わたしは、モナリザの顔がわからない。
目が見えないわけではない。
しかし。
国境の長いトンネルを抜けた際の雪国の景色も、異国にて若い官僚が恋に落ちた美しい舞姫の姿も、夜空を駆ける銀河鉄道も。
わたしは、これらすべて、頭の中に思い描くことができない。
わたしの頭の中は、常に暗闇で、空っぽだ。
*
新学期が始まったばかりのうららかな春の日、わたしは、読書感想画という至極厄介な課題に頭を悩ませている。まだ画用紙は真っ白だ。
美術教師の本田先生が教室をまわっている。ほかの生徒たちは、各々が選んだ図書を開いたり、見比べたりしながら、鉛筆を走らせている。早い者は、もう絵の具を筆でこねていた。
わたしが題材に選んだのは、高校生の恋人どうしが、海の見える高台で愛を確かめる、中高生向けの恋愛小説だ。何度も物語のクライマックスのページを見直す。
読書インフルエンサーが宣伝していたのを偶然SNSで見つけただけのこの作品は、思った以上にわたしの胸を打った。柔らかな筆致、美しい表現に心を奪われた。
しかし。
「高幡さん、まだ進まないの?」
ページをめくる音と、鉛筆の音、そして筆を水で洗う音しかしない教室で、本田先生の声は隅々までよく通る。前の方に座る雅が、こちらを振り向いて、ふざけた様子で小さく指をさした。わたしは、顔をしかめる。
「高幡さん?」
本田先生が呼びかけるたび、生徒の注意がこちらを向くのを感じる。視線などなくても、好奇心の矢印が向いているのだ。
「えっと……そうですね」
「ちょっと本を貸して。描きたいのは、この辺り?」
放っておいてくれれば良いのに、やる気にあふれた若い女性教師は、わたしを離してくれない。
「ああ、きれいなシーンね。確かにこれは描けると素敵ね」
本田先生がさらりと目を通したところは、まさしくクライマックスの海のシーンだ。
「どこが引っかかっているの?」
「えっと……うまく、イメージが、できなく、て……」
生徒たちが聞き耳を立てる中で答えるのは、ひどく恥ずかしい。どんどん声は小さくなって、淡い雲のようにふっと消えた。
本田先生は首をかしげる。
「比較的イメージしやすいシーンだと思うけれど。構図に悩んでいるのかしら」
わたしは、押し黙る。困っている様子のわたしを見て、本田先生はようやく諦めてくれたようだ。
「……まぁ、まだ課題提出まで時間はあるから、よく考えて」
わたしは安堵ともに「ありがとうございます」と呟いた。
終了のチャイムが鳴っても、わたしの画用紙は真っ白なままだった。
「亜耶!」
美術室からの帰り、廊下を歩いていると、後ろからどんと何かがぶつかった。島崎雅が、わたしの背を勢いよく叩いたのだ。
「絵、進まなかったの?」
わたしは軽く咳き込みながら答える。
「……うん。あまり得意じゃなくて」
「わたし、この本読んだことあるけど、最後のシーンを描こうとしているの? けっこうわかりやすいと思うけどな。海と、人と、花畑でしょう? シンプルじゃない」
雅は、わたしが持っていた本を取り上げる。雅の手から本を奪い返す。
「だって、海と、人と、花畑って、それだけしか情報がないじゃない」
「どれもイメージしやすいと思うけどな」
雅は不思議そうにわたしを覗き込む。
そう、「イメージ」。わたしには、これができないのだ。
本を読むときに、その様子が映像として立ち上がってくる人がいる、ということを聞いたときの驚きは、忘れられない。
もっと理解できないのは、「脳内再生」だ。よく聞く音楽を、頭の中だけで再現することができるらしいということを知ったときは、混乱した。
わたしにとって、「海」は「海」という文字の情報でしかない。青くて、広くて、波がある。文章でしか理解できない。
その中の要素一つを取っても、たとえばわたしは「青」がどんな色か、思い出すことができない。
つまり、わたしには、「頭の中に思い浮かべる」ということができないのだ。
過去の記憶さえも、何か似たような事象に出会わないと、具現化されない。わたしだって、「海」を見たことくらいある。家族旅行で見た海は、広くて、青くて、波の音がしていた、はずだ。
しかし、わたしは、そのときの記憶を何もなしに思い出すことはできない。「海」の写真を渡されて見た海が、「海」という単語と一致したとき、やっと映像として理解できる。
人の顔も、現実のその人や、写真などを見れば識別できる。しかし、何もないところから思い返すということはできない。
頭は悪い方ではないはずだ。中学に入ってから、二年生の春の今まで、平均点を切ったことはない。特段、優秀というわけでもないが、記憶を必要とする問題で困ったことはない。
困るのは、もっと想像を必要とするものだ。さっきの美術の課題のように。
「『海』は『海』だってわかっているけれど、それだけだと描けない。何か……お手本? みたいなものがないと……」
「そんなに写実的に描かなくて良いのじゃないの?」
雅は、きっと何も見なくても、頭の中に、「海」の映像を思い浮かべられるのだろう。むしろ、それが一般的であることは、この歳になればなんとなく理解はしていた。
「亜耶は、真面目すぎるんだって。美術なんて受験科目でもないし、適当に済ませれば良いじゃん」
雅は、わたしの背中をバシバシと叩く。
「やめてってば」
わたしは、笑いながら足を速める。
きっと、何も思い浮かべることができないわたしの心は、空っぽなのだろう。
その事実か逃げるように、廊下を小走りする。
結局、わたしは美術の課題を時間内に終わらせることはできなかった。
学校はスマートフォンの持ち込みが禁止されているし、画像検索したものを印刷して持ってきてお手本にするなど、許されない。
あくまで、自分の「イメージ」を描くのが、この課題の目的だからだ。
本田先生の困りきった顔を思い出すことすらできないのは、良かったのかもしれない。先生の指示で、わたしは放課後に居残り作業をすることになった。
画用紙を用意して、美術室の硬い椅子に座る。帰宅部のわたしには関係ないはずなのに、グラウンドの運動部の声が、やけに楽しそうに聞こえてくる。
何度目かわからないため息をつきながら、何度も線を引いては消して、ボロボロになった画用紙を前に、角が擦り切れてきた書籍を手に取る。
何度読んでも、この美しい文章を映像として結ぶことができない。
そのとき、美術室の後ろの扉がスライドした。振り返ると、リュックを背負った詰襟の男の子が立っていた。目が大きく、童顔な印象だ。上靴のラインの色から、同じ二年生だとわかる。
「あれ?」
目を丸くして、軽く首をかしげている。わたしがいることが不可解なのかもしれない。
「あ、あの、わたし、美術の授業で居残りしていて……」
「そうなんだ……うわっ!」
男の子は、足元に出っ張っていた椅子に気づかなかったのか、派手に転びかける。なんとか机の端に掴まって、倒れ込むことを避けられた。
「だ、大丈夫?」
「ごめんごめん」
体勢を立て直しながら、照れくさそうに笑う。笑うと可愛かった。
「課題? そんなに大変なの、最近あったっけ」
「読書感想画……」
「ああ、苦手な人もいるよね」
そう言いながら、こちらを覗き込む。
「ごめん。上靴の色、二年生だよね。僕も二年生。二年三組の萩野航太」
人見知りしないタイプなのだろうか。屈託なく笑っている。萩野航太。どこかで聞いたことがある気がするが、話すのは多分初めてだ。
「わたし、二年一組の高幡亜耶。えっと、萩野くんはどうしてここに?」
萩野くんは、リュックを床に置き、わたしの隣の椅子に座って、机に頬杖をつく。
「ほぼ幽霊部員ばかりの中、ちゃんと活動している絶滅危惧種の美術部員」
美術部というものがあったということも知らなかった。
「だいぶ画用紙、ボロくしたね」
萩野くんは、わたしの前に広がる画用紙を見て、クスクスと笑う。わたしは少し気分を害した。
「苦手なの」
棘のあるわたしの声に気づいたのか、萩野くんは、慌てた様子で手を小さく振る。
「馬鹿にしたつもりはないんだ。怒らないで。頑張ってるな、って。美術なんて、受験科目でもないし適当にやる人のほうが多いから、真剣に向き合ってくれているの、嬉しい」
わたしは自分の誤解に、顔が熱くなるのを感じた。
「ごめん、そういう意味だったんだね」
「この本?」
萩野くんは、わたしが左手に持ったままだった本を指す。
「そう」
どうしようか。わたしはイライラしていた。初めて会う男子。何故か、「旅の恥はかき捨て」という言葉が頭を過った。
「わたし、イメージってできないの」
「え?」
萩野くんは、ぽかんと口を開けている。意味がわからないのだろう。
「人に話したことないんだけどさ。普通の人って頭の中で映像や音とかが思い浮かべられるんでしょう? わたし、それができない。たとえば、わたしはリンゴを頭の中に描けないから、リンゴの絵を何も見ずに描けない」
萩野くんは、教卓の横の棚からコピー用紙を持ってきて、さらさらと絵を描いて、わたしに見せた。
丸の上部分に縦に線が入り、その線に先が尖ったような楕円がくっついている。
「そう、こういうの。これがリンゴっていうのはなんとなくわかるんだけど、わたしはこれすら描けない。リンゴを頭の中でイメージできない」
萩野くんはこめかみを押さえながら、あー、とか、うー、とか言っている。
「どうしたの?」
萩野くんはぱっとわたしのほうを見ると、スッキリした顔をしていた。
「アファンタジアだ!」
「え?」
聞き慣れない単語を聞き返す。
「アファンタジアっていうんだよ。やっと思い出した。僕、高校生の兄ちゃんがいてクイズ研究会に入っているんだ。たまに僕にも雑学を教えてくれるんだけど、それで聞いたことある」
「……アファンタジア……? 名前が……あるの?」
「わからないことは調べれば良いんだよ」
萩野くんは、ニヤリと悪い顔で笑って、リュックからスマートフォンを取り出す。
「禁止されてるのに」
「バレないって。持ってきているやつ、多いよ」
するするとスマートフォンの画面に指を滑らせると、「アファンタジア」に関するサイトを見つけだした。
「ほら」
萩野くんは、わたしにスマートフォンを渡してくれる。
要約すると、視覚や聴覚など、「イメージ」をする、思い起こすことができないという人たちのことを「アファンタジア」というらしい。サイトによって書いてあることはまちまちだが、人口の五%程度いると記載されているサイトもあり、わたしは驚く。
「わたしみたいな人が、ほかにいるってこと……?」
「僕も詳しくは知らないけど、そういうことだね」
投げやりになって話しただけなのに、わたしは自分が孤独ではないことを知った。少なくとも、名前がつけられるほどに、同じ特性を持つ人はいるということだ。
「書いてあるとおり、思い描くことができない特性なんだ。高幡さんが悪いんじゃないんだよ」
わたしは力が抜けた。腕をだらんと降ろす。
わたしの努力不足だと思っていた。皆が当たり前にできることをわたしができないのは、どこかわたしが悪いのだと思っていた。
そういう、「特性」。
まだ理解が追いついていないが、背が高いとか、丸顔とか、足が速いとか、人によって異なる特徴の一つということなのだろう。
「魂が抜けてるよ? 大丈夫?」
萩野くんがわたしの顔を心配そうに見る。
「だって、悩みだったんだもの。皆、当たり前にできて、なんでわたしにはそれができないんだろうって。『思い浮かべる』って、どういう意味かわからなくて……」
「……そっか」
低い声で、萩野くんは何度も頷いている。萩野くんにも、わからないはずなのに。
「関わりないし、思い切って話して良かった」
「なんか雑な感じだけど、それらしいものが見つかって良かったね。医者の診断? とかしていないし、一言にアファンタジアと言ってもいろんなタイプがいるみたいだから、本当にそうなのか僕にもわからないけどさ」
「もう、そういうことだと思っておく。書いてあること、わたしにぴったりなんだもの」
スマートフォンを萩野くんに渡す。
「ありがとう。わたしも家で調べてみる」
萩野くんは、笑顔でスマートフォンを受け取った。
「とりあえず、その読書感想画の課題、なんとかしないとね」
忘れていた。自分の特性がわかったところで、目の前の問題は解決していない。
「もう下校時間だから、明日にしなよ。模写はできるでしょう?」
「多分。美術の授業でも、デッサンや写生はできたから」
「じゃあ、それっぽい画像を検索して、それを模写しちゃいなよ」
わたしは、自分の眉尻が下がったのを感じた。
「『それっぽい』がわからないんだってば」
