翌日。

私は教室の隅で、自分の席に座ったまま、机の中に隠した漫画をちらりと見た。

「斜め前にいるのが晴人だぞ。お前、こんな席近くて名前知らなかったのかよ」

私の隣で、幽霊の蒼太がひそひそ声で言う。もちろん、私にしか聞こえない。

机に肘をついて話していた男子――晴人。短めの黒髪で、どことなく落ち着いた雰囲気がある。

「よし、行け陽葵!」

「......いや、今話してるし」

「話が終わるの待つ気か? そんなの悠長すぎるだろ」

「だからって割り込めと?」

「そうだ!」

「無理」

私は目立たないよう小さな声でそう言った。蒼太がため息をつく。

「しょうがねぇなぁ......じゃあさ、そこのプリント、わざと落としてみろよ」

陽葵はちらりと自分の机の端に置いたプリントを見る。

「拾ってもらったついでに、『そういえばこれ』って漫画を見せるんだよ」

「わざとらしすぎない?」

「ほら、さっさと!」

蒼太に急かされ、陽葵は小さくため息をつきながらプリントを机の端までずらした。狙いを定め、何気なく落とす。

パサッ。

晴人の足元に落ちた。陽葵が気づかないフリをしている

「......あ」

陽葵が気づかないフリをしていると、晴人がプリントを拾い、こちらに差し出した。

「落としたぞ」

「......ありがとう」

受け取りながら、一瞬迷う。蒼太の視線を感じる。

やるしかない......。

意を決して、陽葵はそっと机の中から漫画を取り出した。

「それ......」

晴人が漫画に気づく。

「こ、これ、蒼太が借りてた漫画だから返すね」

「おぉ、ありがとう」

陽葵は漫画を差し出す。晴人は一瞬きょとんとした顔をした後、手を伸ばして漫画の表紙を確認した。晴人が漫画を受け取った後、不思議そうに陽葵を見た。

「でも、なんでお前が持ってたんだ?」

……しまった。

陽葵は一瞬固まった。蒼太も「おっと」とでも言いたげに口元を引き締める。

「えっと......」

適当な言い訳を考える。だが、焦れば焦るほど何も出てこない。

私は一瞬考えた後、冷静を装って口を開いた。

「......蒼太のお母さんに頼まれたんだよ。蒼太が借りてたものだから返しといて欲しいって」

晴人は少し驚いたように目を丸くした。

「お前、蒼太とそんな仲良かったのか?」

「いや、別に私が仲良いってわけじゃなくて......うちの母親と仲がいいから、子どもの頃に何度か会ったことがあるってだけ」

「へー、全然知らなかったわ!なんか意外だな」

適当に流したつもりだったが、晴人は納得したように頷いた。私は心の中で小さく息を吐いた。

「おー、ナイス機転!」

蒼太が横でニヤニヤしながら親指を立てる。
晴人は少し黙り込んだあと口を開いた。

「蒼太っていきなり突拍子もないことするからよ。なんか今にも『よっ』とか言って出てきそうなんだよな」

「わかる!」

私も苦笑いしながら頷いた。

「幽霊になってものんきに満喫してるし......あっ、してそうじゃない?」

「あはは、絶対そうだな。しかも『まあ俺、こういうのもアリかなって』とか言いながら普通に馴染んでそう」

晴人は勢いづいて、さらに続けた。

「あとさ、めっちゃ長々話したくせに、最後は語彙力なくなって『まあとにかくヤバいってこと!』で締めるの笑うんだけど」

「うんうん。結局、何がヤバいのって聞くと、『えっ』とか言って自分もわかってないんだよね」

