逃げるようにその場を離れた。心臓がおかしなほど高鳴っていてどうにかなりそうだ。焦燥感よりも高揚感のが近い。何故だろうか、あんな嘘をつかれたというのに、あの人にまた会えたという気持ちが昂ぶってしまう。
 もう会えないとばかり思っていたのに……。
 部室にビラの入ったダンボール箱を取りに行った時だった。すでに他の部員がブースへ運び出した後だったと言われ、仕方なしに踵を返していると、部室の机にスマホを置いてきてしまったことに気がついた。慌てて振り向いたため、真後ろに人がいたことに気がつかなかった俺は、そのまま勢いよくぶつかってしまったのだ。しかもそのぶつかった相手は、つい最近あのパスタ屋で見かけた「ましろちゃん」の知り合いだった。俺が急に立ち止まって振り向いたのがいけない。互いに怪我はなかったものの、ぶつかった時に相手がパイプ椅子を手放したため大きな音が響いてしまった。おかげで、階段からはパスタ屋で見かけたもう一人の男の人と、俺がずっと会いたくて焦がれた「ましろちゃん」が降りてきたのだ。
 折角再び会えたというのに、俺は驚きと気まずさで何も言い出すことが出来ず、逃げるようにその場を去ってしまった。
 あのデートの日、何も言えなかったことをずっと後悔していたのに。なんでまた、逃げたんだよ……。
 そうは言っても、本当は怖くて仕方なかった。きっと自分の中で「ましろちゃん」は、まだ好きで、好きで好きでたまらない存在なのだろう。最初は見た目だけに惚れたのかもしれない。だが、連絡を取ったあの数日間も凄く楽しかった。ここ数日は毎日浮かれていたし、自分の関わるもの全てに花が咲いたような気がした。騙されていた、全部嘘で同性でした、と本人からそうはっきりと言われても、それでもこんなに考えてしまうし、なんならさっきもう一度会っただけでこんなにも心臓がうるさい。
 こんなに胸がざわつくことなんて、他にあっただろうか。
 慌てて部室へ戻ると、中にいたサークルの先輩達に驚かれた。
「あ、やっぱ戻ってきた。ほら、スマホ忘れてんぞ」
 大した段数の階段じゃないのに、息が荒くなっていて、呼吸を整えながら先輩からスマホを受け取った。
「何、慌ててんだよ。見られちゃいけないデータでも入ってんのか?」
「ち、違いますよ」
「ふーん。ま、アレだろ。さっき下に見たことない可愛い子いるってメッセきたから、アドレスでも聞き出そうとして取りに来た……ってそんな感じか?」
 先輩がニヤニヤと笑いながら言うと、窓を開けて下を覗き込んだ。
「ほら、あの辺人多くないか?」
先輩が言った方向には確かに人が多く見えた。でも、二階の窓からだと全体を見渡すのは少し無理がある。 しかし、その見たことない可愛い子というのは、何となく誰だか分かっていた。
「お、新情報キタ!」
 もう一人、窓辺で見知らぬ美女を探していた先輩が、スマホの画面を見ながら言った。どうやら、下の中庭にいる誰かから連絡を受けたらしい。
「イベ部の人らしいぞ。誰かの手伝いかもな。あのイケメン黒崎の近くにいるのを見たって聞いたけど、あいつの彼女かも?」
「でも黒崎に彼女がいるなんて聞いたことないけど?」
「マジか。じゃあ俺、声かけに行ってこようかな」
「ちょ、待ってください、それはダメ!」
 咄嗟に出た大きな声に。自分でもビックリして慌てて口を塞いだ。冗談混じりだったが、その先輩の目が本気に見えて思わず叫んでしまった。
「どうしたんだよ、急に」
「もしかして、お前の知り合い?」
 窓の方を見ながら先輩達が言った。知り合いと言えば知り合いだが、上手く説明ができない。
「す、すみませんっ、俺、手伝いあるのでっ」
 先輩達に顔を覗かれた俺は、それを避けるように部室から飛び出した。勢いで飛び出した俺は、とにかく中庭まで走った。焦りすぎて足が縺れそうになり、部室棟の入口で躓きそうになったのを、なんとかバランスをとって踏みとどまる。他の準備の学生が通りすがりに変な目で見てきたが、気にしているほど余裕がなかった。
「あぁっ!もうっ」
 両脚の太ももを拳でガツンと殴り、自分に気合を入れると、俺は新入生勧誘ブースを走ってワンピースを着た「ましろちゃん」を探した。イベント部の場所がどこに設置されているかもわからない上に、この大学のサークル数は膨大で、かなりのブースが設けられていた。インカレのサークルも含めたら結構な数で、小さなスペースを詰めあって作られたエリアは、狭い中庭内では収まらず、校門へ続く通りにも広がっていた。息が上がり、四月の少し涼しい風が気持ちいいぐらいに感じる。喉もカラカラに乾き、呼びながら探すのは難しかった。ぜいぜい言いながら走っては歩き、走っては歩きを繰り返す。バスケットボールのサークルに所属しているくせして体力が殆ど無くて情けない。
