他人に興味がなかった。
どうせ裏切られる。人との関係なんてそんなものだ。そう思って誰とも深く関わることなく、日々を過ごしていた。自分が傷つかないように、誰かに依存しないように、心の中で無意識に距離を取っていた。
話しかけられれば適当に返事をして、すぐにその場を離れる。
そうしているうちに、気づけば誰も私に話しかけなくなっていた。
みんながどう思っているかなんて気にしていなかった。私にとって、それが一番楽で、傷つかずに済む方法だったから。
高校2年の二学期。
クラスのグループはすっかり固定され、私は自然とひとりになった。
誰も私に期待していないし、私も誰にも期待していない。
それが、一番楽だった。
――のはずなのに。
「陽葵おはよー!」
朝、教室に入ると、いつもと変わらない明るい声が響いた。
私は一瞬だけ視線を向けて、読んでいた小説に意識を戻す。
「おっ、昨日読んでたやつ、もう読み終わったのか?......ってまた難しそうな本読んでんな。面白い? 面白かったら俺にも貸してよ。なぁ、陽葵」
私が返事をしないからか、蒼太の会話はいつも独り言みたいになる。
朝の教室には、私と彼の二人だけ。彼の朝は意外と早いらしい。
「......あんまり、名前呼ばないで」
集中が途切れた私は、わずかに苛立ちながらそう返した。
「なんで?」
彼は不思議そうに首を傾げる。
「陽葵って、みんな向日葵みたいな明るいイメージでしょ。私、そんなのと全然違うし......だから、自分の名前嫌いなの」
「そんなことねぇよ!」
即答だった。驚いて顔を上げると、蒼太は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「俺は知ってるから。本当は陽葵が優しいの」
思わず息が止まる。
そんなこと、誰にも言われたことがなかった。
最初はただの挨拶。「おはよう」と言われるだけ。
私が冷たくあしらっても、蒼太は変わらず毎日話しかけてきた。
正直、最初は面倒だった。
でも――何度も何度も繰り返されるその言葉に、少しずつ心が動かされていた。
蒼太はクラスの人気者だった。誰とでもすぐに打ち解けて、どんな時も楽しそうで、悩みなんてなさそうに見える。容姿も良くて、どこか無邪気な雰囲気があって、自然と人が集まるタイプ。
そんな彼が、なぜか毎日、私に「おはよう」と言い続ける。
気づけば、彼の声を待つようになっていた。
朝、教室の扉が開く音がするたびに、ふと期待してしまう。
今日も、いつものように「おはよう」と言ってくれるだろう。
そう思っていたのに。
蒼太は、教室に来なかった。
チャイムが鳴るまで待っても、蒼太の姿はどこにもない。
なんとなく、胸の奥がざわつく。
昨日まで当たり前にあったものが、急に消えてしまったような、そんな感覚。
何かあったのだろうか。
担任の先生が、静かに口を開いた。
「みんな、静かにして聞いてください。......昨日、蒼太が事故で亡くなりました」
その瞬間、教室が凍りついた。
空気が張り詰める。
時間が止まったように、誰も動かない。
耳に入った言葉を、頭が理解しようとしなかった。
――蒼太が? 亡くなった?
