この日は珍しく目覚めが良い。というよりほぼ強制的に起こされた。
またしても母さんが愛すべきパンケーキを作っていた。
朝からパンケーキを食べられるなんてこんな幸せなことはないが、これをされたら絶対に起きてしまう自分も単純だと思う。
あったかいうちに食べないと美味しくないので、ダンゴムシのような体勢からゆっくりと重い腰を上げる。
顔を洗い、歯を磨き、しわくちゃの髪をさっと整えて下に降りる。
二度寝したら遅刻しそうだったので止まらないあくびと闘いながら世界一美味しい母さんのパンケーキを食べ、少し早めに登校する。
教室に行くと禮央がいた。
「おはよ」
僕に気づいていないのか、いつも通りヘッドフォンをしながら読書をするという器用なことをしている。
噂によると、禮央は誰よりも早く来ていて、理由は誰にも邪魔されずに読書ができるからだそうだ。
たしかにそうすれば話しかけられることはない。
だから昼休みも誰もいない場所で弁当を食べながら読書をしているのだと思う。
それだけ彼にとって1人の時間は大切なのだろう。
一年生のとき、何を聴いているのか気になって話しかけたことがある。
SNSで流行っているようなアップテンポな音楽は聴かず、どちらかというとR&BやJAZZといったメロウな曲を聴いていて、偶然好きなアーティストが一緒だったことで仲良くなった。
目が合うと、ヘッドフォンをずらしながら、
「おはよ。今日早いな」
「母さんが大好きなパンケーキを朝から作ってくれて、それで目覚めたんだ」
「早起きは三文の徳だ。良いことだと思う」
サンモンノ、なんだって?
はじめて聞くワードに頭上がクエスチョンマークでいっぱいになった。
「そういえば午後から国語の授業あるけど大丈夫?抜き打ちで問題出してくるぞ」
その言葉を聞いて落胆した。
ただでさえ授業が嫌いなのに、いきなり大嫌いな国語の授業だった。
国語自体が嫌いというわけではなく、担当の先生と相性がものすごく悪いから嫌いなのだ。
いつも花柄のワンピースを着ている濃いめのメイクをした女性教師。
「どうしてわからないのかしら?」
「ちゃんと予習してきていないの?」
「日本人なのだから日本語をきちんと話せないと恥ずかしいわよ」
口癖のように点数の悪い生徒たちをつかまえてはネチネチと渋を食ってくる。
だから一部の生徒たちからは後ろ指を指されている。
理由はわからないけれど、一時期ずっと僕ばかりに答えさせていたことで嫌になったことがあり、そこからサボるようになった。
幸い、今日は軽めの授業だったので公開処刑をくらうこともなくストレスは少なめだった。
やはり苦手意識というものは容易く払拭できるものではない。
数日が経過したとき、再び公開処刑がはじまった。
どこからそんな嫌味が出てくるのだと言わんばかりにネチネチと針を刺される。
それからというもの、国語の授業のときには頭痛がすると言って屋上で昼寝したり校舎裏にいる野良猫たちと遊んで時間を潰した。
まだ暑さが残る9月半ば。
先生の体調不良で一時間目が自習となり、二時間目が国語という奇跡の時間割だったため、学校を抜け出しバイト先に遊びに来ていた。
CAFÉ PLAGE
茫洋とした海に囲まれたこの店は、白と水色を基調とし、周囲の砂浜とのコントラストが美しいと映えスポットとしても人気。
とくに水平線が眺められるテラス席は一ヶ月以上前から予約で埋まり、僕が出勤する時間はいつも満席の店。
昼はカフェ、夜はダイナーとして営業している僕のバイト先でもある。
学校とは反対側にあり、家からも少し距離があるが、シフトの融通も利くので卒業まではお世話になるつもりだ。
法律上、21時までしか働けないからピークタイムに上がるのは申し訳ないけれど、いつか誰かが法律を変えてくれるだろうと他力本願でいる。
この店には店の奥にあるスタッフルームに向かう途中、一席だけ暖簾で覆われた半個室がある。
オーナー兼店長と顔見知りの芸能人もたまに訪れる予約限定の席。
営業前やアイドルタイムには社員さんがここでパソコンをカタカタしたりWEBミーティングをしている場所でもある。
予定通り国語の授業をサボり、スタッフルームに挨拶に行こうとしたとき、半個室から顔を覗かせた人と目が合った。
「皓月くん?」
聞き覚えのある声。
背中まで伸びた茶色い髪とシュッとした骨格は映像越しと変わらず綺麗だった。
帽子の奥から見える大きな瞳は当時のまま。
少し瞳孔が開いているようにも見えたのは僕だけだろうか。
久しぶりの再会だが見間違えるわけがない。
椎名 美波だ。
少し気まずかった。
有名人を前にしているからではなく、あのときのことを謝れないまま月日が経っていることに。
恨んでいないだろうか?
憎んでいないだろうか?
不安な気持ちを隠しきれないままその場に立ち尽くす。
「ここで働いてるの?」
いまここで謝れば赦してくれるだろうか?
思考ばかりがひとり歩きして声としてかたちを変えないまま心の奥に沈んでいく。
「うん、バイトしてる」
彼女の向かいの席にはスーツを着た若い男性が座っていた。20代後半くらいだろうか。
髪は整えられ高そうなブランドものの時計をしている。少し日に焼けた小麦色の肌が印象的だった。
彼氏だろうか。まさか旦那さん?
目が合うと、その男性がゆっくりと立ち上がった。
精悍な顔立ちとすらっとした痩躯なその姿は正直椎名とお似合いだと思った。
(俺の女になんか用?)
そんなことを言われて胸ぐらを掴まれ投げ飛ばされたらどうしよう。
ただでさえ授業をサボっているのに警察沙汰になったら面倒だ。
空気を読んでその場を離れようとしたとき、スーツの男性が何も言わず内ポケットに手を入れた。
まさか、拳銃?
もしそうなら銃刀法違反で訴えるか?
