教室の窓を開けると、まだまだ続く夏の名残が、もわもわと身体にまとわりつく。
一番後ろの窓際の席。前に座っているのは、自分よりもガタイのいいラグビー部の男子。だから、この席は教室の隅っこで誰にも気づかれないように息を潜めるにはうってつけの席だった。
うってつけの、はずだった。
「ねえ、また会ったね。同じクラスだったなんて、びっくり」
高く澄み渡る秋の空みたいな透き通る声で、きみは俺に声をかけてきた。
高校一年生の二学期の始まりに転校してきたきみは、くるりと大きな瞳を何度も瞬かせる。
見たことがある。
昨日、知らない学校の制服を着た彼女が、廊下できょろきょろと辺りを見渡していた。道に迷ったんだろうって思って、一声かけたことを思い出す。
彼女とはきっと、これから関わることはないだろうと、油断していたから。
「名前」
「え?」
「名前……なんていうんだっけ」
「えーうそ! 今さっき自己紹介したばかりじゃん」
「……そうだっけ?」
目の前の少女は、心底驚いた様子で、今度はぴょんと肩を揺らした。
そうだ、俺、何言ってんだ。
たった今、担任が「転校生を紹介します」と言って、彼女を連れてきたんじゃないか。
「あなたの席は、この列の一番後ろです」って、彼女を俺の隣に案内して……。
ああ、そうか。
黒板を見つめる。そこには、堂々と大きな字で「渡会青葉」と書かれていた。
「渡会、青葉……」
「うん、そうです。自己紹介、ちゃんと聞いてほしかったなぁ」
残念そうなのに、どこか面白がっている。そんな彼女の情緒はいまいちよく分からない。俺はただ、学校で誰にも話しかけられないように、一日を過ごすので精一杯になっているだけなのだ。
誰も、俺に興味を持たないでほしい。
俺のことなど気にかけないでほしい。
まして、俺と友達になろうなんて、思わないでほしい。
そのために、息を吸って吐くのさえ、誰の気にも留まらないように細心の注意を払っている。
それなのに、どうしてきみは。
「改めまして、渡会青葉です。一年生の二学期に転校してくるなんて変なやつだって思わないでね? 性格は、うーん、たぶん明るい方だと思う。前の学校では天然だって言われてたけど、そうなのかなあ。とにかくよろしくお願いしますっ」
朗らかな笑顔が、終わりかけの夏の寂しさをどこまでも吹き飛ばしていく。
自己紹介の時に自分の性格について触れる人間は、どれくらいいるんだろう。
少なくとも、俺は今まで出会ったことがない。彼女が天然と言われている所以は、なんとなく理解できた。
「初めまして、坂倉光希です。……で、悪いんだけど、俺とは極力関わらないようにしてほしい。席は隣だけど、何か聞きたいことがあるなら、向こう側の片町の方に聞いて。俺には、話しかけないで、くれ」
辿々しい口調で、思っていることを一気に捲し立てるようにして伝えた。
「初めまして」の挨拶の後に「自分と関わるな」と忠告してきた俺に対して、渡会青葉はぽかんと呆けたように口を開けている。
まあ、そりゃそうだよな。
転校してきたばかりで心細い中、隣の席のやつに、いきなり拒絶されるようなことを言われたんだから。
でもこれで、俺は彼女の中で性格の悪いやつだって認識されたはず。
彼女と、必要以上に関わらずに済む。
そうなれば本望だ。
俺は、この一年一組の教室の端っこで、息を潜めて生きる存在。誰にも気に留められることのない。そうやって高校三年間を過ごす。いや、高校を卒業してからも死ぬまで、ずっと。
誰にも興味を持たれず、誰にも好かれず、ひっそりと生きていく。
だって、俺は——。
「ふふ、あはは」
からからという笑い声が目の前から飛んできた。
渡会青葉が、口に手を当てて笑っている。
俺に顔に何かゴミでもついているだろうか——とそっと顔を拭う。けれど、もちろんそんなことはなかった。
「面白いね。そういうドッキリが流行ってるの? 転校生の私をびっくりさせようっていう」
「……は?」
「え、え、違うの!? もしかして、本気のやつだった……?」
こっくりと頷く俺。
一体彼女は何を考えているのだろう。俺のこの真面目なトーンで話す言葉に、こんなふうにドッキリだとか言ってくるやつ、今まで出会ったことないのだが。
「う、うわぁ……私、めっちゃ恥ずかしい勘違いしたってことじゃん! 転校初日から。うう……恥ずかしい……」
両手で顔を覆う彼女が、新種の生き物みたいで新鮮だった。
……って、俺も何を考えているんだ。
彼女とは、これ以上近づいちゃいけないのに。
「と、とにかく! 関わらないっていうのは多分無理だと思う。お隣さんだし。色々聞きたいこともあるの。それにみっきーは、昨日迷子になってる私に、声かけてくれたじゃん。もう関わっちゃってるから、しょーがない!」
ツッコミどころ満載な彼女の言葉に、俺はただ「はあ」と頷くことしかできない。
「あ、光希くんだから“みっきー”ね。嫌だった?」
別に嫌じゃないけど。
「昨日は職員室の場所、教えてくれてありがとうね」
困ってる人を見かけたから、当たり前のことしただけだし。
「それじゃ、これからよろしくお願いします〜!」
「……よろしく」
咄嗟につられて挨拶をしてしまった。彼女がにやり、と唇の端を持ち上げる。
大変なことになってしまったな、とぼんやりと思う。
できるだけ他人と関わらないようにして、高校一年生の一学期を過ごしてきたというのに。二学期になって、まさか転校生がやってくるなんて。しかもその転校生が、空気の読めない天然女子で。だけど、どこか憎めない気もしていて。
……危ない、な。
彼女と、やっぱり近づきすぎるべきじゃない。
だって彼女は、あまりにも純粋で、心が綺麗そうで、それに見た目だって、可愛らしいから。
俺と関わって、傷つけてしまうのが怖い。
俺はきみを傷つけたくない。
誰のことも、もう傷つけたくはないんだ——……。
「みっきー、大丈夫?」