「あ、そうか。うーん、画像検索しても、判断がつかないんだもんな」
萩野くんは、腕を組む。思いついたように破顔した。
「じゃあ僕が判断するよ。いくつか画像、プリントアウトして明日の放課後に持ってきて。おかしくないか、見てみる。代わりにその本、貸して」
「え、良いの?」
今日初めて話した男子にそこまでしてもらっては申し訳ない気がする。しかし、萩野くんは全く気にした様子はない。
「うん。僕、基本的に放課後は美術室にいるから。ちょうど今、作品制作も区切りがついているんだ」
わたしは戸惑ったが、ほかにこの課題を切り抜ける道はなさそうだ。萩野くんの厚意に甘えることにした。
「ありがとう。お願いします」
頭を下げながら、両手で本を渡す。
「借りるね! じゃあまた、明日ね」
萩野くんは、リュックに本を入れると、颯爽と去っていった。
下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
翌日、わたしは、「海」「花畑」などで検索して出てきた画像をプリントアウトして持ってきた。
それが「海」や「花畑」であることは、画像を見れば理解できるのだが、あの本のクライマックスの「イメージ」に合うのか、わからない。
昼休み、弁当を食べながら雅とのおしゃべりが盛り上がる。
「美術の課題、どう?」
雅の無邪気な質問に、わたしはずっと疑問だったことを思い出した。
「いろいろあって、美術部の子が手伝ってくれることになったんだよね。それで、その子、三組の萩野航太くんっていうんだけど、どこかで聞いたことあって……雅、知ってる?」
「え! 萩野航太!?」
雅はおにぎりを落としそうになっている。
「有名人?」
「少し前の朝礼で表彰されていたじゃない! 絵画コンクールで全国一位を取った子だよ! 昇降口のところにトロフィーが飾ってあるよ」
思い出した。そういえば、担任が興奮気味に話していた。
「そんなにすごい子なんだ」
「美術部なんてほとんど日の目を見ないけど、萩野くんはすごいらしいよ。なにせ、日本一だし」
雅もそれ以上の情報は持っていないようだ。
そんなにもすごい人に手伝ってもらえるなんて、ラッキーだったのだろう。わたしは、今日の放課後が断然楽しみになってきた。
昨日まで重かった足取りとは打って変わって、わたしは美術室に急ぐ。まだ萩野くんは来ておらず、美術室は無人だった。
美術部が幽霊部員ばかりというのは、本当らしい。わたしとしては、わたしの特性を前提とした話をすることができるので、人がいないほうがありがたい。
作品が保管してある棚から、わたしのボロボロになった画用紙を出す。
画像を見て模写をするのはズルいような気がしたが、背に腹は代えられない。参考画像に絵はやめて、写真を選んだのが唯一の良心だ。罪悪感を押し沈めて、わたしは萩野くんを待った。
萩野くんは十分程経ったあとにやってきた。
扉の枠に額からぶつかった。鈍い音が届く。
「だ、大丈夫!?」
「ごめん、気にしないで」
「いや、気にするでしょ。もしかして萩野くんって……」
わたしは一息ためてから言う。
「けっこうドジ?」
一瞬の間があいて、萩野くんは大笑いした。
「そう! ドジなんだよ」
身長も高い方ではないし、見た目も可愛い系の雰囲気だが、中身まで可愛いなんて思わなかった。
「これ、ありがとう」
額をさすりながら、萩野くんはわたしが貸した本を返してくれた。額、痕にならないと良いけど。
「一晩で読んだの?」
「うん、面白かった。恋愛小説って読んだことなかったけど、良いね」
こころなしか、萩野くんの目が赤い。夜更かしをしたのかもしれない。
「あ、画像」
わたしは自分のリュックから、十枚程度の画像を取り出す。
「この辺りかな、と思って」
「これが『海』や『花畑』っていうのはわかるんだね」
「うん。その単語で検索して出てきた画像だしね。ただ、このシーンに合った画像かはわからない」
萩野くんが、画像の紙を持って見比べる。
「あのさ、今さらだけど一つ確認」
わたしは目で先を促す。
「これ、僕のイメージを描くことになるけど、それで良いの?」
「仕方ないじゃん。わたしは『イメージ』ができないんだから。むしろ、手伝ってもらっちゃって良いの? 萩野くん、すごい人だって友達から聞いたよ」
萩野くんは、照れたような、困ったような様子で笑う。
「大丈夫だよ。昨日も言ったけど、今、制作は一段落ついているし、僕もこんなふうに共作したことないから、良い経験だと思う」
前向きに捉えてくれていて嬉しい。
「そっか。それならお言葉に甘えるよ。選定して組み合わせてもらえる?」
「まかせて。イメージできないって言ってた割には、けっこう良い線いってると思う」
萩野くんは、机に画像を並べて、重ねたり折ったりする。わたしは、それをおとなしく見ていた。
「こうかな」
萩野くんの指したものは、上部に水平線と空、そして下部に花畑の写真が置かれていた。
「この写真の海は夕方だけど、青で昼に変えて。花畑の角度はこれなんだけど、もう少し引き気味で……あ、このくらいかな」
別の画像を出す。丘陵を遠くから撮ったもののように見える。
「それで、ここに二人の人を描けば、とりあえずはサマになると思う。あ、人の写真はないか。なくても成り立つから、今回は主人公の二人は省こう」
萩野くんの提案に頷く。
「花の色は文章に指定がなかったから、何色でもよいのかな」
「ここにある花の画像の色なら、どれも野に咲く花だから、おかしくないよ」
「なるほど」
わたしは、重ねて置かれた画像をもとに、線を引いていく。面白いくらいに、進んでいく。
「イメージがあると速いね」
「ゴールが目に見えているからね」
すぐに水彩に着手する。
「奥の空から塗ると良いよ。この写真の色が参考になるかも」
「わかった」
萩野くんはわかりやすく指示をする。
わたしは集中して描いていく。今、見ているもの、感じるものがわたしのすべてだ。心の情景に左右されない。ゴールまでの道をひた走る。
「できた……」
「おめでとう! 速かった!」
萩野くんが拍手する。
萩野くんは、わたしの横でずっと指示を出してくれた。萩野くんの補助のおかげで、わたしはこれまでの詰まり具合が嘘のように、スムーズに課題を終えた。
時計を見ると、下校時間の十五分前だ。
「萩野くん、ありがとう! 本当に助かった!」
わたしは立ち上がって、深く頭を下げる。
「職員室の本田先生に出してくる!」
美術室を出ていこうとするわたしの左手首が掴まれた。もちろん、萩野くんだ。
「あのさ」
男の子に手を掴まれるなんて、いつ以来だろう。鼓動が少し速くなる。
「勝手に手伝っておいて図々しいのは承知で……今度、絵を描いてくれない?」
「うん?」
萩野くんの言っている意味がわからなくて、首をかしげる。
「高幡さんは、何もイメージすることができないのでしょう?」
「うん」
「その状態で、何も見ずに自由に絵を描いてほしいんだ」
わたしは目を見開く。意味が分からない。わたしは何か形あるものを思い浮かべて描くことなどできないと、萩野くんは知っているのに。
「あ、無理だったら良いんだ。でも、モチーフはいらないし、形なんて何もなくても良い。ただ色を並べただけでも良い。それでも、高幡さんの絵が見たいんだ」
「なんで……」
「その絵は、高幡さんの心そのもののような気がするから」
いつの間にか左手首は解放されている。萩野くんは、穏やかに微笑んでいる。
「わかった」
わたしも、描いてみたくなった。
わたしの心を。
わたしは、翌日の放課後に、また美術室を訪れた。萩野くんは、今日は机の角に腰をぶつけた。痛そうだ。
「気をつけなよ。いつか大きな怪我をするよ」
「そうだね」
萩野くんは笑いながら、画用紙を用意する。
「美術部の備品だけど、多分良いでしょ。ほかに出てきている部員、いないし」
「良いのかなぁ……」
昨日、本田先生に絵を提出したときは、とても驚かれた。わたしがこの課題に散々苦戦したことを知っているからだ。
しかし、何も聞かずに受け取ってくれた。心からの安堵とともに、わたしの絵は先生の手に渡った。
「さ、自由に描いて」
萩野くんは、わたしの前に画用紙を置くと、自分はデッサン用の静物の準備に取り掛かっていた。
「僕もこっちで練習しているけど、気にしないで」
「わかった」
わたしは、息を飲む。
小学校での図画工作や、中学に入ってからの美術の課題で、イメージだけで描かなければいけないことが一切なかったわけではない。
提出しないわけにはいかないから、わたしは必死に描いて出した。しかし、その絵はぐちゃぐちゃで、わたしの記憶のどの単語とも結びつかない、無秩序なものだった。
クラスメイトには笑われ、教師には低い評価をつけられた。
クラスメイトの嘲りや教師の困った顔は思い出せないとはいえ、そういうことがあったという事実が頭に残っている。苦い記憶だ。
しかし、わたしは今、自分の意志で何もないところから「イメージ」を生み出そうとしている。
まだ出会って三日目だが、わたしは萩野くんを信用している。
鉛筆で線は引かなかった。いきなり絵の具を出していく。
ゴールはわたしの中にしかない。何も思い浮かべることができないわたしは空っぽだと思っていたけれど、目に見える絵にすれば、わたしの「心」も見えるかもしれない。
萩野くんが言ってくれた、「わたしの心」を表す絵。
わたしは、それに挑んでいるのだ。
「できた」
わたしの声に、萩野くんが頭を上げた。萩野くんはスケッチブックに鉛筆でデッサンをしていた。モチーフを白黒写真で撮ったかのように、美しい絵だった。
「見せてもらって良い?」
萩野くんが、こちらに歩いてくる。わたしは頷いた。
画用紙を渡す。
萩野くんは、小さく口を開け、絵に見入っていた。
「どうかな……?」
その絵は、何ものでもなかったと思う。ただたくさんの色を放射状に並べただけの水彩画だ。水を多く使って、にじみを意識した。ただ、夢中になって描いた。
「きれい……」
萩野くんの口から、小さな言葉がこぼれ落ちた。
「すごくきれいだ……」
左手で持った絵に、萩野くんそっと右手を滑らせる。まるで、繊細なガラス細工を扱うように、わたしの絵を撫でた。
萩野くんの目尻から、光の筋が落ちた。
「え!」
萩野くんは、涙をぬぐうこともせず、絵を見ている。
「高幡さんの心は、こんなにきれいなんだね」
わたしは、言葉を失う。
何の像も結ばないわたしの頭の中は、真っ暗だと思っていた。空っぽな、星のない宇宙空間のようなものだと思っていた。
真っ暗な空間から出てきたのは、色彩豊かな絵だった。萩野くんは、それをきれいだと言って、泣いてくれた。
わたしは、空っぽなんかじゃなかった。
いつの間にか、わたしも涙を流していた。
「すごくきれいな絵だと思うよ。高幡さん」
鼻をすすりながら、萩野くんはにっこりと笑った。
沈みかけたオレンジ色の日が、萩野くんの頬を照らしていた。
わたしは、放課後に美術室に通うことが日課になっていた。一緒に帰っていた雅は、わたしの付き合いが悪いとなじった。
萩野くんと話すことは楽しかった。
他愛もない話だった。萩野くんのお兄ちゃんのエピソードや、うちで飼っている猫の話。好きなアーティストが一致したときは、最高に盛り上がった。どの曲が一番か、萩野くんは熱弁した。
「高幡さんって、普段なんて呼ばれてるの?」
「シンプルに下の名前だよ。亜耶」
「男子にも?」
「男子でも呼ぶ人はいるかな」
「じゃあ、僕も亜耶って呼んで良い?」
びっくりしたが、心が躍った。
「うん。わたしも航太って呼ぶね」
航太の絵は、さすが全国一位の実力だ。A3の大きな用紙に、ダイナミックだけれど繊細な色合いで描いていく。穏やかな航太の中に、こんなエネルギーがあるのかと思うと、胸が高鳴った。
ある日、帰る間際に航太が言った。梅雨の訪れを感じる雨の日だった。
「そうだ。僕、明日、休むから」
「そうなの? おうちの事情?」
「そんな感じかな」
航太は、いつもと変わらず笑っていた。
翌日、久しぶりに雅と一緒に帰った。
「今日は美術室、良いの?」
「航太、おうちの事情でお休みなんだって」
雅は、わざとらしく曇天の空に両手を伸ばす。
「はぁー、やっぱり好きな人ができると、友達なんて二の次になるんだね」
「……え!?」
聞き逃しそうになった雅の言葉を、なんとか捕まえる。勢いよく横を向くと、雅がニヤニヤと笑っていた。
「好きなんでしょ? 萩野くん。あんなに通い詰めるほどだもの」
好き? わたしが? 航太のことを?
