家に帰ると、俺はウィッグを脱ぎ捨て、ベッドに横たわった。思っていた以上に頭の中は蒸れて、家に着く頃には肌寒いとは言いつつも頭の中は大量の汗をかいていた。足だってパンパンで、棒のように動かない。両足の靴擦れは、絆創膏を貼った上からもずっとパンプスに当たって痛かった。貼ってもらった絆創膏にも血が滲んでいる。
あれから青木先輩と黒崎さんと証拠の写真撮って、そのまま昼食を食べて解散になった。スマホのメッセージアプリを開くと、青木先輩からその写真が送られてきていた。
加工アプリを使わずにこのクオリティか……。その辺の女の子より可愛いんじゃね、俺。
写真をスクロールしながら自画自賛していると、部屋の外から足音が聞こえてきた。
「ゆーきーやー?帰ってるのー?」
部屋の扉がコンコンっとノックされ、気の抜けた返事をすると、部屋着に着替えた姉さんが入ってきた。
「うわ、なにその格好……台無し。で、どうだった?」
「どうって、何が」
「ナンパされた?」
「あー」
姉さんに言われて、太陽とのやりとりを思い出した。
俺、そういえば告られたんだった……。
悪い気はしないが、相手は男だ。だがそれをそのまま姉に話すのはまた別問題だった。苦笑いを隠すように手の甲で口元を押さえながら「可愛いって言われたかな」と濁しながら答えた。
「やっぱり?だって可愛いかったもん!どう、またやる?」
「そうだな〜。まぁ、悪い気はしなかった……。でも足がクソ痛くてもう勘弁してほしいかな」
「パンプス?慣れれば平気だってば。靴もゴツくないスニーカーなら今日の服にだって合うし、どうにでもなるわよ。次の服決めていい?一緒にお買い物いこ!」
「へいへい。まぁ、そのうちな……。今日は疲れたし着替えて風呂入ってさっさと寝るから、ほら出てって」
楽しそうにあれやこれやを提案する姉を無理矢理押し出すと、俺は部屋の扉を閉めた。
風呂に入って改めて靴擦れの痛みを確認した。靴擦れをしたのは初めてではないが、久々な上にここまで痛みを感じるものだと忘れていた。それに加えて、慣れない靴を履いたせいで、普段使わない筋肉を酷使し、膝から下が棒のようだった。幸いにも明日からは長い春休みに入る。外出しない日があっても神様は何も言わないだろう。髪の毛をタオルで拭きながら部屋へ戻ると、姉さんに返し忘れていたカバンが目に止まった。
そうだ、返さないと……。
「あ、中にまだ入れっぱなしだ」
忘れないうちに返しておこうと、財布とカモフラージュに持たされた薬用リップと小さな鏡しか入れていない化粧ポーチを取り出した。これがなんのためになるのだろうかと思ったが、姉曰く、大半の女性は持ち歩いているそうだ。いや、だとしても小さすぎだろ。無いのと同じじゃん、などと言いたいことを言うと、口が裂けても外で言うなと釘を刺されたのだった。
そのポーチとバッグを持ち、姉さんの部屋へ向かおうとした時だった。カサっと音を立てながら雑に折られたルーズリーフがカーペットに落ちた。
「あーやばい、忘れてた」
拾い上げて中身を確認すると、少し歪な字だが、はっきりと大きく電話番号とメッセージアプリのIDが書かれていた。俺はしばらく書かれた数字を見つめた。
連絡すべきだろうか。一瞬だけ躊躇したが、俺はスマホを手に持つと、メッセージアプリを開いた。IDの検索画面を開き、メモに書いてあるナンバーを打ち込む。検索を押し、友達登録さえすればメッセージは送れるはずだ。が、しかし。すんなりと検索を押すことができなかった。
もう二度とあの姿になることもない。罰ゲームの女装が割と気に入ってしまっては、やった意味もないのだ。それに、連絡さえ来なければ彼も諦めるはずだ。そう思ってそのまま机の上にルーズリーフを放り投げ、俺はタオルで頭を拭きながら、姉の部屋に向かったのだった。
数日後、靴擦れはかさぶたにかわり、自分のスニーカーを履いても違和感と痛みを感じなくなった。姉さんはあれから次はどうするだの色々と言ってくるが、適当にあしらった。二度とあれはごめんだ。すでにあの二人の先輩にも合コン参加メンバーにも知られた訳だし、下手にあの格好はできない。笑いのネタとしては最高だが、そう感じ取るのにもまだ時間がかかりそうだ。そして、なによりも太陽のあの純粋な顔がチラつき、何とも言えない罪悪感で胸のあたりがざわついた。もうダメだ。人を騙すなんて。しかもあんな純粋な人間の純粋な部分を傷つけるなんて。人としてやって良いことと悪いことの線引きはきっちりとしておきたかった。
しかし、春休みだからといって、大学に行かないわけでもない。サークルの新入生勧誘期間に向けての話し合いがあったため、俺は顔を合わせたくない青木先輩のいる部室へ渋々出向いていった。
