世界が灰色に染まったのはいつからだろう。
 平穏な毎日がつまらなくて、堪らない。

 教室で騒ぐ同級生が羨ましいと思うようになったのは、いつからだろう。
 どうして理由もなくそんなに馬鹿騒ぎできるのだろうと、冷めた目で見つめてしまう日々。

 家では両親からの期待を一身に背負い、時々押し潰されそうになる。

 一番悲しいのは絵の具をキャンバスに乗せる時、なんの感情も動かないことだ。
 空も海も花も、全部描き方は知っている。
 知っているから、自然と手が動く。

 だけどそれは、手の運動をしているだけ。
 感情が動かなければ、なんの意味もない。

 意味のない絵を褒められると、俺の世界からまた一つ色が消えてゆく。
 無彩色の世界に待ち受ける終末は白か、黒か。
 明度のみに支配される世界は、息苦しくて酷く寂しい。

ーー誰でもいいから、俺のこんな日常をぶっ壊してくれないかな。

 羽瀬環(はせたまき)は今日も憂いを帯びた横顔で、部屋の窓から空を見上げている。
 鳥籠に閉じ込められたみたいに、彼は大人しく春の空を見つめているのだった。



 環は自分自身が恵まれていることを、きちんと理解している。
 優しい両親に育てられ、やりたいことをやりたいようにのびのびとして育ってきた。
 両親からの贈り物である容姿は特別整っており、いじめられたこともなければ、寧ろ周囲に甘やかされる日々を送ってきた。
 地毛は黒より明るい焦茶で、ふんわりと柔らかい髪質だ。まつ毛は影を落とすほど長く、二重はくっきりと平行に刻まれている。
 きゅっと高い鼻と形のいい唇。輪郭は綺麗な卵形で驚くほど顔が小さい。
 なのに手足は長く、身長は高校一年生の現在で一七五センチを超えた。

 当然、環は好意を寄せられやすい。
 本人が恋愛に興味がないことが逆に救いになるほど、告白する女子生徒は後を絶たない。
 その気になれば彼女を取っ替え引っ替えできる環だが、彼にとって恋愛はまだ『めんどくさい』という感想に収まるのだ。

 今日も放課後に同じ学年の女子から呼び出されたが断った環。
 雨が葉桜をしとしとと濡らす中、絵画教室にやってきた。

「環、今日も隣で描こうよ」

 幼い頃から通っている絵画教室で、いつも同級生の沢城(さわしろ)すみれが話しかけてくる。
 彼女は唯一気軽話せる異性だ。
 違う高校に通っているが、放課後は絵画教室に入り浸っているので彼女とはよく顔を合わせる。

「いいよ。すみれはなんの絵を描くの?」

 真っ白なキャンバスを前に、ありきたりな質問を投げた。

「今日はね、春の森の絵。最近植物描くのが楽しいんだ」
「そうなんだ、俺はまだなにも決まってない。最近全然テーマが浮かばなくて」
「じゃあ環は海にしなよ。私、環が描く海だいすきなの」

 制服の上からエプロンをかけ、すみれはもう描く準備万端だ。
 環もすみれの提案に、それでいいかと同じくエプロンをかけた。

ーー俺が描く海の、なにがいいんだろう。

 環の心の中に、またチリが一つ雪のように降って積もる。
 飲み込んだ言葉がどんどん積もっていき、いつか窒息してしまう気がする。
 仮にゆっくりと息絶えてしまう日が近づいていたとしても、環は描くことを辞められない。

 絵を描かない俺には、なんの価値もない。

 たとえ感情がなくなったとしても、絵だけが環の存在証明だ。
 環は絵の具をパレットに出しながら、昨日母親に言われた言葉を思い出す。

『藝大受験、どうする?』

 深いため息が溢れる。
 ぐしゃ、と筆で真っ白なキャンバスに、黄色の絵の具を乗せる。
 朝日が昇る海を描くことにした。
 最近油絵の具に変えたが、まだ環は慣れておらず描くスピードがぐんと落ちた。
 だが、彼にとっては作品が完成しないことは好都合だった。
 藝大受験を目指すことになれば、今通っている絵画教室はいずれやめなければならない。
 受験対策をしている予備校に通うことになるのだ。

 でも、俺、今の気持ちで通える?

 ぐしゃ、ぐしゃ、と雑に色を乗せ続ける。
 隣で描いているすみれが「大胆だね、さすが環」と褒めるが、環はむしゃくしゃしているだけだ。

 すみれは俺のことを過信しすぎなんだよなあ。

 彼女にバレないよう歯列の隙間からゆっくり息を吐いた。
 すみれの大きな瞳が光を含んで環を眺めるとき、彼はさらに気持ちが沈んでゆく。
 彼女に限ったことではない。
 絵画教室の先生、同じ学校の生徒たち、そして両親にも同じ瞳を向けられると心が錆びてゆく気がするのだ。

 みんなそんな目で俺のこと見ないでよ。
 こんな、俺のこと。

 気持ちが沈むと、そっと影が擦り寄ってくる気がする。音もなくぴったりとくっついてきて、簡単に環を飲み込んでしまう。

 応援してくれてるだけだ。こんなこと、思いたくないのにーー。

 環の瞳から光が失われようとしたとき、入り口付近から大きな音がした。
 がたんっと鳴り響き、キャンバスが落ちた音だと瞬時に理解してそちらを見る。
 続けてばらばらとアクリル絵の具が散らばり、
 ふんわりとした長い癖っ毛の少女が必死に拾い集めていた。
 環はすっと立ち上がり、絵の具を拾って彼女に渡す。

「はい、どうぞ」

 だが、彼女は申し訳なさそうに眉を下げて笑うだけだ。受け取る時でさえ、なにも話さない。
 講師が遅れて駆け寄ってきて、代わりに「ありがとうね、環くん」と述べた。

「‥‥なにあの子、環が拾ってくれてんのにお礼のひとつも言えないわけ?」

 普段より低い声ですみれがぼそりと呟く。
 彼女の反応とは裏腹に、環自身は不思議と不快な感情はない。
 どうして彼女は声を発しないのだろうと、興味関心のほうが強かった。

 講師が彼女を中心に立たせ、注目するように話す。

「今日からみんなと一緒に通う倉橋茉央(くらはしまお)さんです。彼女は難聴で、あまり音が聞こえません。補聴器はしているけれど、筆談でお話ししてあげてくださいね」

 さらりと茉央が髪の毛を耳にかけると、イヤホンのような見慣れない機器がはめられていた。

「‥‥そうか、あの子耳が聞こえないんだ」

 申し訳なさそうにはにかんだのも納得だ。
 話したくても話せないのだから仕方ない。
 すとんと、胸の中に理由が落ちて溶けた。

 ふと、彼女が描く絵が気になる。講師は彼女と接する時の注意事項をまだ話し続けているが、環は一度思考が深くなると周りの声が聞こえなくなることがある。

 彼女はどんな色を使って、どんな世界を表現するんだろう。

 昔から、環にはその人物が描く絵を予想する癖がある。
 容姿や発言、表情などからいくつかのヒントを基に勝手に想像するのだ。
 外れればそれはそれで面白いし、当たれば自分の審美眼が正しいと証明されて嬉しい。

 じっと茉央を見つめる環。
 茉央は肌が白く、薄いそばかすが浮かんでいる。
 目は大きいのに、鼻も口も小さく全体的に幼い印象だ。
 癖っ毛の髪の毛は焦茶色で、光が当たるとふんわりと明るく輝いている。
 制服ではなく私服を着ているため、中学生と高校生の見分けが出来ない。
 中学生くらいだろうなと考えていると、ばちっと茉央と目が合う。
 ふにゃりと彼女が微笑んだ。
 は、と目が覚めた気がした。
 茉央の描く絵は、まだイメージ出来ていない。

「ーーそれで、倉橋さんの席だけれど、今日は羽瀬くんの隣にします」
「え、」

 全く話を聞いていなかったので、思わず声が漏れてしまった。
 隣のすみれは不服そうに顔を歪めている。
 講師に環の隣に座るようにジェスチャーで指示され、おずおずと座る茉央。

 環はデッサン用のスケッチブックに大きく自分の名前を書いた。

『羽瀬環です。よろしくね』

 茉央に恐怖心を与えないよう、なるべく柔和な笑顔を心がける。
 彼女も同じくスケッチブックにさらさらと文字を書いてゆく。

『倉橋茉央です。高校一年生です。よろしくお願いします』

 最後に花のマークを描いて、恥ずかしそうに微笑んだ彼女。頬がほんのり桜色に染まっている。
 完全に中学生だと思っていたため、同い年だと知って驚く。

 茉央はキャンバスを取り出さず、そのままデッサンを始めた。
 どうやら今日は絵の具を使って描かないらしい。
 少し残念な気持ちで、環は引き続き自分の絵を描き進める。

