次の日、朝の電車で陽介と会った。
 音楽を聴きながら吊革に掴まってぼんやりと外の風景を眺めていると、向こうから声を掛けてきたのだ。「おはよー」ってなんの混じり気もない笑顔とともに。

「一緒の電車だったんだな。今日の単語テスト、勉強した?」
「え、してない。あんなの直前でいいでしょ」
「だよなー。俺も俺も」

 そう言いながら陽介は吊革に手首をかけた。
 背が高い人だけができる特権。それに一時期憧れたが、私が同じことをしても不格好になるだけだし、何より手首が痛くなるので潔く諦めた。
 思えばその頃からだっけ。陽介との体格差が顕著になってきたのは。
 イヤホンを外し、隣で数学ダルいとうだうだ宣う陽介を見上げる。
 日焼け止めを塗るのを面倒くさがるから焼けて戻らなくなった小麦色の肌、光の加減で茶色に見える短髪、歳を重ねるにつれ男性らしく細くなった黒目、がっしりとした体躯。
 昨日までの私なら、その一つ一つに胸を高鳴らせていた。
 でも今はどうだろうか。
 陽介が普通の男子に見える。
 もちろん彼女がいることを思えば僅かばかりの苦味が胸に広がるが、それは今真隣にいる陽介に向けての感情じゃない。
 過去に陽介を想っていた私が姿を現しているだけだ。アルバムの写真を眺めるように、過去の感情を追体験している感覚。
 こんなこと初めてだ。
 人は一日でこんなにも変わるものなのだろうか。
 それとも‥‥‥――。
 思考を遮るように、スマホフォンがヴヴッと振動した。
 見ると、また例のマッチングアプリ――ディスラヴから連絡がきていた。

【制服デートに行ってみよう!】

 その横には制服のイラストとおしゃれなドリンクやスイーツのイラストが添えられていた。今日も今日とて華やかだ。
 ――水瀬。
 あんな優しい笑い方、できたんだ。あんな、人を慈しむような‥‥‥。
 一夜明けた今でも鮮明に思い出せる。だからだろうか。中学時代水瀬を「王子」と呼んでいた女子の気持ちが分かったような気がした。推しを愛でるのってこんな感じなのかもしれない。
 今私が平常心を保っていられるのも、昨日水瀬が一緒にいてくれたからだ。直接何か慰めの言葉をかけてくれたわけじゃないけど、氷を取ってきてくれたり髪を切るなっていってくれたり。そんな水瀬なりの優しさが嬉しかった。
 そう思いにふけっていたところで、ふいに真横の空気が動いた。

「ん? もしかしてうるはもディスラヴ入れたん?」

 斜め上から聞こえたのは気の抜けた声。
 反射的にスマホの画面を隠しながらバッと顔を向ける。

「ちょっと勝手に画面見ないでよ。ってか陽介が薦めたんでしょ」
「いやでもほんとに入れるとは思わなくてさ。で、どう? 良いやつ見つかった?」
「良いやつ、ねぇ‥‥‥」

 水瀬が人としていい人なのは確かだ。
 だからと言って恋愛する相手としていいかどうかはまだ何とも言えない。
 第一向こうだって私のことそういう対象として見てないだろうし。

「まぁ、そうなんじゃない?」

 ただ、水瀬に何の断りもなく私とマッチングした人が水瀬だと正直に陽介に告げるのは何となくはばかられたので濁した。
 陽介は「何だよそれー」と口を尖らせつつも、私が頑なに言おうとしないのを察したのか、これ以上何の聞いてこなかった。
 さすが幼馴染。私のことをよく分かってる。
 以前なら優越を感じていたところだが、そんな感情は湧き上がって来なかった。
 あぁ、本当に陽介のことを吹っ切れたんだな、と実感する。

「彼女とは順調?」

 尋ねると、陽介は「まぁな」とはにかんだ。幸せそうで何よりだ。
 そんな彼を横目に見た後、再びディスラヴを開き、先ほどのメッセージに承諾ボタンをタップした。
 陽介への想いが枯れた今、彼とその彼女の関係の軽さを確かめるためという当初の目的がなくなったためもうアプリを利用する意味はないのだが、その前にお世話になった水瀬にお礼しないと。
 そう意気込みながらアプリを閉じた。

