中間試験が終わり、その週の終わりにようやく俺のギプスは外れた。
 前回見た時と変わらずミイラのように細い腕で、これからは元の状態に戻るまでリハビリとなる。

 といっても、ギプスの状態の時からちょこちょこ手は使っていたから、不便が解消される喜びよりも、服の着替えやすさとか風呂の入りやすさが元に戻ったのが何よりもうれしかった。

 中間試験前に、俺と熱海が風邪をひいたり、黒川さんが熱海家に泊まりに来たついでに我が家へ訪れたりして、そのさなかには二人の様子が平常ではなさそうな雰囲気を醸し出していたのだけど、試験の全日程が終わるころには、完全に元通りとは言わないまでも、少なくとも二人はクラスメイトには気づかれないレベルにまで落ちついていた。

 黒川さんは、時々挙動不審になる。
 熱海は、時々ため息を吐く。

 どちらの原因もわからないし、二人とも教える気はなさそうだから、以前蓮と電話で話した通り、少し様子見をしてみよう――というのが現在の俺のスタンスである。

「今日のお昼には中間試験の順位を発表するから、成績悪かった人は心の準備をしておいてね~」

 教卓の前に立つ、担任の草津先生が意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。
 現代文を担当している女性教師で、彼女は玄仙高校の先生たちの中ではたぶん一番若いはずだ。たしか、まだ二十代前半だったと記憶している。

 本人のどこかあっけらかんとしたような雰囲気と、学生と年齢が近いということから、生徒からの人気は高い。美人で、男女ともに人気のある先生だ。下の名前で『唯先生』と呼ばれていることもある。

 少し窓の外に目を向けただけで注意してくるような先生でなければ、俺としてはどうでもいい。あとは、『友達できた?』なんて言って余計なおせっかいを焼いてくる教師でなければいいのだ。

「体育ではまもなくプールが始まります――だからみんな水着を確認しておいてね? 成長期だからサイズが合わなくなっている人もいるだろうし、たま~にビニール袋に入れっぱなしにしてカビをはやしちゃう子もいるから。あとは……あ、そうそう。来週の木曜日はスポーツテストがあるから、体育はないけど体操服を忘れないように。いちおう前日にもう一度お知らせはするね」

 時折丁寧な言葉は交じるけど、だいたいは友達と話すような口調の先生だ。

「水泳って言ったら、有馬の得意分野じゃない?」

 熱海が廊下側の壁に背を預け、俺の机に肘をついてから話しかけてきた。スイミングスクールに通っていたというよりは、市民プールでひたすら練習していただけなんだよな。だから当然、水泳部のように誰かに教えてもらっていたわけではない。

「得意って言っても、水泳部のやつらには普通に負けるぞ。どちらが長く泳げるかって言われたら、いい勝負はできそう――いや、最近はあまり運動らしい運動もしてないからな、部活してるやつらには負けそうだ」

 それでもランニングぐらいはしていたけど、骨折してからはそれもしていない。

「そっか……あ、あたしも泳ぎはちょっと得意なのよ? 小学校六年生のとき、一年ぐらいスイミングスクールに通ってたから」

 ほう。どうやら熱海も問題なく泳げるらしい。
 そもそもの印象が『運動ができそうな女子』って感じだから、それを聞いたところであまり驚きはないのだけど、会話の流れに乗って「そうだったのか」と多少驚いたふりをした。

「まだ右手は完治してないでしょ? プールもそうだけど、スポーツテストとか難しいんじゃない?」

 熱海は俺の右手に目を向けながら質問をしてきた。

「さすがにハンドボール投げとかはするつもりはないけど……それ以外はなんとかなると思うんだよな。というか、単純にスポーツテストも水泳も嫌いじゃないから参加したい」

 自分の運動能力が数値化されるのって、なんだかわくわくするよな? 俺はする。

「ほんとに? 痛くないの?」

「平気平気」

 ほっそりとした右腕を、机の上に置いて熱海の近くに移動させる。すると彼女は、俺に「痛くない?」と逐一聞きながらぷにぷにと俺の腕を人差し指でつついてきた。どちらかというとこそばゆいし、あとは少し恥ずかしい。

「熱海さ~ん? 有馬く~ん? 仲良しなのはいいことだけど、いま先生が話してるんだけどな~? 話、ちゃんと聞いてたかな~?」

 顔はニコニコ、しかしどこか暗い雰囲気を漂わせて草津先生が言う。
 そういえば先生、最近彼氏と時間が合わなくてあまり遊べてないみたいなことを愚痴ってたな……まさかとは思うが、それで俺たちに八つ当たりしているんじゃないだろうか。友達とはいえ、いちおう俺と熱海は男女だし。

「す、すみません!」

 熱海は先生に向かって謝りつつ、顔を赤くしてから俺に背を向けた。俺はへこへこと頭を何度か下げて、両手を太ももの上に乗せる。
 ちらっと左隣りに目を向けてみると、俺たちを見ながらクスクスと黒川さんが笑っていた。

「ほんとに有馬くんたちは仲良しだよね。でも、先生のお話はちゃんと聞かなきゃだめだよ? 本当は私だってお話したいけど、我慢してるんだから」

 黒川さんはこちらに少しだけ体を寄せて、小声でそんなことを言ってくる。仲良しと言う言葉に反応して熱海の体がピクリと震えたが、ここでまた熱海が振り返れば先生の堪忍袋の緒が切れる可能性があるだろう――だからか、彼女の動きはそれだけだった。

「悪い悪い。ホームルームになったら好きなだけ熱海と話してくれ」

 熱海と同じく、黒川さんも友達をとられた気分になっているのかもしれないなぁと思いつつそう言うと、なぜか彼女はこちらにジト目を向けてきた。そして「ラノベ主人公」というよくわからない単語をぼそっと呟いて、椅子をずらしてさらにこちらに近づいてくる。

「有馬くんもだよっ、なんで自分をのけ者にしてるのっ」

 小声だけど必死さの伝わってくるような言い方で黒川さんは言う。どうやら単純に熱海と話したかっただけでなく、会話の輪に加わりたかったということらしい。
 この辺り、たぶん俺の自己評価が低いことが関係しているんだろうなぁ。いい加減なんとかしなければとは思うけど、体に染みついたものはなかなか消えてくれない。

「逃げない――逃げないからさ。ちょっとこっちに近づきすぎじゃないか? もう机から半分以上体がはみ出してるぞ?」

「へ? あ、本当だ」

 と、黒川さんが言ったころ、俺は草津先生がまたもやニコニコとした表情でこちらを見ていることに気づいた。そしてクラスメイトたちの視線も、ちらほらとこちらに集まっていることに。

「有馬く~ん? 随分学校生活を満喫しているようだけど、そろそろ私怒っちゃうよ~」

「すみませんでした」

 神経の伝達速度を最大限に生かして頭を下げた。額を机に着けて、このまま眠りてぇと思いながら。だって、ちらっと見えた男子たちの視線が怖かったんだもの。顔を上げたくないです。

「せ、先生っ! 今のは私から有馬くんに話しかけたんですっ! だからっ、有馬くんは悪くないんですっ! 彼を怒らないであげてくださいっ! お願いしますっ!」

 黒川さんが勢いよく席から立ち上がりそう言うと、草津先生はポカンとした表情を浮かべる。それから数秒後に彼女は、うわごとのように「これが青春……」と呟いた。

 そして当然といえば当然なのだろうが、俺に突き刺さる嫉妬の視線は鋭くなっていた。