卒業式を私物化することは許されることだろうか? ましてやそれが、生徒会長の行いだとしたら……考える智成をよそに卒業式は粛々と流れていく。
「在校生、送辞」
司会のアナウンスが響く。
この学校では代々、生徒会長が卒業式の送辞を務めることになっている。昨年も当時、生徒会長であった村上綾菜が送辞を行った。今年は綾菜から生徒会長を引きついだ智成の役目である。
予行でも行った通り、智成は立ち上がり、中央の通路を歩いていく。体育館には床面保護のための緑色のシートがひかれている。静まり返った厳粛な雰囲気の体育館にコツコツとローファーの足音が響く。
卒業生の方に向けられた中央のマイクの前まで辿り着くと、来賓、教職員席にそれぞれ一礼した。最後に正面に座っている卒業生に深々と頭を下げる。頭をあげたとき、村上綾菜と目が合ったような気がした。
卒業生の中にはすでに目に薄っすらと涙を浮かべているものもいた。式場にいるほとんどの人が智成の一つ一つの動作に注目している。
二年生の後期に生徒会長を引き継ぐ前にも智成は生徒会執行部に入っていた。卒業式の送辞ほど大きな仕事は初めてだが、人の前に立って挨拶をすることは、ある程度慣れたものだった。
それでも今日はいつもと違った緊張感を感じていた。智成の握った右手が汗ばむ。智成はブレザーの内ポケットから原稿を取り出し、マイクの前で広げて持つ。何度もチェックを受け、前日に練習した原稿は置いてきた。
今日卒業していく綾菜に、そして、そのままアメリカの大学への進学が決まった綾菜に、どうしても自分の言葉を伝えたかった。昨日の晩、夜通し言葉を考えた。それでもどうしてもうまくまとまらなかった。
智成の持つ原稿の後半の部分は白紙のままだ。
「桜のつぼみも日ごとにふくらみを増し、温かい春の日差しを感じる季節となりました。草木も新芽を伸ばそうとしている、今日の良き日に卒業される先輩のみなさん、本当におめでとうございます」
智成が送辞を読み始めると式場の空気がさらに緊張感をました。冒頭のあいさつは元の文章から変えていない。練習通り、はやる気持ちを抑えながら一分一文、丁寧に読んでいく。
「今、先輩の皆さんとの思い出を振り返ってみると、いつも私たちの背中を優しく押してくれていたことに気づきます。先輩方と初めてお会いしたのは入学式のことでした……」
違う! そうじゃない……心の中で智成がつぶやく。初めて智成が村上綾菜に出会ったのは入学式の前のことだ。入学手続きのため新入生が集められたあの日、他に誰もいない生徒会室で道川智成は村上綾菜と出会った。
入学手続きの日、智成のテンションは最高潮だった。合格発表の日はまさか自分が合格するとは思っていなかったので、全く実感がわかなかったが、実際に手続きを済ませ、制服の採寸などをするにつれて、本当にここに四月から通うんだという実感がわいてきた。
ここに通うのだから少し下調べをしなくては! と勝手に校舎探検をしようと思ったのもテンションが高かったからだろう。手続きのあと一緒に来ていた母親を帰し、智成は独りで学校探検をすることにした。
正門へ続く道を左に折れて、手始めに中庭のあたりを探検することにしてみた。入学手続きのため在校生は学校に来てはいけないのか、そこには全く人気がなかったが、いくつかの木々でちょうど木陰になっているベンチはそこに寝ころぶと気持ちが良さそうだと思った。 普段はここでお弁当食べたりする生徒もいるのだろうなどと想像をふくらます。
次はいよいよ校舎の中だ。これは今まで以上に慎重にしなければならない。外をうろついている分には道に迷った新入生ということで何とでもなるが、校舎の中はそういうわけにはいかない。
食堂近くの人気の少ない入口を選んで校舎の中に進入していく。ここが上履きなのか下足なのかもわからないので、とりあえず入口で靴だけ脱いでおいた。
ここまでは問題なく入った智成は階段を見つけて上に上がることした。職員室や事務室などのある一階は人に会う可能性が高い。逆に普通教室のある階なら春休みの今は生徒のいる可能性はきわめて低いと思ったからだ。
念には念をいれて3階まで上がり、いよいよ教室を見回る。当然、教室には鍵がかかっているが、教室の入口の窓ガラスから中の様子はうかがえる。中学校でも見慣れた決してきれいとは言えない木でできた机。中学の時と変わらない教室に智成は少しがっかりした。
「2-A」「2-B」などと札のかかった入口ごとに教室の中身をのぞきながら廊下をずっと奥まで歩いていく。左手が南なのだろう、3月にしては暖かな日の光が筋となって窓の外から差し込んでくる。しばらく途中途中の教室をのぞきながら歩く。ちょうど廊下の端と端の中央当たりにある中央階段のあたりにさしかかったとき、智成ははさっと身を隠した。
人がいる!
中央階段のすぐ隣に今までの教室とは違った感じの少し小さめの、もともと一つの教室だったのを半分仕切ったような部屋がある。そこに確かに人がいた。
……見られていないか?
ちょうど階段で奥まったところから顔だけ伸ばしてあたりの様子をうかがう。その小さな部屋の扉は開きっぱなしだったが、どうやら見つかってはいないようだ。
いったい誰が?