俺の顔を覗き込む彼女の瞳に、怖い顔をした自分の表情が映り込む。
怯えている。ひどく、怯えた表情をした自分。
「ごめん」
彼女から目を逸らして、俯く。机の中に手をつっこんで、ガサゴソと一時間目の数学で使う教科書を探すふりをする。
「教科書、私まだ持ってないんだ。見せてく——」
「片町に頼んでくれ」
彼女のお願いを遮って、向こう側の片町を指差した。
感じ悪いことは承知している。けれど、やっぱり関われない。関わったら、きっと俺はきみを傷つけるから。
彼女は瞠目したままぴたりと動かなくなった。
「……うん、ごめんね」
寂しそうにそっと呟いた彼女の声が、授業中もずっと耳に残っていた。
***
「感情増幅体質? なんですか、それは」
二年前の秋。
中学校近くのメンタルクリニックにかかった俺は、医者からとんでもない話を聞かされた。
「症例は世界にも数例だけで、私たちもほとんど詳しいことは分かっていないのですが……どうやら光希くんは、『光希くんのことを好きになった相手の感情を何倍にも増幅させてしまう』体質みたいです」
「どういうこと……?」
そう呟いたのは、俺じゃなかった。
隣で一緒に診察を受けていた、当時の俺の恋人——朱音だ。
「光希くんを好きになった人が、光希くんのことを好きだという気持ちをどんどん増長させてしまうというものです」
医者の言葉に、俺と朱音は思わず顔を見合わせた。
聞いたことのないその体質のことを聞いて、互いの頭の上に「?」が見えた気がする。
「それ……それって、何か、悪い影響があるんでしょうか? 身体に異常をきたすようなことは?」
「光希くんの方には、特に何も異常は起こりません。問題は、光希くんのことを好きになった方のほうです」
「わ、わたし……?」
びっくりして身を乗り出す朱音。俺も咄嗟に朱音の顔を見ていた。
「はい。光希くんの感情増幅体質により、恋人のあなたは彼への気持ちが抑えられなくなります。苦しみで胸がいっぱいになる可能性があるんです」
「苦しみ……」
医者の言うことが、左耳から右耳へと抜けていく。
好きな気持ちが増幅されたとして、どうして苦しい気持ちになるんだろうか。
朱音も同じ疑問を抱いているようで、医者の話にはあまりピンと来ていない様子だった。
「今は分からないかもしれませんが、その時が来れば分かります。何かあったら、いつでも相談に来てください」
「はあ」
結局、医者の話を半分も飲み込むことができず、俺は朱音とクリニックを後にした。
「ねえ、さっきの話、どう思う?」
「感情増幅体質、か」
「聞いたことないよねー。てか、こういうのってファンタジーじゃない? 現実にそんなことあるはずないって」
「そうだな。そう、だよな」
けらけらと笑っている朱音を見ていると、本当になんでもないことのような気がしてきた。
「だからさ、きっと大丈夫だよ。心配することなんて何もない。わたし、光希のこと好きだよ」
「……分かってるって」
照れもせずに腕を組んでくる朱音に対し、道端で恥ずかしいと思ってしまった俺だったけれど、好きだと言われてやっぱり嬉しくて、彼女の頭を撫でた。
大丈夫だよ。
笑ってそう言った朱音の言葉を、俺は本気で信じていた。
感情増幅体質なんて、聞いたこともないし、そんなやつと出会ったこともない。
だから大丈夫。医者の勘違いだ。俺と朱音には、何も悪いことなんて起こらない。
そう思っていた。だけど。
半年後、朱音はマンションの屋上から飛び降りた。
遺書はしっかりとあって「光希くん、ごめんね」とだけ書かれていたらしい。
彼女の訃報を聞かされた時、まるで自分という存在が宙に浮いているかのようにふわふわと揺れているように感じた。
おかしい。
こんなのおかしい。
つい昨日まで、朱音は一度も俺に苦しそうな表情を見せなかった。しんどいも、辛いも、何も言わずに笑顔でいた。感情増幅体質だと診断されて一時心配していたけれど、そんな診断はなかったかのように、朱音は俺といる時、あまりにも普通だった。
だから、彼女が飛び降り自殺をしたなんて、そんなはず、ない。
叫び出したい衝動に駆られながら、それでも声も、涙も、何一つ出せなかった。
ただ茫然と、自分が犯した罪の重さを思い知って、立ち尽くした。
それから俺は、人との関わりを一切避けて生きている。
高校生になった今も、教室の隅っこで、誰にも声をかけられないようにひっそりと息を止めて。
俺という存在に、誰も興味を持ちませんように。
ずっと、祈りながら、怯えながら、無為の一日を過ごしている。
◆
初めて一年一組の教室で彼と目が合ったとき、びっくりした。
昨日、転校前に先生と話をするために学校に来たのだけれど、職員室の場所が分からなくて困っていたところを、声をかけてくれたのが彼だった。
『職員室なら、西棟の一階の端だけど』
ぶっきらぼうな物言いの中に溢れる、困っている人を助けたいという思いやり。優しさを感じて、転校先で不安だった心がぽっと温かくなった。
翌日、一年一組の教室の扉を開いて、窓際の一番後ろの席にいる彼を目にして、運命だ! って思っちゃった。学校という小さな社会にいることも忘れて、自己紹介の間じゅう、ずっと彼のことを見つめていたんだけど、彼は終始俯いていて、一度も目が合わなかった。
運良く彼と隣の席になって話しかけてみたけれど、やっぱり私の名前すら覚えていないことを知ってちょっとがっかり。でも、できるだけ明るくまた自己紹介した。第一印象ってすごく大事だって言うし。この時点ですでに、私は坂倉光希くん——みっきーのことが、気になっていたのかもしれない。
だけど、彼は私の自己紹介を聞くや否や、こう言った。
——悪いんだけど、俺とは極力関わらないようにしてほしい。
ものすごく真剣な表情をしてほぼ初対面の私にそうお願いをする彼は、何か、とんでもなく大きな傷を抱えているように見えた。
隣の席なのに、関わるなだって?