ふたりで顔を見合わせて笑いながら、蒼太の話で盛り上がる。

「おい、お前ら!俺のことバカにして盛り上がってんじゃねぇよ!」

蒼太がむくれて叫ぶのが聞こえたけど、もちろん晴人には聞こえていない。私は肩を震わせながら笑い続けた。

「なんだ、お前、話せるじゃん」

晴人の何気ない言葉に、私はふと笑いを止めた。

「え?」

顔を上げると、晴人は不思議そうに私を見ていた。

「いや、なんていうかさ。陽葵ってあんまり人と話さないじゃん。だから、話すの嫌いなのかなって思ってた」

一瞬、胸の奥がチクリと痛んだ。たしかに私は、いつもひとりだった。けれど、別に話したくないわけじゃない。

「......別に、嫌いじゃないよ」

自分でも驚くくらい、小さな声だった。でも、晴人はそれを聞き逃さなかったみたいで、にっと笑った。

「そっか。じゃあ、これからはもっと話そうぜ」

軽い調子の言葉だったのに、不思議と胸があたたかくなる。

「......うん」

私が頷くと、晴人は満足そうに頷き返した。その瞬間、横から蒼太の声が飛んでくる。

「おー!陽葵、ちょっと成長したじゃん!」

「うるさい」

小さくつぶやくと、蒼太は「素直じゃねぇな」と笑った。

晴人が差し出した漫画を手に取りながら、私はそっと深呼吸をする。

――いつの間にか、私は誰かと笑って話していた。

それだけのことなのに、なんだかすごく久しぶりな気がして、ほんの少しだけ胸が熱くなった。



次に私は美優ちゃんのところへ向かった。

「だからこれ蒼太が借りてたノート。ありがとうって」

私は晴人くんと同じように説明してノートを差し出す。
美優ちゃんは驚いたように目を瞬かせた。

「あっ、うん! どういたしまして!」

それから、少し困ったように笑う。

「古典のノートもうすぐ提出だったでしょ?だからちょっと困ってたんだ。ありがとう」

「ごめんね、ちゃんと返せてよかった」

「ううん! ちゃんと戻ってきて助かったよ、ありがとう!」

美優ちゃんがにっこり笑うと、なんだかこちらまでホッとする。

初めて話した美優ちゃんは噂に聞いてたとおり、ふんわりと優しい雰囲気だった。意外と、普通にできるものなんだな。

なんとなくそんなことを思いながら、次は結月ちゃんのところへ向かった。



「だからこれ蒼太が借りてた漫画」

「えっ、そうだったんだ。ありがとう」

私はこれで三回目の嘘を説明し少女漫画を手渡す。

「これ面白いよね」

私は思わず呟いた。

「えっ、読んでるの!? えぇ、嘘!? 」

勢いよく詰め寄られ、思わず少しのけぞる。

「え、えっと、うん。その作者が好きで」

「これあまり知られてないから話せる人いて超うれしい!あっ、陽葵ちゃんは白銀か黒瀬くんどっち派?」

「最初は白銀だったけど、黒瀬くんが一途すぎてやっぱり黒瀬くん派かな」

想像以上の熱量に少し圧倒されながらも、私は小さく笑った。

結月ちゃん、こんなに漫画の話するんだ。

そんな新しい発見をしながら、私は頷きながら彼女の話に耳を傾けた。

「わかる!!! あの、8巻のシーン!! 黒瀬くんがさ、――」

「8巻?」

私は思わず聞き返した。

「え?」

彼女が目を瞬かせる。

「あ、私まだアプリで読んでる途中で......たぶん、そこまで行ってないかも」

「あっ、ごめん!! ネタバレしちゃった!?」

彼女は顔を青ざめさせて、口元を手で覆った。