壁づたいにその部屋の入口のすぐ側まで移動して、息を潜めて中の様子をうかがう。鉛筆の音ぐらいはするが、話し声などは聞こえない。中にいるのは一人だけのようだ。
智成は思いきって入口から中の様子をのぞいてみることにした。
「⁉」
智成は思わず固まってしまう。
入口から覗き込んだ智成の目に飛び込んできたのは、机に向かって何かの作業をしている女の子の姿だった。
日当たりのいいその部屋の奥の窓から差し込む光に照らされて、その女の子は神々しく見えた。すらりと肩まで伸びた黒髪に端正な顔立ち、それは陽の光のせいなのか智成にはそのすべてが輝いて見えた。
智成はしばらく身を隠すのも忘れて立ちつくした。それは初めて聖なるものを目の当たりにしたかのような衝撃だった。しばらく僕の存在に気づかなかったが、ふいにはっとすぐ側の人影に気がついた。
こちらを向いた彼女と僕の視線がぶつかる。智成はとっさに言い訳が口に出ず、ただただ目を丸くするだけしかできなかった。そんな智成を見て彼女は微笑みを浮べながらこう言った。
「……新入生?」
それが道川智成と村上綾菜の出会いだった。
「あの日から私たちは先輩の背中を追い続けました。様々な学校行事や部活動などで活躍される先輩の姿は私たちにとってのあこがれでした」
送辞の原稿を読みながら、智成は改めて気づく。
……そう「あこがれ」だ。
あの日、陽の光を浴びて輝く村上綾菜に出会って以来、ずっとあこがれてきた。それは恋とか愛とかそんなちゃちな言葉ではなくて、ただそこにいること、存在としてのあこがれであった。
二年前、入学手続きの日に出会った先輩が、入学式の生徒会のあいさつで出てきたときには息が止まるほどの衝撃だった。綾菜はその当時、生徒会の副会長で、入院中の生徒会長に代わって入学式のあいさつを行っていた。
智成は少しでも綾菜に近づきたくて、毎年この学校で行われるいわゆる文化祭の位置づけにある「皐月祭」の実行委委員に加わったり、秋になり綾菜が生徒会長になってからは生徒会執行部の書記に立候補して、生徒会の一員として綾菜を支える道を選んだ。
生徒会は智成にとって居心地の良い場所であった。綾菜のことを抜きにしても生徒会の仕事はやりがいのある仕事だ。仲間と協力しながら、学校生活のいろんな部分で中心となり、大きな方向を出していくことは、智成が今まで持っていなかった感覚を与えてくれた。
自分が社会の役に立っている、存在を必要とされているという想いは智成の世界との関わり方を変えた。
スピード感は人を育てるらしい。
自分から動き出すことが苦手だった智成も半強制的に次から次へとやってくる仕事に取り掛かるうちに、能動的に動く力が身についた。
生徒会の一員としての仕事にやりがいを覚え、生徒会活動が智成の学校生活のなっていくにつれて、段々と綾菜と智成の距離も近づいていった。
活動中にいろんな話をすることはもちろん、仕事が終わってからも下校時間まで生徒会室でおしゃべりをしていることがよくあった。綾菜と二人きりのこともたまにあったが、大抵はいつも四、五人が生徒会室に集まっていた。
よく言えばアットホームだが、悪く言えば寄生のような状態だった。
智成が一年のときのすでに卒業してしまった三年生などはそこに住んでいるじゃないかと思うほど生徒会室に入り浸っていた。特に当時、書記をしていた藤井という先輩などは私物で生徒会室を占有して、先代の山上会長によく叱られていた。
綾菜の一つ前の生徒会長の山上和久が智成と生徒会で一緒だった期間は半年だけだ。智成はこの山上会長が苦手だった。確かに能力の高さは認めていた。書類や企画のスピードと正確さはとても勝てる気がしないし、何より独特のカリスマ性があった。
決してユーモアがあったり、明るい方ではない彼がひとたび演説を始めると、周りを魅了する。特に「皐月祭」で行った平和に関するシンポジウムの際などはどこぞの教授も顔負けの発表を行った。
そのころの生徒会は山上会長のカリスマ性、細かいところまで気のまわる副会長だった綾菜、そして、山上の古くからの友人で普段はさぼりだが、コンピューターを触らせたら右に出るもののいない藤井書記の絶妙なバランスで成り立っていた。
当時、皐月祭の実行委員になりたての智成や同級生の北川由貴などは与えられた仕事をこなすのでやっとだった。智成にとってはとっつきにくい会長だったが、彼を深く知る人物にとってはそうではなかったらしい。綾菜は智成のときには見せない表情を山上会長と一緒のときはしていた。
どれだけ信頼を得て、距離が近づいたつもりでも、「あの表情」を智成の前ではしてくれない。最後の一歩、もう一歩のところで踏み込めない何かがあの二人にはあった。
そう、あの時もそうだ。一年前の卒業式。
生徒会長として綾菜が送辞を行い、元生徒会長の山上が答辞を行った。ちょうど今の智成と綾菜のような関係だ。在校生の送辞と卒業生の答辞では担当の教師なども違う。それぞれが文章を作成し、当日まで中身もわからないはずだ。
それなのに二人の内容はうまく呼応していて、まるで二つで一つの文章のような出来だった。その年の送辞と答辞はまわりからずいぶんと好評だった。山上会長の時代には生徒会の力で学校生活の様々な部分を向上させた。そんな会長と副会長の掛け合いにまわりの生徒たちも惜しみない拍手を送る。
ただ智成だけがひどく複雑な想いを抱えていた。
そんな山上がアメリカの大学に進学したことを智成が知ったのは次の四月迎えてからだった。智成はどこか勝ち逃げをされたような、それでいて一方ではほっとしたような感覚に包まれていた。
四月からの前期生徒会執行部で智成は副会長として二期目の綾菜の生徒会長を支えることとなった。智成の務めていた書記のポジションには北川がつく。結局、北川とは皐月祭の実行委員会からずっと生徒会の一員として一緒にやっている。
一、二年とクラスも同じ北川は智成にとって最も信頼のおける異性であったが、しばしば周りからは違った目で見られることもある。綾菜もずっと二人はつきあっているものと思っていたらしい。
新入生も迎え、一つ先輩になった智成はますます生徒会の仕事にのめりこんだ。生徒会長、副会長、書記は生徒会三役と呼ばれ、生徒会執行部の中心だ。生徒会執行部は三役とそれぞれの委員会の委員長とで構成される。委員長が各委員会を動かすことが中心なのに対して、三役は学校行事の企画運営を中心として活動していた。