「考えたこと、なかった」
「嘘! お昼に萩野くんのことを話すときは見たことないくらい優しい顔しているし、わたしと帰らずに美術室にずっと行ってるし!」
雅がわめいているが、あまり聞こえない。
好き? 好きって、恋ということだろうか。
確か、小学五年生のときに、クラスでイケメンと言われていた男の子に憧れたことはある。わたしは「イケメン」がイメージできなかったので、「あの子はイケメンなんだ」と頭で理解した。女の子どうしの「気になる男の子」についての会話では、話を合わせるためにその子の名前を挙げていた。そのうち、本当に自分も好きになった気がしていた。
六年生でクラスが別れると、その感情は消えていったように思う。もちろん、その子の顔を思い出すことはできないが、わたしの当時の気持ちも思い出せないから、ただの恋への憧れだったのだろう。
翻って、今はどうだろうか。
航太と話していると、楽しい。胸の中が温かくなる。
航太は、見失っていたわたしの「心」を探し当てて、きれいだと泣いてくれた。
そんな人、ほかにいない。
「わからない……。でも、航太ともっと一緒にいたいと思う」
雅は、肘でわたしの脇をつついた。
「それがきっと、好きってことだよ!」
雅なりの祝福だった。
翌日、わたしが美術室に行くと、航太は静かに座っていた。わたしの描いた絵を眺めている。
あのときの絵だ。航太は、本気でわたしの絵を気に入ったらしく、今でもときどき眺めている。
その様子をみるたび、こそばゆい気持ちになる。それに加えて、雅から言われた「好き」という単語が、恥ずかしさに拍車をかける。
航太を見ているだけなのに、頬に熱が集まってくる。
「亜耶」
美術室の入り口で突っ立っていたわたしに、航太が気づいた。
「何やっているの」
「その絵、そろそろ捨てない?」
「まさか。捨てないよ」
きっぱりと言い切る航太を直視できず、わたしは目線をそらしたまま、いつもの席についた。
「あのね、亜耶」
航太が、わたしの目の前に座った。いつもと雰囲気が違う。緊張しているように見える。
「話、聞いてくれる?」
「どうしたの?」
航太は、いつもと変わりなく穏やかな口調なのに、わたしの口の中は乾いていく。
「僕、目の病気なんだ。最悪、失明する」
シツメイ。その発音が「失明」であると理解すると、頭が真っ白になった。
「どういう……こと……?」
「進行性の病気で、どんどん視野が欠けていく。治療でなんとか抑えているけれど、それでもゆっくり進んでいる」
視野が欠ける。つまり、見える範囲が狭くなっていくということだ。
「もしかして、あちこちに体をぶつけていたのは……」
「うん、死角に入っちゃって見えていないんだ」
ドジなんかじゃなかった。ただ単に、見えていなかった。
「絵は……どうするの……」
航太は困ったように笑う。
「できる限り続けたいよ。必ず失明するわけでもないし」
一息置いて、続ける。
「でも、いつか失明するかもしれない。昨日も、その検査と治療だったんだ。……悪化していた」
わたしは、つばを飲み込んだ。息が浅い。航太の目が、見えなくなる……?
「最初にここで会ったとき、亜耶は読書感想画の課題をやっていたでしょう?」
「うん」
「調べたら、あの本の作者ってこの辺りの出身なんだって。少し遠いけど、絵に描いたあの最後の風景は、同じ県内にあるみたいだよ」
航太が何故、そんなことを話しだしたのか、わたしにはわからない。何も反応できずにいるわたしに、航太は優しく問いかける。
「明日からの土曜日か日曜日、そこに行ってみない?」
「え……」
「僕、目が見えるうちに、亜耶とその景色を見ておきたいんだ」
目が見えるうちに。切迫感のある台詞を、なんでもないかのように言う。
「そんな……大丈夫だよ。航太の目は、見えなくなったりしないよ。だって、わたし、航太の絵、好きだもの。もっと描いてほしいもの」
わたしは航太の両肩を掴んで、すがるように言う。
「こればかりは……わからないから。ね、お願い。亜耶」
聞き分けのない子供を諭すように、航太は言う。肩に置かれたわたしの右手を、航太は掌で包む。
温かい。
「お願い。僕の、わがままだけど」
その目は優しさと、ゆるぎない強さを持っていた。
ああ、航太は覚悟をしているのだ。
わたしは、理解した。
「わかった。行こう」
航太は嬉しそうに頷くと、リュックからスマートフォンを引っ張り出す。
「スマホは持ってる?」
「うん。学校には持ってきていないけど」
「このアプリ使える?」
メッセージアプリのアイコンを指した。そのアイコンの画像は覚えていないが、名前から判断するに、わたしも家族や友達との連絡などに使っているものだ。
「うん」
「じゃあ、これ、僕のID」
航太は、小さなメモを差し出す。受け取ると、そこには走り書きのIDが書いてあった。
「帰ったら登録する。土曜日でも日曜日でも良いよ」
航太は、スマートフォンを操作する。
「明日の土曜日は晴れるみたい。梅雨の晴れ間だって。土曜日にしよう」
「うん」
「じゃあ、駅前に十時で。お昼はあっちで食べよう」
「うん」
わたしは、頷くことしかできない。何かしゃべったら、感情があふれてしまいそうだ。
「明日ね」
航太はその日、絵も描かずに帰っていった。
翌日は、梅雨のさなかとは思えないほど暑い日だった。キャップをかぶって、ロゴのTシャツにパーカーを羽織り、デニム地のミニスカートを履いた。スカートなんて柄じゃなくて、制服のほかには一枚しか持っていない。
メッセンジャーバッグを斜めがけにしている。足元は履き慣れたスニーカーなので、たくさん歩いても大丈夫だ。
駅前の銅像の前で待っていると、航太がやってきた。航太は、Tシャツに襟付きのストライプシャツを羽織り、デニムパンツを履いていた。
「制服しか見たことないから、一瞬、亜耶だってわからなかった」
「それはこっちの台詞。わたしなんて、普段の航太をイメージができないんだから、普段と違ったら航太とわからないことだってあるんだからね」
二人で同時に吹き出す。笑いながら改札を抜け、下り列車に乗り込んだ。
どんどん下っていく。周りの風景に田園が増える。こんな遠くに行くのは久しぶりで、わくわくした。
「亜耶、ずっと外見てる」
「こんなところまで来るの、久しぶりなんだもの。小さい頃に、水族館に行った以来かな」
「そっか。僕も景色を見よう」
その言葉の重みに気づかないほど、わたしは鈍感ではなかった。
二回乗り換えて、目的の駅で降りる。
航太が改札にぶつかりかける。
「危ない!」
「あ……本当だ。ありがとう」
航太は後ずさってから方向を変えて、するりと改札を抜けた。本当に見えていないのだと、実感する。
わたしは、航太の手を握った。航太は目を大きく開いた。わたしは、強がって言う。
「危ないから、繋いでいよう?」
航太は、穏やかに微笑む。
「ありがとう、亜耶」
その耳が少し赤くなっていることに気づいて、わたしの鼓動もさらに速くなった。
駅を出たところにあったお蕎麦屋さんで軽くお昼を摂ると、目的の場所に向かう。航太曰く、そんなに遠くないらしい。
わたしたちは、再び手を繋いで歩く。
「この香り、なんだっけ」
嗅いだことのある香りを思い出せずに、わたしは航太に訊く。
「磯の香りだよ。海が近いから」
「そうだ、海の匂いだ」
わたしはようやく理解した。この特性は、なかなか面倒なことも多い。
あのアーティストの新曲出たね、とか、そろそろ期末テストの勉強を始めなきゃ、とか、わたしたちは何でもない話をしながら歩いていく。
わたしは頭の中に像を描くことができないし、航太は視野が欠けていっている。そんなこと、外から見ても誰もわからない。
わたしたちは、ただの中学二年生だった。
階段を登った先は、高台だった。切り立った高台の周りには、胸の位置ほどまでの柵が立てられていて、安全対策がそれている。
高台の上は、草が青々と茂っていて、その奥は青が広がっていた。
海だ。
海を見るのはどれだけぶりだろうか。
「すごい。広い!」
「一面、青だね」
「航太、見える?」
「うん。欠けてるけど、見えるよ」
足元は、本と違って花畑ではなかった。そこは、作者の創作だったのだろう。わたしたちは、さくさくと草を踏みながら歩く。
眼下にある家の屋根が見える。小さく見える人々が、ちょこまかと歩く様子は可愛らしい。
観光地のようで、高台の上には、ほかにもファミリーやカップルが何組かいた。
高台に設置された柵の前に立つ。わたしは、この感動を凡庸な言葉でしか表せない。
「すごいね」
「うん」
この景色も、わたしの心に留め置くことはできない。そう思うと、とても悲しい。
「写真、撮る?」
わたしがスマートフォンを出すと、航太は首を左右に振った。
「亜耶がこの景色を覚えていられないのはわかっているけれど、この瞬間だけだからこそ、輝くものって、あると思わない?」
「この、瞬間……」
「亜耶は、過去のことを思い描けない。だからこそ、その一瞬一瞬がとても大切で、きれいなんじゃないかな、と思うんだ。僕の勝手な解釈だけど」
わたしは、スマートフォンをしまった。わたしの特性をそんなふうに解釈してくれる航太が嬉しかった。
写真を残しておいても良い。特に、わたしのように、もう二度と同じ景色を思い起こすことができない人間にとって、写真は唯一の記憶の手がかりとも言える。
しかし、それを手放すこと。消えてしまう儚さを美しさとして感じる航太の感性が、好きだった。
「そうだね」
わたしは、航太の顔を見て微笑む。
「ねぇ、亜耶」
「うん?」
航太は、穏やかで、優しく語りかける。
「僕、亜耶のことが好きだよ」
航太の大きな瞳がキラキラと輝く。この目が、見えなくなっていっているなんて、信じられない。
「わたしも」
わたしは少し緊張しながら、でも、きちんと応えた。
「亜耶と出会わせてくれた作品の、この場所で言いたかったんだ。ちょっと、かっこつけすぎたかな」
航太は照れくさそうに俯いた。
「そんなことないよ。わたし、あの本が好きだから。嬉しい」
わたしたちは、ただ手を繋いで海を見ていた。今この瞬間だけの、海を。
それからも、航太との日々は、あまり変わらなかった。
放課後に話しながら、航太は絵を描く。わたしはその航太を見る。夜にスマートフォンのメッセージで連絡をすることもあるが、読んだ本の感想を言いあったり、おすすめの動画を送ったりするばかりで、特別なことは何もなかった。
わたしは、それで満足だった。航太も楽しそうだった。
それなのに。
七月。夏休みも間近という頃、航太が三日連続で学校を休んだ。
スマートフォンに連絡をしても、返事がない。いやな予感がした。
土曜日も、連絡はない。わたしは不安で仕方がなかった。
その夜、自室で読書をしていると、アプリ通話の着信音が鳴った。航太だ。航太から、通話の着信があるのは初めてだった。
わたしは、震える指で応答ボタンをタップする。
「航太……?」
「亜耶、ごめんね。連絡できなくて」
穏やかな声色に、わたしは安心して、床にへたり込む。
「どうしたの。本当に心配したんだから」
「あのね……」
航太の息の音がした。
「僕、失明しちゃった」
「え……」
絶句する。航太の目が、見えなくなった……?