「いや、大丈夫! 気にしないで!」

「でも、せっかくならちゃんと自分で読んでほしいし! ね、よかったら貸してあげるよ!」

「えっ?」

「うちに単行本あるから! 陽葵ちゃんが最新話まで追いつくまで、私、話すの我慢するから!!」

彼女は真剣な表情で、ぎゅっと拳を握る。

「ほんとに?」

「もちろん! だって、好きな作品を語るなら、ちゃんと読んでからのほうが絶対楽しいもん!」

その言葉に、じんわりと胸が温かくなる。

「ありがとう。じゃあ......借りてもいい?」

「もちろん! 絶対感想おしえてね!」

彼女は満面の笑みを浮かべ、小指を差し出した。

私は少し笑いながら、その小指にそっと自分の指を絡めた。

少女漫画みたいな展開に、少しだけ胸が高鳴る。

本を机に置いた瞬間、蒼太がすぐに顔を寄せてきた。

「お前さ、なんか今日すげぇ楽しそうだったな?」

「そんなことないよ」

「いや、あったね。めっちゃ笑ってたし」

「......それ、そんなに珍しい?」

私が少しムッとして言うと、蒼太は「おっ?」といたずらっぽく口角を上げた。

「お、ついに自覚した?」

「してない」

「いやいや、絶対しただろ。いいねぇ、青春って感じ!」

「......ほんと、うるさい」

私はそっぽを向いて、教室の外に視線を移す。けれど、蒼太は満足そうに頷きながら続けた。

「でもまあ、よかったじゃん。今日の陽葵、前より楽しそうだったし」

「そんなこと言って、次から何も変わらなかったらどうするの?」

「そしたらまた俺が後押ししてやるよ。つーか、お前がまた勝手に話しかけられてる未来しか見えねぇけど」

「そんなわけないでしょ」

私は呆れながら言ったけど、蒼太は「いやいや」と首を振る。

「陽葵、もう気づいてんだろ。話すの、そんなに悪くないって」

私はそれには何も言わず、本の表紙を撫でる。

「......まあね」

ほんの少しだけ、小さく認める。

蒼太はそれを聞くと、満足そうに腕を組んで頷いた。

「よし、いいね。じゃあ、次は友達と飯でも行ってみるか!」

「調子に乗るな」

私が即座に返すと、蒼太は「ちぇっ」と拗ねたふりをした。

「ま、ゆっくりでいいけどさ。とりあえず、今日は上出来ってことで」

私は静かに息を吐きながら、再び本に目を落とした。

――少なくとも、今の私は少しだけ、昨日よりも賑やかだ。



学校が終わり、私は蒼太と廊下を歩いていた。教室を出た後、急に蒼太が立ち止まり、私もその後ろで足を止めた。彼の目線が、校舎の奥の方へと向けられた。

私は、蒼太が指さす方を見て、少し目を細めた。そこで立っているのは、背の高い男子だった。

「......誠也」

「え?あいつが誠也?」

私は蒼太の言葉を繰り返しながら、少し首をかしげる。

すると、誠也がこちらを見て、無愛想に目を合わせてきた。その瞬間、私は思わず軽く息を呑んだ。

「え、怖いんですけど?」

私は思わず心の中で呟きながらも、なんとなく話しかけてみることにした。

「えっと、あの、蒼太のことなんだけど......」

私が蒼太の名前を出すと、誠也の表情がピクリと変わった。その瞬間、私はちょっと引き気味になった。

「な、なんか怒ってる?」

私は心の中で軽く笑った。だって、こんなことで怒るなんて変な感じだし。

「あぁ?」

誠也が冷たく言い返してきた。私はその声に、思わず目を丸くしてしまった。

え、怖いんですけど?