 どこに、どこにいるんだろうか。
 自分は逃げた身だ。これ以上彼に付き纏っても意味がない。あっちだって迷惑だろう。気持ち悪がられるのがオチだ。追いかけても関係を発展させることなどできやしない。諦めたら楽なのは分かっているのに、何も知らない他人に、あの人を「可愛い」と言われるのが何より腹が立って、居ても立っても居られなかった。
 走るのをやめ、クールダウンがてらゆっくりと歩く。後ろポケットに入れていたスマホが鳴りっぱなしだった。きっとサークルの先輩が持ち場を離れたことに激怒しているのだろう。ここまで来たら諦めきれず、辺りを見ながら歩いた。すると、離れたところに人だかりが出来ているのを見つけた。
「え、雪弥なの、マジ?」
「うーわ、俺騙されたわ」
「めっちゃ別人だし、可愛すぎ!」
「女の私ですら嫉妬するレベルなんですけどっ」
 きゃあきゃあと騒ぐ女の子達の声が響く。手に持っている手作りの看板や服装などから推察するに、他のサークルの勧誘担当者達が持ち場を離れてとあるブースに群がっているようだった。聞こえてくる内容が気になって、そのブースを遠目から確認すると、そこは探していたイベント部のブースだった。
 人と人の間から中を覗くと、その中心に困ったように笑っているあの人を見つけた。すると、俺は人集りの開いた狭い隙間に体をねじ込ませると、咄嗟に手を伸ばして彼の腕を掴んだ。
「えっ、おまっ……!」
 目をまん丸に見開いて驚いている彼の腕を自分の方へと引く。周りの人も驚いて、俺と「ましろちゃん」から離れた。
「ちょっ、どうしたんだよ」
「どうもしない……はず、なんだけどっ」
「……何だよ。笑いに来たのか?女装癖、オカマ?否定はしないでやるよ、こんなに似合ったらモテるのが楽しくて仕方ないからな」
 震える声で皮肉めいたことを話す彼に、俺は首を強く振った。
「……笑わない、笑えるわけないっ」
 掴む腕に力が入ってしまう。彼の表情が歪んだが、この手を振り払われたらもうこれっきりだ。
「そりゃそうだよな、冗談でも笑えないよな。だっておまえ……」
「俺は本気だったんだよ!本気で、惹かれたんだよ……。誰にも渡したくないってぐらい衝撃的で、笑った顔も、俺に気をつかう優しさも。全部惹かれたんだよ……!」
 何を言ってるか、自分でもわからなかった。それぐらい必死だった。この手を離したくない気持ちが溢れて出てしまった。
 数秒の間を置いて、周りがざわつき始めた。ハッとして「ましろちゃん」の顔を見ると、今にも火を吹きそうな赤い顔で俺を睨んでいた。
「あ、そのっ……ごめ」
「クソっ……!おまえ、こっち来い!」
「ましろちゃん」が俺の腕を掴むと勧誘ブースから急足で連れ出した。
「ちょ、ましろちゃん、どこ連れてくのっ?」
 掴まれた腕が痛み、自然と眉をハの字に寄せた。
「その、ましろちゃんって言うのを今すぐやめろ。雪弥で良い」
「えっと、雪弥……ちゃん?」
「雪弥で良いって言ってんだよっ!」
 急に振り向いた彼は、目には涙をたくさん溜めていた。
「えっ!な、何で泣いて」
「バカ!お前、なんであんなとこでなんつーこと言うんだよっ!この大バカ!」
「えぇっ……!ごめん、だってなんかその、他の人に好きになられたら困るっていうか……その、必死で」
「……っとにお前……。バカでアホすぎんだろ……。そんなの、冗談でも太陽ぐらいしか言わないっつーの!」
 彼から鼻の啜る音がして、恥ずかしさのあまりに泣かせてしまったのが分かると、ぎゅんと胸を締め付ける苦しさが増し、思わずそのまま抱きしめてしまった。
「ちょ、本当なにやってんだよ!離せっ」
「やっぱり……。ましろちゃんは天使だ」
「はぁ?」
 背中をばしばしと叩かれているのに、全然痛くもない。むしろそれが心地良いぐらいだった。呆れられたのか、諦めたのかわからないが、雪弥は次第に抵抗をするのをやめた。
「……俺、冗談で人に好きとか言えないよ」
「あのな、太陽。前にも言ったけど、俺は男だぞ」
「うん。知ってる……分かってる」
「女装しておまえのこと騙したんだぞ」
「うん。でも、それがあったから会えた」
 雪弥は大きな溜息を吐いた。
「……あのなぁ……。俺がお前なら殴ってるところだぞ」
「俺は殴らないよ。だって、好きな人を傷つけられないし」
「……俺は傷つけたよ」
「あんなの、かすり傷だってば。それに、ましろちゃんが好きになってから毎日楽しかったし、全然痛くも痒くもない」
 雪弥はぎゅっと俺の背中に腕を回した。
「おまえ本当にバカだな」
 クスクスと嬉しそうに笑う雪弥の吐息が耳に触れる。さっきまでざわざわとしていた胸の違和感がさらりと消えた気がした。