あの日、キミを助けたのはオレでした



 学校で険悪になった同級生と、お隣さんだったぜ!
 いや、険悪というほどではないかもしれないけど、少なくとも仲良しというわけではない。一緒に帰ったのだって、熱海の親友の黒川さんがいて、俺が怪我をしていて、そしてその怪我の要因が熱海に関わるものだったからだ。

 嬉しいか嬉しくないかと聞かれたら、ものすごく微妙だ。神を呪うとは言ったが、やはり熱海が美少女であることには違いないし。
 絶対に本人には言ってやらないが。

 しかし当初は『途中まで』という話だったけど、その『途中』とやらは彼女の家から徒歩十歩以内の距離だったとは誰も思うまい。俺も夢じゃないかとエレベーターの中で頬をつねったぐらいだ。ちなみに、熱海も一緒に頬をつねっていた。

「家の目の前までお見送りどうも」

「隣なんだから仕方ないじゃない――っていうか同級生が隣とか最悪なんだけど!? あんた、絶対お風呂とかトイレの音とか聞かないでよ!? もし壁に耳当てたりしたらアイスピックで突き刺すわ!」

「しねぇよ。そして怖ぇよ」

 キーキー言い始めた熱海には、このマンションの防音性能を語ってから納得してもらった。引っ越しに気付いたのも、玄関から聞こえた業者さんたちの声のおかげだからな。生活音や物音に関しては、よほど騒いだりしないかぎり聞こえないレベルだろう。

 まぁ、隣に熱海がいようがいまいが、関わることはないと思う。
 俺とは朝の通学時間が違うし、帰宅時間はいくらでもずらせる。
 前に熱海の部屋にいた住人とも一年で数回しか顔を合わせていないし、あまり深く考えすぎないほうがいいかもしれない。


 ――そんな風に楽観的に考えていた時期が俺にもありました。


「なんだぁ?」

 夜の八時半――部屋に備え付けられたインターホンから『ピピピピピピピピンポーン』というけたたましい連打音が聞こえてきた。
 洗濯物を畳むのを中断し、俺はモニターで玄関の様子を確認する。

「お、おぅ……」

 ピンク色のパジャマ姿の熱海がいた。
 グレーのヘアバンドを頭に付けて、顔に泥パックらしきものを塗りたくった状態で。
 現在この部屋に俺しかいないとわかっていたとしても、これはないだろ。

「どんな状態で外に出てんだよこいつ……羞恥心とかねぇのか」

 インターホンの連打が止まないので、俺は小走りで玄関へ。
 鍵を開け、続いて扉を開けると、

「なんでもっと早く出てくれないのよ!?」

 なぜか怒られた。なんで俺は怒られているんですかねぇ。さっぱりわかんねぇや。
 風呂から上がってそんなに時間が経っていないのだろう。彼女からはフワリと花のような香りが漂ってきた。

「そんな状態でいったい何の用だ……? というか恥ずかしくないの? お前?」

 エントランスから出たらたぶん職務質問されるぞコイツ。というか、この廊下に他の住人がいなくて良かったな。一歩間違えれば悲鳴が響き渡ってパトカーが出動していたかもしれん。

「私は大好きな運命の人にさえ綺麗な姿を見せられたらそれでいいのよ! あんたにどう思われようが別にどうでもいいわ! ――って、そんなことよりGが出たの! あの黒の悪魔が! 二匹も!!」

 そっか、ゴキブリ二匹がでたのか。

「大変だな。じゃ、俺漫画読んでる途中だから」

 適当に嘘を吐いて扉を閉めようとすると、熱海は身体をドアの隙間にねじ込んでくる。その顔でやられると素直に怖いんだけど。

「ちょっとあんた、薄情じゃない!? か弱い乙女が助けを求めてるんだから、ちょっとはかっこいいところ見せなさいよ! それともあんた、陽菜乃を助けた人とは別人なの!?」

「別人じゃなくて本人ですが……あー、じゃあこうしよう。お前があの階段の事故に関して、これ以上俺に『言いなさい』だとか『伝えろ』だの言わなければ、責任を持って二匹とも退治してやる」

「――なっ!?」

 俺の提案に対し、彼女はこちらを強く睨みつけ、耳を真っ赤にしてからプルプルと震え出した。たぶん、泥パックが無ければ顔も真っ赤なのだろう。これで俺の嫌悪度がさらに上がった気はするけど、致し方あるまい。

