夜明けに、君を手放す


「もうよかったの?」

「......あぁ、大丈夫だよ」

蒼太はどこか晴れやかな顔をしていた。

「......やっぱさ、生きてるって当たり前じゃないよな。だから気持ちは言える時に言っとかねぇとって、今更だけど思ったわ」

蒼太は小さく笑った。

蒼太のお母さんには何度も感謝され私たちは家へと帰ってきた。

リビングには、いつもと変わらない光景が広がっている。食卓に並ぶ料理。テレビの音。最低限の会話だけが交わされる、静かな夕食。

私は黙々と箸を進めながら、さっきまでの光景を思い出していた。

――あんな風に、素直に気持ちを伝えられたら。

蒼太とお母さんの姿を見て、ふと、胸の奥がちくりと痛んだ。

「......ねぇ」

不意に口を開いた。

向かいに座る母が、驚いたように顔を上げる。

「......いつも、ご飯作ってくれてありがとう」

自分で言って、少し気恥ずかしくなる。

母は一瞬、呆気に取られたように私を見つめ――

「......急にどうしたの?」

そう言って笑った。

「いや、なんとなく」

気まずくなって、お味噌汁をすすった。

すると、母がふっと小さく笑いながら「どういたしまして」と返してくる。

それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「明日、何か好きなもの作ろうか?」

「......ハンバーグ」

「はいはい、わかったわよ」

何気ない会話。

だけど、今までより少しだけ、家の空気が柔らかくなった気がした。

私は自分の部屋に戻った。扉を閉めるとそこにはまだ蒼太がいた。

「成仏、できないの?」

「みたいだな」

蒼太は苦笑する。
私は考え込んだ。未練はすべて解消したはずなのに。蒼太の母親も前を向き始めた。

なら、どうして?