その前期の半年間の活動の中でも智成は必死に綾菜の後を追った。
生徒集会で皆の前で話すときの綾菜の声が好きだった。その透き通るような声と、意志の強さを秘めた横顔を集会の司会として立った斜め後ろの場所から見つめていた。いつかその瞳に追いつけるのではないかとずっと思っていた。
「トモはトモだよ」
いつか北川に言われた。自分の心の内側を見透かされたみたいで智成はどきりとする。
「どういう意味?」
「そのままだよ。綾菜先輩ってすごく素敵、同性から見ても憧れる。でも、私が綾菜先輩みたいになれるかというとそれは違う。トモはトモのいいとこがあるし、それが私も……好きだよ」
最後は少し小声になった北川の真意に気づかないほど、その言葉は智成の心を突き刺す。しかし、智成はその場はごまかして適当に話題を変える。いつかは訪れる「あこがれ」との対峙、そこに向き合う覚悟がまだ智成には持てなかった。
誰の身にとっても月日は平等に流れるが、その感じ方は人によってずいぶんと違うらしい。智成にとって時の流れの加速度に自分の気持ちがついていっていなかった。
智成にとって高校生活二度目の秋を迎えるころ、大きな決断を迫られていた。自分が思っていたより生徒会の仕事はやりがいがあったし、誰かを支えることは自分に向いているとさえ思った。
しかし、自分自身が先頭に立って皆を引っ張っていけるかと言われると、その自信は智成にはなかった。ましてや自分が今まで見てきた生徒会長は、山上和久に村上綾菜である。八雲学園創立以来を考えても一、二を争うような会長の後継が務まるとはとても思わない。
そんな智成をよそに、綾菜は当然、次は智成が生徒会長に立候補してくれると思っているし、北川は「トモが会長をするなら、私が副会長で支えるよ」などと言う。
結局、他に適任者がいないという教師の訴えもあり、智成は生徒会長に立候補することになった。驚くほどあっさりと立会演説会も後期生徒会役員選挙も終わり、智成は綾菜から生徒会長を引き継ぐこととなった。
高校に入学して……綾菜と出会って一年半もたつというのに、智成は綾菜のことを何もわかっていなかったと痛感する出来事を経験する。
それは前期役員と後期役員の引継ぎの日だった。引継ぎが終わったあとは生徒会室の片づけなどを行い、終わったものからそれぞれ流れ解散した。後期からの取り組みを整理していた智成は、最後まで部屋を片付けていた綾菜と最終的には二人きりになった。
「綾菜先輩は大学どこ受けるんですか?」
それは何気なく聞いた質問だった。
まだ10月とは言え指定校推薦や内部進学をする人は早ければそろそろ進路が決まっていく。ちゃんと聞いたことないはないが、綾菜は成績が良いらしいので一般受験組だと智成は勝手に思っていた。
それだけに綾菜の返してきた言葉は智成にとって考えもしないものだった。
「まだちゃんとは決まっていないけど私は卒業したアメリカに渡るつもり。あっちで大学を受けることになると思う」
「アメリカ?」
そのフレーズで智成が最初に浮かんできたのは「山上和久」だった。胸がギュッと締め付けられる。
「アメリカって、山上先輩と一緒のとこですか?」
やっとの想いで智成は山上のことを口にする。
「ううん、先輩とは違うところを選ぶと思う。それに……先輩といたら辛いし」
少し悲しそうな表情をする綾菜。卒業式のときのように綾菜と山上だけの踏み込めない空間を感じてしまって、それでも必死にそれを超えようと智成はもがく。目の前にいる綾菜がとても遠くに感じて苦しい。
それでもやっとの思いで言葉を振り絞る。
「あの……綾菜先輩って、その……山上先輩と付き合っていたんですか?」
智成は綾菜の目をまともに見られない。
山上がまだ在学中の時からずっと聞きたくても聞けなかったことだ。綾菜にとって山上和久とはいったい何なのか? 流れの中で聞いてしまったことに後悔する。そんな智成の心の動きなど、綾菜は知る由もない。
「……違うよ。私と彼はそんなんじゃない」
綾菜の言葉に智成の心がざわつく……だったらいったい? 智成の疑問も、ほんの少しの安堵も綾菜の次の一言で吹き飛んでしまった。
「彼がつきあっていたのは……私のお姉ちゃん」
綾菜のあまりにもさらり放つ一言に、智成の思考が追いつかない。
「……お姉ちゃん?」
混乱する智成をよそに堰を切ったように綾菜が話し出す。綾菜も進学先を選ぶうえで、様々な悩みや葛藤があった。きっと誰かに聞いてもらいたい気持ちもあったのだろう。そして、綾菜の話は簡単に誰でも聞いてもらえるような内容ではなかった。
運命などという言葉を智成は信じてはいなかったが、生徒会長を引き継ぐことになったこの日、智成が綾菜の話を聞くこととなったのは、そうした力が働いていたのかもしれない。
「そう、私のお姉ちゃん。綾華って言うんだけど、お姉ちゃんも生徒会長をやっていたんだ、山上先輩が入学した時の三年生、ちょうど私と入れ替わりの歳になるかな」
「生徒会長? お姉さんも?」
綾菜に姉がいることも、ましてやその姉も生徒会長を務めていたことも聞いたことがなかった智成は面食らってしまう。同時に少しは綾菜のことをわかりかけてきたと思っていた自分にこの一年半は何だったんだと恥ずかしくなってしまう。
「私にとって3つ上のお姉ちゃんはずっとあこがれの存在だった。彼にとってもきっとそう。私が生徒会に入ったのも姉の影響……でも、どんなにあこがれてもお姉ちゃんには追いつけない」
綾菜は智成から視線を外す。そのほんの少しの動作にただならぬものを感じる。
「……お姉さんは今?」
「……亡くなったわ」
二人の間の時が止まる。急に速くなる鼓動さえ聞こえてきそうだ。
「……亡くなった?」
「ええ、姉は卒業後に進学した先のアメリカで事故にあって亡くなった」
アメリカという言葉と山上の選んだ進路が智成の中で重なる。背中に何か冷たいものを感じた。
「彼がアメリカの大学を選んだのも、私がそうなのもきっと、姉にあこがれて……その背中を追っていた二人が姉がその先で見ていたものを見つけて、あこがれにけりをつけようしているからかもしれない」
あこがれはあこがれのままでいつまでもいられない。ましてや永遠の追いつけない背中はどうすればいいのだろう?
