ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと何度も謝った熱海は、その後十分ぐらい、じっと俺の胸にしがみついていた。
 俺が黒川さんに言いたくない理由を知って、自分が嫌なことをしていたんだと自覚してくれたんだろうけど……ちょっと泣きすぎじゃない? 黙ってはいるけど、未だしゃっくりのように喉をならしているし。

 そしてさすがに、こんな美少女に抱き着かれているような状況は精神衛生上かなり危ない。女の子に抱き着かれてドキドキしているけど、やっぱりこれは恋とかそういう感情じゃないと思う。黒川さんに同じことをされても、俺はきっとドキドキするし、嫌な気分にもならないと思うから。

 やがて、熱海はゆっくりと顔を上げた。頬は涙で濡れていて、部屋の明かりをテカテカと反射している。鼻の下も赤くなっているし、なんなら鼻水が飛び出していた。
 こんな顔、熱海は運命の人に見られたくないだろうなぁと苦笑して、「ほれ、ティッシュ」とテーブルの上に置いてあったティッシュを数枚熱海に手渡した。
 無言で俺からティッシュを受け取った熱海は、チーンと勢いよく鼻をかむ。そしてハッとした様子で俺を見上げて、

「い、いまの聞かなかったことにして!」

 なぜか恥じらっていた。なにをいまさら。

「泥パック姿を見せた相手だぞ? 鼻かむ姿ぐらい別になんとも思わないけど」

「そ、それも忘れて!」

「無理です」

 断言すると、彼女は泣きそうな顔で「そんなぁ」と漏らした。やっぱり時々可愛いなコイツ。
 ソファーの上に女の子座りをして、俺を見上げながら唇を尖らせる熱海。しばらく不満げな表情で睨んでいた熱海は、足を正座の形に整えてから、頭をぺたりとソファーに付けた。

「ありがとうございました」

 そして熱海は、俺に向けてよくわからないお礼の言葉を口にした。
 これは……なんのお礼だ? あぁ、話してくれてありがとうとか、そう言う感じか。
 人の黒歴史を掘り返したとはいえ、俺から話したのだし、そこまで真摯にならなくてもいいのだけど。

「俺の黒歴史だからなぁ、他の人には言わないでくれよ?」

「うん……あと、この前叩いちゃってごめんね」

「平気平気。俺もひどいこと言ったし――悪かったよ」

 そう言って、俺は彼女の頭を左手でポンポンと叩いてから、「顔あげてくれ」と声をかける。俺から彼女に触れたのは、これが初めてのことだった。
 顔を上げた熱海は真面目な表情をしていて、正座の姿勢を崩さないまま口を開く。

「あのね、有馬の話を聞いて思ったんだけど、そのクソ女はきっと、有馬が嫌とかじゃなくて、たぶん怖かったり、恥ずかしかったり――そういう感じだったと思うわよ。ううん……たぶんじゃなくて、絶対にそう」

 泣いていた時もそうだったけど、熱海、やたらとあの女の子に対する言動がきついな。俺に感情移入してくれているのだろうけど、怒る必要はないんだぞ。

「蓮たちからも同じこと言われたよ。だけどさ、あの子が泣いた理由がどんな理由であれ、俺はこれっぽっちも恨んじゃいない。あの子にとって嫌な思い出として残ってなければいいなぁと、たまに思うけど」

「そんなことあるわけないっ! きっと、今もずっと、あんたに感謝してるわ!」

「そ、そうか?」

「そう! 絶対にそう! あたしの命を賭けてもいい!」

 俺に顔を近づけて、鼻息荒く力強い言葉で断言する熱海。命まで賭ける必要ないだろうに。
 でもまぁ、こうして肯定されるのは悪い気分じゃないな。
 熱海は俺にそう言ったあと、ソファーに深く座りなおした。なぜか、太もも同士が軽く触れあうぐらいの距離で。近くないですか?
 それを指摘するのは熱海を意識してしまっているようで気恥ずかしかったから、別の話題をふることに。

「俺のことは全部話したからさ、今度は熱海のほうを教えてくれよ。王子様とやらに助けられた話、詳しく聞いてなかったからな。それを聞いたら、俺も熱海の気持ちをより理解できるだろうし」

