――水瀬のことが好きかもしれない。
 そう思ったと同時に現実に引き戻すように届いたアプリからのメッセージ。
 それを見た途端、今胸に抱いているものが機械によって創られたものなんじゃないかと急に怖くなった。
 なぜなら私たちはアプリでマッチングしたことをきっかけに再会し、こうして二人で顔を会い、互いを下の名前で呼んでいたのだから。
 そんなのまるで、アプリが用意した舞台で踊らされているみたいじゃないか。
 もちろん全部がそうじゃないのかもしれない。水瀬の優しさも笑顔も、きっと本物だ。
 でも、私たちの関係はたったひとつのアプリによって成り立っていた。これもまた事実だ。
 現にアプリから離れてから早二週間、私たちは一度も会っていない。
 いくらでもタイミングはあったはずなのに、連絡先を交換することもしなかった。
 結局はアプリが創りだされたまがいものの関係。それ以上でもそれ以下でもなかったんだ。

「ま〜た潰れてんね、一色」

 ここんとこずっとそんな感じだそーっと肩をツンツンと啄いてくるのは課題を出し忘れて先生に呼び出しを食らったばかりの光井だ。
 帰宅ラッシュを避けるために教室に残っていた私の隣に、やれやれとでも言いたげな表情で椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。

「そんなに悩むなら会えばいいのに。そう上手くいかないもんかねぇ」

 私だって出来ることならそうしたい。でもそれを選択するには、大きな引っ掛かりがもうひとつある。

「だっていくらなんでも早くない?」
「? 何が?」
「その‥‥‥水瀬のこと、好きになるの」

 いざ口に出すと、恥ずかしくなって頬に熱が篭もるのを感じた。それでも一度零れ始めた不安は止まらない。

「私、つい最近まで陽介のこと好きだったじゃん? なのに、そんなすぐに切り替わるものなのかなって。自分でもちょっとその変化に追いつけてないというか、なんというか……」

 どうも理性と感情がちぐはぐで、足並みが揃わない。
 私はきっと怖いんだ。自分の変化を認めることが。そして、水瀬と向き合うことが。

 黙りこくった私の気持ちを見透かすように、光井が口を開いた。

「その水瀬くんってさ、」
「うん」
「イケメンなんでしょ?」
「えっ、うん」

 いきなりなんのことだと驚く私をよそに光井は「頭もいいんでしょ?」と続ける。

「うん」
「しかも、」

 ここで言葉を切り、私と視線を合わせた。

「一色が辛いとき、隣にいてくれたんでしょ?」

 真冬の日光のような、小さな暖かさを包んだ優しい表情。それに水瀬の面影が重なって見えた。だからだろうか。

「――うん」

 そう答える声が少しだけ、ほんの少しだけ震えた。
 光井はそんな私にニッと笑いかける。

「そんなの、好きになるしかなくない?」

 ――ストン、と。
 胸のつっかえが下りる音がした。

「‥‥‥変、じゃない?」
「全く!」

 ほんとうるはは色々考えすぎなんだよねー。もっと好き勝手やればいいのに。
 軽快に笑った光井はその後すぐ校内放送で先生に呼び出されて教室を後にした。
 一人残された私はそろそろとスマートフォンを取り出して久しぶりにアプリを開く。
 本当は何度も消そうとした。でも、これで水瀬との関係が切れると思ったら、無理で。水瀬に距離を置こうと言って以来、通知をオフにして放置していたアプリにはいくつもメッセージが溜まっていた。
 たった二週間離れただけだけど、ここには水瀬との思い出がある。再開した日、ショッピングデートに行った日、制服デートに行った日。全てこのアプリに刻まれている。
 懐かしい気持ちになりながら一つ一つ開封していると、ある文章で手が止まった。

【最近彼と会えてないね>< 気が進まないならパートナーを変えることもできるよ!】

 ――パートナーを、変える‥‥‥?