あこがれは原動力だ。
人は何かにあこがれ、それを目指して、モデルにし、それを手に入れようとする。でも、きっとあこがれているだけではそれは手が届かなくて、手に入れたとき、あこがれはあこがれだけではやっていけなくなる。
綾菜にあこがれた智成、村上綾華にあこがれた山上和久と綾菜。
今まではただそれだけでよかった。自分にとって理想の生徒会長は村上綾菜であり、綾菜の背中を追っていけばよかった。だが自分自身が生徒会長になった今、本当にそれでよいのか、智成にはわからなかった。
卒業式の前日、家で綾菜に向けてのためだけの言葉を紡いでいても結局答えは出ないまま朝を迎えた。
「……今、先輩方とのそんな想いで胸がいっぱいです」
智成はここで一呼吸を置いた。本来ならここから送辞は締めの言葉に向かっていく。だが、智成の持っている式辞用紙はここからが白紙のままだ。今日卒業していく綾菜に贈る言葉が一晩考えてもどうしても出てこなかった。
智成は大きく息を吸い込むとただ胸の奥からあふれ出てくる想いを言葉に紡ぐ。
「私は先輩にあこがれてここまでやってきました。初めて出会った時の輝いていた姿、その輝きを追いかけてずっと……でも、その輝きのまぶしさに目を閉じて、自分には届かないものだと決めつけて、追いかけるふりだけをしてその実、心の中では諦めていたのかもしれません。一人では本当に何もできなくて、別にこれといった取り柄のなかった私を変えてくれたのは先輩です。だからこそ、あこがれはあこがれのままではいけなくて、そのあこがれを超えようともがいてみます。そんな勇気を私にくれたのも先輩です」
思いつくままに言葉にしていくので文脈が支離滅裂になる。周りの生徒の中にも何か様子がおかしいと訝しがるものもいた。生徒会の担当教師は青い顔をしているが今さら送辞を止めるわけにはいかない。
智成の想いはさらに加速していく。いつの間にか生徒会長としてではなく、智成自身の言葉があふれていく。
「今だから言えます。僕はあなたが好きだった。何に対しても一生懸命で、誰に対しても優しくて、そんなあなたの横顔に僕は追いつきたい、横に並びたい」
一度ざわつきかけた式場も、智成の真っすぐな想いに惹きこまれていく。呼吸するのもためらわれるほど、まわりの空気が智成に収束しているように感じた。
人を惹きつけることも生徒会長の力の一つだとしたら、今の智成の言葉は山上も綾菜も超えているのかもしれない。
「だから、あなたがしたように、あこがれをあこがれのままで終わらせたくないから、だから……」
最後の言葉に思いを込める。
「僕はあなたを卒業します」
日付と名前を言って、正面に深々と礼をする。
……だめだ。顔をあげられない。礼をしたままの姿勢の智成に対して、初めはまばらに、次第に会場に響き渡る大きな拍手が起こる。式の中で行われる送辞や答辞に対して、普通は拍手は起こらない。今回のようなケースは異例中の異例だ。
卒業式の私物化は許されるはずない。智成は式が終われば、あらゆる罵りも罰も受ける覚悟を持っていた。正直なところ卒業する三年生に対して申し訳ない気持ちでもいっぱいだった。
それだけにまず三年生から起こった拍手に、頭を下げた状態のまま涙がにじんだ。
送辞を演台に置き、自分の席に戻る智成。次はいよいよ村上綾菜による答辞だ。席をすっと立ち、円台の前に歩みを進める。制服のブレザーから答辞を取り出すと、一文字ずつ噛みしめるように読み上げていく。
透き通るような声で綾菜が答辞を読み上げる。今、この瞬間は綾菜が世界の中心になる。その世界の中心にいる綾菜と途中で目が合った気がした。
徐々に感情が昂り、卒業生の席からすすり泣く声が聞こえる。綾菜の言葉に一層の思いがこもる。綾菜の目に光るものが見える。
入学式、卒業式、成人式……日本には様々な式がある。式はいったい何のためにあるのだろう? 「節目」という言葉が脳裏に浮かぶ。本当は人生はずっと同じ方向に流れていく川のようなもので、今日と同じ日なんてものは二度とないことは誰もがわかっている。
それでも、その新しい日々を迎えるための区切りとして、私たちは様々な式を終え、また新たな一歩を踏み出す。
送別の歌が流れ、卒業式が終わる。
卒業式の後、卒業生は最後のHRを行う。その間、智成は生徒会の担当教師からたっぷりとお目玉をもらったが、最後の卒業生を送る花道に並ぶことは許可してもらえた。
校庭にはすでに保護者や在校生が並んでいる。智成も慌ててその列に加わる。HR終了後、卒業生はこの花道で見送られて、高校を後にする。部活に入っている在校生はこの花道で記念の色紙などを渡すことが慣例となっている。
校舎の入り口辺りで歓声が起こったと思うと、次々卒業生が出てきた。笑顔で出てくるものもいれば、涙でくしゃくしゃになっているものもいる。智成の並んでいるあたりも、色紙や花束を抱えた卒業生たちが通っていく。
しばらくして綾菜が校舎から出てくるのが見えた。同じクラスの先輩と泣きながら花道を歩く。少しずつ近づいてくる綾菜に、智成の胸が高鳴る。周りの喧騒も聞こえなくなり、世界が二人だけを映し出す。
近づいてくる綾菜と目が合った。智成は綾菜に向かって頭を下げる。目の前を通った時、綾菜が智成に何やらささやいた。その言葉も花道の中に消えていく。
「トモ、いいの?」