女装をした時と同じ時間に自宅を出たが、全く別の近道を使ったのかと思うほど、大学には早く着いた。同時に、女の子になるのは体力が必要だと感じた。いつもは歩幅が大きく、堂々と歩いても疲れないのだが、彼女達と同じ格好でそれはできない。やっぱり、いつもの、普通の格好の方が断然楽だと感じた。
サークルの部室は、授業が行われている校舎の向かいにある部室棟と呼ばれる建物にあり、校門からは中庭を通っていくのが近道だった。今日は春休み初日だというのに、学内には学生が多い。きっと俺と同じ理由で来ているがほとんどで、これから開催されるであろう花見やら歓迎会と称した飲み会の幹事決めのために来たのだろう。特に中庭は陽当たりがよく、人が多く集まっているようにも見えた。
歩いている途中、中庭に行く道にこの間女装をした時に座ったベンチがあることを思い出した。よくもまぁ、あんな目立つところに座って休んだものだ。我ながら感心する。目線の先にベンチが見えて、誰かが座っているのが見えた。俺はあの時の自分に苦笑いをしながら、なんとなくそのベンチを見ないよう視線を逸らし、まだ蕾が膨らんだ状態の桜の木々を見上げながらその前を歩いた。
「まだ来ないのか?天使ちゃんからの連絡」
「天使ちゃんって……。マシロちゃんっていうんだってば!」
「幻だって。フツーに考えて、太陽みたいな童貞相手にするか?」
「うるさい、うるさい!童貞言うなっ!あれは運命だよ、約束したから絶対連絡くるっ」
「あはははっ!わかったわかった、奢るからとりあえずメシ行こ、な?」
「そこでましろんとのこと作戦練ろうぜ」
「おい、気安くましろんとか呼ぶなって!可愛いけどっ」
一瞬、背筋が凍るかと思うほど冷たい風が吹いた。冷や汗がどっと溢れる。心臓が破裂するのではと思うぐらいに早く脈を打ち、手のひらが冷たくなって手汗が滲むのを感じた。
マシロちゃん、太陽……?
今のって……。いや、今の会話って……!!
ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりベンチの方へ視線を向けると、先日俺の靴擦れを気遣って絆創膏を貼ってくれたアイツがしょげた顔をして仲間に慰められていた。
いや、マジか。マジか、マジか!
まさかまだ待っているなんて……。
あのざわざわとした感覚がまた胸のあたりを弄ってくる。あの男の潤んだ顔を再び思い出し、罪悪感が再び込み上げた。俺は居た堪れず、足早にベンチを通り越し、中庭を抜けて部室棟へ向かった。
あれから青木先輩と黒崎さんと証拠の写真撮って、そのまま昼食を食べて解散になった。スマホのメッセージアプリを開くと、青木先輩からその写真が送られてきていた。
加工アプリを使わずにこのクオリティか……。その辺の女の子より可愛いんじゃね、俺。
写真をスクロールしながら自画自賛していると、部屋の外から足音が聞こえてきた。
「ゆーきーやー?帰ってるのー?」
部屋の扉がコンコンっとノックされ、気の抜けた返事をすると、部屋着に着替えた姉さんが入ってきた。
「うわ、なにその格好……台無し。で、どうだった?」
「どうって、何が」
「ナンパされた?」
「あー」
姉さんに言われて、太陽とのやりとりを思い出した。
俺、そういえば告られたんだった……。
悪い気はしないが、相手は男だ。だがそれをそのまま姉に話すのはまた別問題だった。苦笑いを隠すように手の甲で口元を押さえながら「可愛いって言われたかな」と濁しながら答えた。
「やっぱり?だって可愛いかったもん!どう、またやる?」
「そうだな〜。まぁ、悪い気はしなかった……。でも足がクソ痛くてもう勘弁してほしいかな」
「パンプス?慣れれば平気だってば。靴もゴツくないスニーカーなら今日の服にだって合うし、どうにでもなるわよ。次の服決めていい?一緒にお買い物いこ!」
「へいへい。まぁ、そのうちな……。今日は疲れたし着替えて風呂入ってさっさと寝るから、ほら出てって」
楽しそうにあれやこれやを提案する姉を無理矢理押し出すと、俺は部屋の扉を閉めた。
風呂に入って改めて靴擦れの痛みを確認した。靴擦れをしたのは初めてではないが、久々な上にここまで痛みを感じるものだと忘れていた。それに加えて、慣れない靴を履いたせいで、普段使わない筋肉を酷使し、膝から下が棒のようだった。幸いにも明日からは長い春休みに入る。外出しない日があっても神様は何も言わないだろう。髪の毛をタオルで拭きながら部屋へ戻ると、姉さんに返し忘れていたカバンが目に止まった。
そうだ、返さないと……。
「あ、中にまだ入れっぱなしだ」