そんなの。
「無理に決まってるじゃん!」
思わず心の声が口から漏れていることに気づき、はっと口を手で押さえる。
しまった。今、現代文の授業中だった。
転校してきて二日目。
現代文の授業を受けるのは今日が初めてで、教科担当の先生の声が子守唄みたいだなって感じて、昨日のことを思い返していたんだけれど……。
「“無理に決まってる”って、ヒロトがアキに想いを伝えても無謀だってことですか?」
先生が私の目をじろりと見つめて問う。
ちょうど小説の読解の授業をしていた。主人公のヒロトとその友人のアキの間で関係が揺れ動く……そんな話だ。
突如として声を上げた私を、不可解そうに見つめる先生。周りからは、くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。ようやく自分が恥ずかしい状況に置かれていることを理解して、ぼふん、と頭が爆発したような感覚に陥った。
「す、すみません……今のはその、独り言です」
「そうですか。あなた、確か転校生の渡会さんね。途中から授業に参加して分からない部分も多いと思いますけれど、隣の片町くんや坂倉くんに助けてもらってください」
先生にそう言われて、ちらりとみっきーの方を見やる。
彼は瞬時に私から目を逸らし、窓の方を向いた。
私……なんかすごい嫌われてない?
昨日、無理に明るく話したのかダメだったのかなあ……。だって彼、なんだかとっても辛そうな顔をしながら「関わらないで」なんて言うんだもん。そりゃ、心配にもなるし、気になるよ。
内心凹んでた私だけれど、授業が再開すると、置いていかれないように先生の話を聞くのに必死になった。
それでもみっきーのことはずっと気になっていて、なんとか彼の心を開きたいと思ってしまう。
だって、せっかくお隣さんになったんだし。
一昨日、困っている私を助けてくれたあの優しさは本物だと思うし。
もし彼が、私以外のクラスメイトのこともこんなふうに避けているのなら、何か理由があるはずだ。教室の隅でひっそりと過ごすだけなんて、きっと寂しいに違いない。
客観的に見ればすごく……ものすごーくおせっかいすぎる考えのもと、私は彼、坂倉光希くんと友達になりたいと、思った。
その日の昼休み。
「ねえみっきー、私と一緒にお昼ご飯食べない!?」
昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、私は彼に瞬時に話しかけた。周りのクラスメイトたちが、積極的すぎる私の行動を目にしてぎょっとしている。きっとこのクラスの誰も、普段彼に話しかけることはないんだろう。横目で見た片町くんなんて、引き攣った表情を浮かべているんだもん。
「は……お昼って、お、俺と?」
「うん、みっきーって言ったじゃん。他に誰がいるの?」
「いや……いないけど。なんで俺と」
「だってお隣さんだもん」
「お隣さん」という都合の良い立場を利用し、無理やり理由をつけた。
「女子の友達と、食べれば?」
「残念ながら、まだ仲の良い友達がいなくて……」
そう答えた矢先、教室の前の方から、「青葉ちゃーん!」と私の名前を呼ぶ女の子の声がした。ぎくりと肩を揺らす。昨日、体育の時間に仲良くなった橋本杏ちゃん。転校初日からしっかり女子の友達ができて嬉しかった。けれど、今話しかけられるのは、なんと間が悪いこと……!
「杏ちゃんごめん、今日私、お腹が痛くて……」
「え、そうなの!? それなら保健室行く? 場所わかんないよね。一緒に行こうか?」
「だ、大丈夫! み——坂倉くんもお腹痛らしいから、二人で行く!」
「そっか。お大事に」
杏ちゃんは一瞬みっきーの方を見て意外そうな顔をしていたけれど、腹痛だという私の嘘を信じてくれたのか、それ以上は何もつっこんでこなかった。
「みっきー、行こう」
「行くってどこに?」
「保健室——という名の食堂。案内してよ」
「なんで俺が」
「さっきの会話聞いてたでしょ? 教室から出ないと不自然だって!」
「それは、あんたが勝手に——」
「もう、いいからとにかく行こっ」
周りの人に聞こえないくらいの囁き声で押し問答をした後、強引に彼を教室から連れ出した。
「俺、お弁当なんだけど」
「そうなの!? じゃあお弁当持ってきてよ」
「今教室に戻ってお弁当持っていく方が不自然じゃないか?」
「確かにそうだね……う〜ん、どうしよう」
「……もう、今日は食堂でいいよ」
観念した様子で彼が答える。
「え、それだとお弁当もったいなくない?」
「大丈夫。家帰るまでに食べるから」
「そ、そう……。なんか、ごめんね」
なんだかんだ言って、私と食堂でご飯を食べることに付き合ってくれるというみっきーは、やっぱり優しい人だ。
お弁当を作ってくれたはずの彼のお母さんには申し訳ないと思いつつ、なんとか二人で教室を抜け出すことができた。
「食堂は別棟だっけ?」
「そう。去年建て替わったらしくてめちゃくちゃ綺麗だよ」
「へえ〜楽しみ」
二人きりになると教室にいる時より話しやすいのか、彼は落ち着いた声色で話してくれた。
「言っておくけど、あんたと友達になったわけじゃないから」
「分かってるって〜」
嘘。全然分かってない。私、みっきーと友達になろうとしてる。でも、あえて口には出さない。警戒されても困るしね。
「わ、本当に綺麗だ。ホテルのレストランみたい」
いざ食堂に足を踏み入れて、清潔なテーブルや椅子、暖かな暖色のライトに照らされる室内を見て素直に驚く。
ここでお昼を食べることができるの!