「なん……で……。だって、失明するかわからないって……」
「急性の発作が起きたんだ。お医者さんも頑張ってくれたんだけど……だめだった。今も病院に入院している」
淡々と語られる内容に、わたしは涙すら出ない。
「ごめんね、驚かせたよね」
「なんで、航太が謝るの……」
「確かに。おかしいね」
ふふ、と小さな笑い声が漏れ聞こえる。
「親が学校とも相談して、一学期はもう行けそうにない。二学期からはどうなるか、まだ決まっていない」
「そんな先のことは良いの。会いたい」
わたしは、つい声を荒げてしまう。あまりに航太が、凪のようだから、代わりにわたしが怒りたくなってしまう。
「明日まで病院にいるけど……」
「わかった。お見舞いにいく。どこの病院?」
「良いの?」
「わたしが行きたいの」
航太は病院の名前を教えてくれた。少し遠い、総合病院だ。
航太との通話が切れる。
わたしは、いつの間にか拳を握りしめていたようだ。爪が掌に刺さって、痛い。
航太はもう、わたしの姿を見ることはできない。
翌日の日曜日、わたしは病院の面会時間を調べて、電車に乗った。
わたしは、地図を見ることも苦手だから、駅を出たところから見える大病院の立地に感謝した。意を決して、歩き出す。
受付で手続きをして、病室にたどり着く。ノックをして静かに開けると、そこは個室だった。
航太がベッドに寝ていた。電動ベッドのようで、リクライニングチェアのように上半身を起こしていた。
隣に座っていた、茶髪のボブの女性が立ち上がる。
わたしは、走る鼓動を押さえつけて、軽く頭を下げる。
「こんにちは。高幡亜耶と申します」
「亜耶」
反応したのは、航太だった。そして、茶髪の女性がわたしのもとへ、歩み寄る。
「航太の母です。航太がお世話になっています。どうしても、あなたにだけは自分の口から伝えたいと……」
「母さん、やめてよ」
航太は、照れくさそうに、自分の母親を止める。こちらを向いているのに、航太と目が合わない。焦点を結ばないその目は、今も夏の日差しに輝いているのに、深海のように光すら届かない。
わたしは、航太のお母さんに会釈をして、航太のもとへと駆け寄る。航太のお母さんは、何も言わずに席を外してくれた。
「航太……」
航太は、音を頼りにわたしを探す。さまよう手を捕まえて握った。
「亜耶」
声に安堵が含まれたように感じた。
「ごめんね、急なことで」
「だから、なんで航太が謝るのよ」
わたしは、涙をこらえて、航太の手を両手で包む。
「つらいのは、航太じゃないの」
航太は苦笑いする。
「そうなんだけど、なんでかな。でもね、僕自身は変わりないんだよ。目は見えなくなって、亜耶の顔も見えないけれど、僕は亜耶の顔を思い浮かべられる。いろんな表情の亜耶を見てきたから、僕は心で亜耶を見ることができる」
「……わたしと、逆」
か細い声で、わたしは言う。航太は頷く。
「そうだね。だから、またお願いがあるんだ」
「……わたしにできることなら、なんでもする」
航太のもう一方の手が宙を掻き、しかし、わたしが握る手の上から、さらに包み込む。
「もう一度、僕に絵を描かせてくれない?」
意味がわからなかった。
「どういうこと?」
航太は、わたしのやや左上あたりを見ながら言う。
「亜耶は心に情景を思い浮かべられない。僕は目が見えない。それは確かにそうなんだけど、逆に考えたら、僕は心に情景を浮かべられる。亜耶は目が見える」
「うん」
「だから、亜耶が僕の目の代わりになって、絵を描いて。僕が、心の中の情景を説明するから、それを絵にしてほしい」
航太は、失明したばかりだ。光を失う恐怖は、想像するに余りある。しかし、航太は前向きだった。
航太は心に情景を浮かべられる。わたしは目が見える。
そんなふうに考えもつかなかった。
「僕の『心』を描いて、亜耶」
わたしは、涙を抑えられなくなった。ぽろぽろと塩からい水が、頬を転げ落ちていく。
「わかった」
わたしは、航太の手を強く握った。航太も、同じように力を込めた。
心が見えないわたしと、光が見えない航太。二人の瞳を結んで、絵を描く。
夏休みに入り、わたしは航太の家にお邪魔していた。
驚いたことに、航太はスマートフォンを使いこなしていた。読み上げアプリや音声認識で対応できるそうだ。わたしは、自分の偏見を恥じた。
航太の部屋に案内される。航太の部屋は、きれいに片付いていた。航太は、学習用のデスクに向かって座っていた。
壁に、見覚えのある絵がアクリル板に挟まれて飾ってあった。わたしは思わず飛び上がる。
「ちょっと! わたしの描いた絵じゃない!」
何も見ずに、わたしの心を描いた絵だ。
「あ、ちゃんと飾ってある? 良かった。自分じゃ確かめられないから」
航太はからりと笑う。
「恥ずかしいんだけど!」
「良いじゃん。僕が飾りたいんだもの。学校から持ってきてもらったんだ」
歌うように航太が言う。目が見えていないなんて、全く信じられない。しかし、航太と目が合うことはない。
腑に落ちないが、航太がそれを望むなら、わたしは止めない。わたしの絵を飾ってくれて、少しだけ嬉しい気持ちもあった。
「さっそく始めようか。鉛筆や水彩絵の具は持ってきたけど」
わたしは大荷物を床に降ろさせてもらう。
「そのテーブルで書こう」
指されたのは、大きめのローテーブルだった。これなら、水彩の道具を一式載せても大丈夫だろう。
航太が、手をさまよわせる。
「何を探しているの?」
「このあたりにスケッチブックがあるはずあなんだけど……」
学習用デスクに、二冊のスケッチブックが並んでいた。大きいものと小さいものがある。二冊取って、航太に渡す。
「これ?」
「そう。ありがとう。せっかくだから、大きい方に描こう」
そう言って、わたしに大きいほうのスケッチブックを渡す。
「見て良い?」
「大したもの、描いてないよ」
スケッチブックをぱらぱらとめくると、本物を写し取ったようなデッサン画が並んでいた。
「わぁ……すごくきれい……」
「ありがとう。ね、ちょっと手を貸して」
照れ隠しをするように、航太は手を伸ばす。わたしは訊く。
「どうすれば良い?」
「僕もローテーブルの前に座りたい」
「わかった」
わたしは、伸ばされた腕を掴む。航太が立ち上がった。そのまま片手を引いて、指示を出す。
「そこ、テーブルの角があるから気をつけて。そう。クッション敷いても良い? じゃあ、そのまま座って」
フロアクッションを置くと、航太はうまくその上に座った。
「助かったよ」
「難しいね。これで合っているのかな?」
「僕も、介助の受け方を勉強中だから、まだよくわからない」
航太は明るく笑い飛ばした。航太は、強い。
「じゃあ、描こうか。まず、鉛筆で輪郭を引こう。難しくないから」
わたしは緊張して固く鉛筆を握る。
「スケッチブックを縦にして、左端、下三分の一くらいから真ん中あたりで上三分の一くらいを通過して、また右の下三分の一くらいに曲線を引いて」
言われたとおりに、大きく弧を描く。
「そこに、等間隔に五センチくらいの縦の線を入れて」
こう? と聞きそうになって、直前で止めた。見えないのだ。わたしはイメージができないから、航太がイメージしていることについて、比喩も使えない。
「その直線はさっきの弧にかかる? 何本くらい?」
「弧の下部分に一センチ、上部分に四センチ出るくらいで重ねて。本数はそうだな、二十本くらい」
一つ一つ、言葉で擦り合わせていく。途方もない作業だった。
その絵が完成したのは、夏休みも終わりかけの頃だった。
わたしは、結局毎日のように航太の家に行った。夏休みの課題も、航太の家でやった。
言葉だけで心と光を繋ぐ作業に、正解はない。そのイメージは航太の頭の中にしかないし、航太はわたしが描いた絵を見られない。
でも、わたしはこれが正解だったと信じている。
なぜなら。
「これ、あのときの風景だよね……」
梅雨の晴れ間の土曜日に行った、読書感想画の課題に選んだ本のモチーフになったあの高台。それが描かれていた。
緑の草原に、高台を囲む柵。そしてその奥の広大な海と空。
シンプルな構図だった。一人で描いたら、数日、もしかしたら数時間でできていたかもしれない。
それを一ヶ月以上かけて、描き上げた。
無駄だと笑う人がいるかもしれない。
そんなことが何の意味を持つのか理解されないかもしれない。
それでも、わたしたちには、大切なことだった。
航太の心とわたしの光。二つの瞳を繋いで作った絵は、わたしにとって、この世のどんな名画よりも価値あるものだった。
「良かった、伝わった」
航太は、顔を両手で覆っている。
「ああ、その絵を見たいなぁ」
「うん」
「でも、それはできないから、亜耶が代わりに見て」
「うん……」
わたしは、涙を流していた。
なんで航太はこの絵を見られないのだろう。この絵は、航太の心の風景なのに。
でも、できないものは、できないのだ。
わたしも何度も嘆いた。ほかの人が当たり前にできる、「頭の中に思い浮かべる」ということをわたしはどうしてもできなかった。
人にはできることと、できないことがあると思う。
だからこそ、人は補い合い、助け合うんだ。
この絵は、その象徴だと思った。
「航太、この絵を描かせてくれてありがとう」
「亜耶、泣いてるの?」
声で気づいたのだろう。わたしは素直に「うん」と言う。
「泣かないで。せっかく絵が完成したのに。僕の頭のなかの亜耶は、ずっと笑ってるよ」
わたしは、座ったままの航太に抱きついた。航太は、少しよろめいたが、わたしをしっかり受け止めてくれた。
「航太、何度も言うけど、本当にありがとう」
「こちらこそ。亜耶、ありがとう」
航太は、手探りでわたしの後頭部を撫でた。
「この絵をちょうだい?」
「良いけど、なんで?」
わたしは、腕をゆるめる。まっすぐ航太を見つめる。やはり航太とは、目が合わない。
「航太はわたしの心の絵を持っているでしょう。だから、わたしも航太の心だけで描いた絵を持っていたい」
航太は、わたしを強く抱きしめた。
「ありがとう、亜耶。こんな僕だけど、大好きだよ」
「航太は変わらない。航太だから、好きなんだよ」
航太も涙を流している。
二人で声を殺して泣いた、晩夏の夕方だった。
航太は、二学期から盲学校に転校することになった。
しかし、会えなくなったわけではない。スマートフォンでのやり取りも続いている。
美術室でのおしゃべりがなくなったのは寂しいけれど、それ以外は何も変わらない。
航太は、全盲の画家がいると知って、絵を描くことに挑戦している。どこまでも前向きな航太をわたしは尊敬している。
わたしは、相変わらず頭の中に像を結ぶことはできない。そのときは、航太を頼る。航太は、わたしの拙い説明からイメージして、それをさらに言語にして返してくれる。すると、わたしも理解しやすくなるのだ。
わたしが、航太の代わりに絵を描くこともある。「亜耶は頭の中でイメージができないからこそ、先入観なく描けるのが強み」と言ってくれている。
わたしたちは、変わらない。
変わらず、二人の瞳を結んで助け合って生きていく。
わたしは光を。航太は心を。
〈了〉
目が見えないわけではない。
しかし。
国境の長いトンネルを抜けた際の雪国の景色も、異国にて若い官僚が恋に落ちた美しい舞姫の姿も、夜空を駆ける銀河鉄道も。
わたしは、これらすべて、頭の中に思い描くことができない。
わたしの頭の中は、常に暗闇で、空っぽだ。
*
新学期が始まったばかりのうららかな春の日、わたしは、読書感想画という至極厄介な課題に頭を悩ませている。まだ画用紙は真っ白だ。
美術教師の本田先生が教室をまわっている。ほかの生徒たちは、各々が選んだ図書を開いたり、見比べたりしながら、鉛筆を走らせている。早い者は、もう絵の具を筆でこねていた。
わたしが題材に選んだのは、高校生の恋人どうしが、海の見える高台で愛を確かめる、中高生向けの恋愛小説だ。何度も物語のクライマックスのページを見直す。
読書インフルエンサーが宣伝していたのを偶然SNSで見つけただけのこの作品は、思った以上にわたしの胸を打った。柔らかな筆致、美しい表現に心を奪われた。
