プロローグ
七月二十五日(土)
確かにそこは幽霊の出そうなアパートだった。築四十年。トイレと風呂が付いているのが不思議なくらいだった。ドアを開けるとそこは小さなキッチンで、その向こうに畳敷きの寝室が一つあるという間取りだった。玄関から見ると正面に、寝室からベランダに続くガラス戸があった。
僕の部屋は二階の角部屋で、真下も隣も空き室だった。このご時世にこんなオンボロアパートに住みたいと思う人は少ないのだろうと容易に想像がついた。
そんな場所に僕が住み始めたのは、急に引越しが決まり選択の余地がなかったからだ。両親が突然、家を売って父の実家に移住すると言い出して、僕は無理やり追い出されることになったのだ。
僕が住むことになったそのアパートは駅からは遠かったが、大学へは歩いて十分だから通学には便利だった。大学三年になる来年の春には、もっとましなアパートを見つけて引っ越すこともできるだろう。だから、それまでの仮住まいだと思うことにした。
夏休みに入って最初の土曜日、僕はそのアパートに引っ越してきた。荷物の片づけがあらかた終わると既に夜になっていた。
少し気分転換でもしようと思い、僕は三線を弾くことにした。まず、ガラス戸の前に座布団を敷いた。僕はケースから三線を取り出すと座布団に腰を下ろした。その上で三線の糸を巻いた。
三線は三味線とよく似た沖縄の楽器で、三味線よりも少し小柄だ。猫ではなくニシキ蛇の皮が張られているので、かつては蛇皮線とも言われていた。
僕が三線を弾くようになってから、既に三年半の時が経っていた。きっかけは沖縄県八重山諸島への旅だった。その時、僕はまだ高校一年生だった。その旅での出来事を元に僕は歌を作った。僕が作った最初の歌だった。
調弦を済ませた後、僕は前奏に続いて、僕は「幻の夏」と名付けたその歌を歌い始めた。不思議な出来事が起こったのは歌のエンディングまで三線を弾き終えた時だった。
「良い歌ですね」
間近で若い女性の声がした。僕は驚いて回りを見回したが、一人暮らしの自分のアパートに女性の姿などあるはずがなかった。
「君、誰なの?」
僕は驚いて見えない相手に尋ねた。
「え、私の声、聞こえたんですか?」
姿の見えない声の主はむしろ僕以上に驚いているようだった。
「ごめんなさい、済みません。失礼します」
声の主はひどく慌ててどこかに去ってしまったようだった。
夏休み最初の土曜日、不思議な声を聞いたその夜、僕たちの夏が始まった。
第1章
七月二十六日(日)
夏休み最初の日曜日も僕は部屋の片づけに追われた。前の晩の女の声は多少気にはなっていた。女の声はかなりはっきりと聞こえたような気がしたが、ほぼ一日中部屋にいても一向に女の声は聞こえてこなかったので、夕方にはやはり気のせいだったのかと思い始めていた。
女が声を掛けてきたのは、僕が早めの夕食を近所のラーメン屋で済ませて、前の晩と同じようにガラス戸の前に腰を下ろして三線を構えた時だった。
「すみません。昨夜は驚かせて御免なさい」
申し訳なさそうな声だった。
前の晩の声が幻聴ではなかったことがはっきりした。尋常ではない出来事に少々驚いたものの僕は丁寧に相手に問い返した。
「あの、もしかして、昨日の夜に声を掛けてきた方ですか?」
「はい、申し訳ありません。脅かすつもりはなかったのです。まさか私の声が聞こえると思わなかったし、歌がとても素敵だったので、つい声を掛けてしまいました」
「そうでしたか」
言った時点で、僕は恐怖を感じることもなく事態をすっかり冷静に受け止めていた。それはたぶん、声の主に邪悪さが感じられなかったことと、前の晩に僕の歌を褒めてくれたことが原因だったのだろう。しかし、やはり相手の正体は気になった。
「僕には、あなたの声は聞こえるけれど姿は見えない。あなたは幽霊なんですか?」
「いいえ、あなたと同じ生きた人間です。幽霊でも、妖怪でも、宇宙人でもありません。今、私たちは不思議な状況に置かれているので不審に思われるのは分かりますが、信じてください」
女の言葉には嘘は無いような気がした。
僕は質問を続けた。
「僕にはあなたの声しか聞こえないけど、あなたの方はどうなんですか?僕の顔とか部屋の様子とか見えるんですか?」
「私にはあなたの顔も部屋の様子も見えています」
「それはちょっと不公平ですね。今、あなたはどこにいるんですか?」
「え、あの、それは、同じ、同じ町内にあるアパートにいます」
女は少し動揺しているようにも感じられ、その言葉には嘘があるような気もした。話題を逸らそうとしたのか、今度は女が質問をしてきた。
「あの、昨夜の歌の歌詞にあった竹富はどこにあるのですか?やはり沖縄ですか?」
「沖縄ですよ。歌に出てくるカイジ浜は僕が一番好きな場所です。あの歌は実は僕が初めて作った歌なんです」
「すごいですね。プロのシンガーソングライターなんですか?」
女があまりにも驚くので僕は返答するのが少し恥ずかしくなった。
「まさか。単なる趣味です。僕はただの大学生ですよ」
「そうですか。どんな学科の生徒さんなんですか?」
「英語英文学科の二年生です」
「英語なんてカッコいいですね」
女が僕のありふれた学科にさえ感心してくれるので、僕はますます恥ずかしくなった。女は何か考えたようで少し間を置いてから問いを発した。
「じゃあ、年齢は二十くらいですか?」
「はい、二十です」
言った後、僕は少し躊躇したが思い切って相手の年齢を聞いてみることにした。
「あの、本来なら女性に年齢を尋ねるのは失礼だと思っています。でも、僕にはあなたの姿が見えないので口の聞き方に少し困っています。あなたは何歳ですか?」
「あ、えーと。その、私は」
女がすぐに答えなかったのは単に恥ずかしかったからと言うだけではないような気がした。
それはさておき、僕はまだ自分たち二人が相手の名前さえ聞いていないことに気づいた。僕は先に自分の名前を名乗ることにした。
「すみません。順番が違っていました。まだ、お互いの名前も知りませんでしたね。僕の名前は山崎純、純は純粋の純です」
「私は玉木真澄、十九歳です。苗字は『王』に点のついた方の『玉』で、『木』は『木曜日』の『木』です。『真澄』は真実の『真』と澄みきった空の『澄』です。近くの工場で働いています」
先ほど言い淀んでいたのが嘘のように女は自分の名前や年齢まで素直に教えてくれた。不思議なもので、相手の素性が少し分かっただけで女のことが少し身近に感じられるようになった。
「真澄さん、僕たちはあまり年齢も変わらないようだから、敬語は止めて気楽に話しませんか?」
「そうね、そうしましょう。ああ、私、今日はこれで失礼します。また、歌を聴かせてくださいね。それじゃあ」
一方的に言ったきり真澄の声は途絶えた。
七月二十七日(月)
バイトを終え帰宅すると、僕はまた昨夜と同じようガラス戸の前に腰を下ろした。三線のケースも目の前に用意はしたが、中身は取り出さずに真澄が声を掛けてくるのを待った。きっと、また真澄が声を掛けてくるに違いないと僕は思っていた。
「こんばんは、純さん」
真澄は僕の予想、いや期待を裏切らなかった。
「こんばんは、真澄さん」
姿の見えない相手と話すのはやはり少し勝手が違った。視線のやり場に少々迷った。
早々に歌のリクエストをしてきた。
「今日は、また純さんの歌、聴かせてもらえるかな?」
「ああ、喜んで」
社交辞令ではなく本音だった。僕は本当に真澄に聴いて欲しいと思っていたのだ。
その日に真澄に聴いてもらった歌は「鳩間島巡礼」という歌だった。八重山の諸島の一つ鳩間島で思いついた歌だった。
鳩間島の灯台は島の中央の高台に建っているのだが、僕はその灯台の下で、一人の若い男性を見かけた。その男性は胸に誰かの遺骨を抱えていた。僕はその遺骨が彼の奥さんのものだと勝手な想像して歌を作った。
「鳩間島巡礼」を聴いた真澄は、異常なまでに歌に感情移入をしたようだった。
「純さん、私、この女の人が羨ましい。生きている間だけでなく、死んだ後までこんなに愛してもらえるなんて」
歌詞は絵空事に過ぎないと前置きをしたにもかかわらず、真澄は泣いているようだった。
「私なんて、私なんて」
そう言ったきり、真澄の声はもう聞こえてはこなかった。
七月二十八日(火)
その夜、僕と真澄の関係は劇的な変化をとげることになった。
夕食を外で済ませ、鍵を開けてアパートの自室に入った途端に僕の背筋に寒気が走った。寝室に見知らぬ女性が立っていた。彼女はもう少しで肩に届くかという短い髪をした美しい女性だった。年齢はまだ二十歳そこそこといったところに見えた。しかし、彼女がこの世のものでないことは一目で分かった。彼女の体は輪郭が無いに等しく、その体を通して後ろの部屋の壁が透けて見えていた。
僕は玄関で立ち尽くしたまま、どうにか冷静さを失うまいと必死になった。とりあえず、一つ深呼吸をして、それから口を開いた。
「君は、一体、誰なの?」
僕の狼狽えた様子を見て彼女は申し訳なさそうに答えた。
「純さん、私の姿が見えちゃったのね」
真澄の声のようだった。
「もしかして、真澄さん?」
僕は半信半疑だった。
「そうです、ごめんなさい。私、嘘をついていました。でも、どうか信じて。私、純さんを怖がらせたくなかったの。だから、普通の人間だって嘘をついたの、どうか、それだけは信じて」
真澄の言葉には切実な思いが感じられた。その言葉を聞いて僕の背中にあった寒気は波が引くように消えていった。
「信じるよ」
僕がそう言うと真澄は少し安心したように自分の正体を語った。
「私、幽霊なの。より正確には地縛霊という奴。成仏もできず、この部屋に縛りつけられたままどこにも行けないの」
「なるほど、そういうことだったのか」
僕が納得すると真澄は更に謝罪の言葉を口にした。
「本当に、ごめんなさい。純さんの歌が素敵だったので思わず声をかけちゃったの。まさか聞こえるとは思わなかったから」
僕は何だか真澄が可哀そうになった。
「そのことはもう謝らなくてもいいよ。ああ、立ち話もなんだから、そっちに座ってよ」
僕はキッチンにあるテーブルを指差した。
「失礼します」
真澄は宙を浮いているかのような足取りで移動して、椅子を引くこともないまま、気づけば椅子に腰掛けていた。僕は靴を脱ぎ真澄の向かい側に座った。
「真澄さん、よかったら、身の上話を聞かせてくれないかな。どうしてこの部屋の地縛霊になってしまったのかという、そのいきさつを」
少し酷な気もしたが知りたいという思いが勝った。
「うん、全部隠さずに話すわ。私にはその義務があると思うの。でも、どこから話したらいいのかな?」
真澄が話の進め方に少し困ったようだったので、僕はとりあえず彼女の誕生日や出身地を聞いてみることにした。
「まずは、真澄さんの生年月日を教えてくれないかな?」
「生年月日は昭和三十七年、西暦で言うと一九六二年八月十六日です」
ちょうど両親と同じ年の生まれだったので、真澄は生きていれば四十七歳だとすぐに分かった。しかし真澄の姿も話しぶりも両親とはおよそ異なり、二十歳そこそこにしか思えなかった。
「それじゃあ、何があったか全部話すわね」
そう断って話し出した真澄の話は悲惨極まりないものだった。ものすごく簡単に要約してしまうと、こういうことだった。
地方の恵まれない家庭で育った真澄は、中学卒業と共に東京に来て就職したが、務めていた会社が倒産してしまった。かつて会社の寮だったこのアパートからも立ち退きを迫られたが、貯金もなく、実家に帰ることもできない真澄は絶望し、このアパートで自ら命を絶った。まだ十九歳の若さだった。
正に不幸を絵に描いたような真澄の境遇に僕はしばらく声が出なかった。
「辛い人生だったんだね」
気分が沈み月並みな言葉しか出てこなかった。しかし、その後の真澄の言葉は更に僕を暗い水底へと突き落とした。
「うん、でも、死んだ後も辛かった。気がつくと私は成仏もできず、この部屋に縛りつけられていたの。私が死んでから、色々な人がこの部屋で暮らし始めて、そして、去って行ったわ。でも、誰一人として、私がここにいることに気がつかなかった。死んでから約三十年間、私は本当に孤独だった。純さんが、ここに来るまでは」
誰にも気づいてもらえず、ひたすら孤独に耐えるだけの約三十年間。しかもその辛い日々には終わるあてなどまるでなかったのだ。どれだけ辛かったのだろうか?想像もつかなかった。
しかしやがて、一つの疑問が浮かんだ。僕はすぐさまそれを真澄に向けた。
「ねえ、どうして、今まで誰も君に気づかなかったのに僕だけが気づいたのかな?」
真澄はうつ向きがちだった顔を上げて僕の方を見た。それから自信なさげに自らの考えを口にした。
「純さんには、たぶん霊感があるのよ」
「そうかな、僕は今までに君以外の幽霊を見たことは一度もないけど」
「純さんの霊感はきっと弱い物なのよ。どんな霊でも見られるわけではなくて、何かの拍子に身近な存在にだけ反応する場合があるんじゃないかな?」
「なるほどね」
真澄は同じ部屋にいて、僕の作った歌を気に入ったので反応した。そう考えれば、真澄の考えには納得がいかなくもなかった。
「辛い話をさせて御免ね」
僕が謝ると真澄は小さく首を横に振った。
「いいえ、謝らなければいけないのは私の方よ。私、純さんが出て行くまで屋根裏にでもいますから」
いかにも申し訳なさそうな口ぶりで真澄は更に続けた。
「私がここから出ていけたらいいんだけど」
それきり真澄は俯いて黙り込んでしまった。それから僕が次の言葉を発するまで少し気まずい沈黙が続いた。
「どうして僕が出て行くことになるの?」
沈黙を破って出てきた僕の言葉はひどく真澄を驚かせたようだった。跳ね返るように顔を上げた真澄はまっすぐに僕の方を見た。
「だって、純さん、幽霊のいる部屋でなんか暮らしたくないでしょう」
つい視線を逸らしてしまったが、僕は真澄の言葉自体は否定した。
「いや、僕は出てゆくつもりはないよ。僕は気にならないよ、真澄さんがここにいても」
僕が視線を逸らしてしまったのは、自分の言葉には少々嘘があったからだった。幽霊と共に暮らすなんて、全く何の迷いも無く出来るものではなかった。でも、真澄を見捨てて一人で逃げ出すのはあまりにも可愛そうな気がした。
「そんな。純さんの好意に甘えることなんて出来ないわ」
「いいんじゃないかな、甘えても。君は十九歳。まだ未成年だ。一応、僕はもう成人してるからね」
「でも」
真澄は泣きそうな顔をしていた。
「別に真澄さんといると僕が呪われる訳でもないんでしょう。今までここに住んでいた人たちがそういう目にあったことがあるの?」
真澄は大きく左右に首を振った。
「無いわ。近くに大学が出来てからは、ほとんどが学生さんだったけど、みんな元気に旅立っていったわ」
そういう不安がまるで無かったわけではなかったので僕は少し安心した。
「じゃあ、問題は無い訳だ」
「だけど」
「真澄さんがどうしても僕に出て行ってほしいなら、無理にとは言わないけど」
僕は少しずるい言い方をした。
「そんなことないよ。私、純さんの歌、もっと聞きたい」
暗かった真澄の目が生者の輝きを取り戻したように見えた。
「じゃあ、決まりだね」
「すみません、よろしくお願いします」
真澄は目いっぱい低く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね」
こうして、生きている僕と幽霊の真澄の奇妙な同居生活が始まった。
七月二十九日(水)
「おかえりなさい」
夜、食事を済ませ部屋に戻ると僕は真澄の言葉に迎えられた。キッチンに立つ真澄の姿には朧げながら輪郭が現れ、体の透明度も下がっているような気がした。
僕がリュックを寝室の机の上に置くと、早速、真澄がリクエストをしてきた。
「ねえ、純さんの歌を聴かせて」
「ああ、いいよ」
僕はガラス戸の前に二つ座布団を並べてから三線をケースから取り出し腰を下ろした。
「真澄さんはこっちに座って」
僕は自分の右側の座布団を示した。
「うん」
真澄はやはり宙を歩くような足取りで移動すると僕の隣に腰を下ろした。
その後、僕はそれまでに作った歌を次々と真澄に歌って聞かせた。その中には島そのものの歌とは言えないが八重山を舞台にした歌、その他諸々が含まれていた。
真澄は「じゃあ、次をお願い」と言うだけで、感想を感口にすることなく、ただただ僕に歌うことを求めた。
七月三十日(木)
帰宅時、アパートのドアを開けると、「おかえりなさい」という真澄の声が聞こえた。「ただいま」と答えながら僕は靴を脱いだ。
真澄の体は、未だに後ろが透けて見える状態だったが、輪郭は前日に比べるとはっきりしてきていた。
七月三十一日(金)
バイトから帰ると、真澄の姿はかなり輪郭がはっきりとしていて、後ろの壁も微かに透けて見える程度になっていた。
八月一日(土)
「おはよう、純さん」
僕が目を覚ますと、真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に腰を下ろして僕の方を見ていた。
「おはよう、真澄さん」
僕は開いたばかりの目をこすりながら真澄の方を見て少し驚いた。真澄の体は輪郭がほぼ完全に整っていた。透明度もかなり落ちて、気をつけて見なければ背後が透けて見えることは分からない程だった。
「土日はアルバイトもお休みだって言ってたよね?」
真澄に言われて初めて僕はその日が土曜日だと気づいた。
「うん」
「じゃあ、歌を聴かせてもらう時間がたっぷりあるね」
真澄はすでに意欲満々だった。起きたばかりの僕はまだ頭が少々ぼやけていたというのに。
僕が朝食を済ませコーヒーを飲んでいると、真澄はすぐにでも歌を聴きたいという顔をしていた。しかし僕は真澄の期待を裏切るような別の提案をした。
「真澄さん、今日と明日はバイトも休みで十分時間があるから、少し別のことをしてみたいんだ」
「へえ、何をするの?」
「気晴らしに一緒に歌を歌わないか。聴いてもらってばかりじゃ申し訳ないし」
そうは言ったものの、それは半分嘘だった。真澄と一緒に歌ってみたいというのは嘘ではなかったが、本音を言えば僕は真澄の歌が聴いてみたかったのだ。
「ええ、でも私、あんまり最近の歌を知らないのよね」
真澄はあまり乗り気ではなかった。
「真澄さんは僕の両親と同じ年の生まれだよね。両親が若い頃の歌のCDをよく聴いていたから、自然と覚えてしまった歌がたくさんあるんだ、だから、一緒に歌ってみようよ」
「私、純さんみたいに上手に歌えるとは思わないけど」
真澄は相変わらず消極的だった。しかし、僕はそんな真澄の態度は無視してさっさと歌の準備を始めた。
「ああ、昔の歌を歌うならギターの方がいいね」
僕は三線ではなくフォークギターを取り出して、敷いたままになっていた座布団の上に腰を下ろし調弦を済ませた。
「真澄さん、こっちに座って」
僕は隣の座布団を指さした。真澄は渋々と僕の隣に腰を下ろした。
「この歌なら知ってるよね」
僕は真澄に返答の機会も与えないまま、両親の世代なら間違いなく知っている歌のイントロを弾き始めた。歌の部分に入ると真澄はきちんと僕に付き合ってくれた。
