「うん、我が弟ながら嫉妬に狂いそうなほど可愛い」
 カシャリとスマホのシャッター音が部屋に響いた。その一回を皮切りに、姉さんのスマホは俺に向いたまま休むことなくシャッターを鳴らす。姉さんは何度も同じ角度から写真を撮っては「うん、顔面最高」と一人で頷いている。というのも、合コンの帰宅後、罰ゲームの件を姉に愚痴ったら、なぜか物凄い気合いを入れて色んなメイク道具を引っ張り出してきたのだ。何を隠そう、この姉、趣味がコスプレなのである。ただの愚痴のつもりだったが、そのコスプレ魂に火をつけてしまっていたらしい。気が付いた時には、頼んでもいないのに長さや色の違うのウィッグを数種類並べ、更には自分が着ている服や着なくなった服をごっそりと俺の部屋へ持ち込み、聞いてもいないことをベラベラと喋りながら人の身体に当てがって、あーでもない、こーでもないと忙しなく動き始めていた。
「雪弥は肌も白いし、ピンク系が似合うと思ったんだよ〜。うん、可愛い。ムカつくぐらい完成されてる」
 淡いピンクのトップスに、クリーム色のロングスカートを着せられ、栗色でセミロングのウィッグを被せられた。色も光の加減でピンクに見える、今時の女の子がしてそうな髪色だ。メイクもされ、鏡で見れば確かに映っているのは自分では無いように見えた。
「これがきっかけでコスイベに興味が湧いたらいつでも言ってね……!姉弟でやれたら超エモいしバズる」
「悪いけどそれは絶対に無いよ、姉さん。でも、うん。俺じゃないみたい……。ありがと」
 溜息混じりでお礼を言い、重たい腰を上げて姉に借りたバッグを持った。
「え、もう行くの?」
 まだ写真を撮り足りないのか、残念そうに姉さんが言った。
「近所の人に見られる前にさっと消えたい」
「私の友達が泊まったって言えば大丈夫よ」
「喋ったら俺だってわかるだろ」
 姉さんはそれはそうだ、と笑った。他人事だと思って楽しんでいるのはわかるが、世間的にはまだ驚かれることのが多い行為だということも分かってほしい。そもそも何の兆しもなかった俺が急に女装した時点で騒ぎのタネになる。
「とりあえず、行ってきます」
「一応黙ってれば可愛いからナンパに気をつけなさいよ。あと、なるべく可愛く笑うこと。声も頑張って高めに出して。あと、猫背には注意。それから……」
「行ってきます」
 俺は遮るように玄関のドアを閉めた。閉じたドアの奥から姉がまだ騒いでいたが、これ以上玄関先で騒ぐ方がご近所の注目の的になってしまう。
「……よし」
 覚悟を決めた俺は、慣れない靴を履いた足を一歩前へと動かした。今日は姉が用意した大きめなパンプスを履いた。踵をつけると、コツコツという音を立てた。普段履いている靴とは違ってカパカパして、面積が少ない。足の甲に風が当たるのが不思議だった。初めて履いたスカートにも違和感があり、歩くたびにふくらはぎのあたりで裾がふわふわと揺れ、その慣れない感覚に戸惑ってしまった。色んなことが気になり、ただ歩くだけなのに神経を無駄にすり減らす。怖くて早歩きすら出来ない。女の子ってこんなに大変だったのかと思わぬ形で実感した。
 結局、早めに出たというのに、駅に着くのにはいつもよりも時間がかかってしまった。


 大学に着く頃には靴擦れができ、歩き方はもっとぎこちなくなっていた。おかげで教室へ向かうのも億劫になった。踵のすぐ上が靴に当たるだけで、激痛が走り、無意識に爪先立ちになる。とにかく座りたい。慣れないと疲れるだろうから、と言って姉さんはわざわざヒールの低い靴を選んでくれていたが、正直もう限界だった。何度も突っかかり、転びそうになる。大学に来るだけでこんな思いをしなければいけないのか。何度も言うが、これを毎日さらりとこなしてしまう女の子達って本当に凄い。すくそばを通りすぎて行く女の子達はスタスタと足速に歩いている。きっと、彼女達も最初はこの痛みを味わったに違いない。自分の踵を見ながら、俺はそんなことを思った。

 地味な痛みが歩行の邪魔をするため、とうとう俺は目についたベンチに腰掛けた。座る時はスカートを整えてから、という姉さんの教えをきちんと守り、教え込まれた作法で腰を下ろす。どこで誰が見ているかもわからない。そもそも女装だ。女の子になり切らなければ、今後の大学生活に支障が出る。
 それもこれも、全部青木先輩のせいだ……!
「あっ」
 俺は青木先輩に連絡をしていなかったことを思い出した。パンプスを脱ぎ、足を伸ばしながら小さなカバンからスマホを取り出した。足がつるぐらいに伸ばし、強張っていたふくらはぎの筋肉をほぐす。スマホで青木先輩に連絡を入れて、腕を頭の上で組みながら、ぐいっと伸びをした。ピキッという音が背中から鳴る。ゆっくりと息を吐き、俺はそのまま空を見上げた。大学に来るだけでグラウンドのトラック十周分走った程度には疲れている。頭に昇っていた血が一気に下がっていった。いつもなら、こんな数時間でどっと疲れることはない。これを毎日やれと言われたら絶対に無理だと思い、余計に目の前を通過して行く女の子達に尊敬の眼差しを向けてしまう。
 まぁ、今日一日ぐらいだし、どうせ明日からは長い春休みだ。きっと良い笑い話になるだろう……。
 誰にも声をかけられていない俺は、ただベンチで休んでいる一人の女子学生にしか見えないはず。靴擦れ以外にまだ何のトラブルも起きていないせいで、気持ちに余裕さえ出てきていた。