しかし。
「高幡さん、まだ進まないの?」
ページをめくる音と、鉛筆の音、そして筆を水で洗う音しかしない教室で、本田先生の声は隅々までよく通る。前の方に座る雅が、こちらを振り向いて、ふざけた様子で小さく指をさした。わたしは、顔をしかめる。
「高幡さん?」
本田先生が呼びかけるたび、生徒の注意がこちらを向くのを感じる。視線などなくても、好奇心の矢印が向いているのだ。
「えっと……そうですね」
「ちょっと本を貸して。描きたいのは、この辺り?」
放っておいてくれれば良いのに、やる気にあふれた若い女性教師は、わたしを離してくれない。
「ああ、きれいなシーンね。確かにこれは描けると素敵ね」
本田先生がさらりと目を通したところは、まさしくクライマックスの海のシーンだ。
「どこが引っかかっているの?」
「えっと……うまく、イメージが、できなく、て……」
生徒たちが聞き耳を立てる中で答えるのは、ひどく恥ずかしい。どんどん声は小さくなって、淡い雲のようにふっと消えた。
本田先生は首をかしげる。
「比較的イメージしやすいシーンだと思うけれど。構図に悩んでいるのかしら」
わたしは、押し黙る。困っている様子のわたしを見て、本田先生はようやく諦めてくれたようだ。
「……まぁ、まだ課題提出まで時間はあるから、よく考えて」
わたしは安堵ともに「ありがとうございます」と呟いた。
終了のチャイムが鳴っても、わたしの画用紙は真っ白なままだった。
「亜耶!」
美術室からの帰り、廊下を歩いていると、後ろからどんと何かがぶつかった。島崎雅が、わたしの背を勢いよく叩いたのだ。
「絵、進まなかったの?」
わたしは軽く咳き込みながら答える。
「……うん。あまり得意じゃなくて」
「わたし、この本読んだことあるけど、最後のシーンを描こうとしているの? けっこうわかりやすいと思うけどな。海と、人と、花畑でしょう? シンプルじゃない」
雅は、わたしが持っていた本を取り上げる。雅の手から本を奪い返す。
「だって、海と、人と、花畑って、それだけしか情報がないじゃない」
「どれもイメージしやすいと思うけどな」
雅は不思議そうにわたしを覗き込む。
そう、「イメージ」。わたしには、これができないのだ。
本を読むときに、その様子が映像として立ち上がってくる人がいる、ということを聞いたときの驚きは、忘れられない。
もっと理解できないのは、「脳内再生」だ。よく聞く音楽を、頭の中だけで再現することができるらしいということを知ったときは、混乱した。
わたしにとって、「海」は「海」という文字の情報でしかない。青くて、広くて、波がある。文章でしか理解できない。
その中の要素一つを取っても、たとえばわたしは「青」がどんな色か、思い出すことができない。
つまり、わたしには、「頭の中に思い浮かべる」ということができないのだ。
過去の記憶さえも、何か似たような事象に出会わないと、具現化されない。わたしだって、「海」を見たことくらいある。家族旅行で見た海は、広くて、青くて、波の音がしていた、はずだ。
しかし、わたしは、そのときの記憶を何もなしに思い出すことはできない。「海」の写真を渡されて見た海が、「海」という単語と一致したとき、やっと映像として理解できる。
人の顔も、現実のその人や、写真などを見れば識別できる。しかし、何もないところから思い返すということはできない。
頭は悪い方ではないはずだ。中学に入ってから、二年生の春の今まで、平均点を切ったことはない。特段、優秀というわけでもないが、記憶を必要とする問題で困ったことはない。
困るのは、もっと想像を必要とするものだ。さっきの美術の課題のように。
「『海』は『海』だってわかっているけれど、それだけだと描けない。何か……お手本? みたいなものがないと……」
「そんなに写実的に描かなくて良いのじゃないの?」
雅は、きっと何も見なくても、頭の中に、「海」の映像を思い浮かべられるのだろう。むしろ、それが一般的であることは、この歳になればなんとなく理解はしていた。
「亜耶は、真面目すぎるんだって。美術なんて受験科目でもないし、適当に済ませれば良いじゃん」
雅は、わたしの背中をバシバシと叩く。
「やめてってば」
わたしは、笑いながら足を速める。
きっと、何も思い浮かべることができないわたしの心は、空っぽなのだろう。
その事実か逃げるように、廊下を小走りする。
結局、わたしは美術の課題を時間内に終わらせることはできなかった。
学校はスマートフォンの持ち込みが禁止されているし、画像検索したものを印刷して持ってきてお手本にするなど、許されない。
あくまで、自分の「イメージ」を描くのが、この課題の目的だからだ。
本田先生の困りきった顔を思い出すことすらできないのは、良かったのかもしれない。先生の指示で、わたしは放課後に居残り作業をすることになった。
画用紙を用意して、美術室の硬い椅子に座る。帰宅部のわたしには関係ないはずなのに、グラウンドの運動部の声が、やけに楽しそうに聞こえてくる。
何度目かわからないため息をつきながら、何度も線を引いては消して、ボロボロになった画用紙を前に、角が擦り切れてきた書籍を手に取る。
何度読んでも、この美しい文章を映像として結ぶことができない。
そのとき、美術室の後ろの扉がスライドした。振り返ると、リュックを背負った詰襟の男の子が立っていた。目が大きく、童顔な印象だ。上靴のラインの色から、同じ二年生だとわかる。
「あれ?」
目を丸くして、軽く首をかしげている。わたしがいることが不可解なのかもしれない。
「あ、あの、わたし、美術の授業で居残りしていて……」
「そうなんだ……うわっ!」
男の子は、足元に出っ張っていた椅子に気づかなかったのか、派手に転びかける。なんとか机の端に掴まって、倒れ込むことを避けられた。
「だ、大丈夫?」
「ごめんごめん」
体勢を立て直しながら、照れくさそうに笑う。笑うと可愛かった。
「課題? そんなに大変なの、最近あったっけ」
「読書感想画……」
「ああ、苦手な人もいるよね」
そう言いながら、こちらを覗き込む。
「ごめん。上靴の色、二年生だよね。僕も二年生。二年三組の萩野航太」
人見知りしないタイプなのだろうか。屈託なく笑っている。萩野航太。どこかで聞いたことがある気がするが、話すのは多分初めてだ。
「わたし、二年一組の高幡亜耶。えっと、萩野くんはどうしてここに?」
萩野くんは、リュックを床に置き、わたしの隣の椅子に座って、机に頬杖をつく。
「ほぼ幽霊部員ばかりの中、ちゃんと活動している絶滅危惧種の美術部員」
美術部というものがあったということも知らなかった。
「だいぶ画用紙、ボロくしたね」
萩野くんは、わたしの前に広がる画用紙を見て、クスクスと笑う。わたしは少し気分を害した。
「苦手なの」
棘のあるわたしの声に気づいたのか、萩野くんは、慌てた様子で手を小さく振る。
「馬鹿にしたつもりはないんだ。怒らないで。頑張ってるな、って。美術なんて、受験科目でもないし適当にやる人のほうが多いから、真剣に向き合ってくれているの、嬉しい」
わたしは自分の誤解に、顔が熱くなるのを感じた。
「ごめん、そういう意味だったんだね」
「この本?」
萩野くんは、わたしが左手に持ったままだった本を指す。
「そう」
どうしようか。わたしはイライラしていた。初めて会う男子。何故か、「旅の恥はかき捨て」という言葉が頭を過った。
「わたし、イメージってできないの」
「え?」
萩野くんは、ぽかんと口を開けている。意味がわからないのだろう。
「人に話したことないんだけどさ。普通の人って頭の中で映像や音とかが思い浮かべられるんでしょう? わたし、それができない。たとえば、わたしはリンゴを頭の中に描けないから、リンゴの絵を何も見ずに描けない」
萩野くんは、教卓の横の棚からコピー用紙を持ってきて、さらさらと絵を描いて、わたしに見せた。
丸の上部分に縦に線が入り、その線に先が尖ったような楕円がくっついている。
「そう、こういうの。これがリンゴっていうのはなんとなくわかるんだけど、わたしはこれすら描けない。リンゴを頭の中でイメージできない」
萩野くんはこめかみを押さえながら、あー、とか、うー、とか言っている。
「どうしたの?」
萩野くんはぱっとわたしのほうを見ると、スッキリした顔をしていた。
「アファンタジアだ!」
「え?」
聞き慣れない単語を聞き返す。
「アファンタジアっていうんだよ。やっと思い出した。僕、高校生の兄ちゃんがいてクイズ研究会に入っているんだ。たまに僕にも雑学を教えてくれるんだけど、それで聞いたことある」
「……アファンタジア……? 名前が……あるの?」
「わからないことは調べれば良いんだよ」
萩野くんは、ニヤリと悪い顔で笑って、リュックからスマートフォンを取り出す。
「禁止されてるのに」
「バレないって。持ってきているやつ、多いよ」
するするとスマートフォンの画面に指を滑らせると、「アファンタジア」に関するサイトを見つけだした。
「ほら」
萩野くんは、わたしにスマートフォンを渡してくれる。
要約すると、視覚や聴覚など、「イメージ」をする、思い起こすことができないという人たちのことを「アファンタジア」というらしい。サイトによって書いてあることはまちまちだが、人口の五%程度いると記載されているサイトもあり、わたしは驚く。
「わたしみたいな人が、ほかにいるってこと……?」
「僕も詳しくは知らないけど、そういうことだね」
投げやりになって話しただけなのに、わたしは自分が孤独ではないことを知った。少なくとも、名前がつけられるほどに、同じ特性を持つ人はいるということだ。
「書いてあるとおり、思い描くことができない特性なんだ。高幡さんが悪いんじゃないんだよ」
わたしは力が抜けた。腕をだらんと降ろす。
わたしの努力不足だと思っていた。皆が当たり前にできることをわたしができないのは、どこかわたしが悪いのだと思っていた。
そういう、「特性」。
まだ理解が追いついていないが、背が高いとか、丸顔とか、足が速いとか、人によって異なる特徴の一つということなのだろう。
「魂が抜けてるよ? 大丈夫?」
萩野くんがわたしの顔を心配そうに見る。
「だって、悩みだったんだもの。皆、当たり前にできて、なんでわたしにはそれができないんだろうって。『思い浮かべる』って、どういう意味かわからなくて……」
「……そっか」
低い声で、萩野くんは何度も頷いている。萩野くんにも、わからないはずなのに。
「関わりないし、思い切って話して良かった」
「なんか雑な感じだけど、それらしいものが見つかって良かったね。医者の診断? とかしていないし、一言にアファンタジアと言ってもいろんなタイプがいるみたいだから、本当にそうなのか僕にもわからないけどさ」
「もう、そういうことだと思っておく。書いてあること、わたしにぴったりなんだもの」
スマートフォンを萩野くんに渡す。
「ありがとう。わたしも家で調べてみる」
萩野くんは、笑顔でスマートフォンを受け取った。
「とりあえず、その読書感想画の課題、なんとかしないとね」
忘れていた。自分の特性がわかったところで、目の前の問題は解決していない。
「もう下校時間だから、明日にしなよ。模写はできるでしょう?」
「多分。美術の授業でも、デッサンや写生はできたから」
「じゃあ、それっぽい画像を検索して、それを模写しちゃいなよ」
わたしは、自分の眉尻が下がったのを感じた。
「『それっぽい』がわからないんだってば」
「あ、そうか。うーん、画像検索しても、判断がつかないんだもんな」
萩野くんは、腕を組む。思いついたように破顔した。
「じゃあ僕が判断するよ。いくつか画像、プリントアウトして明日の放課後に持ってきて。おかしくないか、見てみる。代わりにその本、貸して」
「え、良いの?」
今日初めて話した男子にそこまでしてもらっては申し訳ない気がする。しかし、萩野くんは全く気にした様子はない。
