桜がカフェの扉を押すと、薄明かりの中、ひとりの青年がピアノの前で静かに歌っていた。

彼の歌声は、温かな風のように空間に広がり、桜の心に静かに染み渡っていく。

それは、何かを解き放つような、心の奥深くに触れるような、そんな温もりだった。

桜はその瞬間、初めて自分の中に何かが芽生えるのを感じた。

冷え切っていた心に、ひとしずくの温もりが落ちたようだった。

遼が歌い終わると、静寂が部屋を包み込み、彼は桜の存在に気づき、ゆっくりと顔を上げた。

その目は優しさに満ちていて、桜は思わず息を呑んだ。

遼はほんの少しの間、静かな微笑みを浮かべながら、そっと声をかけた。

「こんにちは。歌、気に入ってくれた?」その言葉に、桜は少し驚きながらも、うまく答えられずにただ頷くことしかできなかった。

彼の存在は、桜にとってどこか遠い世界のようで、でもその温かさには引き寄せられるものがあった。

桜はうまく言葉にできないまま、少しずつ会話が始まった。

遼は不思議と、桜が何かを隠していることに気づくようだった。

けれど、彼は無理にそれを問いただすことはなく、ただ静かに桜を見守ってくれる。

桜はその優しさに少しずつ心を開いていく。

しかし、心の中で、またひとつ不安が芽生えた。

「もしも、これが壊れてしまったら?」彼の温かさを受け入れることで、

失うものがあるのではないかという恐怖が、無意識に桜を包んでいった。

彼の優しさに触れるたびに、桜は少しずつ恐れていた。

優しさが消えた時に、再び孤独に戻ることを。

桜は心の中で、何度も問いかけていた。

「本当に、これでいいのだろうか?」でも遼はただ、微笑んで言う。

「君がいて、僕は嬉しい。」その言葉が、桜の胸の奥を締め付けるように響く。

桜はその優しさに、どうしても答えることができなかった。