なんて素敵な食堂なんだろう。
「……ぷっ」
私がまじまじと食堂を見回していると、隣でみっきーが吹き出した。
なになに、なんで笑ってるの?
というか、みっきーって笑えるんだ。
「ホテルのレストランは言い過ぎだって。普通に綺麗なただの食堂じゃん」
「いやいや……! 私の前の学校の食堂、すごい使い古してる感じで、こう言っちゃなんだけど汚なかったよ。だから本当は食堂に行きたいけれど、購買やお弁当で我慢してた」
「へえ、そうなんだね。じゃあうちの学校では食堂で食べることにしたら? あ、もちろん女の子の友達とね。俺とは今日限りの付き合いで」
「え〜ケチ。明日もみっきーを誘う」
「おい、俺の話聞いてた? 俺とは関わらないでって昨日言ったでしょ」
「聞いてなーい。知らなーい」
おかしくなって、あはは、と笑いながら彼に返事をする。みっきーはそんな私を呆れた様子で見返してきた。彼にべーっと舌を出しながら、食券を買いに列に並ぶ。オムカレーライスが人気らしく、私もそれを頼んだ。
みっきーは唐揚げ定食にしたらしい。
二人で出来上がった食事をもらいに行き、空いている席に座る。ちょうど窓際の席が空いていて、窓から差し込む麗らかな日差しが心地よかった。
「いただきます! ん……お、美味しい!」
「オムカレーライスは人気投票で一位だったからな。俺の唐揚げ定食は二位」
「へえ、どっちも人気なんだね! こんなに美味しいご飯が食べられるなら、やっぱり食堂通いしようかな」
「誰と?」
「もちろん、みっきーと」
揶揄うようにそう言ってやると、彼は困ったようにため息をついた。でもここで引くわけにはいかない。いつしか私の中で、「いかに彼と友達になるか」を考えるようになっていた。
「ねえ、私、転校前の学校とこっちの学校の授業進度が違くて困ってるの。今度勉強教えてくれない?」
「え、俺が?」
「うん、いいでしょ。お隣さんのよしみで。アイス奢るから」
「あのなあ、だからそういうのは女友達に聞けって」
「やだー! 私はみっきーに教えてほしいの」
「……」
もう、呆れを通り越して抵抗することもやめたのか、彼は「はいはい」「しゃーねえなあ……」とあまり納得していない様子で頷いた。
「最初だけだぞ」
「わ、ほんとにいいの!?」
「いや、あんたが強引に頼んできたんじゃん」
「へへ、ラッキー。ありがとっ」
ぱちん、と両手を合わせて喜びを表現する。本当は小躍りしたい気分だったけれど、さすがにやめておいた。転校早々、食堂で踊り出した伝説の女子生徒とか言われたら、この先学校に通えないし、将来お嫁にもいけない。
「じゃあ、早速今日の放課後からお願いします!」
「今日? 急だな」
「あ、ごめん。部活とかあるよね?」
「……いや、部活には入ってないから大丈夫」
「そっか。良かった。じゃあやっぱり今日からお願いね〜」
「今日“から”って、一回だけだって言ったのに」
彼は不服そうだったけれど、無事に約束を取り付けることができてほっとした。
どうしてこんなにも、彼のことが気になってしまうのだろう。
ふと、オムライスをすくいながら考える。
……そうか。
私、無意識のうちにみっきーを弟——颯太に重ねてたのかも。
教室の端っこで、寂しそうに、ひっそりと一人で殻に閉じこもっているところが。
だから声をかけずにはいられなかった。
彼が、颯太みたいにならないかって心配だったのかもしれない。
食堂の喧騒の中で、ふと目の前にいるみっきーに視線を移す。彼は一生懸命唐揚げを口に運んでいて、私の視線には気づかない。
彼と、友達になれるかな。
ドキドキとした鼓動を感じながら、吹き始めた秋風を感じようと、窓に手を伸ばした。
◆
どうしてこんなことになってしまったのか。
ぐるぐると、一週間前から考え続けている。
九月七日、日曜日。
二学期が始まってから一週間が経った。その間、俺は渡会青葉に毎日のように「おはよう」と「また明日ね」を言われ続けてきた。
それだけならまだいい。
「みっきー、今日も勉強会してくれるよね?」
「今日は親の介護が、」
「その言い訳は三回目。しかも嘘でしょー」
「本当は家にUFOが突撃して大変なことに」
「UFOがこんな真昼間に落ちてくるなんて間抜けすぎない?」
いや、ツッコミどころそこじゃないだろ。
「ごめん。実は俺、本当は重病を患ってて……」
「またまた〜」
どんな言い訳をしようとも、彼女は天然パンチで突き返してくる。
重病っていうのは確かに嘘だけど、あながち間違いでもないんだけどな。
まあ、本当のことを彼女に言えるはずもなく、押しに押された俺は、結局放課後に彼女に勉強を教えるという散々な日々を送っている。
散々だ……そう、思っていたのに。
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、右隣の彼女から「今日もよろしくね!」と笑顔を向けられて、胸がきゅんと疼いているのに気がついた。
俺、なんでドキドキなんかしてんだろ。
高校では、誰とも仲良くならない。友達なんかつくらないって決めたのに。
まして、異性の友達なんて——ろくなことが起きる気がしない。