「うん。僕、基本的に放課後は美術室にいるから。ちょうど今、作品制作も区切りがついているんだ」
わたしは戸惑ったが、ほかにこの課題を切り抜ける道はなさそうだ。萩野くんの厚意に甘えることにした。
「ありがとう。お願いします」
頭を下げながら、両手で本を渡す。
「借りるね! じゃあまた、明日ね」
萩野くんは、リュックに本を入れると、颯爽と去っていった。
下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
翌日、わたしは、「海」「花畑」などで検索して出てきた画像をプリントアウトして持ってきた。
それが「海」や「花畑」であることは、画像を見れば理解できるのだが、あの本のクライマックスの「イメージ」に合うのか、わからない。
昼休み、弁当を食べながら雅とのおしゃべりが盛り上がる。
「美術の課題、どう?」
雅の無邪気な質問に、わたしはずっと疑問だったことを思い出した。
「いろいろあって、美術部の子が手伝ってくれることになったんだよね。それで、その子、三組の萩野航太くんっていうんだけど、どこかで聞いたことあって……雅、知ってる?」
「え! 萩野航太!?」
雅はおにぎりを落としそうになっている。
「有名人?」
「少し前の朝礼で表彰されていたじゃない! 絵画コンクールで全国一位を取った子だよ! 昇降口のところにトロフィーが飾ってあるよ」
思い出した。そういえば、担任が興奮気味に話していた。
「そんなにすごい子なんだ」
「美術部なんてほとんど日の目を見ないけど、萩野くんはすごいらしいよ。なにせ、日本一だし」
雅もそれ以上の情報は持っていないようだ。
そんなにもすごい人に手伝ってもらえるなんて、ラッキーだったのだろう。わたしは、今日の放課後が断然楽しみになってきた。
昨日まで重かった足取りとは打って変わって、わたしは美術室に急ぐ。まだ萩野くんは来ておらず、美術室は無人だった。
美術部が幽霊部員ばかりというのは、本当らしい。わたしとしては、わたしの特性を前提とした話をすることができるので、人がいないほうがありがたい。
作品が保管してある棚から、わたしのボロボロになった画用紙を出す。
画像を見て模写をするのはズルいような気がしたが、背に腹は代えられない。参考画像に絵はやめて、写真を選んだのが唯一の良心だ。罪悪感を押し沈めて、わたしは萩野くんを待った。
萩野くんは十分程経ったあとにやってきた。
扉の枠に額からぶつかった。鈍い音が届く。
「だ、大丈夫!?」
「ごめん、気にしないで」
「いや、気にするでしょ。もしかして萩野くんって……」
わたしは一息ためてから言う。
「けっこうドジ?」
一瞬の間があいて、萩野くんは大笑いした。
「そう! ドジなんだよ」
身長も高い方ではないし、見た目も可愛い系の雰囲気だが、中身まで可愛いなんて思わなかった。
「これ、ありがとう」
額をさすりながら、萩野くんはわたしが貸した本を返してくれた。額、痕にならないと良いけど。
「一晩で読んだの?」
「うん、面白かった。恋愛小説って読んだことなかったけど、良いね」
こころなしか、萩野くんの目が赤い。夜更かしをしたのかもしれない。
「あ、画像」
わたしは自分のリュックから、十枚程度の画像を取り出す。
「この辺りかな、と思って」
「これが『海』や『花畑』っていうのはわかるんだね」
「うん。その単語で検索して出てきた画像だしね。ただ、このシーンに合った画像かはわからない」
萩野くんが、画像の紙を持って見比べる。
「あのさ、今さらだけど一つ確認」
わたしは目で先を促す。
「これ、僕のイメージを描くことになるけど、それで良いの?」
「仕方ないじゃん。わたしは『イメージ』ができないんだから。むしろ、手伝ってもらっちゃって良いの? 萩野くん、すごい人だって友達から聞いたよ」
萩野くんは、照れたような、困ったような様子で笑う。
「大丈夫だよ。昨日も言ったけど、今、制作は一段落ついているし、僕もこんなふうに共作したことないから、良い経験だと思う」
前向きに捉えてくれていて嬉しい。
「そっか。それならお言葉に甘えるよ。選定して組み合わせてもらえる?」
「まかせて。イメージできないって言ってた割には、けっこう良い線いってると思う」
萩野くんは、机に画像を並べて、重ねたり折ったりする。わたしは、それをおとなしく見ていた。
「こうかな」
萩野くんの指したものは、上部に水平線と空、そして下部に花畑の写真が置かれていた。
「この写真の海は夕方だけど、青で昼に変えて。花畑の角度はこれなんだけど、もう少し引き気味で……あ、このくらいかな」
別の画像を出す。丘陵を遠くから撮ったもののように見える。
「それで、ここに二人の人を描けば、とりあえずはサマになると思う。あ、人の写真はないか。なくても成り立つから、今回は主人公の二人は省こう」
萩野くんの提案に頷く。
「花の色は文章に指定がなかったから、何色でもよいのかな」
「ここにある花の画像の色なら、どれも野に咲く花だから、おかしくないよ」
「なるほど」
わたしは、重ねて置かれた画像をもとに、線を引いていく。面白いくらいに、進んでいく。
「イメージがあると速いね」
「ゴールが目に見えているからね」
すぐに水彩に着手する。
「奥の空から塗ると良いよ。この写真の色が参考になるかも」
「わかった」
萩野くんはわかりやすく指示をする。
わたしは集中して描いていく。今、見ているもの、感じるものがわたしのすべてだ。心の情景に左右されない。ゴールまでの道をひた走る。
「できた……」
「おめでとう! 速かった!」
萩野くんが拍手する。
萩野くんは、わたしの横でずっと指示を出してくれた。萩野くんの補助のおかげで、わたしはこれまでの詰まり具合が嘘のように、スムーズに課題を終えた。
時計を見ると、下校時間の十五分前だ。
「萩野くん、ありがとう! 本当に助かった!」
わたしは立ち上がって、深く頭を下げる。
「職員室の本田先生に出してくる!」
美術室を出ていこうとするわたしの左手首が掴まれた。もちろん、萩野くんだ。
「あのさ」
男の子に手を掴まれるなんて、いつ以来だろう。鼓動が少し速くなる。
「勝手に手伝っておいて図々しいのは承知で……今度、絵を描いてくれない?」
「うん?」
萩野くんの言っている意味がわからなくて、首をかしげる。
「高幡さんは、何もイメージすることができないのでしょう?」
「うん」
「その状態で、何も見ずに自由に絵を描いてほしいんだ」
わたしは目を見開く。意味が分からない。わたしは何か形あるものを思い浮かべて描くことなどできないと、萩野くんは知っているのに。
「あ、無理だったら良いんだ。でも、モチーフはいらないし、形なんて何もなくても良い。ただ色を並べただけでも良い。それでも、高幡さんの絵が見たいんだ」
「なんで……」
「その絵は、高幡さんの心そのもののような気がするから」
いつの間にか左手首は解放されている。萩野くんは、穏やかに微笑んでいる。
「わかった」
わたしも、描いてみたくなった。
わたしの心を。
わたしは、翌日の放課後に、また美術室を訪れた。萩野くんは、今日は机の角に腰をぶつけた。痛そうだ。
「気をつけなよ。いつか大きな怪我をするよ」
「そうだね」
萩野くんは笑いながら、画用紙を用意する。
「美術部の備品だけど、多分良いでしょ。ほかに出てきている部員、いないし」
「良いのかなぁ……」
昨日、本田先生に絵を提出したときは、とても驚かれた。わたしがこの課題に散々苦戦したことを知っているからだ。
しかし、何も聞かずに受け取ってくれた。心からの安堵とともに、わたしの絵は先生の手に渡った。
「さ、自由に描いて」
萩野くんは、わたしの前に画用紙を置くと、自分はデッサン用の静物の準備に取り掛かっていた。
「僕もこっちで練習しているけど、気にしないで」
「わかった」
わたしは、息を飲む。
小学校での図画工作や、中学に入ってからの美術の課題で、イメージだけで描かなければいけないことが一切なかったわけではない。
提出しないわけにはいかないから、わたしは必死に描いて出した。しかし、その絵はぐちゃぐちゃで、わたしの記憶のどの単語とも結びつかない、無秩序なものだった。
クラスメイトには笑われ、教師には低い評価をつけられた。
クラスメイトの嘲りや教師の困った顔は思い出せないとはいえ、そういうことがあったという事実が頭に残っている。苦い記憶だ。
しかし、わたしは今、自分の意志で何もないところから「イメージ」を生み出そうとしている。
まだ出会って三日目だが、わたしは萩野くんを信用している。
鉛筆で線は引かなかった。いきなり絵の具を出していく。
ゴールはわたしの中にしかない。何も思い浮かべることができないわたしは空っぽだと思っていたけれど、目に見える絵にすれば、わたしの「心」も見えるかもしれない。
萩野くんが言ってくれた、「わたしの心」を表す絵。
わたしは、それに挑んでいるのだ。
「できた」
わたしの声に、萩野くんが頭を上げた。萩野くんはスケッチブックに鉛筆でデッサンをしていた。モチーフを白黒写真で撮ったかのように、美しい絵だった。
「見せてもらって良い?」
萩野くんが、こちらに歩いてくる。わたしは頷いた。
画用紙を渡す。
萩野くんは、小さく口を開け、絵に見入っていた。
「どうかな……?」
その絵は、何ものでもなかったと思う。ただたくさんの色を放射状に並べただけの水彩画だ。水を多く使って、にじみを意識した。ただ、夢中になって描いた。
「きれい……」
萩野くんの口から、小さな言葉がこぼれ落ちた。
「すごくきれいだ……」
左手で持った絵に、萩野くんそっと右手を滑らせる。まるで、繊細なガラス細工を扱うように、わたしの絵を撫でた。
萩野くんの目尻から、光の筋が落ちた。
「え!」
萩野くんは、涙をぬぐうこともせず、絵を見ている。
「高幡さんの心は、こんなにきれいなんだね」
わたしは、言葉を失う。
何の像も結ばないわたしの頭の中は、真っ暗だと思っていた。空っぽな、星のない宇宙空間のようなものだと思っていた。
真っ暗な空間から出てきたのは、色彩豊かな絵だった。萩野くんは、それをきれいだと言って、泣いてくれた。
わたしは、空っぽなんかじゃなかった。
いつの間にか、わたしも涙を流していた。
「すごくきれいな絵だと思うよ。高幡さん」
鼻をすすりながら、萩野くんはにっこりと笑った。
沈みかけたオレンジ色の日が、萩野くんの頬を照らしていた。
わたしは、放課後に美術室に通うことが日課になっていた。一緒に帰っていた雅は、わたしの付き合いが悪いとなじった。
萩野くんと話すことは楽しかった。
他愛もない話だった。萩野くんのお兄ちゃんのエピソードや、うちで飼っている猫の話。好きなアーティストが一致したときは、最高に盛り上がった。どの曲が一番か、萩野くんは熱弁した。
「高幡さんって、普段なんて呼ばれてるの?」
「シンプルに下の名前だよ。亜耶」
「男子にも?」
「男子でも呼ぶ人はいるかな」
「じゃあ、僕も亜耶って呼んで良い?」
びっくりしたが、心が躍った。
「うん。わたしも航太って呼ぶね」
航太の絵は、さすが全国一位の実力だ。A3の大きな用紙に、ダイナミックだけれど繊細な色合いで描いていく。穏やかな航太の中に、こんなエネルギーがあるのかと思うと、胸が高鳴った。
ある日、帰る間際に航太が言った。梅雨の訪れを感じる雨の日だった。
「そうだ。僕、明日、休むから」
「そうなの? おうちの事情?」
「そんな感じかな」
航太は、いつもと変わらず笑っていた。
翌日、久しぶりに雅と一緒に帰った。
「今日は美術室、良いの?」
「航太、おうちの事情でお休みなんだって」
雅は、わざとらしく曇天の空に両手を伸ばす。
「はぁー、やっぱり好きな人ができると、友達なんて二の次になるんだね」
「……え!?」
聞き逃しそうになった雅の言葉を、なんとか捕まえる。勢いよく横を向くと、雅がニヤニヤと笑っていた。
「好きなんでしょ? 萩野くん。あんなに通い詰めるほどだもの」
好き? わたしが? 航太のことを?