 ぺたぺたと初めより穏やかな気持ちで描き進める環だが、茉央の集中力に目を見張る。
 何度茉央のほうを見ても、彼女はずっとスケッチブックに向き合っている。

「よそ見しすぎ」

 ちくりとすみれに横から釘を刺された。
 自分も人のこと言えないだろとは言わず、飲み込む。
 
「すみれ、今日はなんか絵が荒れてるね」
「最近、調子が悪いんだよね」

 その代わり絵の感想を述べ、茉央から気をそらす。
 すみれは抜群のデッサン力の持ち主だが、今日は上手く表現できていない気がした。
 彼女は考えていることが全て顔に出るタイプだ。
 苛立ちが眉と瞳にあらわれ、吊り上がっている。

「俺も最近調子良くない」
「環が調子良くないって、私とかどうしたらいいの」
「酷いな。俺だって生きてるんだから調子の良し悪しくらいあるよ」

 予備校と違い、この教室には緩い雰囲気感が漂っている。
 そのため基本的に雑談ありきで描いても、講師に怒られたりはしない。寧ろ学校外の人間とコミュケーションを楽しむ場でもあるのだ。
 だからこそ、一言も話さずに描き続ける茉央はこの教室の中でたった一人だけ異質な存在だ。
 ぽつんと、彼女だけが浮いて見える。

ーー話しかけたいけれど、邪魔もしたくない。

 誰かが隣に座って、気になるなんて初めてだった。
 ぽっと芽生えた関心に明確な名前はまだない。

 まだ、今は。



「じゃあね、また木曜日に」
「うん、また」

 あっという間に帰りの時間になり、先にすみれが帰り支度を終えて教室を出てゆく。
 環はわざとゆっくり帰る準備をした。
 荷物を全て鞄に詰めきる前に、スケッチブックにまた文字を書く。

『どうやって帰るの?』

 同じくらいゆっくり帰る準備をしていた茉央の肩をとんとんと優しく叩くと、柔らかい髪を揺らして振り返る。
 茉央は驚いた顔をして、しまったスケッチブックをリュックから取り出す。

『お母さんが迎えに来てくれるんです』

 急いで書いたからか少しぐちゃぐちゃな文字だ。
 茉央は続けてまたなにか書き足す。

『気にしてくれてありがとうございます』
「いや、俺はーー」

 思わず声が出て、はっと口を塞ぐ。
 茉央は小さな頭を横に振った。

『少しだけですが、口の動きで言葉もなんとなく分かります』
「そうなんだ。次は、いつ、来る?」

 はっきり発音して、ゆっくり区切りながら話す。
 茉央はスケッチブックのページをめくる。

『毎週、火曜日だけ来ます』

 環は週に三日、火曜と木曜、そして金曜の放課後に来ている。気が向けば土曜日も来ることもある。
 年齢関係なく生徒がいるため、日曜日と月曜日以外は教室が開いているのだ。
 だが、茉央は週に一度だけ通うと聞いて少しテンションが下がった。

「火曜日だけ‥‥」

 こくん、と茉央が頷く。
 そして彼女は帰る準備を終え『また来週会いましょう』と書き残し、教室を後にした。
 一人残った環に講師が話しかける。

「羽瀬くん、倉橋さんのこと気にかけてくれてありがとうね。これからも仲良くしてくれると先生も嬉しいわ」
「はい、来週も隣にしてください。絵のことも教えられるかもしれないし」
「そうね。羽瀬くんみたいに上手な子に教わったら、倉橋さんも楽しいと思う」

 上手。心に重たく抉り込んでくる言葉だ。
 上手とか下手とか、実力の差は確かに存在するのかもしれない。
 だが、上手=楽しいという考えは酷く安易で、表面的に聞こえた。

ーー褒められているのに、どうしてもこんなにも気分が曇ってしまうんだろう。

「楽しんでくれたら、俺も嬉しいです」

 にこ。
 環は、また作り笑いを浮かべてしまった。

 講師から逃げるように帰り、夕飯の際も両親との会話と早々に切り上げた。
 風呂とその他寝る前の準備を雑に済ませ、髪が乾ききらないまま布団に潜り込む。

 真っ暗な部屋の中を、カーテンの隙間から差し込む一縷の月明かりが照らしている。
 横になって寝転びながら、そっと手を伸ばし拳を握りしめた。

「あの子は、どんな絵を描くんだろう‥‥」

 ぱ、と手のひらを開いて、掛け布団の上を光の線に沿ってなぞる。
 目を閉じて、一匹の蝶が人差し指の先に止まる光景を思い浮かべる。
 羽は細かい粒子が輝きを放ち、動かすたびに粉が落ちて空気の中に消える。
 辺りは白と水色の花々が咲き誇り、晴れた日の心地よい花畑の中にいる錯覚に陥る。

 刹那、勢いよく起き上がり勉強机のライトをつけた。鞄から取り出したスケッチブックに、今思い浮かべた光景を勢いのまま色鉛筆を使って描いてゆく。

ーーこれが、今の俺の気持ちなんだ。

 青空を切り取ったような花畑の先で、白いワンピースを着た茉央が微笑んでいる気がした。

 どんな言葉を使えば、この気持ちを表せる?

 スケッチブックを眺めながら、ぼんやりと環は考え続ける。

 彼の思考と共に、夜は静かに深まっていった。



「環! なに黄昏てんだよ」

 次の日の放課後、環は珍しくホームルームの後も残って自分の机から窓の外を眺めていた。
すると、クラスでよく話す東山大樹(ひがしやまたいじゅ)が後ろから肩を叩く。

「大樹、うるさい声がでかい」
「あまりにも今日一日中なんかありましたって顔してたから、俺がみんなを代表して聞いてやってんの。女子たちがソワソワしてたの気がつかなかった?」
「はあ? なにそれ。別に普通でしたけど」
「ムキになるなよ。余計怪しいって」

 にやにやしながら大樹は環の前の席に座って、頬杖をつく。

「俺とお前の仲だろ」
「いつから俺らは同じ船に乗る仲間みたいなポジションになったんだよ」

 溜息をつくが、話さなければ帰してもらえなそうだ。
 環はなるべく声に感情を込めず、昨日の絵画教室での出来事を話す。

「へえ、耳の聞こえない子か。今まで話したことなかった? そういう子と」

 予想と裏腹に大樹はとても落ち着いている。
 もっと騒ぎ立てるかと思っていたので、環は思わず「驚かないのか」と溢した。

「同じ小学校にそういう子がいたんだ。一個下の男の子でさ。でも手話とか筆談で話すと意外と普通に話せるし、声じゃないからちゃんと言葉を選べて逆に思いやりを持って接することができたっていうのかな。とにかく、なんか俺って今こう思ってるんだって確認しながら話せて、新しい発見がいくつもあったよ」

 普段彼はクラスの中でも目立つ存在で、悪く言えば軽口を叩くタイプだ。
 大樹からこんなエピソードが溢れるとは全く予想していなかったので、環は圧倒されてなにも言葉が出てこない。

「あ、俺からこんな真面目な話出てきて驚いただろ〜」

 うえーいと指を刺しながら、茶化してくる大樹。
 普段の空気感に戻り、ようやく口を開けた。

「今ので台無しだけどね。でも正直驚いた。大樹はそういう子と関わらないタイプだと思ってたから」
「誰にだって意外な一面はあるもんだよ。寧ろ学校の顔なんて氷山の一角に過ぎないとさえ俺は思ってるね」

 大樹の話は的を得ている。
 実際、環も茉央のことを考えて花畑を描いたことは伏せておいたのだ。
 誰にも知られたくない一面なのだと、改めて自覚した。

「で、この話ってお前がその子のこと気になるって結論で合ってる?」

 むふ、と笑う彼。
 腹の立つ顔で大樹は鋭いところを突いてくる。
 彼のこういう勘のいいところは長所でもあるが、正直過ぎて時に短所だ。
 察していても、心の中で思っていて欲しい。

「‥‥お前のそういうところ、嫌い」
「大丈夫だって、女子たちには言わないからさ。我が一年三組のプリンス様は単に調子が悪かっただけだって伝えておくよ」
「ところどころ聞き捨てならないけど、まあそれで頼む。まじで誰にも言うなよ」
「はいはい。環王子は今日も秘密主義者ですねえ」
「ついでに俺のことを王子だの推しだのって、よく分からない理由で好いてる人たちにも嫌がってたって垂れ流してくれると助かるんだけど」
「それは俺の仕事じゃないんで。お前がそんな綺麗な顔して、尚且つ絵もすげえ上手くて、おまけに口数が少なくてミステリアスなのが悪いね。窓際の席で本読んでるだけで、芸術品とか言われる人生に感謝しろ」

 うげえ、と顔を歪める大樹。
 環はわざと聞こえるように溜息を付く。

「芸術品って。ただの男子高校生なんですけどって言いたいよ」
「言えばいいじゃん。環が沈黙を貫くから、騒ぎが大きくなるんだよ。あと、お前他校の彼女がいるんじゃないかって最近騒がれてるぞ」
「は?」