私はベッドに腰を下ろし、ぽつりと呟いた。

「......もう、成仏しなくてもいいんじゃない?」

蒼太の目が大きく見開かれる。

「......えっ?」

「だって無理に消えなくてもいいじゃん」

私は勢いよく顔を上げた。

「それか、生き返る方法とか! 幽霊がいる時点で、なんでもありな気がするし!」

「おいおい......」

「絶対に何か方法があるよ!」

私は本気だった。

蒼太が死んだことも、幽霊になったことも、普通に考えればありえないことだった。でも、それが現実に起こったのなら――生き返る方法だって、きっとどこかにあるはずだ。

「ねぇ蒼太、生き返ろうよ」

蒼太は、私の必死な言葉を聞いて、ふっと力なく笑った。

「......そっか」

その声には、どこか納得したような響きがあった。

「え?」

私はきょとんとする。

「なんで俺が成仏できないのか、ようやくわかった」

蒼太は、自分の手を見つめる。透明な指先が、ぼんやりと揺れていた。

「陽葵が俺に未練があるんだね」

「......えっ?」

「お前だけが、俺の死を受け入れてなかったんだ」

私の心臓が、どくんと跳ねた。

「ち、違うよ! 未練があるのは蒼太でしょ?」

「だって、お前がさっき言っただろ」

蒼太は優しく、しかしどこか切なげに笑った。

「“もう成仏しなくてもいいじゃない”って。“生き返る方法があるかもしれない”って」

「それは......」

私は息を呑んだ。

「俺は、もう死んでるんだよ、陽葵」

蒼太の言葉が、胸に突き刺さる。

「でも、お前はまだ、俺がここにいることを当たり前のように思ってる」

「......違う」

「違わねぇよ」

蒼太は一歩、陽葵に近づく。

『なんか今にも『よっ』とか言って出てきそうなんだよな』

『むしろ、蒼太ってマジで真面目すぎてウザかったよな』

『誰よりも努力してたんだよ』

『もしあの子が生きてたらって』

「みんなが俺のことをもう過去として話すのに陽葵はさ。まるで俺がまだ生きてるみたいに話すんだよ」

私の胸に、ひやりとした感覚が広がる。

「......そんなわけ、ないじゃん」

ぽつりと呟くが、自分の声が妙に頼りなく聞こえた。

みんなは蒼太を“もういない人”として話している。
なのに、自分は――。

幽霊になった蒼太と、こうして話していることを当たり前のように受け入れていた。

「......私だけが、蒼太が死んだことを受け入れられていない?」

言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。

蒼太は黙って私を見つめていた。

窓の外から、ふっと夜風が吹き込む。かけていたカーテンが大きく揺れて、月の光が部屋いっぱいに差し込んだ。

蒼太の姿が、はっきりと浮かび上がる。

「......陽葵」

蒼太が、優しく私の名前を呼んだ。

夜風はさっきよりも穏やかになって、静かな光だけが私たちを包んでいる。

「俺、本当は言っちゃいけないと思ってたんだ」

蒼太の声が、微かに震えていた。

「死んだ人間が、こんな無責任なこと言っちゃいけないって思ってた。だって俺は、もういなくなるのに」

「......蒼太」

「陽葵はこれからも生きていかなきゃいけない。俺が『好きだ』なんて言ったら、陽葵を縛ることになる。そんなのダメだって、ずっと思ってた」

蒼太は、微笑んだ。だけど、その目は泣きそうだった。

「でも......やっぱり言わずにいられない」

蒼太は私の肩にそっと手を置く。

「陽葵。俺は、お前が好きだ」

心が、一瞬で張り裂けた。

「......ずるいよ。」

「ごめん。でも、これだけは言いたかったんだ」

「ずるい......」

泣きながら、私は言った。

「そんなの......ずるいよ、蒼太。私、ずっと気づかないふりをしてたのに......」

心の奥に閉じ込めていた感情が、とうとう溢れてしまう。

「私も......蒼太が好きだった。ずっと......ずっと、好きだったんだよ......!」

涙が止まらない。

「でも、言えないよ......だって蒼太、いなくなっちゃうんでしょ......?」

喉が詰まる。息が苦しいほど泣いたのは、いつぶりだろう。

「そんなの、嫌だよ......っ」

蒼太は、静かに微笑んだ。

「ありがとう、陽葵」

「......いやだ。」

「そんな風に思ってくれて、嬉しい」

「......いやだよ、蒼太、消えないで......っ」

震える声で縋る私を、蒼太はそっと抱きしめた。

あたたかい。

本当に、生きているみたいなぬくもりだった。

「俺、陽葵に出会えてよかった」

「そんなの、お別れみたいなこと言わないでよ」

「陽葵がいてくれたから、最後の最後まで楽しかった」

「やだよ......」

涙が止まらない。

「もっと、一緒にいたいよ......!」

「俺も」

「もっと、たくさん話したい......!」

「俺もだよ」

「ずっと、隣にいてよ......!」

「......俺も」

蒼太の声も、震えていた。

「もし、生まれ変わることができたら、また陽葵に会いたい」

「......っ!」

「今度は、最初からずっと隣にいたい」

私の心が、張り裂けそうだった。

「だから、待っててくれる?」

「......約束して」

「約束な」

蒼太が、優しく微笑む。

――― こんなに大好きなのに、もう触れられないのに。

胸が痛くて、壊れそうなのに。

それでも、私は頷いた。

涙を拭うこともせず、私はただ、蒼太を見つめた。





夜が深まるにつれ、私たちはずっと話していた。

他愛のないこと。思い出話。もし蒼太が生きていたらしたかったこと。これからのこと――いや、これからなんてないんだけど。

それでも、ただ蒼太と一緒にいたかった。

部屋の時計が針を進める音がやけに響く。いつの間にか、もう日付が変わろうとしていた。

「......眠くない?」

「眠くない」

嘘だった。まぶたは重く、意識もぼんやりしてきていた。

だけど、寝たら――目を閉じてしまったら、次に目を開けた時には蒼太がいなくなっている気がした。

「無理するなよ」

「無理してない......」

「陽葵って、こういうとこ頑固だよな」

くすっと笑いながら、蒼太は私の頭を軽く撫でた。

「......今日はさ、最後くらい一緒に寝よう?」

「え......?」

「眠くなるまで話して、それで、一緒に寝よう」

私は迷った。眠ったら、きっと――でも、

「......うん」

小さく頷くと、蒼太は私の手を引いて布団に入る。

ふわりとした温もりが隣にあった。並んで横になりながら、ぽつぽつと言葉を交わす。

「......蒼太」

「ん?」

「いるよね?」

「ちゃんといるよ」

優しくそう言われて、安心したようにまぶたが落ちる。

――ダメだ、寝ちゃ……

「おやすみ、陽葵」

耳元で囁かれる声に、私は抵抗できず、ゆっくりと意識が沈んでいった。

そのぬくもりを感じたまま、私は眠りについた。