  ❀̸

 やはりというべきか、水瀬は今回もアプリの提案を承認した。
 正直、なんで彼がこうもアプリに忠実に従うのかよく分からない。もうとっくに罰ゲームは終わっているだろうに。
 まぁ今日は気にしないでおこう。そんなことよりも前回のお礼をきちんとすることが大切だ。
 結局あの日のカラオケは全額水瀬が負担してくれた。私が泣いたから入っただけなのに、「ここを選んだのは俺だから」と言って財布を出そうとする私の手を止めてきたのだ。あまりにスマートな対応だったので慣れているのかと思いそう訊いたのだが、「え、フツーに初めてだけど」とあっさり返され、何事もなかったかのように私の一歩先を歩き、家の近くまで送ってくれた。
 そんなこともあってか今日会うのが若干気まずい。人前で盛大に泣くのも甲斐甲斐しくお世話されるのも初めてだったし。
 ――それはそうと。
 私たちの高校の中間にある駅で水瀬を待ちながら、神妙な面持ちでスマートフォンの画面を見つめる。

【ワンポイントアドバイス! 彼のことを名前で呼んだら一気に距離が縮まるかも♡】

 これは今朝送られてきたメッセージだ。
 今までこんなこと送られてきたことはなかったのだが、昨夜暇つぶしとして『彼との親密度チェック☆』なるものに馬鹿正直に回答したせいでアプリに恋愛初心者認定されてしまったのだ。
 全く余計なお世話だ。
 でもアプリに忠実な水瀬のことだ。もし同じアドバイスをされていたら私のことを名前で呼んでくるかもしれない。

「い――、うるは」

 そう、こんな感じに。

「って、水瀬!?」

 素っ頓狂な声を上げながら振り返ると、ゆるゆると手を振る水瀬がこちらに歩いてきてた。

「なに? 俺の顔に何か付いてる?」
「いや、えと、呼び方‥‥‥」
「え、嫌だった?」

 水瀬が首をかしげるとさらさらな黒髪が揺れた。
 嫌ではない。嫌ではないけど――。

「すっっっごくビックリした」

 まるで心の声を見透かされたみたいで。
 目を丸くする私の視線を軽くかわした水瀬はなんの悪気もなく「だってアプリに言われたし」と平気で宣う。それどころか「うるはは何も言われなかったの?」と訊いてきた。

「まぁ、言われたけどさ」
「じゃあうるはも下の名前で呼んでよ。俺だけだとなんか違和感ない?」

 だったら水瀬が苗字呼びに戻せばいいじゃんと言いたいが、色々お世話になった身なのでここは従っておこう。

「‥‥‥綴」

 恐る恐るそう口にすると、水瀬は満足げに口の端を持ち上げた。

  ❀̸

「――それで何でゲーセンになるわけ?」

 今日は私がお礼するから着いてきて!と水瀬を引き連れやってきたのはここらで一番大きなショッピングモールの3階にあるゲームセンターだ。
 怪訝な表情を浮かべる水瀬の顔をひょこっと覗き込む。

「え、一度くらい思ったことない? 人のお金で好きなだけクレーンゲームしてみたいって」
「あるけど‥‥‥」
「でっしょ! じゃあいいじゃん! ちなみに上限は2000円までね」
「『好きなだけ』じゃないんだ」

 口に手を当ててクスクス笑う無駄に顔のいい水瀬を後ろに従え意気揚々とゲームセンターに踏み込み、両替機で100円玉を20枚作ってはい、と渡した。
 それからなんとなくUFOキャッチャーが並ぶコーナーを徘徊する。
 そこでふととあるクッションが目についた。

「あ、この子かわいー」

 タレ目の三毛猫のクッション。見るからにふかふかそうで、これにもたれながら家でゴロゴロする姿を想像する。うん、いい。
 自分用にチャレンジしてみようかとついつい足を止めて思案していると、チャリンとコインが投入される音がした。

「え、なにしてんの?」
「この子取ろうかなって」

 私に目もくれずアームを掴む水瀬。

「ええいや別に水瀬は好きなの選んでいいんだよ?」
「綴ね」

 ご丁寧に訂正してからそれに、と続ける。

「うるはのために取るんじゃないよ。欲しがってる本人のお金を使って目の前で掻っ攫いたいだけ」
「何それ性格悪くない!?」
「そうかもね」

 私が非難するとまたクスクス笑いながら、赤く光るボタンを押した。まっすぐアームが降りてきてクッションを少し持ち上げたが、アームの掴む力が弱く、すぐにぽすんと落ちてしまった。なんとなく分かっていたがこれは確率機らしい。
 さて、残り1900円以内に取ることが出来るのかと高みの見物をしようとした瞬間。