私はちょっと戸惑いながらも、冗談っぽく続けてみた。

「あ、いや、蒼太が親友って言ってたからさ......どうしたのかなって」

彼女は軽い気持ちで言ったのに、誠也は一切の反応もなく、ただ無言で歩き去っていった。

私はその背中を見ながら、ちょっと肩をすくめてつぶやいた。

「え、怖っ。なんか思ってたのと全然違うじゃん」

「あれは怒ってるわ」

私のつぶやきを聞いて蒼太は笑いながら答えた。

「まあ、誠也はああいうやつなんだよ。根はいい奴なんだけどなぁ」

そう言いながらも、蒼太の目は誠也の背中を追い続けていた。何か言いたげに口を開きかけるが、結局言葉にはせず、そのまま息を吐く。

私は蒼太の視線を追い、去っていく誠也の背中を見つめた。

「......追いかける?」

軽く冗談めかして言ったつもりだった。

けれど、隣の蒼太は真剣な顔で頷いた。

「追いかける」

そう言うと、彼は誠也の後を追って歩き出した。

幽霊の蒼太は、どこまで行っても誠也に追いつくことはできない。

でも、私にはできた。

「......はぁ、仕方ないな」

私はため息をつきながら、蒼太の後に続いた。

廊下を抜け、校舎の隅にある部室棟へ向かう。

誠也は、そのままサッカー部の部室に入っていった。

扉が閉まる直前、私は素早く駆け寄り、中の様子を窺う。

「......は?」

不意に、近くの部室の方から、低い声が聞こえた。

私はそっとそちらを覗く。

そこにいたのは、誠也だった。

険しい表情で、部室の奥を睨みつけている。視線の先には、二人の男子がいた。

サッカー部のメンバー――いや、元メンバーか。

「別に、アイツがいなくなっても部活は普通に回るしな」

「むしろ、蒼太ってマジで真面目すぎてウザかったよな」

「そうそう、勝手に気負ってたっていうかさ」

「お前、サッカーそんなに好きか?みたいな」

「結局、自己満だったんじゃね?」

私は、思わず息をのんだ。

そして、誠也がそれを聞いてしまったことに気づき――胸がざわついた。

誠也は、静かに前へ歩き出した。

「お前ら、今、何つった?」

その一言に、空気が凍りつく。

二人が振り向くと、誠也の鋭い眼差しと真正面からぶつかった。

「せ、誠也......?」

「今の、もう一回言ってみろよ」

低い声。張り詰めた空気。

二人の男子は、気まずそうに視線をそらした。

「べ、別に......ただの冗談だし......」

「そ、そうそう。そんな本気で怒ることじゃ......」

「......ふざけんなよ」

誠也の拳が、ぎゅっと握られる。

「アイツは、そんな中途半端な気持ちでやってたんじゃねぇよ!」

言葉を詰まらせた二人に、一歩近づく。

「自己満足?気負ってただけ?違えよ。アイツは、誰よりも本気でやってたんだよ。お前らみたいに言い訳して、適当にやってたんじゃねぇんだよ」

「......っ」

「蒼太は、俺たちがサッカーを楽しめるようにって、誰よりも努力してたんだよ。それをウザいとか......」

誠也は歯を食いしばる。

「お前らに、そんなこと言う資格なんかねぇよ!」

二人は何も言えなかった。ただ、気まずそうに視線をそらし、やがて足早に部室を出ていった。

静寂が訪れる。

「誠也......」

蒼太がそう呟いた。しかし、誠也にその声は聞こえない。蒼太は悔しそうに拳をにぎりしめるしかなかった。

誠也の肩が、小さく震えていた。

私は迷った。

自分なんかが、こんな場面に踏み込んでいいのか分からない。

だけど――このまま黙っていたら、後悔する気がした。

だから、思い切って口を開いた。

「......あの」

誠也は動かない。

それでも、私は続けた。

「......蒼太は、あなたのこと、本当に親友だって思ってたと思う」

誠也の拳が、ぎゅっと握られる。

「たぶんだけど......蒼太は、感謝してると思うよ」

「……バカかよ。お前に何がわかんだ」

かすれた声で、誠也が呟く。

「俺、何もできなかったのに……」

私は、それにどう返せばいいのか分からなかった。

けれど、思うままに言葉を紡いだ。

「……それでも、そばにいたんでしょ?」

誠也の呼吸が、一瞬止まる。

「それが、蒼太にとっては十分だったんじゃないかな。だって――そういう奴だったでしょ、蒼太って」

誠也の喉が、詰まったように震えた。

目の前で、涙がぽつぽつと床に落ちる。

「ははっ、そうだな。蒼太はそういう奴だったな」

誠也が顔を伏せる。

その肩に、幽霊の蒼太がそっと手を伸ばした。

もちろん、触れることはできない。

けれど、そっと微笑みながら、小さく囁く。

「......ありがとな、誠也」

誠也の涙は止まらなかった。

私は、そっと視線を落としながら、小さく息を吐いた。

――伝わった気がした。