ピコン、とスマホの通知音が鳴った。
メッセージアプリを開くと、無理やり交換させられた彼女の連絡先から、【今日は楽しみにしてるね♡】とピンク色のメッセージが届いていた。
「はあ……」
本当に、なんでこんなことに。
彼女から、日曜日の今日という日に二人で出かけないかと誘われたのは、二日前の金曜日のことだ。
『勉強教えてもらったお礼がしたいの! 楽しいとこに出かけようっ』
どうしてそれが「お礼」になるのか、教えていただきたい——と思ったけれど、さすがにそんなに失礼なことは聞けなかった。
彼女との待ち合わせは高校の最寄駅だった。約束の十三時に駅前に行くと、彼女はすでにそこに立って、回りをきょろきょろと見回していた。
「あ、みっきー、こんにちは!」
朗らかに手を挙げた彼女のほっとした表情を見ると、思わずまたため息が漏れた。
そんなふうに俺を見つけて嬉しそうな顔するなよ。
それじゃまるで、俺ときみが友達みたいじゃないか。
「遅れてごめん」
「ううん、待ってないよー。私も今着いたとこ! それより早く行こっ」
薄桃色のブラウスに、ジーンズ生地のスカートを履いた彼女は、くるりと踵を返す。同時にふわりと甘い香りがして、不覚にも胸がドキリと跳ねた。
「どこに行くんだっけ」
「それは着いてからのお楽しみ」
語尾に「🎵」でも付きそうな明るいテンションで、やってきた電車へと乗り込む。時々スマホを見ながら、乗り換えのことなんかを確認しているみたいだ。思えば彼女は転校生だし、この辺の電車のことには詳しくないのだろう。
「つーいーたっ」
たどり着いた駅名を見て、俺は「あっ」と声を上げる。
「遊園地。行ってみたかったんだ」
踊り出しそうなテンションで今日の行き先を告げる彼女。
ここ……昔、朱音と来たところだ……。
瞬時に数年前のデートの思い出が頭の中をよぎる。ちらりと彼女の方を見ると「どうかした?」と俺の顔を覗き込んできた。
「なんでもない。……早く行くぞ」
「うん!」
遊園地には行きたくない、と言えば良かった。けれど、ここまで知らない土地で電車での行き方を調べて頑張ってくれていた彼女を見ると、どうしても断ることはできなかった。
それに、とふと自分の胸に湧き上がる感情について考える。
俺、彼女と遊園地に行くのが楽しそうだって思わなかったか?
一瞬でも、そう感じていた。俺はたぶん、この時点でもう彼女と関わらずにはいられないことを、察していた。
観念しよう。
俺は彼女と、友達になりたいと思ってしまった。
いや、違う。
友達じゃない。
それ以上の、関係に——。
遊園地では、それはそれは彼女は楽しそうにはしゃぎまくっていた。
ジェットコースター、観覧車、メリーゴーランド、コーヒーカップ、お化け屋敷。
遊園地の王道ともとれるアトラクションをすべて満喫して、「楽しかったー!」と大きく伸びをする。俺はへとへとなんだけど。彼女は終始満面の笑みで、ころころと踊るようにして園内を駆けていた。
すっかり日が暮れていて、徐々に辺りが暗くなっていく。
疲れすぎてこのまま帰るのも大変だな、と考えていた矢先、彼女が「あそこで休憩しない?」と園内のカフェを指差した。
「わー、ここ素敵だね。遊園地だからもっと子供向けかと思ったのに、大人な雰囲気だ」
「そうだな。親子連れで来て、親御さんがここでゆっくりできるようにつくられてるみたいだ」
「うんうん。高校生の男女のカップル向けでもありそうだよ?」
わざとらしく舌を出して笑う彼女を、俺は思わずじっと見つめてしまう。
「俺と渡会は、そういう関係じゃないだろっ」
恥ずかしくて捨て台詞のように言い放つ。
すると、彼女はどういうわけかぽっと顔を赤めて、にっこりと笑った。
「何? 俺の顔になんかついてる?」
「ううん、今、初めてまともに名前を呼んでくれたと思って」
「……そうか?」
「うん。ずっと“あんた”呼ばわりされてたんだもん」
ぷうっと頬を膨らませて拗ねた様子を演出する彼女。言われてみれば確かにそうかもしれない。彼女と距離を縮めてはダメだという気持ちが根底にあって、無意識のうちに名前を呼ばないようにしていた。
「私、本当はずっと不安だったんだよね。新しい学校で友達できるのかなーって」
カフェの席について、俺はホットコーヒーを、彼女はメロンソーダを頼んだ。対極にあるような二つの飲み物が運ばれてくる。
渡会青葉にメロンソーダのシュワシュワは映えている。
きっと彼女が、底抜けに明るい笑顔を振り撒いているからだ。
「不安……? 渡会でもそんな感情になるのか」
「うわ、失礼な! 私だって不安になることあるよ」
「いや、そういう意味じゃなくて。渡会ってどこに行ってもそんな感じなら、すぐに友達ができるだろうなって思ったから」
素直な感想だった。
彼女の性格なら、友達づくりには困らないだろう。だって、俺みたいな根暗なキャラの人間でさえ、こうして絆されそうになっているのだから。
渡会は俺の言葉に一瞬目を丸くして、それから「ふふ」といつものように柔和な笑みを浮かべた。
「これでも結構頑張ってるんだよ? 家ではこんなに喋らないし。みっきーと、仲良くなりたかったから」