 全くの初耳だ。他校の彼女どころか、環はまだ誰とも付き合ったことがない。

「桜ヶ丘高校に、すげえ可愛い知り合いいたりする? 少し気強そうな」
「あー、すぐに誰か分かった。同じ絵画教室に通ってるけどすみれとは付き合ってないし、そういう目で見たこともない」

 おおかた、誰かにすみれと駅まで一緒に帰っているところを見られたりしたのだろう。
 彼女は昔から距離が近く、何度か同じように誤解されたことがある。

「すみれちゃんって言うんだ。名前まで可愛いじゃん。写真とか持ってねえの?」
「あるけど‥‥噂がデマだって流してくれるなら、見せてやってもいい」
「わーったよ。どうせいつも女子に聞かれるのは俺なんだ。なぜかみんなお前には直接聞かない」
「まあ俺も、大樹からこうして噂を聞いてるし人のこと言えないんだけどな。はい、これがすみれ」

 カメラロールに入っている適当な写真を選んで見せた。
 絵のモデルを頼んだ時の写真で、すみれはふんわりとした淡紫色のワンピースを着ている。

「うわ、可愛いとは聞いてたけど、本当にめっちゃ可愛いじゃん。アイドルみたいだな」
「よく分かんないけど、告白されたとか結構聞くからモテるんじゃないか」
「どう見たってこの子はモテるだろ。しかも桜ヶ丘だから頭も良いってハイスペすぎるな。ちくしょう、顔もスタイルも良くて、才能もあるのに、なんで可愛い他校の知り合いまでいるんだよ。不公平だ」
「すみれのこと紹介して欲しかったらいつでもするけど」

 スマホを制服のポケットにしまいながら、何気なく発言すると大樹が「なにいってんだ」と言いたげな顔で見つめてくる。

「え、なに?」 
「いや、今の発言はさすがに引くわって思って。環ってさ、すみれちゃんの気持ち考えたことあんの?」
「すみれの、気持ち‥‥?」

 いまいち大樹の考えていることが分からず、環は口をへの字に曲げる。
 すみれの考えていることなんて、全て顔に書いてあるのだから分からないはずがない。
 じっくり考えなくとも、手に取るように彼女の思考はいつも把握しているつもりだ。

「別に怒ってるのか喜んでるとか、すみれは分かりやすいけど」
「じゃあさっきの写真は? どういう感情だと思う?」

 さっきの写真とは、ワンピースを着ているすみれの写真だ。
 絵画教室にたまたま私服で来た際に、布の質感や影の入り方を勉強したくて撮らせてもらった。
 環からすればただの参考写真に見える。

「どうって、モデルを頼まれて恥ずかしがってるくらいしか思わないけど」
「ああ〜もう! そもそもさ、習い事にこんな気合の入った服装で普通来ないだろ!」

 がたん、と音を立てて大樹が立ち上がる。
 オレンジ色の夕陽が彼を照らしていだ。

「好きな人のためにおしゃれしてきて、写真のモデル頼まれて恥ずかしいけど嬉しい写真! だよ!」
「は?」

 ぽかん、と間抜けだが口が大きく開いて塞がらない。

「だから、どう見たってその子はお前のこと好きなの!」

 ビシッと大樹に指を指される。
 鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。

「すみれが俺のこと、好き‥‥?」



「ねえ、なんで最近そんなに見つめてくるの」

 大樹にすみれのことを指摘されてから、いつも彼女のことが頭の片隅にある。
 無意識のうちに、すみれを観察してしまっていたらしい。

 茉央と初めて会ってからちょうど一週間が経った火曜日。教室に着いて早々、すみれに突っ込まれた。
 彼女の大きな瞳には、焦り含んだ己の表情が映っている。

「‥‥なんか、学校ですみれと付き合ってるんじゃないかって噂されてるんだよね」
「‥‥へ?」

 ぽろりと道具の入っている鞄をすみれが落とす。
 唖然としている彼女の代わりに、環が拾った。
 白い肌がチークを濃く乗せたように染まっている。頬だけでなく耳まで真っ赤だ。

「俺もびっくりした」
「いや、えっと、それで環は? な、なんて答えたの?」
「ちゃんと否定したよ。だから安心してーー」

 鞄を渡そうとすると、すみれの頬を一筋の涙が伝う。

「す、すみれ」
「ごめん、今日は帰る」

 乱暴に鞄を受け取り、そのまますみれは扉のほうに駆け足で向かっていく。
 講師もなにがあったのかと、心配の表情で環を見た。

「喧嘩でもしたの? 大丈夫?」
「いえ、喧嘩ではないんですけど‥‥」

 環も鈍いだけではない。
 すみれの反応を見て、大樹から聞いた噂が真実であることを確信した。
 だからといって、環は彼女を追いかけられない。

 腹の中に黒いもやもやが溜まってゆく。
 傷つけるつもりなんてなかった。
 環なりに誠実に接したつもりが、裏目に出てしまったのだ。
 だが、謝るのもおかしい気がする。
 謝ればすみれを余計傷つけるのは明白だ。
 いらいらしながら描きかけのキャンバスを取り出し、席に着いた。

 ぐるぐると負の感情が巡る中、遅れて茉央がやってきた。
 環は彼女の到着に気づくのが遅れ、隣まで来てようやく気がついた。

 彼女は環の顔を見てすぐにスケッチブックを取り出す。

『なにかありましたか? 悲しいって顔をしてます』

 喉の奥が焼けるように熱くなり、つんと鼻の先が痛んだ。もう少し言葉を重ねられれば、涙の防波堤が決壊してしまいそうだ。

『ちょっと色々あって。でも大丈夫。ありがとう』

 すぐに返事を書いて、曖昧に笑う。
 すると茉央は慌てて椅子に座り、先ほどより大きな文字を書いている。
 書き終わると、勢いよく両手でスケッチブックを環に見せつけた。

「今から、私の感情を描きます‥‥?」

 ぶんぶん頭を縦に振る茉央。
 そして今日は水を用意し、キャンバスを立てた。
 さらさらと鉛筆で軽く下書きしてから、数色の絵の具をパレットに思い切りよく出してゆく。
 環は出来ることならずっと眺めていたいが、まだ作品が描き終わっていないので一旦自分の絵に集中することにする。
 途中で見たら、勿体無い気がしたのだ。

 茉央は身長も低く、手足も細いが大胆に色を乗せてゆく。彼女の動きには迷いがなかった。
 歓談の声で溢れる中、茉央はまた一人真剣な表情で絵を描いている。
 キャンバスの上を筆が走り、擦れる音が心地いい。

 環も負けてられないと、普段よりスピードを上げて描いてゆく。
 朝の海は、風が冷たくてどこか寂しい空気が漂っている。
 暗い夜が明けたばかりの空には、まだ月と星が滲んでいて夜の残り香のようなものを感じるのだ。
 辺りは明るくなっていくのに、自分だけひとり取り残されたような景色。
 それは正しく、茉央と出会う前の環そのものだった。だから海を描く時、朝を選んだ。
 本当は取り残されたくない。
 環を褒める周囲と同じように、気分を晴らしたい。
 難しくないように思えるそれが、環にとっては大きな壁だった。

ーーこの絵が完成したら、誰にも見られないところで破壊しよう。

 現状を描き、自らの手で壊す。
 環にとって大きな意味のある行為だ。
 茉央を想って描いた絵の空は、澄んでいた。
 今の自分は、夜明けの海じゃない。

 早く完成させたくて夢中になって描いていると、茉央に肩を突かれた。

「ごめん、もう完成ーー」

 彼女のキャンバスを見て、環は持っていた筆を床に落とす。
 もう完成した? と聞こうとした声は途切れた。
 周りの声が消え、一瞬だけ無音の世界に飛ばされる。

 澄んだ空をそのまま切り取ったかのように、大きな湖に反射している。
 湖畔の周りには抽象的な白と青、そして水色を中心に使った花畑が描かれていた。
 どこまでも青く、白く、澄んだ世界。
 遠くには雪の積もった山脈のような景色が広がり、それぞれの色の花びらが舞っている。
 クロード・モネを代表とする、印象派のエッセンスが入り混じっている絵だ。
 多分こうだろうな、という解釈の余地があっておもしろい。

『悩んだときは、思考をクリアに、です』

 スケッチブックを持った茉央がにっこり笑う。
 環は、初めて本当の意味で他人と通じ合えた気がした。

 君には、俺の思考が透けているのかなあ。

 シャツの袖で雑に顔を拭う。
 そして、環もスケッチブックに思いの丈をぶつけた。

『連絡先交換したい。今すぐには感想を伝えきれないんだ』

 ぽ、と茉央の頬が染まる。
 いそいそとリュックから水色のスマホを取り出し、メッセージアプリのQRコードを表示してくれた。
 環も慣れない手つきで読み込む。
 普段連絡先など滅多に交換しないため、自分から交換したいと言っておいて焦ってしまった。