いや、その前に口封じで消されるだけか。
足が震えて動けない。
緊張と恐怖で頭が痛くなってきた。
「はじめまして。わたくし、椎名 美波の担当マネージャーをしていると忽那と申します」
名刺には、『株式会社メロディーライン 芸能マネジメント部マネジメント課の忽那 尚弥』と書かれていた。
椎名のマネージャーであることにホッとしつつも、こんなイケメンじゃなく女性マネージャーだったらよかったのにとぶつけようのない嫉妬心を心の中で叫ぶ。
名刺交換なんてしたことなかったので、なんて言って受け取れば良いのかわからず、「え、あ、はい」というわけのわからない返しをしてしまった。
僕のことは椎名が説明してくれた。
もちろん特別な関係ではなく昔の知り合いとして。
2人は仕事の話をしている様子だったので、邪魔にならないようその場から離れた。
オーナーに挨拶しようと裏口からキッチンに向かって顔を出すと、副店長の花谷 まつりさんがいた。
副店長といっても実質の責任者。
オーナーが店長を兼任しているが、最近できたばかりの二号店が軌道に乗るまではそちらに行っている。
「おつかれさまです」
「新羅くん、おつかれ」
「今日キッチンなんすか?」
「いまだけね。夜に急な団体予約が入っちゃってさ、仕込みが間に合わないの」
「そうなんすね」
「あれ、今日学校じゃなかった?」
シフトを管理しているまつりさんは僕らバイトの学校のスケジュールをだいたい把握している。
ましてや僕のように週3〜4で出勤しているバイトにはいつから学校がはじまっていつから長期休みかはほぼ筒抜けなのだ。
まつりさんの質問に「先生が立て続けに忌引きで」と言ういかにも嘘くさい発言にまつりさんは少し怪訝そうにしていた。
「じゃあ今日バイト入れるじゃん」
「いや、そういうわけじゃ」
「人手が足りないの。夜だけでも良いから入ってくれない?」
断る理由はなかったが気持ちが乗らない。
正直予定はない。ただ、家に帰ってだらだらしたい気分だった。
かといってバイト代が稼げるチャンスでもあるし、まつりさんには右も左もわからないときから色々教えてもらった恩がある。
プライベートの時間を削ってまで仕事をしているような人だから、少しでも力になりたいという思いもある。
心の中でイエスとノーが押し合う。
「ちょっと考えます」
すぐに答えは出せなかったので、店から少し離れた2人がけのベンチに座って考えることにした。
海を一望できるようにプロムナードに置かれた無数のベンチ。
休日になると多くの人で賑わう場所。
いつもはカップルや外国人で埋まるベンチも平日ということもあって空席が目立った。
ここから見る水平線は本当に美しい。
なだらかに流れる波の飛沫が太陽の光に反射して星のように輝いている。
碧い海は日々のストレスを流し、時間という概念そのものを忘れさせる。そんな気がした。
気がつけば無数の星が輝いていた。
街灯の光とカフェ・プラージュの明かりが海と街を照らす。
てっきりまだ真朱の空かと思っていたがどうやら眠ってしまっていたようだ。
肩をトントンと叩かれ、寝ぼけ眼でうっすら開けるとそこにいたのは椎名だった。
「横、座ってもいいかな?」
茶色く長い髪を耳にかけながら覗き込む彼女は、まるでアニメのヒロインのように輝いていた。
彼女が座れるスペースを作るため少し横にずれると、隣にちょこんと座った。
デニム生地にピタッと貼りついた細く長い脚を組んで星空を眺める彼女。
「久しぶりだね」
「うん」
「13年ぶりかな」
「もうそんな経つっけ」
「時間が経つのは早いね」
4歳のときに出会ってから半年間ほどで引っ越していった椎名。
13年の時が経ってこの町で再会できたのは偶然なのか、必然なのか。
いずれにしても僕にとっては僥倖であることは間違いない。
「マネージャーさんは?」
「忽那さんはこの後社長と飲みに行くからって言って先に出てった。お家帰ろうと思ってタクシー待ってたら気持ちよさそうに眠ってる皓月くんが見えたから」
寝顔を見られていたと思うと急に恥ずかしくなってきた。
大口でよだれとか垂らしていたらと思うとかぁっと耳が赤くなる。
「寝顔、すごくかわいかったよ」
そんな嬉しそうに言わないでくれ。恥ずかしくて蒸発しそうだ。
火照った身体を落ち着かせるため、話題を切り替えようと言葉を探す。
「元気そうで良かった」
どうしてこの言葉を選んでしまったのだと反省する。
この後全然広がらないじゃないか。
次いつ会えるかわからないし、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
相手はスーパーアイドルだ。与えられた時間は短い。
わだかまりという名の壁を排除しないと。
あの日のことを謝らないといけない。
わかっているのに切り出せない。
十三年という歳月が見えない壁を生み出し、心の奥に痼となって残っている。
「椎名」
「ん?」
「その……あのときはごめん」
「あのとき?」
いつのことかピンときていない様子で、首を傾げながら記憶を蘇らせようとしている。
「覚えてないの?」
「ごめん、わからない」
「僕の家でゲームしてたときのこと」
変わらずポカンとしている。
もう13年も前のことだし覚えてないのも無理ないか。
「椎名がお菓子を食べて僕が取り返そうとしたとき」
一瞬椎名の双眸が開いた。
どうやら思い出したようだ。
「てっきりあのときのことが嫌で引っ越したんだと思って」
すると、頬を緩めてくすくすと笑い出した。
優しくそして柔らかく。
「違う違う。お父さんがこっちで仕事することになったから引っ越しただけ」
椎名のお父さんは外資系の商社マンで出張や転勤も多いらしく、あの後も何度か引っ越しを繰り返していたそうだ。
管理職に就いたこともあっていまはこの街で落ち着いている。
「私、ずっとアイドルになりたくてさ。でも、あの街だとなかなか現実的じゃないでしょ?近くに大きな事務所もないし何をするにしても便がよくないし。転々としながらいくつかオーディションを受けていたときにいまの社長の目に留まって事務所に入ることができたの」
僕と椎名が幼いころ住んでいた場所は出海町から遠い場所にあり、片道でも1時間近くかかる。
近所にスーパーは1つだけあるが田んぼばかりの田舎町だ。
千年に一度の逸材と呼ばれるほどにキリッとした目にぷるっとした唇。
どういう遺伝子をしたらそんな整った顔で生まれてくるのだというくらい美しい彼女でも、自らオーディションを受けて芸能界に入った。
幼いころの彼女は男の子みたいだったのに、13年も経ってこうも変わるなんて女性という生き物は末恐ろしい。
「あのときのこと怒ってないの?」
「全然。むしろこうして再会できて嬉しい」
自分が思っているよりも相手が気にしていないことはあるし、その逆もそうだ。
正直に言って相手と気まずくなることもあるし、素直になれなくて相手を傷つけてしまうことだってある。
時間が経てば経つほどそれを修繕するのは難しくなる。
どんなに心を許していても感情を持つ以上相手への気遣いは必要で、相手と向き合う勇気と訊く耳を持つことは忘れてはいけない。
長いこと心の中にあった靄が消え、ようやく愁眉を開いた。
「皓月くんはさ、あの鐘のお話知ってる?」
彼女が指差したのは、プロムナードから外れるように突起して作られた小さな鐘『ラ・カンパネラ』
互いの願いを口外せず、日付が変わると同時に2人で鐘を鳴らすと願いが叶うと言われているが、残念ながらあの鐘を鳴らしたことはない。
生まれてこの方、彼女というものができたことのない僕にとって、有名なデートスポットやイベントはただただ気分を害すだけのものでしかない。
カンパネラの周りにあまり人はいなかったが、鳴らしにいっても願いごとが叶うなんて僕は信じていなかった。
「これで願いが叶っちゃうなら人は努力しなくなるよね」
まったくだ。
こんなもので願いが叶ってしまったら世の中簡単に進んでしまう。
そんな人生面白くない。
夢というものは悩んで苦しんでようやく手にできるから大事にするのだ。
「ね、試しに鳴らしてみる?」
僕の顔を覗きながら微笑む彼女に心臓がドキッとした。
まったく想像していなかった質問に戸惑いを隠せない。
椎名さん、正気ですか?