 三十秒ほど俺を睨み続けた熱海は、いつの間にか涙目になっていた。
 そして彼女は、「もういい」とボソッ震えた声で呟いてから、自室がある方向へと歩いて行った。

 その瞬間、とてつもない罪悪感が襲ってきた。
 俺としては『もう伝えないでいいから、ゴキブリをなんとかして』――そう言ってくれることを望んでいたのだがなぁ。上手くいかないもんだ。

「……っはぁああああ。しょうがねぇなぁ」

 玄関に置いてあった鍵を手に取り、サンダルを履く。廊下に出て素早く鍵を掛けてから、俺は閉じかけていた熱海の部屋のドアに左手を挟み込んだ。

「……なによ」

「ゴキブリ、退治してやるよ。その代わり、男臭いとか部屋の中見るなとかごちゃごちゃ言いだしたら帰るからな?」

 肩を竦めながらそう言うと、熱海は「自分でなんとかする」と答えた。しんみりとした空気だが、彼女は相変わらず泥パック装備中である。油断すると笑ってしまいかねない。

「自分でやるから、あのこと、ちゃんと陽菜乃には伝えて」

 こいつは本当、そればっかりだな。頭の中そのことだけしかないのかよ。

「断る……だけど、お前からしつこく言われることに関しては我慢する。とりあえず現状維持ってことでいいだろ?」

 平穏な日常のために、頷いてくれると助かる。

「……いいの? あんたまた、なにも得られないじゃない」

「別に何か見返りを求めてやるわけじゃないし。というか、ゴキブリ退治なんて大した仕事じゃないから、本当に気にすんなよ」

 今回に関しては、俺の作戦が失敗しただけだからな。
 もし、こいつがどうしても何かお礼をしたいというのならその時は洗濯物を畳むのを手伝ってもらうことにしよう。
 片手じゃ難しいし、遅い時間に仕事から帰ってきた母親にやらせるのは申し訳ないからな。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 ゴキブリ退治に関して、これは驚くほどにあっさりと終わった。
 伝家の宝刀『丸めた新聞紙』は用意できなかったが、熱海家にあった殺虫剤とティッシュであっさりと任務完了。
 よほどゴキブリが苦手だったのか、彼女は涙を流して喜んでいた。『ありがとう』という言葉も、おそらく五十回近く聞かされた。

 そして現在、彼女は俺の家にやってきて、下着やら見られたらまずそうなモノ以外の洗濯物を畳んだのち、自分の家からエプロンを持ってきてシンクに付けてあった洗い物までやってくれている。
 洗い物を始めた時には、そこまでしてくれなくていい――と声を掛けたのだが、「これは親友を助けてもらったあたしからのお礼」と、いつか貰ったお礼を再度もらうことになってしまった。

「そっちはいいのか? 家事とか」

 俺はというと、彼女の隣で作業を眺めているだけである。だって後ろで座っているだけってのも落ち着かないし。

「こっちは帰って来てからすぐに終わらせたわ。あとは寝るだけよ――他に片手じゃ難しいことはない? 言ってくれたほうが考えないでいいから楽なんだけど」

「ギプスの中が蒸れてかゆい」

「それは我慢するしかないでしょ――はい、おしまい」

 シンクの中を綺麗に洗い流した熱海は、手をタオルで拭きながら言う。

「ありがとう、助かった。ゴキブリが出た時はいつでも呼んでくれ――ただ、あの姿で廊下に出るのは賛成できないけどな」

 笑いながらそう言うと、彼女は少し顔を赤くする。

「そ、それはちょっとあたしも反省してるわよ。パニックになっていたとはいえ、いくらなんでもはしたない姿だったなって――じゃあ、チャットのIDを交換しておきましょう。Gが現れたらメッセージか鬼電することにするわ」

 そういうことになった。まぁ洗濯物だけじゃなく洗い物までしてもらったし、数回分ぐらいは助けてやることにしよう。鬼電は勘弁してほしいが。

 ピコンという通知音のあと、『熱海道夏』という名前が俺のスマホに表示される。
 あちらには『有馬優介』という文字が映し出されているのだろう。
 チャットのIDを交換し終えると、彼女は「じゃあ帰るわね」と玄関に向かって歩き出す。見送るために、俺も彼女のあとに続いた。

「じゃあな熱海。また明日」

「また明日、おやすみ有馬」

 試しにこちらから名前を呼べば、熱海はあっさりと俺の名前を呼んだ。
 たったこれだけのことなのに、少し嬉しく思ってしまった俺は、自分で思っているよりずっと単純な人間なのかもしれない。