 緩い犬のスタンプで『こんにちは』と送る。
 すると茉央からもスタンプが送られてきた。
 渋い顔の猫で、思わず笑ってしまう。 

『ねえ、茉央って呼んでもいい? あと同い年だから敬語もやめてほしいな』

 椅子に座り直して、筆を拾う。
 すると半径一メートル以内にいる彼女から返信が来る。

『わかった。うん、茉央で大丈夫だよ』

 じわじわと心の中にあたたかいなにかが滲む。
 それは真新しい水の中に、使った筆を初めて入れた時のようにじんわりと広がっていく。
 環の無彩色の世界に、水色と青が加わった。

 環くんという慣れてない呼ばれ方は、こそばゆいが決して悪くない。
 悪くないどころか、彼女になら何度だって呼ばれたいとすら思う。

『今日帰ったら、見て欲しい絵があるんだ。きっとすごく驚くと思う』
『楽しみ。今私が描いた絵の感想も、そのとき伝えてくれる?』
『うん。約束する』

 環は約束が苦手だ。
 先であればあるほど義務に感じ、しなければよかったと後悔する。
 何度も繰り返して後悔の可能性など露も考えず、ぱっとしてしまった。
 茉央の前では思考よりも先に体が動いてしまうらしい。 

『ありがとう、待ってるね』

 一枚描き終えた茉央は講師に絵を見せ、なにやら講評をしてもらっている。
 環はもう集中出来ずさっと片付けて彼女たちの横を通り過ぎ、風のように帰った。

 夕飯を作っていた母親に「今日は早かったのね」と驚かれる。
 カレーの香りが鼻腔を満たした。すぐに完食できるメニューだ。都合がいい。

「先週入ってきた子が描いた絵を見たら、俺もまたアクリルで描きたくなったんだ」
「環が嬉しそうに誰かの話をするの、久しぶりに聞いたわ」

 鍋を大きくかき混ぜながら、母親は柔らかい声で話す。
「どんな子なの?」と聞かれ、環は反射的に答えた。

「俺が求めてた世界を描ける子だよ」
「環の求める世界?」

 興奮気味に茉央のことを語る環。
 母はコンロの火を止め、環のほうを向いた。

「うん。初めて自分以外の絵で、自分の思い描いた世界を見たんだ。感激を受けたよ」
「それってどんな世界なの? 母さんにも見せて欲しいな」
「いつかね。でも今はまだ恥ずかしいから、もっと大人になったらいいよ」
「楽しみにしてるわね」

 最近は、思春期の影響で母との会話を避けていた。
 久しぶりに面と向かって話せて、母親は目に見えてご機嫌だ。
 環自身も気分良く、さっと風呂を済ませてゆっくり夕飯を食べた。

 部屋に戻ると色鉛筆で描いた絵の写真を撮り、茉央に送る。
 すぐに既読がついた。

『これ、いつ描いたの?』

 家に帰ってきてから、描いたと思われているのだろう。
 環は茉央の反応を想像して『先週の火曜日だよ』と送った。

『本当に? 信じられない。今日描いた私の絵と似てるね』
『うん、だから俺もびっくりした。きっと俺たち思考が似てるんだ』
『そうなのかな。環くんはすごく絵が上手くて、全然私と違うように思うよ』

 黒い絵の具で、真っ白なキャンバスに一本の線が引かれたような寂しさだ。
 明確に線引きされ、環は意図せず凹んでしまう。

『茉央まで俺のこと特別扱いしないでよ。俺はただ、みんなより少しだけ絵を描いてる時間が長いだけだ。

それに、俺は茉央の絵、すごく好きだな。
曖昧で見ている側に思考の余地を与えてれる、自由で優しい絵だって感じたよ』
『そうやって謙遜するから、憧れが肥大していくんだね』

 誰のとは言わない茉央。だが、彼女はきっと誰かに当てはめている気がした。

『今日さ、すみれのこと泣かしちゃったんだよね』
『やっぱり環くんとなにかあったんだね。階段ですれ違った時、泣いてるの見ちゃった』
『学校ですみれと付き合ってるって噂が流れてるんだ。でも否定したって伝えたら泣いちゃってさ』

 文字を打ってるだけなのに、肩が重くて気分もどんどん下がってゆく。
 泣かせたことへの罪悪感と、どうしようもないやるせなさが相まる。

『環くんは沢城さんのこと好きじゃないの?』
『好きじゃない、と思う。そもそも恋がよく分からない。すみれだって俺のことは、宝石とかすごく好きな絵とか、綺麗な洋服と同じように捉えてると思うんだ』
『どうして?』

 ふと、中学生の頃の記憶が蘇る。
 いつも通り絵を描きながら話していた時、何気なくすみれに言われた言葉が今もなお胸に刺さっている。

『昔すみれに言われたんだ。「私にとって美しいものを好きになるのは、呼吸することと一緒なんだよね」って』

 当時はふうんと流していたが、今になって環自身も含まれていたのだと気がついた。
 すみれが自分を好きになるのが当たり前でも、環はそうではない。
 彼にとって彼女は、どこまで行っても友人でしかないのだ。

『すみれの恋心は歪すぎる』

 短い文章に全てが込められていた。
 環は彼女の歪みを受け入れられない。

『そうかなあ。誰にも文句を言われない、真っ当な恋のほうが珍しいと思う。私は、歪で盲目なのが恋の本質だと思ってるよ』

 既読がついてから少し間があいて送られてきた。

「恋の、本質」

 本質なんて考えたこともなかったが、言われてみればその通りな気がする。
 決して他人に流されやすいわけではない環が、茉央の言葉にはどうしてかすんなり納得してしまうのだ。

『茉央は、誰かをすごく好きになったことがある?』

 脈絡を無視して、最短距離の質問を投げかける。
 返信は一瞬で送られてきた。

『うん、あるよ。でも、その人は私が中学生の時に結婚しちゃったんだ』

 文字では淡々としているが、一体どんな気持ちで送ってきているのだろう。
 声色の乗らないメッセージでは、彼女の情報は得れても本当の感情までは辿り着けない。

 環は既読をつけたままスマホを閉じ、また色鉛筆を手に取った。
 一瞬も迷わず、夜の海に浮かぶ月の道を描く。

 満月が作るその道を見ると、環はすっと心が軽くなるのだ。
 暗闇の中に浮かぶ、希望の道。
 辺りは暗いのに、どこか安心する景色だ。

 完成するとすぐに茉央に送る。

『ありがとう。本当に大好きだったからすごく傷ついてたんだけど、この絵を見たら少し心が軽くなったよ』

 ぽん、と茉央からもシンプルな絵が送り返された。
 鉛筆で描いた、ふにゃふにゃした花だ。
 なんとなくマーガレットのように見える。

 環はベッドに寝転がり、そっと目を閉じた。
 脳内で、彼女の描いた花が風に吹かれて揺られていた。


 
 すみれに会ったら、第一声はなんて言おう。

 木曜日。環は少し緊張しながら教室を訪れた。先に来ていた彼女はいつもの席に座って準備している。

「来るの遅かったね」

 にっこり微笑んで、なにもなかったかのように振る舞うすみれ。

「日直で遅れたんだ。えっと、この前のさ」
「ああ、急に泣いてごめんね。最近勉強が忙しくて疲れてたみたい。だからもう気にしないで」

 これ以上話すことはないと、笑顔で壁を作られる。環は空気を読んで会話を切り上げた。

 ほとんど完成したキャンバスを取り出し、準備していると茉央がやってきた。
 目があって、アイコンタクトする。
 茉央はスマホを取り出した。

『仲直りできたのかな?』
『多分。気にしないでって言われた』

 彼女は頷いて今日は遠くの席に座った。
 隣じゃないのか、とほんのり落胆する。

「突っ立ってないで、早く完成させなよ」
「え? あ、うん。そうだね」

 棘のある言い方だ。すみれは何故かまた機嫌を損ねている。
 だが、作品の完成間際ということで今日は雑談せず絵に向き合った。
 ちらりと茉央のほうを見ると、隣に座った中学生の男の子となにやら筆談している。
 ぐしゃ、と筆に力が入った。

 なんの話してるんだろう。 
 じりじりと焦げるような感情が胸に広がる。
 なにこれ、知らない。

 環は茉央から目を逸らして、作品に向き合う。
 隣のすみれから「顔怖いよ」と指摘された。 
 小言も普段通りで、調子が狂う。
 正直、すみれはもっと気にしていると思っていたが所詮その程度の気持ちだったのだろう。 

「完成間際で疲れてきてるんだよ」
「普段顔に出ないのに珍しいね」

 繊細なタッチで、ハイライトを入れる。
 白い絵の具の細い線が何本も入ると、水面がきらめき出した。

「環の仕上げ見てるの大好き。絵に命が吹き込まれるってこういうことなんだって、いつも感動する」

 すみれは高揚した様子で話す。
 まさかやっと完成させておいて、この絵を破壊するとは微塵も思ってもいないのだろう。
 彼女どころか、環以外は全員考えつかない結末だ。
 早く壊したくて筆を動かすスピードが上がり、口角もつられる。