いつの間にか隣にいた北川由貴が智成に声をかける。
「……いいんだ」
八雲学園の校門を出ていく綾菜の背中を見ながら智成が答える。
三月に入ったばかりだが、どこまでも澄みわたる空は確かに訪れた新しい季節を、智成に感じさせた。
そして、僕は君を卒業する。
「在校生、送辞」
司会のアナウンスが響く。
この学校では代々、生徒会長が卒業式の送辞を務めることになっている。昨年も当時、生徒会長であった村上綾菜が送辞を行った。今年は綾菜から生徒会長を引きついだ智成の役目である。
予行でも行った通り、智成は立ち上がり、中央の通路を歩いていく。体育館には床面保護のための緑色のシートがひかれている。静まり返った厳粛な雰囲気の体育館にコツコツとローファーの足音が響く。
卒業生の方に向けられた中央のマイクの前まで辿り着くと、来賓、教職員席にそれぞれ一礼した。最後に正面に座っている卒業生に深々と頭を下げる。頭をあげたとき、村上綾菜と目が合ったような気がした。
卒業生の中にはすでに目に薄っすらと涙を浮かべているものもいた。式場にいるほとんどの人が智成の一つ一つの動作に注目している。
二年生の後期に生徒会長を引き継ぐ前にも智成は生徒会執行部に入っていた。卒業式の送辞ほど大きな仕事は初めてだが、人の前に立って挨拶をすることは、ある程度慣れたものだった。
それでも今日はいつもと違った緊張感を感じていた。智成の握った右手が汗ばむ。智成はブレザーの内ポケットから原稿を取り出し、マイクの前で広げて持つ。何度もチェックを受け、前日に練習した原稿は置いてきた。
今日卒業していく綾菜に、そして、そのままアメリカの大学への進学が決まった綾菜に、どうしても自分の言葉を伝えたかった。昨日の晩、夜通し言葉を考えた。それでもどうしてもうまくまとまらなかった。
智成の持つ原稿の後半の部分は白紙のままだ。
「桜のつぼみも日ごとにふくらみを増し、温かい春の日差しを感じる季節となりました。草木も新芽を伸ばそうとしている、今日の良き日に卒業される先輩のみなさん、本当におめでとうございます」
智成が送辞を読み始めると式場の空気がさらに緊張感をました。冒頭のあいさつは元の文章から変えていない。練習通り、はやる気持ちを抑えながら一分一文、丁寧に読んでいく。
「今、先輩の皆さんとの思い出を振り返ってみると、いつも私たちの背中を優しく押してくれていたことに気づきます。先輩方と初めてお会いしたのは入学式のことでした……」
違う! そうじゃない……心の中で智成がつぶやく。初めて智成が村上綾菜に出会ったのは入学式の前のことだ。入学手続きのため新入生が集められたあの日、他に誰もいない生徒会室で道川智成は村上綾菜と出会った。
入学手続きの日、智成のテンションは最高潮だった。合格発表の日はまさか自分が合格するとは思っていなかったので、全く実感がわかなかったが、実際に手続きを済ませ、制服の採寸などをするにつれて、本当にここに四月から通うんだという実感がわいてきた。
ここに通うのだから少し下調べをしなくては! と勝手に校舎探検をしようと思ったのもテンションが高かったからだろう。手続きのあと一緒に来ていた母親を帰し、智成は独りで学校探検をすることにした。
正門へ続く道を左に折れて、手始めに中庭のあたりを探検することにしてみた。入学手続きのため在校生は学校に来てはいけないのか、そこには全く人気がなかったが、いくつかの木々でちょうど木陰になっているベンチはそこに寝ころぶと気持ちが良さそうだと思った。 普段はここでお弁当食べたりする生徒もいるのだろうなどと想像をふくらます。
次はいよいよ校舎の中だ。これは今まで以上に慎重にしなければならない。外をうろついている分には道に迷った新入生ということで何とでもなるが、校舎の中はそういうわけにはいかない。
食堂近くの人気の少ない入口を選んで校舎の中に進入していく。ここが上履きなのか下足なのかもわからないので、とりあえず入口で靴だけ脱いでおいた。
ここまでは問題なく入った智成は階段を見つけて上に上がることした。職員室や事務室などのある一階は人に会う可能性が高い。逆に普通教室のある階なら春休みの今は生徒のいる可能性はきわめて低いと思ったからだ。
念には念をいれて3階まで上がり、いよいよ教室を見回る。当然、教室には鍵がかかっているが、教室の入口の窓ガラスから中の様子はうかがえる。中学校でも見慣れた決してきれいとは言えない木でできた机。中学の時と変わらない教室に智成は少しがっかりした。
「2-A」「2-B」などと札のかかった入口ごとに教室の中身をのぞきながら廊下をずっと奥まで歩いていく。左手が南なのだろう、3月にしては暖かな日の光が筋となって窓の外から差し込んでくる。しばらく途中途中の教室をのぞきながら歩く。ちょうど廊下の端と端の中央当たりにある中央階段のあたりにさしかかったとき、智成ははさっと身を隠した。
人がいる!
中央階段のすぐ隣に今までの教室とは違った感じの少し小さめの、もともと一つの教室だったのを半分仕切ったような部屋がある。そこに確かに人がいた。
……見られていないか?
ちょうど階段で奥まったところから顔だけ伸ばしてあたりの様子をうかがう。その小さな部屋の扉は開きっぱなしだったが、どうやら見つかってはいないようだ。
いったい誰が?
