない。
「きみ、溺れて、そのまま流されたんだよ
今はもう苦しくない?ちゃんと息できてる?」
「……」
俺が声をかけても
彼女は何も言葉を返さない。
ただただ黙って、俺を見つめてる。
混乱して
頭が真っ白になっているのかもしれない。
とりあえず、あの家に移動しようと
立ち上がろうとした瞬間
彼女の手がゆっくり伸びて、俺の顔に触れた。
素肌に直に触れる手の感触。
つけていた面が
いつの間にか外れていたことに気づく。
「………………た。」
小さく、彼女の唇が動く。
「え?」
「…………………やっと、見つけた。」
唇から溢れた言葉は
とても、とても嬉しそうで。
喜びと幸せを、噛み締めるように。
でも、瞳には涙が滲んでいて。
「ずっとずっと、あなたを探してた。」
「あなたに会いたかった。」
意識が混濁していて
俺に誰かの姿を重ねて見てる訳じゃなく
彼女は確かに「俺」を見ていた。
俺に向けて、言葉を放っていた。
「……………………きみは……………。」
…………知っている。
俺は、この子を
知っている。