「我ながらいい絵になった気がするよ」

 空に浮かぶ雲の陰影、海面の動き、光の散らばりも上出来だ。
 壊すには少しもったいないくらいの出来で、だからこそ環は破壊衝動が抑えられない。
 一番の出来を壊した時、一歩先へ踏み出せる気がするのだ。

 最後の一筆を入れ、明け方の海は完成した。

「‥‥すごい、今まで見たどの絵よりもリアルだね」

 すみれが褒めると、講師も寄ってきて絶賛する。

「さすがね。今度のコンクールに出したら間違いなく入賞出来るクオリティだわ。羽瀬くんさえよければ、どうかしら?」

 恐らく講師が思い浮かべる環は、微笑み了承している。
 だが、現実の彼は違う意味でほくそ笑んでいた。

「いえ、この絵は家で保管しようと思います」
「そんな、もったいないわ」

 残念そうに講師は絵を眺める。
 環は「すみません。でも次はコンクールに向けて、もっと上手く描きます」と作り笑いを浮かべた。

「まだ、これじゃ満足できないんです」

 とんだ茶番だ。嘘で溢れている。
 だが、どんどん体が軽くなり、すらすら言葉が出てきて止まらない。

「もっと、誰かに希望を与えられる絵が描きたいんです」

 誰かって誰だろう。
 希望って、なんだろう。
 自分の言葉なのに、自分が一番理解できない。

「そうなのね。期待してるわ」

 するりと講師が環の肩を撫でた。
 完全に彼の言葉を信じきっている。
 すみれも環に盲目的な尊敬を向けていた。

「綺麗な人が描く絵は、やっぱり綺麗だね」 

 行き過ぎた美しさへの信仰は、環をすり抜けてすみれ自身の理想へ一直線だ。
 彼女が作り上げた環に話しているように、うっとりとしている。

 俺も含めて、なんて気持ち悪いんだろう。

 環は帰る準備を済ませ、まだ乾ききっていないキャンバスを持つ。

「今日は帰るの早いね」
「うん、疲れちゃった」
「そう。ゆっくり休んでね」

 熱の籠ったすみれの瞳が弧を描いた。
 すっと茉央の隣を通り過ぎると、なぜか彼女は悲しそうな顔をしている。

 不思議に思いながらも、環は颯爽と歩き出した。
 気分が良くて、好きな歌を口ずさみながら帰る。

 夕飯の時に出来た絵を両親に見せてから、こっそりと部屋の中でキャンバスを破壊することにした。
 枠から釘を全て抜き、ペロンと布を剥がす。
 そして、ハサミで切り込みを入れたところから思い切りよくビリビリ破いてゆく。

 今日完成したばかりの絵は、過去最高作だった。
 それを今、自らの手で葬っている。
 脳が痺れるような感覚がする。最高に心地が良い。

「はは、なんだろう、これ。初めての感覚だ」

 自分でもおかしいと自覚している。
 絵を愛していながら、作品を壊すことに快楽を覚えるなんて歪んでいる。

ーー歪で、盲目なのが恋の本質だと思っているよ。

 頭の中で茉央の言葉が繰り返される。
 たった今、環は恋を自覚した。
 こんなに歪で公に出来ない感情は、きっと恋だ。

 限界まで破くと、足元にキャンバス布が散らばっている様子が新雪に似ているなあと感じた。
 そして、訳もわからないままぽろりと涙が溢れる。

 今度は自分で破いておいて悲しいのだ。
 ジェットコースターのように揺れ動く感情は、環にも制御出来ない。
 本当は破く前に分かって欲しかった。
 息苦しさを誰かに理解してほしい。
 才能があるからと、幾つもの線が彼の前に引かれる。
 特別扱いしないで。褒めないで。
 ただ俺は、普通に接して欲しいだけなのに。

 誰も俺の気持ちは分かってくれない。
 ずっと俺は、一人ぼっちみたいだ。

 孤独感が環の中で弾けて暴れ回る。
 涙は次第に粒が大きくなり、ぼろぼろこぼれてゆく。
 その場にしゃがみ込み、背中を子供のように丸めて泣く環。

 絵を辞めたら自分に価値はない。

 だが環を孤独に追い込むのも、彼が持つ絵の才能だった。
 恵まれているのに手放しで喜べないのは、想像以上に苦しくて寂しい。

 助けて、誰か。
 誰でもいいから。

 息が出来ないほど喉の奥が熱くて痛い。
 は、と大きく息を吐いた瞬間、スマホが震えた。

『環くん、大丈夫?』

 たったそれだけ、茉央は送ってきた。
 スタンプも絵文字もない、シンプルで短いそれは最短距離で環の心に届いた。

『大丈夫じゃない』

 ついに零してしまった本音は、いわば逆さにした瓶のコルクだ。
 ぼろぼろと溢れて止まらない。

『絵を褒められる度、苦しい。悲しい。変わりたいのに、こんな自分は嫌なのに、どうしたらいいか分からないんだ』

 茉央の返事も待たず、環は文字をつらつらと並べてゆく。
 彼が打ち終わるまで、彼女はなにも送ってこない。

『世界が灰色で、寂しいよ。絵が大好きなのに、絵を描くごとに俺は孤独になる。でも絵を辞めた俺に価値なんかない。だから描くしかない。苦しくても、辛くても、描くしかないのに。

描けば描くほど、みんなが離れていく気がするんだ』

 涙で滲んでついに画面が見えない。嗚咽混じりに泣き出し、息が苦しい。

 すると、茉央は一枚の写真を送ってきた。
 それは、中学生の頃出した市で行われるコンクールの絵だった。
 今見ると、技術も構図も稚拙だ。
 だが、あの頃環は夢中になって描いていた。
 海を描くのが好きで、海上花火の様子を描いたら入選した。
 次の年に最優秀賞に選ばれ、その次の年はもう出さなくなった。
 数多く入選している環にとって、薄れていた記憶の絵だ。

 なぜ茉央が環の絵の写真を持っているのだろう。

『私ね、実は環くんのこと前から知ってたんだ。この絵を初めて見た時から、名前が頭に残っててずっとどんな人か会ってみたかった。
環くんの描く絵はとてもリアルで躍動感があるけれど、必ず寂しさみたいなものが漂っている気がしたの。だから、他のコンクールでも環くんの絵を見るたび、あなたのことが気になってたんだ。
絵画教室が同じになったのはたまたまだけど、名前を聞く前に顔を見てすぐに環くんだって分かった。

私は、順風満帆に思える環くんの寂しさの正体が、ずっと知りたかった』

 どくん。心臓が大きく跳ねた。
 涙が止まり手が震える。

 茉央が、俺のことを知ってた‥‥?

 明かされた事実は、全く予想外だ。
 見えない位置から矢が飛んできたような衝撃に、しばらく環は動けなかった。

『昔から、絵を見てその人がどんな人か思い浮かべる癖があるの。でも環くんの絵からはどんな人か思い浮かべずらくて、だから気になってたんだ。ごめんね、気持ち悪いよね』

 文字を打つロスタイムがもどかしい。
 彼女と会話できるなら、今すぐにでも電話をかけて否定するのに。

『俺も似たような癖があるんだ。その人を見てどんな絵を描くか想像する。だけど、俺も初めて茉央を見た時、上手く思い描けなかった。茉央の絵が、すごく気になってた。 

やっぱり俺らは似たもの同士なんだよ』

 彼女なら抱えている孤独を理解してくれるような気がした。

『私ね、ほとんど音のない世界で生きているから、どんなに賑やかな場所にいてもずっと一人ぼっちなの。
みんなは楽しそうな笑っているけれど、私はその理由が分からない。声が届かないって、すごく悲しくて、寂しいんだ。

でも、絵なら声が聞こえなくても感情が伝わる。喜びも、悲しみも、それぞれ色があって違う線になる。
環くん、たくさん絵を描いて感情を共有しよう。言葉に出せないなら、絵で伝えて。
私には、寂しいも悲しいも苦しいも、我慢しないでほしい。

全部、受け止めるよ』

 ああ、きっと俺は茉央に出会うために生まれてきたんだ。

 出会ってからの時間なんて関係ない。
 彼女の耳が聞こえないことなんて、なんのマイナスにもならない。
 なに一つ体に不自由がないのに、自分はこんなにも心が乏しいのだから。