壁づたいにその部屋の入口のすぐ側まで移動して、息を潜めて中の様子をうかがう。鉛筆の音ぐらいはするが、話し声などは聞こえない。中にいるのは一人だけのようだ。
智成は思いきって入口から中の様子をのぞいてみることにした。
「⁉」
智成は思わず固まってしまう。
入口から覗き込んだ智成の目に飛び込んできたのは、机に向かって何かの作業をしている女の子の姿だった。
日当たりのいいその部屋の奥の窓から差し込む光に照らされて、その女の子は神々しく見えた。すらりと肩まで伸びた黒髪に端正な顔立ち、それは陽の光のせいなのか智成にはそのすべてが輝いて見えた。
智成はしばらく身を隠すのも忘れて立ちつくした。それは初めて聖なるものを目の当たりにしたかのような衝撃だった。しばらく僕の存在に気づかなかったが、ふいにはっとすぐ側の人影に気がついた。
こちらを向いた彼女と僕の視線がぶつかる。智成はとっさに言い訳が口に出ず、ただただ目を丸くするだけしかできなかった。そんな智成を見て彼女は微笑みを浮べながらこう言った。
「……新入生?」
それが道川智成と村上綾菜の出会いだった。
「あの日から私たちは先輩の背中を追い続けました。様々な学校行事や部活動などで活躍される先輩の姿は私たちにとってのあこがれでした」
送辞の原稿を読みながら、智成は改めて気づく。
……そう「あこがれ」だ。
あの日、陽の光を浴びて輝く村上綾菜に出会って以来、ずっとあこがれてきた。それは恋とか愛とかそんなちゃちな言葉ではなくて、ただそこにいること、存在としてのあこがれであった。
二年前、入学手続きの日に出会った先輩が、入学式の生徒会のあいさつで出てきたときには息が止まるほどの衝撃だった。綾菜はその当時、生徒会の副会長で、入院中の生徒会長に代わって入学式のあいさつを行っていた。
智成は少しでも綾菜に近づきたくて、毎年この学校で行われるいわゆる文化祭の位置づけにある「皐月祭」の実行委委員に加わったり、秋になり綾菜が生徒会長になってからは生徒会執行部の書記に立候補して、生徒会の一員として綾菜を支える道を選んだ。
生徒会は智成にとって居心地の良い場所であった。綾菜のことを抜きにしても生徒会の仕事はやりがいのある仕事だ。仲間と協力しながら、学校生活のいろんな部分で中心となり、大きな方向を出していくことは、智成が今まで持っていなかった感覚を与えてくれた。
自分が社会の役に立っている、存在を必要とされているという想いは智成の世界との関わり方を変えた。
スピード感は人を育てるらしい。
自分から動き出すことが苦手だった智成も半強制的に次から次へとやってくる仕事に取り掛かるうちに、能動的に動く力が身についた。
生徒会の一員としての仕事にやりがいを覚え、生徒会活動が智成の学校生活のなっていくにつれて、段々と綾菜と智成の距離も近づいていった。
活動中にいろんな話をすることはもちろん、仕事が終わってからも下校時間まで生徒会室でおしゃべりをしていることがよくあった。綾菜と二人きりのこともたまにあったが、大抵はいつも四、五人が生徒会室に集まっていた。
よく言えばアットホームだが、悪く言えば寄生のような状態だった。
智成が一年のときのすでに卒業してしまった三年生などはそこに住んでいるじゃないかと思うほど生徒会室に入り浸っていた。特に当時、書記をしていた藤井という先輩などは私物で生徒会室を占有して、先代の山上会長によく叱られていた。
綾菜の一つ前の生徒会長の山上和久が智成と生徒会で一緒だった期間は半年だけだ。智成はこの山上会長が苦手だった。確かに能力の高さは認めていた。書類や企画のスピードと正確さはとても勝てる気がしないし、何より独特のカリスマ性があった。
決してユーモアがあったり、明るい方ではない彼がひとたび演説を始めると、周りを魅了する。特に「皐月祭」で行った平和に関するシンポジウムの際などはどこぞの教授も顔負けの発表を行った。
そのころの生徒会は山上会長のカリスマ性、細かいところまで気のまわる副会長だった綾菜、そして、山上の古くからの友人で普段はさぼりだが、コンピューターを触らせたら右に出るもののいない藤井書記の絶妙なバランスで成り立っていた。
当時、皐月祭の実行委員になりたての智成や同級生の北川由貴などは与えられた仕事をこなすのでやっとだった。智成にとってはとっつきにくい会長だったが、彼を深く知る人物にとってはそうではなかったらしい。綾菜は智成のときには見せない表情を山上会長と一緒のときはしていた。
どれだけ信頼を得て、距離が近づいたつもりでも、「あの表情」を智成の前ではしてくれない。最後の一歩、もう一歩のところで踏み込めない何かがあの二人にはあった。
そう、あの時もそうだ。一年前の卒業式。
生徒会長として綾菜が送辞を行い、元生徒会長の山上が答辞を行った。ちょうど今の智成と綾菜のような関係だ。在校生の送辞と卒業生の答辞では担当の教師なども違う。それぞれが文章を作成し、当日まで中身もわからないはずだ。
それなのに二人の内容はうまく呼応していて、まるで二つで一つの文章のような出来だった。その年の送辞と答辞はまわりからずいぶんと好評だった。山上会長の時代には生徒会の力で学校生活の様々な部分を向上させた。そんな会長と副会長の掛け合いにまわりの生徒たちも惜しみない拍手を送る。
ただ智成だけがひどく複雑な想いを抱えていた。
そんな山上がアメリカの大学に進学したことを智成が知ったのは次の四月迎えてからだった。智成はどこか勝ち逃げをされたような、それでいて一方ではほっとしたような感覚に包まれていた。
四月からの前期生徒会執行部で智成は副会長として二期目の綾菜の生徒会長を支えることとなった。智成の務めていた書記のポジションには北川がつく。結局、北川とは皐月祭の実行委員会からずっと生徒会の一員として一緒にやっている。
一、二年とクラスも同じ北川は智成にとって最も信頼のおける異性であったが、しばしば周りからは違った目で見られることもある。綾菜もずっと二人はつきあっているものと思っていたらしい。
新入生も迎え、一つ先輩になった智成はますます生徒会の仕事にのめりこんだ。生徒会長、副会長、書記は生徒会三役と呼ばれ、生徒会執行部の中心だ。生徒会執行部は三役とそれぞれの委員会の委員長とで構成される。委員長が各委員会を動かすことが中心なのに対して、三役は学校行事の企画運営を中心として活動していた。
