コンビニのアルバイトを終えて帰宅すると、もう間も無く日付が変わるという時刻にも関わらず、待ってましたと言わんばかりの勢いで姉さんが部屋に入ってきた。顔は赤く、口元が緩み、鼻息が荒い。なんとなく嫌な予感がし、部屋から押し出そうと試みるが、こうなった姉さんほど厄介なものはない。
 仕方なくこちらが折れると、嬉しそうな顔で人のベッドにどかりと座った。
「何なの一体……。俺、バイト上がりで疲れているんだけど?」
 今日は大学一年生の新人バイトに品出しを教えたりと、色々と気を遣って疲れていた。もうシャワーを浴びてさっさとベッドに入りたい。睡魔は直ぐそこまで来ていた。
 欠伸混じりで机の椅子に座ると、姉さんは真剣な顔で言った。
「雪弥、明日って暇?一生のお願いがあるんだけど……!」
 姉さんの一生のお願いは結構な頻度で聞かされている。一生を付けるほどいつも大したことじゃないのだが、今日の感じはいつもと焦り方が違う。
「一応予定は何もないけど。で、今回はなに?」
 半ば強制的に付き合わされるのを見越した俺の返答に、姉さんは嬉しそうに答えた。
「あのね、本当に申し訳ないんだけど……」
 姉さんは俺の両手首を掴み、満面の笑みを浮かべながら言った。
「明日、女装して一緒に出かけてほしいの」
 ダメ?と、姉さんは猫撫で声で言う。
「……嫌ですけど」
「そこをなんとかお願い!」
 両手首を掴む力が急に強くなり、顔が引き攣った。
「……それ、女装じゃないといけないの?」
「そうなの、ダメなの!」
 食い気味に言われ、思わず仰け反る。勢いの良い声とは裏腹に、先程からずっと申し訳なさそうな顔をし続けながらジリジリと詰め寄ってくる。メイクの技術といい、我が姉ながら器用な人間だ。
「わ、わかった……」
 女装に関しては色々助けてもらったおんもあるため、俺は姉さんの頼みを断る事ができず、何も聞かされないまま明日の予定を承諾をした。

 翌日、わざわざ女装までして連れてこられた場所は、最近流行りのカフェだった。なんでも、女性同士のグループだと割引サービスがあるらしい。友人と予約をしていたが、急用が出来て断られてしまい、他にあてが無く俺に頼み込んだと言う。そうまでして入りたい店なのかと聞くと、予約したからキャンセル料発生だけは避けたいと返ってきて落胆した。
「ちょっと、可愛い顔が台無し。せっかく美味しいって人気のパフェ頼んだんだから、もっと楽しそうな顔してよ」
 俺の呆れ顔を見て姉さんが不満気に言った。
「パフェごときで俺の身体……安いなぁって思ったんだよ」
「ごときって何よ、ごときって。可愛く仕上がったからか良いじゃない」
 そういう問題ではない。言い返しても無駄なのはわかっているが、今後もこういったことに使われるのかと思うと、弟という生き物は難儀な運命だと感じた。だが、姉さんに用意された服やウィッグをつけてここに座っている時点で全て無駄な抵抗と言われても仕方なかった。今日の格好は、さくらんぼ柄のクリーム色のワンピースにデニムジャケット。髪型はましろちゃんの時と同じウィッグだ。全部、女の子が着ていたら、きっと可愛い格好だろう。
 本物の女の子なら……。
 きっと、太陽もこの格好を可愛い、天使だとか言ってくれるだろう。その本心は可愛い女の子と恋愛を楽しみたいからくるものに違いない。姉さんが着せてくれる服も、メイクも全部俺だけど俺ではない。あの日、太陽が自分を探して走り回って来てくれたことに舞い上がった。自分を騙した俺を好きでいてくれたのだと、嬉しかった。だが、今では「ましろちゃん」になればなるほど、自分に自信が持てなくなってしまっていた。
 情けな……。
 俺は深々と溜息を吐いた。姉さんが「雪弥も甘いもの好きでしょ?」と、見当違いなことを言ったのと同時に、先ほど注文したパフェが運ばれて来た。
「てっきり、合コンの人数合わせとかに連れてこられると思ってた」
「はぁ?何が悲しくて弟をそんな所に連れて行くのよ。そんなに人望無い訳じゃないし。今日はたまたまなのっ」
 運ばれてきたクリームブリュレのパフェを口に入れ、にこにこと嬉しそうな顔をしながら姉さんが言った。カスタードのふわりとした甘い香りとカラメルの香ばしい匂いがテーブルを囲う。
「ま、合コンでも良かったかもね」
 数秒前まで弟なんて連れて行けるかと言い返した姉さんは途端に手のひらを返した。
「今さっにそれは無いって言ったじゃん」
「アンタでイケメン釣れたかもだし?」
 ニヤリと悪びれもなく笑う姉さんは楽しそうに笑った。そういう性格だったな、と俺も苦笑いを返してやる。
「イケメンと言えばさ、さっきからこっち見てるんだよね……。あの人。雪弥狙いかな、私かな?」
 姉さんは小声で話しながらスプーンで反対側のテーブルを指した。行儀が悪い、と嗜めながら振り返って姉さんの言うイケメンの姿を確認すると、そこに座っていたのは、まさかの人物だった。
「く、黒崎さんっ」
 思わず声に出してしまい、しまったと思った時はもう遅い。黒崎さんとばっちりと目が合ってしまった。
「あ、やっぱり真城だ。似ている可愛い子だなーって思ってたんだよね。今日は何の罰ゲーム?」
 突然のことすぎて頭痛すら感じる。なんでこんな時にこの人と会うのだろうか。
「罰ゲームじゃないですけど……まぁそんなようなもんです」
 姉さんは俺と黒崎さんを不思議そうに眺めながら、パフェを食べ進めていた。まさか本当にイケメンが釣れたとか思っているんじゃなかろうか。
「ねぇ、雪弥。この人、知り合い?」
「うん。大学の先輩」
「そうなの?初めまして、姉の玲奈です」
 姉さんが軽く会釈をすると、黒崎さんはとびきりの笑顔で返事をひた。
「黒崎です」
 軽い挨拶だけでその場を離れると思っていたのに、黒崎さんは手に持っていた読みかけの本を閉じて鞄にしまい込んだ。
「なんでこんなとこに……っ」
「あぁ、家が近くて。ここ、コーヒー美味しいって有名なの知らない?」
 彼の手元にはこのカフェのロゴが描かれたマグマカップが置かれている。
 読書好きのイケメンにコーヒー。本当にいちいち勘に触る人だな……。
「真城、ちょっとこの後時間ある?」
「え、いや今姉さんと」
「行ってきていいけど。割引はちゃんとされてるみたいだし」
 姉さんはテーブルの隅に置かれた伝票を確認しながら言った。
「えっ、そこは普通断れって言うだろ」
「あはは、素直だなぁ。お姉さん、『妹さん』借りますね」
 含みのある言い方で黒崎さんは俺の手を取る。姉さんが黒崎さんを見つめ、顔を赤めたのが見えた。
「ちょ、黒崎さんっ」
「いってらっしゃーい」
 姉さんはにやりと笑いながら俺に手を振った。
 なんの想像をしてるんだよ!
 後から連絡先を教えろという算段なのか、片方の手は親指を立ててウィンクまでしていた。