意味がわからなかった。
朝、いつものように「おはよう」と言ってくれるはずだったのに。
ただ、それだけのはずだったのに。
「え......?」
誰かが、小さく声を漏らした。
「嘘......だろ?」
「え? なんで?」
「蒼太が......?」
クラスのあちこちで、戸惑いの声が上がる。
笑い飛ばそうとする子もいた。
「いやいや、冗談だよな?」
でも、その声は震えていた。
ぎこちない笑顔のまま、誰も言葉を続けられない。
――嘘だ。
――そんなわけがない。
けれど、先生の沈んだ表情が、それを許さなかった。
蒼太の席を見る。
いつもなら、そこに座って、無邪気に誰かと話しているはずなのに。
でも、そこには誰もいなかった。
突然、現実がのしかかる。
教室の隅で、誰かが泣き出した。
嗚咽が、静かな教室に響く。
他の子も次々と顔を伏せて、涙をこぼした。
......でも、私は泣けなかった。
私たちは、特別仲がよかったわけじゃない。
たまに言葉を交わすくらい。
たったそれだけの関係だった。
でも、朝の「おはよう」を待っていた。
それが当たり前になっていた。
――もう、聞けない。
それがただ、少し寂しいと思った。
私だけ、時間が止まってしまったみたいだった。
周りの悲しみがどんどん広がっていくのに、私はその場で立ち尽くすことしかできなかった。
蒼太が亡くなって、早くも四日が過ぎた。
彼がいなくても、世界は当たり前のように回っている。
いつものように朝が来て、授業が進み、昼休みになり、放課後になって、家に帰る。
クラスの雰囲気は少し静かになったような気がするけれど、それでも日常は続いていた。
昨日の葬式には、私は行かなかった。
そもそも、誰も私と蒼太がどんな関係だったか知らない。クラスの皆にとって、私たちはただの席が隣同士になっただけの関係で、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。
蒼太の両親にしてみれば、私はただのクラスメイトのひとりに過ぎない。突然現れて「実は生前、毎日話しかけられてました」なんて言ったところで、どうにもならないだろう。
彼のことを思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなる。
あんなに毎日「おはよう」と言ってくれたのに、もうそれが聞けない。
あの明るい笑顔も、もう二度と見ることはできない。
「......バカじゃないの」
私は小さくつぶやいて、机に突っ伏した。
けれど、その直後――
「おいおい、俺の悪口か?」
唐突に聞こえたその声に、私はびくっと身体を強張らせた。
「......」
「おーい、無視すんなって」
聞き慣れた、ちょっと軽い感じの話し方。
顔を上げるのが怖かった。そこに、いるはずのない人が、いるかもしれない。
ゆっくりと顔を上げる。
そして、私は目の前に立っているその存在を見て、凍りついた。
「よっ! 俺のこと、忘れた?」
にかっと笑って手を振る蒼太。
私は目を疑った。
「......え、なにこれ、ホラー......?」
思わず後ずさる。
「いやいや、ホラーってひどくね?」
「ちょ、待って待って、だって......あんた、死んだじゃん......!」
「うん、そうなんだけど」
「『うん』じゃない!!」
私は慌ててあたりを見回した。教室には私しかいない。いや、正確には――
私と、幽霊の蒼太しかいない。
「やば......私、ついに幻覚見るようになった......」
「ちげーよ、ほんとにいるんだって」
蒼太は腕を組んで、まるでそこに生きているかのような態度で言った。
「まぁ、理由は俺にもよく分かんねぇけどさ、気づいたらこうなってたんだよね。で、陽葵だけが俺のこと見えてるっぽい」
「は?」
「てことで、俺の未練を一緒になくしてくれ!!」
「はぁぁ!?」
人生最大級の混乱に襲われながら、私は思わず頭を抱えた。
「なんかさ、人って死んだらスーッとあの世に行くもんだと思ってたんだけど......どうも俺、まだ成仏できねぇんだよな」
「......つまり、未練があるってこと?」
「そう!やっぱ成仏できないってことは未練があるってことだろ? お決まりのパターンだよな」
蒼太は、ふわっと宙に浮きながら両手を広げた。
「だからさ、陽葵、俺の未練を消すの手伝ってくんね?」
「......なんで私?」
「いや、陽葵にしか俺が見えないみたいだし」
私は、じっと蒼太を睨んだ。
――めんどくさい。
ただでさえ静かに過ごしたいのに、なんで死んだはずの男子に振り回されなきゃいけないんだ。
「......断ったら?」