その前期の半年間の活動の中でも智成は必死に綾菜の後を追った。
生徒集会で皆の前で話すときの綾菜の声が好きだった。その透き通るような声と、意志の強さを秘めた横顔を集会の司会として立った斜め後ろの場所から見つめていた。いつかその瞳に追いつけるのではないかとずっと思っていた。
「トモはトモだよ」
いつか北川に言われた。自分の心の内側を見透かされたみたいで智成はどきりとする。
「どういう意味?」
「そのままだよ。綾菜先輩ってすごく素敵、同性から見ても憧れる。でも、私が綾菜先輩みたいになれるかというとそれは違う。トモはトモのいいとこがあるし、それが私も……好きだよ」
最後は少し小声になった北川の真意に気づかないほど、その言葉は智成の心を突き刺す。しかし、智成はその場はごまかして適当に話題を変える。いつかは訪れる「あこがれ」との対峙、そこに向き合う覚悟がまだ智成には持てなかった。
誰の身にとっても月日は平等に流れるが、その感じ方は人によってずいぶんと違うらしい。智成にとって時の流れの加速度に自分の気持ちがついていっていなかった。
智成にとって高校生活二度目の秋を迎えるころ、大きな決断を迫られていた。自分が思っていたより生徒会の仕事はやりがいがあったし、誰かを支えることは自分に向いているとさえ思った。
しかし、自分自身が先頭に立って皆を引っ張っていけるかと言われると、その自信は智成にはなかった。ましてや自分が今まで見てきた生徒会長は、山上和久に村上綾菜である。八雲学園創立以来を考えても一、二を争うような会長の後継が務まるとはとても思わない。
そんな智成をよそに、綾菜は当然、次は智成が生徒会長に立候補してくれると思っているし、北川は「トモが会長をするなら、私が副会長で支えるよ」などと言う。
結局、他に適任者がいないという教師の訴えもあり、智成は生徒会長に立候補することになった。驚くほどあっさりと立会演説会も後期生徒会役員選挙も終わり、智成は綾菜から生徒会長を引き継ぐこととなった。
高校に入学して……綾菜と出会って一年半もたつというのに、智成は綾菜のことを何もわかっていなかったと痛感する出来事を経験する。
それは前期役員と後期役員の引継ぎの日だった。引継ぎが終わったあとは生徒会室の片づけなどを行い、終わったものからそれぞれ流れ解散した。後期からの取り組みを整理していた智成は、最後まで部屋を片付けていた綾菜と最終的には二人きりになった。
「綾菜先輩は大学どこ受けるんですか?」
それは何気なく聞いた質問だった。
まだ10月とは言え指定校推薦や内部進学をする人は早ければそろそろ進路が決まっていく。ちゃんと聞いたことないはないが、綾菜は成績が良いらしいので一般受験組だと智成は勝手に思っていた。
それだけに綾菜の返してきた言葉は智成にとって考えもしないものだった。
「まだちゃんとは決まっていないけど私は卒業したアメリカに渡るつもり。あっちで大学を受けることになると思う」
「アメリカ?」
そのフレーズで智成が最初に浮かんできたのは「山上和久」だった。胸がギュッと締め付けられる。
「アメリカって、山上先輩と一緒のとこですか?」
やっとの想いで智成は山上のことを口にする。
「ううん、先輩とは違うところを選ぶと思う。それに……先輩といたら辛いし」
少し悲しそうな表情をする綾菜。卒業式のときのように綾菜と山上だけの踏み込めない空間を感じてしまって、それでも必死にそれを超えようと智成はもがく。目の前にいる綾菜がとても遠くに感じて苦しい。
それでもやっとの思いで言葉を振り絞る。
「あの……綾菜先輩って、その……山上先輩と付き合っていたんですか?」
智成は綾菜の目をまともに見られない。
山上がまだ在学中の時からずっと聞きたくても聞けなかったことだ。綾菜にとって山上和久とはいったい何なのか? 流れの中で聞いてしまったことに後悔する。そんな智成の心の動きなど、綾菜は知る由もない。
「……違うよ。私と彼はそんなんじゃない」
綾菜の言葉に智成の心がざわつく……だったらいったい? 智成の疑問も、ほんの少しの安堵も綾菜の次の一言で吹き飛んでしまった。
「彼がつきあっていたのは……私のお姉ちゃん」
綾菜のあまりにもさらり放つ一言に、智成の思考が追いつかない。
「……お姉ちゃん?」
混乱する智成をよそに堰を切ったように綾菜が話し出す。綾菜も進学先を選ぶうえで、様々な悩みや葛藤があった。きっと誰かに聞いてもらいたい気持ちもあったのだろう。そして、綾菜の話は簡単に誰でも聞いてもらえるような内容ではなかった。
運命などという言葉を智成は信じてはいなかったが、生徒会長を引き継ぐことになったこの日、智成が綾菜の話を聞くこととなったのは、そうした力が働いていたのかもしれない。
「そう、私のお姉ちゃん。綾華って言うんだけど、お姉ちゃんも生徒会長をやっていたんだ、山上先輩が入学した時の三年生、ちょうど私と入れ替わりの歳になるかな」
「生徒会長? お姉さんも?」
綾菜に姉がいることも、ましてやその姉も生徒会長を務めていたことも聞いたことがなかった智成は面食らってしまう。同時に少しは綾菜のことをわかりかけてきたと思っていた自分にこの一年半は何だったんだと恥ずかしくなってしまう。
「私にとって3つ上のお姉ちゃんはずっとあこがれの存在だった。彼にとってもきっとそう。私が生徒会に入ったのも姉の影響……でも、どんなにあこがれてもお姉ちゃんには追いつけない」
綾菜は智成から視線を外す。そのほんの少しの動作にただならぬものを感じる。
「……お姉さんは今?」
「……亡くなったわ」
二人の間の時が止まる。急に速くなる鼓動さえ聞こえてきそうだ。
「……亡くなった?」
「ええ、姉は卒業後に進学した先のアメリカで事故にあって亡くなった」
アメリカという言葉と山上の選んだ進路が智成の中で重なる。背中に何か冷たいものを感じた。
「彼がアメリカの大学を選んだのも、私がそうなのもきっと、姉にあこがれて……その背中を追っていた二人が姉がその先で見ていたものを見つけて、あこがれにけりをつけようしているからかもしれない」
あこがれはあこがれのままでいつまでもいられない。ましてや永遠の追いつけない背中はどうすればいいのだろう?
