気まずい沈黙のせいで、店内の穏やかなBGM――それから他のお客の話声が大きく聞こえるようになった。だから、彼がテーブルの上に置いたスマホが震えたときは、さらに爆音に聞こえてしまった。

「どうやら妻も来たらしい――すまないね、まだ心の整理もできていないだろうに……僕から誘っておいてこんなことを言うのもアレだけど、優介くんが辛ければ、またの機会にしようか?」

 道真さんはスマホを素早く操作したのち、そんな風に言ってきた。

 おそらく、奥さんに『少し待って』みたいな感じで返信したのだろう。いくらいま平常心ではないとはいえ、それは申し訳ないな。

「いえ、問題ありません」

 俺がそう答えると、道真さんは少し間を挟んでから「わかった」と頷いた。彼は彼で、色々と考えてくれているのだろう。こんなクソ野郎のために。

 道真さんがスマホを操作して一分もしないうちに、奥さんらしき人が現れた。

 こちらの席に辿りつくよりも先に、俺は彼女を見て『あぁ、熱海の母親なんだな』と理解した。それぐらい、熱海の面影をはっきりと感じることのできる顔立ちをしている。

 道真さんも、ところどころ『熱海っぽいな』と思うところはあるけれど、言われたらわかる程度のものだからな。熱海はどちらかというとお母さん似らしい。

「希《のぞみ》、こっちこっち」

 道真さんはその熱海似の人を『希』と呼び、手招きしながら呼びかける。彼女は俺の顔を見ながら近づくと、席に座らず俺の隣に立った。

「初めまして、熱海希といいます。娘を救ってくださったお礼が遅くなり、申し訳ございませんでした。本当に、その節はありがとうございました」

 開口一番、彼女――希さんは道真さんがしたのと同じように深く俺に頭を下げた。

 夫婦そろって似たような感じだなぁ……高校生相手に勘弁してほしいという気持ちはあるけど、しっかりと感謝は受け取ろう。

「初めまして、有馬優介です。感謝の気持ちは受け取りましたので、頭を上げてください――先ほど、道真さんからもお礼はいただきましたから」

 苦笑しながらそう言って、それと同時に『あぁそういえば』とまた過去の記憶が呼び起された。

 俺はたぶん、熱海からもすでに感謝を受け取っていたのだろう。

 俺に受け取った自覚がなかったから――そして彼女がおそらく『伝えられない』と思ったから、その受け渡しは成立しなかったけど。

 たしかあの日、俺が熱海にすべてを明かしたとき――泣き終わったあとに、頭を下げて『ありがとうございました』って言っていたもんな。記憶力がそこまでよくない俺でも、なぜかあの時熱海は丁寧な言葉遣いだったから、記憶に残っていた。

 あれはきっと、俺が過去を話したからとかじゃなくて、七年前のお礼だったのだろう。もちろん、違う可能性もあるけれど。

「彼は――優介くんは、既に道夏と会っているらしい。事情は、複雑だけど」

 道真さんが希さんをソファに促しながら、そんな風に話しかける。

 俺を見て『話しても?』といった様子で目配せしてきたので、頷くことで了承の意を示した。

 それから希さんは、口をつぐんで、そして険しい表情で、道真さんから俺の現状を聞いていた。奥さんが来たら食事を――という話だったけど、そんな雰囲気にはなりそうにないな。



 俺は道真さんが話をするのを黙って聞いていた。

 訂正するようなことがあれば口を挟もうと思っていたけれど、道真さんが話したのは本当にそっくりそのまま俺が彼に伝えた内容と同じだったので、下手な伝言ゲームのようなことにならずに済んだ。

 話を終えた熱海夫妻が俺に何かを言う前に、俺からまず話しておきたいことがあった。どんなことを話すにしても、これを前提にしてほしかったから。

「熱海――道夏さんには、このことを伝えないでください。帰ったら、俺の口から伝えたいので。あと、俺は別に道夏さんを恨んだりはしていませんし、過去の出来事を後悔していませんから、お二人も気に病まないようにしてください」

 夫婦そろって罪悪感が見て取れるような表情をしていたので、言葉の最後に付け加えた。

 俺はもともと、相手が熱海でなくても、どんな相手であったとしても――『あの日の出来事が、女の子にとって嫌な思い出として残っていなければいいな』と考えていたのだ。

 逆に好かれているとわかれば、嫌に思うことなどない。
 ただ、先に道真さんが言ったように、事情が複雑なだけだ。

「お気遣いありがとうございます、優介くん。それと改めて、道夏を救ってくれてありがとうございました」

「私からも、本当にありがとう。君は命の恩人だ」

 もうお礼はいいんですって! 本当に熱海の両親って感じだなこの人たち!
 頭を下げる二人を再びなだめたところで、少し空気が軽くなった。

「優介くんと道夏は、学校でも仲がいいのかしら?」

「そう、ですね。姉の千秋さんとうちの母親が同じ職場ってこともありまして、なんか家族ぐるみの付き合いみたいになっちゃってます。熱を出した時には、お互いに看病しあったりしてましたし」

 俺が少し笑いながらそう言うと、彼らも同じようにクスリと笑う。

「なるほど、私たちだけがのけ者だったわけか」

「なんだか寂しいわねぇ。千秋も教えてくれたらよかったのに」

「ビックリさせたかったのかもしれないな」

「それもありえるわね」

 ふふふ、と上品に笑いあいながら熱海夫婦が話をする。
 仲睦まじい光景を見ながら、俺はあちらに帰ってからどうしようかと考えていた。

 熱海の両親からではなく、俺から伝えるのは確定。たぶん、お互いにごめんなさいを言い合うことになるのだろう。それから先、どのようになるのかはわからない。

 だけど、俺は真実を知ってもまだ、熱海が好きだと言える。

 むしろ気持ちは強くなったと言ってもいいかもしれない。彼女が俺に『幸せになるべきだ』というように、俺も彼女に『幸せになるべきだ』と言いたい。

 俺のことを好きになってくれた黒川には申し訳ないが――黒川――?

「――あ」

「? どうしたんだい優介くん?」

「す、すみません。なんでもないです。ご飯、注文しますか?」

 必死になってなんでもないように取り繕いながら、俺は道真さんと会話をする。顔に出ていなければいいが――たぶん、隠せなかっただろうな。衝撃が大きすぎた。

 公園で、黒川と話したときのことを思い出したのだ。

 様子のおかしい彼女を見て、俺は彼女が何かを隠しているのだと思った。そしてその考えは、やはり正しかったらしい。

 きっとあの時に黒川は、熱海の王子様が俺であることを――俺たちが両想いであったことを――知ってしまったのだろう。

 俺はどうやら知らず知らずのうちに、彼女の最後の望みを断ち切ってしまっていたようだ。