最低だ。自分に腹が立った。あんなのは八つ当たり以外の何者でもない。俺の無意識な行動で、力任せに握った雪弥さんの手首は赤くなってしまっていた。俺は嫉妬して、感情のままに、一番大事にしたい人を傷つけた。落ち着いて我に返った今、鼻の奥がつうんと痛む。込み上げてきた涙を拭うと、自分の情け無さがより一層身に沁みた。
 最初に話を聞かなかったのは雪弥さんかもしれない。でも、自分だって同じだった。ゆっくりあの人が自分の気持ちを話してくれるまで待てばよかった。
 あんなこと言いたくなかったのに……。
 あんなのは本心ではない。本当は今すぐにでも会いに行って、謝ってもう一度自分の気持ちを伝えたい。でも、勝手に嫉妬して傷つけて、そんな都合のいい話はないだろう。最低で最悪なことを言ったのは重々分かっている。好きになるのを辞めるなんて、本心じゃないにしろ、そんなことを口走った自分が酷く憎くて、許せない。こんなにも好きで仕方ないのに。もう雪弥さんの前に現れることさえ許してもらえなくても仕方がないだろう。
 あぁ、でも。それでも、やっぱりあの人が好きだ。この気持ちを簡単に捨てるなんて、出来やしない。
 俺は自分を追い詰めるだけ追い詰めて、嗚咽で喉が枯れるまで一人で泣き崩れていた。

 ピンポーン。
 玄関のベルが鳴って目が覚めた。ハッとした時はベッドに突っ伏していて、慌てて時計を見ると、だいぶ時間が経っていた。泣きながら寝落ちをしてしまったらしい。変な寝方をしたからなのか、首が痛い。寝起きで焦点も合わず、玄関が遠くに見える。泣き疲れたせいで目も腫れて、頭も痛かった。
 額を抑えながら扉に向かって気の抜けた返事をし、俺はゆっくりと玄関を開けた。
「良かった……居たか」
 玄関のドアの向こうに立っていたのは、ましろちゃんになった雪弥さんだった。
「え……なんで……」
 あぁ、きっと都合のいい夢を見ているのかもしれない。というか、ろくに確認もしないで開けている自分に驚いた。寝ぼけているにも程がある。俺は強く目をこすった。目の前の人が幻覚なのか本物かはっきりするのに数秒かかった。
「……入るぞ」
 固まって動かない俺を見兼ねた雪弥さんは、ジト目を向けながら強引に部屋へ入ってきた。
「あっ、ちょっと!」
 制しようにも、勝手にどんどん中へ入っていき、先程俺が伏せっていたベッドにどかりと座る。
「ちょ、何して」
「太陽、これ冷やすのある?」
 目の前に差し出されたのは、先程俺が強く掴んで赤く腫らした腕だった。もう赤みは引けていたが、薄っすらと痕が残っている。その痛々しさに申し訳なさが込み上げ、俺は慌てて冷凍庫から氷を取り出すと氷嚢を作って雪弥さんに恐る恐る渡した。
「……痛みますか?」
「少しだけな」
 雪弥さんは唇を尖らせながら言った。
「ご、ごめんなさい」
 床に膝をつけて頭を下げた。痛くないわけないのはその腕を見れば分かったし、俺が傷つけたのは腕だけじゃないのも分かっていた。
「いや……俺こそ、ごめん。いつもお前の話、ちゃんと聞いてなかった。適当にはぐらかしてばかりで、ごめん……」
 やっぱり、はぐらかしていたんだ……。
 ハッキリと本人からそう言われると、胸の奥がチクリと痛む。
「だから、ちゃんとお前に答えようと思って、ここに来た」
 俺は下げ続けていた頭をゆっくり上げた。雪弥さんと目が合って、その目が真剣なのが分かり、俺は頷くと座り直した。雪弥さんは氷嚢をテーブルに置くと口をへの字に曲げ、眉を寄せる。どう切り出そうかと、考えている様子だった。
 数秒程の沈黙の後、雪弥さんは小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「太陽、お前さ」
 真剣な表情にごくりと唾を飲む。
「はい……」
「俺の……この姿が好きなのか?」
「…………は?」
 改まって、何を言い出すんだこの人は。驚きと呆れが入り混じって複雑な顔を見せてしまった。
「……なんだよその顔。俺は真剣に聞いてんだけどっ」
 ムッとして眉を寄せ、不機嫌そうに見えた顔が真っ赤になっていく。何を自分が聞いているのかちゃんと分かっているあたりがまた可愛らしい。
「真剣にって……雪弥さん、もしかして自分のその格好に嫉妬とかして……ないですよね?」
 今度は俺の質問で雪弥さんは顔を真っ赤にした。つられて俺まで身体中が熱くなって、自分の顔が赤く染まるのを感じた。
