【ショッピングデートに行こう!】
アプリからそう送られてきたのはほんの数日前のこと。
私は最初このメッセージを未読のまま放置した。なぜなら水瀬はこれを承認しないと思ったからだ。罰ゲームで強制的に会いに行かされた前回とは訳が違う。
だから【彼はOKしたよ! あなたはどうする??】と目をうるうるさせた犬の絵文字付きで催促されたときはとても驚いた。衝撃のあまりスマートフォンを床に落としかけたぐらいだ。
水瀬は一体どういうつもりで承認ボタンを押したのだろうか。もしかしたら押し間違えたのかもしれない。それを確かめようにも彼の連絡先を知らないので叶わなかった。
こんなことならラインぐらい交換しておけばよかった。
そう後悔するとともに、水瀬と私の繋がりはこのアプリしかないのだと思い知らされ、ほんの少しだけ寂寥感を覚えた。
何だか変な感じだ。元々私たちは何の関係もなかったはずなのに。
あの日のことを思い返したから謎のシンパシーでも感じたのだろうか。
考えても分からない。
分からないことをいちいち気にする前に、今は目の前のことに集中しないと。
寒空の下、私を待つ彼の元へ駆け寄る。
「おまたせ、水瀬」
「あ、おはよ」
「はよ」
声を掛けると、右耳のワイヤレスイヤホンを外しながら水瀬が応えた。
アプリが待ち合わせ場所に指定したのは、最寄駅から3駅ほど離れたところにあるファッション通りの入り口だった。人ごみの中水瀬を見つけられるか正直不安だったけれど、そこはさすがの水瀬。ただ突っ立ているだけなのに芸能人かのような圧倒的なオーラを放っており、道行く人に視線を独り占めしていた。そのおかげでこうして難なく合流することができたのだ。
今日の水瀬はネイビーのステンカラーコートと雪のように白いセーター、動きやすそうなワイドパンツを身に纏っていた。私服姿を見るのは初めてなので、わずかに緊張する。
次に何を言うべきか決めあぐねていると、水瀬の方が先に口を開いた。
「今日の格好‥‥‥」
「ん?」
「いいんじゃない?」
控えめに紡がれた言葉。
「似合ってる」じゃなくて「いいんじゃない?」。
その言い回しが面白くてつい笑みがこぼれる。
「何それ。水瀬もいいんじゃない?」
あはは、と声に出して笑うと緊張がほぐれるのを感じた。同時に、ちゃんと着飾ってきてよかったと胸を撫で下ろす。
昨日必死こいて選んだのは黒いリブニットの上に白のダウンジャケットを羽織り、チョコレートブラウンのパンツを合わせるという私にしては比較的おしゃれな格好だ。髪もいつものようにただ結うのではなく、一つに纏めてバレッタで留めている。
デートが決まったときから顔面偏差値の差を気にしていたが、水瀬がそう言うぐらいには私もそれなりのレベルに達しているのだろう。この際及第点でも構わない。
もしかして水瀬は私の緊張を察知してわざとこんな言い方をしたのだろうか。
ケラケラ笑いながら様子を窺うと、水瀬はムッとしたように私を見下ろしていた。なんだ、今のはただ単に水瀬のワードチョイスが独特だっただけか。それはそれで面白いけど。
そのままつい綺麗な顔面に魅入っていると、ふとあることに気づいた。
「あ、ごめん。もしかして結構待った?」
「え?」
「いや、頬っぺた赤いから」
微かにだけど、前に会ったときよりも確かに赤い。
水瀬は全く自覚がなかったらしく、目を丸くした。
「寒いなら一回テキトーにお店入って温かいものでも飲む? 私が待たせたんだからちょっとは出すよ。さすがに全額は勘弁だけど」
「いやいいよ。自分の分は自分で払うから」
「そう?」
ならいいけど、と言いかけたところで、ある人物を視界に捉えた。
見間違えるわけがない。
だって‥‥‥――。
「陽介‥‥‥」
彼は私の好きな人なんだから。
すべての出来事がスローモーションのように見えて、目の前の光景が脳裏に焼き付いていく。
