教室の窓を開けると、まだまだ続く夏の名残が、もわもわと身体にまとわりつく。
 一番後ろの窓際の席。前に座っているのは、自分よりもガタイのいいラグビー部の男子。だから、この席は教室の隅っこで誰にも気づかれないように息を潜めるにはうってつけの席だった。
 うってつけの、はずだった。

「ねえ、また会ったね。同じクラスだったなんて、びっくり」

 高く澄み渡る秋の空みたいな透き通る声で、きみは俺に声をかけてきた。
 高校一年生の二学期の始まりに転校してきたきみは、くるりと大きな瞳を何度も瞬かせる。
 見たことがある。
 昨日、知らない学校の制服を着た彼女が、廊下できょろきょろと辺りを見渡していた。道に迷ったんだろうって思って、一声かけたことを思い出す。
 彼女とはきっと、これから関わることはないだろうと、油断していたから。
 
「名前」

「え?」

「名前……なんていうんだっけ」

「えーうそ! 今さっき自己紹介したばかりじゃん」

「……そうだっけ?」

 目の前の少女は、心底驚いた様子で、今度はぴょんと肩を揺らした。
 そうだ、俺、何言ってんだ。
 たった今、担任が「転校生を紹介します」と言って、彼女を連れてきたんじゃないか。
「あなたの席は、この列の一番後ろです」って、彼女を俺の隣に案内して……。
 ああ、そうか。
 黒板を見つめる。そこには、堂々と大きな字で「渡会青葉(わたらいあおば)」と書かれていた。

「渡会、青葉……」

「うん、そうです。自己紹介、ちゃんと聞いてほしかったなぁ」

 残念そうなのに、どこか面白がっている。そんな彼女の情緒はいまいちよく分からない。俺はただ、学校で誰にも話しかけられないように、一日を過ごすので精一杯になっているだけなのだ。
 誰も、俺に興味を持たないでほしい。
 俺のことなど気にかけないでほしい。 
 まして、俺と友達になろうなんて、思わないでほしい。
 そのために、息を吸って吐くのさえ、誰の気にも留まらないように細心の注意を払っている。
 それなのに、どうしてきみは。

「改めまして、渡会青葉です。一年生の二学期に転校してくるなんて変なやつだって思わないでね? 性格は、うーん、たぶん明るい方だと思う。前の学校では天然だって言われてたけど、そうなのかなあ。とにかくよろしくお願いしますっ」

 朗らかな笑顔が、終わりかけの夏の寂しさをどこまでも吹き飛ばしていく。
 自己紹介の時に自分の性格について触れる人間は、どれくらいいるんだろう。
 少なくとも、俺は今まで出会ったことがない。彼女が天然と言われている所以は、なんとなく理解できた。
 
「初めまして、坂倉光希(さかくらみつき)です。……で、悪いんだけど、俺とは極力関わらないようにしてほしい。席は隣だけど、何か聞きたいことがあるなら、向こう側の片町(かたまち)の方に聞いて。俺には、話しかけないで、くれ」

 辿々しい口調で、思っていることを一気に捲し立てるようにして伝えた。
「初めまして」の挨拶の後に「自分と関わるな」と忠告してきた俺に対して、渡会青葉はぽかんと呆けたように口を開けている。
 まあ、そりゃそうだよな。
 転校してきたばかりで心細い中、隣の席のやつに、いきなり拒絶されるようなことを言われたんだから。
 でもこれで、俺は彼女の中で性格の悪いやつだって認識されたはず。
 彼女と、必要以上に関わらずに済む。
 そうなれば本望だ。
 俺は、この一年一組の教室の端っこで、息を潜めて生きる存在。誰にも気に留められることのない。そうやって高校三年間を過ごす。いや、高校を卒業してからも死ぬまで、ずっと。
 誰にも興味を持たれず、誰にも好かれず、ひっそりと生きていく。
 だって、俺は——。

「ふふ、あはは」

 からからという笑い声が目の前から飛んできた。
 渡会青葉が、口に手を当てて笑っている。
 俺に顔に何かゴミでもついているだろうか——とそっと顔を拭う。けれど、もちろんそんなことはなかった。

「面白いね。そういうドッキリが流行ってるの? 転校生の私をびっくりさせようっていう」

「……は?」

「え、え、違うの!? もしかして、本気のやつだった……?」

 こっくりと頷く俺。
 一体彼女は何を考えているのだろう。俺のこの真面目なトーンで話す言葉に、こんなふうにドッキリだとか言ってくるやつ、今まで出会ったことないのだが。

「う、うわぁ……私、めっちゃ恥ずかしい勘違いしたってことじゃん! 転校初日から。うう……恥ずかしい……」

 両手で顔を覆う彼女が、新種の生き物みたいで新鮮だった。
 ……って、俺も何を考えているんだ。
 彼女とは、これ以上近づいちゃいけないのに。

「と、とにかく! 関わらないっていうのは多分無理だと思う。お隣さんだし。色々聞きたいこともあるの。それにみっきー(・・・・)は、昨日迷子になってる私に、声かけてくれたじゃん。もう関わっちゃってるから、しょーがない!」

 ツッコミどころ満載な彼女の言葉に、俺はただ「はあ」と頷くことしかできない。

「あ、光希くんだから“みっきー”ね。嫌だった?」

 別に嫌じゃないけど。

「昨日は職員室の場所、教えてくれてありがとうね」

 困ってる人を見かけたから、当たり前のことしただけだし。

「それじゃ、これからよろしくお願いします〜!」

「……よろしく」

 咄嗟につられて挨拶をしてしまった。彼女がにやり、と唇の端を持ち上げる。
 大変なことになってしまったな、とぼんやりと思う。
 できるだけ他人と関わらないようにして、高校一年生の一学期を過ごしてきたというのに。二学期になって、まさか転校生がやってくるなんて。しかもその転校生が、空気の読めない天然女子で。だけど、どこか憎めない気もしていて。
 ……危ない、な。
 彼女と、やっぱり近づきすぎるべきじゃない。
 だって彼女は、あまりにも純粋で、心が綺麗そうで、それに見た目だって、可愛らしいから。
 俺と関わって、傷つけてしまうのが怖い。
 俺はきみを傷つけたくない。
 誰のことも、もう傷つけたくはないんだ——……。

「みっきー、大丈夫?」

 俺の顔を覗き込む彼女の瞳に、怖い顔をした自分の表情が映り込む。
 怯えている。ひどく、怯えた表情をした自分。
 
「ごめん」
 
 彼女から目を逸らして、俯く。机の中に手をつっこんで、ガサゴソと一時間目の数学で使う教科書を探すふりをする。

「教科書、私まだ持ってないんだ。見せてく——」

「片町に頼んでくれ」

 彼女のお願いを遮って、向こう側の片町を指差した。
 感じ悪いことは承知している。けれど、やっぱり関われない。関わったら、きっと俺はきみを傷つけるから。
 彼女は瞠目したままぴたりと動かなくなった。

「……うん、ごめんね」

 寂しそうにそっと呟いた彼女の声が、授業中もずっと耳に残っていた。