「……やっぱ、なんでもないっ」
 雪弥さんはそのままベッドに寝っ転がり、反対方向を向いてしまった。
 なんだこの人……。雪弥さんって、こんなに可愛い人だったのか。
 ましろちゃんとして出会った時はそりゃ天使かと思ったぐらいには可愛いくて、そして優しくて、それでいて繊細で……挙げたらキリがないほど色んな所に惹かれていた。だけど、雪弥さんを知った上でこれは反則だろう。いつも上から目線で、俺なんて興味ない、鬱陶しいとでも良いそうな態度なくせに、心の奥ではましろちゃんと自分を秤にかけていたのか。
「雪弥さんっ」
 思わず、彼の上に覆い被さる様にベッドに手を付いていた。
「なっ、なんだよ!ってか近いっ、離れろ!」
「い、嫌です」
「はぁ?」
「俺、その格好で俺以外に会うのなんて許せないぐらいに嫉妬してます……。俺が最初に見つけた天使なのにって。正直、今でもめちゃくちゃ腹立つし、あのイケメンが凄く憎いですけどっ!でもそれは、ましろちゃんだからじゃありません。相手が雪弥さんだからです」
 俺は雪弥さんの肩に顔を埋めた。最初から諦めるなんて無理だった。俺の事で悩んだこの人を簡単に手放すことなんて出来やしない。
「……太陽」
 名前を呼ばれて顔を上げた。雪弥さんの顔も、ほんのり赤らんでいる。目を合わそうとすると、その視線が逃げていき、それだけで喉が唸った。
「……俺、雪弥さんが好きです。その格好も、そうじゃない時も、全部含めて貴方が好きです。好きになるの辞めるなんて、やっぱり無理です」
 毎日言い続けてきたけれど、今まで以上に気持ちを込めて伝えた。心臓が口から飛び出しそうだった。心音が爆音で耳の奥から聞こえてくる。雪弥さんにも聞こえてしまいそうだったが、そんなことすらどうでも良くなった。
「お願いですから……俺だけの特別な人になってください……」
 掠れる声で情けなく縋るようにそう呟くと、耳元で雪弥さんの溜息が聞こえた。
「お前なぁ……」
「え……」
「ずるいって、そういうの……」
 雪弥さんは俺の下で顔を隠しながら小さな声で言った。ちらりと見える少し潤んだ目が俺を見上げている。薄い唇が少し震えているのが分かり、思わずその頬に触れた。
「雪弥さんは……俺のこと、どう思っているんですか?」
 すり、と頬を撫でると、雪弥さんは擽ったそうに肩を上げた。
「……俺は」
 小さな声でぼそりと呟く。自分の心臓が煩くて、雪弥さんの声が拾えなくなりそうで、ゆっくりと顔を寄せた。
 その時だった。Tシャツの襟を掴まれ、強引に顔を引き寄せられた。
「わっ」
 驚いて声を上げたのも束の間。柔らかいものが唇に触れるた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 俺は、雪弥さんに唇を塞がれていた。
「んっ……」
 初めての感触に目がチカチカする。息の仕方が分からないのに、この苦しささえ嬉しくて堪らない。目を閉じると、雪弥さんの腕が首の後ろに回された。シーツの擦れる音が耳に響く。
「……はぁっ」
 離れると同時にくちゅっと音がして、二人して耳まで赤くなる。目が合うだけで心臓は跳ね、さっきよりも忙しなく大きな音を立てていた。雪弥さんの顔を見るだけで胸がキュッとなる。嬉しい、苦しい、愛おしい。全部の感情が溢れ出してしまいそうだった。居ても立っても居られず、俺はそのまま彼を自分の胸へと引き込んだ。すると、雪弥さんはくすりと笑って、俺の背中に腕を回すと肩口に顔を擦り寄せながら言った。
「俺……太陽が好きだよ」
 それは小さな、震えた声だった。彼なりの勇気と本心がぶつけられた気がして、擽ったい。
「……俺も好きです、大好きです」
「ふふ……知ってる。何度も言われたっつーの」
 くすりと雪弥さんが笑って答えた。耳元に吐息が掠れ、そこが熱くなる。顔を上げて彼の顔をもう一度見ると、恥ずかしそうに笑いながら顔を少し背けられる。そんな仕草一つが愛しくて、苦しい。いろんな感情が一気に押し寄せて、もう一度抱きしめた。格好はましろちゃんだが、触れば男の人だとハッキリわかる。雪弥さんだから触れられるだけで嬉しくて、愛おしいのだと実感した。途端に、鼻の奥がつうんと痛み、目からぼろぼろと涙が溢れ出る。
「……何泣いてんだよ」
「だって……俺っ、嬉しくてっ」
「キスしただけだろ」
「だって、雪弥さんが俺に好きって……」