心がズン、と重くなる。鼻がツン、と痛くなる。
反対車線にいる陽介はそんな私に気づく素振りはなく、隣を歩く女の子と楽しそうに話していた。
間違いない。
あの子が陽介の彼女だ。
陽介は彼女がいるのに他の女の子と二人で手を繋いで遊びに行くようなクズじゃないから。
だから、私は陽介に恋したの。
「――――え」
自分の気持ちを認めたら視界が滲んで、瞬きすると頬が濡れた。
それでも二人は私に気づかない。
当たり前のことなのに、それが酷く恨めしかった。
陽介の彼女は私と全然似ていなかった。
ふわっと巻いた前髪。くりくりとした丸い瞳。小さい唇。ショート丈のグレーのパーカーワンピースに黒のノースリーブジャケットとロングブーツ。緩く被ったオレンジ色のニット帽。見たくもないのに目が逸らせない。彼女の情報が頭の中に淡々と流れてくる。
私はミニ丈なんて履けない。寒いし、自信がない。ロングブーツだって1回お店で履いてみたことがあるけれど、窮屈でかなわなかった。オレンジ色のニットも私には派手で似合わない。
陽介はああいう服装が好きなのだろうか。
いや、見た目は関係ないのかもしれない。
だって、ロングヘアが好きって言ったくせに、彼女は正反対のショートカットなのだから。
私が、どんな思いで、髪を伸ばしてきたか!
――あぁ、そうか。私はもうあそこには立てないんだ。
ふいにそう実感した。いや、させられた。
意味なんてなかったんだ。私がいくら髪を伸ばしたって。どれだけ長く近くにいたって。
私は最初から陽介の恋愛対象に入っていなかった。
彼女と別れさえすればまだ希望があるかもだなんて、とんだ思い上がりだ。
そもそもそういう相手として見られてないんじゃ話にならない。
――あぁ、ずるい。羨ましい。苦しい。なんで。
なんで私じゃないの。
なんでぽっと出の子に惹かれたの。
なんで出会ってすぐに好きになって当たり前に手、繋いでるの。
私は繋いだことないのに。隣に立つのが精一杯だったのに。
なのになんで――。
私の方がずっとずっとずっと陽介が好きで、軽い気持ちじゃなくて真剣に恋してたのに。
感情の激流に呑まれて吐きそうだ。胃がぐるぐるする。ぐるぐる。ぐるぐる。
頭も割れそうなほどズキズキ痛んでいる。脳が揺れて平衡感覚が鈍っていく。
自分がどこに立っているのかどうして立てているのかも曖昧で。
心の奥に秘めていた大切な宝物を、無理やりもぎ取られたように、苦しい。その傷口から流れた血が涙となって頬を濡らしている。
そして身体が浮遊感に包まれたときだった。
「っ一色!!」
突然、肩をグイッと引き寄せられた。
遅れて「――え」と声が漏れる。
水瀬が焦った様子で私を見つめていた。
「そのままでいいから、ちょっと移動するよ」
頷く前に、そろそろと歩き始める。身体は水瀬に寄りかかったまま。
どうやら私は立つことすらままならなくなっていたらしい。
たかが10代の恋愛。
成熟した大人はきっとそう言うだろう。
でも、私にとっては生きがいのようなものだった。
小さい頃人見知りで上手く周りと打ち解けられなかった私に「うるはちゃんもいっしょにあそぼ!」と手を差し出してくれたときから少しずつ少しずつ想いが積もっていって。
種のようなそれは陽介の優しさや明るさを養分にすくすくと育って、いつしか私の中で深く根付き、唯一無二の大輪を咲かせていた。
その花はもう、日の目を見ることはない。
❀̸
「これで目、冷やしたら?」
目の前に置かれたグラスを見て呆然とする。
水瀬に連れてこられたのは近くにあったカラオケボックスだった。水瀬はこの部屋に私を押し込めるなり「ちょっと待ってて」とグラスを両手に出ていったかと思えば氷をぎっしりと入れて帰ってきた。