 すでに仲直り状態だし、きっと熱海は話してくれるだろうと思った。そうじゃなくても、彼女は運命の人について話すのはいつもすごく楽しそうだし。

「だ、ダメよ! あんたには絶対言わないっ! 陽菜乃にも聞いたらダメよ!」

「えぇ……俺は黒歴史を話したんだぞ? ズルくない?」

「べ、別にいいでしょ! もう陽菜乃に伝えろって言うのは控えるから、知る必要ないじゃん!」

 ふんっとそっぽを向いて、彼女は言い放つ。なぜ照れているのかはわからないが、耳がかなり赤くなっていた。
 まぁ熱海にしつこく『伝えろ』と言われないなら、別にいいか。

 ふむ、本当にそれでいいのか……?
 なんだか一瞬、なんともいえないモヤモヤが胸に渦巻いた気がする。なんだろうか、これ。熱海と俺の関係が希薄になるからとかだろうか?

「あたしのことはいいから、有馬のことよ! あんたは報われるべき人間、幸せになってしかるべき人間よ!」

 ビシッと俺を指さし、ついでとばかりに俺の頬を人差し指でプニプニしながら熱海が言う。頬を膨らませて対抗したら、プスッと潰された。

「あたしは有馬を最大限サポートするわ。親友も救ってもらったし、あんた昔クソ女を救った恩恵なにももらってないんでしょう?」

 相変わらず昔俺が助けた女の子に対するあたりが強いなぁ熱海。

「別に必要ないです」

「ヤダ」

 即答で拒否された。いつもなら熱海は『ダメ』という言葉が返してくるけど、今回はなんだか甘えん坊の駄々っ子っぽい印象だ。
 彼女の心境の変化は置いておくとして、

「俺のことよりも、熱海は運命の人のことを考えるべきなんじゃないか? ずっと好きなんだろ?」

 そう問いかけると、彼女はまた顔を赤くした。
 なんだか今日のコイツ、やたらと顔の色の変化が激しいな。

「ずっと昔から! 今も! 大好きよっ! なんか文句あるわけ!?」

 あまりの剣幕に、俺はどもりながら「な、ないです」と返事をする。怖えよ。

「だ、だけどさ、万が一熱海の運命の人に勘違いされたりしたら困るだろうし、俺なんかに構わず探していたら見つかるかもしれないだろ? その辺はどう思ってるんだ?」

 そう聞くと、彼女はムスッとした表情を浮かべてから、顎に手をあてて、考え事をするように視線を斜め上に向ける。よく見ると、長い睫毛は未だ涙にぬれていた。

「あたしのことは気にしないでいいわ。もしかしたら、もう会えないかもしれないし」

 淡々と、彼女はなんでもないことのように言った。

「急にどうしたんだお前? あんなに自信満々だったじゃないか。まだ好きなんだろそいつのこと。諦めるのか? 運命とやらを信じてるんだろ?」

 彼女が『もう会えない』と口にしたことで、自分のことのように心が苦しくなった。だから、自然と早口でまくしたてるようになってしまった。
 楽観的に、妄信的に運命の人に出会えると信じていた熱海は、いったいどこに消えてしまったんだろうか。

「あたしは運命を信じてるし、さっきも言ったけど彼が大好きよ。まぁ、死ぬまでに一度は会いたいかな」

 熱海は困ったように笑いながら、そう言った。

 お前は王子様と恋仲になりたいんじゃなかったのかよ。
 手料理を振る舞ってやりたいんじゃなかったのかよ。
 あんなに一途に想っている相手と顔も会わさず声も交わさず、ただ片思いを続けるだけで何十年も過ごすつもりだと言うのか熱海は? 
 一生、会うことができないかもしれないというのに。

 胸に重たい何かを感じていると、熱海は「大丈夫よ」と言いながら立ち上がり、くしゃりとした満面の笑みを浮かべて、眉を寄せている俺の顔を覗き込んだ。
 そして、

「有馬は信じていないかもしれないけど――運命や奇跡があることを、あたしは知ってるの」

 理由のわからない涙をひとしずく頬に伝わせながら――彼女はそう言ったのだった。