 キスは勿論のことだが、何よりも恋焦がれた人からの告白が嬉しかったのだと、俺は情けない顔で言った。
「バカ、大袈裟だってば」
 首に回された手が伸びて、頭を優しく撫でられる。優しい手付きにまた鼻を啜ってしまった。あぁ、なんて幸せだろう。やっと念願が叶った。嬉しくて、心臓が張り裂けそうだ。
「どうしよう……。俺、嬉しすぎて死んじゃうかも……」
 雪弥さんの胸に顔を埋めると、頭上で溜息が聞こえた。
「おまえね……死んだらなんも出来ねぇぞ」
「だって、今が幸せすぎてこれ以上何も望めないでしょ……」
 今が幸せすぎてこれ以上を望んでしまって良いのだろうかと不安になる。すると「……ったく」と小さな舌打ちが聞こえ、雪弥さんに襟首を掴まれた。 
「おまえ、俺と付き合ったらそれでゴールな訳?」
「えっ……」
「何がしたいか言って見ろよ。全部、叶えてやっても良い……んだからな」
 尻切れになっていく雪弥さんの声。言っていて恥ずかしがるのなんて狡すぎるではないか。
「デート、したいです。水族館とか、映画とか……一緒に服を買いに行ったりとか」
「……分かった、行こう」
 雪弥さんが俺の手を握り、指を絡めながら言った。
「それから、雪弥さんの誕生日も祝いたいです。ケーキ買って、好きなものとか食べてるとこ見たいです」
「誕生日って……俺冬生まれだぞ、まだ先じゃねぇか」
「良いんです。その間に俺の誕生日があるから、祝ってもらうんです」
「……はいはい。それで、他は?」
 雪弥さんが俺の指を自分の指で撫でながら聞く。擽ったいのに、触れられているのが嬉しくて奥歯を噛み締めた。
「もう一回、キス……したいです」
 すると、再び唇が重なった。触れるだけの甘くて優しいキスだった。一瞬、何が起きたか分からなくて、ぽかんと口を開けたまま雪弥さんを見つめていた。すると、痺れを切らした雪弥さんが「……何か言えよ」と赤い顔で俺を見上げる。俺は返事の代わりに彼の唇にキスを落とした。
「……雪弥さん、俺……」
 抱きしめていた身体を少しだけ離し、雪弥さんの背中をシーツに押し付ける。首元に鼻先を擦り付けると、微かに甘い香りがして噛みつきたくなった。
「……太陽、それ以上はダメだ」
「えっ」
 雪弥さんはゆっくり俺の身体を離す。そのまま身体を起こすと、寝転がってずれてしまったウィッグを直した。
「……今日は話をしに来ただけだし。それにこの服、姉さんのだから」
 雪弥さんは最もらしい理由を言って、服を正す。そりゃ、今日の今日で進展なんて流石に性急すぎた。反省を込めて、俺はそれ以上引き留めるのをやめ、ベッドから起き上がる。
「すみません……送ります」
 明らかにがっかりした顔をしたようで、雪弥さんは俺の顔を見て急に吹き出した。
「なんだよ、その顔」
「だって。俺、やっと彼氏になれたのに……。そもそも今日、なんで黒崎さんと一緒にいたんですか」
 思い出したことをつらつらと口に出すあたり、女々しいと思われただろう。だけど、今日はダメな理由の中に、あの人が絡んでいるんじゃないかと思ったら、気が気ではない。
「あー……あれはだな……。安心しろ。あの人とは何もない」
「本当に……?あの人格好良いし、俺よりも全然余裕あるし、それに優しそうで……」
「だから、全部お前の誤解だっつってんだろ。姉さんの頼みでこの格好で出かけたら、たまたま会ったんだよ。そんで、成り行きで一緒にいただけ。第一、この俺があの人の頼みでこの格好する訳ないだろ」
 雪弥さんが呆れ気味に答えた。ぐずぐずになった俺の顔を見て、ハの字に眉を寄せると静かに笑う。そして俺の両頬を優しくつねった。
「い、痛ひれす……」
「いい加減、そのネガティブ思考やめろよ。お前、名前負けにも程があるぞ」
 雪弥さんは呆れ顔で俺の頬をぐい、と引っ張って指を離した。引っ張られたところがジンジンと痛み、俺は両手を頬に当てる。
「太陽は堂々としてろ。俺の、彼氏なんだろ」
 そう言うと、持ってきた小さな鞄の中からミラーを取り出して顔を隠すようにメイクを確認し始めた。さっきのキスで取れてしまったリップを気にしている姿は、女の子のようで、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
「ううん。やっぱ、雪弥さんって可愛いと思って」
 俺が笑って答えると、雪弥さんは「はぁ」と分かりやすく大袈裟に溜息を吐き、小さな声で「うっせ」と言った。