散々泣いたせいか、今は比較的に落ち着いている。だからこそ無意識に言葉が口をついてでた。
「‥‥‥まさかの直」
「嫌ならいいよ。これにホットコーヒー淹れてアイスにするから」
流れるように立ち上がって扉に向かおうとする水瀬の服の裾を引いて引き留める。
「何?」
水瀬は平然と私を見下ろしていた。まるで私が泣いたことなんか眼中にないように。
「それ使う」
「あぁ、そう」
目をしばしばさせながら伝えると、水瀬は隣に座り直した。そのことに安堵を覚える。今の醜態を正面から見られるのはとても耐えられない。
涙が枯れた目は充血しているだろうし、鼻だって頬だって紅潮しているはずだ。――あれ、そういえば。
「わざわざホットをアイスにして飲むって‥‥‥え、寒かったんじゃないの?」
「え、今そこ突っ込む?」
「‥‥‥」
それもそうか。
ひとまずそれは置いといて目を冷やそうと、氷をハンカチに包んであてがう。あまりの冷たさに一瞬躊躇したが、次第に表面からじんわりと体温と馴染んでいき、それらが同じ温度になる頃には氷は解け目の腫れも引いていた。水分を含んでぐしょぐしょになったハンカチをテーブルに置き、かじかんだ手をもう一方の手で摩った。
その一連の動作を無言で見守っていた水瀬がポケットからスッとカイロを取り出し差し出してきた。それをありがたく受け取ると、水瀬は背もたれに肘をかけながら横目に私を見た。緑がかった黒い瞳に泣き疲れた私が映る。
ややあって水瀬が口を開いた。
「なんで一色がアプリ始めたのか、合点いったわ。あいつに彼女ができたから?」
「‥‥‥まぁ、そう」
「分かりやすいね」
人が目の前でさんざん泣いたというのに素っ気ない。その態度がいつもの水瀬らしくていいな、と思った。
ここで無理に慰められてもどんなリアクションをとればいいのか分からない。人にありきたりな言葉をかけられたくらいで失恋の傷が癒えるほど、私は単純にできていないから。
そう、私は大概面倒くさい。だから陽介は私じゃなくてあの子に惹かれたのだろうか。
また気持ちが沈みかけたところで、ふいに水瀬が私の触覚に触れた。
「髪、切らないでよ」
「え」
「似合ってるから」
「えっ」
指先で絡めとった髪の毛の艶を観察するように、視線を落としたまま念を押された。
「い、『いいじゃん』じゃないの‥‥‥?」
動揺のあまり口をついて出た言葉はとっぴで、少しだけ鼻声だった。
「一色の着眼点って独特だよね」
「褒めてる?」
「かもね」
そこははぐらかすのかと残念に思いつつ、次の言葉を待った。
「どうせ、その髪型もあいつの好みとかなんじゃないの?」
「そうだけど‥‥‥」
まさかそんなことも見透かされるとは。
人の口から改めて指摘されると、自分の実直さが恥ずかしくなった。
「で、今度はその彼女に合わせてショートカットになるとか、失恋に区切りをつけるために切るとかだったら‥‥‥なんか、悔しい。全部あいつ基準みたいで」
私の髪に触れていない方のこぶしが握られているのに、遅れて気づく。
「なんでそれで水瀬が悔しがるの?」
「色々あるの」
「私"一色"だよ」
「もう元気じゃん‥‥‥」
付き合ってられないと水瀬が天井を仰いだ。
ついでに髪から手を放され、こぶしも解かれる。
冗談で言っただけだけど呆れられてしまったようだ。
そんな水瀬を見つめながら、声を掛ける。
「水瀬」
「ん?」
「ありがと」
なんだか照れくさくて笑って誤魔化すと、水瀬は小さく笑った。
その眼差しが優しくて、しばらく頭から離れなかった。
❀̸
その日の夜、私はベッドの中でまた泣いた。
今日彼女と歩く陽介を見て、失恋したことを突き付けられたから。
瞬きするたびに涙の粒がひとつずつ頬を伝っていく。
――花が、枯れていく。
陽介への想いとともに。
ひとひらひとひらゆっくりと。
そして泣き止む頃には、身も心も軽くなっていた。