最初の気乗りしない様子がまるで嘘のように、いざ始めてみると真澄は実に楽しそうに歌った。一緒に歌うということは、僕たちが共にできる数少ないことの一つだった。真澄の歌声はとても美しく、僕は何度か自分だけ歌うのを止めて真澄の歌に聴き入ってしまった。
「純さん、私にだけ歌わせるなんてズルいよ」
僕はその度、真澄のお叱りを受けた。
それ以来、僕の作った歌や二人が共に知っている歌を一緒に歌うのが僕たちの毎日の楽しみになった。
八月二日(日)
朝起きてみると、真澄の体は、目を凝らさなければ後ろが見ない程に透明度が下がっていた。
八月三日(月)
「じゃあ、行ってくるね」
以前から予定していた通り、沖縄県八重山諸島の与那国島に旅立つ朝、背中に大きなリュックを背負い、三線のケースを持ち、僕はアパートの玄関に立った。
僕を見送る真澄の姿は、もはやほとんど普通と変わりなくなっていた。あえて言えば、どことなく存在感が薄い気がするという程度でしかなかった
「純さん、ちゃんと帰って来てね」
なぜか真澄が少し不安げな顔をしたような気がした。
「当たり前じゃないか、じゃあね」
「いってらっしゃい」
僕は見送られて部屋を出た。約四ヶ月ぶりの八重山行きだというのに僕の心はいまひとつ浮き立っていなかった。真澄をまた独りぼっちにして自分だけが旅に出てしまうのがなんとなく後ろめたかった。
与那国島に着くと、僕はレンタカーを借りて島を回り、午後遅く予約していた素泊まりの民宿にチェックインした。そこは島の西側、久部良の集落にある宿で、近くには「日本最西端の碑」や「日本最後の夕陽が見える丘」があった。
日が沈む頃、僕は「日本最後の夕陽が見える丘」に行ってみた。意外にも、そこには僕以外誰も来ていなかった。その日、与那国島の日没は十九時時三十一分。真澄のいる東京では四十五分も前に日が沈んでいるはずだった。
ふと僕は真澄のことを考えた。暗い部屋で電気もつけず、いや、つけることもできずに何を考えているのだろうかと思った。約三十年ぶりに得た話し相手を失った孤独の大きさは想像すらできなかった。今の時代、普通なら離れていても携帯はつながる。メールのやり取りもできるし、送られてきた旅の写真を見て楽しむこともできる。しかし、真澄にはそれさえもできないのだ。
日本最後の夕陽を見ながら、そんなことを考えている自分がなぜだか不思議に思えた。
宿の近くの居酒屋で夕食を取り、宿に戻ると僕はリビングルームで三線を弾くことにした。調弦をしていると十五人ほどの学生のグループが飲み会から帰ってきた。そのうちの一人が酔った勢いで僕に有名な沖縄のバンドの曲のリクエストをしてきた。快く応えてあげると彼らは一緒に歌いだし、リビングは一気に宴会モードになってしまった。
『オリジナル曲はないのか?』と尋ねられ、調子に乗った僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌ってしまった。どれも大きな拍手をもらった。単なる成り行きではなく本当に評価してもらえたのだと感じた。
目の前で彼らが僕の歌を評価してくれていてくれるのはすごくうれしく思えた。しかし、僕の心の中に一抹の寂しさがあった。それは聴衆の中に真澄がいないということだった。
八月四日(火)
その日、僕はダイビングに行った。与那国島のすぐ近くには通称「海底遺跡」と呼ばれる有名なダイビングスポットがあった。僕にとって与那国島への旅の主な目的は、まだ見たことがなかった「海底遺跡」を見ることだった。
「海底遺跡」は簡単に言えば、城の土台がすっかり海底に沈んでしまったようにも見える不思議な地形だった。どう見ても人が作ったとしか思えないような階段状、あるいはアーチ状の岩があったり、岩の表面に、これまた人が彫ったように見える模様があったりで、何かの遺跡ではないかと思われたのも不思議ではなかった。
ネット上の百科事典によれば「海底遺跡」は自然の造形であると科学的には結論付けられていると書いてあったが、人工であろうとなかろうと、とにかに「海底遺跡」は僕の心を魅了した。
「海底遺跡」を見るダイビングツアーは人気があり、しかも夏休みだというのに、なぜだか参加者は僕一人だった。そのせいもあるのか僕は孤独も感じていた。この光景を真澄にも見せてあげたかったと何度も思った。後で写真を見せることはできたが、やはり実物の持つ魅力が伝えられるとは到底思えなかった。
その夜、宿は静まり返っていた。昨夜のグループは、既に朝、帰途についていた。他にも客はいたのかもしれないが姿を見ることはなかった。ダイビングの疲れもあり三線を弾く気にもなれなかった。リビングに置いてあった無料の花酒を睡眠薬代わりにして、僕は早々に眠りについた。
八月五日(水)
旅の最終日、与那国空港で飛行機を待ちながら、僕は初めて感じる気分を味わっていた。いつもなら帰りたくないという気持ちになるところだった。
しかし、その時は、ここまで来てしまったからには早く帰りたいと思っていた。僕は早く真澄に会いたいと思っていた。旅で経験したことを話したかった。撮った写真を見せたかった。そんな気持ちになっている自分に、僕自身ひどく驚いていた。
「おかえりなさい」
アパート戻ると真澄が笑顔で僕を迎えてくれた。帰って来たのだと思った。
「ただいま」
幾度となく旅をしてきたが、家に帰ってほっとした気分になったのは初めてだった。
真澄の姿はもう完全に普通の人と同じに見えた。
僕は部屋に上がり、とりあえず荷物を降ろしてから改めて真澄の元に近づいた。僕は確かめてみたかった。
「あの、真澄さん、ちょっと手を出してくれないかな?」
僕は真澄の方に向けて自分の右の手のひらを胸の高さぐらいに挙げて見せた。真澄は僕の意志をくみ取ったのか左手の手のひらを挙げた。
「ちょっと触れてみてもいいかな?」
「うん」
真澄の答えは決して嬉しそうな様子ではなかった。
僕が真澄と合わせようとした手のひらはそのまま真澄の手のひらを通り越した。
「見え方は普通の人と変わらないのに、やっぱり触れることはできないんだね」
「そうみたいね」
真澄は初めからそうなることは分かっていたようだった。
「長旅で疲れたでしょう。シャワーでも浴びたら?」
真澄が気まずい雰囲気を破ろうとしたので僕もそれに乗ることにした。
シャワーを浴びながら僕は考えた。真澄は最初、声しか聞こえなかったし、姿が見えるようになっても後ろが透けて見えていた。僕は相変わらず真澄以外の幽霊の姿など一度も見たことがなかった。だから、考えてみると『弱い霊感しか持たない僕は、身近な存在にのみ反応する場合がある』という真澄の仮説は正しかったのだろうと思えてきた。真澄が日増しに『より身近な存在』になっていっていることはもはや疑いの余地がなかった
八月十五日(土)
与那国島から戻ってからの十日間、僕たちの日々は淡々と過ぎた。そして、僕の真澄への気持ちも日々その強さを増していった。
そして、僕はふと、翌日が真澄の誕生日だということを思いだした。プレゼントを贈り自分の気持ちを伝えようと思い、僕は買い物に出かけた。
八月十六日(日)
夜、二人で歌った後に、僕は真澄にプレゼントを渡すことにした。僕は並んで座っていた座布団から降り真澄の正面に回った。そしてポケットから箱を取り出した。
「誕生日おめでとう。安物で申し訳ないけど。僕からのプレゼントだよ」
僕は箱の中から真澄のために買ってきた指輪を取り出した。真澄の目が大きく見開かれた。
「左手の薬指を出してくれないかな?」
僕が頼むと真澄はゆっくりと僕の前に左手を差し出した。僕は真澄の薬指に指輪を通してみた。指輪が落ちないように手で持ったまま僕は尋ねた。
「真澄、ずっと僕の傍にいてくれるよね?」
「うん」
答えた真澄の目に堪えていた涙が溢れ出した。真澄が思わず両手で顔を覆った瞬間に信じられないことが起こった。指輪は僕の手から離れ、顔を覆った真澄の左手の薬指に収まっていた。
「え!」
真澄は驚いて顔から手を離すと、何度か手のひらの向きを変えて、自分の薬指にはまったまの指輪を何か不思議なものでも見るような目で見つめた。それから真澄は恐る恐る左手を伸ばして僕の頬に触れた。
「感じる。暖かい」
僕は右手で頬に当てられた真澄の手を包み込んだ。
「僕も感じるよ。暖かいね」
僕はそのぬくもりが何物にも代えがたいもののように思えた。
「私、幸せすぎて成仏しちゃいそう」
冗談めかして言った真澄の言葉を僕はすぐさま打ち消した。
「ダメだよ。真澄はずっと僕の傍にいてくれるって約束したじゃないか」
「そうね」
真澄はそうつぶやいて笑顔を僕に向けた。僕は両手で真澄の肩を引き寄せて思い切り抱きしめた。真澄の体の温もりを僕は全身で感じた。それは決して冷たい死者の体ではなかった。
第2章
八月十七日(月)
目が覚めると、真澄がキッチンに立っていた。フライパンで何かを焼く音が聞こえてきた。布団から起き上がって近づいてみると、真澄は目玉焼きを作っているところだった。
朝食が済むと、僕たちはとりあえず寝室に置かれたテレビの電源を入れその前に座った。テレビのニュースは夏休み中とあって、浦安の遊園地が朝から賑わっている様子を伝えていた。そのニュースを見ながら真澄は少しため息混じりに言った。
「私、ランドもシーも行ったことないのよね。出来る前に私・・・」
言いかけた言葉を真澄が飲み込んだ。僕は空気が澱まないようにくだらない対応をした。
「ランドやシーに行ったことない人なんていると思わなかったよ」
そう言った次の瞬間に僕は休日の過ごし方を思いついた。
「真澄、行こうよ。とりあえず、今日はランドに」
「え、これから?」
真澄はひどく驚いた声を上げた。
「うん、行ってみようよ」
「ええ、でも、暑いし、込んでるよ」
行ったことがないと嘆いていたくせに真澄は消極的だった。
「まあ、いいじゃないか。初めてだから、とりあえず雰囲気を味わうだけでも」
「行けるのはすごく嬉しいけど」
嬉しいという割には真澄は乗り気でないように見えたが、僕は強引にランド行きを決めてしまうことにした。
「じゃあ、ランド行き、決定だ」
僕はそう宣言すると着替えをして、通学用に使っているリュックの中にデジカメを入れた。ランドで真澄とデートができるなんて思いもしないことだったので、年甲斐も無く僕は少し興奮気味になった。
「じゃあ、出かけようか」
「うん」
僕が真澄の手を取って玄関を出ようとした直後、真澄とつないだ手に反対方向の強い力がかかるのを感じた。
「痛い」
真澄が悲鳴に近い声を上げてつないだ手を離した。そして、真澄はそのまま玄関にうずくまってしまった。僕には何が起こったのかまるで分からなかった。
真澄はうずくまり下を向いたまましばらく動けなかった。少しして、真澄は無理に搾り出したような声で僕に詫びた。
「ごめんね。私、やっぱり、この部屋からは出られないみたい。せっかくランドに誘ってくれたのに、一緒に行けなくて、ごめんね」
僕は真澄を傷つけないような言葉をどうにか探そうとした。
「気にしなくていいよ。部屋の中でも二人で楽しめることはいくらでもあるよ。うん、そうだな、とりあえずトランプでもやろうか」
「うん、トランプ良いね」
もちろん、本当に良いと思っているわけではないことは、泣きそうな真澄の声で分かった。
「じゃあ、寝室の方でやろうよ。さあ、立って」
僕は真澄に手を差し伸べた。僕の手を取った真澄の手は確かに暖かかったが、やはり真澄はこの世のものではないのだという現実を僕は思い知らされた。
昼食は僕が買い物に行き、真澄が冷やし中華を作った。
僕が買い物に行き、真澄が料理をする。その日から、そういう二人の生活スタイルが出来上がった。
八月十八日(火)
僕は隣町の電気屋でゲーム機を買ってきた。部屋から出られない真澄とでも、ゲームなら一緒に楽しむことができると思ったからだ。
八月十九日(水)
僕はテニスゲームで真澄にコテンパンに叩きのめされた。
八月二十日(木)
僕はレースゲームで真澄にぶっちぎられた。
八月二十一日(金)
夏休みも終わりに近づいた金曜日の夜、夕食の片付けをしている真澄に僕は声を掛けた。
「町内会の掲示板で見たんだけど、明日、近くの河原で花火大会があるんだね」
「うん、ベランダに続くガラス戸越しに花火がよく見えるのよ。このアパートの前の道も浴衣を着た人たちがたくさん通るの」
部屋からでも花火が見えるというのは悪いことには思えなかったが、真澄の返事のし方は楽しげではなかった。にもかかわらず、僕は尋ねてしまった
「近くなら、真澄も河原まで見に行ったことがあるの?」
「ないわ、私ね、花火大会って行ったことがないの。田舎にはなかったし、東京に出てからはお金もなかったし、一緒に行く人もいなかったから」
「そうなんだ」
僕は花火大会の話を持ち出したのを少し後悔した。しかし、真澄は話題を変えようとはせず花火大会の話を続けた。
「初めて東京に来た年の夏はね、ガラス戸越しに花火を見たの。奇麗だったわ。でも、次の年からはカーテンを引いて見ないようにしたの。イヤフォンで音楽を聴いて花火も音も聞かないようにしてね」
「どうしてそんなことしたの」
僕はまた余計なことを言ってしまったと思ったが既に遅かった。
「浴衣を着て恋人と花火大会に行ける女の子たちが羨ましかったからかな」
「そうか」
若い女の子らしい話だと一瞬思ったが、真澄が続けたのはそんな甘い話ではなかった。
「私、花火大会って嫌いなの。私が死んだのはね、花火大会の日だったの。みんな浴衣を着て幸せそうに花火大会に出かけて行くのに、どうして、自分だけがこんなに不幸なんだろうって思ったら・・・」
「真澄、もういいよ」
僕は真澄の言葉を遮った。
「ごめんなさい。こんな話を聞かせるつもりじゃなかったのに」
泣き出しそうな声だった。
「僕の方こそ、ごめんね、鈍感で。真澄に辛い話をさせてしまったね」
真澄は何も言わなかった。代わりにすすり泣く音が聞こえた。
花火大会にそんな悲しい思い出があるとは僕は想像すらしていなかった。だが、その後、僕はそれを聞いたことは決して悪いことではないことに気づいた。真澄の悲しい思い出を消してあげることはできないが、これから良い思い出を作ってあげることはできると思ったからだった。
八月二十二日(土)
午前十時過ぎ、僕はアパートを出て電車に乗り大きなデパートに出かけた。そこで、僕は慣れない買い物をした。店員さんに助けを乞いながらどうにか目当ての品々を買うことはできたが、買い物の間、不似合いな場所に自分がいることが恥ずかしくて仕方がなかった。
部屋に戻ったのは午後の三時頃だった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
キッチンにいた真澄は読みかけの本に栞を挟むと僕の方に近寄ってきた。
「あら、結構な荷物みたいだけど、何を買ってきたの?」
僕はデパートの紙袋から箱を取り出すとそれを真澄に手渡した。
「気に入ってもらえると良いんだけどな」
「何かしら?」
「開けてごらんよ」
真澄は箱をテーブルに置いて腰かけると、丁寧に包装紙を取り去っていった。そして、箱を開けた瞬間、目を大きく見開いた。
「これって浴衣よね?」
「ああ、浴衣を着て花火大会に行きたかったって言っていたじゃないか」
真澄が浴衣を見つめたまま何も言えないでいたので、僕は言葉をつないだ。
「実は僕の分の買って来たんだ。今日は、この部屋で花火大会をしようよ。夜店で焼きそばとかたこ焼きとか買ってきてさ」
少し時間が経ってから真澄はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう」
そう言った後、改めて浴衣を見つめた真澄の目からは涙がこぼれ始めていた。
夕方、僕は卓袱台代わりになりそうなものを探した。冬物のセーター等が入っていたプラスチックのケースをとりあえずベランダに続くガラス戸の前に置いた。そして、その後ろに座布団を二つ並べてから真澄に声を掛けた。
「じゃあ、食べ物を買いに行ってくるけど、何か食べたいものは有る?」
「何でも良いわ。ああ、そうだ。私、イカ焼きが食べてみたいな」
すっかり明るさを取り戻した真澄は興奮気味に返答した。
「うん、分かった。探してみるよ」
僕は立ち上がり、バッグを掴むとドアに向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
真澄の声に見送られてアパートを出ると、僕は自転車で花火大会が行われる川辺の方に向かった。その途中で、僕はたくさんの浴衣姿のカップルを追い越していった。川辺に腰を下ろして間近で花火が見られる彼らが僕は少し羨ましく思えた。
「お帰りなさい。」
買い物を済ませて帰宅した僕を迎えた真澄は既に浴衣に着替えていた。
「浴衣、どうかしら?」
真澄は少し恥ずかしそうに尋ねた。
「似合っているよ。とても奇麗だ」
「ありがとう。嬉しいわ。お世辞でも」
「お世辞なんかじゃないよ」
確かにそれはお世辞などではなかった。浴衣姿の真澄はオンボロアパートには似つかわしくない程に美しかった。
シャワーを浴びた後、僕は浴衣を着た。真澄はキッチンに立ち、僕が買ってきた食べ物を皿に移しラップを掛けていた。
「どうだろう。似合うかな?」
僕が声を掛けると真澄は振り向いて一瞬笑い出しそうな顔をした。
「うん、似合うわよ」
真澄の顔には嘘だと書いてあった。
「嘘だろう。本当はそう思ってないんだろう」
「ううん、本当にカッコ良いわよ」
そう言いながらも、真澄は今にも笑い出しそうだった。
「真澄は嘘が下手すぎるよ」
「あはは、バレたか。やっぱり純さんは英文科ってイメージだからなあ。でもね、一緒に浴衣着てくれたことは、私、本当に嬉しいの。それは絶対嘘じゃない」
真澄は真剣な目で僕を見た。確かにその言葉には嘘はないのだろうと思った。
部屋の外がすっかり暗くなり花火大会の開始の時間が迫った頃に、僕たちはガラス戸の前に用意した座布団に腰を下ろした。部屋の明かりはもう消してあり、卓袱台代わりのケースの上には既にビールも用意されていた。ガラス戸の向こうの夏の夜空を見ながら、僕たちは黙って花火が始まるのを待った。
しばらくして、最初の花火が空を染めた。そして、少し遅れて花火が弾ける音が僕たちの元に届いた。
「じゃあ、乾杯しようか」
「そうね」
僕はビールの缶を開け中身を真澄のグラスに注いだ。その後、真澄が僕のグラスにビールを注いでくれた。
「乾杯」
僕たちは声を揃えてグラスを合わせた。そして、二人とも一気に中身を飲み干した。
「旨い、こんな旨いビールは初めてだ」
僕がそう言うと真澄も同調した
「生きているうちは未成年だったから、飲んだことなかったけど、ビールって美味しいのね」
僕たちはすぐにビールを継ぎ足して、しばらく黙って、次々と打ち上がる花火に目を凝らした。花火を見つめる真澄は心底嬉しそうだった。