時計を見るとまだ23時だった。
「冗談よ。ちょっとからかってみたかっただけ」
ふふふっと笑いながらまた海を眺める。
どこか楽しそうに見えたのは僕だけだろうか。
「でも、いつか一緒に鳴らせたらいいな」
どういう感情でそう言ったのかその言葉の本心が見えなかった。
「ねぇ、せっかく再会できたしさ、連絡先教えてよ」
「いいけど、大丈夫なの?」
「うん。でも他の人にはあまり言わないでくれると嬉しいな」
もちろんだ。
椎名 美波と知り合いだということは凪にしか言っていないし、仮に他の人に話したところで信じてもらえないだろう。
椎名が有名人だということももちろんあるが、あの日から時が止まっていた針がまた動き出した気がした。
友達追加した『みなみ』と表示された名前をタップすると、猫にキスしている横顔が表示された。その左腕にはブレスレットがしてあった。実物かAIかわからないくらいに整った顔。
アイコンだけで次元の違いを感じる。
「皓月くんのアイコンかわいいね」
昔、誕生日に凪たちがサプライズでパンケーキをくれたことがある。それが嬉しくてそのパンケーキをアイコンにしている。
かわいいと言われたのははじめてだったので、少しむず痒くて返す言葉が分からず、「そうか?いや、だろ?」という意味不明な返事になってしまった。
「仕事中スマホ見れないからあんま連絡返せないかもだけど、そのときはごめんね」
MellowDearz.は恋愛禁止を謳っている。
だから特別な感情はなく、あくまで友達との再会として交換したのだと自分に言い聞かせた。
相手は幼いころの知り合いとはいえスーパーアイドルだ。
淡い期待を持たないように。
アプリで呼んでいたタクシーが到着し、「また連絡するね」と言って彼女は帰宅していった。
タクシーが見えなくなるのを確認し家に帰ろうとすると、スマホに通知がきたのでメッセージアプリを開く。
椎名からだ。
「さっきはありがと。やっと会えてすっごく嬉しかった。またお話したいな」
「もちろん」と返すと、しばらくして、「愛香さんは元気?久しぶりに会いたいな」と返ってきた。
新羅 愛香。
完璧なルックスの椎名はなぜか幼いころから僕の母さんに憧れている。
「かっこいい」とか「ああなりたい」とか4歳ながらにそんなことを言っていた記憶がある。
40代になったいまも休みの日にはバイクでツーリングをし、男友達と朝まで酒を飲む自由奔放な人。
昔から気が強く、怒るとめちゃくちゃこわい母さんのどこに憧れる要素があるのかわからないが、一応椎名の憧れの存在である母さんの悪口は本人の前では言わないように気をつけている。
「母さんも妹も会いたがってるよ」と返すと、またしばらくして、
「叶綯ちゃんに一度会ってみたいな」と返事がきた。
僕らが一緒に遊んでいたころ、妹はまだ生まれていなかった。
憧れの椎名と知り合いであることを知ったら妹はどんな反応をするのだろう。
そもそも信じない可能性が高いが、突如目の前にスーパーアイドルが現れたら失神するか狂乱するだろうな。
そんなことを想像していたら少し驚かしてやりたくなった。
「妹もきっと喜ぶし今度ウチにおいでよ」
送った直後に心臓が早鐘を打った。
他意はなかったがよくよく考えたらすごい誘い方をしている。
まずい。取り消すべきか?
いや、取り消したら逆にあやしい。
何か追記すべきか?
いや、なんて送ればいいんだ?
逆効果なのでは?
ぐるぐる回る思考回路に答えは出ないまま三日が経過した。
「遅くなってごめん、ぜひ行きたい」
ずっとバクバクしていた心臓は落ち着きを見せ、思わず頬が緩む。
ただ相手はいまをときめくスーパーアイドル。
安易に迎えに行ったらスキャンダルの的になり、メディアやファンに囲まれてしまう。
とくに日中は無闇に出歩けないだろうから家に上げるときは細心の注意が必要だ。
人に見られる仕事の代償は大きく、プライベートもプライバシーも制限がかかる。ましてや時代を席巻している人となるとより敏感になる。
外食するにも買い物するにも注目され、いちいち人目を気にしていたらやっていけない。
勉強をしてこなかった僕にもそれくらいのことはわかる。
だから家に上げるときは裏口から入ってもらうようお願いした。
新羅家の一階はガレージになっていて、母さんの趣味であるバイクが数台置いてあり、父さんの車は端っこに追いやられている。
裏口は高い木々に囲まれていて周囲から見えにくくなっているため、そこからそのまま二階に上がってもらうようにした。
「お邪魔します」
「ゆっくりしてってよ」
脱いだ靴を綺麗に並べ、リビングに座る椎名。
「新しいお家、新鮮」
椎名が引っ越してすぐに我が家も引っ越しをした。
引っ越し先は知らないまま偶然にもこの出海町で再会したことに運命を感じているが、一方通行になりそうだったので言わないでおいた。
前の家は父さんの実家近くだったが、いまの仕事への転職と爺ちゃんがこの辺の地主だったこともあってこっちに引っ越してきた。
「前のお家もだけど、皓月くんの家やっぱり落ち着くな」
二階のリビングで寛ぎながらそう言う彼女の言葉に淀みは感じなかった。
きっと本音で言ってくれているのだと思ったら素直に嬉しかった。
しかし、我が家には一つ大きな問題がある。
妹の叶綯だ。
流行りの曲はもちろん、グルメやスポット、ありとあらゆるSNSを駆使し、ブームに乗っかっているウルトラミーハー女子中学生。
視力が落ちてメガネをかけることになったとき、出海町で一番かわいいメガネ女子になると決意したようで、憧れているというインフルエンサーと同じものを選んでいるようだが僕はそのインフルエンサーを知らない。
予想は的中した。
家に帰ってきた妹がリビングで座っているスーパーアイドルを見た途端、口をあんぐりさせてしばらく固まっていた。
その後、小声で「ちょっと」と言って僕を呼び止める。
高学年になってから僕のことを濁った空気のように扱うようになった思春期中学生もさすがにこの状況はドッキリか何かだと思ったようだ。
メガネの奥の瞳からは興奮による感情の昂りのようなものを感じる。
「どういうこと?」
「見ての通りだ」
「あれってMellowDearz.の椎名 美波ちゃんでしょ?どうしてウチにいるわけ?」
妹よ、なぜそんなにこわい顔をしている?