トクントクントクン。
心臓の脈動がどんどん速く激しくなる。ホットコーヒーが喉を伝う感覚に、やけに敏感になった。
「みっきー、私はさ、みっきーのこと」
「俺のことを好きになるな」
穏やかなBGMが流れているはずの店内が、静寂に包まれた。
……違う。
静寂になったと感じたのは、目の前にいる彼女が弾かれたようにはっと俺を凝視したからだ。
「……どうして」
自意識過剰とも取れる俺の発言を、彼女を笑い飛ばしたりしなかった。
彼女のことだから、「何言ってんの〜」とへらへら笑って返してくることを期待していた。でも彼女はそうしなかった。それはつまり、俺がカマをかけた言葉が彼女の真意なのだということを示していた。
「好き……なのか?」
自分で「好きになるな」と言ったくせに、こう聞き返す俺は最低な人間なのかもしれない。
彼女は声にならない吐息を漏らしながら、「あぁ」とか「うぅ」とか、何かを言い淀む。
それからすぐに、顔が蒼白になったかと思うと、ガタッと椅子から立ち上がった。
「ごめんなさい」
蚊の鳴くように呟いた彼女の瞳から、一筋の涙が溢れていることに気づいた時にはもう遅かった。彼女はカフェから飛び出して、一目散に俺のそばから離れていった。
そんなはずない。渡会青葉が俺のことを好きになって、その気持ちを否定されて泣いているなんて。
俺は、どこで間違ったんだろう。
どうして彼女に好きだなんて思わせたんだろう。
分からない。
彼女の心の揺れ動きについて、俺は何一つ理解できていない。
だけど一つだけ、分かったことがある。
「俺は、渡会のこと」
友達以上の関係になってみたいと思った。
友達さえ、つくらないと決めていたのに。
あまりにも滑稽な結果に嘲笑うしかない。
「渡会」
彼女と同じように椅子から立ち上がる。
ふとテーブルの上を見ると、彼女のスマホが置き忘れられていることに気づいた。
スマホを手に取り、ポケットにしまう。
これで追いかける口実ができた。
素早く代金を支払い、辺りをさっと見回した。
いない。
でも、ここで諦めて帰るわけにはいかない。
靴紐をしっかりと結び直して、遊園地の中を駆け回る。
どうか一刻も早く、彼女に追いつきますようにと深く激しく祈った。
◆
俺のことを好きになるな。
完膚なきまでに私が言おうとしていた言葉の続きを切り捨てた彼の姿に、打ちのめされてしまった。
このまま遊園地から出てしまおうと思ったけれど、結局入口の近くで力が抜けてしまってその場にへたり込む。
こんなところで座り込んでたら、周りの人に変な目で見られるだろうな。
でも、もう何もかもどうでもいいや。
みっきーに拒絶されてから、頭がぼうっとして上手く回らない。
私、なんであのタイミングで好きだなんて言おうとしたんだろう。
おかしいじゃん。だってまだ彼と出会って一週間しか経っていない。それなのに好きだなんて。急に言われても受け入れてもらえるはずないじゃない。
「ばーか、ばーか……」
虚空に向かって呟く。傾きかけた陽が今の私の気持ちを表してくれているみたいだ。
みっきーのことが気になったのは、出会ってすぐのことだ。
『職員室なら、西棟の一階の端だけど』
職員室の場所が分からなくて、でも誰かに声をかける勇気もなく。あたふたしていた私の前にすっと現れた。
『ありがとう』
お礼を言うと、ちょっと照れたように「別に」と返事をした。
自分から親切に接してくれたのに、「別に」って。面白い人だなって思った。
でも、翌日に一年一組の教室で彼と出会って、びっくりした。
彼が、教室の隅っこで息を潜めるようにして存在していたから。
部屋の中で閉じこもって出てこなくなった弟のことを思い出して、胸がずんと疼いた。
「渡会、ここにいたのか。これ、忘れ物」
ぜえぜえ、という激しい息遣いがすぐそばに迫っていた。
考え事をしていたせいで、彼が目の前に立っていることに気づくのに遅くなった。ひゅっと差し出されたその手には、私のスマホが握られていた。
ぱっと顔を上げて泣きそうになる。
どうして、突き放したのに追いかけてきたの。
純粋な疑問は、胸の奥の奥の方では喜びに変わっていた。胸に刺さっていた小さな棘が、一つずつ抜かれていくような。
ああ、私、やっぱり好きなんだ。
「渡会、あのさ」
彼が何かを言いかけた。のを、私は思い切って邪魔する。
「みっきーはずるいよ」
彼が弾かれたようにこちらを見やる。
「そんなふうに追いかけてくるなんて、私、期待しちゃうじゃん」
「えっと……」
何かを言いたそうに口籠る。
私は、そんな彼の思考を遮るようにしてまた言葉を被せた。
「好きなったら悪い? 確かに出会って一週間しか経ってないけど、好きになっちゃったのは、仕方ないじゃんっ。だからさ、好きになるななんて、言わないでよ」
雲が太陽の邪魔をして、彼の右半分の顔に影をつくる。私の顔だって、同じように暗く陰っているのかもしれない。こんなふうに、感情が抑えきれなくなったのは初めてだ。
「言わねえよ、もう。好きになるななんて、言わない」
今度は彼が邪魔をした。
今、なんて?