その後も次々と花火が打ち上がり夏の夜空を照らした。僕たちは買ってきたものを食べ、ビールを飲みながら、二人きりの花火大会を楽しんだ。その間、僕たちはほとんど口をきかなかった。ガラス戸の向こうに打ち上がる花火をただただ見ていた。光と音に彩られた時間は実に穏やかだった。
僕と真澄の暮らしはやはり普通とは言い難く、思うに任せない部分もあった。しかし、花火を見ている間はそういうことを全て忘れていた。二人並んで花火を見ているだけで僕はとても幸せな気分だった。
花火大会がフィナーレに近づいた頃には、ビールも食べものも全てなくなり、デザート代わりの綿菓子もなくなっていた。フィナーレのスターマイン、いわゆる一斉打ち上げの仕込みに時間が掛かっているのか、花火の打ち上げが途切れた時に少し寂し気に真澄がつぶやいた。
「もう夏も終わりだね」
「うん、まあ、そうだね」
そうは言ったものの、夏休みはまだたっぷりと残っていたので、夏が終わるという実感はまだ僕にはなかった。しかし、真澄は僕とは違っていた。
「夏の終わりって、なんか切ない気分にならない?」
真澄は妙に感傷的だった。
「そうだね、僕もそう思うよ」
僕は深い考えもなく真澄に同意した。
「日本には春も、秋も、冬もあるのに、どうして夏の終わりだけが切ないのかな?」
真澄はそれが究極の疑問であるかのようにつぶやいた。
「さあね、夏は開放感のある季節だからかだろうか?お盆や夏休みもあるけど、それが終わるとまた現実に戻らなければならないしね」
僕が並べたありふれた理屈は何一つ真澄の疑問に対する答えになっていないような気がした。
「私ね、夏の終わりがこんなに切なく思えたことがないの。今年の夏は良いことが色々あったせいかな?」
真澄はどこか遠くを見つめるような眼をして話を続けた。
「初めて純さんの歌を聴いた時、とても感動したわ。それと約三十年ぶりに人と話ができてとても嬉しかった」
「あの頃はまだ真澄の声が聞こえるだけだったね」
随分昔の話のような気もしたがほんの四週間前の出来事だった。
「あの頃は、私も、まだ生きている振りをしていたのよね」
真澄は後ろめたいものの言いようをした。
「でも、やっぱり一番感動したのは指輪をもらった時かな」
真澄は左手を顔の前に近づけると、手のひらを何度か裏表にしながらまじまじと指輪を見つめた。
「そんな安物でそこまで喜ばれると申し訳ない気分になるよ」
「ううん。大切なのは気持ちだから。どんなに高価な宝石でも気持ちがこもってなかったらただの石ころと一緒だから・・・なんてちょっとカッコつけすぎかな。売れば大金になるものね」
「そうだね」
真澄は左手を下げると右手の親指と人差し指で指輪に触れた。指輪が確かにそこにあることを感じていたいような仕草だった。僕がそんな真澄の姿を見つめていると、真澄は僕の肩に体を預けてきた。
次の瞬間、花火が空一面を覆いつくした。
「ねえ、純さん・・・」
真澄がか細い声で何か言いかけたが、その言葉は遅れてやって来た花火の轟音にかき消された。花火大会の終わりを告げる一斉打ち上げはしばらく続いた。空を埋め尽くす花火の群れを、僕はこの目に焼き付けておきたいと思った。真澄もきっと同じことを考えているよう気がした。
しかし、夜空を染める花火の光は束の間で、後に残ったのは都会でも見えるわずかばかりの星の光だけだった。
八月二十三日(日)
夕食の片付けが終わると、真澄は食卓の椅子に腰を下ろし神妙な顔で僕に言った。
「純さん、実は、お話があるんです」
その言葉を僕は前の晩から予期していた。最後の花火が上がる前に言いかけたことを言おうとしているのだと僕は確信していた。良い話ではないのだろうと僕は覚悟を決めて真澄の向かいに座った。僕を前にして真澄は一瞬ためらったように見えたが意を決したように話し始めた。
「純さん、私、もう長くは、ここにいられないみたいなの」
僕は激しく動揺した。だから、次の言葉は真澄を問い詰めるような口調になってしまった。
「それってどういうこと?」
「どうやら私、成仏してしまうみたいなの」
真澄は自分でもまだ確信を持ち切れていないようだった。
「成仏って?」
「私、地縛が解けて次の世界に旅立てるようになったみたいなの」
真澄の不確かなことを語る口調に変わりはなかった。
「どうして地縛が解けたの?」
「たぶん、純さんに出会ってこの世で幸せになれたからだと思う」
推測を語る真澄の表情は苦しそうでもあり、また、僕への感謝を伝えたいようにも見えた。
「留まることはできないの?」
「うん、無理みたい。」
真澄の表情が明らかに辛そうなものに変わった。
「どうしてそう思うの?」
どこか非難をしているような自分がひどく嫌になった。真澄は申し訳なさそうに理由を語った。
「実はね、昨日の夜に気づいたの。自分をここに縛っている力が薄れていることに。でも、同時に自分の体から力がなくなり始めたことにも気づいたの」
「昨日、言いかけたのはそのことだったんだ」
僕の悲しい予想は当たっていた。
「うん。でも昨日はとても良い夜だったから言い出せなかったの」
真澄がこの夏の思い出をあれこれと語り続けた理由が悲しいほどに良く分かった。
真澄は辛そうに話の続きを切り出した。
「純さん、私はたぶん来た道を戻って行くんだと思うの。もうすぐ触れ合うこともできなくなって、やがては姿も見えなくなって、最後は声も聞こえなくなってこの世から消えてゆくんだと思う」
やり切れない怒りが僕の口調を乱暴なものにした。
「どうして、どうして真澄がそんなひどい目に合わなければいけないんだ。真澄は何も悪いことなんかしていないじゃないか」
真澄は微かな笑みを浮かべると、僕の怒りを鎮めるように柔らかな答えを返した。
「純さん、それは違うわ。地縛霊が成仏できるってことはとても幸せなことなの。私は長い苦しみからやっと解放されて次の世界に旅立てるの。だから、ひどい目に合う訳じゃないのよ。私は幸せになるのよ」
「僕と別れることが真澄にとって幸せだってことなのか?」
言った直後、僕は自分を殴り倒したくなった。真澄は申し訳なさそうに次の言葉を紡いだ。
「違うわ。どうか、それとこれを一緒にしないで。私も、できることなら純さんとずっと一緒にいたい。でも、私の意志ではどうすることもできないの」
「本当にどうしようもないのか?」
まだそんな言葉を吐いている自分が惨めだったが僕は聞かずにはいられなかった。
「無理みたい。でも、皮肉なものね。純さんに出会って幸せになれたから、お別れしなければならないって」
僕が何も言えないでいると真澄は次の言葉をつないだ。
「でも、信じてね。私は本当に幸せなの。可哀そうだなんて思わないでね。純さんと出会った時、私はもう死んでたんだから。生きている人が亡くなることは不幸なことかもしれないけど、死んだ人間が成仏できることは幸せなことなのよ」
僕は真澄の顔が見られなくなった。俯いて何も言えずにいると真澄が優しい言葉を掛けてくれた。
「純さん、悲しまないで。私は今、とても幸せだから。それに、まだ少しだけど時間があるから。だから、旅立ちの時が来るまで今まで通り一緒にいてほしいの。少しずつ一緒にできることは減ってゆくと思うけどね。でも、まだ触れ合える。触れ合えなくなっても微笑み合える。姿が見えなくなっても歌は一緒に歌えるわ」
とてつもない無力感が僕を襲った。そして、それはそのまま言葉になった。
「真澄、僕は、これからどうすればいいんだ?僕は、これから君のために何をしてあげられるんだ?」
「何もしなくていいわ。ただ一緒にいてくれるだけでいいの。純さんには、もう十分に幸せにしてもらったわ。もうこれ以上、望むことは無いわ。でも、純さんが辛くても、この部屋から出てゆくことだけはしないで。私が旅立つまで私を一人にしないで。私の傍にいて。それが最後のお願いかな」
僕が何も言えず俯いたままでいると真澄が席を立つ音がした。その後、背中から僕を抱きしめる真澄の温もりを感じた。目に涙が滲んだ。
「ごめんね、純さん。私、普通の女じゃなくて」
その声を聞いて続く僕の言葉は涙交じりになった。
真澄はハンカチを出して僕の涙を拭った。
「純さん、どうか笑顔で見送ってくれないかな?ああ、ごめんね。最後のお願いがたくさんできちゃったね」
僕を抱きしめる真澄の力が強くなった。僕は頭の中が真っ白になって何も考えることができなくなった。
八月二十四日(月)
前日の夜、台風十五号は石垣島で観測史上最高の風速七十一メートルを記録していた。その影響かその日は東京も曇りで、気温は二十九度までしか上がらなかった。
夜、ゲームをしている時に僕は小さな異変に気が付いた。それまで、ゲームではいつも真澄が優勢だったが、その日、僕は次々と勝ちを重ねた。
「純さん、強くなったね」
真澄は苦笑いをした。
しかし、僕が強くなったわけではなかった。真澄が弱くなったのだ。コントローラーを操作する真澄の手つきがおぼつかなくなっていたのだ。真澄の手はもう素早くかつ細かい操作についていけなくなっていた。
それが僕たちがゲームをした最後になった。
その日は、もう一つ特筆すべきことがあった。
いつものようにガラス戸の前で座布団に腰を下ろして三線の調弦をしていると、真澄が妙なお願いをしてきた。
「純さん、もう一度私の指に指輪をつけてもらえないかな」
真澄はいつのまにか外していた指輪を収めたケースを僕に差し出した。
「いいよ」
箱を受け取りながら僕は笑顔で答えた。
「ありがとう」
そう言った真澄は誕生日の夜に思いを馳せているように見えた。
「じゃあ、左手を出して」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうに左手を差し出してきた。僕はケースから指輪を取り出した。あの日とは違い「振り」ではなかったので、ごく自然に指輪は真澄の左手の薬指に収まった。真澄は左手を顔の前に置いて、まず手のひら側から、それから手首を返して手の甲側から指輪を見つめた。その後、両の手のひらを右手を上にして重ねて胸に押し当てると、目を閉じてお祈りのようなことをした。僕はただ黙ってそんな真澄の様子を眺めていた。
真澄は大きく一つ深呼吸をすると瞼を開き、遠くを見るような眼をしてつぶやいた。
「よし、これでもう大丈夫」
何が大丈夫なのかは僕にはわからなかった。そんな僕の様子に気づいてか、真澄は遠慮でもしたかのように小さな声で僕に語り掛けた。
「純さん、ケースをくれるかな?」
「ああ」
僕は言われるままに真澄にケースを手渡した。真澄は薬指から指輪を抜くとそれをケースに収めた。蓋は開けたままだった。真澄は立ち上がると机の方に向かい、蓋が開いたままのケースを机の上に置いた。
「これで良いわ」
真澄はそう宣言すると戻ってきて座布団に腰を下ろした。
なぜ指輪を外したのか、僕は理由を聞きたそうな顔をしていたのだろう。真澄は自分からその理由を語り始めた。
「ゲームをしている時に純さんも気が付いたと思うけど、私の体、そろそろ限界みたい。私ね、純さんにもらった指輪が薬指からこぼれ落ちて床に転がるところを見たくなかったの。だから、そうなる前に外したの。指輪にきちんとお礼とお別れを言ってからね。あそこに置いてあるけど、私の気持ちとしては指輪はいつも薬指にあるのよ」
真澄の顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「それと、純さんにお願いがあるんだけど」
真澄の改まった口ぶりはお願いの大変さを予感させた。だから、僕は敢えて冗談めかした対応を取った。
「欲張りだな、お願いが多すぎないか?」
「そうね、でもこれで、たぶん本当に最後だから」
真澄の目が急に真剣な光を帯びた。僕は冗談めいた対応を取ったことを少し後悔した。
「冗談だよ。真澄のお願いならいくつでも聞いてあげるよ」
「気前がいいのね。そんなに大風呂敷を広げて後で後悔しても知らないわよ」
「後悔なんかしないよ。それで何をすればいいの?」
真澄はその後の僕の反応を予想してか、少しためらった後、静かにお願いの内容を語った。
「私がいなくなったら、あの指輪を純さんが一番好きな場所、竹富島のカイジ浜の砂の中に埋めてほしいの」
驚いた。嫌だと思った。聞けない願いだと思った。
「どうして、そんなことをしなければならないの?大切な思い出の品なのに」
興奮気味に話す僕を諭すように、真澄はお願いの理由を明らかにした。
「私はね、純さんには、別れた女との思い出の品をいつまでも持っているような人になって欲しくないの」
真澄の望みは分からなくはなかった。しかし、そうしたくはなかった。
「純さんには、私のことをきちんと思い出にして欲しいの。だから、カイジ浜に行った時だけ、私のこともちょっとだけ思い出してくれたら嬉しいな。それが私の本当に本当の最後のお願いかな」
「どうしても、そうしなければいけないの?」
したくなかった。だが、まだそんな質問をしている自分が弱虫の子供のような気がした。
真澄は僕の子供じみた抵抗を打ち砕くかのように、もっともな理屈で答えてきた。
「うん、私がもらったものだから、私の好きにする権利はあると思うな」
「そう言われると返す言葉がないけど」
僕がそう言うと、真澄はまるで小さな子供をあやす母親のように確認を求めてきた。
「じゃあ、私の最後のお願い、聞いてくれるよね?」
「ああ、わかった」
僕にはもうそう答えるしかなかった。
「じゃあ、約束ね」
真澄が小指を差し出してきた。僕は自分の小指を絡めて辛い約束をした。やがて失われるだろう温もりは、まだしっかりと真澄の小指から伝わってきていた。
八月二十五日(火)
その日、台風は熊本に上陸して大きな被害が出ていた。東京は曇りで最高気温は二十二度までしか上がらなかった。台風が連れ去る前に夏はもう早々に逃げてしまったかのようだった。
夕方帰宅すると、真澄は浴衣に着替えていた。
「どうしたの、浴衣なんか着て?」
僕が尋ねると真澄は照れ臭そうに笑った。
「うん、せっかく買ってもらったのに、まだ一度しか着ていないから、もったいない気がして」
「そうか、うん、良いよ。とても奇麗だ」
真澄の浴衣姿はやはり奇麗で僕の言葉はお世辞ではなく本音だった。
「ありがとう」
真澄はとても明るい笑顔で答えたが、つい先日着たばかりの浴衣をまた着ようと思った真澄の気持ちが何に由来するのか分らなかった。
僕がリュックを下ろして部屋着に着替えようとしていると、キッチンから真澄の声がした。
「純さんも浴衣になってね。この前の花火大会、とても楽しかったから。もう一度やろうと思って」
「花火が上がらないんだから、花火大会のしようがないじゃないか」
真澄の提案にはさすがに少し腰が引けた。
「まあ、そうだけど。浴衣着て、ちょっと気分だけでも味わいたいの」
正直僕は乗り気ではなかったが真澄の勢いに負けた。
「まあ、そういうことなら付き合うよ」
「ありがとう。それから、申し訳ないけど冷凍でもいいから、焼きそばとか、たこ焼きとか、夜店風のつまみになるものを買ってきてくれないかな?」
「いいよ」
そう答えてから、僕は買い物に出かけた。
アパートに戻ると、僕は押入れから前に使った冬物の洋服用のケースを取り出して前回同様にガラス戸の前に置いた。座布団も二枚並べた後で試しに腰を下ろしてみた。
ガラス戸の向こうには曇り空があるばかりで星の一つも見えなかった。これでは浴衣を着てみたところでとても花火大会の気分にはなりようがなかった。何か良い方法はないものかと思った時に名案が浮かんだ。
僕はケースと座布団を寝室のテレビの前に移動させた。そしてテレビにノートパソコンをつないだ。僕が思いついたことはどうやら思った通りうまくいきそうだった。準備が済んだのでとりあえず僕は電源を切り、夕食になる前にシャワーを浴びることにした。
僕はシャワーを浴びると浴衣に着替えた。それから、ケースの上にビール用のグラスを用意した後、キッチンにいる真澄に声を掛けた。
「こっちは用意できたよ」
「あれ、どうしてベランダの方じゃなくてそっちに席を作ったの?」
別の場所に席が設けられているのを見て真澄は少し怪訝そうな顔をした。
「せっかくだから、ヴァーチャル花火大会にしようと思ってさ」
「何それ?おばさんにもわかりやすいように言ってくれないかな?」
「まあ、すぐにわかるよ」
「そう。じゃあ、つまみを用意するね」
真澄は、僕がコンビニで買ってきた焼きそばをレンジにかけた。その間に僕は冷蔵庫からビールを二つ取り出してケースの上に並べた。それから、テレビとノートパソコンの電源を入れて座布団の上に腰を下ろした。
「はい、まずは焼きそばからね」
真澄は皿に移したやきそばを卓袱台代わりのケースの上に置いて僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、ヴァーチャル花火大会を始めようか」
「何が始まるのか楽しみね」
真澄はどこか楽しげだった。
僕は立ち上がると部屋の明かりを消した。ノートパソコンのデスクトップを映したテレビの画面がやけに明るく見えた。再び腰を下ろしてノートパソコンを操作してネットにつないだ。動画サイトで検索すると使える映像はいくらでもありそうだった。
「じゃあ、とりあえず両国からいってみようか」
僕は両国の花火大会の映像を選び再生ボタンを押した。すぐさまテレビ上では光と音のショーが始まった。真澄は夢見心地で画面に見入っていた。
「じゃあ、乾杯しようか」
僕がビールの缶を開けると真澄が自分のグラスを差し出した。僕はそこにビールを注いだ。続いて自分のグラスにもビールを注ぐとグラスを二人の間に掲げた。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
僕たちはグラスを合わせると、あの日と同じように一気に飲み干した。前回の乾杯の時、僕はえらく浮かれていた。しかし、今は楽しいのと同時に、寂しさもまた深くなっていた。こんな風に一緒にビールが飲める日がいったい後どれだけ続くのか、それを考えずにはいられなかった。でも、僕はそれを顔に出さないように努めた。たぶんそれは真澄も同じだったに違いなかった
僕たちはひたすら全国の花火大会の映像を見ながら、僕が買ってきた焼きそばやお好み焼きといった夜店メニューを楽しみ、ビールを飲み続けた。
その間、僕は何度も真澄の顔を横目に見ていた。明かりの消えた部屋で様々な色に照らされる真澄の顔が悲しいくらいに美しく見えた。
真澄がいなくなるなんて嘘であってほしい。真澄の勘違いであってほしい。僕はまだそんなことを願っていた。しかし、僕のそんな淡い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
ヴァーチャル花火大会が終わり、真澄が片付けをしている間に、僕はテレビの前でビールの最後の一缶と向き合っていた。飲み終わるのを待っていたかのように真澄が僕の隣に腰を下ろした。そして、無理やり絞り出したような声で妙な花火大会の趣旨を告げた。