「考えたこと、なかった」
「嘘! お昼に萩野くんのことを話すときは見たことないくらい優しい顔しているし、わたしと帰らずに美術室にずっと行ってるし!」
雅がわめいているが、あまり聞こえない。
好き? 好きって、恋ということだろうか。
確か、小学五年生のときに、クラスでイケメンと言われていた男の子に憧れたことはある。わたしは「イケメン」がイメージできなかったので、「あの子はイケメンなんだ」と頭で理解した。女の子どうしの「気になる男の子」についての会話では、話を合わせるためにその子の名前を挙げていた。そのうち、本当に自分も好きになった気がしていた。
六年生でクラスが別れると、その感情は消えていったように思う。もちろん、その子の顔を思い出すことはできないが、わたしの当時の気持ちも思い出せないから、ただの恋への憧れだったのだろう。
翻って、今はどうだろうか。
航太と話していると、楽しい。胸の中が温かくなる。
航太は、見失っていたわたしの「心」を探し当てて、きれいだと泣いてくれた。
そんな人、ほかにいない。
「わからない……。でも、航太ともっと一緒にいたいと思う」
雅は、肘でわたしの脇をつついた。
「それがきっと、好きってことだよ!」
雅なりの祝福だった。
翌日、わたしが美術室に行くと、航太は静かに座っていた。わたしの描いた絵を眺めている。
あのときの絵だ。航太は、本気でわたしの絵を気に入ったらしく、今でもときどき眺めている。
その様子をみるたび、こそばゆい気持ちになる。それに加えて、雅から言われた「好き」という単語が、恥ずかしさに拍車をかける。
航太を見ているだけなのに、頬に熱が集まってくる。
「亜耶」
美術室の入り口で突っ立っていたわたしに、航太が気づいた。
「何やっているの」
「その絵、そろそろ捨てない?」
「まさか。捨てないよ」
きっぱりと言い切る航太を直視できず、わたしは目線をそらしたまま、いつもの席についた。
「あのね、亜耶」
航太が、わたしの目の前に座った。いつもと雰囲気が違う。緊張しているように見える。
「話、聞いてくれる?」
「どうしたの?」
航太は、いつもと変わりなく穏やかな口調なのに、わたしの口の中は乾いていく。
「僕、目の病気なんだ。最悪、失明する」
シツメイ。その発音が「失明」であると理解すると、頭が真っ白になった。
「どういう……こと……?」
「進行性の病気で、どんどん視野が欠けていく。治療でなんとか抑えているけれど、それでもゆっくり進んでいる」
視野が欠ける。つまり、見える範囲が狭くなっていくということだ。
「もしかして、あちこちに体をぶつけていたのは……」
「うん、死角に入っちゃって見えていないんだ」
ドジなんかじゃなかった。ただ単に、見えていなかった。
「絵は……どうするの……」
航太は困ったように笑う。
「できる限り続けたいよ。必ず失明するわけでもないし」
一息置いて、続ける。
「でも、いつか失明するかもしれない。昨日も、その検査と治療だったんだ。……悪化していた」
わたしは、つばを飲み込んだ。息が浅い。航太の目が、見えなくなる……?
「最初にここで会ったとき、亜耶は読書感想画の課題をやっていたでしょう?」
「うん」
「調べたら、あの本の作者ってこの辺りの出身なんだって。少し遠いけど、絵に描いたあの最後の風景は、同じ県内にあるみたいだよ」
航太が何故、そんなことを話しだしたのか、わたしにはわからない。何も反応できずにいるわたしに、航太は優しく問いかける。
「明日からの土曜日か日曜日、そこに行ってみない?」
「え……」
「僕、目が見えるうちに、亜耶とその景色を見ておきたいんだ」
目が見えるうちに。切迫感のある台詞を、なんでもないかのように言う。
「そんな……大丈夫だよ。航太の目は、見えなくなったりしないよ。だって、わたし、航太の絵、好きだもの。もっと描いてほしいもの」
わたしは航太の両肩を掴んで、すがるように言う。
「こればかりは……わからないから。ね、お願い。亜耶」
聞き分けのない子供を諭すように、航太は言う。肩に置かれたわたしの右手を、航太は掌で包む。
温かい。
「お願い。僕の、わがままだけど」
その目は優しさと、ゆるぎない強さを持っていた。
ああ、航太は覚悟をしているのだ。
わたしは、理解した。
「わかった。行こう」
航太は嬉しそうに頷くと、リュックからスマートフォンを引っ張り出す。
「スマホは持ってる?」
「うん。学校には持ってきていないけど」
「このアプリ使える?」
メッセージアプリのアイコンを指した。そのアイコンの画像は覚えていないが、名前から判断するに、わたしも家族や友達との連絡などに使っているものだ。
「うん」
「じゃあ、これ、僕のID」
航太は、小さなメモを差し出す。受け取ると、そこには走り書きのIDが書いてあった。
「帰ったら登録する。土曜日でも日曜日でも良いよ」
航太は、スマートフォンを操作する。
「明日の土曜日は晴れるみたい。梅雨の晴れ間だって。土曜日にしよう」
「うん」
「じゃあ、駅前に十時で。お昼はあっちで食べよう」
「うん」
わたしは、頷くことしかできない。何かしゃべったら、感情があふれてしまいそうだ。
「明日ね」
航太はその日、絵も描かずに帰っていった。
翌日は、梅雨のさなかとは思えないほど暑い日だった。キャップをかぶって、ロゴのTシャツにパーカーを羽織り、デニム地のミニスカートを履いた。スカートなんて柄じゃなくて、制服のほかには一枚しか持っていない。
メッセンジャーバッグを斜めがけにしている。足元は履き慣れたスニーカーなので、たくさん歩いても大丈夫だ。
駅前の銅像の前で待っていると、航太がやってきた。航太は、Tシャツに襟付きのストライプシャツを羽織り、デニムパンツを履いていた。
「制服しか見たことないから、一瞬、亜耶だってわからなかった」
「それはこっちの台詞。わたしなんて、普段の航太をイメージができないんだから、普段と違ったら航太とわからないことだってあるんだからね」
二人で同時に吹き出す。笑いながら改札を抜け、下り列車に乗り込んだ。
どんどん下っていく。周りの風景に田園が増える。こんな遠くに行くのは久しぶりで、わくわくした。
「亜耶、ずっと外見てる」
「こんなところまで来るの、久しぶりなんだもの。小さい頃に、水族館に行った以来かな」
「そっか。僕も景色を見よう」
その言葉の重みに気づかないほど、わたしは鈍感ではなかった。
二回乗り換えて、目的の駅で降りる。
航太が改札にぶつかりかける。
「危ない!」
「あ……本当だ。ありがとう」
航太は後ずさってから方向を変えて、するりと改札を抜けた。本当に見えていないのだと、実感する。
わたしは、航太の手を握った。航太は目を大きく開いた。わたしは、強がって言う。
「危ないから、繋いでいよう?」
航太は、穏やかに微笑む。
「ありがとう、亜耶」
その耳が少し赤くなっていることに気づいて、わたしの鼓動もさらに速くなった。
駅を出たところにあったお蕎麦屋さんで軽くお昼を摂ると、目的の場所に向かう。航太曰く、そんなに遠くないらしい。
わたしたちは、再び手を繋いで歩く。
「この香り、なんだっけ」
嗅いだことのある香りを思い出せずに、わたしは航太に訊く。
「磯の香りだよ。海が近いから」
「そうだ、海の匂いだ」
わたしはようやく理解した。この特性は、なかなか面倒なことも多い。
あのアーティストの新曲出たね、とか、そろそろ期末テストの勉強を始めなきゃ、とか、わたしたちは何でもない話をしながら歩いていく。
わたしは頭の中に像を描くことができないし、航太は視野が欠けていっている。そんなこと、外から見ても誰もわからない。
わたしたちは、ただの中学二年生だった。
階段を登った先は、高台だった。切り立った高台の周りには、胸の位置ほどまでの柵が立てられていて、安全対策がそれている。
高台の上は、草が青々と茂っていて、その奥は青が広がっていた。
海だ。
海を見るのはどれだけぶりだろうか。
「すごい。広い!」
「一面、青だね」
「航太、見える?」
「うん。欠けてるけど、見えるよ」
足元は、本と違って花畑ではなかった。そこは、作者の創作だったのだろう。わたしたちは、さくさくと草を踏みながら歩く。
眼下にある家の屋根が見える。小さく見える人々が、ちょこまかと歩く様子は可愛らしい。
観光地のようで、高台の上には、ほかにもファミリーやカップルが何組かいた。
高台に設置された柵の前に立つ。わたしは、この感動を凡庸な言葉でしか表せない。
「すごいね」
「うん」
この景色も、わたしの心に留め置くことはできない。そう思うと、とても悲しい。
「写真、撮る?」
わたしがスマートフォンを出すと、航太は首を左右に振った。
「亜耶がこの景色を覚えていられないのはわかっているけれど、この瞬間だけだからこそ、輝くものって、あると思わない?」
「この、瞬間……」
「亜耶は、過去のことを思い描けない。だからこそ、その一瞬一瞬がとても大切で、きれいなんじゃないかな、と思うんだ。僕の勝手な解釈だけど」
わたしは、スマートフォンをしまった。わたしの特性をそんなふうに解釈してくれる航太が嬉しかった。
写真を残しておいても良い。特に、わたしのように、もう二度と同じ景色を思い起こすことができない人間にとって、写真は唯一の記憶の手がかりとも言える。
しかし、それを手放すこと。消えてしまう儚さを美しさとして感じる航太の感性が、好きだった。
「そうだね」
わたしは、航太の顔を見て微笑む。
「ねぇ、亜耶」
「うん?」
航太は、穏やかで、優しく語りかける。
「僕、亜耶のことが好きだよ」
航太の大きな瞳がキラキラと輝く。この目が、見えなくなっていっているなんて、信じられない。
「わたしも」
わたしは少し緊張しながら、でも、きちんと応えた。
「亜耶と出会わせてくれた作品の、この場所で言いたかったんだ。ちょっと、かっこつけすぎたかな」
航太は照れくさそうに俯いた。
「そんなことないよ。わたし、あの本が好きだから。嬉しい」
わたしたちは、ただ手を繋いで海を見ていた。今この瞬間だけの、海を。
それからも、航太との日々は、あまり変わらなかった。
放課後に話しながら、航太は絵を描く。わたしはその航太を見る。夜にスマートフォンのメッセージで連絡をすることもあるが、読んだ本の感想を言いあったり、おすすめの動画を送ったりするばかりで、特別なことは何もなかった。
わたしは、それで満足だった。航太も楽しそうだった。
それなのに。
七月。夏休みも間近という頃、航太が三日連続で学校を休んだ。
スマートフォンに連絡をしても、返事がない。いやな予感がした。
土曜日も、連絡はない。わたしは不安で仕方がなかった。
その夜、自室で読書をしていると、アプリ通話の着信音が鳴った。航太だ。航太から、通話の着信があるのは初めてだった。
わたしは、震える指で応答ボタンをタップする。
「航太……?」
「亜耶、ごめんね。連絡できなくて」
穏やかな声色に、わたしは安心して、床にへたり込む。
「どうしたの。本当に心配したんだから」
「あのね……」
航太の息の音がした。
「僕、失明しちゃった」
「え……」
絶句する。航太の目が、見えなくなった……?