『ありがとう。真っ白なハガキに絵を描いて会うたびに、渡すよ。だから茉央もなにか描いたら俺にちょうだい』

 伝わらない「声色」は、絵の具の色で伝えればいい。
 感情の起伏は、線の動きで表せばいい。
 不満なんて、なに一つない。

 環は引き出しの中からハガキを取り出し、大空へ羽ばたく一羽の鳥を描いた。
 真っ青な空に向かうその鳥は、黄色とオレンジ、ピンクに緑が入り混じっている。

 もう、孤独を我慢しなくてもいい。
 だって彼女が言ってくれたから。

 環が一番、欲しかった言葉を。



 それから絵画教室で会うたびに、こっそり茉央にハガキを渡し続けた。
 数はいつもバラバラで、多い日もあれば一枚だけの日もある。

 色鉛筆、水彩絵の具、アクリルと道具を変えて好きなように描いた。
 植物、動物、人や物。
 テーマも情景も自由で、毎週新しい発見や驚きがある。

 茉央も環よりは少ないが、会うたびに数枚のハガキをくれた。
 彼女の絵は一貫してぼやけており、優しい世界を切り取った一部だ。
 ふいに見えた、デッサン用のスケッチブックは環とほとんど同等の内容だった。
 茉央が本気でリアルな絵を描こうとしたら、きっと環と肩を並べられるくらい上手く描けるはずだ。
 あえて彼女は印象派のような絵を選んで描いている。
 環は彼女に対して、絵や言葉選びに芯の強さを度々感じていた。

 耳が聞こえないことで辛い思いをしたこともあるだろうが、側から見た彼女はいつも楽しそうで、穏やかで、それでいてしなやかだった。
 何事も受け流す力がある気がした。

 同い年なのに、自分よりずっと大人びている茉央に環はどんどん夢中になった。
 学校でもぼんやりすることが増え、また大樹に茶化された。

「環〜、なんなんその恋してますってオーラ。ただ漏れなんですけど」
「してない出てない」
「嘘つけ! 授業中に憂いを帯びた顔で窓の外なんか見やがって。おかげでお前の席の近くの女子みんながお前に釘付けだわ! 滅びろイケメン!」
「好きにしてくれ。俺は今、交換するハガキを書くのに忙しいんだよ」

 そろそろ夏を迎えそうな放課後、環は咲き誇っていた紫陽花の絵を描いている。
 制服は夏服に変わり、彼の白い腕が露出していた。たまに薄い黒のカーディガンを着ているが、また女子たちの視線量が増えた気がする。

「紫陽花とかめちゃくちゃ描きずらい花なのに呼吸するみたいに描いてるし。怖っ」
「萼の数が多いから難しそうに思うだけで、コツを掴めばそんなに難しくないよ」
「え? 紫陽花って花びらの集まりじゃねえの?」
「花びらみたいに見えるところは装飾花って言って、萼らしい。まあ、俺も教えてもらったんだけど」

 先週茉央に教えてもらった知識を誇らしげに語る。
 大樹と同じような反応をしていたのは、彼には絶対内緒だ。
 とても驚いたので、忘れないように描くことにしたのだ。

「それ、好きな子に教えてもらったろ」
「はっ?!」

 ぴた、と色鉛筆の動きが止まる。
 一言も茉央の名前は出していないのに、言い当てられて動揺してしまった。

「わっかりやす〜。なんだよ、豆知識を披露するっていう体で惚気聞かされただけじゃん」
「どこが惚気なんだよ。普通にいいこと教えただけだろ」
「お前がいつもみたいに仏頂面ならな。鏡見てこいよ、ほっぺ赤くしちゃってさ。そんな顔女子たちに見られたら、やっぱり彼女いるんでしょって大騒ぎされるぞ」

 指摘されて、慌ててスマホのカメラを開き顔を確認する。
 頬どころか、耳までほんのり赤く染まっていた。
 これじゃあいくら誤魔化しても、意味がない。

「ああもう、降参。認める、さっきのは好きな子に教えてもらった」

 両手をあげて降伏を表す。
 大樹の瞳がきらきらと輝き、隣に座ってきた。

「ついに環が認めた! 相手って耳の聞こえない子で合ってる?」
「うん、茉央っていう名前なんだ」
「茉央ちゃんかあ。どこが好きになったの?」
「どこって言われるとなあ」

 環は茉央を思い浮かべる。
 彼女とは相変わらず主にメッセージアプリでやり取りを重ねていた。

 好きな食べ物はパフェとお母さんの作る肉じゃがらしい。
 趣味は絵と散歩。
 好きな花はマーガレットと、桜。
 早起きが得意で、逆に夜はすぐ眠たくなると話していた。
 何事もポジティブに考えるよう心がけていると聞いた時、彼女が日々楽しそうな理由が分かった。

 イメージ通りなこともあれば、全く予想していなかったことも多く、茉央との会話は飽きることがない。
 知れば知るほど、より彼女のことが気になる。
 自分のことも考えて欲しいという欲がどんどん大きくなるばかりで。

 どこに惹かれたかなんてぱっと思い浮かばない。
 でも、強いて言うなら。

「多分、初めて会った日から好きだった、と思う」

 あ、やばい。
 声に出すと、途端に恋心を自覚してしまう。
 顔に熱が集まり、恥ずかしくて大樹の顔が見れない。

「そっか。すげえ素敵じゃん」

 太陽のように大樹が笑う。
 誰かに恋心を打ち明けたのは初めてだった。
 その相手が彼で良かった。

「ありがとう」

 つられて環も笑う。
 いつか、茉央にもこの気持ちを直接伝えられたらいいなと思った。

 環は今、色彩に溢れた世界を生きている。
 茉央と関わることで、ひとつずつ色を取り戻していった。
 もう無彩色だけの世界ではない。
 寂しさは次第に溶けて、気持ちが前を向いている。
 もう少ししたら、母にも自信を持って「藝大を目指したい」と言える気がした。
 ずっと逃げていた現実に少しずつ向き合えるようになったのは、彼にとって大きな一歩だ。

 ありったけの感謝と好きを茉央に伝えるなら、もちろん絵が必要だ。
 言葉だけでは足りない声色は、何色で表現しようか。

 正直、最近は浮かれていた。
 茉央を好きになってから、道端の花や雲の流れ、すれ違う犬の可愛さなど今まで見逃していた素敵な何かに気がつくことが増えた。
 だからこそ、見逃してしまうこともある。

 すみれは、以前より教室に通う頻度が減った。
 来ると普段通り環の横に座っているが、表情は晴れないままだ。
 初めは気になっていたが、茉央と話すことや新しく絵に描くことに夢中になっていつの間にか見逃してしまったのだ。
 そのうちすみれも前のような明るさを取り戻すだろうと呑気に考えていた。

 だが、環の予想は大きく外れてしまう。

 それは、強い雨が降りしきる日のことだった。



「先生、今日は火曜日なのに茉央もすみれもいないんですか?」

 いつになってもやってこない二人が気になり、環は講師に質問する。

「それがね、今日は沢城さんが倉橋さんを迎えに行くって言ってたの。寄り道するかも知れないから遅れるとは連絡きてたんだけど、確かに遅いわね」

 刹那、嫌な予感がした。
 どちらからも一緒に来るなど、一言も聞いていない。
 思い返せば、最近のすみれはやけに静かだった。
 雨が強く窓に打ちつけている。

「雨も強いし、心配だから迎えに行きます」
「でも、この雨じゃ羽瀬くんも濡れちゃうし、一旦連絡して待ったほうがいいんじゃないかな」
「俺は大丈夫です。行く途中でちゃんとすみれに連絡するので安心してください」
「そう、じゃあ二人のこと頼んだわね。私からも連絡してしみるわ」

 環は折り畳み傘とビニール傘、そして念の為持ってきたタオルも持って教室を飛び出した。
 すると、外には傘を刺さず濡れているすみれが立っている。

「すみれ! 濡れちゃうよ、なんで傘さしてないんだ」

 通行人はおらず、誰にも見られていないのが幸いだ。
 環は急いでビニール傘の中に彼女を入れた。
 手に持っていたタオルを彼女の頭にふんわりと被せる。

「茉央はどうしたの? 一緒に来るって聞いたけど」

 きょろきょろと辺りを見回しても茉央はいる気配がない。
 すみれは下を向いたまま、なにも話さない。

「なにかあった? 大丈夫?」
「環‥‥」

 小さく自分の名前を呼ぶすみれ。
 彼女の体は震えている。

「私ね、ずっと環のこと好きだったの」

 ざあざあと雨が傘に当たる。雑音に紛れて聞こえてきた告白は涙声だった。

「環の隣に堂々と立てるように努力してきた。勉強もメイクも、絵も出来る限り頑張ってきたの。環と一緒に藝大に受かったら、告白するつもりだった」

 涙と共にぼろぼろ溢れる話は、どれも初耳だ。
 環は動揺してなにも言えない。

「でも、あの子が来てから環は私なんかどうでも良くなったよね。ずっと一緒に描いてきたのに! 環は私のことを見てくれなくなった!」

 傘を持って動けない環に、すみれは勢いよく抱きつく。

「ごめん、どうしよもうなく環が好きなの。ねえ、あの子より私のこと見てよ‥‥っ」

 あの子が誰なのか、名前を聞かなくてもすぐに分かった。
 環はすみれが思いの丈をぶつけてくる間も、茉央のことばかり考えている。

「すみれ、俺は」

 俺は、の後の言葉が浮かばない。
 なんて答えても結局彼女を傷つけることは避けられないからだ。
 それでも友人として、一緒に絵を描いてきた仲間として答えを出さなければいけない。