「あのね、純さん。今日は私のためにヴァーチャル花火大会までしれくれてありがとう」
真澄は僕の言葉を待たずに次の言葉を続けた。
「私が今夜、浴衣を着たのは実はちょっと理由があったの。単刀直入に言うわね。私たちが触れ合えるのはたぶん今夜が最後になると思うの。だから、今夜は少しお洒落して見たかったの。それで、浴衣を着たの」
胸がつぶれそうな気がした。
「だからお願い。今夜は朝まで・・・」
僕は真澄を抱き寄せると言いかけた言葉を唇で塞いだ。切なかった。ただただ切なかった。明日の朝には消えてしまうだろう真澄の温もりがどうしようもないほど愛おしかった。
八月二十六日(水)
朝、目が覚めた瞬間、真澄がもういなくなっているのではないかという不安に駆られた。慌てて横を向くと真澄の顔がすぐそばにあった。真澄は横向きに寝て僕の寝顔をのぞき込んでいたようだった。
僕は左手を伸ばして真澄の頬に触れようとした。しかし、僕の左手は空を切った。真澄の姿はまだしっかりと見えるのに、僕はもう真澄に触れることができなくなっていた。
「ごめんね」
真澄は寂しそうに笑った。
「謝らなくていいよ。真澄のせいじゃないんだから」
真澄の目から涙が溢れやがて枕の上に落ちた。しかし、それが枕カバーを濡らすことはなかった。それを見た瞬間、僕の中で強がりの糸が切れた。
「真澄、僕も一緒に連れて行ってくれないかな?真澄なら僕を一緒に連れていけるんじゃないか?」
真澄はとても悲しそうな目で僕を見た。
「純さん、私にはそんな力はないわ。たとえあったとしても絶対にそんなことはしないわ」
「どうしてだよ?」
少し感情を荒げた僕の顔を見て、真澄の表情が更に悲しみの色を増した。
「そんなことをしたら、純さんにも、純さんのご両親に申し訳ないもの」
真澄は例えようもないほど美しい笑みを浮かべると、幼い子供に言って聞かせるように優しく僕に語り掛けた。
「純さんには純さんを必要としている人がたくさんいるでしょう。だから、純さんを一緒に連れていくことなんか絶対にできないわ」
真澄はもう触れることのできない僕の頬に手を当てた。真澄の手の温もり感じられなかったが真澄の思いは嫌というほど伝わってきた。
「ねえ、純さん。私と一緒に行きたいなんて言わないで。純さんがそんな風だったら、私、安心して成仏できないわ。私が安心して旅立てるように笑顔で見送ってくれないかな?」
僕を見つめる美しい真澄の姿もやがて見えなくなるのかと思ったら、残されることに耐えきれないような気がした。そして、すぐさま自分の弱さに嫌気がさした。笑顔で見送るという約束をしたはずだった。だが、自分にはそれができなかった。約束も守れず、僕より辛いはずの真澄に弱音を吐いてしまった自分が情けなかった。もう二度と泣くまいと思った。
「真澄、ごめん。馬鹿なことを言って」
「私の方こそ、ごめんね。もう涙も拭いてあげられないから、どうか笑顔でいてね」
真澄の言葉を聞きながら、まだ零れてくる涙を抑えきれない自分がとんでもない弱虫に見えた。
八月二十七日(木)
朝、部屋を出る時、僕を見送る真澄の姿に変化が見られた。輪郭が少し怪しくなり始めていた。帰宅した時には更に少し輪郭がぼやけていた。僕はそれに気づかないふりをした。真澄自身も自分の体の変化には気づいているのだろうが何事もなかったように振舞っていた。
八月二十八日(金)
朝、目が覚めると、真澄の輪郭は更に霞み、体を通して後ろの部屋の壁が見えるようになっていた。真澄の姿が見られるのも、もうあとわずかだと思わざるを得なかった。帰宅した時にはもう見えなくなっているのではないかという不安に襲われたが、僕はいつも通りに部屋を出てバイトに向かった。
夕方、帰宅すると、真澄の姿はまだ消えてはいなかった。しかし、その姿は更に透明度が増していた。真澄の姿が見えるのは今日限りだろうという気がした。だから僕は、いつもとは少し違うことをしてみることにした。少しでも長く真澄の姿を見続けるためにそうしようと思った。
いつも一緒に歌を歌う頃合いを見て、僕はガラス戸の前に並んでいた座布団の内のひとつを、反対側、つまりキッチンとの境に移動させた。ギターと三線の調弦を済ませてからキッチンにいた真澄に声を掛けた。
「真澄、今日はそっち側に座ってくれないかな?」
僕はキッチンの側の座布団を指さした。
「いいけど、どうして?」
僕は一呼吸おいて自分の思いを真澄に伝えた。
「今日はね、真澄に一人で歌ってほしいんだ。僕の声なんて混ぜずに、純粋に真澄の声だけを聴いていたいんだ」
真澄の姿をじっくりと目に焼き付けておきたいという、もう一つの目的は口にしなかった。
「分かったわ。こっちで一人で歌えばいいのね」
真澄はそれ以上何も口にせず素直に座布団に腰を下ろした。しかし、僕が口にしなかった意図には気づいていたに違いなかった。真澄の歌声に耳を澄ませるだけなら座布団の位置を移動する必要はなかったからだ。
真澄の姿は帰宅時よりも少し色褪せたように見えた。裏腹に背にしたキッチンの様子がより色濃く見えるようになっていた。
それから僕は真澄に沢山の歌を歌ってもらった。真澄と僕が知っている歌をとにかく片端からやってもらった。真澄が両親と同世代で、歌の好みも比較的に通っていたことも幸いした。
真澄が歌っている間、僕はずっと真澄のことを見つめていた。真澄も決して瞳をそらすことなく、まっすぐに僕を見つめ返していた。もうすぐ見つめあうことすらできなくなることを僕たちはしっかりと自覚していた。
僕は何度も泣きたくなるのを堪えて、ひたすら三線やギターを弾き続けた。それに合わせた真澄の歌声は、悲しいくらい美しく、透き通っていた。
その夜、明かりを消して、すっかり万年床が定着してしまった布団に横になった。すぐ傍に真澄の横顔があった。部屋の中に漏れてくる微かな街頭の光の中に、真澄の美しい横顔は今にも解けてしまいそうだった。
真澄の姿を見たのはそれが最後だった。
八月二十九日(土)
「おはよう」
目が覚めると、すぐ傍で真澄の声がした。しかし、僕にはもう真澄の姿は見えなかった。予想していた事態だったが、だからと言って悲しみが薄れるわけではなかった。
真澄自身がすでに承知していたのか、あるいは僕の様子から判断したのかはわからなかったが、真澄は既に僕の目に自分の姿が映っていないことに気が付いているような気がした。だが、真澄の態度はそれとは逆に明るかった。それは真澄なりの気遣いなのだと僕は思った。
「純さん、今日、明日はお休みだよね。だから、ずっと一緒にいられるよね?」
真澄の声は僕のすぐ耳元から聞こえてきた。だから、真澄はまだ僕の隣で寝転んでいるものだと思った。
「ああ」
僕は顔を横に向けて、そこにあると思われる真澄の顔に向かって笑顔で答えた。
夕方、僕がキッチンでコンビニ弁当を食べていると、正面から真澄の声が聞こえてきた。どうやら真澄は僕の正面に座っているようだった。
「純さん、今日は、純さんの歌をしっかりと聴かせてくれないかな?私、自分の声なんか混ぜないで純さんの歌が聞きたいの。いいよね?」
もう自分の姿は見えないのだから、とは真澄は言わなかった。昨夜とは逆のことをしようという真澄の気持ちはよく分かった。
「でも、それだと・・・」
言いかけた僕の言葉を真澄が遮った。
「心配しないで。純さんが歌っている間に黙って消えたりしないから。私、まだ、大丈夫だから」
「わかったよ」
その後、前夜と同じように座布団を置き、僕はガラス戸の方に腰を下ろした。
「準備ができたよ」
ギターと三線の調弦を済ませたところで僕は真澄に声を掛けた。
「はい、私、今、反対側の座布団の上に座りました。さあ、歌を聴かせて」
まだ大丈夫だと言った割には真澄の声は少し小さくなっているような気がした。
そして、僕は真澄の知っていそうな歌を、自分の好きな歌を、次々と歌った。真澄のリクエストにも可能な限り応えた。
真澄は歌が一つ終わる度に感想や歌にまつわる思い出などを饒舌に話した。自分はまだここにいると伝えたいのだと僕にはよく分かっていた。
「じゃあ、夜も遅くなってきたから今日はここまでにしよう」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうな声で答えた。
「ありがとう。純さんの歌、堪能させてもらったわ」
「真澄が喜んでくれて良かった。明日は、また一緒に歌おうね」
「そうね、そうしましょう」
真澄のその声を聞きながら、僕はその明日が本当に来るのか不安になった。真澄の声は僕が歌いだした時より更に小さくなっていたからだ。真澄の旅立ちがもうすぐそこまで迫っていることを僕は認めざるを得なかった。
八月三十日(日)
この日は、八月最後の日曜日だった。僕たちは再び、以前と同じように一緒に歌を歌った。真澄の声はかなり小さくなっていたので、ギターや三線の音も、僕が歌う声も、真澄に合わせて小さめにした。真澄と一緒に歌えるのもこれが最後かもしれないという気がした。
八月三十一日(月)
「おはよう。純さん」
目が覚めた時に聞いた真澄の声は、かすれていて聞き取りにくくなっていた。嫌でも真澄の旅立ちが間近に迫っていることがわかった。
こんな状態では僕が帰宅するまで真澄はこの部屋に留まっていることはできないかもしれないと不安になった。バイトを休もうかとさえ一瞬考えてしまった。しかし、そんなことを言えば真澄に叱られることはわかりきっていた。僕が帰宅するまで真澄がこの部屋に留まっていてくれることを祈るしかなかった。
「行ってらっしゃい」
僕を送りだした真澄の声はまるで消え入りそうにか細かった。
「行ってきます」
答えながら、僕はこれが最後の朝の挨拶になるのだろうと思った。僕は必死で笑顔を作りバイトに出かけた。
僕の留守中に真澄が旅立ってしまうかもしれないという不安が頭から離れず、バイトに集中するのが難しかった。加えて、昨夜は真澄を失う不安もあり、ろくに寝ていなかったので度々睡魔も襲ってきた。
そんな状態で何度も時計を見ながら、僕は早く終了時間にならないものかと思った。しかし、時間はそんな時に限ってゆっくりとしか進まないものだった。
終了時間が間近に迫った頃、ついに僕は一瞬、眠りに落ちそうになった。その刹那、僕は真澄の心の叫びを聞いた。
「お願い、早く帰ってきて」
終了時間が来た途端に、僕はリュックを掴むと自転車置き場へと駆け出した。雨が降っていたが雨合羽を着る心の余裕などなかった。アパートに向けて必死に自転車を漕ぐ僕には雨の冷たさなどまるで感じられなかった。
自転車を漕ぎながら、僕の頭の中では真澄に贈る歌が一気に形を作り始めていた。いや、本当はその歌はきちんとした形をなしていなかっただけで、既にほとんど出来上がっていたのだ。ただ、僕はそれをきちんとした形にしようとしていなかっただけなのだ。その歌を歌ってしまったら真澄は旅立ってしまうに違いない。心のどこかで僕はそれを確信していた。だから完成させたくなかったのだ。
しかし、もはやそんなことは言っていられなかった。残された時間がもうほとんどないことを真澄が教えてくれた。手遅れになる前に僕はその歌を真澄に贈らなければならなかった。それが、僕が真澄にしてあげられる最後のことだったからだ。
「ただいま」
僕は慌ただしく部屋のドアを開けた。
「おかえりなさい。どうしたの・・そんなに・・濡れて?早く・・・シャワーを浴びて・・・着替えた方が良いわ」
真澄の声は玄関のすぐ近くで聞こえたが、まるで隣の部屋から聞こえてくるように弱弱しかった。途切れがちな話し方からは苦しそうな様子がうかがえた。真澄は今、必死にこの部屋にしがみついているに違いなかった。少しでも気を抜けば真澄は次の世界へと旅立ってしまうのだろう。そして多分、真澄は最後の力を振り絞って僕の帰りを待っていたのだ。
「ごめん。待たせたね」
僕はリュックをテーブルの上に置くと、キッチンとの境に置いたままになっていた座布団を指さした。
「真澄、ここに座ってくれないか?」
「うん・・・いいよ」
今にも消え入りそうな声だった。少しすると、移動を終えた真澄の声が聞こえた。
「純さん・・座ったよ」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
僕はケースから三線を取り出すとガラス戸の前の座布団に腰を下ろした。いつもならすぐにできる調弦に手間取った。僕は焦っていた。一つ深呼吸をして気持ちを落ち着けてから再び調弦に取り掛かった。どうにかうまくいった。
「真澄、君に聴いて欲しい歌があるんだ。君のために、君のためだけに作った歌なんだ。できたばかりで上手く歌えないかもしれないけど聴いてくれるかな」
「もちろんよ・・・私のために・・・作ってくれたなんて・・・すごく嬉しいな。じゃあ・・・聴かせて。」
僕は三線を構えてイントロを弾き始めた。気持ちが揺れて指の動きが重いような気がした。しかし、歌の部分が近づいたところで覚悟が決まった。短いこの歌に全てを込めようと思った。真澄と出会えたことに対する感謝を、共に過ごした日々の喜びを、旅立つ真澄の幸せを祈る気持ちを、そして、叶うあてのない希望を。
座布団の上に真澄の姿は見えなかったが、僕をまっすぐに見つめているのがわかるような気がした。僕は見えない真澄の視線から目を逸らさないようにまっすぐに前を向いて歌い始めた。
こんなにも小さな部屋で
君と共に過ごした
二度と巡ることのない
夏が終わろうとしてる
できるならずっとこのまま
君といたかったけど
旅立つ君の背中を
せめて笑顔で見送ろう
これから君が旅立つその先には
幸せが必ず待っているから
互いに顔も見れず
声も聞けなくても
心だけは繋がってる
たとえ二人、遠く離れても
いつか互いを忘れる時が来ても
共に過ごしてきた日々は消えない
今はそれぞれ別の
道を行くとしても
僕らはまた巡り会える
たとえ何度生まれ変わっても
「どうだった?」
歌い終えると僕は真澄に尋ねた。しかし、返事は返ってこなかった。
「ねえ、真澄、感想を聞かせてよ」
言いながら僕は一気に不安になった。
「真澄、答えてよ」
僕はまだ認めたくなかった。
「真澄、黙ってないで、なんとか言えよ!」
叫んだ僕の言葉は古いアパートの一室に虚しく響くだけだった。
真澄がいつ旅立ったのか、僕にはわからなかった。僕の歌は真澄に届いたのか、もはやそれは知る由もなかった。涙が止めどなく溢れてきた。僕はそれを流れるままにしておいた。笑顔で見送るなんて歌っておきながら無様な姿だった。やはり自分の書く歌詞はただの作りごとに過ぎないのかと思った。
夏休み最後の日、八月とは思えないほど冷たい雨の降る夜、僕たちの夏は終わった。
エピローグ
九月十九日(土)
シルバーウィークの五連休の初日、僕は竹富島の民宿の自転車にまたがりカイジ浜を目指していた。背負ったリュックには三線のケースが、短パンの右ポケットには指輪の箱が納まっていた。
九月に入ってから東京では晴れの日がほとんどなく残暑すら感じられなかった。しかし、竹富は今も真夏だ。強い日差しはじりじりと手足を焼き、リュックの下では、かりゆしウェアに汗が滲んでいった。
路面の凹凸を避けて進み、目的地にたどり着いた。木陰の自転車置き場に自転車を止めて歩き始めた。短い緑のトンネルの向こう、今日も海が綺麗だ。坂を下り浜に出た。真っ白な砂を踏みしめ、僕は木陰の流木に向かった。
流木にたどり着き腰を下ろした。東京と違い、真夏でもここは暑さも湿気も感じられず快適だ。僕は目の前にシートを敷き、その上に置いたケースから三線を出して糸を巻いた。右のポケットからは指輪の箱を取り出した。箱を開け中身を海の方に向けると右ポケットのすぐ脇に置いた。
大きくひとつ息をついて、僕は、まず自分が初めて作った歌である「幻の夏」を歌った。それは、この場所で思いついた歌でもあり、僕が真澄と出会うきっかけになった歌でもあった。それから僕は自分が作った歌や真澄と歌った歌を次々と歌った。それぞれの歌を歌う度に、あの部屋で真澄と過ごした日々が頭を掠めていった。何もかもが今は幻のようだ。
歌いきった時、ため息がこぼれた。だから、約束通りに真澄に贈った指輪を埋めてしまうことには未だに抵抗があった。だが、約束は約束だった。真澄の言う通り、僕は真澄のことを思い出にして大人になってゆくしかないのだ。そう覚悟した時、次の歌を歌い指輪を埋める決心がついた。
再び大きく息をついて、僕は最後の歌を歌い始めた。真澄が旅立った日に僕が贈ったあの歌だった。あの夜、僕の歌を真澄が聴いてくれたのかどうか、今もって僕は知らない。ならば、せめて歌が空に届くようにと、僕は精いっぱいの思いを込めて歌った。歌が空の上まで届いたかどうかも、もちろん知る術はなかった。歌い終わった僕は、目を閉じて、また、ため息をついた。
すると、左から女性の声がした。
「良い歌ですね」
いつの間にそこに立っていたのか、まるで気がつかなかった。年齢は僕と同じくらいに見えた。長い髪をした奇麗な人だったが見覚えはなかった。
「今の歌、歌手は誰ですか?」
一瞬、返答をためらったが素直に応えることにした。
「恥ずかしながら、僕のオリジナルです。今まで誰にも聴かせたことなかったんですが・・・」
僕の言葉を聞いて彼女は少し首をひねった。
「ええ?不思議ですね。私、今のあなたの歌、ずっと昔に聴いたことがあるような気がするんですが」
その言葉を聞いた瞬間、たとえようのない嬉しさが体の底から湧き出してきた。
『聴いていてくれたのだ』。真澄は旅立つ前に僕の歌をちゃんと聴いていてくれたのだ。その時、僕は何の疑いもなく目の前の彼女が真澄の生まれ変わりだと信じた。あの世とこの世の時間は、過去と未来がねじれて繋がることがあるに違いない。きっとそうだと思った。
僕が目を閉じて、溢れてくる思いに身を任せているのに気付いたのか、彼女は遠慮がちに頼んできた。
「あの、他にもあなたが作った歌があったら聴かせてくれませんか?」
聴かせない理由などあるわけがなかった。聴いて欲しいのはむしろ僕の方だった。
「喜んで。良かったら、こちらに座りませんか?」
そう言って僕は自分の右側を示すと、慌てて指輪の箱を閉じてそれを右のポケットにねじ込んだ。もう埋める必要はなかった。指輪は既に帰るべき場所をみつけていた。
「失礼します」
そう断ってから彼女は僕の前を通り過ぎて僕の右側に座った。僕は彼女の顔を見られなかった。こみ上げてくる思いが強すぎたからだ。
僕は改めて糸を巻き直した。西表島の向こうには、島を押しつぶしそうな入道雲が居座っていた。強い日差しを浴びた海は、エメラルドグリーンを基調とした鮮やかなグラデーションを描いていた。木陰に吹き込んでくる風は外の暑さが信じられないほどの涼しさを運んできて、彼女の日焼け止めのものと思われる甘い香りが僕の鼻をくすぐった。『申し遅れましたが』、と断ってから名乗った彼女の名前は美しい音楽のように僕の耳に響いた。何もかもが決して幻ではなかった。
僕たちの夏はまだ終わってはいなかった。
