桜庭陽菜は、あの夜以来、彼の歌声がどこか心に残っているのを感じていた。

最初はただの通りすがりの出来事だと思っていたけれど、いつの間にかその歌が彼女の中で響き続けていた。

歌詞が浮かんでくる度に、陽菜はその意味に心を重ねるようになっていた。

「どうせ誰も見ちゃいないから」と歌う彼の言葉に、陽菜は自分の孤独を見透かされたような気がして、

少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。

彼の歌声は、陽菜の心の中にあった空虚感をやわらかく包み込むようだった。

まるで、その歌が彼女の抱えていた寂しさを理解してくれているかのように。

声が届くたび、陽菜はその響きに引き寄せられる自分を感じた。

彼が歌う理由も、ただひたすらに歌うその姿勢も、何かに引き寄せられるように強く心に残った。

しかし、心の中に膨らむ感情には、少しの恐れも伴っていた。

もしも、彼の歌声がもう一度聞こえなくなったら? 

もしも、彼の存在が消えてしまったら? 

その不安が、陽菜をどうしても支配していた。

「こんな感情に振り回されるべきじゃない」と、何度も自分を押さえ込もうとしたが、

それがますます彼の歌に引き寄せられる理由にもなっていた。

ある日、再びその歌声が陽菜の耳に届いた。

風に乗って、どこからともなく聴こえてくるその声に、陽菜は無意識のうちに足を止めていた。

彼がいつも通り、街角で歌っているのを見つけた瞬間、胸が高鳴るのを感じた。

その歌声が、自分の心の中でどんどん大きくなっていくのを感じながら、陽菜は静かにその場に立ち尽くしていた。

彼が歌う一節が、今の自分の心情そのものであるかのように感じた。

「どうせ誰も見ちゃいないから」

陽菜はその歌声を聴きながら、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていった。

それは感動の涙ではなかった。

彼の歌声が引き起こしたものではなく、どこか深くに閉じ込めていた自分の不安や恐れが、ついに表に出てきてしまったのだ。

涙は止まらず、ただ流れ続けていく。

自分の内側で押し殺してきた感情が、溢れ出してきた瞬間だった。

陽菜はその涙をぬぐうことなく、彼の歌声に身を任せていた。

心の中で、何かが少しずつ変わり始めるのを感じながら、彼の歌を聴き続けた。

涙は、ただの感情の表れではなく、彼との繋がりが生まれる瞬間の証だった。

そして、陽菜はその瞬間を、何か大切なものを見つけたように感じていた。

けれど、心の中で渦巻く不安はまだ消えていなかった。

彼の歌が、ただひとときの安らぎで終わってしまうことを恐れていた。

もしも、その歌声が自分の手の届かないところへ行ってしまったら—。

その恐れが、陽菜をさらに彼に引き寄せることになった。