逆の立場だったら心臓が飛び出るくらい嬉しいはずだが。
「椎名とは旧友だからだ」
「はぁ?何そのしょうもない嘘。キモいんだけど」
こいつは毒を吐かないと気がすまない性格なのか。
「嘘じゃない。叶綯がまだ生まれる前、椎名は近くに住んでいて、2人でよく遊んでた。母さんとも仲良いぞ」
椎名との話は幼いころによく母さんがしていたが、まだアイドルになる前の話だったし妹も深く気に留めていなかったのだろう。
「マジ?」
「マジ」
「ドッキリ企画とかじゃない?」
人脈のない僕にそんなことはできない。
「あまり椎名を待たせるのも悪いから挨拶行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って。せめてコンタクトさせて。あとメイクも」
デート前の女子かよ。
家に帰ってきてからコンタクトする意味がわからん。普通、逆だろ。
ってかかわいいメガネ女子への道はどこへ行った。
「椎名、妹が挨拶したいって」
リビングでスマホを見ていた椎名に声をかけるも、妹が腕を強く引っ張った。
「ちょっと、人の話聞いてた?まだ心の準備が……」
自宅で何を言っている。
ゲストを招いておいて緊張している場合か。
妹の制止を無視して椎名の座るソファまで連れてくる。
「妹の叶綯だ。よろしくな」
「ハ、ハジメマシ、テ。ニラ カナ、デス」
緊張しすぎてロボットのようになっている妹。
普段の気の強さはどこにもない。
「叶綯ちゃん、はじめましてだよね?椎名 美波です。お邪魔してます」
そう言って立ち上がり、妹の両手を握ると、リミッターの外れた妹は頭から湯気を出して失神した。
「だ、大丈夫?救急車呼ぶ?」
「気にしないでくれ。妹は椎名に会えた高揚感で昇天しているだけだ」
「そ、そうなの?」
「あぁ、妹は椎名派だからな」
MellowDearz.には椎名派と藍沢派の2つの派閥のようなものがある。と言っても仲が悪いわけではなく、どちらが好きかを話すだけ。
椎名と藍沢本人も一緒に買い物に行くくらい仲が良いらしい。
どっちも美人だから選ぶ方が難しいが、次の曲はどっちがセンターになるかでよくネットがざわつく。
そのためライブ会場ではほとんどが椎名のイメージカラーであるオレンジか、藍沢のイメージカラーである紫に染まる。
妹は椎名派。
藍沢よりも鎖骨が綺麗でダンスが上手と言っていたが、鎖骨の違いなんて僕にはわからない。
失神から現実世界に戻ってきた妹がすっくと起き上がり、もじもじさせながら「あ、あの、あとでお部屋にあるポスターにサインしてもらっていいですか?」と少し遠慮気味にお願いする。
椎名はにっこりと笑い、「もちろんよ」と答えた。
こういうところも椎名が人気のひとつだろう。
妹の部屋にはアイドルの写真がたくさん飾ってあり、椎名をはじめとしたメンバーの写真がたくさんあるそうだ。
部屋に一歩でも踏み出そうものならコンプラという概念を無視した怒涛の毒舌を浴びせられそのまま死を迎えるだろう。
その後、椎名とは他愛ない話をし、妹はマネキンを見るように彼女のことをじーっと見つめていた。
たまに目が合うと、恋する乙女のように目を逸らしては顔を赤らめていた。
夕方、仕事から帰ってきた母さんが椎名に気づく。
「あら、美波ちゃん。久しぶりね」
13年ぶりの再会だというのに昔と全く変わらない反応。
まるで親戚の子が遊びに来た感覚。
母さんらしいっちゃらしいが。
「愛香さん、お久しぶりです」
立ち上がり、母さんの方を向いて丁寧にお辞儀をする椎名は同い年とは思えないほどに礼儀正しかった。
「すみません、ご挨拶もせずに黙って引っ越ししてまって」
「そんな昔のこと気にしなくて良いのよ」
「愛香さんの噂はよくお聞きしています。変わらずお綺麗で魅力的だと」
母さんは昔ヤンチャしていたらしく、地元で森崎 愛香の名はけっこう有名だった。
中学生のとき、帰りの電車で友達が痴漢されそうになったことがあり、その男の下半身を蹴って返り討ちにしたことがあった。
高校生のときには彼氏を寝取られたことがあり、当時の彼氏とその浮気相手を呼び出して詫びを入れさせたことがあったそうだ。
大学生になったときには落ち着いたが、高校を卒業するまで『森崎隊』という母さんを護る謎の親衛隊があったらしく、お姫様というよりは兵を束ねる隊長のような存在だったらしい。
その名残なのか、母さんの部屋には昔のヤンチャしていたころの写真が飾ってあり、その左腕にはどこかの言語でタトゥーが彫られている。
「あら、私ってそんなに有名?」
母さんよ、どうしてそんなに照れている?
母親の照れた顔なんて恥ずかしくて見てられないんだが。
「私の事務所に元森崎隊の人が何人かいるんです。いまだに愛香さんが結婚したことを認めてない人もいますよ」
母さんってそんなにモテたんか。
気は強いし、暴力的だし、酒癖悪いし。
僕にはまったく理解ができない。
「こんな綺麗な方がお母さんだなんて、皓月くんも叶綯ちゃんも羨ましいです」
椎名よ、母さんをそんなに煽てないでくれ。
調子に乗って謎の料理を作ろうとしだすから。
「美波ちゃんにそんなこと言われるなんて幸せだわ。今日は豪華なものでも作っちゃおうかしら」
頼むからやめてくれ。
スイーツならまだしも具材すら不明なもので調理したら胃が機能しなくなってしまう。
「母さんはただこわいだけだぞ」
「皓月、いまなんて?」
母さんが睨みを利かせながら低い声でそう言ってきた。
「いえ、なんでもありません」
やっぱりこわいじゃんか。
この血が流れているのだと思うと我ながらこわくなった。
その後、椎名は僕たち家族と一緒に夕飯を食べ昔話に花を咲かせた。
それでも母さんは仕事の話を一切訊こうとはしなかった。
母さんなりの気遣いなのか興味がないのかはわからないが、椎名は終始笑顔で楽しそうだった。
一方の妹は椎名のことを何度もチラ見し、目が合うと石化したように固まり続けていた。
画面越しでしか見たことのない彼女が本当に存在していたことにまだ実感が湧いていないのだろう。
普段の気の強さは微塵も感じず、ただただ人形のようだった。
ふと窓を見ると、茜色だった空は星月夜となっていた。
「そろそろ帰ります。長々とお邪魔しました」
「送ってくよ」
「ううん、大丈夫」
「でも、夜道を1人で歩かせるわけには……」
「ううん、本当に平気。ありがとう」
裏口の扉を開けるとタクシーが停まっていた。
アプリでタクシーを呼んでもらっていたそうだ。
芸能人というのは色々と大変なんだな。
「今日はありがとね。久しぶりにゆっくりできて楽しかった」
「母さんも妹も喜んでたし、いつでもおいでよ」
「うん、ありがとう。また連絡する」
それから数ヶ月も経たないうちにMellowDearz .はもっと売れ、メディアに引っ張りだこになった。
可愛いや綺麗だけでは売れない時代、歌唱力やダンスと言った表現力、柔軟性など様々なものが揃っていないといけない。
5人それぞれで役割を担いながら、曲だけでなくCMもドラマもことごとくヒットし、彼女たちの名は世界中に轟いた。
またしても母さんが愛すべきパンケーキを作っていた。
朝からパンケーキを食べられるなんてこんな幸せなことはないが、これをされたら絶対に起きてしまう自分も単純だと思う。
あったかいうちに食べないと美味しくないので、ダンゴムシのような体勢からゆっくりと重い腰を上げる。
顔を洗い、歯を磨き、しわくちゃの髪をさっと整えて下に降りる。
二度寝したら遅刻しそうだったので止まらないあくびと闘いながら世界一美味しい母さんのパンケーキを食べ、少し早めに登校する。
教室に行くと禮央がいた。
「おはよ」
僕に気づいていないのか、いつも通りヘッドフォンをしながら読書をするという器用なことをしている。
噂によると、禮央は誰よりも早く来ていて、理由は誰にも邪魔されずに読書ができるからだそうだ。
たしかにそうすれば話しかけられることはない。
だから昼休みも誰もいない場所で弁当を食べながら読書をしているのだと思う。
それだけ彼にとって1人の時間は大切なのだろう。
一年生のとき、何を聴いているのか気になって話しかけたことがある。
SNSで流行っているようなアップテンポな音楽は聴かず、どちらかというとR&BやJAZZといったメロウな曲を聴いていて、偶然好きなアーティストが一緒だったことで仲良くなった。
目が合うと、ヘッドフォンをずらしながら、
「おはよ。今日早いな」
「母さんが大好きなパンケーキを朝から作ってくれて、それで目覚めたんだ」
「早起きは三文の徳だ。良いことだと思う」
サンモンノ、なんだって?