「俺、ずっとついて回るけど?取り憑いてることになるんかな?」
「......」
私は再び頭を抱えた。
私はしばらく黙っていた。気になる気持ちもあるし、何だか蒼太に頼まれると、どうしても断れない気がした。それに、何より――
「蒼太、ほんとに、成仏できるの?」
私は小さく呟いた。
「もちろんだよ!だから、頼む!」
蒼太は、また勢いよく手を振った。
私は深呼吸をしてから、ゆっくりと頷いた。
「......分かった。でも、どうやって?」
「まずは、俺が死ぬ前にやりたかったことを整理しなきゃな」
蒼太は少し考え込みながら言った。私は少しだけ肩の力を抜いて、蒼太を見つめた。
「そのために、私がどうするの?」
「それは、俺が教えるからさ、ちょっとだけ待っててくれ」
蒼太はにっこりと笑った。
私はその顔を見て、また少しだけ心が軽くなった気がした。でも、これが本当に現実なのか、それともただの夢なのか、まだはっきりと分からない自分がいた。
帰り道、私は蒼太の後ろを歩きながら、あまりにも不思議な状況に頭が追いつかず、何度も自分に問いかけていた。あんなに元気だった蒼太が今、幽霊になっている。
しかも、私と一緒に帰るなんて――
「おい、陽葵。ちゃんと歩けよ?」
蒼太が後ろから声をかけてきた。振り返ると、いつもと変わらない笑顔がそこにあったけど、なぜかその笑顔が少し切ないものに見えて、私の心に突き刺さる。
「うるさいわね」
私は振り返って、軽く答えたが、どうしても普段のようには言えなかった。
「幽霊ってこんな感じなんだなって思ってるだろ?」
蒼太が歩きながら、ぼんやりと話し始めた。
「こんな幽霊いないよ。実際、まだ信じてるのか自分でも分からないし」
私がそう答えると犬の散歩をしていたおじさんが不思議そうにこちらに視線を向ける。
「周りからしたら陽葵がひとりでしゃべってように見えてるんだろうな」
「えっ!やだ、恥ずかしい」
そんな私をよそに颯太は他人事だと思って、呑気に笑っている。でも本当に私にしか見えてないんだ。
「幽霊って、意外と便利なんだぜ」
蒼太は言うと、足元を見つめながら続けた。
「お腹が減ることもないし、疲れねぇから寝る必要もない。誰にも見えないからやりたい放題!」
こんなポジティブな幽霊がいていいのだろうか。
「それじゃあ、どうして私には見えるの?」
私は歩きながら、無意識にその問いを口にした。
「うーん、分かんない。でも、きっと陽葵が特別なんだろうな。もしかしたら、何かの縁ってやつか?」
「特別?」
私は少し驚きながら蒼太を見たが、特に真剣な顔ではなさそうだった。
「うん、まあ、気にすることじゃないだろ」
蒼太は肩をすくめて、すぐに笑顔に戻った。
「あっ、やっぱり人に触ったりはできないの?」
「あー、どうだろ。まだ試してなかったな」
蒼太がニッと笑って、手を差し出してきた。
「じゃあさ、実際に触れるか試してみようぜ」
「......え?」
思わず足を止めて、彼の手を見つめる。確かに、見た目は生きていたときと何も変わらない。
「ほら、遠慮すんなって」
「遠慮とかじゃなくて......」
躊躇しながら、私はそっと自分の手を伸ばしてみた。指先が蒼太の手に触れようとした、その瞬間――
「――っ!」
スッと、何の抵抗もなくすり抜けた。まるで、ただの空気を掴もうとしたみたいに。
「......やっぱり触れないんだ」
当たり前といえば当たり前なのに、実際に試してみると妙にショックだった。
「まぁ、そうだよな〜。俺、幽霊だし」
蒼太は悪びれもせずに肩をすくめようとして、なぜかその動作を途中で止めた。
「でもさ、不思議なんだよな。触れないけど......なんか、温もりみたいなのは感じる気がするんだよ」
「......温もり?」
「うん。例えば、陽葵の手がすり抜けたとき、一瞬だけど“何か”に触れた感じがした。まぁ、勘違いかもしれないけど」
そう言いながら、蒼太は軽く自分の手を見つめていた。
「......へぇ」
私は曖昧に相槌を打ちつつ、もう一度そっと手を伸ばしてみた。でも、やっぱり指先は空を切るだけ。
「うーん、やっぱ無理かぁ」
「そりゃそうでしょ」
「でもな!こう念みたいなのを送ると少しものが動いたり、冷気みたいなの出せるんだよ!まだコツが掴めてないんだけど」
そんな会話をしながら家に着くと、私は玄関のドアを開けながらちらりと隣を見る。
「じゃあ、私ここだから」
蒼太はまだそこにいた。だけど、私が靴を脱ぐのを見届けると、急に「行きたいとこあるから、また後でな!」と軽く手を振って、どこかへ行ってしまった。
幽霊って、そんな自由に移動できるの?