降ってきた言葉の真意が知りたくて、思わず彼の顔をまじまじと見つめる。
「ごめん、渡会。さっきは……いや、出会った時から、関わるななんてひどいこと言って。俺、何も分かってなかった」
ゆっくりと私の方に近づいてくる。彼のつま先から頭までが、視界いっぱいに広がる。
「俺と一緒にいたら、きっときみを傷つける。だから好きになってほしくなかった。でもたぶん、もう無理だ。俺が、無理。俺だって渡会のこと、好きになっちまったから」
「……え?」
信じられない言葉を聞いた。
だって私たち、出会ってまだ一週間じゃん。
そんな簡単に好きになる?
そっくりそのまま同じ言葉を返されそうだと苦笑する。
好きになっちゃったんだから、仕方ないって。
「なんだ、そんなに驚くことか?」
「び、びっくりした……。だってあのみっきーが、誰かを好きになるなんて、思わないんだもん」
「でもお前はそんな俺に告白してきたじゃん」
「あれはもうっ、事故みたいなもんで……! みっきーが私のことを突き放そうとするから、どうしても言わないとって、感情が溢れてきて」
「もう言わなくてもいい。分かったから」
ふわりと、大きくて温かいものに抱きしめられる。
彼が私の身体を覆っていることに気づいた時、カッと全身が熱くなってしまった。
「な、な、何を……!」
「ごめん、嫌だった?」
「嫌じゃない! むしろその……嬉しい」
ああ、なんて温かくて幸せなんだろう。
さっきまで地獄の果てに堕ちていきそうだった気持ちが、ひゅんと天に昇っていくような。
「さっきも言ったけどさ……俺、たぶん渡会と一緒にいたら、渡会のこと傷つけると思う。それでも、俺と一緒にいたいって思う?」
傷つけると思う。
彼が言うことは半分も理解できない。
好き合っているのに傷つけると思うって、つまり浮気をするかもしれないってこと?
ううん、彼はきっとそんなことをする人ではない。じゃあ、なんで——。
「きみは俺と一緒にいたら、どうしようもなく苦しくなる日が来るかもしれないんだ。それでも耐えられる?」
何を言っているのかは分からない。けれど、今この瞬間に私がみっきーのことを好きで、みっきーが私を好きでいてくれていることだけは確かだ。
「みっきーが言う“傷つける”っていうのが、何のことなのか、よく分からないけれど——でも、うん、きっと大丈夫。信頼し合っていれば、私たちは崩れない」
「そっか」
予想外にあっけない返事をした彼が、私の言葉に納得してくれた様子で頷いた。
そして、もうそれ以上は何も言わずに、もう一度私を強く抱きしめる。
そこには、これから彼が私を裏切るかもしれないなんて微塵も感じられないくらい、透明な幸福感で溢れていて。
私は思わず、両目を瞑り、彼の胸に顔を埋めた。
「よろしくね、みっきー」
◆
信じられないことに、俺は連休明けに天使のように現れた渡会青葉と、付き合うことになった。
恋をしてしまったのだ。
かつて朱音を好きだった時と同じくらい……いや、ひょっとするとそれ以上に、彼女を恋慕う気持ちが芽生えていた。
もう誰とも好き合ったりしないって決めたのにな。
頭でどれだけ考えてても、心が勝手に動いてしまうのだから、仕方がないのかもしれない。
大丈夫。俺たちなら、きっと大丈夫。
教室の一番後ろの席で呼吸を整えながら、まっすぐに黒板を見つめる。
右隣には、彼女の息遣いがして、俺はもう一人孤独に生きているのではないのだと感じた。
彼女と交際を始めて一ヶ月が経った。
十月初旬。
本格的に夏の暑さが和らいで、秋が間近に迫っていると予感させる爽やかな風が窓から吹き込んでくる。
これまで、渡会とは毎週のようにデートを重ねていた。
今は、渡会にとってこの学校で初めてのテスト期間だ。二学期初めの中間テストの勉強会を、俺の家で開いた。もちろん、彼女と二人で。
部屋の中でローテーブルに向かい合って座る。
「ねーねー、みっきーって勉強得意?」
「まあ……それなりには」
「それなりってどれくらい? 九科目で何点? 私、多分頑張っても七割ぐらいしか取れないよ〜」
「うーん、何点だろ、八割か、九割」
「うげえ、めちゃくちゃすごいじゃん。やっぱりみっきーと付き合って良かった!」
「俺と付き合って喜ぶポイント、そこかよ」
「へへん、もっちろん。別のところもあるよ、例えば……ほらっ」
掛け声と共に、彼女が握っていたシャーペンを置いて、俺の胸へと飛び込んできた。突然のことだったので、あっと体勢が崩れそうになりながらも、何とか彼女を受け止める。ついでに頭をポンポンと撫でた。
「こうしたら、みっきーは絶対受け入れてくれるし、頭だって撫でてくれる」
「そりゃ、好きだからな」
「そういうの、照れもせず言えるところも好き」
「渡会に乗せられてるだけだ」
「素直じゃないところも好き」
何を言っても、「好きだ」と口で伝えてくる渡会に、俺も自分の気持ちに正直にならざるを得なくなる。
教室ではさすがにここまで本性を見せ合うことはできないけれど、それでも彼女と話しているときは、俺の顔は自然と緩んでいるだろう。
「私ね、今すっごく幸せなの。こんなに幸せでいいのかなーって思うくらい」
「……ああ」
似たようなことを、昔朱音に言われたことがある。
——幸せすぎて、なんだか世の中の人に申し訳ないな。
そんなこと、考える必要もないはずなのに、どうしてか切なそうに彼女は笑っていた。
ダメだ。渡会と一緒にいる時に、朱音のことを思い出すな。
彼女に、失礼だろ。
「みっきー、改めて私と付き合ってくれてありがとう。これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