はじめて聞くワードに頭上がクエスチョンマークでいっぱいになった。
「そういえば午後から国語の授業あるけど大丈夫?抜き打ちで問題出してくるぞ」
その言葉を聞いて落胆した。
ただでさえ授業が嫌いなのに、いきなり大嫌いな国語の授業だった。
国語自体が嫌いというわけではなく、担当の先生と相性がものすごく悪いから嫌いなのだ。
いつも花柄のワンピースを着ている濃いめのメイクをした女性教師。
「どうしてわからないのかしら?」
「ちゃんと予習してきていないの?」
「日本人なのだから日本語をきちんと話せないと恥ずかしいわよ」
口癖のように点数の悪い生徒たちをつかまえてはネチネチと渋を食ってくる。
だから一部の生徒たちからは後ろ指を指されている。
理由はわからないけれど、一時期ずっと僕ばかりに答えさせていたことで嫌になったことがあり、そこからサボるようになった。
幸い、今日は軽めの授業だったので公開処刑をくらうこともなくストレスは少なめだった。
やはり苦手意識というものは容易く払拭できるものではない。
数日が経過したとき、再び公開処刑がはじまった。
どこからそんな嫌味が出てくるのだと言わんばかりにネチネチと針を刺される。
それからというもの、国語の授業のときには頭痛がすると言って屋上で昼寝したり校舎裏にいる野良猫たちと遊んで時間を潰した。
まだ暑さが残る9月半ば。
先生の体調不良で一時間目が自習となり、二時間目が国語という奇跡の時間割だったため、学校を抜け出しバイト先に遊びに来ていた。
CAFÉ PLAGE
茫洋とした海に囲まれたこの店は、白と水色を基調とし、周囲の砂浜とのコントラストが美しいと映えスポットとしても人気。
とくに水平線が眺められるテラス席は一ヶ月以上前から予約で埋まり、僕が出勤する時間はいつも満席の店。
昼はカフェ、夜はダイナーとして営業している僕のバイト先でもある。
学校とは反対側にあり、家からも少し距離があるが、シフトの融通も利くので卒業まではお世話になるつもりだ。
法律上、21時までしか働けないからピークタイムに上がるのは申し訳ないけれど、いつか誰かが法律を変えてくれるだろうと他力本願でいる。
この店には店の奥にあるスタッフルームに向かう途中、一席だけ暖簾で覆われた半個室がある。
オーナー兼店長と顔見知りの芸能人もたまに訪れる予約限定の席。
営業前やアイドルタイムには社員さんがここでパソコンをカタカタしたりWEBミーティングをしている場所でもある。
予定通り国語の授業をサボり、スタッフルームに挨拶に行こうとしたとき、半個室から顔を覗かせた人と目が合った。
「皓月くん?」
聞き覚えのある声。
背中まで伸びた茶色い髪とシュッとした骨格は映像越しと変わらず綺麗だった。
帽子の奥から見える大きな瞳は当時のまま。
少し瞳孔が開いているようにも見えたのは僕だけだろうか。
久しぶりの再会だが見間違えるわけがない。
椎名 美波だ。
少し気まずかった。
有名人を前にしているからではなく、あのときのことを謝れないまま月日が経っていることに。
恨んでいないだろうか?
憎んでいないだろうか?
不安な気持ちを隠しきれないままその場に立ち尽くす。
「ここで働いてるの?」
いまここで謝れば赦してくれるだろうか?
思考ばかりがひとり歩きして声としてかたちを変えないまま心の奥に沈んでいく。
「うん、バイトしてる」
彼女の向かいの席にはスーツを着た若い男性が座っていた。20代後半くらいだろうか。
髪は整えられ高そうなブランドものの時計をしている。少し日に焼けた小麦色の肌が印象的だった。
彼氏だろうか。まさか旦那さん?
目が合うと、その男性がゆっくりと立ち上がった。
精悍な顔立ちとすらっとした痩躯なその姿は正直椎名とお似合いだと思った。
(俺の女になんか用?)
そんなことを言われて胸ぐらを掴まれ投げ飛ばされたらどうしよう。
ただでさえ授業をサボっているのに警察沙汰になったら面倒だ。
空気を読んでその場を離れようとしたとき、スーツの男性が何も言わず内ポケットに手を入れた。
まさか、拳銃?
もしそうなら銃刀法違反で訴えるか?