 そんな機能があったんだと今になって知った。
 確かにいくらディスラヴが運命の恋を謳っていても、100パーセントそういう相手が見つかるとは限らない。中には嘘の情報を入力する人もいるだろうし。きっとこれはそのような場合のために講じた救済措置だ。
 動悸がする。もし水瀬がいきなり距離を取ろうって言った私に嫌気が差してこの機能を利用してたらどうしよう。考えてただけで胸が締め付けられたかのように苦しくなる。そんなこと知りたくないのに知らないのも怖くて、震える手で次のメッセージを開いた。
 途端、目に飛び込んできたのは――。

【ごめん。ちょっとだけでも会えない? 話したいことがある】

 今までとは全く違う文言だった。
 見ると、差出人のところに『つづり』と書かれている。
 逸る気持ちでもう一度読み直したところで、ようやく水瀬から送られてきたのだと理解した。
 アプリにメッセージを送る機能があったことにも驚きだが、水瀬から連絡があったことの方が衝撃だ。
 送信日は三日前。今更返信しても遅いだろうか。――いや、そうじゃない。
 遅くても、伝えなきゃいけないことがある。
 また陽介のときのように何もせずに後悔するのは嫌だ。

【私も話したいことがある】

 精一杯の気持ちを込めて送信ボタンを押すと、数分後に返事がきた。

【駅で待ってる】

 このメッセージを見た瞬間、私は教室を飛び出した。

  ❀̸︎

「水瀬!」

 呼ぶと駅の入り口で下を向いていた水瀬が、ゆっくりと顔を上げた。まるでどんな表情を浮かべればいいのか迷っているようだ。
 目が合ったところで、私は間違いに気づいた。

「あ、綴‥‥‥」
「無理に呼ばなくていいよ」

 水瀬に気にした様子はなく、視線を駅の外に向けた。

「ここじゃなんだから、少し歩こうか」
「うん」

 私が頷くとどちらともなく歩き始めた。
 アスファルトに2人分の影が落ちる。ゆらゆらと揺れて不安定だ。まるで私たちの関係みたい。そこから目を逸らすように視線を上に向けると、夕日に照らされ瞬く黒髪が映った。
 水瀬は私が大泣きした日と同じように一歩先を歩いている。その背中がいやに遠く見えて、気づけば口を開いていた。

「水瀬。ごめん」
「‥‥‥それは何に対しての謝罪?」
「いきなり距離取ろうって言ったことへの」

 水瀬が立ち止まって、身体ごと振り向いた。それに伴い私も足を止めて真っ直ぐと向き合う。

「私、怖かったんだ。水瀬のこと好きになるの。なんか全部アプリに操られてるみたいだし、この前まで陽介のこと好きだったくせにすぐ心変わりするのは軽薄すぎるんじゃないかって」
「――何それ」

 私が続きを口にする前に、水瀬の乾いた声が届いた。
 心臓が重く跳ねる。呆れられたのだろうか。不安でいっぱいの中、水瀬の薄い唇が動く。

「俺は中学の頃からうるはが好きなんだけど」

 一瞬、聞き間違えだと思った。
 パチパチと瞬きをして、水瀬を見つめる。彼は依然として真っ直ぐ私を見据えていた。

「っなんで、私のこと好きなの? 私たち、大して関わりなかったじゃん」

 水瀬の気持ちは嬉しいと思った。でも、それと同じぐらい疑問だった。その答えを得られないと私は水瀬の気持ちを受け止められない。
 水瀬は少し考える素振りを見せた後「ちょっと長くなるかもしれないけど、いい?」と前置きしてから語り始めた。

  ❀̸︎

 幼い頃から顔がいいということでちらほやされることが多かった。かっこいい、好き、推せる。何度言われたことか。
 そんなわけで俺にとって女子に好かれているのはごく自然のことだった。今になって思えばかなり傲慢だが、少なくともあの日まではそうだと信じて疑わなかった。
 だがあの日。

「あ、水瀬。これ先生が1組に配っといてだって」

 初めて話した同じ委員会の女子は要件だけ言って「じゃあね」とあっさり去っていった。
 衝撃だった。
 俺に全く興味を示さない、その態度が。
 今までどんな女子も少なからず俺に好感をもっていたのに、彼女はそんなの皆無だった。
 そのことがあまりに印象的で、一色うるはという存在を気づけば視線で追うようになっていた。
 そしてふと気づいた。一色うるはの目線の先には決まってあいつがいることに。中1から中2、中2から中学3になってもそれは変わらなかった。
 一色うるはは相馬陽介に片思いしている。思いを伝えるわけでも積極的にアピールするわけでもなく、ただただあいつを見つめていた。そんなことをする意味が分からなくて訊いたのが中3の秋。
 ――それでも、私は陽介が好きだよ。
 返ってきた言葉に気圧され、退散を余儀なくされた。
 心臓が痛い。一色うるはの顔を思い浮かべるだけで呼吸が浅くなる。こんなこと初めてだ。その理由は次に彼女を視界に捉えたときに理解した。