終
七月二十五日(土)
確かにそこは幽霊の出そうなアパートだった。築四十年。トイレと風呂が付いているのが不思議なくらいだった。ドアを開けるとそこは小さなキッチンで、その向こうに畳敷きの寝室が一つあるという間取りだった。玄関から見ると正面に、寝室からベランダに続くガラス戸があった。
僕の部屋は二階の角部屋で、真下も隣も空き室だった。このご時世にこんなオンボロアパートに住みたいと思う人は少ないのだろうと容易に想像がついた。
そんな場所に僕が住み始めたのは、急に引越しが決まり選択の余地がなかったからだ。両親が突然、家を売って父の実家に移住すると言い出して、僕は無理やり追い出されることになったのだ。
僕が住むことになったそのアパートは駅からは遠かったが、大学へは歩いて十分だから通学には便利だった。大学三年になる来年の春には、もっとましなアパートを見つけて引っ越すこともできるだろう。だから、それまでの仮住まいだと思うことにした。
夏休みに入って最初の土曜日、僕はそのアパートに引っ越してきた。荷物の片づけがあらかた終わると既に夜になっていた。
少し気分転換でもしようと思い、僕は三線を弾くことにした。まず、ガラス戸の前に座布団を敷いた。僕はケースから三線を取り出すと座布団に腰を下ろした。その上で三線の糸を巻いた。
三線は三味線とよく似た沖縄の楽器で、三味線よりも少し小柄だ。猫ではなくニシキ蛇の皮が張られているので、かつては蛇皮線とも言われていた。
僕が三線を弾くようになってから、既に三年半の時が経っていた。きっかけは沖縄県八重山諸島への旅だった。その時、僕はまだ高校一年生だった。その旅での出来事を元に僕は歌を作った。僕が作った最初の歌だった。
調弦を済ませた後、僕は前奏に続いて、僕は「幻の夏」と名付けたその歌を歌い始めた。不思議な出来事が起こったのは歌のエンディングまで三線を弾き終えた時だった。
「良い歌ですね」
間近で若い女性の声がした。僕は驚いて回りを見回したが、一人暮らしの自分のアパートに女性の姿などあるはずがなかった。
「君、誰なの?」
僕は驚いて見えない相手に尋ねた。
「え、私の声、聞こえたんですか?」
姿の見えない声の主はむしろ僕以上に驚いているようだった。
「ごめんなさい、済みません。失礼します」
声の主はひどく慌ててどこかに去ってしまったようだった。
夏休み最初の土曜日、不思議な声を聞いたその夜、僕たちの夏が始まった。
第1章
七月二十六日(日)
夏休み最初の日曜日も僕は部屋の片づけに追われた。前の晩の女の声は多少気にはなっていた。女の声はかなりはっきりと聞こえたような気がしたが、ほぼ一日中部屋にいても一向に女の声は聞こえてこなかったので、夕方にはやはり気のせいだったのかと思い始めていた。
女が声を掛けてきたのは、僕が早めの夕食を近所のラーメン屋で済ませて、前の晩と同じようにガラス戸の前に腰を下ろして三線を構えた時だった。
「すみません。昨夜は驚かせて御免なさい」
申し訳なさそうな声だった。
前の晩の声が幻聴ではなかったことがはっきりした。尋常ではない出来事に少々驚いたものの僕は丁寧に相手に問い返した。
「あの、もしかして、昨日の夜に声を掛けてきた方ですか?」
「はい、申し訳ありません。脅かすつもりはなかったのです。まさか私の声が聞こえると思わなかったし、歌がとても素敵だったので、つい声を掛けてしまいました」
「そうでしたか」
言った時点で、僕は恐怖を感じることもなく事態をすっかり冷静に受け止めていた。それはたぶん、声の主に邪悪さが感じられなかったことと、前の晩に僕の歌を褒めてくれたことが原因だったのだろう。しかし、やはり相手の正体は気になった。
「僕には、あなたの声は聞こえるけれど姿は見えない。あなたは幽霊なんですか?」
「いいえ、あなたと同じ生きた人間です。幽霊でも、妖怪でも、宇宙人でもありません。今、私たちは不思議な状況に置かれているので不審に思われるのは分かりますが、信じてください」
女の言葉には嘘は無いような気がした。
僕は質問を続けた。
「僕にはあなたの声しか聞こえないけど、あなたの方はどうなんですか?僕の顔とか部屋の様子とか見えるんですか?」
「私にはあなたの顔も部屋の様子も見えています」
「それはちょっと不公平ですね。今、あなたはどこにいるんですか?」
「え、あの、それは、同じ、同じ町内にあるアパートにいます」
女は少し動揺しているようにも感じられ、その言葉には嘘があるような気もした。話題を逸らそうとしたのか、今度は女が質問をしてきた。
「あの、昨夜の歌の歌詞にあった竹富はどこにあるのですか?やはり沖縄ですか?」
「沖縄ですよ。歌に出てくるカイジ浜は僕が一番好きな場所です。あの歌は実は僕が初めて作った歌なんです」
「すごいですね。プロのシンガーソングライターなんですか?」
女があまりにも驚くので僕は返答するのが少し恥ずかしくなった。
「まさか。単なる趣味です。僕はただの大学生ですよ」
「そうですか。どんな学科の生徒さんなんですか?」
「英語英文学科の二年生です」
「英語なんてカッコいいですね」
女が僕のありふれた学科にさえ感心してくれるので、僕はますます恥ずかしくなった。女は何か考えたようで少し間を置いてから問いを発した。
「じゃあ、年齢は二十くらいですか?」
「はい、二十です」
言った後、僕は少し躊躇したが思い切って相手の年齢を聞いてみることにした。
「あの、本来なら女性に年齢を尋ねるのは失礼だと思っています。でも、僕にはあなたの姿が見えないので口の聞き方に少し困っています。あなたは何歳ですか?」
「あ、えーと。その、私は」
女がすぐに答えなかったのは単に恥ずかしかったからと言うだけではないような気がした。
それはさておき、僕はまだ自分たち二人が相手の名前さえ聞いていないことに気づいた。僕は先に自分の名前を名乗ることにした。
「すみません。順番が違っていました。まだ、お互いの名前も知りませんでしたね。僕の名前は山崎純、純は純粋の純です」
「私は玉木真澄、十九歳です。苗字は『王』に点のついた方の『玉』で、『木』は『木曜日』の『木』です。『真澄』は真実の『真』と澄みきった空の『澄』です。近くの工場で働いています」
先ほど言い淀んでいたのが嘘のように女は自分の名前や年齢まで素直に教えてくれた。不思議なもので、相手の素性が少し分かっただけで女のことが少し身近に感じられるようになった。
「真澄さん、僕たちはあまり年齢も変わらないようだから、敬語は止めて気楽に話しませんか?」
「そうね、そうしましょう。ああ、私、今日はこれで失礼します。また、歌を聴かせてくださいね。それじゃあ」
一方的に言ったきり真澄の声は途絶えた。
七月二十七日(月)
バイトを終え帰宅すると、僕はまた昨夜と同じようガラス戸の前に腰を下ろした。三線のケースも目の前に用意はしたが、中身は取り出さずに真澄が声を掛けてくるのを待った。きっと、また真澄が声を掛けてくるに違いないと僕は思っていた。
「こんばんは、純さん」
真澄は僕の予想、いや期待を裏切らなかった。
「こんばんは、真澄さん」
姿の見えない相手と話すのはやはり少し勝手が違った。視線のやり場に少々迷った。
早々に歌のリクエストをしてきた。
「今日は、また純さんの歌、聴かせてもらえるかな?」
「ああ、喜んで」
社交辞令ではなく本音だった。僕は本当に真澄に聴いて欲しいと思っていたのだ。
その日に真澄に聴いてもらった歌は「鳩間島巡礼」という歌だった。八重山の諸島の一つ鳩間島で思いついた歌だった。
鳩間島の灯台は島の中央の高台に建っているのだが、僕はその灯台の下で、一人の若い男性を見かけた。その男性は胸に誰かの遺骨を抱えていた。僕はその遺骨が彼の奥さんのものだと勝手な想像して歌を作った。
「鳩間島巡礼」を聴いた真澄は、異常なまでに歌に感情移入をしたようだった。
「純さん、私、この女の人が羨ましい。生きている間だけでなく、死んだ後までこんなに愛してもらえるなんて」
歌詞は絵空事に過ぎないと前置きをしたにもかかわらず、真澄は泣いているようだった。
「私なんて、私なんて」
そう言ったきり、真澄の声はもう聞こえてはこなかった。
七月二十八日(火)
その夜、僕と真澄の関係は劇的な変化をとげることになった。
夕食を外で済ませ、鍵を開けてアパートの自室に入った途端に僕の背筋に寒気が走った。寝室に見知らぬ女性が立っていた。彼女はもう少しで肩に届くかという短い髪をした美しい女性だった。年齢はまだ二十歳そこそこといったところに見えた。しかし、彼女がこの世のものでないことは一目で分かった。彼女の体は輪郭が無いに等しく、その体を通して後ろの部屋の壁が透けて見えていた。
僕は玄関で立ち尽くしたまま、どうにか冷静さを失うまいと必死になった。とりあえず、一つ深呼吸をして、それから口を開いた。
「君は、一体、誰なの?」
僕の狼狽えた様子を見て彼女は申し訳なさそうに答えた。
「純さん、私の姿が見えちゃったのね」
真澄の声のようだった。
「もしかして、真澄さん?」
僕は半信半疑だった。
「そうです、ごめんなさい。私、嘘をついていました。でも、どうか信じて。私、純さんを怖がらせたくなかったの。だから、普通の人間だって嘘をついたの、どうか、それだけは信じて」
真澄の言葉には切実な思いが感じられた。その言葉を聞いて僕の背中にあった寒気は波が引くように消えていった。
「信じるよ」
僕がそう言うと真澄は少し安心したように自分の正体を語った。
「私、幽霊なの。より正確には地縛霊という奴。成仏もできず、この部屋に縛りつけられたままどこにも行けないの」
「なるほど、そういうことだったのか」
僕が納得すると真澄は更に謝罪の言葉を口にした。
「本当に、ごめんなさい。純さんの歌が素敵だったので思わず声をかけちゃったの。まさか聞こえるとは思わなかったから」
僕は何だか真澄が可哀そうになった。
「そのことはもう謝らなくてもいいよ。ああ、立ち話もなんだから、そっちに座ってよ」
僕はキッチンにあるテーブルを指差した。
「失礼します」
真澄は宙を浮いているかのような足取りで移動して、椅子を引くこともないまま、気づけば椅子に腰掛けていた。僕は靴を脱ぎ真澄の向かい側に座った。
「真澄さん、よかったら、身の上話を聞かせてくれないかな。どうしてこの部屋の地縛霊になってしまったのかという、そのいきさつを」
少し酷な気もしたが知りたいという思いが勝った。
「うん、全部隠さずに話すわ。私にはその義務があると思うの。でも、どこから話したらいいのかな?」
真澄が話の進め方に少し困ったようだったので、僕はとりあえず彼女の誕生日や出身地を聞いてみることにした。
「まずは、真澄さんの生年月日を教えてくれないかな?」
「生年月日は昭和三十七年、西暦で言うと一九六二年八月十六日です」
ちょうど両親と同じ年の生まれだったので、真澄は生きていれば四十七歳だとすぐに分かった。しかし真澄の姿も話しぶりも両親とはおよそ異なり、二十歳そこそこにしか思えなかった。
「それじゃあ、何があったか全部話すわね」
そう断って話し出した真澄の話は悲惨極まりないものだった。ものすごく簡単に要約してしまうと、こういうことだった。
地方の恵まれない家庭で育った真澄は、中学卒業と共に東京に来て就職したが、務めていた会社が倒産してしまった。かつて会社の寮だったこのアパートからも立ち退きを迫られたが、貯金もなく、実家に帰ることもできない真澄は絶望し、このアパートで自ら命を絶った。まだ十九歳の若さだった。
正に不幸を絵に描いたような真澄の境遇に僕はしばらく声が出なかった。
「辛い人生だったんだね」
気分が沈み月並みな言葉しか出てこなかった。しかし、その後の真澄の言葉は更に僕を暗い水底へと突き落とした。
「うん、でも、死んだ後も辛かった。気がつくと私は成仏もできず、この部屋に縛りつけられていたの。私が死んでから、色々な人がこの部屋で暮らし始めて、そして、去って行ったわ。でも、誰一人として、私がここにいることに気がつかなかった。死んでから約三十年間、私は本当に孤独だった。純さんが、ここに来るまでは」
誰にも気づいてもらえず、ひたすら孤独に耐えるだけの約三十年間。しかもその辛い日々には終わるあてなどまるでなかったのだ。どれだけ辛かったのだろうか?想像もつかなかった。
しかしやがて、一つの疑問が浮かんだ。僕はすぐさまそれを真澄に向けた。
「ねえ、どうして、今まで誰も君に気づかなかったのに僕だけが気づいたのかな?」
真澄はうつ向きがちだった顔を上げて僕の方を見た。それから自信なさげに自らの考えを口にした。
「純さんには、たぶん霊感があるのよ」
「そうかな、僕は今までに君以外の幽霊を見たことは一度もないけど」
「純さんの霊感はきっと弱い物なのよ。どんな霊でも見られるわけではなくて、何かの拍子に身近な存在にだけ反応する場合があるんじゃないかな?」
「なるほどね」
真澄は同じ部屋にいて、僕の作った歌を気に入ったので反応した。そう考えれば、真澄の考えには納得がいかなくもなかった。
「辛い話をさせて御免ね」
僕が謝ると真澄は小さく首を横に振った。
「いいえ、謝らなければいけないのは私の方よ。私、純さんが出て行くまで屋根裏にでもいますから」
いかにも申し訳なさそうな口ぶりで真澄は更に続けた。
「私がここから出ていけたらいいんだけど」
それきり真澄は俯いて黙り込んでしまった。それから僕が次の言葉を発するまで少し気まずい沈黙が続いた。
「どうして僕が出て行くことになるの?」
沈黙を破って出てきた僕の言葉はひどく真澄を驚かせたようだった。跳ね返るように顔を上げた真澄はまっすぐに僕の方を見た。
「だって、純さん、幽霊のいる部屋でなんか暮らしたくないでしょう」
つい視線を逸らしてしまったが、僕は真澄の言葉自体は否定した。
「いや、僕は出てゆくつもりはないよ。僕は気にならないよ、真澄さんがここにいても」
僕が視線を逸らしてしまったのは、自分の言葉には少々嘘があったからだった。幽霊と共に暮らすなんて、全く何の迷いも無く出来るものではなかった。でも、真澄を見捨てて一人で逃げ出すのはあまりにも可愛そうな気がした。
「そんな。純さんの好意に甘えることなんて出来ないわ」
「いいんじゃないかな、甘えても。君は十九歳。まだ未成年だ。一応、僕はもう成人してるからね」
「でも」
真澄は泣きそうな顔をしていた。
「別に真澄さんといると僕が呪われる訳でもないんでしょう。今までここに住んでいた人たちがそういう目にあったことがあるの?」
真澄は大きく左右に首を振った。
「無いわ。近くに大学が出来てからは、ほとんどが学生さんだったけど、みんな元気に旅立っていったわ」
そういう不安がまるで無かったわけではなかったので僕は少し安心した。
「じゃあ、問題は無い訳だ」
「だけど」
「真澄さんがどうしても僕に出て行ってほしいなら、無理にとは言わないけど」
僕は少しずるい言い方をした。
「そんなことないよ。私、純さんの歌、もっと聞きたい」
暗かった真澄の目が生者の輝きを取り戻したように見えた。
「じゃあ、決まりだね」
「すみません、よろしくお願いします」
真澄は目いっぱい低く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね」
こうして、生きている僕と幽霊の真澄の奇妙な同居生活が始まった。
七月二十九日(水)
「おかえりなさい」
夜、食事を済ませ部屋に戻ると僕は真澄の言葉に迎えられた。キッチンに立つ真澄の姿には朧げながら輪郭が現れ、体の透明度も下がっているような気がした。
僕がリュックを寝室の机の上に置くと、早速、真澄がリクエストをしてきた。
「ねえ、純さんの歌を聴かせて」
「ああ、いいよ」
僕はガラス戸の前に二つ座布団を並べてから三線をケースから取り出し腰を下ろした。
「真澄さんはこっちに座って」
僕は自分の右側の座布団を示した。
「うん」
真澄はやはり宙を歩くような足取りで移動すると僕の隣に腰を下ろした。
その後、僕はそれまでに作った歌を次々と真澄に歌って聞かせた。その中には島そのものの歌とは言えないが八重山を舞台にした歌、その他諸々が含まれていた。
真澄は「じゃあ、次をお願い」と言うだけで、感想を感口にすることなく、ただただ僕に歌うことを求めた。
七月三十日(木)
帰宅時、アパートのドアを開けると、「おかえりなさい」という真澄の声が聞こえた。「ただいま」と答えながら僕は靴を脱いだ。
真澄の体は、未だに後ろが透けて見える状態だったが、輪郭は前日に比べるとはっきりしてきていた。
七月三十一日(金)
バイトから帰ると、真澄の姿はかなり輪郭がはっきりとしていて、後ろの壁も微かに透けて見える程度になっていた。
八月一日(土)
「おはよう、純さん」
僕が目を覚ますと、真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に腰を下ろして僕の方を見ていた。
「おはよう、真澄さん」
僕は開いたばかりの目をこすりながら真澄の方を見て少し驚いた。真澄の体は輪郭がほぼ完全に整っていた。透明度もかなり落ちて、気をつけて見なければ背後が透けて見えることは分からない程だった。
「土日はアルバイトもお休みだって言ってたよね?」
真澄に言われて初めて僕はその日が土曜日だと気づいた。
「うん」
「じゃあ、歌を聴かせてもらう時間がたっぷりあるね」
真澄はすでに意欲満々だった。起きたばかりの僕はまだ頭が少々ぼやけていたというのに。
僕が朝食を済ませコーヒーを飲んでいると、真澄はすぐにでも歌を聴きたいという顔をしていた。しかし僕は真澄の期待を裏切るような別の提案をした。
「真澄さん、今日と明日はバイトも休みで十分時間があるから、少し別のことをしてみたいんだ」
「へえ、何をするの?」
「気晴らしに一緒に歌を歌わないか。聴いてもらってばかりじゃ申し訳ないし」
そうは言ったものの、それは半分嘘だった。真澄と一緒に歌ってみたいというのは嘘ではなかったが、本音を言えば僕は真澄の歌が聴いてみたかったのだ。
「ええ、でも私、あんまり最近の歌を知らないのよね」
真澄はあまり乗り気ではなかった。
「真澄さんは僕の両親と同じ年の生まれだよね。両親が若い頃の歌のCDをよく聴いていたから、自然と覚えてしまった歌がたくさんあるんだ、だから、一緒に歌ってみようよ」
「私、純さんみたいに上手に歌えるとは思わないけど」
真澄は相変わらず消極的だった。しかし、僕はそんな真澄の態度は無視してさっさと歌の準備を始めた。
「ああ、昔の歌を歌うならギターの方がいいね」
僕は三線ではなくフォークギターを取り出して、敷いたままになっていた座布団の上に腰を下ろし調弦を済ませた。
「真澄さん、こっちに座って」
僕は隣の座布団を指さした。真澄は渋々と僕の隣に腰を下ろした。
「この歌なら知ってるよね」
僕は真澄に返答の機会も与えないまま、両親の世代なら間違いなく知っている歌のイントロを弾き始めた。歌の部分に入ると真澄はきちんと僕に付き合ってくれた。