いや、その前に口封じで消されるだけか。
足が震えて動けない。
緊張と恐怖で頭が痛くなってきた。
「はじめまして。わたくし、椎名 美波の担当マネージャーをしていると忽那と申します」
名刺には、『株式会社メロディーライン 芸能マネジメント部マネジメント課の忽那 尚弥』と書かれていた。
椎名のマネージャーであることにホッとしつつも、こんなイケメンじゃなく女性マネージャーだったらよかったのにとぶつけようのない嫉妬心を心の中で叫ぶ。
名刺交換なんてしたことなかったので、なんて言って受け取れば良いのかわからず、「え、あ、はい」というわけのわからない返しをしてしまった。
僕のことは椎名が説明してくれた。
もちろん特別な関係ではなく昔の知り合いとして。
2人は仕事の話をしている様子だったので、邪魔にならないようその場から離れた。
オーナーに挨拶しようと裏口からキッチンに向かって顔を出すと、副店長の花谷 まつりさんがいた。
副店長といっても実質の責任者。
オーナーが店長を兼任しているが、最近できたばかりの二号店が軌道に乗るまではそちらに行っている。
「おつかれさまです」
「新羅くん、おつかれ」
「今日キッチンなんすか?」
「いまだけね。夜に急な団体予約が入っちゃってさ、仕込みが間に合わないの」
「そうなんすね」
「あれ、今日学校じゃなかった?」
シフトを管理しているまつりさんは僕らバイトの学校のスケジュールをだいたい把握している。
ましてや僕のように週3〜4で出勤しているバイトにはいつから学校がはじまっていつから長期休みかはほぼ筒抜けなのだ。
まつりさんの質問に「先生が立て続けに忌引きで」と言ういかにも嘘くさい発言にまつりさんは少し怪訝そうにしていた。
「じゃあ今日バイト入れるじゃん」
「いや、そういうわけじゃ」
「人手が足りないの。夜だけでも良いから入ってくれない?」
断る理由はなかったが気持ちが乗らない。
正直予定はない。ただ、家に帰ってだらだらしたい気分だった。
かといってバイト代が稼げるチャンスでもあるし、まつりさんには右も左もわからないときから色々教えてもらった恩がある。
プライベートの時間を削ってまで仕事をしているような人だから、少しでも力になりたいという思いもある。
心の中でイエスとノーが押し合う。
「ちょっと考えます」
すぐに答えは出せなかったので、店から少し離れた2人がけのベンチに座って考えることにした。
海を一望できるようにプロムナードに置かれた無数のベンチ。
休日になると多くの人で賑わう場所。
いつもはカップルや外国人で埋まるベンチも平日ということもあって空席が目立った。
ここから見る水平線は本当に美しい。
なだらかに流れる波の飛沫が太陽の光に反射して星のように輝いている。
碧い海は日々のストレスを流し、時間という概念そのものを忘れさせる。そんな気がした。
気がつけば無数の星が輝いていた。
街灯の光とカフェ・プラージュの明かりが海と街を照らす。
てっきりまだ真朱の空かと思っていたがどうやら眠ってしまっていたようだ。
肩をトントンと叩かれ、寝ぼけ眼でうっすら開けるとそこにいたのは椎名だった。
「横、座ってもいいかな?」
茶色く長い髪を耳にかけながら覗き込む彼女は、まるでアニメのヒロインのように輝いていた。
彼女が座れるスペースを作るため少し横にずれると、隣にちょこんと座った。
デニム生地にピタッと貼りついた細く長い脚を組んで星空を眺める彼女。
「久しぶりだね」
「うん」
「13年ぶりかな」
「もうそんな経つっけ」
「時間が経つのは早いね」
4歳のときに出会ってから半年間ほどで引っ越していった椎名。
13年の時が経ってこの町で再会できたのは偶然なのか、必然なのか。
いずれにしても僕にとっては僥倖であることは間違いない。
「マネージャーさんは?」
「忽那さんはこの後社長と飲みに行くからって言って先に出てった。お家帰ろうと思ってタクシー待ってたら気持ちよさそうに眠ってる皓月くんが見えたから」
寝顔を見られていたと思うと急に恥ずかしくなってきた。
大口でよだれとか垂らしていたらと思うとかぁっと耳が赤くなる。
「寝顔、すごくかわいかったよ」
そんな嬉しそうに言わないでくれ。恥ずかしくて蒸発しそうだ。
火照った身体を落ち着かせるため、話題を切り替えようと言葉を探す。
「元気そうで良かった」
どうしてこの言葉を選んでしまったのだと反省する。
この後全然広がらないじゃないか。
次いつ会えるかわからないし、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
相手はスーパーアイドルだ。与えられた時間は短い。
わだかまりという名の壁を排除しないと。
あの日のことを謝らないといけない。
わかっているのに切り出せない。
十三年という歳月が見えない壁を生み出し、心の奥に痼となって残っている。
「椎名」
「ん?」
「その……あのときはごめん」
「あのとき?」
いつのことかピンときていない様子で、首を傾げながら記憶を蘇らせようとしている。
「覚えてないの?」
「ごめん、わからない」
「僕の家でゲームしてたときのこと」
変わらずポカンとしている。
もう13年も前のことだし覚えてないのも無理ないか。
「椎名がお菓子を食べて僕が取り返そうとしたとき」
一瞬椎名の双眸が開いた。
どうやら思い出したようだ。
「てっきりあのときのことが嫌で引っ越したんだと思って」
すると、頬を緩めてくすくすと笑い出した。
優しくそして柔らかく。
「違う違う。お父さんがこっちで仕事することになったから引っ越しただけ」
椎名のお父さんは外資系の商社マンで出張や転勤も多いらしく、あの後も何度か引っ越しを繰り返していたそうだ。
管理職に就いたこともあっていまはこの街で落ち着いている。
「私、ずっとアイドルになりたくてさ。でも、あの街だとなかなか現実的じゃないでしょ?近くに大きな事務所もないし何をするにしても便がよくないし。転々としながらいくつかオーディションを受けていたときにいまの社長の目に留まって事務所に入ることができたの」
僕と椎名が幼いころ住んでいた場所は出海町から遠い場所にあり、片道でも1時間近くかかる。
近所にスーパーは1つだけあるが田んぼばかりの田舎町だ。
千年に一度の逸材と呼ばれるほどにキリッとした目にぷるっとした唇。
どういう遺伝子をしたらそんな整った顔で生まれてくるのだというくらい美しい彼女でも、自らオーディションを受けて芸能界に入った。
幼いころの彼女は男の子みたいだったのに、13年も経ってこうも変わるなんて女性という生き物は末恐ろしい。
「あのときのこと怒ってないの?」
「全然。むしろこうして再会できて嬉しい」
自分が思っているよりも相手が気にしていないことはあるし、その逆もそうだ。
正直に言って相手と気まずくなることもあるし、素直になれなくて相手を傷つけてしまうことだってある。
時間が経てば経つほどそれを修繕するのは難しくなる。
どんなに心を許していても感情を持つ以上相手への気遣いは必要で、相手と向き合う勇気と訊く耳を持つことは忘れてはいけない。
長いこと心の中にあった靄が消え、ようやく愁眉を開いた。
「皓月くんはさ、あの鐘のお話知ってる?」
彼女が指差したのは、プロムナードから外れるように突起して作られた小さな鐘『ラ・カンパネラ』
互いの願いを口外せず、日付が変わると同時に2人で鐘を鳴らすと願いが叶うと言われているが、残念ながらあの鐘を鳴らしたことはない。
生まれてこの方、彼女というものができたことのない僕にとって、有名なデートスポットやイベントはただただ気分を害すだけのものでしかない。
カンパネラの周りにあまり人はいなかったが、鳴らしにいっても願いごとが叶うなんて僕は信じていなかった。
「これで願いが叶っちゃうなら人は努力しなくなるよね」
まったくだ。
こんなもので願いが叶ってしまったら世の中簡単に進んでしまう。
そんな人生面白くない。
夢というものは悩んで苦しんでようやく手にできるから大事にするのだ。
「ね、試しに鳴らしてみる?」
僕の顔を覗きながら微笑む彼女に心臓がドキッとした。
まったく想像していなかった質問に戸惑いを隠せない。
椎名さん、正気ですか?