アプリからそう送られてきたのはほんの数日前のこと。
私は最初このメッセージを未読のまま放置した。なぜなら水瀬はこれを承認しないと思ったからだ。罰ゲームで強制的に会いに行かされた前回とは訳が違う。
だから【彼はOKしたよ! あなたはどうする??】と目をうるうるさせた犬の絵文字付きで催促されたときはとても驚いた。衝撃のあまりスマートフォンを床に落としかけたぐらいだ。
水瀬は一体どういうつもりで承認ボタンを押したのだろうか。もしかしたら押し間違えたのかもしれない。それを確かめようにも彼の連絡先を知らないので叶わなかった。
こんなことならラインぐらい交換しておけばよかった。
そう後悔するとともに、水瀬と私の繋がりはこのアプリしかないのだと思い知らされ、ほんの少しだけ寂寥感を覚えた。
何だか変な感じだ。元々私たちは何の関係もなかったはずなのに。
あの日のことを思い返したから謎のシンパシーでも感じたのだろうか。
考えても分からない。
分からないことをいちいち気にする前に、今は目の前のことに集中しないと。
寒空の下、私を待つ彼の元へ駆け寄る。
「おまたせ、水瀬」
「あ、おはよ」
「はよ」
声を掛けると、右耳のワイヤレスイヤホンを外しながら水瀬が応えた。
アプリが待ち合わせ場所に指定したのは、最寄駅から3駅ほど離れたところにあるファッション通りの入り口だった。人ごみの中水瀬を見つけられるか正直不安だったけれど、そこはさすがの水瀬。ただ突っ立ているだけなのに芸能人かのような圧倒的なオーラを放っており、道行く人に視線を独り占めしていた。そのおかげでこうして難なく合流することができたのだ。
今日の水瀬はネイビーのステンカラーコートと雪のように白いセーター、動きやすそうなワイドパンツを身に纏っていた。私服姿を見るのは初めてなので、わずかに緊張する。
次に何を言うべきか決めあぐねていると、水瀬の方が先に口を開いた。
「今日の格好‥‥‥」
「ん?」
「いいんじゃない?」
控えめに紡がれた言葉。
「似合ってる」じゃなくて「いいんじゃない?」。
その言い回しが面白くてつい笑みがこぼれる。
「何それ。水瀬もいいんじゃない?」
あはは、と声に出して笑うと緊張がほぐれるのを感じた。同時に、ちゃんと着飾ってきてよかったと胸を撫で下ろす。
昨日必死こいて選んだのは黒いリブニットの上に白のダウンジャケットを羽織り、チョコレートブラウンのパンツを合わせるという私にしては比較的おしゃれな格好だ。髪もいつものようにただ結うのではなく、一つに纏めてバレッタで留めている。
デートが決まったときから顔面偏差値の差を気にしていたが、水瀬がそう言うぐらいには私もそれなりのレベルに達しているのだろう。この際及第点でも構わない。
もしかして水瀬は私の緊張を察知してわざとこんな言い方をしたのだろうか。
ケラケラ笑いながら様子を窺うと、水瀬はムッとしたように私を見下ろしていた。なんだ、今のはただ単に水瀬のワードチョイスが独特だっただけか。それはそれで面白いけど。
そのままつい綺麗な顔面に魅入っていると、ふとあることに気づいた。
「あ、ごめん。もしかして結構待った?」
「え?」
「いや、頬っぺた赤いから」
微かにだけど、前に会ったときよりも確かに赤い。
水瀬は全く自覚がなかったらしく、目を丸くした。
「寒いなら一回テキトーにお店入って温かいものでも飲む? 私が待たせたんだからちょっとは出すよ。さすがに全額は勘弁だけど」
「いやいいよ。自分の分は自分で払うから」
「そう?」
ならいいけど、と言いかけたところで、ある人物を視界に捉えた。
見間違えるわけがない。
だって‥‥‥――。
「陽介‥‥‥」
彼は私の好きな人なんだから。
すべての出来事がスローモーションのように見えて、目の前の光景が脳裏に焼き付いていく。