最初の気乗りしない様子がまるで嘘のように、いざ始めてみると真澄は実に楽しそうに歌った。一緒に歌うということは、僕たちが共にできる数少ないことの一つだった。真澄の歌声はとても美しく、僕は何度か自分だけ歌うのを止めて真澄の歌に聴き入ってしまった。
「純さん、私にだけ歌わせるなんてズルいよ」
僕はその度、真澄のお叱りを受けた。
それ以来、僕の作った歌や二人が共に知っている歌を一緒に歌うのが僕たちの毎日の楽しみになった。
八月二日(日)
朝起きてみると、真澄の体は、目を凝らさなければ後ろが見ない程に透明度が下がっていた。
八月三日(月)
「じゃあ、行ってくるね」
以前から予定していた通り、沖縄県八重山諸島の与那国島に旅立つ朝、背中に大きなリュックを背負い、三線のケースを持ち、僕はアパートの玄関に立った。
僕を見送る真澄の姿は、もはやほとんど普通と変わりなくなっていた。あえて言えば、どことなく存在感が薄い気がするという程度でしかなかった
「純さん、ちゃんと帰って来てね」
なぜか真澄が少し不安げな顔をしたような気がした。
「当たり前じゃないか、じゃあね」
「いってらっしゃい」
僕は見送られて部屋を出た。約四ヶ月ぶりの八重山行きだというのに僕の心はいまひとつ浮き立っていなかった。真澄をまた独りぼっちにして自分だけが旅に出てしまうのがなんとなく後ろめたかった。
与那国島に着くと、僕はレンタカーを借りて島を回り、午後遅く予約していた素泊まりの民宿にチェックインした。そこは島の西側、久部良の集落にある宿で、近くには「日本最西端の碑」や「日本最後の夕陽が見える丘」があった。
日が沈む頃、僕は「日本最後の夕陽が見える丘」に行ってみた。意外にも、そこには僕以外誰も来ていなかった。その日、与那国島の日没は十九時時三十一分。真澄のいる東京では四十五分も前に日が沈んでいるはずだった。
ふと僕は真澄のことを考えた。暗い部屋で電気もつけず、いや、つけることもできずに何を考えているのだろうかと思った。約三十年ぶりに得た話し相手を失った孤独の大きさは想像すらできなかった。今の時代、普通なら離れていても携帯はつながる。メールのやり取りもできるし、送られてきた旅の写真を見て楽しむこともできる。しかし、真澄にはそれさえもできないのだ。
日本最後の夕陽を見ながら、そんなことを考えている自分がなぜだか不思議に思えた。
宿の近くの居酒屋で夕食を取り、宿に戻ると僕はリビングルームで三線を弾くことにした。調弦をしていると十五人ほどの学生のグループが飲み会から帰ってきた。そのうちの一人が酔った勢いで僕に有名な沖縄のバンドの曲のリクエストをしてきた。快く応えてあげると彼らは一緒に歌いだし、リビングは一気に宴会モードになってしまった。
『オリジナル曲はないのか?』と尋ねられ、調子に乗った僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌ってしまった。どれも大きな拍手をもらった。単なる成り行きではなく本当に評価してもらえたのだと感じた。
目の前で彼らが僕の歌を評価してくれていてくれるのはすごくうれしく思えた。しかし、僕の心の中に一抹の寂しさがあった。それは聴衆の中に真澄がいないということだった。
八月四日(火)
その日、僕はダイビングに行った。与那国島のすぐ近くには通称「海底遺跡」と呼ばれる有名なダイビングスポットがあった。僕にとって与那国島への旅の主な目的は、まだ見たことがなかった「海底遺跡」を見ることだった。
「海底遺跡」は簡単に言えば、城の土台がすっかり海底に沈んでしまったようにも見える不思議な地形だった。どう見ても人が作ったとしか思えないような階段状、あるいはアーチ状の岩があったり、岩の表面に、これまた人が彫ったように見える模様があったりで、何かの遺跡ではないかと思われたのも不思議ではなかった。
ネット上の百科事典によれば「海底遺跡」は自然の造形であると科学的には結論付けられていると書いてあったが、人工であろうとなかろうと、とにかに「海底遺跡」は僕の心を魅了した。
「海底遺跡」を見るダイビングツアーは人気があり、しかも夏休みだというのに、なぜだか参加者は僕一人だった。そのせいもあるのか僕は孤独も感じていた。この光景を真澄にも見せてあげたかったと何度も思った。後で写真を見せることはできたが、やはり実物の持つ魅力が伝えられるとは到底思えなかった。
その夜、宿は静まり返っていた。昨夜のグループは、既に朝、帰途についていた。他にも客はいたのかもしれないが姿を見ることはなかった。ダイビングの疲れもあり三線を弾く気にもなれなかった。リビングに置いてあった無料の花酒を睡眠薬代わりにして、僕は早々に眠りについた。
八月五日(水)
旅の最終日、与那国空港で飛行機を待ちながら、僕は初めて感じる気分を味わっていた。いつもなら帰りたくないという気持ちになるところだった。
しかし、その時は、ここまで来てしまったからには早く帰りたいと思っていた。僕は早く真澄に会いたいと思っていた。旅で経験したことを話したかった。撮った写真を見せたかった。そんな気持ちになっている自分に、僕自身ひどく驚いていた。
「おかえりなさい」
アパート戻ると真澄が笑顔で僕を迎えてくれた。帰って来たのだと思った。
「ただいま」
幾度となく旅をしてきたが、家に帰ってほっとした気分になったのは初めてだった。
真澄の姿はもう完全に普通の人と同じに見えた。
僕は部屋に上がり、とりあえず荷物を降ろしてから改めて真澄の元に近づいた。僕は確かめてみたかった。
「あの、真澄さん、ちょっと手を出してくれないかな?」
僕は真澄の方に向けて自分の右の手のひらを胸の高さぐらいに挙げて見せた。真澄は僕の意志をくみ取ったのか左手の手のひらを挙げた。
「ちょっと触れてみてもいいかな?」
「うん」
真澄の答えは決して嬉しそうな様子ではなかった。
僕が真澄と合わせようとした手のひらはそのまま真澄の手のひらを通り越した。
「見え方は普通の人と変わらないのに、やっぱり触れることはできないんだね」
「そうみたいね」
真澄は初めからそうなることは分かっていたようだった。
「長旅で疲れたでしょう。シャワーでも浴びたら?」
真澄が気まずい雰囲気を破ろうとしたので僕もそれに乗ることにした。
シャワーを浴びながら僕は考えた。真澄は最初、声しか聞こえなかったし、姿が見えるようになっても後ろが透けて見えていた。僕は相変わらず真澄以外の幽霊の姿など一度も見たことがなかった。だから、考えてみると『弱い霊感しか持たない僕は、身近な存在にのみ反応する場合がある』という真澄の仮説は正しかったのだろうと思えてきた。真澄が日増しに『より身近な存在』になっていっていることはもはや疑いの余地がなかった
八月十五日(土)
与那国島から戻ってからの十日間、僕たちの日々は淡々と過ぎた。そして、僕の真澄への気持ちも日々その強さを増していった。
そして、僕はふと、翌日が真澄の誕生日だということを思いだした。プレゼントを贈り自分の気持ちを伝えようと思い、僕は買い物に出かけた。
八月十六日(日)
夜、二人で歌った後に、僕は真澄にプレゼントを渡すことにした。僕は並んで座っていた座布団から降り真澄の正面に回った。そしてポケットから箱を取り出した。
「誕生日おめでとう。安物で申し訳ないけど。僕からのプレゼントだよ」
僕は箱の中から真澄のために買ってきた指輪を取り出した。真澄の目が大きく見開かれた。
「左手の薬指を出してくれないかな?」
僕が頼むと真澄はゆっくりと僕の前に左手を差し出した。僕は真澄の薬指に指輪を通してみた。指輪が落ちないように手で持ったまま僕は尋ねた。
「真澄、ずっと僕の傍にいてくれるよね?」
「うん」
答えた真澄の目に堪えていた涙が溢れ出した。真澄が思わず両手で顔を覆った瞬間に信じられないことが起こった。指輪は僕の手から離れ、顔を覆った真澄の左手の薬指に収まっていた。
「え!」
真澄は驚いて顔から手を離すと、何度か手のひらの向きを変えて、自分の薬指にはまったまの指輪を何か不思議なものでも見るような目で見つめた。それから真澄は恐る恐る左手を伸ばして僕の頬に触れた。
「感じる。暖かい」
僕は右手で頬に当てられた真澄の手を包み込んだ。
「僕も感じるよ。暖かいね」
僕はそのぬくもりが何物にも代えがたいもののように思えた。
「私、幸せすぎて成仏しちゃいそう」
冗談めかして言った真澄の言葉を僕はすぐさま打ち消した。
「ダメだよ。真澄はずっと僕の傍にいてくれるって約束したじゃないか」
「そうね」
真澄はそうつぶやいて笑顔を僕に向けた。僕は両手で真澄の肩を引き寄せて思い切り抱きしめた。真澄の体の温もりを僕は全身で感じた。それは決して冷たい死者の体ではなかった。
第2章
八月十七日(月)
目が覚めると、真澄がキッチンに立っていた。フライパンで何かを焼く音が聞こえてきた。布団から起き上がって近づいてみると、真澄は目玉焼きを作っているところだった。
朝食が済むと、僕たちはとりあえず寝室に置かれたテレビの電源を入れその前に座った。テレビのニュースは夏休み中とあって、浦安の遊園地が朝から賑わっている様子を伝えていた。そのニュースを見ながら真澄は少しため息混じりに言った。
「私、ランドもシーも行ったことないのよね。出来る前に私・・・」
言いかけた言葉を真澄が飲み込んだ。僕は空気が澱まないようにくだらない対応をした。
「ランドやシーに行ったことない人なんていると思わなかったよ」
そう言った次の瞬間に僕は休日の過ごし方を思いついた。
「真澄、行こうよ。とりあえず、今日はランドに」
「え、これから?」
真澄はひどく驚いた声を上げた。
「うん、行ってみようよ」
「ええ、でも、暑いし、込んでるよ」
行ったことがないと嘆いていたくせに真澄は消極的だった。
「まあ、いいじゃないか。初めてだから、とりあえず雰囲気を味わうだけでも」
「行けるのはすごく嬉しいけど」
嬉しいという割には真澄は乗り気でないように見えたが、僕は強引にランド行きを決めてしまうことにした。
「じゃあ、ランド行き、決定だ」
僕はそう宣言すると着替えをして、通学用に使っているリュックの中にデジカメを入れた。ランドで真澄とデートができるなんて思いもしないことだったので、年甲斐も無く僕は少し興奮気味になった。
「じゃあ、出かけようか」
「うん」
僕が真澄の手を取って玄関を出ようとした直後、真澄とつないだ手に反対方向の強い力がかかるのを感じた。
「痛い」
真澄が悲鳴に近い声を上げてつないだ手を離した。そして、真澄はそのまま玄関にうずくまってしまった。僕には何が起こったのかまるで分からなかった。
真澄はうずくまり下を向いたまましばらく動けなかった。少しして、真澄は無理に搾り出したような声で僕に詫びた。
「ごめんね。私、やっぱり、この部屋からは出られないみたい。せっかくランドに誘ってくれたのに、一緒に行けなくて、ごめんね」
僕は真澄を傷つけないような言葉をどうにか探そうとした。
「気にしなくていいよ。部屋の中でも二人で楽しめることはいくらでもあるよ。うん、そうだな、とりあえずトランプでもやろうか」
「うん、トランプ良いね」
もちろん、本当に良いと思っているわけではないことは、泣きそうな真澄の声で分かった。
「じゃあ、寝室の方でやろうよ。さあ、立って」
僕は真澄に手を差し伸べた。僕の手を取った真澄の手は確かに暖かかったが、やはり真澄はこの世のものではないのだという現実を僕は思い知らされた。
昼食は僕が買い物に行き、真澄が冷やし中華を作った。
僕が買い物に行き、真澄が料理をする。その日から、そういう二人の生活スタイルが出来上がった。
八月十八日(火)
僕は隣町の電気屋でゲーム機を買ってきた。部屋から出られない真澄とでも、ゲームなら一緒に楽しむことができると思ったからだ。
八月十九日(水)
僕はテニスゲームで真澄にコテンパンに叩きのめされた。
八月二十日(木)
僕はレースゲームで真澄にぶっちぎられた。
八月二十一日(金)
夏休みも終わりに近づいた金曜日の夜、夕食の片付けをしている真澄に僕は声を掛けた。
「町内会の掲示板で見たんだけど、明日、近くの河原で花火大会があるんだね」
「うん、ベランダに続くガラス戸越しに花火がよく見えるのよ。このアパートの前の道も浴衣を着た人たちがたくさん通るの」
部屋からでも花火が見えるというのは悪いことには思えなかったが、真澄の返事のし方は楽しげではなかった。にもかかわらず、僕は尋ねてしまった
「近くなら、真澄も河原まで見に行ったことがあるの?」
「ないわ、私ね、花火大会って行ったことがないの。田舎にはなかったし、東京に出てからはお金もなかったし、一緒に行く人もいなかったから」
「そうなんだ」
僕は花火大会の話を持ち出したのを少し後悔した。しかし、真澄は話題を変えようとはせず花火大会の話を続けた。
「初めて東京に来た年の夏はね、ガラス戸越しに花火を見たの。奇麗だったわ。でも、次の年からはカーテンを引いて見ないようにしたの。イヤフォンで音楽を聴いて花火も音も聞かないようにしてね」
「どうしてそんなことしたの」
僕はまた余計なことを言ってしまったと思ったが既に遅かった。
「浴衣を着て恋人と花火大会に行ける女の子たちが羨ましかったからかな」
「そうか」
若い女の子らしい話だと一瞬思ったが、真澄が続けたのはそんな甘い話ではなかった。
「私、花火大会って嫌いなの。私が死んだのはね、花火大会の日だったの。みんな浴衣を着て幸せそうに花火大会に出かけて行くのに、どうして、自分だけがこんなに不幸なんだろうって思ったら・・・」
「真澄、もういいよ」
僕は真澄の言葉を遮った。
「ごめんなさい。こんな話を聞かせるつもりじゃなかったのに」
泣き出しそうな声だった。
「僕の方こそ、ごめんね、鈍感で。真澄に辛い話をさせてしまったね」
真澄は何も言わなかった。代わりにすすり泣く音が聞こえた。
花火大会にそんな悲しい思い出があるとは僕は想像すらしていなかった。だが、その後、僕はそれを聞いたことは決して悪いことではないことに気づいた。真澄の悲しい思い出を消してあげることはできないが、これから良い思い出を作ってあげることはできると思ったからだった。
八月二十二日(土)
午前十時過ぎ、僕はアパートを出て電車に乗り大きなデパートに出かけた。そこで、僕は慣れない買い物をした。店員さんに助けを乞いながらどうにか目当ての品々を買うことはできたが、買い物の間、不似合いな場所に自分がいることが恥ずかしくて仕方がなかった。
部屋に戻ったのは午後の三時頃だった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
キッチンにいた真澄は読みかけの本に栞を挟むと僕の方に近寄ってきた。
「あら、結構な荷物みたいだけど、何を買ってきたの?」
僕はデパートの紙袋から箱を取り出すとそれを真澄に手渡した。
「気に入ってもらえると良いんだけどな」
「何かしら?」
「開けてごらんよ」
真澄は箱をテーブルに置いて腰かけると、丁寧に包装紙を取り去っていった。そして、箱を開けた瞬間、目を大きく見開いた。
「これって浴衣よね?」
「ああ、浴衣を着て花火大会に行きたかったって言っていたじゃないか」
真澄が浴衣を見つめたまま何も言えないでいたので、僕は言葉をつないだ。
「実は僕の分の買って来たんだ。今日は、この部屋で花火大会をしようよ。夜店で焼きそばとかたこ焼きとか買ってきてさ」
少し時間が経ってから真澄はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう」
そう言った後、改めて浴衣を見つめた真澄の目からは涙がこぼれ始めていた。
夕方、僕は卓袱台代わりになりそうなものを探した。冬物のセーター等が入っていたプラスチックのケースをとりあえずベランダに続くガラス戸の前に置いた。そして、その後ろに座布団を二つ並べてから真澄に声を掛けた。
「じゃあ、食べ物を買いに行ってくるけど、何か食べたいものは有る?」
「何でも良いわ。ああ、そうだ。私、イカ焼きが食べてみたいな」
すっかり明るさを取り戻した真澄は興奮気味に返答した。
「うん、分かった。探してみるよ」
僕は立ち上がり、バッグを掴むとドアに向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
真澄の声に見送られてアパートを出ると、僕は自転車で花火大会が行われる川辺の方に向かった。その途中で、僕はたくさんの浴衣姿のカップルを追い越していった。川辺に腰を下ろして間近で花火が見られる彼らが僕は少し羨ましく思えた。
「お帰りなさい。」
買い物を済ませて帰宅した僕を迎えた真澄は既に浴衣に着替えていた。
「浴衣、どうかしら?」
真澄は少し恥ずかしそうに尋ねた。
「似合っているよ。とても奇麗だ」
「ありがとう。嬉しいわ。お世辞でも」
「お世辞なんかじゃないよ」
確かにそれはお世辞などではなかった。浴衣姿の真澄はオンボロアパートには似つかわしくない程に美しかった。
シャワーを浴びた後、僕は浴衣を着た。真澄はキッチンに立ち、僕が買ってきた食べ物を皿に移しラップを掛けていた。
「どうだろう。似合うかな?」
僕が声を掛けると真澄は振り向いて一瞬笑い出しそうな顔をした。
「うん、似合うわよ」
真澄の顔には嘘だと書いてあった。
「嘘だろう。本当はそう思ってないんだろう」
「ううん、本当にカッコ良いわよ」
そう言いながらも、真澄は今にも笑い出しそうだった。
「真澄は嘘が下手すぎるよ」
「あはは、バレたか。やっぱり純さんは英文科ってイメージだからなあ。でもね、一緒に浴衣着てくれたことは、私、本当に嬉しいの。それは絶対嘘じゃない」
真澄は真剣な目で僕を見た。確かにその言葉には嘘はないのだろうと思った。
部屋の外がすっかり暗くなり花火大会の開始の時間が迫った頃に、僕たちはガラス戸の前に用意した座布団に腰を下ろした。部屋の明かりはもう消してあり、卓袱台代わりのケースの上には既にビールも用意されていた。ガラス戸の向こうの夏の夜空を見ながら、僕たちは黙って花火が始まるのを待った。
しばらくして、最初の花火が空を染めた。そして、少し遅れて花火が弾ける音が僕たちの元に届いた。
「じゃあ、乾杯しようか」
「そうね」
僕はビールの缶を開け中身を真澄のグラスに注いだ。その後、真澄が僕のグラスにビールを注いでくれた。
「乾杯」
僕たちは声を揃えてグラスを合わせた。そして、二人とも一気に中身を飲み干した。
「旨い、こんな旨いビールは初めてだ」
僕がそう言うと真澄も同調した
「生きているうちは未成年だったから、飲んだことなかったけど、ビールって美味しいのね」
僕たちはすぐにビールを継ぎ足して、しばらく黙って、次々と打ち上がる花火に目を凝らした。花火を見つめる真澄は心底嬉しそうだった。