時計を見るとまだ23時だった。
「冗談よ。ちょっとからかってみたかっただけ」
ふふふっと笑いながらまた海を眺める。
どこか楽しそうに見えたのは僕だけだろうか。
「でも、いつか一緒に鳴らせたらいいな」
どういう感情でそう言ったのかその言葉の本心が見えなかった。
「ねぇ、せっかく再会できたしさ、連絡先教えてよ」
「いいけど、大丈夫なの?」
「うん。でも他の人にはあまり言わないでくれると嬉しいな」
もちろんだ。
椎名 美波と知り合いだということは凪にしか言っていないし、仮に他の人に話したところで信じてもらえないだろう。
椎名が有名人だということももちろんあるが、あの日から時が止まっていた針がまた動き出した気がした。
友達追加した『みなみ』と表示された名前をタップすると、猫にキスしている横顔が表示された。その左腕にはブレスレットがしてあった。実物かAIかわからないくらいに整った顔。
アイコンだけで次元の違いを感じる。
「皓月くんのアイコンかわいいね」
昔、誕生日に凪たちがサプライズでパンケーキをくれたことがある。それが嬉しくてそのパンケーキをアイコンにしている。
かわいいと言われたのははじめてだったので、少しむず痒くて返す言葉が分からず、「そうか?いや、だろ?」という意味不明な返事になってしまった。
「仕事中スマホ見れないからあんま連絡返せないかもだけど、そのときはごめんね」
MellowDearz.は恋愛禁止を謳っている。
だから特別な感情はなく、あくまで友達との再会として交換したのだと自分に言い聞かせた。
相手は幼いころの知り合いとはいえスーパーアイドルだ。
淡い期待を持たないように。
アプリで呼んでいたタクシーが到着し、「また連絡するね」と言って彼女は帰宅していった。
タクシーが見えなくなるのを確認し家に帰ろうとすると、スマホに通知がきたのでメッセージアプリを開く。
椎名からだ。
「さっきはありがと。やっと会えてすっごく嬉しかった。またお話したいな」
「もちろん」と返すと、しばらくして、「愛香さんは元気?久しぶりに会いたいな」と返ってきた。
新羅 愛香。
完璧なルックスの椎名はなぜか幼いころから僕の母さんに憧れている。
「かっこいい」とか「ああなりたい」とか4歳ながらにそんなことを言っていた記憶がある。
40代になったいまも休みの日にはバイクでツーリングをし、男友達と朝まで酒を飲む自由奔放な人。
昔から気が強く、怒るとめちゃくちゃこわい母さんのどこに憧れる要素があるのかわからないが、一応椎名の憧れの存在である母さんの悪口は本人の前では言わないように気をつけている。
「母さんも妹も会いたがってるよ」と返すと、またしばらくして、
「叶綯ちゃんに一度会ってみたいな」と返事がきた。
僕らが一緒に遊んでいたころ、妹はまだ生まれていなかった。
憧れの椎名と知り合いであることを知ったら妹はどんな反応をするのだろう。
そもそも信じない可能性が高いが、突如目の前にスーパーアイドルが現れたら失神するか狂乱するだろうな。
そんなことを想像していたら少し驚かしてやりたくなった。
「妹もきっと喜ぶし今度ウチにおいでよ」
送った直後に心臓が早鐘を打った。
他意はなかったがよくよく考えたらすごい誘い方をしている。
まずい。取り消すべきか?
いや、取り消したら逆にあやしい。
何か追記すべきか?
いや、なんて送ればいいんだ?
逆効果なのでは?
ぐるぐる回る思考回路に答えは出ないまま三日が経過した。
「遅くなってごめん、ぜひ行きたい」
ずっとバクバクしていた心臓は落ち着きを見せ、思わず頬が緩む。
ただ相手はいまをときめくスーパーアイドル。
安易に迎えに行ったらスキャンダルの的になり、メディアやファンに囲まれてしまう。
とくに日中は無闇に出歩けないだろうから家に上げるときは細心の注意が必要だ。
人に見られる仕事の代償は大きく、プライベートもプライバシーも制限がかかる。ましてや時代を席巻している人となるとより敏感になる。
外食するにも買い物するにも注目され、いちいち人目を気にしていたらやっていけない。
勉強をしてこなかった僕にもそれくらいのことはわかる。
だから家に上げるときは裏口から入ってもらうようお願いした。
新羅家の一階はガレージになっていて、母さんの趣味であるバイクが数台置いてあり、父さんの車は端っこに追いやられている。
裏口は高い木々に囲まれていて周囲から見えにくくなっているため、そこからそのまま二階に上がってもらうようにした。
「お邪魔します」
「ゆっくりしてってよ」
脱いだ靴を綺麗に並べ、リビングに座る椎名。
「新しいお家、新鮮」
椎名が引っ越してすぐに我が家も引っ越しをした。
引っ越し先は知らないまま偶然にもこの出海町で再会したことに運命を感じているが、一方通行になりそうだったので言わないでおいた。
前の家は父さんの実家近くだったが、いまの仕事への転職と爺ちゃんがこの辺の地主だったこともあってこっちに引っ越してきた。
「前のお家もだけど、皓月くんの家やっぱり落ち着くな」
二階のリビングで寛ぎながらそう言う彼女の言葉に淀みは感じなかった。
きっと本音で言ってくれているのだと思ったら素直に嬉しかった。
しかし、我が家には一つ大きな問題がある。
妹の叶綯だ。
流行りの曲はもちろん、グルメやスポット、ありとあらゆるSNSを駆使し、ブームに乗っかっているウルトラミーハー女子中学生。
視力が落ちてメガネをかけることになったとき、出海町で一番かわいいメガネ女子になると決意したようで、憧れているというインフルエンサーと同じものを選んでいるようだが僕はそのインフルエンサーを知らない。
予想は的中した。
家に帰ってきた妹がリビングで座っているスーパーアイドルを見た途端、口をあんぐりさせてしばらく固まっていた。
その後、小声で「ちょっと」と言って僕を呼び止める。
高学年になってから僕のことを濁った空気のように扱うようになった思春期中学生もさすがにこの状況はドッキリか何かだと思ったようだ。
メガネの奥の瞳からは興奮による感情の昂りのようなものを感じる。
「どういうこと?」
「見ての通りだ」
「あれってMellowDearz.の椎名 美波ちゃんでしょ?どうしてウチにいるわけ?」
妹よ、なぜそんなにこわい顔をしている?