「俺は茉央のことが好きなんだ。だから、すみれの気持ちには答えられない」

 彼女を体から引き剥がす。
 すみれは顔をぐしゃぐしゃにして、その場にしゃがみ込んだ。

「今も、今までも沢山傷つけてごめん」

 そっと傘を差し出し、雨に濡れる環。
 すみれはしばらく泣いてから、真っ赤な顔をあげた。

「知ってた。環があの子のこと好きなの。でも諦められなかった。だから今日、学校まで会いに行ったの。でも私、あの子に酷いこと言っちゃった‥‥っ。ごめんなさい‥‥っ」

 泣きながら謝るすみれは子供のようだ。
 いつものみたいに自信に満ち溢れていて、強気な彼女はどこにもいない。
 環は優しくすみれの頭を撫でた。

「必ず茉央を連れてくるから、直接言ってあげてよ。言いずらかったら、俺も手伝うから」
「環、ごめんね‥‥っ」

 泣きじゃくるすみれ。慰めてあげたいが、雨は強まるばかりだ。
 環は茉央が心配で堪らない。

 二人は茉央の学校の近くにある公園で話し、そこで別れたらしい。
 傘は持っていたが、茉央は公園で雨宿りしているだろうとのことだった。
 耳の聞こえない彼女は視界不良の中動けないのだ。
 そんな中どうして置いてきたんだと後から怒りが湧いたが、それよりも心配が勝つ。

 教室からは遠くバスに乗らないといけない距離だった。全力でバス停まで走る。
 バスが到着して、車内に乗ったらすぐに茉央に連絡した。
 濡れているため、環はがらがらの車内でも座ることが出来ず立っている。

『今どこ? 大丈夫? 濡れてない?』
『うん、大きなトンネルの遊具の中にいるから濡れてないよ』
『今迎えに行くから待ってて。さっきバスに乗った』
『迎えに来てくれるの‥‥? ありがとう、じゃあ私もバス停まで行くね』
『大丈夫だよ。雨が強くて心配だから動かないで』

 茉央は環の心配をよそに、バス停まで大雨の中歩くと言い張る。
 頼むから大人しくしててくれ。
 文字を打つ手に力が入る。

『やだ、だって一秒でも早く環くんに会いたいから』

 思いもよらない言葉が返ってきて、環の動きが止まった。
 茉央は続けて送ってくる。

『私ね、賭けてたの。環くんが沢城さんと会って彼女を選んだら、きっと連絡は来ないだろうなって思ってた。だから、連絡が来たら環くんに告白しようって決めてたの。

だから今、たった少しの時間も惜しい。環くんに会いたくてたまらないの』

 環が初めて好きになった彼女は、見た目に反してしっかり者でいつも落ち着いていた。
 その茉央が、少しの時間も惜しいと言っている。

 早く会いたい。会って強く抱きしめたい。

 雨で交通網が乱れている。
 晴れていてもバスは遅延しやすいのだ。
 こんな大雨の日は、より遅れてしまうだろう。
 なかなか進まない時間がもどかしい。

『茉央、俺も伝えたいことがある。だからこそ、安全な場所にいて欲しい』

 少し悩んでから環は茉央に返信した。
 だが、さっきまですぐに既読になったのに、待っても待っても未読のままだ。
 調べたら公園からバス停はそう遠くなく、やり取りをしていた時に歩き出したならとっくに着いている頃だろう。

 嫌な予感がする。
 頭の中で、最悪の事態を想像してしまう。




















 公園からバス停までは、一つだけ横断歩道があった。















『茉央? 大丈夫?』
『なにかあった?』
『まだ歩いてるの?』

 なにを送っても既読にならない。
 バス内だというのに、思わず電話をかけたがコール音が虚しく響くだけだ。

 茉央になにかあったらどうしよう。
 不安で頭がいっぱいになる。
 何度も何度も電話をかけるが、繋がることはない。

 目的のバス停で降りると、環の隣をけたたましい音を鳴らしながら救急車が走り去っていった。
 環は思わず、スマホを手から滑り落としてしまう。
 がしゃん、とコンクリートの地面に強く打ちつけられた音が響く。

 雨の中でも集まった野次馬の中で、次々と言葉が飛び交っている。

「高校生くらいの女の子が車に轢かれたらしい」
「耳が聞こえない子で、雨で視界が悪くて車が来てたのことに気がつけなかったんだって」
「こんな日に外出するもんじゃないわねえ」
「でもすぐに通報してくれる人がいて良かったな」

 耳の聞こえない、高校生くらいの女の子。
 雨で視界が見えず、事故に遭った。
 夢だと思いたい言葉が、次々に耳へ流れ込んでくる。

 予想していた最悪の出来事が呆気なく起こってしまった。 
 環はその場に立ちすくして、動くことが出来ない。

 人だかりは救急車がいなくなると、散り散りに消えてゆく。
 雨に濡れている環を通行人が怪訝な表情で見てるが、全てがどうでも良かった。
 地面に落ちて、画面が割れてしまったスマホを拾い上げ、まわらない頭のままどうにかして家に帰った。

 気がついたら家の前にいて、濡れた制服のままベッドに横になっていた。
 両親になにか言われたが、放心状態の環はうまく聞き取れなかった。

 目が覚めると朝になっていて、枕元には酷い有様のスマホが置いてあった。
 毎日のように茉央とやり取りをしていたそれは、真っ暗な画面のままだ。

 まるで、環の心の中を写したように。

 部屋に差し込む柔らかな朝日でさえ、彼には届かない。
 環はまた、色を失ってしまった。
 彼の世界は無彩色だ。



 環は絵画教室に行くのを辞めた。
 両親には同じ教室の子が事故にあったからショックで暫く行きたくないと話して了承を得た。

 食事も睡眠も満足に取れず、環はみるみるやつれていった。
 かろうじて学校には通っているが、いつもぼんやりして授業も頭に入ってこない。
 大樹にだけ事情を話した。
 気持ちを察してくれた彼が毎回ノートを見せてくれるおかげで、なんとか成績は大きく落とさずテストを乗り越えられた。

「環、あんま無理すんなよ。泣きたい時は泣け。笑いたくなったら笑え。今は死んだ魚みたいな顔でも、俺なんにも言わないからさ」

 夏休みに入る前のとある昼休みに、目の前でコンビニのパンをかじりながら大樹はそう話してくれた。
 両親と周囲には心配ばかりされて、辟易としていた環にとって、大樹の思いやりは救いの言葉だった。

「‥‥ありがとう」

 母が作ってくれた弁当を食べなきゃいけないと思うのに、全く喉を通らない。

 箸を持つ手が止まり、環の病的に白い肌にたった一粒だけ涙が伝った。 

 茉央が事故に遭ってから、環はずっと泣けなかった。
泣けないのに、空が晴れているだけで無性に腹が立って、悲しくて、仕方なかった。
 どうして彼女が笑って歩けないのに、晴れる必要があるだと天気にさえ八つ当たりをしていた。
 悲しみや後悔をなにかにぶつけていないと、おかしくなりそうだった。



 夏休みは毎年好きなだけ絵を描ける期間で、いつも心を踊らせていた。
 学校に行く日よりも早く起きて、キャンバスに向かっているのが普通だった。

 だが、今年の夏は一枚も描けていない。
 なにも浮かばず、どんな色を見ても心が踊らない。
 描き方は知っているはずなのに、全く手が動かないのだ。
 真っ白なキャンバスや、ハガキを目の前にすると動悸がして息苦しい。
 全身で絵を描くことを拒否してしまう。

 茉央に想いを伝えるならどんな絵がいいかずっと考えていたはずなのに、全てのアイデアが頭の中から落下して消えてしまった。

 星も月も浮かんでいないような夜空の中で、生きている気がする。

 寂しいけれど、暗闇は安心する。
 このままなにもかもを投げ出してしまいたい。
 茉央のいない世界で笑うには、どうしたらいいのか分からない。

 自分の中でこんなにも彼女の存在が大きくなっていたことに、ようやく環は気がつけたのだ。
 だけど、もう遅い。

 絵画教室の講師は茉央の容体を把握しているのかもしれない。
 でも、環にはそれを聞く勇気がなかった。
 もし彼女が二度と目を覚さないなどと聞いてしまったら、本気でどうなってしまうか分からないのだ。

 茉央がまた笑ってあの教室に通えるようになると信じることさえ、今の環には怖くてたまらない。
 信じて違う未来が訪れたら‥と考えると、なにも信じないほうが傷つかなくて済む。

 傷つかなくて済むけれど、ずっと虚しいままだ。

 ぐるぐると同じ思考がループして、頭がおかしくなりそうだった。
 夜眠る時も、朝目が覚めた時も、毎日茉央のことを考えている。

 自分がもっと早く駆けつけられていたら。
 向かっている途中に連絡しなかったら。
 そもそも、もっとすみれを気にかけてあげれていたら。

 絶え間なく浮かぶ、タラレバが環の首をどんどん締めてゆく。
 毎日予定のない日々を過ごし、自室のベッドで自分を責め続ける日々。
 考えても考えても、答えなんて出ないと分かっていても辞められない。