その後も次々と花火が打ち上がり夏の夜空を照らした。僕たちは買ってきたものを食べ、ビールを飲みながら、二人きりの花火大会を楽しんだ。その間、僕たちはほとんど口をきかなかった。ガラス戸の向こうに打ち上がる花火をただただ見ていた。光と音に彩られた時間は実に穏やかだった。
僕と真澄の暮らしはやはり普通とは言い難く、思うに任せない部分もあった。しかし、花火を見ている間はそういうことを全て忘れていた。二人並んで花火を見ているだけで僕はとても幸せな気分だった。
花火大会がフィナーレに近づいた頃には、ビールも食べものも全てなくなり、デザート代わりの綿菓子もなくなっていた。フィナーレのスターマイン、いわゆる一斉打ち上げの仕込みに時間が掛かっているのか、花火の打ち上げが途切れた時に少し寂し気に真澄がつぶやいた。
「もう夏も終わりだね」
「うん、まあ、そうだね」
そうは言ったものの、夏休みはまだたっぷりと残っていたので、夏が終わるという実感はまだ僕にはなかった。しかし、真澄は僕とは違っていた。
「夏の終わりって、なんか切ない気分にならない?」
真澄は妙に感傷的だった。
「そうだね、僕もそう思うよ」
僕は深い考えもなく真澄に同意した。
「日本には春も、秋も、冬もあるのに、どうして夏の終わりだけが切ないのかな?」
真澄はそれが究極の疑問であるかのようにつぶやいた。
「さあね、夏は開放感のある季節だからかだろうか?お盆や夏休みもあるけど、それが終わるとまた現実に戻らなければならないしね」
僕が並べたありふれた理屈は何一つ真澄の疑問に対する答えになっていないような気がした。
「私ね、夏の終わりがこんなに切なく思えたことがないの。今年の夏は良いことが色々あったせいかな?」
真澄はどこか遠くを見つめるような眼をして話を続けた。
「初めて純さんの歌を聴いた時、とても感動したわ。それと約三十年ぶりに人と話ができてとても嬉しかった」
「あの頃はまだ真澄の声が聞こえるだけだったね」
随分昔の話のような気もしたがほんの四週間前の出来事だった。
「あの頃は、私も、まだ生きている振りをしていたのよね」
真澄は後ろめたいものの言いようをした。
「でも、やっぱり一番感動したのは指輪をもらった時かな」
真澄は左手を顔の前に近づけると、手のひらを何度か裏表にしながらまじまじと指輪を見つめた。
「そんな安物でそこまで喜ばれると申し訳ない気分になるよ」
「ううん。大切なのは気持ちだから。どんなに高価な宝石でも気持ちがこもってなかったらただの石ころと一緒だから・・・なんてちょっとカッコつけすぎかな。売れば大金になるものね」
「そうだね」
真澄は左手を下げると右手の親指と人差し指で指輪に触れた。指輪が確かにそこにあることを感じていたいような仕草だった。僕がそんな真澄の姿を見つめていると、真澄は僕の肩に体を預けてきた。
次の瞬間、花火が空一面を覆いつくした。
「ねえ、純さん・・・」
真澄がか細い声で何か言いかけたが、その言葉は遅れてやって来た花火の轟音にかき消された。花火大会の終わりを告げる一斉打ち上げはしばらく続いた。空を埋め尽くす花火の群れを、僕はこの目に焼き付けておきたいと思った。真澄もきっと同じことを考えているよう気がした。
しかし、夜空を染める花火の光は束の間で、後に残ったのは都会でも見えるわずかばかりの星の光だけだった。
八月二十三日(日)
夕食の片付けが終わると、真澄は食卓の椅子に腰を下ろし神妙な顔で僕に言った。
「純さん、実は、お話があるんです」
その言葉を僕は前の晩から予期していた。最後の花火が上がる前に言いかけたことを言おうとしているのだと僕は確信していた。良い話ではないのだろうと僕は覚悟を決めて真澄の向かいに座った。僕を前にして真澄は一瞬ためらったように見えたが意を決したように話し始めた。
「純さん、私、もう長くは、ここにいられないみたいなの」
僕は激しく動揺した。だから、次の言葉は真澄を問い詰めるような口調になってしまった。
「それってどういうこと?」
「どうやら私、成仏してしまうみたいなの」
真澄は自分でもまだ確信を持ち切れていないようだった。
「成仏って?」
「私、地縛が解けて次の世界に旅立てるようになったみたいなの」
真澄の不確かなことを語る口調に変わりはなかった。
「どうして地縛が解けたの?」
「たぶん、純さんに出会ってこの世で幸せになれたからだと思う」
推測を語る真澄の表情は苦しそうでもあり、また、僕への感謝を伝えたいようにも見えた。
「留まることはできないの?」
「うん、無理みたい。」
真澄の表情が明らかに辛そうなものに変わった。
「どうしてそう思うの?」
どこか非難をしているような自分がひどく嫌になった。真澄は申し訳なさそうに理由を語った。
「実はね、昨日の夜に気づいたの。自分をここに縛っている力が薄れていることに。でも、同時に自分の体から力がなくなり始めたことにも気づいたの」
「昨日、言いかけたのはそのことだったんだ」
僕の悲しい予想は当たっていた。
「うん。でも昨日はとても良い夜だったから言い出せなかったの」
真澄がこの夏の思い出をあれこれと語り続けた理由が悲しいほどに良く分かった。
真澄は辛そうに話の続きを切り出した。
「純さん、私はたぶん来た道を戻って行くんだと思うの。もうすぐ触れ合うこともできなくなって、やがては姿も見えなくなって、最後は声も聞こえなくなってこの世から消えてゆくんだと思う」
やり切れない怒りが僕の口調を乱暴なものにした。
「どうして、どうして真澄がそんなひどい目に合わなければいけないんだ。真澄は何も悪いことなんかしていないじゃないか」
真澄は微かな笑みを浮かべると、僕の怒りを鎮めるように柔らかな答えを返した。
「純さん、それは違うわ。地縛霊が成仏できるってことはとても幸せなことなの。私は長い苦しみからやっと解放されて次の世界に旅立てるの。だから、ひどい目に合う訳じゃないのよ。私は幸せになるのよ」
「僕と別れることが真澄にとって幸せだってことなのか?」
言った直後、僕は自分を殴り倒したくなった。真澄は申し訳なさそうに次の言葉を紡いだ。
「違うわ。どうか、それとこれを一緒にしないで。私も、できることなら純さんとずっと一緒にいたい。でも、私の意志ではどうすることもできないの」
「本当にどうしようもないのか?」
まだそんな言葉を吐いている自分が惨めだったが僕は聞かずにはいられなかった。
「無理みたい。でも、皮肉なものね。純さんに出会って幸せになれたから、お別れしなければならないって」
僕が何も言えないでいると真澄は次の言葉をつないだ。
「でも、信じてね。私は本当に幸せなの。可哀そうだなんて思わないでね。純さんと出会った時、私はもう死んでたんだから。生きている人が亡くなることは不幸なことかもしれないけど、死んだ人間が成仏できることは幸せなことなのよ」
僕は真澄の顔が見られなくなった。俯いて何も言えずにいると真澄が優しい言葉を掛けてくれた。
「純さん、悲しまないで。私は今、とても幸せだから。それに、まだ少しだけど時間があるから。だから、旅立ちの時が来るまで今まで通り一緒にいてほしいの。少しずつ一緒にできることは減ってゆくと思うけどね。でも、まだ触れ合える。触れ合えなくなっても微笑み合える。姿が見えなくなっても歌は一緒に歌えるわ」
とてつもない無力感が僕を襲った。そして、それはそのまま言葉になった。
「真澄、僕は、これからどうすればいいんだ?僕は、これから君のために何をしてあげられるんだ?」
「何もしなくていいわ。ただ一緒にいてくれるだけでいいの。純さんには、もう十分に幸せにしてもらったわ。もうこれ以上、望むことは無いわ。でも、純さんが辛くても、この部屋から出てゆくことだけはしないで。私が旅立つまで私を一人にしないで。私の傍にいて。それが最後のお願いかな」
僕が何も言えず俯いたままでいると真澄が席を立つ音がした。その後、背中から僕を抱きしめる真澄の温もりを感じた。目に涙が滲んだ。
「ごめんね、純さん。私、普通の女じゃなくて」
その声を聞いて続く僕の言葉は涙交じりになった。
真澄はハンカチを出して僕の涙を拭った。
「純さん、どうか笑顔で見送ってくれないかな?ああ、ごめんね。最後のお願いがたくさんできちゃったね」
僕を抱きしめる真澄の力が強くなった。僕は頭の中が真っ白になって何も考えることができなくなった。
八月二十四日(月)
前日の夜、台風十五号は石垣島で観測史上最高の風速七十一メートルを記録していた。その影響かその日は東京も曇りで、気温は二十九度までしか上がらなかった。
夜、ゲームをしている時に僕は小さな異変に気が付いた。それまで、ゲームではいつも真澄が優勢だったが、その日、僕は次々と勝ちを重ねた。
「純さん、強くなったね」
真澄は苦笑いをした。
しかし、僕が強くなったわけではなかった。真澄が弱くなったのだ。コントローラーを操作する真澄の手つきがおぼつかなくなっていたのだ。真澄の手はもう素早くかつ細かい操作についていけなくなっていた。
それが僕たちがゲームをした最後になった。
その日は、もう一つ特筆すべきことがあった。
いつものようにガラス戸の前で座布団に腰を下ろして三線の調弦をしていると、真澄が妙なお願いをしてきた。
「純さん、もう一度私の指に指輪をつけてもらえないかな」
真澄はいつのまにか外していた指輪を収めたケースを僕に差し出した。
「いいよ」
箱を受け取りながら僕は笑顔で答えた。
「ありがとう」
そう言った真澄は誕生日の夜に思いを馳せているように見えた。
「じゃあ、左手を出して」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうに左手を差し出してきた。僕はケースから指輪を取り出した。あの日とは違い「振り」ではなかったので、ごく自然に指輪は真澄の左手の薬指に収まった。真澄は左手を顔の前に置いて、まず手のひら側から、それから手首を返して手の甲側から指輪を見つめた。その後、両の手のひらを右手を上にして重ねて胸に押し当てると、目を閉じてお祈りのようなことをした。僕はただ黙ってそんな真澄の様子を眺めていた。
真澄は大きく一つ深呼吸をすると瞼を開き、遠くを見るような眼をしてつぶやいた。
「よし、これでもう大丈夫」
何が大丈夫なのかは僕にはわからなかった。そんな僕の様子に気づいてか、真澄は遠慮でもしたかのように小さな声で僕に語り掛けた。
「純さん、ケースをくれるかな?」
「ああ」
僕は言われるままに真澄にケースを手渡した。真澄は薬指から指輪を抜くとそれをケースに収めた。蓋は開けたままだった。真澄は立ち上がると机の方に向かい、蓋が開いたままのケースを机の上に置いた。
「これで良いわ」
真澄はそう宣言すると戻ってきて座布団に腰を下ろした。
なぜ指輪を外したのか、僕は理由を聞きたそうな顔をしていたのだろう。真澄は自分からその理由を語り始めた。
「ゲームをしている時に純さんも気が付いたと思うけど、私の体、そろそろ限界みたい。私ね、純さんにもらった指輪が薬指からこぼれ落ちて床に転がるところを見たくなかったの。だから、そうなる前に外したの。指輪にきちんとお礼とお別れを言ってからね。あそこに置いてあるけど、私の気持ちとしては指輪はいつも薬指にあるのよ」
真澄の顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「それと、純さんにお願いがあるんだけど」
真澄の改まった口ぶりはお願いの大変さを予感させた。だから、僕は敢えて冗談めかした対応を取った。
「欲張りだな、お願いが多すぎないか?」
「そうね、でもこれで、たぶん本当に最後だから」
真澄の目が急に真剣な光を帯びた。僕は冗談めいた対応を取ったことを少し後悔した。
「冗談だよ。真澄のお願いならいくつでも聞いてあげるよ」
「気前がいいのね。そんなに大風呂敷を広げて後で後悔しても知らないわよ」
「後悔なんかしないよ。それで何をすればいいの?」
真澄はその後の僕の反応を予想してか、少しためらった後、静かにお願いの内容を語った。
「私がいなくなったら、あの指輪を純さんが一番好きな場所、竹富島のカイジ浜の砂の中に埋めてほしいの」
驚いた。嫌だと思った。聞けない願いだと思った。
「どうして、そんなことをしなければならないの?大切な思い出の品なのに」
興奮気味に話す僕を諭すように、真澄はお願いの理由を明らかにした。
「私はね、純さんには、別れた女との思い出の品をいつまでも持っているような人になって欲しくないの」
真澄の望みは分からなくはなかった。しかし、そうしたくはなかった。
「純さんには、私のことをきちんと思い出にして欲しいの。だから、カイジ浜に行った時だけ、私のこともちょっとだけ思い出してくれたら嬉しいな。それが私の本当に本当の最後のお願いかな」
「どうしても、そうしなければいけないの?」
したくなかった。だが、まだそんな質問をしている自分が弱虫の子供のような気がした。
真澄は僕の子供じみた抵抗を打ち砕くかのように、もっともな理屈で答えてきた。
「うん、私がもらったものだから、私の好きにする権利はあると思うな」
「そう言われると返す言葉がないけど」
僕がそう言うと、真澄はまるで小さな子供をあやす母親のように確認を求めてきた。
「じゃあ、私の最後のお願い、聞いてくれるよね?」
「ああ、わかった」
僕にはもうそう答えるしかなかった。
「じゃあ、約束ね」
真澄が小指を差し出してきた。僕は自分の小指を絡めて辛い約束をした。やがて失われるだろう温もりは、まだしっかりと真澄の小指から伝わってきていた。
八月二十五日(火)
その日、台風は熊本に上陸して大きな被害が出ていた。東京は曇りで最高気温は二十二度までしか上がらなかった。台風が連れ去る前に夏はもう早々に逃げてしまったかのようだった。
夕方帰宅すると、真澄は浴衣に着替えていた。
「どうしたの、浴衣なんか着て?」
僕が尋ねると真澄は照れ臭そうに笑った。
「うん、せっかく買ってもらったのに、まだ一度しか着ていないから、もったいない気がして」
「そうか、うん、良いよ。とても奇麗だ」
真澄の浴衣姿はやはり奇麗で僕の言葉はお世辞ではなく本音だった。
「ありがとう」
真澄はとても明るい笑顔で答えたが、つい先日着たばかりの浴衣をまた着ようと思った真澄の気持ちが何に由来するのか分らなかった。
僕がリュックを下ろして部屋着に着替えようとしていると、キッチンから真澄の声がした。
「純さんも浴衣になってね。この前の花火大会、とても楽しかったから。もう一度やろうと思って」
「花火が上がらないんだから、花火大会のしようがないじゃないか」
真澄の提案にはさすがに少し腰が引けた。
「まあ、そうだけど。浴衣着て、ちょっと気分だけでも味わいたいの」
正直僕は乗り気ではなかったが真澄の勢いに負けた。
「まあ、そういうことなら付き合うよ」
「ありがとう。それから、申し訳ないけど冷凍でもいいから、焼きそばとか、たこ焼きとか、夜店風のつまみになるものを買ってきてくれないかな?」
「いいよ」
そう答えてから、僕は買い物に出かけた。
アパートに戻ると、僕は押入れから前に使った冬物の洋服用のケースを取り出して前回同様にガラス戸の前に置いた。座布団も二枚並べた後で試しに腰を下ろしてみた。
ガラス戸の向こうには曇り空があるばかりで星の一つも見えなかった。これでは浴衣を着てみたところでとても花火大会の気分にはなりようがなかった。何か良い方法はないものかと思った時に名案が浮かんだ。
僕はケースと座布団を寝室のテレビの前に移動させた。そしてテレビにノートパソコンをつないだ。僕が思いついたことはどうやら思った通りうまくいきそうだった。準備が済んだのでとりあえず僕は電源を切り、夕食になる前にシャワーを浴びることにした。
僕はシャワーを浴びると浴衣に着替えた。それから、ケースの上にビール用のグラスを用意した後、キッチンにいる真澄に声を掛けた。
「こっちは用意できたよ」
「あれ、どうしてベランダの方じゃなくてそっちに席を作ったの?」
別の場所に席が設けられているのを見て真澄は少し怪訝そうな顔をした。
「せっかくだから、ヴァーチャル花火大会にしようと思ってさ」
「何それ?おばさんにもわかりやすいように言ってくれないかな?」
「まあ、すぐにわかるよ」
「そう。じゃあ、つまみを用意するね」
真澄は、僕がコンビニで買ってきた焼きそばをレンジにかけた。その間に僕は冷蔵庫からビールを二つ取り出してケースの上に並べた。それから、テレビとノートパソコンの電源を入れて座布団の上に腰を下ろした。
「はい、まずは焼きそばからね」
真澄は皿に移したやきそばを卓袱台代わりのケースの上に置いて僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、ヴァーチャル花火大会を始めようか」
「何が始まるのか楽しみね」
真澄はどこか楽しげだった。
僕は立ち上がると部屋の明かりを消した。ノートパソコンのデスクトップを映したテレビの画面がやけに明るく見えた。再び腰を下ろしてノートパソコンを操作してネットにつないだ。動画サイトで検索すると使える映像はいくらでもありそうだった。
「じゃあ、とりあえず両国からいってみようか」
僕は両国の花火大会の映像を選び再生ボタンを押した。すぐさまテレビ上では光と音のショーが始まった。真澄は夢見心地で画面に見入っていた。
「じゃあ、乾杯しようか」
僕がビールの缶を開けると真澄が自分のグラスを差し出した。僕はそこにビールを注いだ。続いて自分のグラスにもビールを注ぐとグラスを二人の間に掲げた。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
僕たちはグラスを合わせると、あの日と同じように一気に飲み干した。前回の乾杯の時、僕はえらく浮かれていた。しかし、今は楽しいのと同時に、寂しさもまた深くなっていた。こんな風に一緒にビールが飲める日がいったい後どれだけ続くのか、それを考えずにはいられなかった。でも、僕はそれを顔に出さないように努めた。たぶんそれは真澄も同じだったに違いなかった
僕たちはひたすら全国の花火大会の映像を見ながら、僕が買ってきた焼きそばやお好み焼きといった夜店メニューを楽しみ、ビールを飲み続けた。
その間、僕は何度も真澄の顔を横目に見ていた。明かりの消えた部屋で様々な色に照らされる真澄の顔が悲しいくらいに美しく見えた。
真澄がいなくなるなんて嘘であってほしい。真澄の勘違いであってほしい。僕はまだそんなことを願っていた。しかし、僕のそんな淡い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
ヴァーチャル花火大会が終わり、真澄が片付けをしている間に、僕はテレビの前でビールの最後の一缶と向き合っていた。飲み終わるのを待っていたかのように真澄が僕の隣に腰を下ろした。そして、無理やり絞り出したような声で妙な花火大会の趣旨を告げた。
