桜庭陽菜は、彼との距離が少しずつ縮まっていくのを感じていた。

最初はただの偶然の出会いだと思っていたその歌声が、今では彼女の心に深く根を下ろしていた。

彼の存在が、日常の中で確かなものとなり、陽菜はそれを感じ取るたびに、心の中でひとつの壁を崩すような感覚を覚えた。

しかし、その感情の中には、いつも恐れが伴っていた。

彼に心を開くことで、また傷つくのではないか—その不安が、陽菜の心の隅で消えることなく燻っていた。

彼との時間が積み重なるにつれ、陽菜は少しずつ心を開いていく自分を感じていた。

彼と歌声を交わすたびに、過去に抱えていた痛みが少しずつ和らいでいくような気がした。

最初は怖くて避けていた感情も、少しずつその手のひらに乗せてみると、意外に痛みが優しく感じられることを知った。

過去の傷に触れることが、決して自分を壊すことではないと気づき始めた。

ある夜、また彼が歌っていた。

陽菜はその歌声を聞きながら、胸の中にあふれる感情を押し殺すことなく、ただその音に身を委ねた。

彼の歌は、まるで陽菜の中に潜んでいた痛みを引き出し、それを静かに癒してくれるような優しい力を持っていた。

「どうしてこんなにも…心が震えるんだろう」

陽菜は自分でもその理由がわからないまま、ただ彼の歌声に身を任せていた。

歌詞の一言一言が、彼女の心の中に溶け込んでいく。

彼が歌うその声には、何かが重なり合うような力があった。

彼の歌が、陽菜の心の中で言葉にならない思いを形にしていった。

その時、ふと陽菜は彼に視線を向けた。

彼の目は閉じられていて、歌に没頭しているその姿はどこか儚げだった。

陽菜はその表情に、今まで見たことのない感情を感じた。

彼もまた、誰かに届くことなく歌っているように見えた。

彼は、陽菜が感じている孤独や痛みを、歌声を通じて共有しているように思えた。

陽菜は静かに歩み寄り、彼の歌が終わるのを待った。

その時、少しだけ目を開けた彼が、陽菜の視線に気づき、優しく微笑んだ。

その笑顔が、陽菜の胸に温かいものを残し、彼女は自然に歩み寄った。

「あなたの歌…私、好きです」

陽菜が言葉を発した瞬間、彼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにその笑顔を深くした。

陽菜はその笑顔に、心の奥底から温かさが広がるのを感じた。

そして、彼の歌声が心に響き続けているのを感じながら、

陽菜は初めて、自分の中にある「生きる意味」を少しずつ見つけ始めていた。

歌は彼女にとって、ただの音楽ではなく、心を開く鍵となった。

彼の歌声を通じて、陽菜は自分自身を少しずつ受け入れ、そして、心の中の痛みを彼と共有することで、少しずつ癒されていった。

それは、彼との関係が深まることで、彼女が初めて「生きる意味」を感じる瞬間だった。