忘れないうちに返しておこうと、財布とカモフラージュに持たされた薬用リップと小さな鏡しか入れていない化粧ポーチを取り出した。これがなんのためになるのだろうかと思ったが、姉曰く、大半の女性は持ち歩いているそうだ。いや、だとしても小さすぎだろ。無いのと同じじゃん、などと言いたいことを言うと、口が裂けても外で言うなと釘を刺されたのだった。
そのポーチとバッグを持ち、姉さんの部屋へ向かおうとした時だった。カサっと音を立てながら雑に折られたルーズリーフがカーペットに落ちた。
「あーやばい、忘れてた」
拾い上げて中身を確認すると、少し歪な字だが、はっきりと大きく電話番号とメッセージアプリのIDが書かれていた。俺はしばらく書かれた数字を見つめた。
連絡すべきだろうか。一瞬だけ躊躇したが、俺はスマホを手に持つと、メッセージアプリを開いた。IDの検索画面を開き、メモに書いてあるナンバーを打ち込む。検索を押し、友達登録さえすればメッセージは送れるはずだ。が、しかし。すんなりと検索を押すことができなかった。
もう二度とあの姿になることもない。罰ゲームの女装が割と気に入ってしまっては、やった意味もないのだ。それに、連絡さえ来なければ彼も諦めるはずだ。そう思ってそのまま机の上にルーズリーフを放り投げ、俺はタオルで頭を拭きながら、姉の部屋に向かったのだった。
数日後、靴擦れはかさぶたにかわり、自分のスニーカーを履いても違和感と痛みを感じなくなった。姉さんはあれから次はどうするだの色々と言ってくるが、適当にあしらった。二度とあれはごめんだ。すでにあの二人の先輩にも合コン参加メンバーにも知られた訳だし、下手にあの格好はできない。笑いのネタとしては最高だが、そう感じ取るのにもまだ時間がかかりそうだ。そして、なによりも太陽のあの純粋な顔がチラつき、何とも言えない罪悪感で胸のあたりがざわついた。もうダメだ。人を騙すなんて。しかもあんな純粋な人間の純粋な部分を傷つけるなんて。人としてやって良いことと悪いことの線引きはきっちりとしておきたかった。
しかし、春休みだからといって、大学に行かないわけでもない。サークルの新入生勧誘期間に向けての話し合いがあったため、俺は顔を合わせたくない青木先輩のいる部室へ渋々出向いていった。
女装をした時と同じ時間に自宅を出たが、全く別の近道を使ったのかと思うほど、大学には早く着いた。同時に、女の子になるのは体力が必要だと感じた。いつもは歩幅が大きく、堂々と歩いても疲れないのだが、彼女達と同じ格好でそれはできない。やっぱり、いつもの、普通の格好の方が断然楽だと感じた。
サークルの部室は、授業が行われている校舎の向かいにある部室棟と呼ばれる建物にあり、校門からは中庭を通っていくのが近道だった。今日は春休み初日だというのに、学内には学生が多い。きっと俺と同じ理由で来ているがほとんどで、これから開催されるであろう花見やら歓迎会と称した飲み会の幹事決めのために来たのだろう。特に中庭は陽当たりがよく、人が多く集まっているようにも見えた。
歩いている途中、中庭に行く道にこの間女装をした時に座ったベンチがあることを思い出した。よくもまぁ、あんな目立つところに座って休んだものだ。我ながら感心する。目線の先にベンチが見えて、誰かが座っているのが見えた。俺はあの時の自分に苦笑いをしながら、なんとなくそのベンチを見ないよう視線を逸らし、まだ蕾が膨らんだ状態の桜の木々を見上げながらその前を歩いた。
「まだ来ないのか?天使ちゃんからの連絡」
「天使ちゃんって……。マシロちゃんっていうんだってば!」
「幻だって。フツーに考えて、太陽みたいな童貞相手にするか?」
「うるさい、うるさい!童貞言うなっ!あれは運命だよ、約束したから絶対連絡くるっ」
「あはははっ!わかったわかった、奢るからとりあえずメシ行こ、な?」
「そこでましろんとのこと作戦練ろうぜ」
「おい、気安くましろんとか呼ぶなって!可愛いけどっ」
一瞬、背筋が凍るかと思うほど冷たい風が吹いた。冷や汗がどっと溢れる。心臓が破裂するのではと思うぐらいに早く脈を打ち、手のひらが冷たくなって手汗が滲むのを感じた。
マシロちゃん、太陽……?
今のって……。いや、今の会話って……!!
ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりベンチの方へ視線を向けると、先日俺の靴擦れを気遣って絆創膏を貼ってくれたアイツがしょげた顔をして仲間に慰められていた。
いや、マジか。マジか、マジか!
まさかまだ待っているなんて……。
あのざわざわとした感覚がまた胸のあたりを弄ってくる。あの男の潤んだ顔を再び思い出し、罪悪感が再び込み上げた。俺は居た堪れず、足早にベンチを通り越し、中庭を抜けて部室棟へ向かった。