 緩やかな地獄が環を追い詰めていた夏休みの中盤、画面が割れたままのスマホに一通のメッセージが届いた。









『最近、すごく暑いね』







 事故に遭い、連絡のなかった期間を切り取ったように茉央はなんてことのないメッセージを送ってきた。

 環は信じられなくて、何度も送り主を確認する。

『茉央だよね?』

 トークルームの名前は確かに茉央なのに、にわかに信じ難くて思わず聞いてしまう。
 一枚の絵が送られてきた。

『タイトルは「おはよう」だよ』

 雲間から太陽の光が差し込み、色とりどりの花畑を照らしている絵が送られてきた。
 水彩絵の具で描かれており、色が滲んで混ざり合っているところも味があって美しい。

 ああ、茉央の絵だ。
 今、俺、茉央と話せてるんだ。

 環の瞳から大粒の涙が溢れる。
 彼女が生きていると実感できるのが、なによりも嬉しい。

『事故に遭ってからずっと意識が戻らなかったの。暗くて、寒くて、寂しい場所を彷徨ってた。でもね、絶対また環くんに会いたいって思って進んでたら、昨日目覚めることが出来たんだ』

 刹那、全身が粟立ち、茉央の送ってくれた花畑の中にいるような感覚に陥った。
 環の灰色の世界にどんどん花が咲いてゆく。

 茉央、やっぱり君はすごいな。
 君の言葉も、君の絵も、全てが俺を新しい世界に連れていってくれる。

『俺もずっと会いたかった。今度は俺から会いにいってもいい?』
『うん。退院したら、会おう』

 環は顔を腕で拭い、立ち上がった。

 時刻は午後十三時八分。
 まだまだ時間がある。
 一度顔を洗ってから、小さめのキャンバスを取り出す。ハガキでは小さいし、普段使っているのは茉央に渡すには少し大きい。
 イーゼルにことりと立てる。

 早く完成させたくて、久しぶりにアクリル絵の具をタンスの中から出してきた。
 さっと鉛筆で薄く下書きをする。
 そして大胆に色を乗せ始めた。
 絵の具はピンク、白、コバルトターコイズを選んだ。
 普段雲の陰はピンクではなく同系色の青系や黄色系を選ぶ環だが、茉央と接する気持ちはもっと優しくてあたたかい。
 ふんわりと淡く雲を描き、空は桜色のピンクと水色のグラデーションになるように塗った。
 空に滲んだ月と星を書き足し、白い花びらを舞わせる。マーガレットの花びらを意識した。

 これが、俺にとっての恋心だ。

 環が好きな夏の夜明けの空を描く。
 夏の早朝と夜の間は、寂しさが消えてほっとする。
 茉央と話していると、環は安心して本来の自分でいられるのだ。

 久しぶりに初めから最後まで一気に描き上げた。
 時刻はすでに十七時を回っており、ずっと同じ体制で描き続けていたので体が悲鳴をあげている。
 懐かしくて愛おしい疲労感に、思わず環は笑みを浮かべた。

 ああ、俺、君のことが本当に好きだ。

 ベッドに雪崩れ込み、天井を見上げる。
 絵の具のついた手と電球を合わせ、影を作った。

 早く会いたい。
 君の笑った顔が見たい。

 笑顔の茉央を思い浮かべ、そっと目を閉じた。



 茉央は無事検査を終え、退院が決まった。
 不幸中の幸いは体に大きな損傷がなかったことだ。車が目の前で曲がってくれたことで、骨折などは免れたという。倒れた時に頭を強く打ったため、彼女はなかなか目覚めなかったらしい。

 彼女と会う前の日の夜、環はすみれと話した内容を聞いた。

『沢城さんは多分「私はずっと環が好きだったのに、なんであんたなのよ!」って言ってたと思う。声に出してたから全て合ってるか分からないけど‥‥』
『辛いこと思い出させてごめん。教えてくれてありがとう』
『ううん。あのね、もし可能なら私もう一度沢城さんと話したいの。ずっと友達になりたかったんだ。きっと事故のことも気にしてると思うけど、今私はこうして元気だし、沢城さんのせいじゃないからちゃんと説明したい』

 環自身も同じ気持ちだった。
 あれからすみれとは一回も連絡を取っていない。
 だが、きちんと話さなければとずっと思っていた。

『うん、今度一緒に教室に行こう。すみれだって、きっと話せば分かってくれるよ』

 ごめんなさい、と泣いた彼女を環は信頼している。ずっと同じ教室で絵を描いてきたのだ。
 根っからの悪人ではないと知っている。

 真っ直ぐで強気で、どこか繊細な彼女の描く絵の通りの性格だ。

『ありがとう』

 そして茉央もまた、すみれと似た芯の強さがある。揉めた相手と分かり合いたいと向き合える強さに憧れる。
 いつも環は茉央に勇気づけられてばかりだ。

 メッセージアプリでの会話が終わると、環は部屋の窓から夜空を見上げた。
 夏のぬるい風が部屋に入り込んでくる。

 夜空で煌々と輝く星を見て、茉央と出会った日のことを思い出した。
 あの日の夜、ベッドの上で思い描いた蝶が目の前の夜空を飛んでいる想像をする。
 光る粒子を纏い、自由に飛び回る一匹の蝶。

 美しくて、繊細で、目が離せない。

 きっとあれが恋の始まりだった。
 茉央を初めて見た日から、彼女に目を奪われ続けている。

「ようやく好きだって、伝えられる」

 夜の空気で肺を満たし環はベッドに潜った。
 夢を見ることのないまま、朝を迎えた。



「大丈夫かなあ」

 環は普段通り、白いTシャツにストレートのインディゴブルーのジーンズを合わせた。
 足元はネイビーに白のラインが入っているスニーカーだ。
 小さめの黒いバッグにスマホと財布を入れて、肩から斜めにかける。茉央に渡す絵は靴と同じ色のトートバッグに入れた。
 耳元にはシルバーのリングピアスをつけた。
 好奇心に負けて開けたが、つけるのは久しぶりだった。

「環、今日はおしゃれしてるのね」

 玄関で母親に後ろから話しかけられた。
 驚いて肩が上がる。

「べ、別に普通だよ」
「そう? 浮かれてる気がして。最近元気なかったから、お母さんは安心してるの」

 そういえば外出することさえ久しぶりだ。
 環は振り向いて「ありがとう、行ってきます」と微笑んだ。

 外は強い日差しに照らされている。
 垂れてくる汗をハンカチで拭いながら歩き、茉央との待ち合わせ場所に一番近い花屋に寄った。

 白も青、水色の花を選んでラッピングも寒色系にしてもらった。リボンの色は桜色を選ぶ。

「わ、かわいい‥‥」
「うん、すごく素敵ですね。きっと貰った相手の方はすごく嬉しいと思いますよ」

 笑顔が素敵な店員さんに作ってもらった花束を持って、緊張しながら待ち合わせ場所の公園に向かった。

 到着すると木陰のベンチで休む、白いワンピースの女の子が一人だけいた。
 環は彼女を見つけると駆け出した。

「茉央! ごめん、待たせた」

 顔を上げた彼女はメイクをしているのか瞼が煌めき、まつ毛もくるんと上がっている。
 唇は淡いピンクに染まり、潤っていた。
 手に持っていたスケッチブックに『大丈夫だよ』と描いて微笑む茉央。

 環は隣に座って、花束を渡す。
 そしてゆっくり彼女への気持ちを言葉にした。

「俺は、茉央のことが、好きだよ」

 伝わるように、はっきりと大きく口を動かして伝える。
 茉央は見逃さないようにじっと見つめてから、頬を染めた。
 花束を抱きしめながら、茉央がそっと口を開く。

「ゎた、し、も、たぁきく、ゆが、すぃ、です」

 初めて聞いた彼女の声。
 緊張が混ざった、甘くて優しい声だった。
 環の描いた絵に似ている気がした。

 環は泣きそうになるのを我慢して、急いでトートバッグから茉央のために描いてきた絵を取り出す。

「これが、茉央に対する、気持ち、だよ」

 茉央は大きく目を見開いて、絵を受け取ると涙を流した。
 彼女が泣いているところを環は初めて見た。

 スケッチブックに茉央は文字を描く。

『すごく優しくて、綺麗で、あったかい気持ちなんだね。とってもとっても嬉しい』

 笑顔で微笑んだ彼女を、木漏れ日が照らしている。環も瞳に涙を浮かべた。
 スケッチブックを借りて、言葉を紡ぐ。

『俺の灰色の世界を染めてくれたのは、茉央だよ。茉央に出会えたから俺はこの絵が描けたんだ。

俺と出会ってくれてありがとう』

 環がスケッチブックを見せると、茉央が抱きついてきた。

「す、き、です」
「俺も、すごく、茉央が、好き、だよ」

 ありったけの『好き』を、声色に乗せて届けた。

 環の世界は今、有彩色で溢れている。