いや、そもそも幽霊が現実にいること自体がおかしいんだけど......。それでもなぜだか、蒼太が死んだと言われるよりも幽霊になったと言われた方が信じれた。
少し考えたものの、蒼太がどこへ行くのか気にしても仕方ないので、とりあえず家に上がることにした。
リビングへ行くと、母がキッチンで夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
「......おかえり」
母は私をちらりと見たが、それ以上何かを言うことはなかった。私も特に話すことはなかったので、そのまま部屋へ向かう。
前からこうだ。必要最低限の会話しか交わさないし、お互い踏み込まない。
そんな関係が、私は少しだけ息苦しく感じることがある。
私はお風呂にご飯、明日の準備をすべて終わらし布団に飛び込んだ。
はぁ、疲れた。ありえないほど疲れた。
今日は早く寝てしまおう。
そう目を閉じて、少しでも休もうとした――そのとき。
「よっ!」
「うわぁぁぁ!?」
突然、耳元で声がした。私は慌てて飛び起き、目の前にいる人物を見て絶句する。
「蒼太っ......! なんで勝手に入ってくるの!?」
「え? だって幽霊だし? ドアとか関係なく通れるんだよね」
蒼太はヘラヘラと笑いながら、私の部屋をきょろきょろと見回している。
「いや、だからって勝手に入ってこないでよ! プライバシーの侵害!」
「プライバシー? そんなの幽霊にはないぜ」
「あるから!!!」
布団を掴んで投げつけようとしたが、当然すり抜ける。
「くっ......!」
私は悔しさで歯を食いしばった。
「つーか、陽葵の部屋、思ったよりシンプルだな。もっと本とか積み上がってるかと思った」
「片付けてるだけだし」
「ふーん。でも意外とかわいいクッションとか置いてんだな」
「見るな!!」
私は慌ててクッションを抱きしめる。
「いやぁ〜、これ幽霊の一番の特権かもな」
思わぬ侵入者に私はげっそりしながら、改めて思った。
幽霊との生活、想像以上にストレスが溜まりそうだ......。
「で、なんで来たの?」
「あぁ、未練を考えてみたからちょっと紙にまとめてもらおうと思って。ほら、俺、もうペンとか持てないじゃん? だから陽葵が書いて」
「......はぁ、わかったよ」
私は渋々ノートを開き、ペンを手に取る。
そして蒼太が言ったことを書き留めた。
蒼太の未練リスト
1 友達に借りてたものを返すx3
2 喧嘩したままの親友に謝りたい
3 夏祭り行きたい
4 試合に出たかった
5 親に気持ちを伝えたかった
6
「次は?」
「......」
急に黙る蒼太。
「ん?」
「いや、最後のやつは......まだいい」
珍しく真剣な顔をしている。だから私も無理に聞かず、ノートを閉じた。
「で? これ、どうやって叶えればいいの?」
「さっき、これは持ってきたから明日から早速取りかかろうぜ!」
そう言って指さす方に視線を向けると床には何冊かの漫画とノートが勝手に置かれていた。死んでもしっかり返すなんて律儀な幽霊。
「この漫画が晴人ので、こっちが結月で、このノートが美優ちゃんの」
「......」
「どうした?」
陽葵は漫画とノートを見つめたまま、口をつぐんだ。
「......誰?」
「は?」
「晴人? 結月? 美優ちゃん? そんな名前の子、いたっけ」
蒼太は呆れたように頭を抱えた。
「おいおい、クラスメイトだろ? さすがに名前ぐらい覚えとけよ」
「興味なかったから知らない」
「うわ、はっきり言うなぁ......」
蒼太は腕を組んで考え込み、すぐにニッと笑った。
「これ、陽葵がクラスに馴染むチャンスでもあるし、一石二鳥じゃね?」
「いや、馴染む気は――」
「決まり! てことで、明日よろしく!」
「勝手に決めるな!」
陽葵の抗議は虚しく、蒼太は満足げに頷いていた。