「――あ」

 水瀬はあっさりとクッションをゲットしてしまった。
 天は二物を与えずというが、あれはきっと迷信だ。ただでさえ顔がいいと言うのに、運まで味方するなんて。
 そんな彼を羨ましく思う気持ちを押し込めて祝福の言葉を口にしようとしたところで何かに視界が塞がれた。

「はいこれ」
「っえ?」

 突如水瀬から差し出されたのは、先ほどゲットしたクッションだった。
 行動の意図が掴めず戸惑っていると水瀬が首を傾げた。

「? いらないの?」
「欲しいけど‥‥‥、私のために取るんじゃないって言ったじゃん」

 思わず拗ねたような言い方になってしまった。

「あれ信じてたの? さすがにそこまで性悪じゃないから」

 水瀬はまたクスクスと笑いながら、クッションをズイっと私の前に突き出す。

「俺ゲーム自体は好きだけど景品に興味ないからむしろもらってくれた方が助かる」
「じゃあ、もらうね。‥‥‥ありがと、綴」

 クッションをぎゅっと抱きしめながらお礼を言うと、水瀬は満足そうに目を細めた。
 その瞳があの日にように優しくて、心臓が高く跳ねた気がした。
 今日の水瀬はよく笑う。なにか心境の変化があったのだろうか。
 それとも単純に、私が水瀬のことをあまり知らなかったから?

「‥‥‥なんか今日、機嫌良いよね」
「え、俺が?」
「うん」

 あまり自覚なかったのか、顎に手を当てながら「言われてみればそうかも」と頷く。

「そう言ううるはも今日は元気そうじゃん。前回とは違って」
「まぁそれはね。陽介のことはもう吹っ切れたし」

 ちらりと水瀬を見やる。
 彼は意外そうに目を見開いた後、穏やかな表情を浮かべた。
 そのせいか、またもや心臓が跳ねる。

「そっか。よかったね」
「うん」

 それに気づかないふりして、私も水瀬のように笑った。

  ❀̸

 結局余ったお金は私たちのドリンクとスイーツに換わった。
 水瀬が自分の分は払うと主張する私を「お金使いきれなくて逆に困る」の一言で黙らせたのだ。
 入口から遠い席に腰をかけ、キャラメルマキアートを口に含む。それからエッグタルトを手に取った。
 正面に座る水瀬は優雅にブラックコーヒーを啜っている。
 ――美形はそうしているだけで妙に絵になるなぁ。
 顔はもちろん、カップを口元に運ぶ手も骨ばているからか華奢に見えて綺麗だ。やはり天は二物も三物も与えている。

 今日の私はどこか変だ。
 何故こんなにも水瀬の一挙手一投足に目がいくのだろうか。心臓もいやに跳ねるし。水瀬を前におかしな行動をしていないかと、僅かに緊張している。
 こうして向き合ってお茶をするのが初めてだからだろうか。いや、だとしたらさっき水瀬の笑顔を見て心臓が跳ねた説明がつかない。単に顔がいいから? もちろんそれもあるだろう。だがそれ以前に、この感じには覚えがある。そう、陽介に恋していたときの、あの感覚。

 そんなのまるで、私が水瀬のこと、好きみたいじゃないか。

 ──ヴヴ、と、まるで警告するように、スマートフォンが振動した。
 見るとディスラヴからで【デートは順調? 話題が尽きないためのコツ、良かったら読んでね♪】と送られてきている。
 明るい内容とは裏腹に、私は頭から冷水をかけられたかのような感覚に襲われた。

 ──そうだ。私たちはこのアプリがあるからこうして2人で会ってるんだ。

「ねぇ綴」
「ん?」

 水瀬の緑がかった瞳がゆったりと私を捉える。

「悪いんだけど、ちょっと距離、置こう」
「え、なんで?」

 水瀬が今日初めて不満そうな声を上げた。
 それでも、私は──。

「アプリの言いなりなんて、やっぱりおかしいよ」

 こう、思ってしまった。