「なん……で……。だって、失明するかわからないって……」
「急性の発作が起きたんだ。お医者さんも頑張ってくれたんだけど……だめだった。今も病院に入院している」
淡々と語られる内容に、わたしは涙すら出ない。
「ごめんね、驚かせたよね」
「なんで、航太が謝るの……」
「確かに。おかしいね」
ふふ、と小さな笑い声が漏れ聞こえる。
「親が学校とも相談して、一学期はもう行けそうにない。二学期からはどうなるか、まだ決まっていない」
「そんな先のことは良いの。会いたい」
わたしは、つい声を荒げてしまう。あまりに航太が、凪のようだから、代わりにわたしが怒りたくなってしまう。
「明日まで病院にいるけど……」
「わかった。お見舞いにいく。どこの病院?」
「良いの?」
「わたしが行きたいの」
航太は病院の名前を教えてくれた。少し遠い、総合病院だ。
航太との通話が切れる。
わたしは、いつの間にか拳を握りしめていたようだ。爪が掌に刺さって、痛い。
航太はもう、わたしの姿を見ることはできない。
翌日の日曜日、わたしは病院の面会時間を調べて、電車に乗った。
わたしは、地図を見ることも苦手だから、駅を出たところから見える大病院の立地に感謝した。意を決して、歩き出す。
受付で手続きをして、病室にたどり着く。ノックをして静かに開けると、そこは個室だった。
航太がベッドに寝ていた。電動ベッドのようで、リクライニングチェアのように上半身を起こしていた。
隣に座っていた、茶髪のボブの女性が立ち上がる。
わたしは、走る鼓動を押さえつけて、軽く頭を下げる。
「こんにちは。高幡亜耶と申します」
「亜耶」
反応したのは、航太だった。そして、茶髪の女性がわたしのもとへ、歩み寄る。
「航太の母です。航太がお世話になっています。どうしても、あなたにだけは自分の口から伝えたいと……」
「母さん、やめてよ」
航太は、照れくさそうに、自分の母親を止める。こちらを向いているのに、航太と目が合わない。焦点を結ばないその目は、今も夏の日差しに輝いているのに、深海のように光すら届かない。
わたしは、航太のお母さんに会釈をして、航太のもとへと駆け寄る。航太のお母さんは、何も言わずに席を外してくれた。
「航太……」
航太は、音を頼りにわたしを探す。さまよう手を捕まえて握った。
「亜耶」
声に安堵が含まれたように感じた。
「ごめんね、急なことで」
「だから、なんで航太が謝るのよ」
わたしは、涙をこらえて、航太の手を両手で包む。
「つらいのは、航太じゃないの」
航太は苦笑いする。
「そうなんだけど、なんでかな。でもね、僕自身は変わりないんだよ。目は見えなくなって、亜耶の顔も見えないけれど、僕は亜耶の顔を思い浮かべられる。いろんな表情の亜耶を見てきたから、僕は心で亜耶を見ることができる」
「……わたしと、逆」
か細い声で、わたしは言う。航太は頷く。
「そうだね。だから、またお願いがあるんだ」
「……わたしにできることなら、なんでもする」
航太のもう一方の手が宙を掻き、しかし、わたしが握る手の上から、さらに包み込む。
「もう一度、僕に絵を描かせてくれない?」
意味がわからなかった。
「どういうこと?」
航太は、わたしのやや左上あたりを見ながら言う。
「亜耶は心に情景を思い浮かべられない。僕は目が見えない。それは確かにそうなんだけど、逆に考えたら、僕は心に情景を浮かべられる。亜耶は目が見える」
「うん」
「だから、亜耶が僕の目の代わりになって、絵を描いて。僕が、心の中の情景を説明するから、それを絵にしてほしい」
航太は、失明したばかりだ。光を失う恐怖は、想像するに余りある。しかし、航太は前向きだった。
航太は心に情景を浮かべられる。わたしは目が見える。
そんなふうに考えもつかなかった。
「僕の『心』を描いて、亜耶」
わたしは、涙を抑えられなくなった。ぽろぽろと塩からい水が、頬を転げ落ちていく。
「わかった」
わたしは、航太の手を強く握った。航太も、同じように力を込めた。
心が見えないわたしと、光が見えない航太。二人の瞳を結んで、絵を描く。
夏休みに入り、わたしは航太の家にお邪魔していた。
驚いたことに、航太はスマートフォンを使いこなしていた。読み上げアプリや音声認識で対応できるそうだ。わたしは、自分の偏見を恥じた。
航太の部屋に案内される。航太の部屋は、きれいに片付いていた。航太は、学習用のデスクに向かって座っていた。
壁に、見覚えのある絵がアクリル板に挟まれて飾ってあった。わたしは思わず飛び上がる。
「ちょっと! わたしの描いた絵じゃない!」
何も見ずに、わたしの心を描いた絵だ。
「あ、ちゃんと飾ってある? 良かった。自分じゃ確かめられないから」
航太はからりと笑う。
「恥ずかしいんだけど!」
「良いじゃん。僕が飾りたいんだもの。学校から持ってきてもらったんだ」
歌うように航太が言う。目が見えていないなんて、全く信じられない。しかし、航太と目が合うことはない。
腑に落ちないが、航太がそれを望むなら、わたしは止めない。わたしの絵を飾ってくれて、少しだけ嬉しい気持ちもあった。
「さっそく始めようか。鉛筆や水彩絵の具は持ってきたけど」
わたしは大荷物を床に降ろさせてもらう。
「そのテーブルで書こう」
指されたのは、大きめのローテーブルだった。これなら、水彩の道具を一式載せても大丈夫だろう。
航太が、手をさまよわせる。
「何を探しているの?」
「このあたりにスケッチブックがあるはずあなんだけど……」
学習用デスクに、二冊のスケッチブックが並んでいた。大きいものと小さいものがある。二冊取って、航太に渡す。
「これ?」
「そう。ありがとう。せっかくだから、大きい方に描こう」
そう言って、わたしに大きいほうのスケッチブックを渡す。
「見て良い?」
「大したもの、描いてないよ」
スケッチブックをぱらぱらとめくると、本物を写し取ったようなデッサン画が並んでいた。
「わぁ……すごくきれい……」
「ありがとう。ね、ちょっと手を貸して」
照れ隠しをするように、航太は手を伸ばす。わたしは訊く。
「どうすれば良い?」
「僕もローテーブルの前に座りたい」
「わかった」
わたしは、伸ばされた腕を掴む。航太が立ち上がった。そのまま片手を引いて、指示を出す。
「そこ、テーブルの角があるから気をつけて。そう。クッション敷いても良い? じゃあ、そのまま座って」
フロアクッションを置くと、航太はうまくその上に座った。
「助かったよ」
「難しいね。これで合っているのかな?」
「僕も、介助の受け方を勉強中だから、まだよくわからない」
航太は明るく笑い飛ばした。航太は、強い。
「じゃあ、描こうか。まず、鉛筆で輪郭を引こう。難しくないから」
わたしは緊張して固く鉛筆を握る。
「スケッチブックを縦にして、左端、下三分の一くらいから真ん中あたりで上三分の一くらいを通過して、また右の下三分の一くらいに曲線を引いて」
言われたとおりに、大きく弧を描く。
「そこに、等間隔に五センチくらいの縦の線を入れて」
こう? と聞きそうになって、直前で止めた。見えないのだ。わたしはイメージができないから、航太がイメージしていることについて、比喩も使えない。
「その直線はさっきの弧にかかる? 何本くらい?」
「弧の下部分に一センチ、上部分に四センチ出るくらいで重ねて。本数はそうだな、二十本くらい」
一つ一つ、言葉で擦り合わせていく。途方もない作業だった。
その絵が完成したのは、夏休みも終わりかけの頃だった。
わたしは、結局毎日のように航太の家に行った。夏休みの課題も、航太の家でやった。
言葉だけで心と光を繋ぐ作業に、正解はない。そのイメージは航太の頭の中にしかないし、航太はわたしが描いた絵を見られない。
でも、わたしはこれが正解だったと信じている。
なぜなら。
「これ、あのときの風景だよね……」
梅雨の晴れ間の土曜日に行った、読書感想画の課題に選んだ本のモチーフになったあの高台。それが描かれていた。
緑の草原に、高台を囲む柵。そしてその奥の広大な海と空。
シンプルな構図だった。一人で描いたら、数日、もしかしたら数時間でできていたかもしれない。
それを一ヶ月以上かけて、描き上げた。
無駄だと笑う人がいるかもしれない。
そんなことが何の意味を持つのか理解されないかもしれない。
それでも、わたしたちには、大切なことだった。
航太の心とわたしの光。二つの瞳を繋いで作った絵は、わたしにとって、この世のどんな名画よりも価値あるものだった。
「良かった、伝わった」
航太は、顔を両手で覆っている。
「ああ、その絵を見たいなぁ」
「うん」
「でも、それはできないから、亜耶が代わりに見て」
「うん……」
わたしは、涙を流していた。
なんで航太はこの絵を見られないのだろう。この絵は、航太の心の風景なのに。
でも、できないものは、できないのだ。
わたしも何度も嘆いた。ほかの人が当たり前にできる、「頭の中に思い浮かべる」ということをわたしはどうしてもできなかった。
人にはできることと、できないことがあると思う。
だからこそ、人は補い合い、助け合うんだ。
この絵は、その象徴だと思った。
「航太、この絵を描かせてくれてありがとう」
「亜耶、泣いてるの?」
声で気づいたのだろう。わたしは素直に「うん」と言う。
「泣かないで。せっかく絵が完成したのに。僕の頭のなかの亜耶は、ずっと笑ってるよ」
わたしは、座ったままの航太に抱きついた。航太は、少しよろめいたが、わたしをしっかり受け止めてくれた。
「航太、何度も言うけど、本当にありがとう」
「こちらこそ。亜耶、ありがとう」
航太は、手探りでわたしの後頭部を撫でた。
「この絵をちょうだい?」
「良いけど、なんで?」
わたしは、腕をゆるめる。まっすぐ航太を見つめる。やはり航太とは、目が合わない。
「航太はわたしの心の絵を持っているでしょう。だから、わたしも航太の心だけで描いた絵を持っていたい」
航太は、わたしを強く抱きしめた。
「ありがとう、亜耶。こんな僕だけど、大好きだよ」
「航太は変わらない。航太だから、好きなんだよ」
航太も涙を流している。
二人で声を殺して泣いた、晩夏の夕方だった。
航太は、二学期から盲学校に転校することになった。
しかし、会えなくなったわけではない。スマートフォンでのやり取りも続いている。
美術室でのおしゃべりがなくなったのは寂しいけれど、それ以外は何も変わらない。
航太は、全盲の画家がいると知って、絵を描くことに挑戦している。どこまでも前向きな航太をわたしは尊敬している。
わたしは、相変わらず頭の中に像を結ぶことはできない。そのときは、航太を頼る。航太は、わたしの拙い説明からイメージして、それをさらに言語にして返してくれる。すると、わたしも理解しやすくなるのだ。
わたしが、航太の代わりに絵を描くこともある。「亜耶は頭の中でイメージができないからこそ、先入観なく描けるのが強み」と言ってくれている。
わたしたちは、変わらない。
変わらず、二人の瞳を結んで助け合って生きていく。
わたしは光を。航太は心を。
〈了〉