心がズン、と重くなる。鼻がツン、と痛くなる。
反対車線にいる陽介はそんな私に気づく素振りはなく、隣を歩く女の子と楽しそうに話していた。
間違いない。
あの子が陽介の彼女だ。
陽介は彼女がいるのに他の女の子と二人で手を繋いで遊びに行くようなクズじゃないから。
だから、私は陽介に恋したの。
「――――え」
自分の気持ちを認めたら視界が滲んで、瞬きすると頬が濡れた。
それでも二人は私に気づかない。
当たり前のことなのに、それが酷く恨めしかった。
陽介の彼女は私と全然似ていなかった。
ふわっと巻いた前髪。くりくりとした丸い瞳。小さい唇。ショート丈のグレーのパーカーワンピースに黒のノースリーブジャケットとロングブーツ。緩く被ったオレンジ色のニット帽。見たくもないのに目が逸らせない。彼女の情報が頭の中に淡々と流れてくる。
私はミニ丈なんて履けない。寒いし、自信がない。ロングブーツだって1回お店で履いてみたことがあるけれど、窮屈でかなわなかった。オレンジ色のニットも私には派手で似合わない。
陽介はああいう服装が好きなのだろうか。
いや、見た目は関係ないのかもしれない。
だって、ロングヘアが好きって言ったくせに、彼女は正反対のショートカットなのだから。
私が、どんな思いで、髪を伸ばしてきたか!
――あぁ、そうか。私はもうあそこには立てないんだ。
ふいにそう実感した。いや、させられた。
意味なんてなかったんだ。私がいくら髪を伸ばしたって。どれだけ長く近くにいたって。
私は最初から陽介の恋愛対象に入っていなかった。
彼女と別れさえすればまだ希望があるかもだなんて、とんだ思い上がりだ。
そもそもそういう相手として見られてないんじゃ話にならない。
――あぁ、ずるい。羨ましい。苦しい。なんで。
なんで私じゃないの。
なんでぽっと出の子に惹かれたの。
なんで出会ってすぐに好きになって当たり前に手、繋いでるの。
私は繋いだことないのに。隣に立つのが精一杯だったのに。
なのになんで――。
私の方がずっとずっとずっと陽介が好きで、軽い気持ちじゃなくて真剣に恋してたのに。
感情の激流に呑まれて吐きそうだ。胃がぐるぐるする。ぐるぐる。ぐるぐる。
頭も割れそうなほどズキズキ痛んでいる。脳が揺れて平衡感覚が鈍っていく。
自分がどこに立っているのかどうして立てているのかも曖昧で。
心の奥に秘めていた大切な宝物を、無理やりもぎ取られたように、苦しい。その傷口から流れた血が涙となって頬を濡らしている。
そして身体が浮遊感に包まれたときだった。
「っ一色!!」
突然、肩をグイッと引き寄せられた。
遅れて「――え」と声が漏れる。
水瀬が焦った様子で私を見つめていた。
「そのままでいいから、ちょっと移動するよ」
頷く前に、そろそろと歩き始める。身体は水瀬に寄りかかったまま。
どうやら私は立つことすらままならなくなっていたらしい。
たかが10代の恋愛。
成熟した大人はきっとそう言うだろう。
でも、私にとっては生きがいのようなものだった。
小さい頃人見知りで上手く周りと打ち解けられなかった私に「うるはちゃんもいっしょにあそぼ!」と手を差し出してくれたときから少しずつ少しずつ想いが積もっていって。
種のようなそれは陽介の優しさや明るさを養分にすくすくと育って、いつしか私の中で深く根付き、唯一無二の大輪を咲かせていた。
その花はもう、日の目を見ることはない。
❀̸
「これで目、冷やしたら?」
目の前に置かれたグラスを見て呆然とする。
水瀬に連れてこられたのは近くにあったカラオケボックスだった。水瀬はこの部屋に私を押し込めるなり「ちょっと待ってて」とグラスを両手に出ていったかと思えば氷をぎっしりと入れて帰ってきた。
散々泣いたせいか、今は比較的に落ち着いている。だからこそ無意識に言葉が口をついてでた。