逆の立場だったら心臓が飛び出るくらい嬉しいはずだが。
「椎名とは旧友だからだ」
「はぁ?何そのしょうもない嘘。キモいんだけど」
こいつは毒を吐かないと気がすまない性格なのか。
「嘘じゃない。叶綯がまだ生まれる前、椎名は近くに住んでいて、2人でよく遊んでた。母さんとも仲良いぞ」
椎名との話は幼いころによく母さんがしていたが、まだアイドルになる前の話だったし妹も深く気に留めていなかったのだろう。
「マジ?」
「マジ」
「ドッキリ企画とかじゃない?」
人脈のない僕にそんなことはできない。
「あまり椎名を待たせるのも悪いから挨拶行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って。せめてコンタクトさせて。あとメイクも」
デート前の女子かよ。
家に帰ってきてからコンタクトする意味がわからん。普通、逆だろ。
ってかかわいいメガネ女子への道はどこへ行った。
「椎名、妹が挨拶したいって」
リビングでスマホを見ていた椎名に声をかけるも、妹が腕を強く引っ張った。
「ちょっと、人の話聞いてた?まだ心の準備が……」
自宅で何を言っている。
ゲストを招いておいて緊張している場合か。
妹の制止を無視して椎名の座るソファまで連れてくる。
「妹の叶綯だ。よろしくな」
「ハ、ハジメマシ、テ。ニラ カナ、デス」
緊張しすぎてロボットのようになっている妹。
普段の気の強さはどこにもない。
「叶綯ちゃん、はじめましてだよね?椎名 美波です。お邪魔してます」
そう言って立ち上がり、妹の両手を握ると、リミッターの外れた妹は頭から湯気を出して失神した。
「だ、大丈夫?救急車呼ぶ?」
「気にしないでくれ。妹は椎名に会えた高揚感で昇天しているだけだ」
「そ、そうなの?」
「あぁ、妹は椎名派だからな」
MellowDearz.には椎名派と藍沢派の2つの派閥のようなものがある。と言っても仲が悪いわけではなく、どちらが好きかを話すだけ。
椎名と藍沢本人も一緒に買い物に行くくらい仲が良いらしい。
どっちも美人だから選ぶ方が難しいが、次の曲はどっちがセンターになるかでよくネットがざわつく。
そのためライブ会場ではほとんどが椎名のイメージカラーであるオレンジか、藍沢のイメージカラーである紫に染まる。
妹は椎名派。
藍沢よりも鎖骨が綺麗でダンスが上手と言っていたが、鎖骨の違いなんて僕にはわからない。
失神から現実世界に戻ってきた妹がすっくと起き上がり、もじもじさせながら「あ、あの、あとでお部屋にあるポスターにサインしてもらっていいですか?」と少し遠慮気味にお願いする。
椎名はにっこりと笑い、「もちろんよ」と答えた。
こういうところも椎名が人気のひとつだろう。
妹の部屋にはアイドルの写真がたくさん飾ってあり、椎名をはじめとしたメンバーの写真がたくさんあるそうだ。
部屋に一歩でも踏み出そうものならコンプラという概念を無視した怒涛の毒舌を浴びせられそのまま死を迎えるだろう。
その後、椎名とは他愛ない話をし、妹はマネキンを見るように彼女のことをじーっと見つめていた。
たまに目が合うと、恋する乙女のように目を逸らしては顔を赤らめていた。
夕方、仕事から帰ってきた母さんが椎名に気づく。
「あら、美波ちゃん。久しぶりね」
13年ぶりの再会だというのに昔と全く変わらない反応。
まるで親戚の子が遊びに来た感覚。
母さんらしいっちゃらしいが。
「愛香さん、お久しぶりです」
立ち上がり、母さんの方を向いて丁寧にお辞儀をする椎名は同い年とは思えないほどに礼儀正しかった。
「すみません、ご挨拶もせずに黙って引っ越ししてまって」
「そんな昔のこと気にしなくて良いのよ」
「愛香さんの噂はよくお聞きしています。変わらずお綺麗で魅力的だと」
母さんは昔ヤンチャしていたらしく、地元で森崎 愛香の名はけっこう有名だった。
中学生のとき、帰りの電車で友達が痴漢されそうになったことがあり、その男の下半身を蹴って返り討ちにしたことがあった。
高校生のときには彼氏を寝取られたことがあり、当時の彼氏とその浮気相手を呼び出して詫びを入れさせたことがあったそうだ。
大学生になったときには落ち着いたが、高校を卒業するまで『森崎隊』という母さんを護る謎の親衛隊があったらしく、お姫様というよりは兵を束ねる隊長のような存在だったらしい。
その名残なのか、母さんの部屋には昔のヤンチャしていたころの写真が飾ってあり、その左腕にはどこかの言語でタトゥーが彫られている。
「あら、私ってそんなに有名?」
母さんよ、どうしてそんなに照れている?
母親の照れた顔なんて恥ずかしくて見てられないんだが。
「私の事務所に元森崎隊の人が何人かいるんです。いまだに愛香さんが結婚したことを認めてない人もいますよ」
母さんってそんなにモテたんか。
気は強いし、暴力的だし、酒癖悪いし。
僕にはまったく理解ができない。
「こんな綺麗な方がお母さんだなんて、皓月くんも叶綯ちゃんも羨ましいです」
椎名よ、母さんをそんなに煽てないでくれ。
調子に乗って謎の料理を作ろうとしだすから。
「美波ちゃんにそんなこと言われるなんて幸せだわ。今日は豪華なものでも作っちゃおうかしら」
頼むからやめてくれ。
スイーツならまだしも具材すら不明なもので調理したら胃が機能しなくなってしまう。
「母さんはただこわいだけだぞ」
「皓月、いまなんて?」
母さんが睨みを利かせながら低い声でそう言ってきた。
「いえ、なんでもありません」
やっぱりこわいじゃんか。
この血が流れているのだと思うと我ながらこわくなった。
その後、椎名は僕たち家族と一緒に夕飯を食べ昔話に花を咲かせた。
それでも母さんは仕事の話を一切訊こうとはしなかった。
母さんなりの気遣いなのか興味がないのかはわからないが、椎名は終始笑顔で楽しそうだった。
一方の妹は椎名のことを何度もチラ見し、目が合うと石化したように固まり続けていた。
画面越しでしか見たことのない彼女が本当に存在していたことにまだ実感が湧いていないのだろう。
普段の気の強さは微塵も感じず、ただただ人形のようだった。
ふと窓を見ると、茜色だった空は星月夜となっていた。
「そろそろ帰ります。長々とお邪魔しました」
「送ってくよ」
「ううん、大丈夫」
「でも、夜道を1人で歩かせるわけには……」
「ううん、本当に平気。ありがとう」
裏口の扉を開けるとタクシーが停まっていた。
アプリでタクシーを呼んでもらっていたそうだ。
芸能人というのは色々と大変なんだな。
「今日はありがとね。久しぶりにゆっくりできて楽しかった」
「母さんも妹も喜んでたし、いつでもおいでよ」
「うん、ありがとう。また連絡する」
それから数ヶ月も経たないうちにMellowDearz .はもっと売れ、メディアに引っ張りだこになった。
可愛いや綺麗だけでは売れない時代、歌唱力やダンスと言った表現力、柔軟性など様々なものが揃っていないといけない。
5人それぞれで役割を担いながら、曲だけでなくCMもドラマもことごとくヒットし、彼女たちの名は世界中に轟いた。