 どうやら俺は彼女のことがらしい。

 いつも目で追っているうちに芽生えたそれは、よりにもよって彼女も確固たる想いを聞いた後に自覚することとなった。
 ――ねぇなんでそんな無駄なことするの?
 ――だって好きになっても結ばれるとは限らないじゃん。
 今になって自分が発した言葉がグサグサと突き刺さる。
 それでも彼女への気持ちを断ち切ること出来ず、曖昧な関係のまま中学校を卒業し約1年たった頃。
 ――え、一色?
 ――み、水瀬‥‥‥?
 まさかの形で再会を果たした。

  ❀̸︎

「あ、この際だから言うけど罰ゲームの件、途中から嘘だから」
「えっ」

 水瀬の話を親身に聞いていたというのに、その一言で拍子抜けしてしまった。

「言われたのはアプリ登録までで、会うかどうかはさすがに自己責任だったよ。でもマッチングしたのが『うるは』って名前だったからもしかしたらって思って承認した。そしたらまじでうるはがいたから運命かもなって柄にもなく浮かれたよ。‥‥‥なのに、うるははまだ相馬陽介に片思いしてるって知ってどれだけ悔しかったか」

 日が沈みかけ、藍色に包まれていく空の下、水瀬の澄んだ声だけが耳に届く。

「それでも会い続けたのは何とか振り向かせられないかなって悪あがきね。アプリを口実にすれば自然と距離縮められるし」

 いたずらっ子のように笑った後、すっかり冷えて赤くなった私の頬に触れた。

「だから今うるはが俺を好きになったのは、機械に言われて勘違いしたわけでもうるはが流されやすいわけでもなくて、俺がうるはに好きになってもらえるように頑張ったからだよ。何かと理由つけて俺の頑張りを否定しないでよ。流石の俺でも傷つく」

 水瀬は小さく笑った。まるで私を優しく包むように。

「え、じゃあ陽介のこと覚えてなくて、私のこと覚えてたのは‥‥‥私のことが好きだから?」
「そうなるね」

 全然知らなかった。
 水瀬が私のことをそんな風に思ってただなんて。
 私は無意識のうちにどれほど彼を傷つけただろうか。中学時代ならまだしも、マッチングしてからは彼に対してずっと不誠実だった。きっと私は生半可な気持ちでアプリを利用するべきじゃなかったんだ。
 でも、そのおかげで私は彼と再会できた。

「‥‥‥水瀬」
「何?」
「綴って呼んでいい?」
「え、今? いいけど」

 なんでこのタイミングで、と言いかける綴の胸に思いきって飛び込んだ。

「え」
「綴、好きだよ。好き‥‥‥」

 ぎゅう、と抱きつく私の背中に水瀬の手がそっと添えられる。

「俺もうるはが好きだよ。なんで泣くの」

 水瀬の気持ちに全く気づかず、自分本位に動いていた私が恨めしい。でもね、それ以上に。

「だっ、だって。両思いになるの、初めてだから」

 嬉しかったの。
 その言葉は涙に変わって、上手く紡ぐことができなかった。
 それすらも掬いとるように水瀬の優しい声が降ってきた。

「うるは、顔上げて」

 言われるがまま上をむくと、ちゅ、とおでこに柔らかいものが触れた。

「前髪ないとキスしやすくていいよね」
「へっ!? み、水瀬!」
「呼び方戻ってるよ」
「綴!!」

 顔を真っ赤にしながら呼ぶと、綴は「何?」と嬉しそうに笑った。それだけで胸がいっぱいになって、どうしたらいいか、何を言ったらいいか、全部分からなくなった。堪らなくなって綴の肩に顔をうずめると、また笑われた。心底幸せだと言わんばかりに。

「ねぇ、日が暮れるしそろそろ帰らない?」
「無理。今顔上げれない」

 抵抗するように抱きしめる力を強くすると綴も同じように抱きしめてくれた。まだ冷える季節だというのに心も身体も暖かい。
 かつて好きだった人を諦められないまま始めたマッチングアプリ。そこで私は、素っ気ない優しさと、一つの恋に出会えた。
 月が見えない夜空の下、街灯に照らされた2人の影は重なっていた。

〈了〉