「‥‥‥まさかの直」
「嫌ならいいよ。これにホットコーヒー淹れてアイスにするから」
流れるように立ち上がって扉に向かおうとする水瀬の服の裾を引いて引き留める。
「何?」
水瀬は平然と私を見下ろしていた。まるで私が泣いたことなんか眼中にないように。
「それ使う」
「あぁ、そう」
目をしばしばさせながら伝えると、水瀬は隣に座り直した。そのことに安堵を覚える。今の醜態を正面から見られるのはとても耐えられない。
涙が枯れた目は充血しているだろうし、鼻だって頬だって紅潮しているはずだ。――あれ、そういえば。
「わざわざホットをアイスにして飲むって‥‥‥え、寒かったんじゃないの?」
「え、今そこ突っ込む?」
「‥‥‥」
それもそうか。
ひとまずそれは置いといて目を冷やそうと、氷をハンカチに包んであてがう。あまりの冷たさに一瞬躊躇したが、次第に表面からじんわりと体温と馴染んでいき、それらが同じ温度になる頃には氷は解け目の腫れも引いていた。水分を含んでぐしょぐしょになったハンカチをテーブルに置き、かじかんだ手をもう一方の手で摩った。
その一連の動作を無言で見守っていた水瀬がポケットからスッとカイロを取り出し差し出してきた。それをありがたく受け取ると、水瀬は背もたれに肘をかけながら横目に私を見た。緑がかった黒い瞳に泣き疲れた私が映る。
ややあって水瀬が口を開いた。
「なんで一色がアプリ始めたのか、合点いったわ。あいつに彼女ができたから?」
「‥‥‥まぁ、そう」
「分かりやすいね」
人が目の前でさんざん泣いたというのに素っ気ない。その態度がいつもの水瀬らしくていいな、と思った。
ここで無理に慰められてもどんなリアクションをとればいいのか分からない。人にありきたりな言葉をかけられたくらいで失恋の傷が癒えるほど、私は単純にできていないから。
そう、私は大概面倒くさい。だから陽介は私じゃなくてあの子に惹かれたのだろうか。
また気持ちが沈みかけたところで、ふいに水瀬が私の触覚に触れた。
「髪、切らないでよ」
「え」
「似合ってるから」
「えっ」
指先で絡めとった髪の毛の艶を観察するように、視線を落としたまま念を押された。
「い、『いいじゃん』じゃないの‥‥‥?」
動揺のあまり口をついて出た言葉はとっぴで、少しだけ鼻声だった。
「一色の着眼点って独特だよね」
「褒めてる?」
「かもね」
そこははぐらかすのかと残念に思いつつ、次の言葉を待った。
「どうせ、その髪型もあいつの好みとかなんじゃないの?」
「そうだけど‥‥‥」
まさかそんなことも見透かされるとは。
人の口から改めて指摘されると、自分の実直さが恥ずかしくなった。
「で、今度はその彼女に合わせてショートカットになるとか、失恋に区切りをつけるために切るとかだったら‥‥‥なんか、悔しい。全部あいつ基準みたいで」
私の髪に触れていない方のこぶしが握られているのに、遅れて気づく。
「なんでそれで水瀬が悔しがるの?」
「色々あるの」
「私"一色"だよ」
「もう元気じゃん‥‥‥」
付き合ってられないと水瀬が天井を仰いだ。
ついでに髪から手を放され、こぶしも解かれる。
冗談で言っただけだけど呆れられてしまったようだ。
そんな水瀬を見つめながら、声を掛ける。
「水瀬」
「ん?」
「ありがと」
なんだか照れくさくて笑って誤魔化すと、水瀬は小さく笑った。
その眼差しが優しくて、しばらく頭から離れなかった。
❀̸
その日の夜、私はベッドの中でまた泣いた。
今日彼女と歩く陽介を見て、失恋したことを突き付けられたから。
瞬きするたびに涙の粒がひとつずつ頬を伝っていく。
――花が、枯れていく。
陽介への想いとともに。
ひとひらひとひらゆっくりと。
そして泣き止む頃には、身も心も軽くなっていた。