「あのね、純さん。今日は私のためにヴァーチャル花火大会までしれくれてありがとう」
真澄は僕の言葉を待たずに次の言葉を続けた。
「私が今夜、浴衣を着たのは実はちょっと理由があったの。単刀直入に言うわね。私たちが触れ合えるのはたぶん今夜が最後になると思うの。だから、今夜は少しお洒落して見たかったの。それで、浴衣を着たの」
胸がつぶれそうな気がした。
「だからお願い。今夜は朝まで・・・」
僕は真澄を抱き寄せると言いかけた言葉を唇で塞いだ。切なかった。ただただ切なかった。明日の朝には消えてしまうだろう真澄の温もりがどうしようもないほど愛おしかった。
八月二十六日(水)
朝、目が覚めた瞬間、真澄がもういなくなっているのではないかという不安に駆られた。慌てて横を向くと真澄の顔がすぐそばにあった。真澄は横向きに寝て僕の寝顔をのぞき込んでいたようだった。
僕は左手を伸ばして真澄の頬に触れようとした。しかし、僕の左手は空を切った。真澄の姿はまだしっかりと見えるのに、僕はもう真澄に触れることができなくなっていた。
「ごめんね」
真澄は寂しそうに笑った。
「謝らなくていいよ。真澄のせいじゃないんだから」
真澄の目から涙が溢れやがて枕の上に落ちた。しかし、それが枕カバーを濡らすことはなかった。それを見た瞬間、僕の中で強がりの糸が切れた。
「真澄、僕も一緒に連れて行ってくれないかな?真澄なら僕を一緒に連れていけるんじゃないか?」
真澄はとても悲しそうな目で僕を見た。
「純さん、私にはそんな力はないわ。たとえあったとしても絶対にそんなことはしないわ」
「どうしてだよ?」
少し感情を荒げた僕の顔を見て、真澄の表情が更に悲しみの色を増した。
「そんなことをしたら、純さんにも、純さんのご両親に申し訳ないもの」
真澄は例えようもないほど美しい笑みを浮かべると、幼い子供に言って聞かせるように優しく僕に語り掛けた。
「純さんには純さんを必要としている人がたくさんいるでしょう。だから、純さんを一緒に連れていくことなんか絶対にできないわ」
真澄はもう触れることのできない僕の頬に手を当てた。真澄の手の温もり感じられなかったが真澄の思いは嫌というほど伝わってきた。
「ねえ、純さん。私と一緒に行きたいなんて言わないで。純さんがそんな風だったら、私、安心して成仏できないわ。私が安心して旅立てるように笑顔で見送ってくれないかな?」
僕を見つめる美しい真澄の姿もやがて見えなくなるのかと思ったら、残されることに耐えきれないような気がした。そして、すぐさま自分の弱さに嫌気がさした。笑顔で見送るという約束をしたはずだった。だが、自分にはそれができなかった。約束も守れず、僕より辛いはずの真澄に弱音を吐いてしまった自分が情けなかった。もう二度と泣くまいと思った。
「真澄、ごめん。馬鹿なことを言って」
「私の方こそ、ごめんね。もう涙も拭いてあげられないから、どうか笑顔でいてね」
真澄の言葉を聞きながら、まだ零れてくる涙を抑えきれない自分がとんでもない弱虫に見えた。
八月二十七日(木)
朝、部屋を出る時、僕を見送る真澄の姿に変化が見られた。輪郭が少し怪しくなり始めていた。帰宅した時には更に少し輪郭がぼやけていた。僕はそれに気づかないふりをした。真澄自身も自分の体の変化には気づいているのだろうが何事もなかったように振舞っていた。
八月二十八日(金)
朝、目が覚めると、真澄の輪郭は更に霞み、体を通して後ろの部屋の壁が見えるようになっていた。真澄の姿が見られるのも、もうあとわずかだと思わざるを得なかった。帰宅した時にはもう見えなくなっているのではないかという不安に襲われたが、僕はいつも通りに部屋を出てバイトに向かった。
夕方、帰宅すると、真澄の姿はまだ消えてはいなかった。しかし、その姿は更に透明度が増していた。真澄の姿が見えるのは今日限りだろうという気がした。だから僕は、いつもとは少し違うことをしてみることにした。少しでも長く真澄の姿を見続けるためにそうしようと思った。
いつも一緒に歌を歌う頃合いを見て、僕はガラス戸の前に並んでいた座布団の内のひとつを、反対側、つまりキッチンとの境に移動させた。ギターと三線の調弦を済ませてからキッチンにいた真澄に声を掛けた。
「真澄、今日はそっち側に座ってくれないかな?」
僕はキッチンの側の座布団を指さした。
「いいけど、どうして?」
僕は一呼吸おいて自分の思いを真澄に伝えた。
「今日はね、真澄に一人で歌ってほしいんだ。僕の声なんて混ぜずに、純粋に真澄の声だけを聴いていたいんだ」
真澄の姿をじっくりと目に焼き付けておきたいという、もう一つの目的は口にしなかった。
「分かったわ。こっちで一人で歌えばいいのね」
真澄はそれ以上何も口にせず素直に座布団に腰を下ろした。しかし、僕が口にしなかった意図には気づいていたに違いなかった。真澄の歌声に耳を澄ませるだけなら座布団の位置を移動する必要はなかったからだ。
真澄の姿は帰宅時よりも少し色褪せたように見えた。裏腹に背にしたキッチンの様子がより色濃く見えるようになっていた。
それから僕は真澄に沢山の歌を歌ってもらった。真澄と僕が知っている歌をとにかく片端からやってもらった。真澄が両親と同世代で、歌の好みも比較的に通っていたことも幸いした。
真澄が歌っている間、僕はずっと真澄のことを見つめていた。真澄も決して瞳をそらすことなく、まっすぐに僕を見つめ返していた。もうすぐ見つめあうことすらできなくなることを僕たちはしっかりと自覚していた。
僕は何度も泣きたくなるのを堪えて、ひたすら三線やギターを弾き続けた。それに合わせた真澄の歌声は、悲しいくらい美しく、透き通っていた。
その夜、明かりを消して、すっかり万年床が定着してしまった布団に横になった。すぐ傍に真澄の横顔があった。部屋の中に漏れてくる微かな街頭の光の中に、真澄の美しい横顔は今にも解けてしまいそうだった。
真澄の姿を見たのはそれが最後だった。
八月二十九日(土)
「おはよう」
目が覚めると、すぐ傍で真澄の声がした。しかし、僕にはもう真澄の姿は見えなかった。予想していた事態だったが、だからと言って悲しみが薄れるわけではなかった。
真澄自身がすでに承知していたのか、あるいは僕の様子から判断したのかはわからなかったが、真澄は既に僕の目に自分の姿が映っていないことに気が付いているような気がした。だが、真澄の態度はそれとは逆に明るかった。それは真澄なりの気遣いなのだと僕は思った。
「純さん、今日、明日はお休みだよね。だから、ずっと一緒にいられるよね?」
真澄の声は僕のすぐ耳元から聞こえてきた。だから、真澄はまだ僕の隣で寝転んでいるものだと思った。
「ああ」
僕は顔を横に向けて、そこにあると思われる真澄の顔に向かって笑顔で答えた。
夕方、僕がキッチンでコンビニ弁当を食べていると、正面から真澄の声が聞こえてきた。どうやら真澄は僕の正面に座っているようだった。
「純さん、今日は、純さんの歌をしっかりと聴かせてくれないかな?私、自分の声なんか混ぜないで純さんの歌が聞きたいの。いいよね?」
もう自分の姿は見えないのだから、とは真澄は言わなかった。昨夜とは逆のことをしようという真澄の気持ちはよく分かった。
「でも、それだと・・・」
言いかけた僕の言葉を真澄が遮った。
「心配しないで。純さんが歌っている間に黙って消えたりしないから。私、まだ、大丈夫だから」
「わかったよ」
その後、前夜と同じように座布団を置き、僕はガラス戸の方に腰を下ろした。
「準備ができたよ」
ギターと三線の調弦を済ませたところで僕は真澄に声を掛けた。
「はい、私、今、反対側の座布団の上に座りました。さあ、歌を聴かせて」
まだ大丈夫だと言った割には真澄の声は少し小さくなっているような気がした。
そして、僕は真澄の知っていそうな歌を、自分の好きな歌を、次々と歌った。真澄のリクエストにも可能な限り応えた。
真澄は歌が一つ終わる度に感想や歌にまつわる思い出などを饒舌に話した。自分はまだここにいると伝えたいのだと僕にはよく分かっていた。
「じゃあ、夜も遅くなってきたから今日はここまでにしよう」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうな声で答えた。
「ありがとう。純さんの歌、堪能させてもらったわ」
「真澄が喜んでくれて良かった。明日は、また一緒に歌おうね」
「そうね、そうしましょう」
真澄のその声を聞きながら、僕はその明日が本当に来るのか不安になった。真澄の声は僕が歌いだした時より更に小さくなっていたからだ。真澄の旅立ちがもうすぐそこまで迫っていることを僕は認めざるを得なかった。
八月三十日(日)
この日は、八月最後の日曜日だった。僕たちは再び、以前と同じように一緒に歌を歌った。真澄の声はかなり小さくなっていたので、ギターや三線の音も、僕が歌う声も、真澄に合わせて小さめにした。真澄と一緒に歌えるのもこれが最後かもしれないという気がした。
八月三十一日(月)
「おはよう。純さん」
目が覚めた時に聞いた真澄の声は、かすれていて聞き取りにくくなっていた。嫌でも真澄の旅立ちが間近に迫っていることがわかった。
こんな状態では僕が帰宅するまで真澄はこの部屋に留まっていることはできないかもしれないと不安になった。バイトを休もうかとさえ一瞬考えてしまった。しかし、そんなことを言えば真澄に叱られることはわかりきっていた。僕が帰宅するまで真澄がこの部屋に留まっていてくれることを祈るしかなかった。
「行ってらっしゃい」
僕を送りだした真澄の声はまるで消え入りそうにか細かった。
「行ってきます」
答えながら、僕はこれが最後の朝の挨拶になるのだろうと思った。僕は必死で笑顔を作りバイトに出かけた。
僕の留守中に真澄が旅立ってしまうかもしれないという不安が頭から離れず、バイトに集中するのが難しかった。加えて、昨夜は真澄を失う不安もあり、ろくに寝ていなかったので度々睡魔も襲ってきた。
そんな状態で何度も時計を見ながら、僕は早く終了時間にならないものかと思った。しかし、時間はそんな時に限ってゆっくりとしか進まないものだった。
終了時間が間近に迫った頃、ついに僕は一瞬、眠りに落ちそうになった。その刹那、僕は真澄の心の叫びを聞いた。
「お願い、早く帰ってきて」
終了時間が来た途端に、僕はリュックを掴むと自転車置き場へと駆け出した。雨が降っていたが雨合羽を着る心の余裕などなかった。アパートに向けて必死に自転車を漕ぐ僕には雨の冷たさなどまるで感じられなかった。
自転車を漕ぎながら、僕の頭の中では真澄に贈る歌が一気に形を作り始めていた。いや、本当はその歌はきちんとした形をなしていなかっただけで、既にほとんど出来上がっていたのだ。ただ、僕はそれをきちんとした形にしようとしていなかっただけなのだ。その歌を歌ってしまったら真澄は旅立ってしまうに違いない。心のどこかで僕はそれを確信していた。だから完成させたくなかったのだ。
しかし、もはやそんなことは言っていられなかった。残された時間がもうほとんどないことを真澄が教えてくれた。手遅れになる前に僕はその歌を真澄に贈らなければならなかった。それが、僕が真澄にしてあげられる最後のことだったからだ。
「ただいま」
僕は慌ただしく部屋のドアを開けた。
「おかえりなさい。どうしたの・・そんなに・・濡れて?早く・・・シャワーを浴びて・・・着替えた方が良いわ」
真澄の声は玄関のすぐ近くで聞こえたが、まるで隣の部屋から聞こえてくるように弱弱しかった。途切れがちな話し方からは苦しそうな様子がうかがえた。真澄は今、必死にこの部屋にしがみついているに違いなかった。少しでも気を抜けば真澄は次の世界へと旅立ってしまうのだろう。そして多分、真澄は最後の力を振り絞って僕の帰りを待っていたのだ。
「ごめん。待たせたね」
僕はリュックをテーブルの上に置くと、キッチンとの境に置いたままになっていた座布団を指さした。
「真澄、ここに座ってくれないか?」
「うん・・・いいよ」
今にも消え入りそうな声だった。少しすると、移動を終えた真澄の声が聞こえた。
「純さん・・座ったよ」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
僕はケースから三線を取り出すとガラス戸の前の座布団に腰を下ろした。いつもならすぐにできる調弦に手間取った。僕は焦っていた。一つ深呼吸をして気持ちを落ち着けてから再び調弦に取り掛かった。どうにかうまくいった。
「真澄、君に聴いて欲しい歌があるんだ。君のために、君のためだけに作った歌なんだ。できたばかりで上手く歌えないかもしれないけど聴いてくれるかな」
「もちろんよ・・・私のために・・・作ってくれたなんて・・・すごく嬉しいな。じゃあ・・・聴かせて。」
僕は三線を構えてイントロを弾き始めた。気持ちが揺れて指の動きが重いような気がした。しかし、歌の部分が近づいたところで覚悟が決まった。短いこの歌に全てを込めようと思った。真澄と出会えたことに対する感謝を、共に過ごした日々の喜びを、旅立つ真澄の幸せを祈る気持ちを、そして、叶うあてのない希望を。
座布団の上に真澄の姿は見えなかったが、僕をまっすぐに見つめているのがわかるような気がした。僕は見えない真澄の視線から目を逸らさないようにまっすぐに前を向いて歌い始めた。
こんなにも小さな部屋で
君と共に過ごした
二度と巡ることのない
夏が終わろうとしてる
できるならずっとこのまま
君といたかったけど
旅立つ君の背中を
せめて笑顔で見送ろう
これから君が旅立つその先には
幸せが必ず待っているから
互いに顔も見れず
声も聞けなくても
心だけは繋がってる
たとえ二人、遠く離れても
いつか互いを忘れる時が来ても
共に過ごしてきた日々は消えない
今はそれぞれ別の
道を行くとしても
僕らはまた巡り会える
たとえ何度生まれ変わっても
「どうだった?」
歌い終えると僕は真澄に尋ねた。しかし、返事は返ってこなかった。
「ねえ、真澄、感想を聞かせてよ」
言いながら僕は一気に不安になった。
「真澄、答えてよ」
僕はまだ認めたくなかった。
「真澄、黙ってないで、なんとか言えよ!」
叫んだ僕の言葉は古いアパートの一室に虚しく響くだけだった。
真澄がいつ旅立ったのか、僕にはわからなかった。僕の歌は真澄に届いたのか、もはやそれは知る由もなかった。涙が止めどなく溢れてきた。僕はそれを流れるままにしておいた。笑顔で見送るなんて歌っておきながら無様な姿だった。やはり自分の書く歌詞はただの作りごとに過ぎないのかと思った。
夏休み最後の日、八月とは思えないほど冷たい雨の降る夜、僕たちの夏は終わった。
エピローグ
九月十九日(土)
シルバーウィークの五連休の初日、僕は竹富島の民宿の自転車にまたがりカイジ浜を目指していた。背負ったリュックには三線のケースが、短パンの右ポケットには指輪の箱が納まっていた。
九月に入ってから東京では晴れの日がほとんどなく残暑すら感じられなかった。しかし、竹富は今も真夏だ。強い日差しはじりじりと手足を焼き、リュックの下では、かりゆしウェアに汗が滲んでいった。
路面の凹凸を避けて進み、目的地にたどり着いた。木陰の自転車置き場に自転車を止めて歩き始めた。短い緑のトンネルの向こう、今日も海が綺麗だ。坂を下り浜に出た。真っ白な砂を踏みしめ、僕は木陰の流木に向かった。
流木にたどり着き腰を下ろした。東京と違い、真夏でもここは暑さも湿気も感じられず快適だ。僕は目の前にシートを敷き、その上に置いたケースから三線を出して糸を巻いた。右のポケットからは指輪の箱を取り出した。箱を開け中身を海の方に向けると右ポケットのすぐ脇に置いた。
大きくひとつ息をついて、僕は、まず自分が初めて作った歌である「幻の夏」を歌った。それは、この場所で思いついた歌でもあり、僕が真澄と出会うきっかけになった歌でもあった。それから僕は自分が作った歌や真澄と歌った歌を次々と歌った。それぞれの歌を歌う度に、あの部屋で真澄と過ごした日々が頭を掠めていった。何もかもが今は幻のようだ。
歌いきった時、ため息がこぼれた。だから、約束通りに真澄に贈った指輪を埋めてしまうことには未だに抵抗があった。だが、約束は約束だった。真澄の言う通り、僕は真澄のことを思い出にして大人になってゆくしかないのだ。そう覚悟した時、次の歌を歌い指輪を埋める決心がついた。
再び大きく息をついて、僕は最後の歌を歌い始めた。真澄が旅立った日に僕が贈ったあの歌だった。あの夜、僕の歌を真澄が聴いてくれたのかどうか、今もって僕は知らない。ならば、せめて歌が空に届くようにと、僕は精いっぱいの思いを込めて歌った。歌が空の上まで届いたかどうかも、もちろん知る術はなかった。歌い終わった僕は、目を閉じて、また、ため息をついた。
すると、左から女性の声がした。
「良い歌ですね」
いつの間にそこに立っていたのか、まるで気がつかなかった。年齢は僕と同じくらいに見えた。長い髪をした奇麗な人だったが見覚えはなかった。
「今の歌、歌手は誰ですか?」
一瞬、返答をためらったが素直に応えることにした。
「恥ずかしながら、僕のオリジナルです。今まで誰にも聴かせたことなかったんですが・・・」
僕の言葉を聞いて彼女は少し首をひねった。
「ええ?不思議ですね。私、今のあなたの歌、ずっと昔に聴いたことがあるような気がするんですが」
その言葉を聞いた瞬間、たとえようのない嬉しさが体の底から湧き出してきた。
『聴いていてくれたのだ』。真澄は旅立つ前に僕の歌をちゃんと聴いていてくれたのだ。その時、僕は何の疑いもなく目の前の彼女が真澄の生まれ変わりだと信じた。あの世とこの世の時間は、過去と未来がねじれて繋がることがあるに違いない。きっとそうだと思った。
僕が目を閉じて、溢れてくる思いに身を任せているのに気付いたのか、彼女は遠慮がちに頼んできた。
「あの、他にもあなたが作った歌があったら聴かせてくれませんか?」
聴かせない理由などあるわけがなかった。聴いて欲しいのはむしろ僕の方だった。
「喜んで。良かったら、こちらに座りませんか?」
そう言って僕は自分の右側を示すと、慌てて指輪の箱を閉じてそれを右のポケットにねじ込んだ。もう埋める必要はなかった。指輪は既に帰るべき場所をみつけていた。
「失礼します」
そう断ってから彼女は僕の前を通り過ぎて僕の右側に座った。僕は彼女の顔を見られなかった。こみ上げてくる思いが強すぎたからだ。
僕は改めて糸を巻き直した。西表島の向こうには、島を押しつぶしそうな入道雲が居座っていた。強い日差しを浴びた海は、エメラルドグリーンを基調とした鮮やかなグラデーションを描いていた。木陰に吹き込んでくる風は外の暑さが信じられないほどの涼しさを運んできて、彼女の日焼け止めのものと思われる甘い香りが僕の鼻をくすぐった。『申し遅れましたが』、と断ってから名乗った彼女の名前は美しい音楽のように僕の耳に響いた。何もかもが決して幻ではなかった。
僕たちの夏はまだ終わってはいなかった。
終