あこがれは原動力だ。
人は何かにあこがれ、それを目指して、モデルにし、それを手に入れようとする。でも、きっとあこがれているだけではそれは手が届かなくて、手に入れたとき、あこがれはあこがれだけではやっていけなくなる。
綾菜にあこがれた智成、村上綾華にあこがれた山上和久と綾菜。
今まではただそれだけでよかった。自分にとって理想の生徒会長は村上綾菜であり、綾菜の背中を追っていけばよかった。だが自分自身が生徒会長になった今、本当にそれでよいのか、智成にはわからなかった。
卒業式の前日、家で綾菜に向けてのためだけの言葉を紡いでいても結局答えは出ないまま朝を迎えた。
「……今、先輩方とのそんな想いで胸がいっぱいです」
智成はここで一呼吸を置いた。本来ならここから送辞は締めの言葉に向かっていく。だが、智成の持っている式辞用紙はここからが白紙のままだ。今日卒業していく綾菜に贈る言葉が一晩考えてもどうしても出てこなかった。
智成は大きく息を吸い込むとただ胸の奥からあふれ出てくる想いを言葉に紡ぐ。
「私は先輩にあこがれてここまでやってきました。初めて出会った時の輝いていた姿、その輝きを追いかけてずっと……でも、その輝きのまぶしさに目を閉じて、自分には届かないものだと決めつけて、追いかけるふりだけをしてその実、心の中では諦めていたのかもしれません。一人では本当に何もできなくて、別にこれといった取り柄のなかった私を変えてくれたのは先輩です。だからこそ、あこがれはあこがれのままではいけなくて、そのあこがれを超えようともがいてみます。そんな勇気を私にくれたのも先輩です」
思いつくままに言葉にしていくので文脈が支離滅裂になる。周りの生徒の中にも何か様子がおかしいと訝しがるものもいた。生徒会の担当教師は青い顔をしているが今さら送辞を止めるわけにはいかない。
智成の想いはさらに加速していく。いつの間にか生徒会長としてではなく、智成自身の言葉があふれていく。
「今だから言えます。僕はあなたが好きだった。何に対しても一生懸命で、誰に対しても優しくて、そんなあなたの横顔に僕は追いつきたい、横に並びたい」
一度ざわつきかけた式場も、智成の真っすぐな想いに惹きこまれていく。呼吸するのもためらわれるほど、まわりの空気が智成に収束しているように感じた。
人を惹きつけることも生徒会長の力の一つだとしたら、今の智成の言葉は山上も綾菜も超えているのかもしれない。
「だから、あなたがしたように、あこがれをあこがれのままで終わらせたくないから、だから……」
最後の言葉に思いを込める。
「僕はあなたを卒業します」
日付と名前を言って、正面に深々と礼をする。
……だめだ。顔をあげられない。礼をしたままの姿勢の智成に対して、初めはまばらに、次第に会場に響き渡る大きな拍手が起こる。式の中で行われる送辞や答辞に対して、普通は拍手は起こらない。今回のようなケースは異例中の異例だ。
卒業式の私物化は許されるはずない。智成は式が終われば、あらゆる罵りも罰も受ける覚悟を持っていた。正直なところ卒業する三年生に対して申し訳ない気持ちでもいっぱいだった。
それだけにまず三年生から起こった拍手に、頭を下げた状態のまま涙がにじんだ。
送辞を演台に置き、自分の席に戻る智成。次はいよいよ村上綾菜による答辞だ。席をすっと立ち、円台の前に歩みを進める。制服のブレザーから答辞を取り出すと、一文字ずつ噛みしめるように読み上げていく。
透き通るような声で綾菜が答辞を読み上げる。今、この瞬間は綾菜が世界の中心になる。その世界の中心にいる綾菜と途中で目が合った気がした。
徐々に感情が昂り、卒業生の席からすすり泣く声が聞こえる。綾菜の言葉に一層の思いがこもる。綾菜の目に光るものが見える。
入学式、卒業式、成人式……日本には様々な式がある。式はいったい何のためにあるのだろう? 「節目」という言葉が脳裏に浮かぶ。本当は人生はずっと同じ方向に流れていく川のようなもので、今日と同じ日なんてものは二度とないことは誰もがわかっている。
それでも、その新しい日々を迎えるための区切りとして、私たちは様々な式を終え、また新たな一歩を踏み出す。
送別の歌が流れ、卒業式が終わる。
卒業式の後、卒業生は最後のHRを行う。その間、智成は生徒会の担当教師からたっぷりとお目玉をもらったが、最後の卒業生を送る花道に並ぶことは許可してもらえた。
校庭にはすでに保護者や在校生が並んでいる。智成も慌ててその列に加わる。HR終了後、卒業生はこの花道で見送られて、高校を後にする。部活に入っている在校生はこの花道で記念の色紙などを渡すことが慣例となっている。
校舎の入り口辺りで歓声が起こったと思うと、次々卒業生が出てきた。笑顔で出てくるものもいれば、涙でくしゃくしゃになっているものもいる。智成の並んでいるあたりも、色紙や花束を抱えた卒業生たちが通っていく。
しばらくして綾菜が校舎から出てくるのが見えた。同じクラスの先輩と泣きながら花道を歩く。少しずつ近づいてくる綾菜に、智成の胸が高鳴る。周りの喧騒も聞こえなくなり、世界が二人だけを映し出す。
近づいてくる綾菜と目が合った。智成は綾菜に向かって頭を下げる。目の前を通った時、綾菜が智成に何やらささやいた。その言葉も花道の中に消えていく。
「トモ、いいの?」
いつの間にか隣にいた北川由貴が智成に声をかける。
「……いいんだ」
八雲学園の校門を出ていく綾菜の背中を見ながら智成が答える。
三月に入ったばかりだが、どこまでも澄みわたる空は確かに訪れた新しい季節を、智成に感じさせた。
そして、僕は君を卒業する。