「ありがとう」も「ごめんね」も「好き」も、彼女は自分の気持ちを余すことなく伝えてくる。だから俺は、安心していた。
朱音みたいに……何も言わずにいなくなっちまうような人間じゃないって、思えるから。
もしかしたら俺のあの特異な体質も、もうとっくに治っているのかもしれない。
感情を素直に表す渡会から、憂いのまなざしは見えない。
どうかこのまま、彼女とずっと一緒にいられますように。
「どうしたの、みっきー」
「ん、いや、幸せだなって思って」
「私も、すっごく幸せ。テストで全教科百点取れそうなぐらい」
「それは流石に努力次第だろ」
「うっ。ですよねー……」
くすくすという笑い声が部屋に響き渡る。高校に入学してから——いや、中学の頃に朱音を失ってから、この部屋が華やぐことなんて一度もなかった。今、不思議な気分だ。
「よおし、初めてのテストだし、みんなにぎゃふんと言わせるぞ!」
「“ぎゃふんと”って、そもそもみんな渡会のこと勉強できないやつだとか思ってないから」
「あれ、使いどころ間違った?」
「うん、全然違う」
あはは、とあけすけに笑う彼女の横顔を、ずっと眺めていたいと思う。
こんな些細な日常の一コマで心がいっぱいに満たされるぐらいには、俺はもう、どうしようもなく彼女に恋をしていた。
「最近、坂倉って変わったよな」
「分かる。前まではめちゃくちゃ根暗だったのに」
「教室で一言も声を発しなかったもんな」
「でも俺、中学の頃はあいつも明るいやつだったって聞いたぞ」
「え、そうなの? じゃあなんで」
「なんか、色々と事件があったみたいで」
「そうなんだ。じゃあ今は克服したってこと?」
「うーん、どうなんだろうな。でも今元気そうだしいいんじゃね?」
「渡会と付き合ってるみたいだし、なんか幸せそうだな」
教室のそこら中で、自分の噂をする声が聞こえてくる。
悪口のようなものはなくて、ただ単に今まで教室の隅でひっそりと息を潜めていた俺が、渡会とよく喋るようになったことに、みんな純粋に驚いているようだった。
「光希」
昼休み、とある男子から声をかけられた。
田村慶。中学の頃から同じ学校で、同じバスケ部に所属していた男子だ。慶とはかつて仲が良く、俺と朱音のこともよく知ってくれていた。でも、朱音が亡くなってから、俺を腫れ物に触れるように扱うようになった。心を閉ざした俺に対して、次第に彼も心を閉じていき、今では同じ高校に進学したというのに、会話をすることもなくなっていた。
そんな彼が、久しぶりに声をかけてきた。
俺は驚いてはたと顔を上げる。
「慶、久しぶりだな。俺に声かけてくるなんて、何か用か?」
ひとまず俺が返事をしてくれたことにほっとしたのか、彼の顔が弛緩した。
「いや、これと言って用があるわけじゃないんだけど、気になって。前、座ってもいい?」
「ああ」
俺の前の席のやつは食堂でご飯を食べているのか、今教室にいなかった。慶が空いている席に座る。教室の端の方では、渡会が橋本杏と一緒にお弁当を食べて和やかに話している声が聞こえる。無意識のうちに彼女の声を拾おうとしている自分がいて、思わず苦笑した。
「光希、最近明るくなったな。中学の頃に戻ったみたいだ。何かあったの?」
「いや……別に。とりわけ何かあったわけでは」
嘘つけ。あっただろ、思いっきり。
そんな自分へのツッコミを慶は見抜いたのか、ぷっと吹き出した。
「いやあ、本当か? 噂によると渡会さんと付き合ってるらしいじゃん」
ニヤリと口の端を持ち上げる慶。彼と話したこと自体久しぶりだが、こんなふうに俺を揶揄ってくるのを見たのも、中学以来だった。
そこまでばれているのなら、もはや隠すこともない。
俺は観念したように、「そうだな」と頷いた。
「おお、噂は本当だったんだな。おめでとう!」
そうか。慶は俺に「おめでとう」と言いに来たのか。ようやくここで彼の思惑に気づいた俺は「お、おう」と戸惑いながらも返事をする。
「光希が彼女つくるなんて、びっくりだな。もう、朱音ちゃんのことは大丈夫になったのか?」
朱音の名前を出した途端、彼の声色が一瞬にして曇る。彼なりにずっと俺のことを心配してくれていたのだと分かり、胸にチクリと小さな棘が刺さったような気がした。
「大丈夫かどうかは……分からない。正直、朱音のことは一生背負って生きていくと思う。でもいい加減、俺も前を向かないとって、思った」
言いながら、教室の端の方で友達と笑い合う渡会の横顔を見やる。
幸せそうな彼女の顔を見ていると、ずっと暗い深淵に沈んでいた心が、ぽっと浮き上がってきて、温もるような思いがした。
「そっか。何はともあれ、光希が前みたいに明るい表情をしてくれるようになったのが、嬉しい。俺ともまた、友達やってよ」
鼻の下を掻きながら、照れたように彼は言った。
そうか。俺、朱音を失うと同時に、慶のことも突き放していたんだ。
そのことに、慶は少なからず寂しさを覚えていたのかもしれない。まったく、俺は周りが見えていなかった。自分だけが辛いのだと思い込んで、自分の殻に引きこもっていたわけだ。
「ああ、今までごめん。また、仲良くしてくれたら嬉しい」
こんなにも素直な気持ちを吐き出せるのも、渡会と出会ってからだ。
彼女が、真っ暗闇で止まっていた俺の腕を引っ張って、明るい外の世界へと連れ出してくれる。俺にとって、彼女は太陽の光そのものだと思った。
この先も、彼女の隣で本来の自分を取り戻していきたい。
それが朱音への弔いにもなる気がするから。
この時強く、そう願った。